中島三郎助と蝦夷桜_5,幕末,箱館戦争

中島三郎助 ,幕末_WITH_LOVE,箱館戦争< 中島三郎助 と蝦夷桜<壮烈終焉_ 中島三郎助 親子,開陽の欠陥,塩飽の男、中井初次郎の悲劇,中島が見抜いた男, 中島三郎助 対、勝海舟,■中島の血縁&因果&友,中島清司永豊,中島恒太郎,中島英次郎【=房次郎】,中島与曾八,中島錫,岡田井蔵,香山栄左衛門,穂積清軒,穂積寅九郎,佐々倉桐太郎,佐々倉松太郎,【楽天市場】


中島三郎助と蝦夷桜

幕末_WITH_LOVE玄関 中島三郎助 と蝦夷桜(現在の頁)
中島三郎助 と蝦夷桜
No.1 <・・< No.4 No.5 (現在の頁)< No.6 No.7 ・・・< No.12 (完)
中島三郎助 (諱:永胤)文政4(1821) - 明治2/5/16(1869/6/25),幕臣,蝦夷では「箱館奉行並」,享年49



中島三郎助 と蝦夷桜_No.5
うたたかの夢
中島三郎助 えとせとら資料】: No.1 No.2 No.3
中島三郎助 が次男、英次郎について回想しているシーンの続き)


中島はあの頃を回想していた。(この前から読む No.4
その日の昼間、彼は榎本に会った。榎本の「蝦夷構想」が脳裏にへばりついて消えない。


それはさておき、中島は、どう考えても、次男の英英郎が不憫でしかたない。
この子は、調練の音を子守唄のかわりにいつも耳に聞いて育ったようなものだ。



開国の一言が攘夷気違い達を生成した。発端は左幕と尊王攘夷に始まり、野蛮な仇討ちの仇討ちが繰り
返される。血で血を洗い、乾く間もなく、さらにまた血が塗りつけられる。

攘夷の嵐が吹き荒れて、幕府の権威は失落。これ幸いに屋台骨に揺すりをかける薩長の手口。
江戸近郊に限らず、薩摩の仕掛けた不可解な暴動が次から次へと起きる。
財布が破裂寸前の幕府ながら、外人斬り事件の度、膨大な賠償金を払わされる。
1868伊勢神宮のお札(ふだ)が天から降ったと称して、馬鹿ゝしい民心挑発。「ええじゃないか踊り」の
行列が乱舞する。なにもかも、ぐしゃぐしゃだ。

中でも、武田耕雲斎率いる水戸天狗党事件(1865終結)は確かに悲惨を極めた。死刑353人,島流し136人,
他に一部の少年を除けば、追放や水戸藩渡しと称して、自藩に処刑の判断を促す引渡しを含めると大体、
300人余がさらなる処刑対象となった。 しかし、それより前1860年には桜田門外の変で大老_井伊直弼
が水戸藩浪士らに殺られている。水戸藩主徳川斉昭を謹慎処分して頂いたお礼だった。
復讐のそのまた復讐が繰り返される度に、その凄惨度が増すばかりで、一向に終わらない。

また、京都では左幕派の公家が土佐、長州の過激テロリズム。天誅と称した惨忍極まりない手口は、
幸いこの頃、タッチの差で国内に写真がほとんどなかったため、現代では絵しかないところだが、
これが写真だったら、たまらない。実にナンセンスな仕打ちだ。幕府の肩を持った公家への脅しに
彼らの家来や下僕を捕らえては、酷い手口(描写できません。現代の犯罪にマイナス要因が強すぎる
ため。)で惨殺しては、そこらじゅうに散らかして、屈辱の晒し者にした。

