フランス革命(9)
パリ民衆によるバスチーユ襲撃と占領は、結果として国民議会の危機を救い、パリ市の市政革命を実現し、革命の第1段階の勝利を決定づけました。パリ市長やバスチーユの司令官らの虐殺もありましが、それは、この2人が宮廷(宮廷=国王ではありませんので、ご留意下さい)と結んで国民を裏切ったという「貴族の陰謀」の嫌疑をかけられたからでした。この「貴族の陰謀」という観念は、民衆クラスのみでなく上層ブルジョワにも浸透していたため、一部に行き過ぎはあったのですが、14日の行動は第三身分全体に支持されたのでした。
そしてこのパリの出来事は、近いところから順に地方へと伝わっていったのです。地方の都市では、16日から19日にかけて、パリにならって続々と市政革命が行なわれます。中央の国王の政府から派遣された各地の知事や市長から、地方諸都市が自治権を回復していったのです。やがては地域的な都市連盟が作られるようになります。地方諸都市を中心に、フランス革命は全国化したのです。しかし、運動は都市に留まりませんでした。人口の多数が農民である時代では、農村の動向が大きな意味を持ちます。都市にやや遅れて、農村も動き出したのです。
「貴族の陰謀」の観念は、農村にも広く流布していました。領主に封建地代を払わされているのですから、当然といえば当然ですが… 当時の農民層は全人口のおよそ8割近くだったようです。その農村が動き出したのです。農民の多くは貧農です。彼等の保有地は自給規模には遠く達しないため、不足分は小作農として地主の土地を高い小作料を払って借りたり、日雇い仕事をして生活していました。当然そうした現状への不満は高まっています。三部会の議員を選ぶ各地の初級選挙集会での、陳情書の作成を通じて、議会への貧農の期待は大きく膨らみました。しかしその議会の動きは鈍く、農民の苦境はいっこうに改善されませんでした。
ですから、14日の情報が農村にも伝わるようになると、いくつかの地域では、評判の悪い領主の館が襲撃され、焼討ちされました。この行動が今度は農村のネットワークを通じて広まってゆきます。「森から見なれない人影が出てくるのを見た」とか、「浮浪者が何人も領主館に入っていくのを見た」といった、極めて不確かな情報で、農民達は領主の館を襲撃し、羊皮紙に書かれた古文書類を焼いたり、領主館そのものを全焼させたりしたのです。こうした動きは20日過ぎから見られるようになりますが、ここから8月上旬にかけて、まるで野火のように各地へ伝染していったのです。そうです。農村もまたバスチーユ襲撃の影響を受けて革命的行動に立ち上がったのです。「貴族の陰謀」に怯えた結果の行動だったことから、この運動は「大恐怖」と呼ばれています。こうしてフランス革命は、早くも全国化したのです。
しかし、都市の大ブルジョワの中には、農村に土地を所有し、地主として収益をあげているケースも多く、大貴族たちと同じく、「大恐怖」の動きには神経質にならざるをえません。かといって、鎮圧に国王の軍隊の力を借りることも出来ません、そこで考えられたのが、「8月4日夜の宣言」として知られる「封建的諸権利の廃棄の宣言」です。続きは明晩 続く
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