ザビ神父の証言

ザビ神父の証言

2010.04.17
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カテゴリ: 外国史
ハイチに贈る(87)

フランソワ・デュバリエは、農村医療に従事する医師として住民に慕われる傍ら、ブードゥー教に関する著作を著すなど、アフリカ系黒人の伝統を賛美する文化人としても、知られました。

1946年のクーデタで誕生したエスティメ政権では、乞われて保健相に就任、次いで労働相として、医療、労働などの困難な問題を手がけました。この時期のデュヴァリエは、進歩的な政策を推進し、黒人進歩派として認められ、貧民層からは「パパ・ドク」と呼ばれて慕われていました。

マグロワール政権が倒れた後、黒人とムラートの対立で政局の混乱が続く中、1957年の大統領選挙に立候補したデュヴァリエは、黒人主義の旗を高く掲げて黒人層の支持を固め、当選を果たします。

就任直後のデュヴァリエは、それまで抑圧されてきたブードゥー教の正当性を認めたり、国民の福祉を重視するなど、進歩的な政策をとって国内改革を進め、ムラートが独占してきた多くの公職の門戸を、黒人にも開放しています。

しかし、徐々に独裁色を強め始め、60年代に入ると、軍の指導者を1人また1人と失脚させて軍を分断し、自分に忠実な部下を送り込んで軍を掌握します。次いでキリスト教会から外国人司祭を追放して、アフリカ色を強めてローマ教皇庁から破門されます。この時国民の多くは、破門されたデュヴァリエを支持しました。この国民の支持を背景にして、後デュヴァリエは教皇庁と和解し、不在の聖職者の任命権を賦与されます。この結果デュヴァリエは、自らの息のかかった聖職者を任命する権利を入手し、教会を勢力下に置くことにの、成功したのです。

さらにデュヴァリエは、秘密警察「トントン・マクート」を組織して、社会の隅々にまで監視の網の目を広げたのです。当然野党は全て非合法化して解党に追い込みました。デュヴァリエや政府を批判する人物は、悉く逮捕・処刑され、このため多くの人材が欧米に亡命してしまい、ハイチは人材の枯渇に悩むことになったのです。
                           続く





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最終更新日  2010.04.17 12:53:07
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