死んで冥土に送り込まれた者が、死んでさらにまた屈辱を塗ったくられる。これでは、いかに勇敢な
公家とて、腰が抜けてひっこんでしまうのは当然だ。
また、これでは公家どころか武士もたまらない。
名誉の切腹、名誉の討ち死が有る限り、生き残りの分子は、その勇気が倍増するものだ。
ところが、死の美学は泥沼に埋没だ。屈辱あるのみ・・・これは実に手出しが困難だ。
武士の行動哲学を見抜いた知能犯なのか、単なる野蛮の単細胞なのか、判断に苦しんだ。

新撰組頑張る。悪しき者を懲らしめる。しかしこれもまた、流血事件の発祥元。

長州征伐とは聞こえよいが、二度もやるうちに、実質武力の上で弱体化していた幕府は
完全に墓穴を掘った。

ひとことで言ってしまえば、ただの「わやくちゃ」だった。


興奮すると、江戸の下町っ子がまる解りになる榎本のしゃべりっぷり。
しかし、暫し見ぬ間に、釜次郎は、ひとまわりもふたまわりも大きくなっていた。


榎本の学説は確かに、中島と全て噛みあうものではなかったにせよ、筋が通っていた。
また、感情論に押し流されるでなく、未開の地、蝦夷の資源開発など、科学的根拠が根ざしている。
この点については、中島とて脱帽だ。彼は19歳の時に、堀織部正利熈の従者として、蝦夷視察に
参加している。だてに戦うのではなく、開発への情熱を滲ませて、新しい時代の到来へ向けて、
まさに、彼は輝きに満ちていた。

典型的な旧型幕臣に見える中島ながら、実は、この段階で、既に決心が固まっていたのだった。
不義への闘いは、イコール新規可能性発掘、科学の力。薩長のそれとは次元の異なる最強の海軍
がその根底にある。青い海に浮かぶ開陽の凛々しい姿。

中島は、徳川報恩のために、己もこの「開陽」に、未来を架けてみようと密かに考えていた。




■英次郎の決断

赤ん坊の与曾八の傑作事件、お漏らし事件から間もない 或る日のこと、
自宅の書斎で書き物をする中島のもと、英次郎がやってきた。

「父上、中島家には与曾八がおります。」

英次郎は真顔でそう言う。

「与曾八がおります故、この英次郎、父上とお供しとうござります。
徳川のご恩に、潔く、お答えしたいのです。」


中島はうすうす気付いていたものの、やはり胸が痛んだ。
長男は共に連れ立つことになんら迷いはなかった。しかし、この子には家を守らせるつもりで
いたのだが、本人にそこまで言われたのでは、その志を無視するわけにはいかない。

しかし、彼は倅の表情を盗み見した。しっかと姿勢を糺し、確かに緊張が走っている。
それでいて、この優しい眼差しが気にかかる。血腥い戦闘の場に、この子は不似合いではなかろうか・・・。

苦渋しているところ、案の定、恒太郎が部屋に入ってきた。

「父上、私も、英を説得したのですが、もはや及びませぬ。
父上、英も、既に子供ではござりませぬ。英の知識をもってするなれば、
必ず、榎本殿をお助けできるものと存じます。
・・・・・
父上、英は、もう一人前でござります。なにとぞ・・・!」

暫しの沈黙が続いた。

しとしとと、そぼ降る雨。微かに屋根を打つその小さな音だけが響いていた。

「英、武士に二言は無いぞ。誠、それで良いのじゃな。」


静寂を破ったのは中島だった。

途端に頭を擡げて、がさごそと姿勢を正した恒太郎の物音がした。

「英、お父上にお礼を申すのじゃ。」

兄に促された英次郎は、深々と頭を下げて、父に礼をした。
感動のあまり、思わず涙を拭う恒太郎。

対して、当の本人、英次郎は、清く澄んだ目で、父を見つめて言った。
「武士に二言はござりませぬ。中島家に生まれたこと、誠、感謝致しております。」


上野の山では、桜は既に散り果てた。将軍慶喜は4月11日、水戸に落ち延びた。
正義の味方、彰義隊は悲しきかな、近代的軍兵器に立ち遅れていた。
5月15日、大村益次郎の巨大なおでこで吹っ飛ばされて木っ端微塵。
(注:おでこは言葉の洒落:正しくはアームストロング砲の威力
あのおでこを見ると、つい書いてしまいました。恐縮!)
こうなった今、途方もない榎本の新学説は、ひとえに無謀とはいいがたい。


