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会津藩_梶原平馬と山川家親族迷路,資料編3
梶原平馬と山川浩兄弟姉妹家について,親族迷路,会津家老「梶原平馬」根室の墓石SERIES補足頁_No.3,
TOP
(犬猫サイト)<
幕末WITH_LOVE玄関
<
幕末引き摺る明治大正昭和の話
会津家老「梶原平馬」_根室の墓石SERIES_補足頁_No.3
梶原平馬SERIES:
No.1
<
No.2
<
No.3
・・・<
考察おまとめ表
<
考察おまとめ表2
<
考察おまとめ表3
(現在頁)
■梶原平馬 、■山川双葉(前妻)、■水野貞(後妻)、■水野文雄(貞の子)
山川浩ファミリーと、兄弟&「親族血縁絡み糸」
親戚兄弟の親族とのさらなる血縁、養子関係、親族血縁絡み糸
■
山川兵衛重英:人物について
【会津藩,山川浩の祖父】
▼「
祖父の重英」による建白「種痘」
が絡みます。
(下側の「山川兄弟表」内に追記有り)
■
山川家のルーツ&家系について
■
この家系の医学、衛生&栄養、生物への関心と能力
・・▲
山川浩の本各種コーナー有
■「山川戈登(山川浩の養子:天才)」の素因が歴代血族の素因に由来。
・・(真上バナーからご覧いただけます。戈登については、SERIES後半側に集中)
■
山川浩の妻について
・●前妻:
旧姓北原登勢(=山川登勢)
:会津戦争時、篭城中、砲弾に被爆死。享年19歳。
・・
この時、砲弾を撃ち込んでいた張本人が、後に末妹、咲子(大山捨松)の夫となる大山巌(薩摩藩)
・●後妻:旧姓池谷仲(=山川 仲:ナカとも表記される。)
■
山川浩の養子について
・●
山川戈登
(ゴルドンと読む):妹の常盤が産んだ子。養子として貰い受ける。
・・生物学の能力を十代にして開花させた大天才だったが、若くして死亡。
・・(
山川戈登その1
~
その3おまとめ表
・・この頁内にその実父=
山川徳治の「徳力徳治」
=常盤の婿)についても略表有り。
・●
洸
:(この人物謎)
・・桜井懋による「山川浩」によると、「子、洸、不肖なり。」
ちなみに、桜井懋とは、山川浩の姉の「三和」と夫「桜井弥一右衛門政衛」の四男。
桜井弥一右衛門政衛は、根室の未開地在住の中死亡。後、生活が苦しい未亡人の「三和」
は子を山川兄弟に分散して養育依頼しており、その内の一人、三男の胖(=懋の兄)は、
▼真下項目の桜井胖。
(関連:桜井弥一右衛門政衛についてはこちらもご参照。
・・
考察おまとめ表
、
考察おまとめ表2
桜井弥一右衛門政衛桜井弥一右衛門政衛の子については、
▼現在項目下側の三和欄、操欄にも表記有り
桜井胖:上記桜井懋の兄。病死。(懋は四男、胖は三男)
【注】:桜井胖は養子ではないが、自宅で暫し育てたが、死亡した。姉「三和」の子。
・・
桜井胖は根室時代の梶原平馬を知っていたはず。小学校は平馬の子「文雄」と同じ花咲小学校。
■
山川浩の兄弟姉妹について
山川浩の兄弟姉妹について
■父:山川重英尚江:勘定奉行:1200石:万延元年(1860)死亡,■母:山川唐衣(=艶、勝聖院):【1817-1889】,
■父方祖父:山川兵衛重英:天明3or4年(1783)~明治2年(1869):享年86歳(倅の尚江既死亡につき会津戦争時活躍)
祖父
山川兵衛重英
上記のとおり、父の尚江既死亡につき、祖父ながらこの人物が山川兄弟への影響多大。
特に浩は祖父に育てられ期間長い。尚、この重英は、会津降伏の翌年明治2年まで
存命。斗南ベビー藩主に任命された容大(明治2年6月3日生)の補導役を任命されるが、
斗南行きを前に重英は、死亡。重英は、1868年会津戦争時、既に86歳の為当然隠居して
いたが、藩命で復職。隠居組といえど要。建白したり、積極的に動いている。
補導役を任命された訳も、藩主家存続に係る先見の目が今頃評価されたともいえる。
かつて彼は、藩主のお家に種を絶やすことなく円滑に運ぶ為には、正室の健康な体と
早期出産を第一と考え、容保の亡き妻に種痘建白していた。種痘の安全性を立証する為に、
自分の孫「操」に種痘を。しかしこの建白は、一蹴されて、案の定、敏姫は疱瘡に罹り
後遺症、そして1861年死亡。側室にも子ができる様子もない。その為、滑り込みセーフで
容大が生まれなければ存続させるに相応しい子は居なかった。よって、重英は、老齢
ながら、戊辰のキーマンの一人。 この話と人物については、まずは
こちらの頁
から。
山川兄弟
1
姉
二葉
1844~ 1909
明治6(1873)年上京。明治10(1877)年から教師として教鞭を執る。
現在のシリーズ初めから最後まで全部関連。とりあえず
考察おまとめ表1
(1844/9/30(弘化元年)8/19)~ 1909(明治42)11/14)
2
本人
山川浩
1845~ 1898
上のバナーからどうぞ。略。
(1845/12/4日(弘化2/11/6) - 1898/(明治31)2/4)
3
妹
ミワ:三和
夫の方針が異なる。函館の軌跡の後、同じ北海道といえ、極み付けの道東。
未開の地、草深い山中)に暮らす。しかし、夫も教育者としてのその姿をやがて
表現化。実は北海道根室に居る。梶原平馬の新夫婦と根室でこのとおり交渉有り
。
■ミワの夫:桜井弥一右衛門政衛は表向きは長男に家督を譲り、この名は暫し
長男の厄介その一人に扮して表に出ないが、暫し後、教育者として本人の名も出現
する。(私的には今後、平馬情報発掘のキーマンになるだろうと期待。)
それでも、ミワ自身も、夫が開始した学校で女子に対して、裁縫など指導する教師。
4
妹
操
1868年17歳
1851年生位
小出光照に嫁ぐ。夫の小出光照とは、梶原平馬(姉の二葉の夫)と共に、戊辰時、
の
江戸残留組
。その上、会津が降伏した後、謹慎中密かに脱走して藩主助命嘆願に
動いた男。この時、その第二グループに活躍したのは、山川健次郎。
(
この話
:
この頁
から、または下の図リンク先からご参照下さい。)
その後、光照は佐賀の乱にて戦死。操は夫死亡後も活躍。ロシア留学。露語、
仏語習得。昭憲皇太后(明治天皇の皇后)通訳勤務。
■操は幾つかの談話を残しています。例えば、実は二葉の子「景清」は篭城して
なかったなど、謎紐解く題材ヒントを与えてくれてます。
(下側の六角形図の真下バナーから色々読み取れます。)
■操は同じ未亡人でも、姉のミワより生活力があったため、姉の子を養育。
・姉ミワ&その夫桜井の二女「八重」を養女とする。
・姉ミワ&その夫桜井の三女「松枝」は、操宅から小学校へ通う。(←正式養女か否か?
■1853年、祖父の重英による「種痘の安全性」立証題材の一人として種痘投与されている。
5
弟
健次郎
1854~ 1931
いち早く留学した経緯
●戊辰時は少年ながら、斬首覚悟の謹慎場脱走の上、藩主助命嘆願。詳しくは
上の図
リンク先。僧の善順に導かれ、奥平謙輔(長州藩士)に預けられる。
そのまま、奥平の指示で佐渡、及び新発田に滞在。(恰も雲隠れ状態)
●明治2年5月、長州藩の屋敷に移動して、扱いは奥平の書生となる。
●明治4(1871)年:アメリカへの国費留学生として、開拓使の黒田清隆に
追従して渡米。▼
これは、第一に奥平謙輔の助力。第二は北海道開拓使の黒田清隆。
会津はかつて北方蝦夷警備経験有りの藩にて、兄の浩も露西亜渡航暦も
知られ、適任である旨も認められたようだ。そして第三、
上記図面
に名が
見える善順も重要キーマン。善順は、かつて、長州藩が窮地の時、追い詰め
られた藩士達の命を救った「長州にとって命の恩人」。奥平謙輔に対する戊辰時
上記一連の健次郎脱走劇は、そもそも善順によって、導かれている。長州は、
これを疎かにするわけにはいかない。尚、善順も翌年明治5年、北海道へ移住。
生没:嘉永7年閏7月17日(1854/9/9) - 1931(昭和6)6/26)
6
妹
常盤
山川徳治(旧姓徳力徳治)を養子婿として結婚。
山川徳治は暦年司法省に活躍。各地で検事正を経て検事長。晩年は
教育会長及
学務委員
。戈登(ゴルドンと読む。浩の養子になるが若くして死亡)の実父。
7
妹
咲子
1860~1919
咲子(山川捨松=大山捨松)
■会津降伏後、幼少であることから、斗南へ行かず、箱館のフランス人の家に
預けられる。その段取りに
沢辺琢磨(土佐藩士。坂本龍馬の親戚)
が関わったといわれる。
■明治6(1873)年、岩倉使節女子留学にてアメリカ在住10年。
■帰国後、大山巌(元薩摩藩士)の妻となる。
(関連:
山川捨松が語った悲壮:究極兄嫁の「斬首の依頼」
生没:安政7/2/24(1860/3/16)- 大正8(1919)2/18
健次郎と小出光照:行動とその後の人生に影響
▼
二葉と操に係る件
▼
山川浩の母「唐衣」から見る「西郷家」系絡み糸
関連:
戊辰会津総自刃等に係る頁
:西郷頼母近悳一家21人事件と、西郷刑部一家&芥川家9人事件
「山川唐衣(勝聖院)」西郷一族の血
・◇山川唐衣は、西郷十郎右衛門近登之の長女。飯沼貞吉の母(文子)は唐衣の妹。
・◇西郷寧太郎の父「重治」も唐衣の兄弟(近登之の長男・のはずだが。)
■
(考察その1)
_関連:
No.8(「梶原平馬」根室の墓石SERIES)
山川兄弟と白虎隊の飯沼貞吉、及び、一族自刃死亡の西郷頼母家近悳の子達は従兄弟、及び親族。
・◇
飯沼貞吉
の母(文子)は西郷十郎右衛門近登之の子
・◇山川兄弟の母(唐衣)は西郷十郎右衛門近登之の子・・・(文子)と(唐衣)は西郷姉妹
・◇一族自刃で死亡した西郷頼母の妻(千重子は)は、飯沼家の娘飯沼粂之進(450石)の二女
・飯沼貞吉の父(飯沼時衛)は飯沼一正・・・(千重子)と(時衛)は飯沼家の子
■
(考察その2)
「西郷寧太郎の一家の諏訪神社前一家総自刃惨事」▼
<犠牲者>
◇西郷なほ子(祖母:60歳)、◇西郷みね子(母:44歳)、◇西郷うら子(姉:21歳)、◇西郷やほ子(妻:16歳)
<この時偶然難を逃れた老婆の存在:名前と続柄不明>
自刃の為に、神社へ向う時、老婆は下男に背負われていた(老齢につき足不自由)が、死に送る事に
躊躇したらしき下男は、老婆を道端に捨てて逃走。その老婆は、這って山川唐衣の元へやってきた。
その為、これは小ミステリー。一般に、上記の西郷なほ子は寧太郎の祖母と言われるが、
こうなると、この謎の老婆の続柄如何で、変動が生じる。唐衣の母なのか、叔母なのか?
唐衣は一般的には長女と言われるが、こうなると、なほ子が実は長女か?の確率も一応考慮の対象。
(関連:
No.2(山川二葉紐解く思い出人形SERIES)
■
(考察その3)
「西郷刑部(勇左衛門近潔の長男)一家の自刃と、後日本人の死亡」
西郷刑部(700石)家族5人+北原老女+芥川家3人=総合9人。 8月23日自邸総自刃:墓_泉福寺
母は西郷刑部の家族(母,妻,娘,倅,妹)
同時に:北原采女(2800石)の母,芥川家女性3人も血族にて当時自刃
尚、西郷勇左衛門(1812~1896):85歳まで生きた人物)の名は各種。
・源之助,文吾,元治元年(1864)初に勇左衛門と称される。
西郷刑部本人(勇左衛門伜:朱雀寄合二番隊:700石:朱雀寄合二番中隊頭)は遅れて戦死。
9月15日一ノ堰で負傷の上、同17日花坂村で死亡。30歳。
(関連:
戊辰会津:総自刃等について
▲以上は会津内西郷絡み一例(支族含む)
会津以外の遠方「西郷」昔のルーツ遠縁絡み
戦国時代のそのまた昔まで遡ると、九州の鹿児島西郷も、会津西郷も、延々遠い血族。
実力はあれど、鹿児島で家格が低い西郷と、会津ではプレミアムクラスの会津西郷。
西郷頼母が、西郷隆盛に大分保護されたのは、どうみてもほとんど明確。明治の頼母の動きには、
いちいち、隆盛の煙。
ところで、山川浩の母、唐衣は、西郷一族の娘。
梶原平馬の実家「内藤」家側から見る絡み糸
梶原平馬景武(悌彦)の実家は「内藤」。梶原に養子IN。
現在頁下側枠の「内藤三兄弟」もご覧下さい。
■はっきりしている内藤の親族一族
:(内藤、上田、武川、手代木)
■山川と梶原とその婚姻絡み
内藤家に絡む寺と、僧についてはこちら
。
梶原の親族、先祖の行動、お寺については、「考察おまとめ表2」のこの枠
山川二葉(平馬の妻)の妹の「操」は小出光照に嫁ぐ。
小出光照は、小出の養子。実家は篠田
小出光照は、平馬の信頼深い仲間。共に
江戸残留組
。
小出光照は、山川浩の友人でもある。
篠田と秋月も婚姻有りの親族(尚、山川も篠田と絡む)
戊辰:内藤一族の総自刃に至るカウントダウンと、絡みの僧侶の動き
会津戦争:一家自刃
まずはこちらの頁ご参照「
No.21(「梶原平馬」根室の墓石SERIES)
」
■「内藤迷路」
:並ならぬ大協力態勢を示してくれた僧&お寺があります。
そのうち二人の僧は内藤と名乗ります。なんと、僧籍を捨てて会津の為に戦う僧も居れば、
僧籍のまま密偵をこなしてくれた人、苗字は内藤ではないですが、強烈に頑張ってくれた僧も。
最低でも3人居ます。もう一人、はっきり見えませんが、やはり居ます。会津の為なら戦う!
現在立証されていませんが、なんらかの「内藤迷路」
・・・<この話、頭こんがらがりますから、まずは、こちらの頁>
▼
内藤が絡むながら判然としない「内藤迷路ミステリー」
梶原平馬」根室の墓石SERIES_No.21
,(表示先頁前後頁も)
梶原平馬は、梶原の養子。実家は内藤。
一番上の兄は、内藤を継承している為、内藤介右衛門近之助信節という。その下が梶原家に
養子に出た梶原平馬
景武
(悌彦)。弟は、武川信臣、23歳。つまり、この三兄弟は内藤兄弟。
会津落城に至る慶応4(1868)年の段階で、年齢は、順に、内藤介右衛門近之助信節:29歳、
梶原平馬:26歳、武川信臣、23歳=享年。
(兄と平馬は生きるが、1868年信臣は官軍に捕縛され斬首され、死亡。)
内藤源助信周:尚、源助は皆に歴代ついている。後半の二人だけ、介右衛門。
内藤家について
:
■内藤家の親戚は:内藤一族は内藤家・武川家・上田家・手代木家
■内藤家は、「内藤修理」の子孫▼
内藤源助修理が会津藩に召し抱えられた。子孫は皆「源助」を名乗り、会津藩の家老にも就任。
但し幕末後半の二人((梶原平馬
景武
(悌彦))の父と兄は、介右衛門がつく。
■
内藤家の菩提寺は泰雲寺
、
総自刃情報からさらに詳しくはこちら
梶原平馬
景武
(悌彦)の幼名は悌彦
(内藤にはよく彦がつく。梶原にはよく、悌がつく。内藤の直系長男だけは信がつく。)
戊辰時の梶原平馬といえば、いうまでもなく、今回の主人公の梶原平馬景武(悌彦)を指すが、
「梶原平馬」の名前は歴代。梶原平馬
景武
(悌彦)の他、かつての祖先にも
「梶原平馬景保」
有り。
その為、一般的に、明治以降、平馬は「
景雄
」と改名されたと言われるが、これは解りやすいから、
そういわれるだけであって、厳密には、平馬に関係なく、
「景武」が「景雄」と改名されたが正解
。
梶原平馬
景武
(悌彦)に係る「平馬」の名が彼本人に称されるまでの行程
■1862年(文久2年12月):京都へ京都守護職就任の容保に追従の上京都へ。
■1865年5月:江戸常詰若年寄就任、
■1866年:家老拝命。この時初に、梶原家の10代目として正式に「平馬」を襲名。
以降、平馬が通称化。
この時、平馬
景武
本人にとっての実家側「内藤」の兄は病床お役御免中だが、
幸い、遅れて兄も家老の座に。
以下準備中
小出光照について
詳しくは:準備中
このバナーは「操」の談話がベース。その為、小出についても、戊辰時から明治の死亡まで、
多少、彼の役割と行動概略は見えます。
平馬の弟「武川信臣」の無念が浮かばれる迄の軌跡
(関連は
No.23
前後からご覧下さい。現在枠内下側に「内藤三兄弟」表有り)
武川信臣について
武川信臣
は、梶原平馬景武(悌彦)の実弟。父の内藤介右衛門信順(可隠)の三男。
梶原平馬景武(悌彦)は、梶原家の養子である為、旧姓は内藤。
武川信臣処刑日は、明治元年10月9日。会津降伏は9月22日。降伏の後にこの様、平馬の怒りは、
明治に尾を引く。なぜか、彼の処刑の後、僅か3日後の10月12日には、大赦が下され、他の捕縛人は、
場を許され、皆と同じく謹慎に逃された者も居る。
降伏後の斬首及び曝し首の原因は、勿論判然と官軍側で表記してはいないが、皆の情報から、
まずは、薩長非難と、「桑名藩士の川村兼四郎」と偽名を使い、とことん、梶原平馬景武の弟で
ある旨認めなかった点が指摘されている。正体を見破られているにもかかわらず、
連日拷問に耐えて、最期まで認めない。尚最終は屈辱の曝し首。悲劇の犠牲者。
性格:温厚。和歌に秀でる。享年24歳。
<拷問の日々、その最中詠んだとされる詩>
君と親の重きめぐみにくらぶれば、千引の石の責はものかは
<辞世の句とされる詩>
暫し世に亦き心を見すれども 散るにはもろき風のもみじ葉
上記詩は、同獄にあり、生き残った者の内、書家の香溪山内昇らにより伝えられる。
当初は獄内ながら、不屈の精神で、寄せ書きをしたり、詩を詠んだりの時期もあった様子。
獄中には別件捕縛の上記山内の他、覚王院義観や、成川尚義、広沢安宅らの名が確認できる。
この獄とは、和田倉門の糺問局。皮肉なことに、本来これは会津藩の上屋敷施設。
尚、平馬は、第二の妻、貞の倅「文雄」が4歳の時、本人が死亡してしまう為、倅の将来を
知らずに冥土だが、心優しい文才家という点で、上記弟の信臣に、「文雄」は非常に似ている。
「文雄」も若くして22歳の天昇。
【信臣の霊魂弔いについて】
:
<墓について>
■墓:福島県会津若松市門田町面川泰雲寺。
これは、恐らく後日、長男の信節が建てた墓石のみの墓と言われる。
当初、中島屋忠次郎が小塚原回向院(千住海向院)に葬り石碑を建てたと聞き知り、
兄の信節が赴くが、この段階で既に発見できず。もちろん現在でも回向院には現存しない。
<信臣の霊魂弔いに貢献してくれた忠義の男_中島屋忠治郎>
その名は、「中島屋忠治郎」と言う。中島は侍ではない。会津藩御用達商人。鉄砲&武器商人。
会津藩にお抱えされて潤った時期も勿論あるだろうが、この人物は実に忠義の男。
鳥羽伏見敗れて、いよいよ、幕軍不利が目に見えても、裏切らなかった。
命を惜しまず奔走。潜伏する同藩の者を匿うなどにも貢献。
その為、武川信臣らが捕縛された時、彼も連座で獄中に繋がれる。幸い、商人であることから、
後に釈放される。しかし、この後、賊人の弔いは発覚するなれば、斬首だが、上記のとおり、
小塚原回向院(千住海向院)に葬り石碑を建てたという。
弔いは、空墓なのか、なんらかの伝をもって、廃棄された遺体の一部を入手できたのかは不明ながら、
(恐らく前者側)、とにかく命がけで、どうにか弔いを成し遂げてくれた男。
内藤信節や、梶原平馬は、暫し謹慎捕われ人の身につき、身動きできない。その間、
早くも、一人で弔いをしてくれた。
内藤三兄弟(続柄は武川信臣から見た続柄)
関連:■
内藤三兄弟=No.15
、■
江戸残留組
父
内藤介右衛門信順(可隠)
(2200石)
内藤一族自刃の悲劇
ご参照。
父の父
=祖父
内藤源助信周
「源助」は歴代つく。幕末の二人(三兄弟の父と、長男信節)だけ、
介右衛門がつく。1808年
蝦夷警備
出兵はこの源助信周。
内藤
介右
衛門
信順
の
子
長兄
内藤介右衛門近之助信節
(信順の長男)
約1839年(約天保10年)~
1899年(明治32)享年60歳
・生年は墓の享年からの為「約」
(1868年会津戦争時:29歳)
内藤を継承。戊辰の際、上記一族自刃にて妻と子を失う。斗南で再婚。
昭和63年平馬=「梶原景雄」の墓が根室にあるMEMOを発見したのは
この人物のご子孫。
考察おまとめ表1
ご参照。
下の弟「武川信臣」の弔いにも活躍。
明治9年、倉沢平次右衛門達と共に、復禄運動行うが結果虚しい。
次兄
梶原平馬景武(悌彦)
明治以降改名は「梶原景雄」
(信順の二男:梶原家養子)
約1842年(約天保13年)~
1889年(明治22)3月24日
・生年は墓の享年からの為「約」
(1868年会津戦争時:26歳)
明治以降に改名した際、平馬を景雄に改めたでなく、景武を景雄に
改めたのが正解。平馬は幕末の有名人「景武」に限らず歴代他も
「平馬」と名乗る。
本人
武川信臣(むかわのぶおみ)
(幼名:三彦かずひこ)
(信順の三男:武川家養子)
(1845年(弘化2)
~1868年(明治元)10月9日
(1868年会津戦争時:23歳)この年死亡につき享年24歳。
■別働隊幡随院分屯「信意隊」の隊長。この隊は約80名。生き残りは
上野戦争で敗れた後、江戸の佐々木源四郎宅に潜伏するが発覚、捕縛。
捕り手は鳥取藩だが直接的な拷問の主は不明。信臣は連日拷問。
最終は明治元年10月9日、斬首の上、曝し首となる。
薩長の手口の汚さを非難していた。梶原平馬の弟である旨、断固、
口を割らなかった。(関連は
No.23
前後からご覧下さい。)
処刑期日の不義問題
会津が降伏した9月22日よりもずっと後の酷刑につき、平馬の怒りは
後々尾を引く。下枠の「曝し首の屈辱」枠ご参照。
内藤、上田、武川、手代木は一族
1
一族篭城時の様子
一斉自刃犠牲者は内藤+上田の19人。
手代木と、武川は篭城に間に合った。雑踏の中、
一族全家族合流できなかった経緯有り。
<内藤一族>
:内藤介右衛門信順_63歳他一族【信順=可隠】:享年63歳
<上田一族>
:上田八郎右衛門氏彬_61歳他一族【氏彬=伊閑】:享年61歳
2_
手代木と佐々木三兄弟
・・・実父は、佐々木源八
手代木は内藤の一族。会津戦争時、梶原平馬景武と共に活躍したのが、
手代木勝任。勝任は、佐々木からの養子。
源八の次男
手代木勝任(旧姓が佐々木)
佐々木からの養子。秋月と共に会津戦争末期降伏交渉にも活躍
源八の三男
佐々木只三郎
▼
幕命による「清川八郎斬殺」実行者。「京都見廻組」の隊長。
坂本龍馬暗殺時、実行者。鳥羽伏見の戦闘により落命。
江戸に住む親戚の「佐々木矢太夫」の養子となり、幕府講武所の剣術師範と伝わる。「京都見廻組」
入隊は、これで辻褄が合うが、矢太夫が、旗本か直参未満の幕臣なのか、江戸近郊湾岸警備に係る
房総在住会津人に絡む家系なのか、要再確認。
源八の四男
佐々木源四郎
「武川信臣」捕縛時キーマン
彰義隊に参加して戦った後、梶原平馬景武の弟「武川信臣」が捕縛
された時、江戸の彼らの潜伏宅が、この源四郎宅と伝わる。襲撃して
きた官軍と玄関先で戦い死亡。(尚、彼は実は上野戦争5/15で死亡と
の説も有
・
・
・
・
曝し首の恥辱
(注)後半、少々えぐい!です。ご用心下さい。
■曝し首の恥辱
曝し首の屈辱は、現代人には少々解り難いが、惨殺よりも、何百倍も悔しい。
例えようがないほどの最大の恥辱。
これは、受刑者に罪の罰としての苦痛を与える為だけでなくて、
「恥辱刑」の要素が高い。
主義や思想、及び藩の為、お家の為となれば、武士のプライド。皆、想像を絶するような
激痛にも耐える。刑を処するとは、そもそも、見せしめにして、同一思想の者や、
家族、及び万民に、再発を防止する為。
となれば、「勇敢に激痛に耐えた」と逆に英雄談になれば、意味がない。
そこで屈辱をぬったくる。これは、所詮仏になった本人には解らないが、直近に自分が
そうなるであろう恐怖は絶大。年齢や経験にもよるが、多かれ少なかれ、どこかで
かつて、誰かの曝し首を見たことがある人物が多い。あんなふうにだけはなりたくない。
誰しも、そう感じるはずだ。まさに、今自分がそうなるとは、強烈な精神的激痛。
その精神的ダメージを与えた後に、さらに命も奪い取る。
死なせた後にも、恥をかかせる。ニ重の刑といえる。
(また、本人には単なる斬首と宣告しておきながら、曝し首にされることも多いようだ。)
首級の横には、惨めな罪状の札がくっつけられて、それが風に靡く。
武士のプライド。それを致命的に損傷させる。
そのほうが効率が高いわけだ。
少なくとも、同一思想の者は、これで暫し沈下される。
これは、つまり、生き残った家族が、同時に受刑者同然。永久に「恥辱」を引き摺る。
なぜなれば、その首級を見た人物の全てが、実は不義の殺戮の犠牲者なんだと、
知ってるわけはない。大抵は、そのまま思い込む。曝し首にされる程、卑劣な輩、極悪人。
余計な事に、札に書かれた名前は、きっちり記憶に残る。
▼
その為、不義なるその受刑を食らった家族の怒りは並でない。
己の屈辱だけならずや、仏となった本人が、死んで尚も「恥辱」を背負ったことを思えば、
祈れど、弔えど、鎮魂できない。
よく、いつのまにやら、曝し首が盗まれてしまうのは、その為。
首を奪い取っても仏は仏。今さら命は返らないが、耐え切れず、身内の誰かが奪い取る。
せめて、冥土の仏に、万民に曝される屈辱を早期に食い止めてやりたい。
一種の足掻きにすぎないのだが、その気持ちは、家族の立場になって考えると、よく解る。
因みに、近藤勇の首級も、途中で何者かに奪い去られたといわれている。
・・この屈辱感について・・
現代で、置き換えて例える例は困難だが、しいて少し前の時代昭和初期かなんかの学校の
例で説明しますと、イメージしやすいかもしれない。言うなれば、「立たされボンズ」か?
首に変な札をぶらさげられて、廊下に立たされたとしたら、どうなるか?
往復ビンタでも食らって痛い目にあわされたほうが余程マシ。曝される苦痛は恥辱で、
生きてる限り、ずっと尾を引く。
その上、本人だけではなくて、兄弟も家族も片身が狭い。「立たされボンズの家族め!」
ずっと、恥を背負って、縮みこむ。偉そうなこと言ったら、忘れていたのに、再び、
それを言われる。
■土饅頭
土饅頭とは、実際は、幅広く、単に盛り土、墓などもみんなそれ。
しかし、話が曝し首に纏わる時に出てくる土饅頭とは、曝し台の固定用枕を指していう。
斬首された首が台の上で転げないように、固定させる役目の粘度土。形は、大抵コの字形で、
現代の携帯用空気枕(乗り物の中などで座ったまま仮眠する時に使う)に少々似てる。
斬首掛とは、戦時や、地域や場所で様々。実際は、かなり下手くそも中には多い。
因みに近藤勇の斬首掛は横倉喜惣次(岡田藩:剣術指南役)。横倉は、赤報隊の相良総三の
斬首も担当させられてしまった。恭順藩の為。
関連:■赤報隊:
相楽総三1
,
相楽総三2
,■近藤勇の最期:
近藤勇と関羽:肩の傷
横倉喜惣次、この人物は、剣の指南役。腕は一流。近藤も相良も無念の最期、不義の怒りに
堪えて最期ながら、両者共、不幸中の幸いは、横倉の腕が一流だったことだろう。
下手くそにかかった者は、本当に不幸。呻き苦しむは許せても、往生際が悪いと死んで
尚も笑いものにされるでは、武士のプライドが我慢できない。冥土で彷徨う。
一方、幕府お抱えの一流名家、山田家は専門家の世襲。
受刑者が最期によむ詩の意も解せる知識、されどそれに押し流されぬ不動の精神なども
きっちり学び、代々受け継ぐ。よく、興味本位に、山田家の状態が言われる。
夜は、霊魂避けに、灯りをガンガン燈して、真夜中ほど、皆で大騒ぎの酒宴・・・。
多分半分嘘だろうが、確かに辛い職業。
読み知った(齧り読み程度ですが)によれば、流石専門家。
同じ斬首でも、その後、曝し首にするか否かで、斬り方の手法や角度なども専門家ならではの
手法が伝播されていたという。見苦しい皮ぶらり状態にならないようにとか、しっかと安定
するようにとか、このあたりも、きちんと徹底していたらしい。土枕不要状態なほどに
しっかり安定していたという。
(随分、酷な表現続いてますが、ご了承下さい。)
確かに、京都で天誅が横行していた頃の被害者の絵、及び、後の時代に於ける当該写真を
見る限り、その点手法の不味さが露骨。
攘夷主義者は、仮に剣の殺傷能力が優秀な者とて、その点、猛烈に劣るのが解る。
BADな表現ながら、彼ら専門家によるといわれる或人物の首級は、確かに上記と比べて、
違いがはっきりと解った。(詳細は、残酷なので、略)安定の法則とやらは嘘ではないようだ。
よく、山田家の作は芸術的とか言われるのは、冷やかし半分ではなくて、それらを比較すると、
世襲がいかに、流石奥深いかがよく解る。されど、いかに禄の為といえど、辛い仕事だ。
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