幕軍えとせとら6,箱館戦,中島三郎助特集

幕末,箱館戦争,中島三郎助えとせとら特集,蝦夷に向かった浦賀勢,中島三郎助の血縁迷路,中島三郎助と共に千代岡で戦死した人,中島三郎助周囲で気になる人物,家族のその後,中島三郎助、親子の絆、泣ける手紙,浦賀勢と江川英龍,中島三郎助の謎の家来,【楽天市場】


幕軍&松前えとせとら

現在の頁は「幕軍&松前えとせとら」の中島三郎助特集(No.1~No.3のNo.3)
Vol.1 Vol.2 Vol.3 Vol.4 <(中島三郎助特集: Vol.5 Vol.6 現在の頁< Vol.7
Vol.8 (再び、ONLY中島でなく、幕軍&松前一般編)へ



サイトTOP 幕末_WITH_LOVE玄関 _函館戦争の余波<幕軍&松前えとせとらVo.6【中島三郎之助えとせとらNo.2】

中島三郎助えとせとら

【中島三郎助えとせとら】_No.2
【中島三郎助えとせとら】: No.1 No.2 (現在の頁)< No.3

中島三郎助と蝦夷桜


現在の頁、このコーナーは、 「中島三郎之助と蝦夷桜」SEREIS の追加詳細などです。
(本ページ内に書ききれなかった事などのおまとめです。)
この頁内概略
他にも、中島三郎之助こだわりメモ有の頁


  1. 中島三郎助に流れる血
    とは:血縁迷路
  2. 血の活性と迷路
  3. 気になる『濃い血』
    隠れ蓑
  4. 従兄妹同士の結婚
  5. 中島三郎助_永胤本人
    の子供と扶養家族
  6. 良き友、香山家
  7. 良き友、佐々倉家
  8. 泣ける!父らしい中島
    のひとこま
    英次郎・恒太郎:編
  9. 鬼の目にも涙
    勝海舟ライバル喪失時
  10. 悲劇の恒太郎
  11. 蝦夷に向かった浦賀勢
    生きた人・死んだ人
    他陸軍系浦賀勢師弟
  12. 捕虜になった浦賀勢
  13. 気になる人物とMEMO
    謎の家来と陣中日記
  14. 涙の報恩殉死:柴田伸助
  15. 田島応親の回顧談
  16. 林薫の回顧談
  17. 大鳥圭介著千代台終焉
  18. 中島三郎助に関与した
    気になる人物
  19. 決死!中島親子の歌
  20. 中島から部下同心への
    侘び:子ら殉死の予感
  21. 中島三郎助19歳時の詩
  22. 終焉時恒太郎~母へ手紙



【中島三郎之助えとせとら】: No.1 No.2 (現在の頁)< No.3

■血の活性と迷路

中島家では、ここんとこ養子INが続いている。(浦賀の中島家:徳川幕臣としての事項
三郎之助_永胤は久々自家製の血。しかしながら、隠れ蓑「関家の血」が濃い。
心は徹して代々の中島家訓。しかし、父清司の代で、血は関氏が濃厚になった。

■中島三郎之助_永胤本人の子供と扶養家族 【参考:安政2年=時の年齢】
・・・・・下欄年齢とは、参考比較用(安=安政2年時の年齢、明=明治2年時の年齢)
中島家歴代概略:詳しくはこちら: 幕臣になる前はこちら