しとしと、今夜は、静かに小雨が降っている。

襖の向こうから、啜り泣きが聞こえてくる。
それは初め小さく、しかし、ついに耐え切れなくなったのか、嗚咽に変わった。
さめざめと咽び泣く妻の泣き声が、いつまでも続いていた。

可愛い赤ん坊、与曾八の傑作事件の余韻がまだ失せぬ数日後のことだった。



この幸せが永久であればよいものを・・・
祈ったのはつい数日前のこと。

その願いは、所詮夢だった。
うたたかの夢。
・・・・・露に消え去った。


父としての「欠落」

(場面:1869箱館の三月初旬、嵐の前の静けさ、千代台陣屋にて中島が思案するシーンに戻。)


英次郎の件では、ついに妻を泣かせた中島だった。錫は武士の妻に相応しく、ここぞという時
実に頼りになる女だった。しかし、彼女は、やはり女の直感で次男の英次郎については
猛烈に反対をしたのだった。

彼女はこう言った。
「この子は、動乱突入時ではなく、哀れにも、動乱最中に生まれてしまった子です。
山々の美しさも、穏やかな青い海の静けさも知らぬこの子を不憫とは思われないのでしょうか。
あなた様は、そんなこの子を連れ去ろうとなされる。
動乱の最中に生まれ、そして、そのまま動乱の中に死んでゆくなんて・・・」

年齢と共に短気がなくなったはずの中島。だというのに、その時ばかりは、我を忘れ、
思わず、妻の頬を打ってしまったのだった。
中島のために、苦労して、やっとの思いで与曾八を生んでくれた最愛の妻に・・・。

しかし、その彼は今、ここに居る。

品川沖を発った後、号風雨に直進性を完全に喪失した海上の開陽。
そこで、中島は何度も何度も、妻のその言葉を反芻した。

しかし、無事、仙台の松島湾に到着した後、中島の造った船、鳳凰を発見した。
その時の英次郎の声が今だ忘れられない。この子のあんな大声を聞いたのは、初めてだった。
頬を真っ赤に染めて、叫び続けていた。

「父上、あれをご覧下され!父上の鳳凰でござる!」

英次郎と親しくなった水夫頭の中井初次郎が気を利かせて、蟠龍に手旗信号を送ってくれた。
艦長の松岡に促されて、恒太郎も気がついた。
「兄上!、鳳凰じゃ!鳳凰じゃ!父上の鳳凰じゃ!」
二人の兄弟は、遠く離れた船上で、両腕を大きく広げると、激しく振り交わしては、興奮のあまり、
暫しの間、その動作をやめようとはしなかった。互いに、全身から溢れ出るこの喜びを分かち合っていた。

中井初次郎 :8/26開陽はようやく仙台松島湾到着。欠陥のあった同艦では、艦長に限らず、
皆が努力して遭難を免れたのだが、実質労働で支えたのは塩飽の民。水夫として乗り込んでいる
者の多くはこの塩飽の男。塩飽も古来より、とことん徳川報恩の忠誠の地。不幸なことに、
この中井氏は、この後間もなく10/6不運の急死。釜石に眠る。病死とあるが、過労死に近い。
気が張っている上に若いこともあり、限界を超えた頑張りが突如、命の限界を呼んだ。
この人は功労を認められ、士分を与えられて「士官」といわれていた。
この人物にも、是非花を手向けたい。名も無き戦士塩飽の民も 呼応した。最後の瞬間
皆が力をあわせて、松岡を心から支援した。
だから皆英雄だ。



中島はつい弱気になると、どうしても、
あの時の妻の言葉が蘇ってしまう。
特に己の持病以上に、英次郎の空咳を
聞く度に、ぞっとするのだ。


しかし、そんな思いを一蹴するためには、
必ずあの時の彼を思い出すことにしていた。

頬を真っ赤に染めて、大声で叫んだ英次郎。

あの姿を、妻に見せてやりたかったものだ。



中島三郎助 と蝦夷桜
No.1 No.2 No.3 No.4 No.5 (現在の頁)< No.6 No.7 ・・・
next_car 冬間の皺寄せ、一両一歩
以下参考
ああ、士分とは・・・
中島三郎助 えとせとら資料】: No.1 No.2 No.3

  • あらかじめ:
    • 場面は:箱館の三月初旬、嵐の前の静けさ、千代台陣屋にて中島が物思いにふけるシーンが続いてます。
    • この項は、多少ひょうきんな表現使ってます。真面目に書いてない!とどうぞ怒らずお願いします。


子らに口喧しい中島の口癖といえば、これだった。
徳川報恩、臣とあるべき姿とは、中島家の名に恥じなきように・・・・。
長男の恒太郎なんぞは、耳にタコができてる。幼少の折より、ことある度に言われるものだから、
中島の一言一句、フレーズの流れまで、ほとんど、まる暗記してしまったという始末だ。

しかし、それには訳があったのだ。

これらの言葉は、あくまで中島家内でのみ、口に出した言語なのだが、
どうゆうわけか、やはり外にも漏れている。子らが幼い折、どこかで、こんな具合で口に出したのだろうか?
「はい、私、中島恒太郎は、徳川報恩の精神にのっとって、また中島家の長男として、家臣たる・・・」
確かに、長男は、随分幼い頃から小姓として世に送り出して奉公させていた以上、世間体の調整が
できず、他所で口に出していたとしてもおかしくはなかった。

それなら、それで、いたしかたない。子に罪はない。
しかし、このフレーズ、巡りめぐって、余計な人物の耳にも入っていたようだ。

★勝海舟の「中島三郎之助嫌い」のキーワードはコレだ! ・・・ 「世襲族!!!」

■勝海舟の_ANTI_身分社会!

ちなみに、その人物は、「先祖代々」とか「やんごとなき」とか「お家柄」とかいう言語が
大の大っ嫌い!・・だったのだ。
だから、土佐藩の坂本竜馬を可愛がり、幕臣では榎本武揚を死ぬほど可愛がった。

その正反対に、大嫌い!の態度を露骨にして接した人物の代表といえば、
小栗上野介忠順 と、この中島だった。
この大切な時期に、力を分散せず、強豪同士力をあわせてくれればよかったものをと実に残念な
ところだが、嫌いなものは嫌い。生の感性である以上、そりゃ直らない。

その人物とは、かの有名な勝海舟である。

どうも、中島、 とことんこの人物とミスマッチ だ。
中島から喧嘩を売ったためしはないものの、逐一、ちょっかいをかけられる。
死んだ後まで、彼の作品、 鳳凰丸 を貶して、間接的に、再び貶される始末だから、手に負えない。

勝も確かにド貧乏のどん底から這い上がり、随分と苦労人なのだから、仕方ない話だが、
もし、中島家のルーツを知っていれば、もう少しはマシな対応だったかもしれない。

勝の素性 は誰もが知っていた。彼は優秀な幕臣だが、仮に彼の父がいなければ、彼は幕臣どころか
たちまち、侍でなくなってしまう。それは、まさしく、身分社会のこの時代、一匹の犬猫同様、
屑の存在にたちまち転落だ。対して、小栗なんぞは、何代遡ったところで永遠に尊いお家柄は普遍である。

