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クロニクル 有珠山23年振りに噴火2000(平成12)年3月31日16年前になるのですね。この日北海道の有珠山が、23年ぶりに大噴火しました。噴煙は火口から3500mに達し、北東側中心に降灰による被害が出ました。火山活動は、その後8月まで続き、9月になってようやく収まりました。有珠山は1944年~45年にかけての大爆発で、昭和新山を生み出したのですが、1977年~78年にかけても大噴火を起こし、高度12,000mにまで噴煙を噴き上げ、農作物に大きな被害を齎しています。この時、洞爺湖温泉小学校の校舎が破損し、同校は別の地への移転を余儀なくされたことも、大きく報じられました。前2回に比べると、2000年の大爆発は、小規模なものでしたが、それでも洞爺湖温泉は、団体や個人の予約キャンセルが続き、大きな痛手を受けました。お気づきと思いますが、有珠山はこのところ23年周期で、大爆発を繰り返していますね。次はないことを願いたいですね。
2016.03.31
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クロニクル 米国アラスカを購入1867(慶応3)年3月30日時期は幕末の動乱の最終段階、翌年には明治新政府が誕生するというそんな時でした。米国では、南北戦争が終って、廃墟と化した南部各地の再建に向けた動きが活発化している、まさにそんな時でした。そんな中で、この日米国国務長官ウィリアム・スワードが、ロシアからアラスカを720万ドルで購入する契約を結んだのです。1エーカー(約1200坪)あたり2セントでした。この購入契約は当時は「スワードの愚行」と呼ばれ、愚かで高い買い物であると酷評されたものでした。アラスカの天然資源のことなど、当時は想像することすら出来なかったからです。時代が変わると評価も変わる事例の一つです。
2016.03.30
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クロニクル モスクワで地下鉄爆破テロ発生2010(平成22)年3月29日6年前のことです。当時は日本でも大きく報じられましたが、なんだか遠い過去のような気がしますね。事件はチェチェン独立を目指す過激派による爆破テロでした。モスクワ時間で午前8時前後に、地下鉄の2つの駅で連続的に起きました。まず、7時55分頃にルビンスカヤ駅に停車中の列車で爆発が発生し、24人が死亡し20人が負傷する大惨事となりました。その混乱が続いて、多くの列車が駅に停車中だった約30分後のことです。今度は同じ路線の4つ先の駅で、停車中の車両で爆発が起き、12人が死亡し15人が負傷する騒ぎが起きたのです。時刻は朝のラッシュアワーの最中です。現場は勿論、どこの地下鉄駅も大混乱に陥りました。地下鉄の運行は数時間に渡ってストップし、モスクワ中心部への通行は停止されました。市民はバスなどの代替輸送手段を利用することになったのですがが、地下鉄の運行が事故現場以外で再開しても、しばらくの間は、再度の爆発テロを恐れて、地下鉄の利用を取りやめる市民が多かったそうです。ロシアがシリアでIS以外の反政府過激派への空爆を強化し、さらにアサド政府軍や政府支援軍への兵器の提供に積極的なのは、チェチェン独立派などからシリアに渡っている2千人を超える過激派を、国内にUターンする前に可能な限りせん滅しておきたいからに外なりません。
2016.03.29
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クロニクル スリーマイル島の原発事故発生1979(昭和54)年3月28日37年前になりますね。この日、米国ペンシルヴェニア州、スリーマイル島の原子力発電所で、大きな事故が起き、初動が遅れたために大量の放射能漏れが発生し、大きな社会問題になり、かつ政治問題にも発展しました。事故原因の調査の結果、原発の安全性に関する慎重論が強まり、この事故以降、米国は長期にわたって、新規の原子力発電所の建設を凍結する決定を下しました。米国での原子力発電所の建設再開を認める新法は、ようやく10年前に議会を通過し、原子力発電所建設の凍結解除、新規建設が動き出したのは2008年になってのことでした。それも5年前のフクシマダイイチの事故を受けて、再び慎重論が強まッているのが現在です。昨年のフクシマダイイチの複数機のメルトダウンに比べれば、ずっと小さな事故だったにも関わらず、アメリカでは原発の専門家が、きっちりと警鐘を鳴らしたのですね。原子力村に取り込まれ、魂を売ってしまったような日本の政治家や御用『学者」たちと、なんと違うことでしょう。
2016.03.28
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クロニクル 日産・ルノーと提携1999(平成11)年3月27日17年になるのですね。業績不振に陥り、98年度には累積赤字が2兆円に達していた日産自動車は、この日フランスの自動車大手ルノーと提携関係を結んだことを明らかにしました。ここに日産は、ルノーの下での再建に活路を見出そうとしたのです。この時、ルノーが日産再建の切り札として送り込んできたのが、カルロス・ゴーンCCO(最高執行責任者)でした。日産のがん細胞は、強すぎる労組にありましたから、労組とのしがらみを断ち、経営再建に邁進することは、日本人の経営者では難しいと考え、ゴーンCCOの派遣を受け入れた、日産の経営陣の判断は的中しました、ゴーンCCOは、リバイバルプランを作成し、部品購入における系列との取引の見直し、早期退職の実施など人員の削減、ルノーとの車台の統一、部品の共通化などによる経費の削減など、考えられる合理化を徹底的に追求しました。他方で、残った従業員の提言など、社内の意見を良く聞いて、社内の風通しを良くして、社内のやる気を鼓舞するなど、従業員の支持と協力を取り付けました。こうした努力の結果、2兆円を越えていた累積赤字は、5年後の2003年には、その全額を返済することに成功したのです。問題は、その後にあります。日産・ルノーの関係はその後逆転し、リーマンショック後の欧州の経済危機で、今やルノーは青息吐息、日産からの高額配当やその他の支援を受けて辛うじて生き延びている状態にあります。露骨な表現をあえて使うとすれば、日産の儲けをルノーが食いつぶしているのです。ルノーとの資本関係を早めに逆転させないと、日産も苦しいですね。研究開発に回るはずの資金がルノー救済に使われてしまっているのですから…。ゴーン氏が日産、ルノー両者の代表となっているのが、実は曲者なのですね。
2016.03.27
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クロニクル バングラデシュ独立宣言1971(昭和46)年3月26日45年前のこの日、東パキスタンが独立宣言を発し、西パキスタン(現在のパキスタン)からの分離独立を発表しました。正式国名をバングラデシュ(ベンガル人の国の意)人民共和国と定めたのは、同年4月17日のことでした。イギリス領インドが、ムスリム中心のパキスタンと、ヒンドゥ中心のインドに分離独立することになったのは、1947年の8月15日のことでした。この時パキスタンは、インド亜大陸の西と東の付け根の部分に、2ヶ所の国土を持つことになりました。政治・行政の中心は西パキスタンに置かれ、ベンガル地方の1部を国土とする東パキスタンの人々は、西の支配に次第に不満を募らせ、インドの支持の下に、この日の独立宣言となったのでした。しかし、古くはイギリスによるアヘンの栽培地域であったこの一帯は、ガンジス河の豊富な水に恵まれ、かつては米やジュートを生産する豊かな地域だったのですが、イギリスの植民地支配の下でアヘンの生産地とされて土地がやせてしまったこと、工業生産に恵まれなかったことなどから、現在ではアフリカ中央部の国々と並んで、1人あたり国民所得の水準で見る、世界最貧国の1つに数えられる状況に陥っています。人口は多く、1億7千万人を数え、世界第7位の人口大国で、人口密度の高さでは世界でもトップクラスであり、最近になってその豊富な人的資源と賃金の安さに目をつけた多国籍企業の進出が始まっており、貧困層の生活向上に向けてかすかな光が見え始めているようです。うまく行くと良いのですが…。
2016.03.26
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クロニクル ハウステンボス開園1992(平成4)年3月25日24年前なのですね。この日長崎県佐世保市に、オランダの街並みを再現したテ-マパーク、ハウステンボスが開園しました。徳川幕府の「鎖国政策」の下で、西欧諸国の中で唯一対日貿易を許されていたのがオランダだった、ということから出来上がった、歴史を踏まえたテーマパークでした・しかし、来園者は期待したほどには集まらず、11年後の2003年には、早くも会社更生法を申請して倒産の憂き目を見たのです。その後野村系が後を引き継ぎましたが、再び頓挫し、2010年には格安旅行者のHISの支援の下で、再建が図られることになりました。幸いHISの再建計画が特に若者のハートを捉えたようで、以後数年を経て再建計画は軌道に乗り、昨今は営業黒字を続けています。
2016.03.25
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クロニクル 上海で列車事故1988(昭和63)年3月24日28年前のことです。この日、中国上海方面を修学旅行中だった高知学芸高校の引率教員と1年生生徒を乗せた修学旅行列車が、貨物列車と衝突、1年生生徒と引率教員を合わせ、27人が死亡する惨事となりました。この事故の結果、当時流行していた西日本を中心とした高等学校の中国への修学旅行は、1時期下火となりましたが、その後復活して、再度のブームとなったのですが、大気汚染の深刻化などに伴い、現在はほとんど行われなくなっています。
2016.03.24
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クロニクル 「千と千尋の神隠し」にアカデミー賞2003(平成15)年3月23日13年前のこの日、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」がアニメ部門のアカデミー賞に輝きました。宮崎ワールドを世界が評価した瞬間でした。多忙のため、短文にて失礼します。
2016.03.23
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クロニクル 上九一色村のオウム施設捜索 1995(平成7)年3月22日もう21年が経ったのですね。この日、警視庁は2日前の地下鉄サリン事件に関連して、山梨県上九一色村の広大な敷地にあるオウム真理教の教団施設を中心に、関連の 25施設を一斉に捜索しました自衛隊の毒ガス防御作業班の防護服を借用し、その防護服に身を包んだ警視庁の捜索班の姿は,何とも異様でおどろおどろしく見えました。サティアンと呼ばれる信者の修行兼宿泊施設や、実験棟などから、大量の薬品等を押収、その後の捜査を含めて、逮捕者は400人以上に及び、起訴された人数は185人に及びました。
2016.03.22
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クロニクル 国産初のカラー映画封切り1951(昭和26)年3月21日同じ昭和26年の昨日は、国産LPの発売の日でした。続いて今日も国産初です。65年前の今日、日本映画で最初の総天然色映画が封切られました。松竹大船撮影所製作の『カルメン故郷に帰る』です。主演の高峰秀子演じるリリー・カルメンに、佐野周二(関口宏の父)、笠智衆、望月優子らが絡むキャストに、監督は木下恵介でした。この映画は、フィルムもフジフィルム製という、すべて日本製で挑んだ作品でしたが。白黒フィルムと違って、光量が十分でないと発色に問題が生じるため、全編を浅間山麓でのオールロケで撮影した作品となりました。また、フジフィルムも自社の技術に全幅の信頼が置けなかったらしく、松竹、木下監督と3者で、もし完成したフィルムに問題があった場合に備え、従来の白黒での撮影も行なっておいて(つまり、カラーと白黒の2作品を撮っておく)、試写を見てどちらを上映するか決めるという、用心をしていました。結局、不満は残るがカラー作品で上映することとなり、初の総天然色が話題となって、映画は大ヒット、高峰秀子が歌った同名の主題歌もヒットしました。これが国産カラー映画の事始でした。なお、長らくその行方が不明なままだった白黒作品の方は、1998(平成10)年12月の木下監督の死後、その遺品の中から発見されて、話題となりました。
2016.03.21
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クロニクル スモン患者公表1970(昭和45)年3月20日46年前になります。この日厚生省(当時、現厚生労働省)は、国内のスモン病患者を2669人と発表しました。スモンは整腸剤キノホルムを原因とする薬害でしたが、そのキノホルムの販売と使用の中止が通達されたのは、さらに半年近く遅れた9月7日のことでした。薬害エイズ,薬害肝炎以前にも、同じような薬害に対する対応の遅れは、常態として存在していたことが、この事実からも確認出来ます。
2016.03.20
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クロニクル 米英、イラク攻撃を開始2003(平成15)年3月19日13年前になります。この日アメリカとイギリスは、勝手に「イラクの自由作戦」と名付けた、一方的なイラク攻撃に踏み切りました。それは、「イラクが大量破壊兵器を持っているから」という、一方的な言いがかりによるものでした。攻撃後の調査で、この主張が虚偽の報告に基づく誤りであったことがわかり、米英政府は多方面からの非難の集中砲火を浴びることになりましたが、実はこの主張も間違っています。世界で最大の大量破壊兵器保有国は、現在明らかにアメリカであり、次いでロシアであり、中国です。その最大の保有国に、他国の兵器保有を論難する資格があるかのような主張は、正しいでしょうか。何処から見ても、先ずここが間違っています。自分たちは良いが外はダメというのは、理屈として筋が通りません。その意味で、「イラク戦争」は、最初から間違った戦争であり、不正義の戦争だったことを明記しておきたいと思います。そして、イラクの独裁者フセインを葬り去った結果として、イラクの人々は平穏で落ち着いた、以前よりも豊かな暮らしを満喫することが出来るようになったでしょうか。廃墟と化した国土の再建は一向に進まず、多数が難民になったり、飢餓線上の暮らしを強いられ、しかも戦乱はなお続いているのが現状です。今や戦闘は隣国シリアにまで拡大され、難民となる民は、いまなお増え続けているのはご存知の通りです。米国と英国、どう責任を取るのですかね。
2016.03.19
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クロニクル グリコ社長誘拐1984(昭和59)年3月18日32年前のことです。この日、江崎グリコの江崎勝久社長が、自宅で入浴中を、怪人21面相を名乗る犯人グループに誘拐されました。犯行グループの要求は現金10億円に金塊100kg。これが後にグリコ・森永事件と言われた、奇怪な事件の発端でした。江崎社長は、どういうわけか3日後に独力で脱出しましたが、犯人はグリコ製品に毒物を混入すると脅迫。3億円を要求してきました。こうして事件は、毒入り菓子の恐怖が善良な家族や子どもたちを困惑させる、あの厄介な事件に変質していきました。
2016.03.18
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クロニクル 少年サンデーと少年マガジンの創刊1959(昭和34)年3月17日今年で創刊57年になるのですね。現在も両誌共に健在です。文字の雑誌は廃刊するものが多い中で、漫画週刊誌は健闘していますね。因みに週刊漫画誌の存在に、私が気付いたのは、1962(昭和37)年の夏、北海道1人旅に出かける途中の青函連絡船の中でした。船中で隣り合わせた中学生が、分けてあげたガムのお礼に「見る」と出してくれたのが、少年サンデーでした。若きちばてつや氏の「誓いの魔球」という野球漫画が載っていたように記憶します。どちらかというとスポ魂ものなど、男っぽい話の多いマガジン。おっとりゆったりと中性的印象のサンデーでしょうか。マガジンでは、全共闘世代が愛読した「あしたのジョー」や「巨人の星」がありましたし、サンデーでは「タッチ」が、そうした特徴を代表しているように感じています。
2016.03.17
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クロニクル 国立歴史民族博物館開館1983(昭和58)年3月16日33年前のこの日、千葉県佐倉市に、国立歴史民族博物館が開館しました。歴史系博物館の設置を求める声は戦前からあったのですが、1966(昭和41)年に「明治百年」(=日本の近代化百年)記念事業の一つとして、歴史博物館の設置が閣議決定となり、この時から建設候補地の選定と、展示内容の検討が同時に始まりました。1971(昭和46)年に、文化庁内に基本構想委員会が設けられ、78年にいたって国立歴史民族博物館設立準備室が設けられて、ようやく設立へ向けての体制が整ったのでした。準備室室長には古代史家で東大名誉教授の井上光貞氏が就任しましたが、井上氏は明治の元勲の1人井上馨の孫にあたり、歴博の基本コンセプトの設計に大きな貢献を果たしました。国立歴史民族博物館は1981年に発足し、井上準備室長は初代館長に横滑りしました。ただし、博物館の一般公開は1983年3月まで延期され、井上館長は開館の日を迎えることなく、開館を翌月に控えた1983年の2月に急逝し、開館の日を自らの手で迎えることは、出来なかったのです。
2016.03.16
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クロニクル 金融恐慌勃発 1927(昭和2)年3月15日89年前のことです。前日14日の衆議院での質疑において、片岡直温蔵相が危ない銀行についての質問に関する答弁の中で、「東京渡辺銀行が危ない...」とうっかり口をすべらせ、それがマスコミに報じられたからたまりません。この日朝から、東京渡辺銀行は取りつけ騒ぎに巻き込まれ、またより危ない銀行として噂に上っていた「あかぢ銀行」もまた取りつけ騒ぎに巻き込まれました。両銀行は休業を選択、全国の中小銀行に取りつけ騒ぎが広がってしまったのです。こうなると噂は噂を呼び、大銀行すら騒ぎに巻き込まれてゆきます。世に言う金融恐慌の始まりでした。
2016.03.15
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クロニクル 大阪大空襲1945(昭和20)年3月14日71年前のことです。この年3月10日の東京大空襲の僅か4日後の14日、今度は大阪にB29の大編隊が現れ、爆弾と焼夷弾を大量に降らせ、13万戸が焼失しました。東京の焼失戸数23万戸には及びませんでしたが、これは、東京のような折りからの強風に煽られることが少なかったことも影響したようです。それにしても、米軍の行動の残虐性は、この当時からだったようですね。10日の翌日11日には、名古屋を爆撃していますし、米軍の空襲は、制空権を奪われた日本をあざ笑うかのように、大荒れの天候でない限り、連日のように続けられていました。
2016.03.14
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クロニクル 青函トンネル開業1988(昭和63)年3月13日28年前のことです。この日、42年の歳月と7千億円の巨費をかけた青函トンネルを使用する、JRの津軽海峡線が開業しました。青函トンネルの全長は53.85km、世界最長のトンネルです。ここに青函連絡線は80年の歴史の幕を閉じ、廃業することになりました。「北へ帰る夜行列車、降りた時から、青森駅は雪の中......... わたしは1人、連絡船に乗る...」という石川さゆりの曲の世界を、現実世界で実体験することは出来なくなったのです。東京~札幌間は、新幹線を使うと10時間52分となり、連絡船を使うよりも2時間以上短縮されました。なおこの青函トンネルの中間には、竜飛海底駅があり、消火設備や避難所が設けられているのも特徴の一つです。
2016.03.13
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クロニクル タリバン、バーミヤンの石仏を破壊2001(平成13)年3月12日丁度15年前になりますね。この日タリバンが、バーミヤンの巨大石仏を破壊し、その映像を世界に配信しました。この日の映像を、バーミヤンの巨大石仏を世界遺産に登録していたユネスコも確認、15年前のこの日が、石窟に刻まれた巨大石仏の爆破された日と確認されました。なお、破壊されたのは、石仏だけではなく、バーミヤンの石窟の壁面に描かれた仏教画のおよそ8割も、同時に失われたことが報告されています。石仏の破壊は国際的な反響も大きく、一大センセーショナルを巻き起こし、修復に対する国際的な支援も大きくなり、修復作業が進められている一方で、内戦中の無政府状態の中で、飢えた民衆が100万人規模で餓死していた現実は、ほとんど注目を浴びず、無視されたままだった現実に対する強いいらだちを表明した知識人が、ごく僅かですが存在していました。石仏と100万人の命、文化財と人間、この双方を大切にする視点を、私は持ちたいと考えます。
2016.03.12
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クロニクル スカルノ大統領失脚1966(昭和41)年3月11日インドネシアのスカルノ大統領と言っても、若い方はご存知ないでしょうが、こう言えばああそうなのと思っていただけると思います。あのデヴィ夫人を第3夫人として寵愛していた、精力絶倫タイプの政治家で、インドネシアの元首相メガワティ女史のお父様です。インドネシアはオランダの植民地でしたが、第二次大戦中、日本が占領していました。その日本の降伏後、再び戻ってきた宗主国オランダとの戦いに決起し、インドネシア独立闘争を指揮した建国の英雄がスカルノでした。彼は敗戦を恥じて、故国へ帰ることを潔しとしなかった旧日本兵を、独立軍に受け入れ、中隊や大隊の指揮を任せて、オランダを圧倒したのです。そのため、大の日本贔屓で、何度も来日しては、銀座のクラブに通い、そこで働いていた女性を第3夫人に迎え、マダム・デヴィを名乗らせたのです。しかし、建国の英雄も1947年からの20年近い支配と、中国の影響による共産党の伸張の中で、次第に政治の舵取りに悩むようになり、特に前年(1965年)の9/30事件以後の共産党におもねるような態度が、保守派の反発を招き、共産党の伸張を食い止めたスハルト将軍へ、軍の支持が集まる仲、軍を背景としたスハルト将軍の圧力により、ちょうど50年前のこの日、遂に全大統領権限を、スハルト将軍に移譲、事実上の政界引退に負い込まれたのです。そのスハルトも、23年後の1998年に、前年からのアジア金融危機後の経済混乱に有効な手を打つことが出来なかったため、国民に見放されて、四面楚歌に陥って、民衆革命によって権力の座を追われました。長期の支配には、やはり澱みがたまるようですね。本日は3/11から丸5年の当日です。コンクリで固めた防潮堤はあちこちに出来ているようですが、それが復興に繋がっているかというと、どうもゼネコンばかりを潤し、地域の声をしっかり受け止めてのものとはなっていないようです。原発を推進すると言って憚らない首相といい、どうも今の支配層は、国民の声をしっかり受け止め、そ野実現を目指すのが民主的立憲国家の進むべき道であることが、分かっていないようですね。
2016.03.11
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クロニクル 道長摂政となる1016年3月10日(長和5年1月29日)今日は大昔平安時代を取り上げました。今年がちょうど1千年の節目にあたるからです。今日から1千年前は摂関政治の全盛期でした。道長は、摂政藤原兼家の5男でしたので、兄たちの影に隠れた存在でしたが、父を継いで摂政となった長兄の道隆、3兄の道兼の2人が、相次いで伝染病に倒れ、次兄と4兄は早逝していたため、後継のチャンスがまわってきたのです。まさに幸運児でした3兄道兼の死によって、チャンスを掴んだ道長は、兄の後継として政治の実権を握ることに成功し、やがて娘を天皇に嫁がせて、男児の誕生を待ちます。摂政や関白の座に就くには、天皇に嫁がせる娘がいること、その娘が皇子を産むことの二つが重なることが不可欠なのです。道長はこの二つともをかなえることが出来たのです。彼の娘は一条天皇、三条天皇、後一条天皇と、3代の天皇の皇后として立后しているのです。そして1千年前のこの日、眼病が嵩じた三条天皇が譲位し、道長の外孫後一条天皇が即位し、道長は摂政の地位に就いたのです。彼が、有名な「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌を詠んだのは、これから2年後のことでした。
2016.03.10
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クロニクル イタイイタイ病原告団、三井金属を提訴1968(昭和43)年3月9日48年前のことです。この日、昭和の4大公害病の1つ、富山県の神通川流域で発生した、イタイイタイ病の患者と遺族28人が原告となって、原因物質であるカドミウムを垂れ流した原因企業、三井金属鉱山を相手取って、損害賠償を請求して提訴しました。イタイイタイ病が、カドミウムの大量摂取による骨軟化症によるものであることが、厚生省の委託研究によっても、明らかにされていたこともあって、第一審は比較的スムーズに進行し、1971年6月に原告側勝訴の判決が下りました。三井金属は控訴しましたが、二審も翌年8月に原告勝訴の判決を出しました。ここに三井金属も最高裁への上告を断念し、原告側(患者側)の勝訴となりました。公害病の損害賠償訴訟の判決としては、異例の早期結審となった背景には、当時の厚生省が、原告団の提訴直後の1968年5月に、「イタイイタイ病はカドミウムの慢性中毒による骨軟化症であり、カドミウムは神通川上流の神岡鉱業所の事業活動のよって排出されたものである。」と断定し、イタイイタイ病が政府によって認められた第1号の公害病となり、三井金属を原因企業として、特定していたことにありました。こうして三井金属は、1、損害賠償金の支払い、2、農業被害の賠償と汚染土壌の復元、3、住民の立ち入り調査を認めた公害防止協定の締結、の3点を内容とする和解に応じることになりました。日本経済の高度成長期に、各地で起きた出来事でした。おそらく今は、中国やインドなどで、日本の事例をより大型にしたような、公害が発生しているのでしょうね。こうした経済成長の負の側面は、似て欲しくないと思うのですが…
2016.03.09
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クロニクル 法廷での傍聴メモ認められる1989(平成元)年3月8日27年前のことです。この日、最高裁は法廷での傍聴メモを、原則自由とする初の判断を示しました。裁判の多くは傍聴人もほとんどなく、淡々と進められるケースが多いのですが、社会的に関心を集めた裁判では、多くの傍聴人が集り、マスコミも取材を兼ねて記者等が傍聴し、報道することもあります。しかし、この日までの裁判では、傍聴者がメモをとることは禁じられていたため、傍聴後に記憶を頼りに、記事を書いたり、支援の仲間に報告したりしなければならなかったのです。この日、ようやく傍聴中にメモをとることが認められたのです。正確なメモを取るには、速記者並みのスピードが必要であるため、なお完全に正確な記録というわけにはいかなかったのですが、正確な裁判情報を伝えるための、大きな前進であったことは間違いなく、裁判報道の面では、大きな一歩前進となりました。
2016.03.08
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クロニクル ドッジライン公表1949(昭和24)年3月7日GHQ(連合国総司令部)の財政顧問として、来日中のデトロイト銀行頭取から転身したドッジ公使が、67年前のこの日、日本経済再建のための経済9原則の実施に関する声明を発表しました。この声明を通称ドッジラインと呼んでいます。このプランは、日本政府はもちろん、GHQ司令官マッカーサーらの予想も超えた厳しいものでした。ドッジは日本経済の脆弱な基盤を厳しく批判し、経済自立のためには、財政を含めた徹底的なインフレ退治が必要であるとし、緊縮財政の必要を説いたのです。そのため、この年の予算は超緊縮予算となり、巷には怨嗟の声があがり、日本経済は深刻な不況に陥ったのですが、翌年6月に始まる朝鮮戦争の特需が起死回生の妙薬となって、日本経済は軌跡の復興を遂げることになります。ドッジ公使の残した財政規律の確立は、政界の心ある人士に感銘を与え、吉田首相は退任まで、この原則を守り通して、予算の1兆円超えを断乎として認めようとしなかったことで有名です。ワンマンと呼ばれた吉田首相は、政治家は国家のために働くのであって、地元のために働くのではないと常に公言し、地元の陳情は一切受け付けなかったことでも知られ、公共事業のバラマキとは無縁な政治家でもありました。現在は、彼の爪の垢を飲ませたい政治家が多すぎるのが、日本の政治の大きな病理です。
2016.03.07
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クロニクル 野村証券と総会屋1997(平成9)年3月6日19年前のこの日、野村証券は総会屋への利益供与を認め、株主及び社会へのお詫びを表明しました。事件はこの後、山一・大和・日興の大手証券や第一勧業銀行に波及し、一勧の前会長が自殺するなど、金融界と闇の世界を繋ぐ,底知れぬ深淵を垣間見せてくれました。当時は、本当に藪を突つくと何がでてくるかといった感じでしたが、この時期に同じように問題になっていた、損失隠しのための「飛ばし」が、現在まで延々と続けられていたとは驚きでした。金融庁はいかがわしい独立系のファンドや証券屋の監視を怠っていたのでしょうね。
2016.03.06
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クロニクル 初の美人コンテスト開催1908(明治41)年3月5日108年前ですね。この日、「良家の淑女」を対象に,全国から美人の写真を募集していた「時事新報社」が、審査結果を公表しました。そうなんです。本邦初の美人コンテストは写真姿のコンテストでした。時代は明治の末ですから、洋装はごく稀で、ほとんどが着物姿だったと伝えられています。このコンテストは、世界美人コンテストを企画した、米国の新聞社「シカゴ・トリビューン」の依頼を受けて時事新報社が企画したもので、全国から1000人以上の応募があったと言われます。審査員には、洋画の岡田三郎助、彫刻の高村光雲ら錚々たるメンバー13人が名を連ね、第一次審査を通った200人を審査し、1等から3等までの3人を選び出しました。1等に選ばれたのは、小倉市長の末広直方の娘、末広ヒロ子さん。学習院女学部3年の16才でした。彼女の弟が後の法学者末広厳太郎先生です。彼女の着物姿の写真は、シカゴ・トリビューン社に送られ、翌年の世界美人コンテストで6位に入賞しました。後日談があります。お堅い学習院女学部では、「3年生が美人コンテストなるいかがわしい催しに応募し,世間に自らの写真を晒すような,恥さらしの真似をするとは嘆かわしい」と、大騒ぎになりました。その結果、気の毒にも末広ヒロ子さんは、退学処分を下されることになりました。学校の保守性というのも困ったものですが、この時代の女学校のそれはグンを抜いていたようですね。「原始女性は太陽であった」と女性の権利の主張者、平塚らいてう氏も、日本女子大学の校友会を除名されています。彼女の名誉の回復は、つい最近のことでした。
2016.03.05
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クロニクル 外国人関取の誕生1967(昭和42)年3月4日来年には半世紀を迎えるのですね。49年前のこの日、大相撲春場所(大阪場所)の番付が発表され、ハワイ出身の高見山関の十両昇進が発表されました。ここに初めて外国籍の関取が誕生しました。高見山関は、その愛すべきキャラクターで人気を集め、精進を重ねて長く幕内に留まり、活躍しました。彼の活躍でハワイ出身の力士が増え、小錦、曙、武蔵丸と大関や横綱を輩出、やがてモンゴル出身者へ、さらにはロシアや中・東欧の出身者へと広がりを見せ、今や横綱から三役まで、ほとんどが外国人力士で占められるようになりました。 半世紀の変化は大きいですね。
2016.03.04
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クロニクル 三陸大地震発生す1933(昭和8)年3月3日間もなく3・11から5年になります。83年前のこの日、三陸地方を大地震とそれに伴う大津波が襲い、死者・行方不明者3064名、 流出家屋7000戸以上という大惨事を招きました。津波の高さは、後の計測で最大23mに達していたとされました(これで、東電の想定外発言が、責任逃れのウソであることがお分かりになるでしょう)。まさに未曾有の大津波だったといえましょう。丁度この時期は金融恐慌の傷の癒えないうちに、日本も巻き込まれた世界恐慌の余波が続く不景気の最中でした。東北地方もその影響を強く受けていた時だっただけに、この被害はまさに泣きっ面に蜂の出来事だったのです。東北農村各地の村役場に「娘の身売りについてご相談下さい」との看板が出されたのは、これからしばらく後のことでした。
2016.03.03
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クロニクル 遠山の金サン登場 1840(天保11)年3月2日天保11年は、老中水野忠邦による天保の改革の開始期にあたります。この日水野は、当時勘定奉行の職にあった遠山左衛門尉景元を北町奉行に任命しました。遠山の能力を評価しての抜擢だったと言われています。「このサクラ吹雪が目に入らぬか」でお馴染みのご存知金サンの登場です。 遠山は遠山の金四郎と庶民に親しまれるさばけた性格の持ち主で、若い頃は遊里に遊び、無頼の徒とも親しく付き合っていたと言われています。しかし、背中のサクラ吹雪の刺青については、真偽は定かでありません。北町奉行に就任して、1年経った1841年には、遠山の鮮やかな裁き振りは評判を呼び、将軍家慶の目にもとまり、「奉行の艦」と称えられます。しかし、遠山奉行は、老中水野忠邦の行う天保の改革に対しては、社会の実情に合わないと批判的でした。とりわけ、41年12月に公布された株仲間の解散令は、混乱を生むだけだと強く批判し、その通達の公布を引き伸ばし、謹慎処分を受けます。こうした老中水野との対立の中、水野に忠実で過酷な取締りを強行しようとする南町奉行、鳥居曜蔵とも対立した遠山は、43年には大目付に転出して、北町奉行生活に別れを告げました。在任4年。金サン人気は、水野流の窮屈な生活を嫌う江戸の町人達の、遠山流の血の通う裁きに対するノスタルジアによって増幅され、今日に伝えられました。
2016.03.02
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クロニクル 青春18切符登場1982(昭和57)年3月1日34年前になりますから、まだ国鉄の時代ですね。それにしても、発売開始から来年で35年ですか。この日国鉄は、普通列車が1日乗り放題の企画乗車券「青春18のびのびきっぷ」の発売を開始しました。1年後名称を、「青春18切符」に変更、現在に至っています。青春の命名の通り、若者特に学生の利用を狙ったため、発売、利用できる期間は、春・夏・冬の学校の長期休暇の時期に限られるため、年間いつでも利用できるわけではありません。現在は1枚11,850円となっていますが、発売当初は8,000円でした。1枚の切符で、期間内5回の利用が可能で、1回の利用は1日で、その日のうちであれば、普通列車並びに快速列車は、何回でも、どこまででも利用できる利点がありますので、ノンビリ普通列車の旅を、楽しみたい人に、好評のようです。最近は若者以上に、リタイアしたシニア層が使っているようですね。
2016.03.01
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