  1. 浦賀や下田方面に来る前の中島家:(前田家の家臣)
    • 歴代、越前加賀藩主_前田家の家臣。中島五郎八急死、この代で、家督相続間に合わず、
      お家断絶。子の定房は浪人から、身を起こし、実力&能力で下田奉行に採用される。
  2. 苦労の浪人_中島定房時代 が、幕臣としての中島家創始者。
    • 中島定房:1626~1702、享年46歳。32歳で江戸に出て、43歳で徳川家臣(下田与力)となる。
      しかし、在職僅か3年、46歳=1702(元禄15)年病没。
  3. 幕臣としての中島家
    • 幕臣初代:中島定房,2代目_中島三郎衛門_永知,3代目:中島三郎衛門_(),4代目:中島伝左衛門_()
    • 5代目:中島一也_(永貞):他家()から養子IN
    • 6代目:中島保三郎_():他家()から養子IN
    • 7代目:中島三郎之助の父:中島清司永豊、77歳で(慶応元年)死亡
      • 中島清司永豊:関文衛門(書院番与力)の長男として生まれ、中島家に養子IN、
        養子は養子でも、養子婿でなく、妻(下記参照:二人)は別途他家から嫁いできている。
    • 8代目:中島三郎之助_永胤 (中島三郎助は、上記、清司の三男)
      中島の体内を流れる血は、父方:関家系と、母家系:樋田家系の血。
      父が再婚した人=は継母。箱館戦争の際、本人手紙に書かれている母上とは、この人物。
番号
名前
続柄
年齢
注)岡田定十郎は関家から養子IN,
1
中島三郎之助
(諱:永胤)
本人
安:35歳
明:49歳
文政4(1821) - 明治2/5/16(1869/6/25),
幕臣,蝦夷では「箱館奉行並」,享年49
本人出生:次男とされるのが通常。しかし、長男の前に一人早世した男児有。厳密は三男。父:上記のとおり、清司_永豊(旧姓は関)
2
中島清司永豊
*
77歳で(慶応元年)死亡。
関文衛門 (書院番与力)の長男として生まれ、中島家に養子IN。
弟の定十郎は、岡田家に養子INして、岡田定十郎という。
3
中島錫
安:33歳
明:47歳
岡田井蔵の姉。また中島とは従兄妹でもある。
(中島三郎之助の父(清司)の弟 =岡田定十郎の子)旧姓岡田妹の岡田きん子は:香山栄左衛門の妻となり、香山きん子。岡田姓だが、父定十郎が関家から養子に入った姓。明治16/9/2死亡。お鐺の死報から数ヶ月。
この時、香山栄衛門宅かどうか不明。既に栄衛門が死亡している。
岡田井蔵の姉。また中島とは従兄妹でもある。(中島三郎之助の父
(清司)の弟=岡田定十郎の子)
4
きた
継母
安:?歳
父の再婚相手。土生(はぶ)玄昌【幕府奥医師】の養妹
5
実母
?歳
■樋田(とだ)仲衛門(当時、三郎之助の父清司と同格(浦賀奉行支配組与力))の娘。父清司43歳=三郎之助10歳の時、突如父は彼女を離縁。
■彼女は離婚後、牧野亀右衛門(松平和泉守藩≒西尾藩主松平乗全(のりやす))の家臣に再婚する。その子が「 かね
*
*
長女
*
早世
*
*
長男
*
早世
6
お順:養女
次女
安:12歳
明:26歳
子はもう、できないかもと予測して5歳で養女として迎える。
元、典医の宮地高里と結婚、明治36年、60歳で死亡。
7
恒(つね)太郎
=永保
1848-1869
次男
安:8歳
明:22歳
一般に長男とされる。出世以後早世せず、やっと育った子。
文久3年12月,無禄少年出仕状態の時、家茂警備で報奨金貰う。
慶応元年12/2、17歳で与力見習を拝命。給料は与力の約半分。
明治2年、英次郎から母への手紙には、1月兄の恒太郎は腫れ物の為、
船を降りて療養中だが、大病ではないので安心せよとある。
8
英次郎=永省

英=ふさ≒房
(1851-1869)
三男
安:5歳
明:19歳
一般に次男とされる。清司が71歳で辞職の際、跡の番代わりとして8歳で与力を拝命。この場合、書面上の19歳が官年であり、実年と大幅に異なるが、この時代珍しくない。実際は世話役=「添え番」がつく。彼は15歳で「添え番」無の独立。中島本人と父清司双方現役時代が続いた為。仕来り上、まだ親と住みたい年だというのに下僕に支えられ一軒役宅に移住。本人が参戦希する前に中島は当年1858家督相続
9
お鐺(とう)
三女
0歳
明:15歳
榎本の世話で、内閣書記官長:太田雄之進と結婚。明治16/4/2に
29歳で死亡。
10
*
四女
*
死産
11
*
四男
*
夭折
12
お六
五女
安:*
明:7歳
安政2年ではまだ生まれていない
明治9年木戸孝允のもとに現れた錫より依頼され引取られる。
しかし、木戸本人が明治10/5/26暗殺された為、母の元に帰り、
元同心の臼井藤五郎の子、藤一郎に嫁いだが、病気で再帰宅。明治18年、
23歳で死亡。
13
与曾八
生:慶応4/2/19=1868/3/12
昭和4年62歳で
死亡。
五男
安:*
明:2歳
安政2年ではまだ生まれていない。末っ子=三郎助48才の遺作
母と姉のお鐺が死んだ明治16年、やっと16歳。この時、榎本の庇護を
受けている。将来立派な軍人になり検索容易の為詳細略。
老いて横死寸前の小柴長之助(土方歳三の隠れ右腕)を助けた。
三郎之助亡き後、佐々倉桐太郎の力で、無事中島家相続。
静岡藩三等勤番組となる。→海軍機関中将となり軍人として名高い。
中島与曾八 中島与曾八2
14
おかね
という名の女性
中島の
種違い
同腹妹
安:*
手紙に稀に登場:中島を生んだ実母が離婚の後、再婚先牧野家で出産,
但し、恒太郎の資料では、彼は「養姉」と呼んでいる。
帝艦の間松平甲斐守(大和郡山藩主)家来の高田桂三に嫁ぐが、夫が死去。中島引取る。その後、再び再婚の形跡有り。
明治11/6/23:46歳で死去。
15
三河吉田藩家臣の穂積喜左衛門に嫁いだ。
気になる『濃い血』隠れ蓑=関家の血

  • 隠れん坊!: 関文衛門 の血、大活躍
    • 関文衛門:
      • 書院番与力:死亡;享和3年亥の年8月16日(1803/10/1)
      • 中島三郎助の父方祖父
関文衛門の子
  • 長男:中島清司:三郎之助_永胤の父:中島家に養子IN:
  • 次男: 岡田定十郎 (元、西丸一番組御徒):岡田家に養子IN:中島清司は、つまり、実の兄。
    • 定十郎本人の養子について:妻が香山家から嫁いでいることから、本人は養子婿でなく養子
      ・・この家も、つまり岡田の血というより、関家+香山家の血となる。
    • 定十郎の長男:岡田増太郎:嘉永元年に浦賀奉行所の与力となる。
    • 定十郎の長女:中島錫:中島三郎之助の妻
    • 定十郎の四男:岡田井蔵
    • 定十郎の三女:岡田きん子:香山栄左衛門の妻
      ■関の苗字は隠れん坊してるが、こんなにたくさん「中島お固めブレーン」に混入。
    • 定十郎の妻:は香山家から嫁いでいる。
    • 岡田家について:参考:神道無念流の斉藤弥九郎(江川の手代兼)の先代は岡田十松
中島三郎助と妻の錫(寿々とも書く)
従兄妹同士の結婚
  • 上記のとおり、三郎之助_永胤は、父の弟の娘と結婚したことになる。=いとこ同士。
    どっちも、隠れ蓑の関の血を引いている。
  • だから「似た者夫婦」
    ■中島本人の末っ子、与曾八の妻=芳子の話では、妻の錫は、明るくてよく冗談をいう人
    (苦労人のわりには冗談を言うタイプ)とある。
    ■一方中島三郎之助_永胤本人:
    若者の前で冗談を言ったり、ペリー黒船事件が落着した後は、招待された米艦上、鏡の前で
    外人の帽子を被ってひょうきんポーズをやったり見かけによらず、おもろいタイプ。
    また、高松凌雲の話でも、こうある。「中島さんは強い人でしたが、よく冗談ばかり言って
    人を笑わせました。」
    ■従兄妹同士の結婚であることから、中島本人以上に、その子、恒太郎達は、さらに
    関家の血が濃くなったことになる。


中島三郎助の親戚,浦賀仲間,友達&部下
  1. 岡田井蔵
    従兄弟&妻の弟:岡田井蔵(注:オカダセイゾウです。土佐の人斬り以蔵、こと岡田以蔵でない。
    • この人も、中島三郎之助と同様に、長崎伝習所で学んでいる。真下の定十郎の四男
  2. 岡田定十郎
    • 西の丸一番組徒。中島三郎之助の妻_錫(長女)と、岡田井蔵(四男)と、香山栄左衛門の
      妻:きん子(三女)の父。この人は養子INしているので、元の苗字は関であり、関家から
      中島家に養子INした三郎之助の父、清司は、つまり、実の兄。
  3. 香山栄左衛門
    義弟:香山栄左衛門・・ペリー来航時、初日は中島三郎之助が対応。翌日は中島に引っ張られて、
    • 浦賀奉行と称して【=ハッタリ!:中島本人も浦賀副奉行と大ウソ!で対応】交渉対応。
      銘コンビ。中島は前日、ジロジロ視察した為外人に評判悪かった。
      しかし、ここでコンビのチームワーク良好。香山栄左衛門は外人に好評。日本人は思っていたより
      知識が深い。地球儀を見せると、即座に日本を指差し、次の瞬間、ワシントンを指した。「うむ、
      思ったよりも賢い、まずいな」と思う間もなく、「ええ、ところでパナマ運河の開通も近々で
      たのもしいことですなァ」ときたもんだ。外人さんチーム思わず、ゲロッ!噛み殺したらしい。
      中島は香山を立てるために己を青鬼状態にセッティングしている。嫌われ役を演じ、余計な
      交渉事になった場合、わざと極論を吐いて、それを諫めて温和に調整する優れた人物係に香山を
      セットしたシナリオ。
  4. 穂積喜左衛門 :穂積清軒と穂積寅九郎の父。江戸詰の家臣で用人筆頭。
  5. 穂積清軒 (天保7年生まれ)江戸で生まれる。
    甥:穂積清軒【=清七郎=英哲】:三河吉田藩士
    ・・中島三郎之助の姉の子、洋学者、幕府軍艦操練所の翻訳方【中島本人の紹介で就任】
    (吉田藩=後の豊橋藩)
    ■佐幕派である彼は、彰義隊にも吉田藩士が居ることから関与を追及され、藩による処罰を受ける。
  6. 穂積寅九郎
    甥:穂積寅九郎・・上記、穂積清軒の弟。中島家の厄介になった時期もある。
  7. 佐々倉桐太郎 ・・(この人の養父:覚蔵に三郎之助は集最流砲術を学ぶ
    友(後輩):佐々倉桐太郎・・浦賀奉行所組与力、中島の浦賀与力仲間の後輩格(中島より9歳
    若い、息子の松太郎は函館戦争に中島隊として参戦するが、無事生還。
    • 箱館戦争後、戦死した先輩、中島三郎之助の無念を汲み、中島家存続に尽力する。
      • 中島の末子、与曽八を静岡藩三等勤番士に採用させる。
      • 中島家を存続させた。
    • 桐太郎は中島と共に函館参戦したかったが肺病。そこで倅の松太郎を中島に託した。
    • 御家人の結城家から浦賀奉行所組与力佐々倉家の養子IN
    • 弘化3年(1846年)のアメリカ使節ビッドル、嘉永6年(1853年)のペリー来航時応接掛
    • 嘉永7年(1854年)に鳳凰丸【=中島の作品の軍艦】建造掛、鳳凰丸の副将
    • 安政2年(1855年)長崎海軍伝習所第一期生、航海術・測量担当。
      • 松岡盤吉らと共に小笠原諸島の測量。軍艦操練所教授方
    • 万延元年(1860年)咸臨丸運用方兼砲術方として渡米。(=勝海舟の大冒険の時同行)
      赤松大三郎同様に砲術にも才気有。サンフランシスコ入港時、米海軍から21発の礼砲を受け
      マナーとして返礼砲の必要性を瞬時に感じ取り、日本人としては初の体験だったが、超若手
      ながらキレ者の赤松を呼びれ、二人で返礼砲を放つ。大成功!
  8. 佐々倉松太郎
    友の子:佐々倉松太郎・・中島本人と同様、浦賀奉行所組与力仲間の上記、佐々倉桐太郎の息子。
    • 中島親子と共に箱館戦争参戦。生還。
      父桐太郎は倅を軍艦役で送り込んだはずだが、見当たらない。探したところ、箱館では、
      江差勤方、江差詰書記方として名がある。
  9. 下岡蓮杖 :友・写真師・下田生まれ
    • もともと、1842年幕府の命令で中島達が行っていた台場工事の時、廻船問屋から
      足軽として雇われて来た男として、登場した。日本画も学んでいる。ハリスの通訳、
      ヒュースケンや写真家ウンシンの影響で写真家になる。中島親子の貴重な写真もある。
  10. 春山弁蔵
    友、浦賀同心:中島は与力で春山は同心。しかし身分に関係なく、友の立場。共に長崎伝習所で
    学ぶ。造船分野に才能有。咸臨丸の悲劇の犠牲者。
  11. 開陽で出陣する時、残した家族
    • 妻_錫,母_きた,次女_順,三女_とう,五女_お六,末っ子_与曾八(詳細上記表内)

■中島三郎之助の良き友、香山家
  • 香山栄左衛門:岡田定十郎の三女:きん子を妻として娶る。中島の妻はきん子の姉=錫
  • 香山栄左衛門の父=助七郎

■中島三郎之助の良き友、佐々倉家
  • 佐々倉桐太郎:浦賀与力仲間、伝習所仲間
  • 佐々倉松太郎
    • 佐々倉桐太郎の子であると共に、中島本人の後輩。
    • 「海軍方下士官」江差詰書記方。 降伏後青森蓮心寺に収容
    • 生きて帰ったために父に叱られる。手討&斬るとまで言われた。
      肺病の父が中島に同行できず、代理で蝦夷へ行った以上、中島と生死を
      共にしなかったことが父の怒りの原因。


泣ける!父らしい中島のひとこま
  • (英次郎編) 父から贈った特注の銘刀
    • 1865年、勝海舟が罷免され、小栗がフランス式軍隊の編成と横須賀に製鉄所を創設するなど
      奔走中。この時、中島は江戸へ召集されている。その時、浦賀の英次郎への手紙。
      父三郎之助45歳、英次郎15歳。一人前の恒太郎と異なり、やはり下の子は
      可愛くて心配な父の心。
  • (恒太郎編)
    • 父中島は、彼の嫁探しに必死!!
      実は持病の喘息が悪化。本人は己に死の予感。後始末を焦った。
    • しかし、運命は・・・ 悲劇の恒太郎
    • 慶応2年、父三郎之助46歳、恒太郎19歳。
    • 浦賀奉行所与力_太田雄之丞の娘(15歳)の話をまとめた。
      結婚が許されないと間に合わないので、客分引取り=同居する許婚状態でいいから、
      どうにか年内に片付けようと必死だった。


中島の疾病退職に不治の予感:思わず涙
蝦夷に向かった浦賀勢


幕府財政は逼迫。中島は妻への手紙で、娘達は、下女奉公に出す覚悟もしなさい
・・・とも書いている。
中島は、もう完全に引退のつもりだったのだが・・・慶応3年5/12:軍艦組一等出役命令到着。
中島と同様に、呼び出しを食らったのは、肺病療養中の佐々倉桐太郎。彼も再出仕。

■浦賀は新政府に引き渡され、家族は駿府落ち、男衆はまずは江戸結集の上、帰農か新出仕など
判断を迫られる。
■中島の案に同行した者達(赤字=明らかに死んだ人、緑字=明らかに生きた人
■☆印は千代台終焉に居たとされる人物。計10名+中島本人=11人
■マルランはブリュネの呼びかけに応じず、暫し生死を共にする覚悟で居残っていた様子有り。

  1. 開陽組:
    中島三郎助
  2. 中島英次郎
  3. 浅夷捷次郎(与力:長崎伝
    習所仲間:蒸気機関
  4. 浅夷正太郎
    回天蒸気機関担当
    5/7:回天上砲撃受弾時即死
  5. 柴田伸助 :浦賀同心:年配
  6. 近藤彦吉 :16歳
    近藤良次の子か?
  7. 平田銑太(吉)郎
    (=千太郎)
  8. 直井友之助
    降伏後青森蓮心寺に収容
    「海軍方下士官」
    直井大八郎の子
  9. 福西(田)脩(周)太郎
    :16歳、(中島と血縁筋)
    福西源兵衛の親戚
    福西道助の子
  10. 米山鰐蔵
    もと、開陽の水夫。英次郎
    の僕になり、中島に米山姓
    を賜り士分を貰ったが、明
    治の世でそれが反映された
    か不明。 降伏後青森蓮心寺
    に収容:海軍方_鰐蔵とあり、
    姓は無視されている。
    十代ではなさそうだ。蝦夷
    錦にある表現では、「中島、
    柴田、米山他総勢・・」
    主たる者一覧に登場する。
  11. 佐々倉松太郎
    浦賀の中島本人の後輩、
    浦賀与力仲間の佐々倉桐太
    郎の子、降伏後青森蓮心寺
    に収容「海軍方下士官」江
    差詰書記方
  12. 朝夷(朝比奈)三郎
    15歳、軍艦役に朝夷健次郎
    がいる。若年につき総裁附
    のところ、中島隊に合流。
    (中島と血縁筋)


  1. 回天組:
    渡辺忻三:
    浅夷権十郎(与力)の次男
  2. 咸臨丸組
    岩田平作:艦長→病気のた
    め急に降りる。→小林文次
    郎が艦長となる。
  3. 小林文次郎:艦長
  4. 春山弁蔵 :副艦長
  5. 春山鉱平 :弁蔵の弟、
    陸軍士官
  6. 美加保丸組
    中村時太郎
  7. 平田?
    10/18宮古~妻への手紙に
    この船で遭難した平田は
    無事なのか心配だとある。
    右枠の平田銑太郎以外か?
  8. 蟠龍組
    中島恒太郎

  9. 船名不明組:
    中川久太郎(砲兵
    この人物は病気で終焉時
    居なかった可能性有。蝦夷錦
    5/6病気・・今日御暇仰せ付
    けられ候
  10. 柴田真一郎:遊撃隊。
    伸助の倅。長崎伝習所生だ
    が陸軍

  1. 佐々木直次(三)郎
    ・・江差詰書記方
  2. 他に,海軍所属の卒の部
    (当時苗字を与えられてい
    なかった身分の人含)にあ
    る人の中にも当該者がいる
    ようです。
  3. 吉之助(通称)
    謎の人物:中島家の僕(中
    島の指示で手紙を持って事
    前に逃走)
  4. 家来_庄蔵 :謎の人物
    中島の手紙に登場。
    榎本軍退職許可:家族へ手
    紙を持ってゆくとある。
    蝦夷で家来になった様子
    元水夫か?

  5. 他にも中島隊と思われる
    謎の人物

    中垣?って誰?
    4/16蝦夷錦
    柴田、中垣、平田、福西
    右四人、場所看置き・・・
    とある。



  6. 陸軍系の浦賀勢の子息
    小笠原新太郎
    (越後辺で戦死)
    小笠原甫三郎(与力)の子
  7. 高橋磯次郎
    (越後辺で戦死)
  8. 和田伝兵衛
    無事宮古で回天に合流
    (春日左衛門隊に在)
    五稜郭終焉で逃走生死不明
箱館戦争後生きて
捕虜になった浦賀勢
気になる人物とMEMO

生き残った者の末
「青森蓮心寺、蓮華寺賊名前」
に記載有り。
  1. 佐々倉松太郎:蓮心寺
  2. 直井友之助:蓮心寺
  3. 平田千太郎:蓮心寺
    本当は:銑太郎
  4. 鰐蔵
蓮心寺で再会
  1. 柴田真一郎
蓮華寺で再会
  1. 浅夷捷次郎(与力
ところが、この後、なんと、
彼らは幕臣系に値することから、
諸藩の者と異なり、抑留後、国へ
は返してもらえず、冬の箱館へ
逆戻りさせられる。

謎の手紙と人物_家来_庄蔵

明治2年4月7日の中島本人から妻錫への手紙
・・・殉死は免れぬ状況である旨がまず記載されている。

このたび、 家来_庄蔵 と申す者、寄府願い出候間、同人にこの一書
ならびに銅造りの短刀ほか錦の達付も相贈り申し候。これは、
与曾八成長ののち、我らの忠君を継ぎ、徳川家の大恩を忘れぬよう
御申し付けくださるべく候。

※一般に、中島の手紙を持って、柳川熊吉の部下にガードされながら
逃走して中島家に行った者は、吉之助といわれるが謎の人物。

また、家来_庄蔵と申す者・・の表現からすると、錫が従前より
知っている人物ではなさそうだ。十代から一人屋敷を構えた
英次郎には確かに下僕は居たはずだが、結びつく要素はない。
元水夫ではないか?こんな名前、たしか見たような気もする。

陣中日記


陣中日記 _中島以外の隊員の手によるもの。筆者不明。
何者かによって、或る日、中島家に届いたとされる。(3/26~5/11迄の短期間日記である。)

陣中日記最後の記事

5/10
一)明日11日、賊軍海陸より襲来、箱函館へ迫り候よし、外国人より、通達これあり候につき、
一)同覚悟の儀には候えども、なお守衛心を用い候よう、奉行衆よりの沙汰、
鈴木始三郎 より申し来たり候。

宛先

「相洲西 浦賀、光田屋源治郎 」「駿洲清水湊、光田屋与曾八様」
送り主名前「箱館、孤(=孤山堂無外と想定される)」

この頃家族は光田屋の屋号に隠れ、中島が世話をした商人に保護されている。
迷惑がかからないように約束の呼び名を使用。
商人とは:廻船問屋:大黒屋儀兵衛=臼井儀兵衛・辰右衛門父子

涙の報恩殉死_柴田伸助

柴田伸助について:
■千代ヶ丘で、中島隊全滅後、一人生き残った老人。折角生き残ったのに、戦後状況確認の為
やってきた敵の偵察隊のうち二人(津軽一人+長州の喇叭手)を銃殺して、自ら銃で自殺した人。

咲けよ!夢花_浦賀同心:柴田伸助

田島応親の回顧談

ブリュネと中島
■ブリュネが千代ヶ丘で、砲や施設を視察。問題点指摘。一般に中島が短気を起こして怒った
ように伝えられるが、そうではないという。但しこの壊れた砲は、己の最後の瞬間に使うから
捨てるわけにいかない旨を語った。ブリュネは中島と喧嘩などしてない。尊重していた。

ブリュネと中島三郎助

林董の回顧談

恭順説を中島がひたすら唱える。榎本が曰く。しからば老兄はどうするおつもりか?
私はもとより、津軽陣屋を死場所としてるからそれはそれでよい。恭順説はあくまで、
私以外の者のためだ。
・・・
その翌晩であります。ついに台場は落ちてしまったが、生死に頓着なく、言行一致したのは
あの人であります。

※台場とは:林達が籠もっていた弁天台場。中島は翌朝早朝、烈士を遂げた。

大鳥圭介の著す千代台終焉
・・・
この時、大砲頭中島三郎助父子、ならびに柴田伸介、そのほか16~17の少年数名、額兵隊大砲
士官某、士官隊の兵士両3名、都合13~4名、枕を並べて戦没せり

嵐吹く夕べの五部咲き桜と蕾桜,中島隊の少年達

少年時代の中島三郎助に影響を与えた「心の英雄伝説」とは

三浦義明:衣笠城主: (=源頼朝に殉じて、孤軍奮闘して戦死した人

中島三郎之助に関与した気になる人物

6_岡田井蔵、7_香山栄左衛門、8_穂積清軒、9_穂積寅九郎、
10_佐々倉桐太郎、11_佐々倉松太郎・・・他は上記リンク先

  • 佐々倉覚蔵:集最流砲術の師匠として関与:佐々倉桐太郎の養父
  • 佐藤謙三郎:朱子学の師匠として関与:13歳の時、本人はこの学問を中絶したため縁浅いか?
  • 下曽根金三郎 (信敦):高島流砲術師匠として関与
  • 松村啓次:中島本人15歳の時、与力見習いとして召抱えた当時の松村組頭。
  • 堀達之助:中島本人の父、清司時代~三郎之助時代の通詞。長崎生まれの阿蘭陀通詞の家生まれ。
  • 福西源兵衛:浦賀奉行所香山組の同心頭:函館戦争で中島と共に散華した少年福西の父か?
  • 近藤良次:浦賀奉行所応接掛与力:函館戦争で中島と共に散華した少年近藤の父か?
  • 立石得十郎:中島本人が米艦に立ち向かう際通詞の一人。
  • ジョン(中浜)万次郎:土佐の漂流民から帰国。高知の教授館に出仕。真っ先にスカウトしたのは
    江川英龍。手付として採用。伊豆で試作した洋艦船の操術は、彼が指導した可能性高いとされる。
  • ペリー事件の後、浦賀に呼び寄せられたメンバー
    {平山兼二郎(徒目付),吉岡元平(小人目付),名村五八郎(阿蘭陀小通詞),
    森山栄之助(阿蘭陀大通詞):英語達者:ウィリアムズ曰くに他の通詞不要な位達者,
  • ウィリアムズ:ペリー随行の中国語通詞:随行記を著す。
  • 明治2年の中島恒太郎の手紙に登場する「松本の世話方」
  • 同上:「横浜長谷与兵衛」,三郎之助の手紙にも登場「せんたくや与兵衛」
    中島の家族が住む清水に出入り可能な商人らしき人物。
  • 孤山堂無外:箱館で再会した中島の俳人仲間(日記や、手紙の受け渡しなどで尽力している
    手紙では、この地の宗匠と書かれている。
  • 家来_庄蔵:手紙持って行った人物

時代背景と親子の軌跡をたどる年表はこちら 【中島三郎之助えとせとら】_No.1
中島親子の歌


■1869(明治2)終焉の覚悟、千代ヶ岡の親子の詩

中島三郎之助

一新の王事、朝儀みだす。北戦西争してあやふし
只見よ関東高士の略。無道を誅して君を立てる時を
  • 中島恒太郎
    • 力尽きし南軍所営無し、帰思頼りに切なる、
      いかんぞ、情に関わらん
      義旗連戦して中興を謀る。都下明年は花城に満たむ
  • 中島英次郎
    • 万事零落、平生思うべからず
      只余れるは酒中の趣、減ぜらるは少年時
  • 中島三郎之助
    • あらし吹くゆうべの花ぞめでたけれ
      ちらで過ぐべき世にしあらねば

      いよいよ幕軍敗色濃厚の5月、子を預かる浦賀の同心に、親への詫びとして送った句。
      同時に家にも送っているが、家にははっきりと「死」の文字を書いてるに関わらず、流石に他人の家に
      は露骨に「多分お子さんも死ぬ」とは書いてない。(福西は死亡。直井は生存。)
      ■福西道助: 福西(田)脩(周)太郎 の父、■直井大八郎: 直井友之助 の父

    • うつせみのからのころもをぬぎすてて
      名をやのこさむ千代ヶ岡辺に

ほととぎす、われも、血をはく思いかな


■中島三郎助19歳時の詩・・「天保10年発行俳誌:おそざくら」

この俳誌には、合計26句が掲載されている。

  • 花に月 しばし余念は なかりけり
  • 水際は わけて色よき もみぢかな
  • 都合よき 雨のはしりや 田植詩
  • 朝の蝶 松の雫を こぼしけり 

  • 若者らしい感性が絵画のように美しい色彩を捉え、生の煌きが鮮やか。俳誌名は偶然ながら、
    おそざくら。北の大地に咲いて散ったおそざくらに終焉を見る己の結末など、この時、
    知るよしもない。

  • また、上のコーナーにおける子、恒太郎と英次郎が不憫でしかたない。
    父が19歳の時、躍動感に満ちて、生命の輝きを謳った同じ年頃に、己の死を謳う宿命。

終焉時の恒太郎から母への手紙

女ばかりで大変でしょうね。いつも気に掛かって胸が痛みます。
されど、どうか、与曾八を立派な侍に育てて、どうぞ彼を頼りに、お母様、達者で
お過ごしくださいませ。おばあちゃまは、さぞ嘆かれることでしょうが、宜しくお伝え下さい。
前世の因果、罪障消滅と御あきらめくださるべく候。

若妻を失った彼は、年齢以上に大人の視野がある。
死に至る己よりも、失う悲しみを背負う人々への気持ちが解るようだ。暖かな思いやりと共に、
弟、与曾八に対して、弟を超越して父のような思いが込められている。


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