勝の父、 勝小吉 といえば、名物親父。剣はなかなかの達人だが、半分やっちゃんなのか、荒仕事の
人夫なのかと疑うほどの凄肌男。喧嘩っぱやいわ、不良旗本だわ・・・たいしたおもろい人物だ。
父の小吉も面白い人物だが、その上手は祖父。頭脳プレイで、平民から身を起こして今日の勝がある。
(詳しくは後日別編準備予定)
いずれにせよ、勝は身分的に、やっとこすっとこ「最低ラインの武士」として、ぶらさがっていた。
その為、頭の硬いお偉いさん達につかまっては、度々この身分という言語ひとつで、えらく苦労した。
海軍奉行の椅子も当初、勝でなく中島に声がかかった理由のひとつにこの身分が、問題として
ひっかかったからでもあった。

そんなわけで、勝は、見所のある若者を見抜く力のある人物だったが、
己同様に身分で苦労をしてきた者を見ると、ほっとけなかったのだ。

たかが身分、されど身分!であった。

坂本竜馬 はいうまでもなく、土佐藩の下士。この下士とはなぜ発生したかといえば、土佐藩の山内家が
関が原の際、徳川に寝返って功労したため外様にありながら異例の優遇をうけたわけだが、一方
それまでの旧支配者側「長曽我部」系を士分としては、どん底に陥れて差別することによって調整
をなした。そこで、竜馬はお金持ちの子だというのに、身分の上では最悪の苦労続きだった。

この点、榎本は竜馬どころでない。
榎本 も勝同様、父がいなければ、史実のどこにも登場できることなく星屑になっていたことだろう。
彼の父(榎本円兵衛武規)は備後福山藩の郷士から身をおこした。
旧姓は箱田良助というのだが、出身は、福山藩の「箱田村」なのである。

商売で儲けて、江戸で徒士株(馬に乗ってはいけない。戦場では必ず徒歩で戦わなくてはならない
限定付の低い士分)をまず買って、お金で買った士分をゲット。
しかし、これでは、まだ不便。榎本武兵衛武由の娘『みつ』と結婚。養子INして逆タマの輿。
おかげで出元身分にだいぶ衣が分厚くなって、身分が良くなった。ところが、困ったことに
『みつ』が死んでしまった。しかし、幸い榎本の姉はこの母から生まれていたこともあり、
円兵衛武規は後妻(元、一橋民部喞馬預り_林正利の娘=琴)を娶り、榎本が生まれたわけだが、
幸い「榎本」の表札は下ろさずに済んだ。

榎本は名門、昌平坂学問所出身、長崎伝習所入所といい誉れ高き履歴ながら、実はこの関門突破の度に、
余計な苦労をした。能力という点で実施試験なれば天下御免。しかし、『願書を出させていただく権利
の確保』という形で、先に余計な手間を要した。優秀であるが故、それを見抜いてくれて応援、紹介して
くれる人物、かつそのお方が身分が高いことが条件とくるから、それを探すには、いちいち骨が折れた。
長崎伝習所入所は、昌平坂學のクラスメート伊沢金吾、彼の父に推薦してもらってどうにか滑り込んだ。
余談だが、 高松凌雲 (■ 高松関連2 ,■ 高松関連3 )は、この「願書を出させていただく権利の確保」で
いまひとつ力及ばなかった為、昌平坂学問所は門前払いを食らっている。可愛い弟のために奔走した
実直な兄、古屋 佐久左衛門の若い力では世の中力不足だったわけだ。

少々、話が脱線しましたが、もとに戻すと、 勝海舟のたかが身分、されど身分! の話の続き。

或る日、勝は豪語した。

「いやだねぇ。身分だ、へちまだ。んなもん、あるから、この国ダメなんだよ。
そもそも、あの『世襲制度』ってやつが、幕府を腐らしちまったんだサ。
馬鹿も阿呆も世襲は世襲。ろくでもねえや。
下らねえ連中、一派一絡げで掃除しちまいなってんだヨ!」

確かに素晴らしい。四民平等。階級社会の撤廃。能力抜擢。統一国家への誘い。
・・・しかし・・・勝は、統一国家という発想は暫し、遅い。
幕府は幕府でもよかったのだ。しかし、そのためにはお掃除が必須項目。
お家柄に胡坐をかいて、馬鹿と阿呆が幕府にゴロゴロしている。これをまず一掃したかった。

その実、だいぶ酷かったらしい。たとえば、■お抱え医者達の世界には、一種の待機席があった。
待機部屋で弁当食べて家に帰るだけ。この部屋に送り込まれた医者とは、永代の功労からして、
クビにはできないが、本人の代で、箸にも棒にも掛からないからこうなる。実際、とんでもないのが
居たらしい。しかしながら、それを利用して派閥争いの生煮えも居る。能力がありすぎるが故、
当時幅を利かせていたブレーンが自分の立場を守るために、能無し!と上に嘘八百、チクッて
つっこんだ例もある。蘭医の 松本良順 家も一時、その被害者だった。弁当食べたらしい。

■また、鳥羽伏見、あれも考えると変だ。ごっそり旗本。なんのための旗本?
旗本しっかり、がっちりなら、そもそも新撰組なんて募集する必要なかった。
各藩援兵。この時、全国の古道具屋さんが左団扇になった。古武士の鎧兜をはじめ、埃を被った武具が
売れまくった。永年の徳川安泰が原因で突然出兵命令を受けた各藩は、道具が全然足りなかった。
本気で機能重視で購入するなら、こんなものじゃなくて、たとえ安物とて銃を何艇か購入するはず。
いずれにせよ、幕府には、なんとも冬眠中で役立たず。マンネリ化の訳解らぬ組織が五万とあった。

というわけで、勝海舟の発言は、確かにほとんど大正解!
・・・がしかし、この人物、ひとつ間違っていた。というより、確認不足。
先入観で決め付けて、鼻っから毛嫌いしてしまった傾向が玉に瑕。
ミステイクはこれだ。

「馬鹿も阿呆も世襲は世襲。あいつらが幕府を腐らせてしまったんだヨ!」
それは大正解だ。しかし、このお方、極端。

★勝は、「永年世襲」のお家柄を見ると、無条件でぜ~んぶ全部!馬鹿!に見えてしまった!

しかし、もしも、大きな声で、「小栗忠順は馬鹿だ!」と言えば、大抵の人は「お前こそ馬鹿だ!」
になるはずだが、その点、中島なら言いやすかった。また、中島氏、滅多やたらに謙る。
世襲にぶらさがろうとして、おべっかを使っているタイプに見えてしまったのであろう。


■中島家の訳、そのルーツ

■涙の食いっ逸れ、■誠、その実、本気で心底!徳川報恩!

中島家は勝海舟家と異なって、堀っくり返しても、そう簡単にはボロが出ない。
また、厳密に言えば、確かにボロなどない。気が遠くなるぐらいの大昔からちゃんとしたお家柄。

1_しかし、痛い目にあっているお家だったのだ。

  1. 浦賀や下田方面に来る前の中島家:(前田家の家臣)
    • 出身と就業は、越前加賀(もともとルーツはこちらのご家系)
    • 歴代、加賀藩主_前田家の家臣
    • 加賀方面でのラストは、中島五郎八=当時の加賀藩主_前田利長の家臣
    • 中島五郎八の子が、初に徳川に奉公した人物=中島定房
    • 中島五郎八急死、家督相続間に合わず、子の定房は幼少。
    • お家断絶となる!!

