今ここが幸せ!

今ここが幸せ!

PR

×

カレンダー

プロフィール

さんたひかる

さんたひかる

コメント新着

けんけん@ Re:ニセモノお餅に気をつけて!(12/21) なかなか勉強になり興味深い話でした!\(…
背番号のないエース0829 @ Re:初夢~面白い夢(01/01) 今回こちらのtitleです。 もしよろしかっ…
するめ@ Re:妻が車をぶつけた!(02/09) 自分を守るためには有効でしょう。 相手の…
1016@ Re:キーのはめ方(09/20) キーボードの間にゴミが入ってしまったの…
wing-space @ Re[1]:クロスバイクを買いました(08/26) アヌビスさん >いつも楽しみに記事拝見し…

バックナンバー

May , 2026
Apr , 2026
Mar , 2026
Feb , 2026
Jan , 2026

キーワードサーチ

▼キーワード検索

Jan 20, 2007
XML
 「自分探しの旅」という言葉があります。

 よく考えてみると、
自分を探しているのが自分なのですから、おかしな話です。

 つまり、ここでいう「自分」というのは、
探している自分とは違う概念の自分だということですよね。

 「自分とは何か?」
これは哲学的な問いでもあります。

 あなたはこの問いになんと答えますか?

主婦です

小学校の先生です
etc

それは本当にあなたでしょうか?


 この問いに答えるためには、
実は、基準となる前提をはっきりさせる必要があります。

先ほどの答えは、社会の構成員としての自分の肩書きを答えたものといえます。




 悟りで、無我の境地という言葉があります。
石原慎太郎さんの「法華経を生きる」という本の中で、
確か、
「禅で無我になれというけれど、
そんな難しいことは誰にでもできるというものではない」

(今、本が手元にないので、違っていたらすみません)

 確かに「無我になる」というのは難しい気がします。
自分であるのに、自分になるな、
などというのは、できっこないという気もします。


 しかし、

二元対立を超えることを示す指なのです。

「自分探しの旅」の「自分」と共通していますよね。


 実は、心理学では、
本当の自分と偽りの自分というものを概念化していることがあります。

先ほどの
主婦としての自分
先生としての自分
なとどいうのは、ユングのペルソナであるといえるでしょう。

ごく簡単にいえば、
仮面としての人格とでもいえば、いいでしょうか。

仮面ですから、本当の自分ではない。
その仮面の奥に本当の自分がいる。

良き主婦になろうと努力し、
でも、
掃除もダメ
選択もダメ、
料理もダメ、
良き主婦になろうとしてもドジばかりで、
落ち込み、もしかしたら、ウツになってしまうこともあるかも。

良き主婦というのは理想の自分ともいえますが、
偽りの自分ともいえます。


A.W.シェフは、その著書「嗜癖する社会」斎藤学(さとる):監訳 の中で、

社会自体が、その構成員(つまり私たち)に
ある程度の共依存であることを強いていると言います。


 簡単にいえば、
社会という機構自体が
社会の構成員に
良き主婦であれ、
良き先生であれ、
etcという社会機構を維持するために必要な仮面を生きることを強いている部分がある、
ということです。

確かに、
社会の最小単位である家族の中で、
すべての親がたとえば、子育てを放棄したら、
社会自体が成り立たなくなります。


 この仮面(偽りの自分)自体が問題なのではありません。

 共依存という訳語を作った斎藤学(さとる)さんは、
共依存と共依存症という言葉を分けて使っています。

 日常生活に問題が出るほど生きにくさを感じるものを
共依存症と呼びわけているのです。


 簡単に言うと
たとえば、
「良き主婦でなければならない」
と強く思い、自分をガチガチに枠にはめて、
本当の自分を押し殺して生きていて、
生きにくさを感じていると心を病むことになります。

「良き主婦でありたいなあ」(A)
と達成できるかどうかにこだわらない思いで
努力しているだけなら
生きがいにこそなれ、
心を病むことはないのです。


 さて、
「無我である状態」とは、
そのような
「良き主婦でなければならない」
とか
「良き主婦でありたいなあ」
という思いをいったん手放した状態なのです。

 そのとき、
人は状況と一体化します。

淡々とこなしている、
淡々と生きている、
という感じでしょうか。

そして、そこから再び
「良き主婦でありたいなあ」(B)
に戻ってくる。

 そうすると
一見しただけでは、
Aの状態と区別がつかない。


 ところが、
Aの状態は、ともすれば
結果に執着し、
「良き主婦でなければならない」
になりかねない。

 それに比べて
Bの状態は、戻っても
淡々とした状態なのです。


 うろ覚えなのですが、
確か、栄西だったかが、
その師が亡くなったとき、
おいおいと大声で泣くのを見て、
周りの人が、
「あなたは悟った人だと思っていたが、
普通の人と同じように泣くのですか?」
と疑問を呈したそうです。

それに答えて
「もちろん、悲しいときには泣く」
と答えたそうです。


 実は、この違いは、
Aは、社会の要請に応えようとする思いからでているもので、
Bは、自分で選んだものなのです。


Aの場合、社会の要請がきつくなれば、
場合によっては、
「良き主婦でなければならない」
も戻ってしまう。

Bは、周りの期待や要請は関係ありませんから、
周りに影響されることがない、
そして、自分で選んでいるのですから、
苦しかったりして嫌になれば選ぶのをやめるはずです。

つまり、
栄西(だったと思うのですが、誰か知っていたら教えてください)が
悲しんで泣いていたのは、
自分がそれをしたかったからなのです。

自分が中心

それが、
自灯明ということです。




『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、
   ランキングボタン↓を押してね(^^)♪

ランキングバナー






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  Jan 20, 2007 05:14:26 PM
コメントを書く
[穏やかな心、さとり] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: