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クロニクル 夏季五輪東京開催を決定1936(昭和11)年7月31日五輪の東京開催といっても、4年後の東京五輪でも、1964(昭和39)年の東京オリンピックのことでもありません。日中戦争の激化の中で、ついに開催を返上せざるを得なかった、1940(昭和15)年の幻の五輪のことです。80年前のこの日、ドイツの首都ベルリンで開かれたIOC(国際オリンピック委員会)総会で、4年後1940年に開催予定の夏季五輪を、日本の首都東京で開くことが決まりました。本来なら、当時の決まりとして、5年前のIOC総会で開催都市を決めるのですが、1940年五輪については、ローマ、バルセロナ、ヘルシンキなど、有力候補地が多く、開催都市を決めきれず、翌年7月31日の総会まで、開催都市の決定が延ばされたのです。こうした激戦の末、東京はヘルシンキとの決選投票で36票を獲得、27票のヘルシンキを敗って、開催地に選ばれたのでした。しかし、軍部の暴走から拡大に拡大を続けた日中戦争が、益々激しさを増す中で、軍需物資への優先供給が続く、鉄やナマコンなど建設資材の不足から、会場設営が間に合わず、さらに軍部の強い開催反対の意思表明もあって、2年後の1938年、ついに開催を断念、開催権を断念するにいたりました。IOCは代替開催も検討したのですが、折から第2次世界大戦が勃発、40年大会は開催中止となりました。
2016.07.31
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クロニクル 自衛隊機と全日空機衝突1971(昭和46)年7月30日あれから45年ですか。そんなに経っているのですね。この日、午後2時3分頃、岩手県の雫石町上空で、千歳発羽田行きの全日空機に、航空自衛隊松島派遣隊所属のF86Fジェット戦闘機が衝突、全日空機は空中分解して乗員・乗客162名が全員死亡する事故が起こりました。全日空機は指定された高度と空路を守っており、自衛隊機が民間機の使用空路に紛れ込んだために生じた100%自衛隊機に責任のある事故でしたが、原因を作った自衛隊機の2人の乗員はパラシュートを使って脱出、命を取りとめただけに、遺族や世論の怒りは、凄まじいものがありました。当然のことながら、自衛隊の軍事優先、安全軽視の体質が問題視され、自衛隊への批判が集中、責任をとって防衛庁長官以下、統合参謀本部議長ら自衛隊幹部が辞任することとなり、航空管制法も抜本的に改正される騒ぎになりました。私もそうですが、この事故で岩手県の雫石町の名を、脳裏に刻んだ方も多いのではないでしょうか。
2016.07.30
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クロニクル 小泉ブームで自民大勝2001(平成13)年7月29日15年前のこの日は、第19回参院議員選挙の投票日でした。小泉ブームに乗って、自民党は64議席を獲得、連立与党も健闘して総計78議席の圧勝でした。しかし、時節は巡り、それから6年後の同じ7月29日、安倍内閣の下で行われた第21回参院選挙では、今度は37議席しか獲得できない大敗を喫し、自民転落の原因を作りました。奇しくも同じ日だったのですが、その後誕生した民主党政権の迷走ぶりから、2010年、13年、16年の3回の参院選は、いずれも自民党の大勝に終わり、今や自民党は参議院で単独過半数を占めるまでになりました。単一政党の過半数、政治的には弊害の方が大きいと考えますので、これは困ったことだなぁと、受け止めています。
2016.07.29
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クロニクル 第一次世界大戦始まる1914(大正3)年7月28日102年前ですか。1世紀経ったのですね。この日、オーストリアはセルビアに宣戦布告し、対セルビア戦争に踏み切りました。丁度1ヶ月前、ボスニアの首都サライェヴォで、皇位継承者夫妻がセルビア人の民族主義者の手で暗殺されたオーストリアは、開戦の10日前から突然強硬路線に舵を切り、7月24日には、最後通牒を突き付けておりました。しかも回答期限は2日後の26日という途方もない要求でした。セルビア側は何とか期限までに回答をまとめたのですが。オーストリアは直ちに回答を拒否、駐セルビア大使にベオグラードからの退去を命じ、国交を断絶、この日の宣戦布告と開戦となったのでした。セルビアを後見するロシアは、直ちに軍に総動員令を発し、独・墺国境に兵を集め始めます。これを受けてドイツは8月1日にロシアに宣戦を布告、独・露も交戦状態に入りました。ドイツは翌2日には、フランスに侵入、独・仏間にも戦端が開かれました。これを受けてイギリスも直ちに対独開戦を決定、28日の開戦から僅か1周間で、戦争は列強の参加する国際戦争に発展しました。このため、オーストリアがセルビアに宣戦を布告したこの日をもって、第一次世界大戦が始まったと説明されます。ただ、戦争を始めたどの国も、戦争が以後4年半に及ぶ長期の消耗戦になるとは、予想していませんでした。当事国の指導者たちは、いずれもクリスマスは子強で迎えられると、本気で信じ込んでいたのですから…
2016.07.28
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クロニクル 朝鮮休戦協定調印1953(昭和28)年7月27日63年前になります。前年の大統領選に際し、「自分は朝鮮戦争を終らせる」をスローガンに掲げて支持を広げ、見事に勝利した共和党のアイゼンハワーは、この年1月に大統領に就任後、積極的に対話を続け、遂にこの日、調印に漕ぎつけました。アイゼンハワーは、第2次世界大戦におけるノルマンディ上陸作戦を指揮した英雄でしたから、軍部の信頼も厚く、和平の実現の為には、うってつけの人物だったのです。こうして、38度線を中心に非武装地帯を設け、国連軍が常駐して停戦を監視する形で、朝鮮戦争は一応の区切りを迎えました。結果的に元の木阿弥。南北朝鮮双方の国民に辛い犠牲を強いただけに終わったのです。まさに冷戦の悲劇そのものでした。
2016.07.27
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クロニクル イラク特措法成立2003(平成15)年7月26日13年前のこの日未明、国会でイラク特措法が可決成立しました。この法の正式名称は、「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」と言います。なんだか、やたらに長いですね。法律名から明らかな通り、目的は非戦闘地域における人道支援となっているのですが、要するに自衛隊の海外派兵、それも実際に戦闘が行なわれている国に派兵するための法律でした。そのため、国会でも、戦闘地域と非戦闘地域との区分が大問題となり、時の小泉純一郎首相は、「自衛隊がいるところが非戦闘地域である」とか、「どこが戦闘地域かなど私に分かるわけがない」という答弁を行なって、物議を醸しました。この法は4年間の時限立法だったため、07年3月に2ヵ年延長され、09年で廃止となりました。この法によってイラクに派遣された自衛隊員には、幸い戦闘に巻き込まれるといった事態は起きなかったのですが、任務を終えて帰国した隊員の中には、精神のバランスを崩して、普通の市民としての日常生活の遂行に今なお支障をきたしている方が、かなりの数にのぼること、自殺者も相当数出ている現実があります。派遣が有為な若者の将来を奪った事実もしっかり記録しておく必要があることも、忘れてはならないように思います。
2016.07.26
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クロニクル 初の試験管ベビー誕生1978(昭和53)年7月25日この日生まれたた女の子、ルイーズ・ブラウンは、今日が38歳の誕生日になるのですね。母となって、お子さんを育てながら、ブリストルの郵便局で働いているそうです。父ジョンと母レズリーは、9年間子が出来ず、婦人科医の診断を受けたところ。レズリーの卵管に異常があり、自然妊娠は不可能と診断されました。そこで、2人はケンブリッジ大学のエドワーズ教授らが研究中の体外受精に望みを託しました。前年11月10日に母から採取され、直ちに受精された受精卵は、2日半後に母の子宮に戻されて順調に成長、この日午前11時半過ぎ、元気な赤ちゃんが誕生しました。ルイーズは2004年に結婚、06年に元気な男の子を出産していますが、ルイーズの妹ナタリーも体外受精で生まれています。ナタリーは、ルイーズより早く1999年に元気な女の子を出産しており、体外受精で生まれた女性は、元気な赤ちゃんを産むことが出来ないとする、根強かった懸念を、事実をもって一掃しました。 ルイーズとナタリーの父ジョンは2007年に、母レズリーは2012年に、子や孫に惜しまれながら、いずれも病死しています。
2016.07.25
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クロニクル 芥川自殺1927(昭和2)年7月24日89年まえのことです。この日未明、芥川竜之介が田端の自宅で、睡眠薬自殺を遂げました。36才でした。芥川は、東京帝国大学在学中の1916年に、『新思潮』に短編「鼻」を発表して、夏目漱石に激賞され、作家としてのスタートを飾りました。「羅生門」「地獄変」「芋粥」「蜘蛛の糸」など、古典に題材をとった完成度の高い作品を発表しましたが、やがて題材を現代に変え、晩年には強度の神経衰弱に悩まされていたようです。自殺の動機について、芥川は、遺作となった「或旧友へ送る手記」の中で、「何か僕の将来に対する、唯ぼんやりとした不安である」とのみ、記しています。作家に限らず、芸術家の営みは、孤独な作業です。そんな作業を営々と営み続ける中で、生とは何か、死とは何かなど、人の営みの根源を問うこともあるでしょう。そんな営みを通じて、死への誘惑にかられることも、多いのかなぁ…と、そんなことを考えました。でも、誘惑には負けたくないですね。
2016.07.24
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クロニクル 長崎大水害1982(昭和57)年7月23日今年も各地で、集中豪雨による洪水や土砂崩れなどの被害が寄せられています。これ以上被害が広がらないと良いのですが…本日とり上げる長崎大水害は、34年前の出来事です。この年は梅雨入りが遅かったのですが、7月にはいると、九州北部を中心に雨雲が停滞、連日小雨が降り続け、坂の多い長崎では、たっぷり雨水を吸った土壌は、土砂崩れ予備軍となっていました。問題のこの日、34年前の今日も、夕方まで小雨が続いていたこともあって、気象庁発表の大雨警報は、事実上無視されました。それが惨事を招いたことも確かです。長崎大水害と命名されていますが、死傷者の多くは、この土砂崩れによるものでした。この水害による長崎市内の死者・行方不明者は299人、そのうちおよそ9割に当る262名が、土石流や土砂崩れによって、命を落としています。水害でいくつもの橋が流出したのですが、その中に重要文化財に指定されていた「眼鏡橋」の流出も、含まれていました。今年、これ以上何事もないと良いのですが…
2016.07.23
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クロニクル 米軍フセイン大統領の息子射殺2003(平成15)年7月22日13年前のこの日、米軍は、賞金で誘惑した内通者の垂れ込み情報に基ずき、フセイン大統領の長男ウダイと次男クサイ両人の隠れ家を急襲、2人を射殺しました。この襲撃の成功は、米軍独自の探索活動の成果ではなく、多額の償金をエサにして、フセイン一家の身近の人物の裏切りを唆した金の力によるものでした。やがて、フセイン大統領自身も、米軍の高額賞金に目のくらんだ側近女性の裏切りによって、逮捕処刑されるに至りました。
2016.07.22
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クロニクル ワールドコム粉飾決算発覚2002(平成14)年7月21日14年前のこの日。全米第2位の通信会社ワールドコムが、粉飾決算の発覚で破産しました。負債総額は410億ドルは、当時の全米史上最大級の破産でした。粉飾決算に伴う破産は、前年12月のエネルギー大手エンロンに続いて2例目でした。そして手口も同じような粉飾でした。利益を過大に見せて株価を吊り上げ、高株価を利用して株式交換で買収を行ない、規模の利益を追求する。そのためには粉飾も辞さないという手口は、どこかの誰かさんにも共通していた気がしますが、この手口の発覚が株式市場と経済界に与えた衝撃は大きく、監査方式の見直しも進められていくことになりました。日本でもそうでしたが、この時期は米国でもITバブルが弾けた後だったために、経済不振で大きく傷ついた企業業績を覆い隠すために粉飾という禁じ手に、手を染めたということなのでしょうか。企業の社会的責任を自覚しない、或いは自覚できない経営者を見抜くというのは、実は大変ですね。そんなことを考えさせられた事件でした。それにしても昨今の日本では、巨大企業の粉飾決算は、マスコミまで巻き込んで見逃されるようですね。「府警切な会計処理」とか、「不適切な決算」という言葉で…。 なんで東芝は見過ごしてもらえるのか? あんなことをしていては、日本の証券行政や証券取引所は、世界の信用を失って、やがて身動きとれなくなるのではと、心配しています。
2016.07.21
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クロニクル 人類月に立つ1969(昭和44)年7月20日47年前の出来事です。この日、米国のアポロ11号から切り離された月面着陸戦イーグルは、人類初の月面着陸に成功しました。米国東部時間で、午後4時17分でした。乗員のアームストロング船長が、月面に降り立ったのは、午後10時56分だったと、伝えられています。それから18分後には、オルドリン飛行士も月面に降り立ち、2人は都合22時間に渡って月面に滞在し、2時間31分に渡って、船外活動を行ないました。2人の船外活動の模様は、衛星中継を使って、全世界に同時放映され、丁度日中ということもあって、日本では、特設テレビが街頭に設置されて、各地に黒山の人だかりができ、都心部の交通量は半減したと報道されました。この衛生中継は、全世界で5億人の人が映像を見たともされています。アポロ11号は、24日午後零時50分に、ハワイ南東の海上に着水、無事に帰還しました。日本では、真夏の太陽が照りつける、酷暑の午後早い時間だったように記憶しますが、自信はありません。
2016.07.20
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1949(昭和24)年7月19日67年前のことになります。この日東宝系から今井正監督作品「青い山脈」第1部が公開されました。石坂洋二郎の同名の小説の映画化でした。映画化権は、東宝と松竹が激しく争い、松竹は木下恵介監督を、東宝は今井正監督と、共に当時の有名監督を前面に出して、作者の石坂氏の軍配を仰いだのですが、石坂氏は東宝を選んだというわけです。当時の日本は、戦後の悪性インフレを是正すべく導入されたドッジラインいよる、厳しいデフレ政策がとられていたのですが、そうした暗い世相を吹き飛ばす、明るい作風、明るい作品として、大変な人気を博しました。主役の寺沢新子には杉葉子、六助に池辺良、島崎先生に原節子、そして沼田校医に龍崎一郎という顔ぶれでした。 映画の公開に先立って、発売された主題歌は、藤山一郎と奈良光江のデュエットで発売され、これまた大ヒットとなりました。ご存知ですよね、「若くあかるい歌声に 雪崩は消える 花も咲く 青い山脈 雪割桜 空のはて 今日もわれらの夢を呼ぶ」作詞の西條八十と作曲の服部良一の名コンビによる、明るい曲は、映画を知らない人たちにも、好んで歌い継がれました。映画はその後、57年、63年、75年、88年と都合5回も製作されました。私が見たのは、57年製作の第2作でした。主演の新子に雪村いずみ、六助に久保明、島崎先生に司洋子、沼田校医に宝田明という顔ぶれでした。
2016.07.19
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クロニクル 古代蓮開花1952(昭和27)年7月18日64年前のことです。この日の朝、前年1951年の3月に、千葉市検見川町の泥炭地の地下6メートル地点の、弥生時代の遺跡から見つかった、2000年前の蓮の実が、見事な薄紅色の花を咲かせました。この蓮の実は遺跡の丸木舟の中から3個見つけられたものでした。鑑定した大賀一郎博士は、発見された場所や蓮の実の生存年限からして、この古代蓮の実は生きていると推定、栽培をはじめました。博士の推定通り、植え付けられた蓮の実は、前年5月に3個揃って発芽したのですが、1本は枯れ、もう1本も成長しませんでした。頼みの綱の残された1本は、千葉県農業試験場で育てられ、この年(1952年)4月に、3つに根分けされて、慎重に育てられたのでした。開花したのは、その内の1本で、千葉市畑町の伊原茂さんが、植えたものでした。この2000年前の古代蓮は、この実が生きていると見抜き、生育を強く主張した育ての親にして、命の恩人でもある大賀博士の名を取って、「大賀ハス」と命名されました。現在では、各地に分根されています。現在は、各地に株わけされたり、種子を譲り受けたりして広められ、かなり広い地域で見ることが出来るようです。植物の生命力って凄いですね。
2016.07.18
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クロニクル ポツダム会談始まる1945(昭和20)年7月17日71年前になります。ドイツの降伏から、2ケ月と少々が過ぎたこの日、ベルリン郊外の保養地ポツダムで、米・英・ソ三国首脳によるポツダム会談が始まりました。2月のヤルタ会談に出席した、F・ローズヴェルト米大統領は、4月に心臓発作で死去、副大統領から昇格したトルーマン大統領が初参加しました。イギリスとソ連からは、この戦争を指導したチャーチルとスターリンが出席していましたが、総選挙中のイギリスでは、生活苦に追われる民衆は、チャーチルの保守党にノーを突きつけ、チャーチルはアトリーの労働党に完敗、イギリスの代表もアトリーに替わりました。さて、この会談は、日本の降伏条件を煮詰め、26日にポツダム宣言が発表されるのですが、このほかに戦後の枠組に関する議論もまた、重要なテーマとしていました。
2016.07.17
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クロニクル 三内円山遺跡発掘1994(平成6)年7月16日22年前のこの日、青森市内の三内円山遺跡の発掘現場で、大量の土器が出土しました。遺跡発掘における超弩級の宝の山にぶち当たったのです。以後も慎重に発掘を進めた結果、国内最大の縄文遺跡であることが明らかになり、考古学界は大いに賑わいました。遺跡の周囲には大量の枯れ死した栗の木が出土、三内円山の縄文人が、栗を主食にしていたらしいこと、その栗の木が寒さの襲来か何かで、全滅に近い被害を受けたことで、この地の生活は、終止符を打ったらしいことも、明らかになりました。
2016.07.16
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クロニクル ファミコンの登場1983(昭和58)年7月15日33年前の今日、任天堂はファミコンを発売しました。今やスマホに押されていますが、一世を風靡した本格的なテレビゲーム時代の到来に道を開いた、ファミコン誕生の瞬間でした。それまでは家庭用ではなく、ゲームセンター等でのテレビゲームで、インベーターゲームなどが流行っていましたが、家庭用ゲーム機が主力となっていく契機となったのが、ファミコンでした。ファミコンの発売で、それまではトランプや花札が売り上げの主力を占めていた任天堂は、一躍ファミコンの任天堂として、世界に名を知られるようになりました。85年に大ヒット作「スーパーマリオ・ブラザーズ」が発売され、本体と共に、爆発的な売れ行きを示しました。何しろファミコン本体は、メーカー希望小売価格が14800円でしたが、販売終了までに、世界で6291万台を売り上げ、そのうち日本での売り上げは、2000万台弱、世界販売は4000万台超える人気となりました
2016.07.15
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クロニクル ノーベル、ダイナマイトの特許取得1867(慶応3)年7月14日149年前、秋に大政奉還のあった年です。この日、アルフレッド・ノーべルは、ダイナマイトの製法に関する特許を取得しました。ノーベルは先輩化学者アスカニオ・ソブレロが発明した危険な爆薬ニトロ・グリセリンに改良を加え、実用化することに成功します。そしてそれをさらに安全に使えるように改良して、ダイナマイトと名付けて発表しました。ダイナマイトは、工事現場での岩盤の破壊などの作業を効率化するものとして、広く普及しました。その結果、開発者のノーベルは巨万の富を築き、その資産を基礎にノーベル賞を制定するに至りました。
2016.07.14
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クロニクル 都教委学校群制度導入1966(昭和41)年7月13日50年前のこの日、東京都教育委員会は、高等学校の入試改革の一環として、都立高入試に学校群制度の導入を決め、同時に試験実施教科を5教科(国・社・数・理・英)から3教科(国・数・英)に減じ、受験生の負担を軽減する方向に踏み出しました。志は悪くなかったと思うのですが、この制度によって、受験する群は選べても、郡内の学校のどこに入学するかは、自らの意志で選べなかったことから、いきおい学校を選べる私学への志願者が急増することになりました。その結果、私立校受験がヒートアップするなど、入試改革としては、決して成功したとはいえない結果となりました。 あれから半世紀、入試改革は相変わらず日本の教育制度の喫緊の課題であり続けています。
2016.07.13
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クロニクル NHK本放送開始1925(大正14)年7月12日91年前のこの日、現在の日本放送協会(NHK)の前身、東京放送局が、東京府東京市芝区芝の愛宕山よりラジオ中波放送の本放送を開始しました。ラジオの商業放送は、1920(大正9)年11月に、米国ペンシルベニア州のビッツバークで行なわれた、大統領選挙の中継放送が最初です。この時ハーディング大統領の当選が伝えられました。以後、ジャズなどの音楽番組、スポーツ中継、そしてニュースを3本柱に、ラジオ放送は急拡大。ラジオ受信機は大ヒット商品になりました。日本への導入は、それから僅かに5年後という速さで行われたことになります。ただし、関東大震災で首都圏が壊滅状態になったのは大正12(1923)年9月1日でしたから、残念ながらまだラジオ放送のない時期でしたし、首都圏の新聞社のほとんどは、火災に巻き込まれて社屋を焼失しており、僅かに焼失を免れた3つの新聞社も、建物は損壊したため、活字を組むことが出来ず、新聞でニュースを伝えることが出来るようになったのは、それから5日経った5日の夕刊からでした。そのため、首都圏以外の地方は、東京の情報がつかめず、大変な流言飛語が飛び交っていたようです。そんなことも、日本でのラジオ放送の導入を早めたのかもしれませんね。ところで、1968年3月までは、NKHによるラジオ受信の受信料が徴収されていました。以後はラジオの受信料は免除され、受信料の徴収はテレビだけになっています。
2016.07.12
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クロニクル 総評結成1950(昭和25)年7月11日66年前のこの日、日本労働組合総評議会(略称 総評)が結成されました。総評は、企業別の単位組合が参加する組織ではなく、企業別組合が同業種毎に結集した産業別組合(これを単産と呼んでいました)が参加する形式をとっていました。ですから、炭労、私鉄総連、全国金属、電機労連、造船・重機、出版労連、私教連、日教組、国労、自治労、全逓等々が加わった組織でした。朝鮮戦争が始まり、日本社会の右傾化の第1歩が記され始めた時の結成でした。当時の日本は、まだ占領下でしたから、結成にもGHQの許可が必要でした。ですから、結成当初の総評は、非常に穏健な労使協調路線に立つ組織体でした。その総評が、次第に労働者のナマの声を反映する組織に脱皮し、やがて、春の新卒社員の入社に合わせて賃金体系の改訂を迫る、春闘を編み出して大きく支持を伸ばし、1950年代後半~60年代にかけて、黄金時代を築きました。しかし、その総評も今はなく、後継組織の同盟も次第に組合員の減少に悩まされるようになり、今や組織を挙げて推薦し、選挙運動を手伝ったりしている民進党系の候補を、当選させる力も大きく衰えてしまっています。私の地元神奈川選挙区でも、同盟頼りの選挙戦を展開した金子候補は、4人当選の選挙区で6位と、完敗しています。
2016.07.11
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クロニクル 朝鮮休戦会談始まる1951(昭和26)年7月10日前年に始まった朝鮮戦争は、この年1951年の1月に入ると、次第に北緯38度線を挟んで一進一退を繰り返すようになり、春には膠着状態に陥りました。こうした中、この日朝鮮休戦会談が始まりました。しかし、互いに相手の非を鳴らし、一方的な主張をぶつけ合うだけに終り、はじめのうちは実りある成果を生む気配は見えませんでした。休戦協定の締結に至るには、なお2年の歳月と夥しい犠牲者が必要とされたのです。これも米ソの代理戦争故の悲劇でした。休戦会談の開始から、今年で65年です。冷戦の犠牲として分断された国家のうち、南北ヴェトナムは1975年に、東西ドイツは1990年に統一を実現しました。それなのに、南北朝鮮は、いまだに統一の機運が見えてきません。我が目の黒いうちに、朝鮮半島の統一が実現しないものかと、念じています。
2016.07.10
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クロニクル ジェットコースター初登場1955(昭和30)年7月9日61年前のこの日、当時の後楽園球場の脇に、後楽園遊園地が開園しました。呼び物は本邦初お目見えのジェットコースター。今では,珍しくも何ともないジェットコースターですが、当時は、ゆっくりと斜面を上り、猛スピードで下りてくるスピード感に、初物に弱い日本人心理が加わり、連日長蛇の列が続きました。野球場へ通う傍ら、横目で見ながら通り過ぎる人も多数おりました。何しろ当初は、日本でここだけ、ナイターの始まる直前の時間でも、行列に切れ目はなく、ナイター観戦前にチョット乗っていこうなんて、とても出来かねる大盛況でした。それが今では……、人間の欲望、贅沢にはキリがないですね……
2016.07.09
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クロニクル 浅間山大噴火 1783(天明3)年7月8日233年前の今日、浅間山の大噴火が起きました。有名な鬼押出しを作り出した、あの大噴火です。この年浅間山は4月8日から、断続的に噴火を繰り返していたのですが、2日前の6日から様相は激しさを加え、この日午前10時、大音響をあげて爆発、幅50m、高さ100mに及ぶ(当時の記録から)火炎を噴き上げました。火口から噴出した溶岩は、北側斜面の土砂を巻き込み、巨大な火砕流となって5分後には、約15km離れた標高900m地点にある鎌原村(現在の群馬県嬬恋村)を襲い、さらに下って吾妻川に達しました。鎌原村の93軒の民家は全て押し流され、同村の高台にあった観音堂の50段の石段も15段を残して埋め尽くされ、村人597人中、466人が死亡しました。生き残った人達は、他村に出かけて難を逃れたか、観音堂の石段を駆け上がって助かったかのどちらかだったそうです。被害は火砕流によるだけではありませんでした。吾妻川に流れ込んだ火砕流は、各地で川を堰きとめ、鉄砲水となって川下の村村を押し流したのです。被害は55カ村に及び、水に流された人馬の死体が利根川や江戸川の下流に流れ着いたと記されています。中には赤子をしっかり抱いた死体もあって、行き交う人々の涙を誘ったとも記されています。徳川幕府は、この時の死者を約2万人と公式記録(『徳川実記』)に記しています。また降灰の被害は関東平野を中心に10余ヶ国に及び、江戸の町も3cmの降灰を記録しました。それだけではありません。この大噴火は北半球に異常気象を齎し、天明の大飢饉との関連も指摘されています。浅間山の観光スポット、鬼押出しは、鎌原村を襲った火砕流に続いて流れ出した、粘性の高い溶岩が凝結して出来たものだそうです。この浅間山の大噴火、江戸近郊でも大きな話題となったらしく、私の住む旧王禅寺村の名主だった志村弥五右衛門なる人物が書き残した記録が、現存しており、現在柿生郷土史料館が拝借して、展示の機会を待っているところです。
2016.07.08
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クロニクル 田中内閣誕生 7日の日記1972(昭和47)年7月7日44年前のことです。この日、第1次田中角栄内閣が誕生しました。64年11月、池田勇人首相の病気退陣を受けて成立した佐藤栄作内閣は、7年8ヶ月の長期政権となりましたが、沖縄返還を花道に引退、自民党の総裁選で、福田赳夫氏を大差で破った田中氏が、自民党第6代の総裁に就任、この日の首班指名選挙を経て、首相に就任しました。田中首相は、小学校卒の学歴から、今様の立身出世ともてはやされ、今太閤と親しまれました。また、総裁公選で田中氏を支持した三木武夫氏は、「私は日中国交回復を目指す人物に、三木派の票をいれようと考え、2人にあったところ、田中君の方が国交回復に熱心だと判断できたので、投票することにした」と語り、田中内閣が佐藤亜流ではなく、日中関係改善のエースとして登場したことを示しました。田中首相はまた、列島改造を計画したのですが、この壮大な計画も氏の人気を後押ししたのですが、残念ながら翌年秋からの第一次石油ショックで、原油の値段が暴騰(それまでの1バーレル=2~3ドルが、16~18ドルにあがりました。現在と比べるなら、まだかなり安いのですが、一挙に6~8倍に上がったのですから、大変でした)、列島改造計画は、実現不可能となり、各地に大きな爪痕を残す結果に終わりました。
2016.07.07
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クロニクル 下山事件1949(昭和24)年7月6日67年前の出来事です。当時私は小学校の1年生。日本がまだGHQの占領下にあった時代の事でした。当時の下山国鉄総裁が、前日の7月5日の出勤途上で行方不明となり、翌日(つまり67年前の今日)未明(午前0時30分頃)に、轢死体で発見されたのです。国鉄常磐線の北千住・綾瀬間でした。下山総裁の死をめぐっては、自殺説と他殺説が激しく対立しましたが、遺体の損傷が激しく、解剖によってどちらとも特定することが難しかったこともあり、警視庁は公式の調査結果を公表することなく、捜査を打ちきりました。戦後の混乱期のことでした。
2016.07.06
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クロニクル 後楽園球場の初ナイター1950(昭和25)年7月5日日本でのナイターの始まりは、1948年にの横浜タイカップ球場(当時)で行なわれた巨人対中日戦だったのですが、この成功で各地の球場は、競ってナイター設備の建設に力を入れるようになりました。その結果、設備が整った1950年から、ナイトゲームがその数を増やします。後楽園球場のナイター設備が完成し、初めてのナイターが行なわれたのが、66年前の今日でした。この年はプロ野球が2リーグ制となった最初の年でした。そして、後楽園球場の初ナイターは、パリーグの毎日オリオンズ対大映スターズの対戦でした。当時の新聞記事を紹介します。「8基の自慢の投光器から放たれる70万燭光、光が緑の芝生をホワイトグリーンに浮かび上がらせ、インフィールドの赤土は国技館ほどの明るさだ。スポーツセンターの後楽園にまた一つ加えられた新名所… ファン層も昼のゲームと違って、天下晴れてのサラリーマンや学生もいるし、OLも多い。晩飯を済ませ、爪楊枝を加え扇子を持ったユカタがけもチラホラ。売店のビール、ホットドックも飛ぶように売れ、売り子はホクホク顔だが、アイスクリームやアイスキャンデーは昼間ほど売れない。……… なおナイトゲームなので、審判も5人付ける慎重さである。」当時日中や薄暮のゲームの審判は3人でした。何となく、当時の雰囲気が見えるようですね。
2016.07.05
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クロニクル 『不思議の国のアリス』誕生へ1862(文久2)年7月4日文久2年と言うのは、維新前夜の混沌とした時期でしたが、文豪森鴎外の誕生年でもあります。154年前になるのですが、この日、『不思議の国のアリス』の著者、ルイス・キャロルは、友人のヘンリー・リデル一家の3人娘を、川遊びに連れてゆきました。川遊びに疲れて休んでいる時に、物語の好きなリデルの次女アリスは、キャロルに楽しいお話をしてとせがみました。この時、キャロルが即興的に話して聞かせた物語を、アリスはことのほか好きになり、何度も同じ話をキャロルにせがみました。キャロルは、自ら紡いだ物語を、「地下の国のアリス」として手書きの本にまとめました。この本が、後『不思議の国のアリス』として、世界各地の子ども達を魅了することになったのです。当時の子供向け書物は、子どもを楽しませるためのものではなく、子どもを教化するための教訓本だったため、子ども達にとって、楽しい世も物ではなかったのです。その点キャロルの物語は、純粋に子どもたちを楽しませるために、語られそして肉付けされたものだったために、世界各国の子ども達に支持されることになったのです。
2016.07.04
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クロニクル イエスの方舟ー心の軌跡ー1980(昭和55)年7月3日36年前のことです。この年1980年の2年前、78年5月に、東京国分寺の教会を出奔して以来、行方不明となっていた、ほとんどが若い家出女性の集団が、この日熱海で見つかりました。教祖の仙石イエス氏を中心とするこの集団は、自分たちを「イエスの方舟」と称し、信者の女性達は、仙石イエス氏を「おっちゃん」と呼んで慕っており、教会を抜け出した後、各地を転々としながら福岡に落ち着き、女性達が市内の飲食店や飲み屋で働きながら生活を支えていたことをこもごもに語りました。また、「人格を認め合った生活は楽しかった」とも語り、いったん家に返された女性達の多くは、再び家出して福岡に戻り共同生活を再開します。女性達の失踪後、仙石氏による女性拉致の線を追っていた警察とマスコミは、当初の思惑と異なる展開に戸惑いを隠せなかったのですが,信者全員の供述が一致する中で、仙石氏を誘拐罪に問う事は出来ず、やがて仙石氏も不起訴となって、女性達の待つ福岡に向ったのでした。この事件では、興味本位に「イエスの方舟」追跡キャンペーンを展開して、信者の女性達に付きまとったマスコミの報道姿勢が,世論の厳しい指弾を受け、マスコミ報道の客観性が問題にされた事件でもありました。家や地域に居場所を見出すことの出来なかった心淋しい彼女たちにとって、自己の存在を認めてくれ、自分を必要とする人達がいるんだという発見は、大変に心楽しく、干天の滋雨だったのでしょう。人生で初めて心から落ち着け、かつくつろげる場所が見つかったのです。居場所がなく、自己の存在証明を見出すことのできない家族の下で、鬱々とした日を送るよりも、仲間と一緒のあの素晴らしかった日々に戻りたい。これが彼女たちの願いでした。この事件は、人を褒めることの大切さ、認め合う関係の大切さを教えてくれる出来事でした。認められ、必要とされることで、劣等感に苛まれている、人生から落伍寸前の、或いは落伍してしまった青少年にも、生きがいが生まれる事を教えてくれた出来事でした。後日談です。仙石氏は2001年12月に亡くなりますが、彼の死後も信者達は共同生活と活動を続け、近親者などの暴力から逃れようとする人たちの、駆け込み寺的な活動を続けています。
2016.07.03
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クロニクル 金閣炎上1950(昭和25)年7月2日66年前のことになります。この日京都の金閣寺の舎利殿、金閣が21歳の学僧の放火によって全焼しました。放火犯の学僧、林承賢は裏山で自殺を図り、事情聴取のため京都府警に呼ばれた彼の母親は、息子の罪をあがないたいと、帰路に保津峡に身を投げ、投身自殺する悲劇もおきました。金閣寺は5年後の1955(昭和30)年に再建されるのですが、この事件は作家の創作意欲を強く刺激し、三島由紀夫の『金閣寺』、水上勉の『金閣炎上』などの名作を生みました。再建後の金閣は何度か見学しているのですが、以前の金閣を見たかったという思いが残ります。
2016.07.02
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クロニクル 宝塚歌劇団の誕生1913(大正2)年7月1日宝塚の歴史も、103年になるのですね。随分長い間人気を保ってきたのですね。凄いなぁ。103年前のこの日、阪急電鉄の創業者小林一三が、宝塚歌唱隊を結成しました。同年12月に宝塚少女歌劇養成会に改名、1919(大正8)年に、私立学校の認可がおり、宝塚音楽歌劇学校が設立されたのを機に、養成会は解散し、新た宝塚少女歌劇団として発足、今日に至っています。創立当初から、阪急電鉄の直轄組織となっており、劇団員は全員同社の社員として扱われます。最初の公演は、創立の翌年1914(大正3)年の4月1日~5月31日までの2ヶ月のロングランとして、宝塚新温泉で行なわれました。1日平均で1100人の入場者があった旨が、当時の新聞に報じられています。以後しばらくの間、公演は年4回のペースで行なわれたと記録されています。
2016.07.01
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