  2. 苦労の浪人_中島定房時代・・・
    • 中島定房:1626~1702、享年46歳。32歳で江戸に出て、43歳で徳川家臣(下田与力)
      となる。しかし、在職僅か3年、46歳=1702(元禄15)年病没。
    • お家断然となったが、父、五郎八が死んだ段階で幼少だった中島定房は成人すると、
      前田家に再度帰参申し出する。
    • あっさり却下される。
    • 今度こそ、正真正銘のただの浪人になってしまった。
    • 1658年、32歳で、江戸に彷徨い出る。
    • 1669年3月19日、定房43歳の時、徳川四代将軍、家綱のお目にとまり、
      下田奉行、今村伝三郎組与力として召抱えられた。
    • 鉄の家訓を次代に教え込む。

  3. 浦賀の中島家:徳川幕臣としての事項
    • 初代は、中島定房:この段階では、浦賀でなく、下田
      下田奉行_今村伝三郎組与力として就任
    • 2代目_中島三郎衛門_永知(この時、下田から浦賀に転勤)
    • 3代目:中島三郎衛門_()
    • 4代目:中島伝左衛門_()
    • 5代目:中島一也_(永貞):他家から養子IN
    • 6代目:中島保三郎_():他家から養子IN
    • 7代目:中島三郎之助の父:中島清司永豊
      • 中島清司永豊(1788年出生):関文衛門(書院番与力)の長男。中島家に養子IN、
        弘化3年(1846)アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルに対応&交渉
    • 8代目:中島三郎之助永胤(中島三郎之助は、上記、清司の三男)


2_THE_痛い目!!とは・・・

■涙の徳川報恩、「中島定房」物語

越前加賀藩の前田家に歴代奉公してきた名門中島家。ところが、上記のとおり、
中島五郎八の代で、お家の運命は暗転した。若くして急死したため、家督相続の準備など
一切していなかったのである。家の者が、なんとか子の定房に相続をと奔走したが、
前田家の回答はNO!確かに定房は幼少。それに、理由がなんであるにせよ、規定は規定。
あらかじめ万事備えていなかった中島家の不備を指摘され、 お家断絶の悲劇に遭遇した

食いっぱぐれた中島家ながら、頑張って定房を賢く育て、成人したので、再度、前田家に
帰参を申し出たが・・・なんと冷淡。またしても答えはNO!

途方に暮れた。しかし、財源尽き果て、もう限界。
失意の中島定房は江戸に出た。身分は、当然浪人なのだ。
しかし、ここでこの人は奈落の底に陥ることなく、身を糺し頑張っていた。
(何を頑張っていた?何が見初められる原因になった?多分なんかの学なのだろうが詳細不明。
時代背景として、1635(嘉永12)年=鎖国令、1641年(嘉永18)に平戸閉鎖=長崎へオランダ商館
移動。1626年生まれの定房は浪人中といえど、32歳で江戸に出るまでの間に、長崎へ勉学に出向いた
可能性が高い。)

しかし、運命の女神は、そんな彼をいつまでも放置したりはしなかった。

或る日、お声がかかった。
なんと!徳川四代将軍、家綱のお目にとまった。(下田奉行_今村伝三郎の推挙による)
1669/3/19、彼は、上記、下田奉行、今村伝三郎組与力として召抱えられたのだった。
以来、中島家では、代々組与力の職に預かった。

まさしく、徳川のご恩。一介の浪人に身を落とした一人の男が、なんと徳川のお抱えになったのだ。
これを中島三郎之助の言葉を借りれば、まさに「天幸」以外のなにものでもない。この並々ならぬご恩に、
末代に及んでも、徹して報いるべしと定房は天に誓った。徳川家臣としての中島家初代、定房の教訓が
いわば家訓となり、歴代の主は誓って、その教えを守り通した。

3_中島定房の「鉄の掟=鉄の家訓」とは

■徳川報恩、■臣たる者の心得、■中島家の名に恥ずべきことなきよう・・・
■何事も、絶えず、事前に準備を怠らないこと

多分他にも一杯ある。
しかし、重要なことが、実はもうひとつあった。

★それは、・・・コレだった!▼
  1. 突然の事態に備え、家督相続の手続きは事前にしておくこと
  2. 子を絶やさないこと!!
    名前にその祈りが込められている。中島三郎之助=永胤、
    長男の恒太郎=永保、次男の英次郎=永省:永久への祈り=永

