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クロニクル 信越本線横川~軽井沢間運行廃止1997(平成9)年9月30日19年前になります。翌日10月1日の長野新幹線の営業開始に合わせて、この日を最後に信越本線の横川~軽井沢間の運行が廃止されました。碓氷峠を登るために、横川駅で機関車を増結するために、この駅の停車時間は長く、その長さを利用して、横川名物荻野屋の「峠の釜飯」を買うのが乗客の楽しみでしたが、ノンビリと停車中の列車を降りて、駅のホームで買い入れる楽しみは、なくなりました。この日以後、信越本線は高崎~横川間で1度切れ、横川~軽井沢間はバス輸送、軽井沢~篠ノ井間は第三セクターとなり、そして再び篠ノ井~直江津~新潟は信越本線と、長野新幹線の開通で、在来線に頼る人たちが大きな犠牲を被ることになりました。実は、群馬県の安中に新島学園という、3年前の大河ドラマでお馴染みの、新島襄が開設した私立のミッションスクールがあるのですが、電車の路線が切れたために、長野県側主に軽井沢、小諸周辺から新島学園に通う生徒達が特に大きな影響を受けることになりました。
2016.09.30
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クロニクル スペース・シャトル打ち上げ成功1988(昭和63)年9月29日28年前のこの日、NASAは、チャレンジャーの事故から2年8ヶ月振りに、スペース・シャトルを打ち上げ、無事成功させました。乗組員は、4日後に無事地球に帰還しました。
2016.09.29
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クロニクル 日本赤軍ダッカ事件1977(昭和52)年9月28日36年前のこの日、パリ発成田行きの日本航空機が、インドのポンペイ(現ムンバイ)空港を離陸直後に、日本赤軍メンバーにハイジャックされ、バングラデシュのダッカ空港に強行着陸しました。乗員14人、乗客142人の計156人が人質とされました。ハイジャックグループは、75年にマレーシアのクアラルンプルで、アメリカとスウェーデンの両大使館を占拠した日本赤軍メンバーと同一と見られ、拘留中の赤軍派メンバー9人の出国と身代金600万ドル(当事のレートで約16億円)を要求してきました。欧米からは、要求に屈せず、断固たる措置を求められましたが、時の福田赳夫首相は、「人命は地球より重い」の名せリフと共に、要求受け入れを決断、10月1日、出国を希望した6名と身代金をダッカに移送。ハイジャックグループは3日、アルジェリアに向かい、アルジェ空港で人質全員が、 無事解放されました。事件発生から、134時間後のことでした。
2016.09.28
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クロニクル 狩野川台風襲来1958(昭和33)年9月27日58年前のこの日、狩野川台風(58年産 台風22号)が、静岡県中伊豆地方を流れる狩野川を決壊させ、この地に大きな被害を齎しました。特に名湯修善寺温泉が大きな被害を受けました。死者331名、家屋の全壊及び流出1,044戸に及ぶ被害でした。翌年の9月26日襲来の伊勢湾台風の方が広範囲に及び、より大きな被害を出したのですが、関東の人間にとっては、狩野川台風の被害は忘れられまないものとなっています。 しかし、最近の日本近海で発生する台風も、各地で大きな被害を出していますね。まだまだ後続の台風が続きそうですから、お互い気をつけましょう。
2016.09.27
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クロニクル ケネディvsニクソンのTV討論1960(昭和35)年9月26日米国の大統領選、今週は候補者によるテレビ討論が予定されたいますね。今年の選挙は今ひとつ盛り上がりに欠けているようですが、さてどうなるのでしょう。さて、この候補者同士のテレビ討論、56年前のこの日、共和党並びに民主党の候補によるTVでの公開討論会として、初めて実施されました。共和党の候補は、アイゼンハワー大統領の下で副大統領を務めて頭角を現したニクソン候補。民主党の候補は、弱冠43歳のケネディ候補でした。討論では、当時無名だったケネディ候補が優勢で、ニクソン候補は押されっぱなしでした。こうして、史上稀に見る大激戦を、ケネディ候補が制することになったのです。 敗れたニクソン候補は8年後、68年の大統領選に再び共和党の候補となり、民主党のハンフリー候補を僅差でやぶって、念願の大統領に就任しています。
2016.09.26
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クロニクル 日本中央競馬会(JRA)中央競馬初開催1954(昭和29)年9月25日中央競馬(ちゅうおうけいば)とは日本中央競馬会(JRA)が主催する競馬を指します。62年前のこの日、その中央競馬が東京競馬場と京都競馬場において初めて開催されました。レースは午前10時頃から、午後4時過ぎ頃まで、1日に12レース行われることが一般的なようです。
2016.09.25
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クロニクル 天草五橋開通1966(昭和41)年9月24日ちょうど50年前、東京五輪の2年後のことです。この日、天草五橋が開通しました。天草五橋の呼称は、熊本県宇土半島先端の三角(みすみ)から、天草諸島の大矢野島、永浦島、池島、前島を経て天草上島までを結ぶ5つの橋の総称です。当初は償還期間に39年を見込んだ有料道路でしたが、橋の開通により天草への観光客が急増し、モータリゼーションの進展なども含めた交通量の増大により、わずか9年で償還を完了して、無料化されました。一号橋から五号橋までの国道266号及びこの道路に重複する国道324号は、天草で真珠の養殖が盛んなことから天草パールラインと名付けられて、日本の道100選にも選ばれています。また、大矢野島から上島までの間3km足らずは小さな島づたいで、二号橋・三号橋・四号橋・五号橋がほぼ連続しています。その間の両側の海に大小さまざまな島が浮かぶ風景は、天草松島と呼ばれ日本三大松島の一つに数えられています。
2016.09.24
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クロニクル 加波山事件1884(明治17)年9月23日加波山事件は、自由民権運動の過程における、激化事件の一つです。自由民権運動のなかで、急進的な考えを抱いた若い民権家たちが、準備の整わないうちに決起したため、簡単に鎮圧されてしまった事件です。現在から132年前の出来事です。福島事件にも関係した河野広体(河野広中の弟)らのグループが中心で、これに茨城や栃木の民権家が加わっていました。栃木県庁落成時に、民権運動を厳しく弾圧した県令三島通庸(現在の県知事)や、集まった大臣たちを爆殺しようという計画でした。しかし、爆弾は製造中に誤って爆発してしまい、計画がもれてしまったため、茨城県の加波山山頂付近に立てこもり、「圧制政府転覆」「自由の魁」などの旗を掲げ、決起を呼びかけるビラを配り、警察署や豪商の館を襲撃したりしたのですが、多勢に無勢で、この日の内に、数時間で鎮圧されました。
2016.09.23
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クロニクル 日本初のBSE患者確認2001(平成13)年9月22日昨日は、BSE牛の日本での発生を取り上げましたが、同じBSEでも、今日は人間のBSEです。15年前のこの日、千葉県で日本初のBSE(牛海綿状脳症)感染者が確認されました。BSEは1990年代に欧州諸国で大流行し、放牧牛を中心に大量の被害がでたのですが、病気の牛を食べた人間にも、同様の症状が現れることが確認されました。人への感染被害はイギリスが中心でしたが、やがて、カナダ経由で米国でも、被害が確認されました。しかし、日本人に比べ、はるかに多くの牛肉を口にし、脳漿や臓物なども口にする欧米人に比べ、日本人が感染する確率ははるかに低いだろうと考えられていただけに、この日の感染確認は、センセーショナルでした。この男性は、90年代に1ヶ月程度、イギリスに滞在し、勧められるままに、牛の脳漿を口にしたことが分かり、日本国内での感染とは異なるらしいことが明らかとなりましたが、その後、日本への牛肉輸出の多い米国で、BSE牛が発見されると、かなり長期にわたって米国からの牛肉輸入がストップするなど、食の安全を巡る議論がしばらく賑やかになりました。
2016.09.22
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クロニクル 狂牛病遂に日本でも...2001(平成13)年9月21日15年前のことになります。この日、千葉県で日本初の牛海綿状脳症(BSE、狂牛病)を発症した牛が見つかったことを、厚生労働省が確認しました。11日前の10日に発生の疑いがある牛についての報告があり、以後経過観察を続け、この日BSEに感染してることを確認しました。マスコミや国民への発表は、翌日の22日となりました。なお、現在では狂牛病という呼び方を廃して、BSEと呼ぶことに統一しています。
2016.09.21
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クロニクル 野坂名誉議長解任1992(平成4)年9月20日24年前になります。この日、日本共産党の中央委員会は、野坂参三名誉議長の解任を発表しました。野坂氏は昭和前期の左翼勢力や自由主義者の大弾圧期に、中国に脱出して逮捕を免れ、戦後しばらくして帰国。宮本顕治氏らと共に、党を指導しました。ソフトな語り口と穏やかな人柄が受け、激戦の参議院東京地方区において、連続当選を続けるなど、共産党の看板を背負う大スターでした。ところが、中国滞在中に仲間に対する裏切り行為あったことが明らかとなり、この日解任されました。彼の解任は、ソ連の解体、ソ連共産党の解散によって打撃を受けていた共産党にとって、さらなる打撃となり、党勢の退潮は覆いがたいものとなりました。 この状態から共産党の党勢が回復に向かうのは、アベノミクスが始まり、大企業と少数の富裕層のみの優遇政策に、多数の貧しき市民たちの反発が強まった、ここ数年のことになります。
2016.09.20
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クロニクル アイスマン発見1991(平成3)年9月19日あれから25年経つのですね。この日、ヨーロッパアルプスの氷河で、約5300年前の男性のミイラが発見され、「アイスマン」と名付けられました。発見場所のエッツ渓谷は、オーストリアとイタリアの国境地帯に当たりますが、発見されたのは、国教から100メートル弱イタリア側だったことから、発見者はオーストリア警察に届け出たのですが、ミイラはイタリア警察に引き渡されました。なぜ警察かですか。それはミイラといえども死体は死体だからです。で、アイスマンの遺体はは、現在もイタリアで厳重に管理され、大切に冷凍保存されているそうです。
2016.09.19
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クロニクル 満州事変ここに始まる1931(昭和6)年9月18日85年前のこの日、夜10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近で、関東軍参謀の板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐ら数名の計画の下に(実行は河本末守中尉ら)、満鉄の線路の一部を爆破しました。爆破といっても、列車の運行には支障のない程度の、ごく小さな爆破だったのですが、関東軍は、ただちに中国軍の仕業と断定して、満州(現中国東北地方)各地の制圧に乗り出し、満州全土の制圧を目指したのです。ここに満州事変の口火が切られ、日中15年戦争が開始されました。若槻内閣は、不拡大方針を唱えていたのですが、出先軍部(関東軍)は、統帥権の独立を楯に、政府の方針を無視して戦争を拡大、ついには満州国の建国にまで至ったのは、ご存知の通りです。 ここに日本の国際信用は、地に落ちました。
2016.09.18
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クロニクル 自衛隊海外へ1992(平成4)年9月17日もう24年も経ったのですね。この日、8月10日に施行されたPKO協力法に基づいて、自衛隊の第1陣がカンボジアに向けて,広島県の呉港を出発しました。戦後の日本は、平和主義を国是に、2度と戦争の惨禍を引き起こさないことを誓い、国際紛争解決の手段としては、武力による威嚇も、武力の行使も決して行なわないことを宣言しました。そしてそのために、陸・海・空軍その他の戦力はこれを保持しないと高らかに宣言しました。私はこの精神を大いに評価し、世界に対して誇らしく思っています。それが、いつのまにか自衛のための戦力は、国際紛争解決に使うわけではないから……とこじつけて、自衛隊は軍隊ではないと,言い逃れて…、次第に戦力を整え、自衛の…という言い訳が国際的に通用しなくなると、今度は国際貢献を…と論点をすり替え、治安維持部隊は紛争に参加するわけではないとこじつけて、とうとう自衛隊を海外に派兵するに至ってしまいました。カンボジアに続いてはアンゴラ、続いてと、遂にはあの不道徳なイラク戦争のイラクにまで、自衛隊は派遣され、さらにはインド洋で、海上自衛隊が給油という名の、作戦行動に従事し、現在では遠くアフリカのスーダンにまで出かけています。そして昨年の「安保法制」、随分きな臭くなってきましたね。私は戦争は外交努力の失敗の結果と考えていますので、戦争に訴えることには、あくまで反対です。
2016.09.17
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クロニクル 鳩山由紀夫内閣誕生2009(平成21)年9月16日あれから7年なんですね。ハトポッポと後に呼ばれることになる、民主党代表の鳩山由紀夫氏が第93代内閣総理大臣に選ばれ、民主党、社会民主党、国民新党の3党連立内閣が誕生しました。それにしても、あれから7年ですか。「あの時の熱気、あれはいったいどこに消えたのでしょうね」。 そんな風に感じてもう長いです。それでもなお、世論はまだ民主党政権を許す雰囲気にないですね。「あの政党が政権に就くのだけはやめてくれ」、こんな空気がまだまだ強いですね。そのハトポッポさん、今でも節目節目で登場しては、民主党(現民進党)の足を引っ張り続けています。まったく空気の読めない困った御仁です。
2016.09.16
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クロニクル 立憲政友会結成1900(明治33)年9月15日19世紀最後の年ですから、116年前のことです。この日、午前10時より、帝国ホテルで立憲政友会の結成大会が開かれました。総裁に就任した伊藤博文は、「これからの政党は、国家の利害を第一義として、私的利害を捨てて活動すべきである」と強調しました。日本の政党は、自由民権運動を背景に、1890(明治23)年の国会開設に先立ち、板垣退助らの自由党と大隈重信らの立憲改進党等が、反政府派によって結成され、総称して民党と呼ばれていました。これに対し、政府支持派による政党作りは遅れていました。政党作りを意識するようになったのも、伊藤が1898(明治31)年に第3次内閣を組織した際に、その必要を感じたのがきっかけでした。この時の伊藤の試みは成功しなかったのですが、それから2年、ようやく最初の政府系政党(政府党と言われます)として、この日の立憲政友会の結成となったのです。こうして政府支持派も反政府派も、政党に結集して理非を争う時代が到来しました。日本にもようやくにして、政党政治の時代が訪れたのです。この立憲政友会を基盤に、翌月には第4次伊藤内閣が誕生し、閣僚のほとんどが立憲政友会の党員が占める内閣(陸相、海相、外相以外の全員)が登場しました。
2016.09.15
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クロニクル 「二十四の瞳」封切り1954(昭和29)年9月14日62年前になるのですね。この日、壺井栄の小説『二十四の瞳』を原作に、木下恵介監督が自ら脚本も手がけた松竹映画、『二十四の瞳』が封切られました。主演の大石先生に高峰秀子、男先生に笠智衆、他に渋い脇役陣を揃えていましたが、12人の分教場の生徒達が、生き生きとして見事な準主役振りを発揮していました。封切り直後から人気が高く、同年製作の『七人の侍』を抑えて、各映画賞を総なめにしました。映画の舞台は壺井栄の故郷小豆島。撮影も夏や春など学校の休暇を中心に、岬の分教場を借用して行なわれました。私自身は、1978年に当時はそのまま保存されていた分教場を訪ね、実際に撮影に使われた教室に座ってみたことがあります。学校からすぐの砂浜からは、子ども達が歩いて渡った湾が続いていましたが、海のきれいだったことが忘れられません。87年にリメイク版が製作され、その時のセットを活用して、「二十四の瞳映画村」が小豆島に設けられていると聞きますから、分教場も補強されながら維持されているのでしょうね。もう一度行ってみたい所の一つです。
2016.09.14
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続・鉄道の開通昨日のクロニクルの続編です。ところで、明治5(1872)年の日本に独自技術で鉄路を作り,機関車を作る実力はまだありませんでした。ですから、鉄路も機関車や客車もいずれも輸入品でした。イギリスが狭軌の鉄道を広軌の鉄道に切替えていたため、不要になった狭軌の機関車や客車を譲り受けたのです。新品を購入するほどの資金がなかったのかもしれませんが、それ以上に1日も早く鉄道をという、新政府の意気込みが中古品でも早く引き渡してもらえる方が良いという、判断に繋がったのです。さて、駅は当時停車場と呼ばれていたのですが、その停車場の位置は、新橋は汐留にありました。既成の市街地の一角を壊して、そこに鉄道を引き入れ,大名屋敷の敷地に停車場が作られたことは、汐留の再開発のために近年実施された発掘調査で明かになっています。一方横浜停車場は、市街地には入らず開港場の北西の外れに出来たばかりの埋立地でした。現在の桜木町駅がその後身です。開業当初の新橋ー横浜間の所要時間は53分。運賃は上等が1円25銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘の3段階になっていました。現在の2段階になったのがいつかは、忘れてしまいましたが、私の子どもの頃はまだ、1~3等の3段階だったことを覚えています。ところで、この当時の1円は、現在価値に直すと、ほぼ1万円にあたります。また明治30年代半ばでは、何度かのインフレを経験した結果、1円の価値は、3800円程度に落ちてました。1日の運行本数は午前に4往復、午後に5往復の9往復でした。停車場は途中に、品川,川崎、鶴見、神奈川の4ヶ所が設けられていました。
2016.09.13
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クロニクル 砂川基地反対闘争佳境に1955(昭和30)年9月13日61年前のことです。日本の敗戦から10年、米ソ冷戦はいよいよ激しく、アメリカは日本国内の空軍基地の拡張を急いでいました。そこで考えられたのが、既存の立川基地に隣接する砂川町に基地を拡張することでした。この日、反対派農民の声を無視して、政府は強制測量を実施。警官隊と反対派が激しくぶつかり合い、多数の怪我人が出ました。時移りて、立川基地は返還され、朝霞の駐屯地も返還、三多摩地区の米軍基地は、今や横田基地を残すだけになりました。
2016.09.13
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クロニクル 新橋~横浜鉄道開通1872(明治5)年9月12日144年前のこの日、明治天皇をお迎えして,新橋・横浜の両駅で鉄道の開業式が行なわれました。当初は9日に予定されていたのですが、台風の襲来が予想されたために、12日に延期されたものでした。いかにも日本の9月という感じがします。一般客を乗せる本格的な営業は、翌13日から開始されました。この日天皇は新橋から乗車、小1時間の旅で横浜に到着、式典後すぐに列車で新橋に戻り、新橋でも式典を行ないました。この日新橋駅では、観客席が設けられたのですが、先着の約2万名に赤飯を配り、天皇が戻られるのを待ったといいます。観客は出発後,僅か3時間程度で天皇が戻られたのを知り、あまりの早さにびっくり仰天し、陸蒸気(おかじょうき)と呼ばれた鉄道のスピードに感心しきりだったと、伝えられています。
2016.09.12
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クロニクル 藤山・ダレス会談1958(昭和33)年9月11日58年前になります。この日岸内閣の藤山愛一郎外相と、米国のダレス国務長官とが米国で会談、日米安全保障条約の改定交渉を行うことで合意しました。この合意に基づき、10月4日から、東京で、安保条約の改定に関する交渉が開始されました。戦後日本における最大の反政府闘争に発展する安保(改訂)反対闘争の芽は、ここに芽生えたと考えることが出来ます。その反対のエネルギーの根幹は、二度と戦争はごめんだという、民衆の反戦のエネルギーにありました。現在の世相を見ると、隔世の感を覚えるのは、私だけでしょうか。
2016.09.11
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クロニクル カラーテレビの本放送始まる1960(昭和35)年9月10日56年前のこの日、NHKに民放各局を含めた五つの放送局で、一斉にカラーTVの本放送が始められました。肝入りは政府、とりわけ郵政省と通産省の連係プレーでした。4年1ヶ月後の1964年10月10日には、東京オリンピックが開幕することが決まっていましたから、その五輪中継をカラー放送で中継すれば、カラーテレビ受像機の売り上げは、飛躍的に伸びることが期待できる。こう考えて電機業界に発破をかけた通産省と、カラー受像機が増えれば、カラー契約によって受信料収入が飛躍的に伸び、NHKの経営改善になると期待した郵政省の思惑が、見事に一致したのです。こうして、この日始まったカラー本放送は、今から見ると色も悪く、色合いや濃淡の調整に苦心するシロモノでしたが、映画のような天然色が可能になったと、国民の興味を大いにそそったのです。当初のカラー番組は1日に1番組程度でしたが、次第にカラー番組が増え、ナイター中継も63年にはカラー化し、オリンピックのカラー中継にメドをつけたのです。そこからです。「オリンピックをカラーで見よう」の一大キャンペーンが華々しく展開されたのは…かくいう私は、当時大学生でしたが、我が家のテレビがカラー化したのはオリンピックの一ヶ月くらい前の事だったのを覚えています。
2016.09.10
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クロニクル 毛沢東主席没す1976(昭和51)年9月9日40年前になります。中国共産党の最高責任者毛沢東党主席が、この日82歳で没しました。同年1月8日に78歳で没した周恩来首相に続く死でした。これを受けて約40日後の10月22日には、毛氏の未亡人の江青夫人らの文革4人組が逮捕されるなど、中国では文化大革命路線からの脱却が、急ピッチで進めれることになりました。晩年の毛主席は、文化大革命の名による権力闘争に明け暮れるなど、マイナスの面が目立ったのですが、中国における社会主義建設の大功労者の死は、一つの時代が終ったことを、世界に自覚させる効果を持ちました。
2016.09.09
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クロニクル セロテープ登場1930(昭和5)年9月8日86年前になりますね。米国ミネソタ州に本社を置く3M(スリーエム)社が、この年セロハンテープを開発、発売しました。日本へはGHQが持ち込み、米国からの輸入は時間がかかるため、ニチバンに製造を依頼し、同社が約1ヶ月で製品化したのが、最初です。なお、セロテープという呼称は、その折りにニチバンが登録商標として申請、認められていますので、正確には、ニチバン製品にしか使えない名称なのだそうです。でも、つい使っちゃいますよね。
2016.09.08
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クロニクル 西ドイツ成立1949(昭和24)年9月7日ドイツの統一から四半世紀が経過し、今では西ドイツと聞いても、若い方はピンとこないかもしれませんね。67年前のことです。この日、通称西ドイツ、ドイツ連邦共和国が誕生しました。旧ドイツのうち、米・英・仏西側三国が管理する地域(西ベルリン含む)です。この西ドイツの誕生を受け、1ヶ月後の10月7日、ソ連管理地域に東ドイツ、ドイツ民主共和国が誕生しました。ここに、米ソの冷戦体制が進む中で、ドイツは東西の分断国家として、米ソ冷戦の最前線に立つことになったのです。89年に崩壊したベルリンの壁の建設は、この時から12年後のことでした。この東西ドイツ、1990年に統一ドイツとなり、現在に至っています。ドイツ統一から24年。日本の植民地だった朝鮮半島の統一は、いったいいつになるのでしょうね。
2016.09.07
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クロニクル ミグ25戦闘機函館に飛来1976(昭和51)年9月6日40年前のことになります。この日午後1時48分頃、ソ連の最新鋭ジェット戦闘機ミグ25 1機が、函館空港に強行着陸しました。乗っていたのはべレンコ中尉で、アメリカへの亡命を決意して飛び立ったが、燃料の不足に気づき、函館に方向転換したということでした。この時、自衛隊の防空レーダー網は、全く同機を捉えることが出来ず、防空レーダーに重大な欠陥があることも、明らかになりました。それは、低空でやってくる機影は全く捕捉出来ないことでした。ところでミグ25は、ミサイル4発を搭載できる上に、最高速度マッハ3,2という当事の世界の最新鋭機でした。ソ連のトップシークレットが飛来してきたわけですから、大騒ぎです。べレンコ中尉は3日後の9日に、米国亡命が認められ、アメリカに旅立ちましたが、ミグ機をどうするかが問題でした。日本側は、ミグ機を解体調査の上、その完了を待って、11月12日にソ連に引き渡しました。 日本側の調査結果は、ただちに米軍に伝えられましたから、この事件で最も得をしたのは、米軍でした。
2016.09.06
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クロニクル 全国全共闘連合結成大会開催1969(昭和44)年9月5日47年前の今日のことです。東京日比谷の野外音楽堂で、全国全共闘連合の結成大会が開かれ、全国200以上の大学から夫々の全学共闘会議(略称 全共闘)の代表が参加しました。しかし、この時既に、全共闘運動のピークは過ぎていました。先駆した東大と日大のバリケードは、既に機動隊によって解除されていました。新年度に入ると、各地の大学に全共闘の組織が誕生し、様々な学内問題が白日の下に晒され、多くの大学でストライキやバリケード封鎖がはじめられました。この年、全国の国立大学は75、公立大学は34、私立大学は270でしたが、総計379大学のうち、300近くの大学で、全共闘組織が存在することになったのです。このうちバリケード封鎖を実行中の大学は、165校に達していました。革マル派、中核派、共産同赤軍派など、四分五裂して8派とも9派とも呼ばれる学生運動の諸潮流は、全共闘運動への自派の影響力の増大をめざして、積極的にこの連合に関わろうとしていましたが、全共闘運動の本来の主役であったノンセクト・ラジカル、即ち組織に加わらない学生・院生たちは、さめた意識で全共闘連合を眺めていました。本当の主役がさめている時、運動が盛り上がることは期待しにくく、セクト間の主導権争いが激しくなるにつれ、ノンセクトの学生たちは、全共闘連合の運動からは手を引いていき、運動は3号の機関紙を発行しただけで、翌年の1月には、解散消滅するに至りました。 全国全共闘連合は、全共闘運動の幕引きのために、誕生した組織だったのです。
2016.09.05
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クロニクル 関西国際空港(関空)開港1994(平成6)年9月4日関西国際空港、通称関空が開港して、今日で22年になるのですね。日本初の完全人工島の空港として、泉佐野市に近い泉州沖に作られた、成田空港の3倍の敷地を持つ広い空港です。こちらも日本初の貨物・旅客合わせた完全24時間空港としての、オープンでした。2007年に完成した4000メートルのB滑走路が、3500メートルのA滑走路と併用されるため、滑走路の保守点検のための閉鎖の時間も、A,B2本の滑走路で調整できるため、離着陸を含め完全24時間制が可能となっています。しかし、24時間空港を狙いとしたため、関西の拠点である大阪や神戸から遠い、和歌山県との県境に近い泉州沖に建設されたため、特に国内便などでは伊丹空港や新神戸空港との競争に勝てず、旅客需要は伸び悩み、折からの国や府の財政難もあって、施設とサーヴィス面で大きな問題を抱え、アジアのハブ空港としての競争力を高めることは出来ず、多くの問題を抱えたままになっているのが残念です。
2016.09.04
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クロニクル Bunkamura開業 1989(平成元)年9月3日もう27年になるのですね。この日、東京渋谷の東急本店に並んで、日本で始めての大型複合文化施設Bunkamuraが開業しました。コンサートや観劇、美術展の見学などで、私も月1程度は出かけています。若者が多いですが、行儀の良しあしは様々ですね。でも、行儀の一番悪いのは、ここでもおばちゃま達の集団です。追記 ブロ友のnikさんが、昨日と本日、水害に悩む岩手の岩泉村を視察に訪れた復興大臣政務官のあきれた行動を、映像つきで厳しく批判する渾身の記事をアップしておられます。是非拡散に力をお貸しください。彼のブログのURLは以下の通りです。http://plaza.rakuten.co.jp/chikyuunosannpo/
2016.09.03
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クロニクル 清国、科挙を廃止1905(明治38)年9月2日111年前のこの日は、日露戦争の講和条約がほぼまとまりつつあった時でした(正式調印は9月5日)。そのまさに同じ時期に、清国政府は、ようやくというべきなのでしょうが、科挙制度の廃止に踏み切りました。科挙制度は、中国歴代王朝の官吏登用試験として、隋代の598年に導入されて以来、何度かの改変を経ながら、営々と続けられてきました。導入時の触れ込みは、「高級官僚を門閥貴族が独占する弊害を排し、自らの能力に応じて、官吏を志願する道を士庶に平等に開き、有為の人材を登用する」ことと、されていました。そこでは、国家及び君主が厳密な試験を課すことによって、君主独裁と国政の中央集権化を図ることが、目標とされました。この科挙制度は、隋唐時代を経て、宋の時代に州試・省試・殿試という3段階制が整い、また朱子学が採用されて、完成の域に達しました。明・清時代には、科挙に加えて、学校制度も整えられましたが、競争の激化と厳しい受験戦争の結果、財力のある者しか受験勉強を続けることが出来ず、広く人材を集めるという、当初の趣旨は忘れられ、弊害ばかりが目立つようになっていました。とりわけ、アヘン戦争以後の欧州列強との接触や交渉、改革の必要性の高まりの中では、慣例を重視し、古来からの方式を善しとする訓練ばかりを積んだ官僚機構は、全くの機能不全に陥り、改革阻害勢力としてしか、機能しなくなっていました。バブル崩壊後のどこかの国の官僚機構の姿が、浮かびますね。1894~95年の日清戦争の敗北は、改革の機運を強めましたが、なお保守派の勢力が強く、それから10年を経て、ようやく科挙制度の廃止に至ったのです。しかし、とき既に遅く、幹の腐った清帝国は、それから6年後の1911年、孫文ら革命派の蜂起によって、あっけなく滅びさりました。
2016.09.02
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クロニクル 第1回芥川賞と直木賞発表1935(昭和10)年9月1日今年で81年になるのですね。この日、最初の芥川賞と直木賞が発表されました。芥川賞は、大正期を代表する作家芥川龍之介の業績を記念して、友人だった菊池寛が直木賞と共に創設したものです。翌年から年2回発表されるようになりました。戦後は45年~49年まで中止となっていましたが、その後回復、現在のに至っています。なお記念すべき第1回受賞者は、石川達三の「蒼氓」 、直木賞は川口松太郎「鶴八鶴次郎」でした。この第1回芥川賞では、下馬評では太宰治が本命とされていましたが、選考委員の1人だった川端康成が、太宰の生活が荒れていることを不安視して強く反対したのです。その結果、太宰は受賞を逃し、石川達三の受賞となリました。
2016.09.01
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