ザビ神父の証言

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2008.01.23
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カテゴリ: 国際政治
第一次世界大戦(53)  

ヌイイ条約

1915年10月にドイツ・オーストリア側に立って参戦したブルガリアとの講和条約が、19年11月に結ばれたヌイイ条約でした。パリ近郊のヌイイ=シュール=セーヌにブルガリア代表を呼びつけて結ばれたものでした。

ブルガリアは長くオスマン帝国の支配下にありましたが、1875年バルカン半島のセルビア・モンテネグロ・ボスニアなどと共に、オスマン帝国からの独立運動を起こし、この間紆余曲折がありましたが、1878年のサン-ステファノ条約とベルリン会議を経て、オスマン帝国内の自治国の地位を獲得しました。ツルゲーネフの『その前夜』が描く、ブルガリア独立運動はこの時期のことを描写しています。

その後、1912~13年の2度のバルカン戦争で、セルビアとマケドニアの領有を争って敗れたことから、セルビアに深い遺恨を抱いていたことが、ドイツ・オーストリア側に立っての参戦の理由でした。

当初は優勢に戦いが進みましたが、次第に形勢は逆転、マケドニア戦線はイタリア・イギリスらの連合軍の制圧するところとなり、1918年9月の戦闘でブルガリア軍は崩壊してしまいます。劣勢のドイツ、オーストリアにブルガリア救援は不可能だったため、万策尽きたブルガリアは、9月27日に休戦を申し出、29日に休戦が成立していました。

ドイツ側同盟諸国で,最初に白旗をあげたのがブルガリアだったのですが、講和は先ず、ドイツそしてオーストリアと行われ、革命中のハンガリーを後回しにして、3番目に呼び入れられたのがブルガリアでした。

ブルガリアは新たに誕生するユーゴスラヴィア、ルーマニア、ギリシアの3国に領土を割譲することを強いられ、さらに軍備の制限と4,5億ドルの賠償を押しつけられたのです。このうち賠償額は後に8,400万ドルに減額されましたが、貧しい小国の国民にとっては、大変な負担となりました。

小国の施政者のポピュリスムが、前後を弁えずに、国民のナショナリズムを煽ることが、いかに無責任で危険な事かが良く分かる事例を、ブルガリアのケースは示してくれています。最近の日本も、この点に気をつけたいものですね。





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最終更新日  2008.01.23 13:47:06
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