なるほど、これだから、中島三郎之助・・・まさしく、そのとおり全て実行。
48才で末っ子、 中島与曾八 中島与曾八2 )が生まれたわけだが、これぞまさしく
中島の最大の偉業として称えたい。

世間では、やはり、物議を醸し出した。

「おい、おい、よせったら!えっ!なんかのまちがいだろ?
あのおっさん、自分が生きてるだけで精一杯じゃないのかよ!喘息ゴホゴホのおっさんだぜ!」

「えっ?香典なら払うけどよ、出産祝い?冗談でねえよ!」

「うんにゃ、こりゃ、どうせ、倅の不始末さ。親がカタつけたんでないの?!」



実は、長男の恒太郎に嫁を娶らせたが、悲劇。嫁いで数ヶ月で、妻は死亡。
本来なれば、恒太郎が子を作っておかねばならぬところ、それができなかった。 (現在SERIES後半に表記有)


  • 喘息持病&49歳の中島も偉いが奥方、もっと偉い。本来なら、今さら、そのお仕事なら、妾に譲りたい。
    浮気とて目瞑る。遠慮したかった・・と思うのだが、よくぞ!産みました。偉い!



中島の血縁&因果&友
中島家のルーツ&血縁迷路

1_中島清司永豊,2_中島恒太郎,3_中島英次郎【=房次郎】,4_中島与曾八,5_中島錫,
6_岡田井蔵,7_岡田定十郎,8_香山栄左衛門,9_穂積清軒,10_穂積寅九郎,11_佐々倉桐太郎,
12_佐々倉松太郎,13_下岡蓮杖,14_春山弁蔵,15_開陽で出陣する時、残した家族他

■中島を嫌いな人 ・・勝海舟
  • 中島が幕府に提出した意見書「愚意上書」=軍艦建造の必要性を説いた書を一蹴
  • 中島が造った軍艦「鳳凰丸」を「やっかい丸」と称して機能性低質と非難
■中島に知識を仰いだ人
  1. 吉田松陰【長州】・・(海防学)
  2. 宮部鼎蔵【長州】・・(海防学)
  3. 木戸孝允【長州】・・(造船学)
  4. 来原良蔵【長州】・・・(銃術):木戸孝允義弟
■中島に恩返しした人、助けた人
  • 木戸孝允【長州】・・(中島の娘を養育)
  • 榎本武揚【幕臣】・・(中島与曽八を養育)
  • 福澤諭吉【幕臣】・・(公金横領の疑いで謹慎させられた中島を救ったと自称。
    • 中島氏、確かに災いを蒙った履歴有。倉庫が火事になり管理不十分の謹慎経験もある。
      また、福澤諭吉は、中島本人の甥:穂積清軒他、三河吉田藩士の塾生があったことから
      他にも、助命活動に尽力した。
■最後の砦、中島の千代台に関与した人
中島三郎之助(本人)、(中島恒太郎)(中島英(=房)次郎)他柴田伸助、近藤彦吉等
共に散華した人。生き延びた人・・・ 詳細はこちらの頁


■最後の砦、中島隊。その際、他隊ながら、共に千代岡で戦死した人

砲兵が多く死亡してます。中島隊の大砲は破損していました。最後まで頑張ろうとした各隊は、
中島隊の弱点を補うべく、砲隊が活躍。
■額兵隊他、多くの尊い若い命 が散りました。・・・ 詳細はこちらの頁

中島に流れる血とは・・・(血縁迷路)

next_car 冬間の皺寄せ、一両一歩
中島三郎助 と蝦夷桜
No.1 <・・< No.4 No.5 (現在の頁)< No.6 No.7 ・・・< No.12 (完)



幕軍&松前えとせとら
文章解説(c)by rankten_@piyo
イラスト写真については頁最下欄
幕末_WITH_LOVE玄関

楽天市場ペットホットスクープ

ペットが主流 飼い主さんが主流


li3.gif
薫風館 :和風イラスト


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: