「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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中島三郎助と蝦夷桜_1,幕末,箱館戦争
中島三郎助
,幕末_WITH_LOVE,箱館戦争<中島三郎助と蝦夷桜<壮烈終焉_中島三郎助親子,中島三郎助が造った軍艦、鳳凰丸,欠陥船:開陽,中島が見抜いた男,測量士官の宮原彦衛門,船大工:上田寅吉,他,榎本軍,碧血の奇跡,【楽天市場】
幕末_WITH_LOVE玄関
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中島三郎助
と蝦夷桜(現在の頁)
中島三郎助
と蝦夷桜
No.1
(現在の頁)<
No.2
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No.3
<
No.4
・・・
No.12
(完)
中島は49歳。しかし実に純な人。周囲も皆純粋すぎて泣けます。仲間や家族、愛と絆。
この人物は、榎本達皆が降伏した後も、一番最後まで戦い、壮烈な死を遂げた男。
彼、中島三郎助は、書物で知ったある人物の話に、心奪われたといいます。
その人物とは、三浦義明(=衣笠城主:源頼朝に殉じて、孤軍奮闘して戦死した人物)です。
中島もまた、そうして果てたのでした。中島の死の瞬間、長かった戊辰は幕を閉じました。
中島三郎助
と蝦夷桜_No.1
さく花のころといへども
桃さくら なへて開かぬ 春ぞ つれなき
腰おれ 御ご一笑くださるべく候・・・・明治二年、三月三日
最愛のお前、錫よ、皆は元気にしておるか?
何かと不自由な思いをさせてすまぬ。されど、そちらは、さぞ、花の頃じゃろうのう。
ところがじゃ、お前よ、聞いておくれ。
予期していたものの、蝦夷とは、とんだ異郷の丘じゃ。
三月三日というのに、花どころでないぞよ。
笑って読み流しておくれ・・・(中島の心)
中島三郎助
から、妻への手書。運命は、
この後、急転直下。
しかし、それは天のみぞ知る。
当時の三月は現在の4月。
4月に蝦夷では、右写真のような光景は
全然まだ!!中島は、あきれている。
なんちゅうところだ!
蝦夷の三月初旬、異郷の丘で
【
中島三郎助
えとせとら資料編】:
No.1
<
No.2
<
No.3
旧暦三月といえば、現代の四月なのだが、
ここ北の地は異国の丘。
往生際の悪い冬が今だ居座る。
水気の多いぼた雪が降り、心無しか暖かく
なったかと思えば、突如、時ならぬ猛吹雪に
見舞われたりする。
三寒四温で春到来とは、おおよそ言い難い。
無秩序な気象状況が転回され、人はそれに、
振り回される。
街には、雪解けの泥水が溜まり、人も馬も汚れ、時折水溜りに足を取られる。
褐色の大地。積雪に屈して押し倒された草木は、今だ枯れ色のままだ。
仰ぎ見れば、山々には、今だ残雪が著しい。
中島三郎助
(諱:永胤)文政4(1821) - 明治2/5/16(1869/6/25),幕臣,蝦夷では「箱館奉行並」,享年49
嘲笑反復、蝦夷の大地
苛立つ榎本。大鳥圭介の土塁工事は進まない。
降っては解けて、降っては水が溜まり、それが深夜の冷え込みで、
すっかり凍りつく。人夫達の苦労は、毎回無駄となるだけだった。
それどころか、昨年から工事に駆り出され続けた民の不満は頂点に
達している。幕軍にとって大切でも工事をやらされる側の民衆にとって、
この工事はまさに、余計な工事だった。それは、
民心離反を促し、
さらにスパイの出入りを促進
しているようなものだった。
この地には、「進展」なるものは、結局得られない。
膨大な労力をもって、歯を食いしばり、繰り返し、繰り返し、
不屈の精神で同じ作業を繰り返す。「為せば成る。成せる迄、
為す。」とは、悲しきかな、この地に於いて、それは、
美談にすぎなかった。
たちまち、泥土に押し流されて、
凍りつく。万事は徒労。露と消える。
一夜明ければ、原点復刻。そこには手付かずの原生林が横たわる。
枯れ色の大地が、人間達を、嘲笑っていた。
中島三郎助
、嵐の早春賦
冷たい海風をうけながら、中島も、せっせと千代台砲台修理に精を出す。
この地においては、春一番、花がない。梅もなければ、桃もない。
※余談だが、梅が大好きな土方歳三は、おかげで、この地に於いて梅を詠めずに死んでしまった。
勿論、現代は有る。自生種でなく、人が運びこんだ。
あるわけない。一月二月は猛吹雪、零下何度の気温である。暦の上での季節は、全て嘘同然だ。
風流人の中島は、逆境にあっても、自然に目は草木へと向く。
「これでは、桜も咲くに咲けまい。」思わずつぶやいた。
五稜郭内には、多種多様の桜の樹があった。
どの樹を見ても、花の蕾どころか、芽さえ吹いていない。
それもそのはず、この寒さだ。雑草でさえ、枯れ色のまま、積雪の重みに耐えかねて、
昨年来、無残に地べたに押し倒された無様な姿のままだ。
早春の草のみ、勢い勇んで芽を吹いた。しかし、その上に時ならぬ雪が容赦なく降りつけ、傷を負った。
どう考えても、桜が咲けるわけはない。北風が煽りつけ、痩身の中島は今にも吹き飛ばされそうだ。
日の光が強い日ほど、この突風は節操ない。
うねり返して、巻きつけて、いきなり地面へ叩きつける。これでは、まるで嬲り殺しだ。
実際、大鳥圭介の工事現場では、
この突風で幾人かの人夫が
材木に打ち付けられて怪我をした。
ひとまず、工事中断。
すると、なんとも
珍しい男がやってきた。
給仕と蝦夷桜
些細なお使いを口実に、中島に会いにやってきたのは、
給仕の
伊藤源左衛門
だった。この男は、あれ以来、どうやら中島が気になるらしい。
五稜郭内の桜はよく見ると、多種多様。
話によれば、歴代の松前の殿様、お姫様が「内地」からお輿入れの際には、
皆、それぞれの国から、桜の幼木を持ち込んで来たからなのだそうだ。
中島はかつて、この話を、この男から聞いて知っていた。
はじめは、実に無愛想な男だった。しかし、一度腹を割ってみるなれば、
ぼそぼそとしゃべり始め、終いに懐いた。
彼は、前代から継続勤務。即ち、敵、清水谷達にも仕えた者である。
ようするに、飯が食えるなら、相手が旧幕府時代の箱館奉行、杉浦誠であろうが、
新政府だろうが、おまけに榎本軍だろうが、なんでもいいのだ。
己の信念の微塵も無いヤツだと毛嫌いする者も多いが、中島は、この手の男に不快を感じる
タイプではない。むしろ、そうせざるをえない緊迫した貧しい暮らしが
思いやられるだけあって、彼を見るとなにやら、ほっとけない気分で一杯だった。
中島は久々に満面の笑顔で彼を迎え入れた。
この男を見ると、むしろ癒される。独特の方言と
突発的な行動がひょうきんで、心労から一時的に解放される心地だった。
日々、次から次へと問題が起きる。
心底忠誠心の深い部下、柴田伸助を思うと胸が痛かった。
彼は今、病に倒れた我が子の為に、隊を離れ、看病の日々を送っている。
倅、真一郎は遊撃隊に属する者だが、病状が思わしくない。
倅といっても三十を過ぎ、本来頼もしい男盛である。
柴田とほぼ同年代の中島としては、柴田を放置しておけなかった。
厳密には、柴田のほうがだいぶ上だ。三十を過ぎた倅を持つだけあって、六十を過ぎた。
彼は、中島が長崎伝習所に学びに行った時、中島の代わりに浦賀をきっちり守ってくれた。
今この蝦夷政権に於いては、幕府時代と異なり、幹部が皆三十代と若いこともあり、
時代錯誤の年寄りは皆いわば、お荷物なのだ。よくできたこの男は、その点しっかとふまえており
己を「役立たずの年寄りながら、なんらかのお手伝い程度なれば喜んで・・・」
などど涙ぐましい事を言う。この男は歯を食いしばって己自身と闘っている。
それもこれも、皆全て・・・つまるところ、やはり「父」だからなのだ。
倅に花を持たせて己は一歩も二歩も下がりたいところ、悲しきかな、
愛するわが子は今病に倒れて久しい。名誉の討ち死にならまだしも、手柄のひとつも挙げられずに、
朽ちて死に果てる・・・親なら誰しも、そんな姿は見たくない。
幾つになろうが、父とは、倅が可愛いものなのだ。
中島はいてもたってもいられず、我を忘れて高松凌雲に頼み込んでいた。
我が子の死に目に会えない・・・そんな思いだけはさせたくなかった。倅の看病をさせて
やりたい一心で、病院の手伝いを条件に、高松に柴田の身を引き受けてもらった。
口では何と言おうと、早い話、使い物にならない年寄りを体よく、病院掛と称して、
押し付けたなどど思われてはたまらない。必死で訴えた。
人物ができた男だけに、もともと、家来同然の低姿勢でいつも中島に接する柴田だった。
しかし、今回の一件で、暫しの暇を告げた時の彼の姿は別だった。
何度も繰り返し、中島に涙ながらに頭を下げて、発って行った。
その背中が小さく見えてしかたなかった。
中島は文政に生まれた男だ。ましてや、柴田は文化年間。
中島は今、友を失ったような心地だったのだ。
そんな矢先に、ひょうきん者の伊藤が現れて、中島はご機嫌だ。
なにやら、台所の残り物を掻き集めて、弁当を作ってきてくれたらしい。
残り物と称して、実は心のこもった弁当。嬉しかった。
食べながら、中島は、この男との出会いをふと、思い返していた。
柴田伸助について:
中島報恩の為、命を捨てた男。高松凌雲の明治の回顧談有。彼の結末を知り、心から哀れむ老齢の高松はこう語る。
初めて会った時は、こんな老人どうするのかな?と思った。しかし、今思うと、あの頃若かった私は、
そんなふうにしか人を見れない・・・若僧だったんでしょうね。(涙)
咲けよ!夢花、天に咲け!_浦賀同心:柴田伸助
追憶_ああ、洋食よ!
中島と伊藤、思わぬ出会い、その発端
榎本筆頭に、留学帰りの士官達は皆、青少年時代に洋食の味を覚えた者だ。
そのおかげで、五稜郭での幹部食は、いつだって洋食中心だった。
ハムにチーズにベーコン。おまけに、中島にとってはギョッとする
生々しく血の滴るステーキ。ワインやビールはいいが、このバタくさい食べ物、
中島のような旧人類が、口に合うわけはない。
(榎本達の食生活資料)
ある日のこと、ついに悲鳴をあげた中島は、給仕場に足を運んでいた。
粥でも梅干でもこの際、なんでも良い。せめて和食が食べたかった。
痩身の中島、どうやら足音まで軽かったらしく、背中を向けてさぶさぶと洗物をする伊藤は
人の気配を全く感じていない。
面白いことに、この男は洗いながら、なにやら、ブツブツ独り言を言っている。
聞き耳を立てて相手を窮地に追い込む趣味はないが、なにやら可笑しくなって
思わず中島は、そのまま背後で、すっかりその愚痴を聞いてしまった。
「え~ィ!あん畜生共め!外国カブレの好かん輩じゃい!
外人といっしょくたになりやがって、肉ばっかり食ってやがらぁ!
塩加減がどうだの、焼き具合がどうだの、うっせい~ったらねえっちゃ。
・・・おっ、とっとぉ~!汚ねぇ!油っこくて、たまんねえや!汚ねぇ野郎共め!!」
突如、目の前に湯の入った柄杓が突き出されて、伊藤は大仰天!!!
あっという間に、柄杓はそのまま傾けられて、冷たい水を張った樽に、
湯気のあがった熱い湯が、たっぷりと注がれた。
伊藤は思わず、腰が抜けかけた。振り返ると、骸骨みたいな中年男が突っ立っているではないか。
慌てて、手の水を吹き飛ばし、我を忘れて、床に突っ伏した。
両手をついて、額を土間に散々擦り付けては、繰り返し土下座した。
「これは、これは、だんな~じゃねぇや、ハ~っ、殿ぉ、
なにぶん、なにぶん、お許しを・・・お許し下さいませぇ!」
伊藤は完全に脅えていた。中年男は古武士の威風を漂わせている。
ぺこぺこ頭を下げつつ、覗き見すると、腰の刀が視界に入って、ますますギョッとした。
「どうか、どうか、お許し下さいませぇ~!」
伊藤は喚き続けていた。
中島も人が悪い。ちょいとからかった。
「濯いで、濯げるものと、そうでない事がある。世の習いじゃ。心得よ!」
「どうか、どうか、お許し下せぇ~!」
斬首だけは、まっぴらご免だった。同じ死ぬにせよ、痛いのは絶対いやだ。
馬鹿丸出しと言われようが、この際、喚くしかない。この時、彼は完全に怯えていた。
ガタガタと震えながら、伊藤はひたすら中島に哀願の目を差し向けて、
命乞いをしようと必死だ。
中島は細い目を一瞬大きく見開いたかと思うと、次の瞬間、
両手に持ち変えられた柄杓が突如、宙を横切った。
「
その者!心得よ!」
「あっ!お許し下せぇ~~~っ!」
・・・・これが伊藤の最期だった。・・否、本来なら最期になるところである。
伊藤が頭を擡げると、不思議なことに、己の首はまだつながっていた。
ところが、目の先三寸の距離に、皺だらけの中島の顔がある。
ますます驚いた。柄杓を片棒担ぎのような格好で肩に抱えたまま、しゃがみ込んでいる。
伊藤は、気が動転していたため、この柄杓でコツンと軽くやられたのか、
それとも、この格好から想定すると、実はフェイントで
なにもやられずに済んだのかさえ、一切記憶にない。
「
油っ気はのう、湯ですすがねば、所詮取れんぞえ。
濯いでも取れぬものとは、このことぞ。
こんなに冷たい水じゃ、お前さん、辛かろう。」
人懐っこそうな笑みを浮かべた中島が、話しかけてきた。
なりゆき、ひょこんとしゃがみ込んだ中島の体は、一握りにも満たない。
まるで趣味の悪い・・・骸骨の折り畳み人形じゃ。内心そう思った。
小声で、中島はこう言った。
「実はのう、拙者も同感じゃ。梅干か何か、ないもんかのう?
拙者は、どうも油っぽいやつが苦手じゃで。」
中島は賄い専用の具無し味噌汁を飲んだ。彼らの食器は、欠けて粗末な椀。
しかし、命の報恩に、この男は、熱い味噌汁をさっきの柄杓で掬うと、
並々と椀に満たして、差し出していた。
野菜の皮やら、ごみやらが散らかった汚い給仕場の片隅、腰掛けるものなどあるはずがない。
中島は、突っ立ったまま、それを飲み干した。
たかが空汁。されど空汁。なんともいえないほど、この空汁が旨かった。
旨すぎたのか、なんなのか、認めたくないのだが、なぜか目頭が熱かった。
持病が喘息だから、おまけに咳も出た。
「あっ!お許し下せぇ~~~っ!
底のほうに溜まってたヤツ、しょっぱかったんだべか?
スンマセン!スンマセン!!!」
つくづく、笑わせてくれる男だ。笑いを噛み殺したら、逆効果だった。
ついに涙が零れ落ちた。
手作り弁当を持ち込んだ伊藤は、中島が弁当を食べ終えるまで待ちきれず、ついにしゃべり始めた。
「ご奉行さん、あのう・・・」
「ご奉行さんと?誰のことじゃ?」
「うんにゃ、ついつい、だんなって言っちまう癖があるもんで、すんません。
えっと、あのぉ、箱館奉行ぉ~っ並ぃ様、あのう」
「役職のつもりか?されば、よい。長ったらしいのは言わんで宜しい。」
「へい。したって、わしゃ、はっきり言って、だんなのその『並』ってやつ、気に入らねえ。
なんで余計なもん、くっつけられるんじゃ。『並』じゃねえやい。
なんで、だんなほどのお方に、そんなもんくっつけるんじゃ。寿司じゃねえっちゃ。」
中島は思わず、吹き出した。この給仕は、あいかわらず榎本が嫌いらしい。
細々煩く言わず、下部に対して、寛大な男なのだが、好き嫌いは所詮個人の感覚。
言ってどうなるものでもない。
瞬間、なんとか榎本を庇おうと言葉を探したせいか、中島は、余計なことを思い出してしまった。
千代台陣屋に居住を兼用する中島。榎本を思うと、心は暫し、あの記憶に向いてしまった。
悪夢、暗夜の開陽、あの記憶
中島にとって、榎本は可愛い後輩である。ちょっと前までなら、彼のやったことは全部許せた。
興奮すると、江戸の下町生まれがまるわかりになる。べらんめえ口調が可笑しかった。
皆が非難する時でさえ、中島は彼を庇った。
いつも、榎本の本名である釜次郎をとって、釜さんと呼ぶ。
そんな中島だが、開陽の時だけは、流石に暫し恨んだ。
「海軍が手柄を挙げたく、不満が溜まっている。なんの、これしきの嵐ごときに
動じる開陽であるものか。なに、澤がおる。あやつなれば、たとえ火の中、水の中じゃ。」
澤太郎左衛門の操艦技術を過信した榎本のミステイクだった。
澤の操艦技術は確かに群を抜いていた。しかし、その張本人の澤でさえ、断固反対したのだった。
この時、開陽は、故障が治らず不安定な状態だった。
機械事に詳しい中島に言わせれば、故障というより、完全に欠陥船だったのだ。
修理が完了するまでならぬと皆に散々止められたにも拘わらず、榎本は
同艦を江差に出動を厳命した。案の定、忘れもしないあの魔のアクシデントに見舞われた。
「暗夜に灯を失うが如し」
・・・・この時の衝撃を伝える文献は、麦叢録を始め、同様に皆最大の嘆きを著している。
この時、中島が一番暴れた。年上である以上、緊急事態故に、その特権を乱用した。
しかし、その反面、年の功はむしろ不幸といえよう。
いくら言っても引かない榎本の真意も見抜いていたのだった。
■陸と海、不協和音
実は、日々、
陸と海の関係に、早くも不協和音が生じていた
。
敏感な榎本は、逸早くそれを見抜いて、補填しようとしていた。
一般には、海軍が手柄をたてたくて暴れていた・・とする表現もあるが、実際それはない。
命を散らして勇敢に戦い続ける陸軍。海軍に対して、皆の妬みを否定しきれない状態だった。
船がなければ何ひとつできない。開陽は城以上の価値を為す最強の砦である事、皆知っている。
それゆえ、表立って物言う者は一人も居ない。
しかし、不協和音は止まらなかった。
討ち死にの陸軍。対して、海軍は、病死か事故死しか・・・その段階では生じていなかった。
・・・史実は、この後、海軍には、それ以上に恐ろしい宮古海戦の悲劇、及び終焉時の
・・・多大なる犠牲が生じるのだが、当然、それは神のみぞ知るところ、誰も知らない。
■「開陽」沈没の悲劇
(M1/11/15)
晴天の江差海岸。突如、タバ風が吹き荒れた。
見る見る間に「開陽」は波に呑まれて、数日海上に無残な姿で浮いていたものの、
やがて、海の藻屑と消え果てた。明治元年十一月一五日の事だった。
海軍はもとより、小杉雅之進も、山内六三郎も皆、最初から猛反対していた者は
怒り狂いつつ、必死で座礁回避をつとめたものの、及ばなかった。
しかし、荒れ狂う豪風雨の中、既に傾いた同艦の甲板で、年甲斐もなく、髪を振り乱して
暴れ狂っていたのはなんと、中島三郎之介だった。
※この出来事は後々、様々な奇談を生んだ。
箱館戦争の伝説的実話コーナー
暫く怒りを露にしていた中島ながら、やはり、榎本を庇っていた。
「不協和音」の旨の言い訳を一切口外せず、「全て世のせいじゃ。」と号泣した榎本が不憫だった。
中島は、「こんな年寄りが、出しゃばって乗艦させてもらったからでござる。」
・・・・などと、終いには自分のせいにした。
榎本の敏感さは、結局いつも「軍術」としては、マイナスの要因を齎した。
エンジニア、
中島三郎助
神奈川生まれの中島は、浦賀与力という名の格式張った侍ではあるが、
その一方では、根っからの「海の男」だ。長崎海軍伝習所では、榎本の先輩である。
浦賀で現役、日々の煩雑な業務を背負い込んだ身で
伝習所へ出向した。
当然、榎本達若手と異なって、とんぼ返り。
ゆっくり学んでいる暇などなかった。
彼は、いちはやく軍艦を造った男なのである。
見かけによらず、実のところ、今日でいえば、
マシーン大好きの「オヤジオタク」でもある。
俳人としても名高い彼は、義に殉ずる古めかしい侍の印象が強いため、
時代に早く生まれすぎた理系男でもあったという、
相反する性質も持ち合わせていたことは、誰しも見落とし勝ちな一面である。
徳川報恩の為なら命もいとわないからこそ、迫り来る諸外国の危機に際して、
国内で日本人による「軍艦の早期造船」の必要性を述べて、詳細を提案した。
浦賀にペリーが来た時接したのが彼であることは
周知のとおり
だが、
その後、速攻で幕府に「早急なる軍艦試作」を上申して許可された。
しかし、この一件だが、忠誠ももちろんなのだが、そもそも「凝り性」の上、
長崎伝習所時代に於いても「蒸気機関構造」&メカに凝って習得したせいもある。
この直前まで幕府はご存知のとおり、鎖国だったから「造船に係る書物」なんぞ
なかなか手に入らない。そもそも、法的には、有ったらいけなかったのである。
それでも自らやってみせますと意気込みを見せたところから察しても
「機械好き」なのだ。
長崎就学時代に、オランダ人教師の伝(つて)をもって、なんらかの書を密かに入手の上、
理解していたから・・・であるのは当然予測できる範囲なのだが、
持病持ちのこの人は留学をしていない。誰にも習わず、本による知識だけで
造船に踏み切ったわけだから、一体どんな頭脳なのかとつくづく感動してしまう。
■中島が造艦した軍艦「鳳凰」
「なに?自分で黒船を造るじゃと?・・・あのおっさん、とんだお笑いじゃ。」
他の幕臣にしてみると、それは、言ってるだけで、どうせ、そのうち屈して、恥ずかしさのあまり、
入る穴を必死で探し始めるだろうと、極めて冷ややかな眼差しだった。
どうせ、そうに違いないと思われていたわけだが、実のところ、本当に完成させてしまった。
これには、皆驚いた。
しかし、約一名、
「あっ、そう。よかったね。」
・・鼻を鳴らして哂っていた人物が居る。
中島にとって可愛い榎本は、別途、その人物にも大層可愛がられていた。
しかしながら、世の中、上手くいかない。
榎本可愛いの二人の人物は、趣味は良く似ていながら、全然違う。
残念、無念、猿犬の関係・・に近かった!!
■日本人の手による日本人の「初の洋式軍艦」造船
・・・
鳳凰ができるまで
中島は頑張った。寝ても覚めても頑張った。
完成すると、早速、幕府のお偉いさんを乗船させて、海上パレードに出る。
大砲も搭載している。海上で撃ってみせた。
ちなみに、砲術、砲の構造にも強い。
しかし、根本的に猛烈に強いが、多忙現役が玉に瑕。日々の多忙に追われて、最新式じゃない。
今日でいえば、「MSドス(DOS)がどうした、96がどうした」・・(ん?なんのこっちゃ!位古い)
対して、それを聞く若者が「ドスって何?ドスが利いた・・・とかで言われるやつ?」
話が噛みあわない!・・その状態に近い点は、ちょっと片目瞑って頂きたい。
この頃、ロシアのプチャーチンを乗せた軍艦は、気の毒に台風に見舞われ沈没。
当時、まだ生きていた
江川英龍
が活躍して、彼ら外国人達が「攘夷気違い!達」に惨殺されぬよう
配慮をして、無事帰国させてあげた。
(江川の頭脳畑、韮山の男が松岡盤吉である。
松岡磐吉その1
、
松岡磐吉その2
)
・・・関連:
安定さえすればの夢
ここには、伊豆の戸田村の船大工、上田寅吉が登場する。
彼らが帰国できるように、彼らのために船を造ってあげようということになった。
中島は苦労人だが、ここでも気の毒。
いちはやくその情報を聞いて、既に船は完成しているものの、それに胡坐をかいて
安心してしまうつもりは全くなく、直接外人に技術を尋ねさらなる改善を加える予定だった。
そのため、まずはこの目で船を見て、触って、外人達に話を聞こう!そう決めていた。
しかしながら、なんせ、お偉いさん達のスケジュールがある。
海上パレードから、急ぎ帰ったものの、残念、船が出帆した翌日だった。
それでも屈しない。なんらかの改善を加えるために学ぶ習性は第二の行動に結びつく。
外人達もいなければ、船もないが、そこに接した人物がいる。
通訳と船大工である。さっそくふっとんで行った。
完成した船はヘダ号といって、船大工、上田寅吉達が造った。
中島得意のMEMO登場。通訳の記憶も、上田の専門的分野の話もしっかり書き取る。
上田は驚いた。幕臣が、こんな専門的なメカの話までいちいち理解できるとは!!
上田は中島が長崎伝習所に居る頃、船大工チームとして共に学習しているが、
なんぜ上田から見れば、お偉いさんだから、まさかここまで凝って習得してるとは
夢にも思っていなかった。
余談だが、寅吉の留学をバックアップしたのも彼、中島である。そして今回
寅吉が、榎本軍にいるのも、縁をたどれば、そういった経緯が強く影響している。
上田の知識を加え、中島の作品「鳳凰」は、こうして、どこに出しても
恥ずかしくない立派な軍艦として、颯爽と海を行く。
日本人の手による日本人の「初洋式軍艦」造船
がこうしてなされた。中島、偉い!
■幕府の大型船造船禁止令解禁実施は、1853年=黒船来日(ペリー事件)の年。
■中島が造った鳳凰が完成したのは1854、日本初
■しかし、薩摩や佐賀は、密かに解禁前に手がけていたようだが違法につきOPENされて
いなかったので正確な数字は不明。
■ヘダ号を造った戸田(ヘダ)村。そこでの中島MEMO=「南豆紀行」と対応者:
(◎通詞:本木昌造,◎船大工:上田寅吉,◎船大工:緒明嘉吉・・他)
■榎本軍でも大活躍・・・鳳凰!!
・・・
仙台で「生みの親_中島」に再会できた「鳳凰丸」
榎本軍で、貨物船として使ってきた船「鳳凰」、これはまさに中島の作品なのだ。
この船は、そもそも、榎本軍は仙台で没収した。丁度咸臨丸や美嘉保丸を失ったダメージの矢先、
港内にぷかぷか浮いており、早速分捕ったわけだった。
僅か数年で老朽と判断されて既に蒸気機関は取り外され、帆船になっていたものの健在だ。
父と共に開陽に乗船していた次男の英次郎(房次郎)が叫んだ。
「お父上!父上!あれをご覧下され!」
ふりかえった中島は絶句した。それは、まさしくあの鳳凰である。凛々しい姿が
海に映えていた。なんといっても鳳凰は洋式軍艦なのだ。
感激のあまり窒息寸前の中島。
英次郎は連日の嵐ですっかり船酔いでまいっていたにも拘わらず、
頬を赤く染めて叫び続けている。
中島は、この子を乗船客、つまり厄介人として乗せていない。
見習いとして、雑用でも何でも使ってくだされとばかり、榎本に頼み乗せた。
そのため、水夫達も集まって皆が驚嘆した。
「おう!誠、鳳凰じゃ!鳳凰じゃ!」
皆が何事かと振り返る。中島はこの空気に圧倒された。思わずこう言った。
「いいえ、なに、この老いぼれがちょっとばかり
触らせていただいた程度でござる。
・・お恥ずかしい駄船でござりまする。」
・・・・・・皆に隠れて、胸の高鳴りを抑えた。
勝安房と対照的に、中島はいつも慇懃で、こうして、言葉使いも謙った物言いをする男だった。
海の好きな「猿」と「犬」
中島三郎助
と蝦夷桜
No.1
(現在の頁)<
No.2
<
No.3
<
No.4
・・・
No.12
(完)
文章解説(c)by rankten_@piyo
イラスト写真については頁最下欄
__
雀のあしあと
:歯車;
薫風館
:和風イラスト
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