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ネットの毎日新聞2016年8月20日の報道によりますと、「首相がハリス米太平洋軍司令官に反対の意向を伝えたと米ワシントン・ポスト紙が報じたことについて、『核の先制不使用についてのやりとりは全くなかった。どうしてこんな報道になるのか分からない』と否定した。羽田空港で記者団に答えた」とのことです。 この報道を目にして、安倍首相はオバマ大統領が核兵器の先制攻撃不使用宣言に賛成しており、米ワシントン・ポスト紙の報道が誤っており、安倍首相は日本の首相として当然の立場を表明したものと思いました、 ところが、この記事の後半に「先制不使用については『米側は何の決定も行っていないと承知している。今後も米国政府と緊密に意思疎通を図っていきたい』と述べるにとどめた。【梅田啓祐】 」とありました。 オバマ大統領が核兵器の先制攻撃不使用宣言を世界に向けて発したい意向にもかかわらず。米国政府高官や米国議会内に存在する強硬な反対意見により、残念ながら未だ米国の決定とはなっていないことは周知の事実ですね。安部首相はこの事実を言ったまでで、首相自身の見解は何も表明していませんが、首相の本音はどこにあるか自ずと伺うことができますね。
2016年08月21日
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毎日新聞2016年8月16日の「核先制不使用、米司令官に反対伝える 米紙報道」との見出し記事があり、つぎのようなことを報じています。「【ワシントン会川晴之】米ワシントン・ポスト紙は15日、オバマ政権が導入の是非を検討している核兵器の先制不使用政策について、安倍晋三首相がハリス米太平洋軍司令官に「北朝鮮に対する抑止力が弱体化する」として、反対の意向を伝えたと報じた。同紙は日本のほか、韓国や英仏など欧州の同盟国も強い懸念を示していると伝えている。 」 同記事はまた安倍首相が核先制不使用宣言に反対する理由として、ハリス米太平洋軍司令官との会談でつぎのように述べたとのことです。「安倍首相は米国が『先制不使用』政策を採用すれば、今年1月に4度目の核実験を実施するなど核兵器開発を強行する北朝鮮に対する核抑止力に影響が出ると反対の考えを述べたという。」 唯一の被爆国である日本の首相がオバマ大統領の核先制不使用宣言に反対しているとの報道に驚愕し、激しい怒りを覚えるとともに、安倍首相の反対理由が「北朝鮮に対する核抑止力に影響が出る」という理解不能の説明に困惑させられます。 北朝鮮が最も恐れ、核開発に力を入れている理由が、米国による核の先制攻撃であり、それに対する抑止力を持としていることは自明の事実です。米国の核先制不使用宣が北朝鮮の核開発促進をさらに一層進めることになるとは思えません。核保有国が相手の核先制攻撃に怯えて核軍備を増強し核開発を促進する愚かな現状に少しでブレーキを掛けるべきです。 18日15:48のTBS Newsに拠ると、民進党の岡田代表が「安倍総理自身がアメリカが検討する核の先制不使用について、何らかの見解を述べた事実があるのか、国民に対して明らかにする責任があるという考えを示しました」と発言したとのことですが、安倍首相は正々堂々と国会でその愚劣な見解を表明し、国民の意見を求めるべきですね。 なお毎日新聞の同記事によると核保有国の「米、露、英、仏、中国の5カ国の中では現在、中国のみが先制不使用を宣言している」とのことですから、米国はもちろん他の保有国も先制不使用を宣言してもらいたいですね。
2016年08月18日
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私にとって在職時代はコンビニはあまり縁の無い存在でした。ところが退職後、健康のために家から歩いて買い物に行くことが多くなりました。近いコンビニで片道0.53キロ、6分、遠いコンビニで片道0.7キロ8分程度ですが、この程度の散歩でも心肥大による息切れ症状が随分と改善されたようです。 ところで、今回の芥川賞に村田沙耶香「コンビニ人間」が受賞したと報道され、書店で文藝春秋社から発売された単行本が目に入りましたので早速購入することにしました。 主人公の古倉恵子(36才)はコンビニアルバイト歴18年という女性ですが、幼い頃から「普通じゃない子」と見做され、なにかと世間との不具合を感じながら生きてきました。そんな彼女が学生時代にバイトで始めたコンビニで、同じ制服を着て均一な店員としてマニュアル通りに働く生き方に「社会の部品」としてはまり、「普通の人間」として生きる安心感を覚えます。 そんな彼女の18年間のコンビニ生活に波風を立てたのが新たにバイトに入った白羽という貧相な体つきの36才の男性です。彼はコンビ店員たちを「底辺のやつらばっかりだ」と見下しますが、彼自身はコンビニの仕事がまともに出来ず、すぐに首になってしまいます。 そんな白羽という人物は、なにかというといまの現代社会も縄文時代となにも本質は変わらないと言い、「いつからこんなに世界が間違っているのか調べたくて、歴史書を読んだ。明治、江戸、平安、いくら遡っても、世界は間違ったままだった。縄文時代まで遡っても!」「僕ほそれで気が付いたんだ。この世界は、縄文時代と変わってないんですよ。ムラのためにならない人間は削除されていく。狩りをしない男に、子供を産まない女。現代社会だ、個人主義だといいながら、ムラに所属しようとしない人間は、干渉され、無理強いされ、最終的にはムラから追放されるんだ」「この世は現代社会の皮をかぶった縄文時代なんですよ。大きな獲物を捕ってくる、力の強い男に女が群がり、村一番の美女が嫁いでいく。狩りに参加しなかったり、参加しても力が弱くて役立たないような男は見下される。構図はまったく変わってないんだ」と主張します。 現代社会は縄文時代論を唱える白羽は、突然批判の矛先を古倉に向けます。「古倉さんは、何でそんなに平然としているんですか。自分が恥ずかしくないんですか?」「バイトのまま、パパアになってもう嫁の貴い手もないでしょう。あんたみたいなの、処女でも中古ですよ。薄汚い。縄文時代だったら、子供も産めない年増の女が、結婚もせずムラをうろうろしてるようなものですよ。ムラのお荷物でしかない。俺は男だからまだ盛り返せるけれど、古倉さんはもうどうしようもないじゃないですか」。 白羽は、このように自分を苦しめている陳腐な縄文時代論と同じ価値観で古倉を批判し、いまは機能不全社会だから自分は不当な扱いを受けているとする典型的な「ルサンチマン」(優越者に対して心が憎悪、ねたみで満たされている)人間です。そんな白羽は ネット企業のアイデアに投資してくれる相手がいれば必ず成功するし、ムラの強者になり、女たちがすぐ寄って来ると主張するような頭のなかに古い蜘蛛の巣がいまも張り巡らされているようななんともつまらない人間です。そして三十代半ばなのに定職に就かずにいる自分はムラから異物として弾き飛ばされていると嘆くのです。 しかし、こんな白羽の「セクハラ発言」に「普通の女性」ならら血相を変えて怒り狂い抗議するでしょうが、なんと古倉恵子は平静な顔をして「白羽さんと違って、私はいろんなことがどうでもいいんです。特に自分の意思がないので、ムラの方針があるならそれに従うのも平気だというだけなので」と言い、白羽がいま住んでいる家を家賃滞納で追い出されかかっていると聞いて、彼を強引に自分の家に連れて行きます。古倉恵子の「普通でない」対応に驚愕させられます。 こうして古倉恵子と白羽の愛情関係などこれっぽっちもない奇妙な「同棲生活」が始まるのですからビックリギョーテンさせられます。さらにこの 村田沙耶香の『コンビニ人間』という小説のすごいところは、古倉恵子の周辺の人々が、これまで彼女を「あちら側の人間」として異物扱いしていたのに、男と同棲していると聞いただけで「こちらの人間」として仲間扱いをはじめ、土足で足を踏み込んで来て、白羽の言う「縄文時代」の人間の価値観を曝け出す後半部分です。白羽は露骨に「現代は縄文時代と本質的に変わっていない」と主張し、おそらく読者の多くは白羽を奇妙でいやなヤツだと思われるでしょうが、「普通の人々」の心にもいまも存在する縄文時代的価値観の根強さをこの作品は明らかにしようとしているようですね。
2016年08月09日
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拙サイト「やまももの部屋」に掲載していたやまももの短編集が17篇となり、内川雅人君の幼少年時代から彼の長男の結婚式までを一通り読み通すことが可能となりました。個々の短編を読んだときとはまた異なる感想を読者はお持ちになることと思います。ぜひ17篇をざっと読み通されたときのご感想や疑問・質問等をお寄せいただければありがたいと思います。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/stories/stories.html
2016年07月31日
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内川さんが高校生だった頃(1963年4月~1966年3月 )、丘灯至夫が作詞し遠藤実が作曲し舟木一夫が歌った「高校三年生」が大ヒットし、あちらこちらで舟木一夫の「赤い夕日が校舎を染めて……」との歌声が流れていました。そんな流行歌「高校三年生」は、いまの内川さんには懐かしの思い出の曲ということになりますが、内川さんはこの流行歌を耳にすると、赤い夕陽に染められた校舎で声を弾ませながら熱く未来を語り合うようなクラスメイトなど一人もいなかった灰色の高校時代の情景と重なってなんとも表現しようのない複雑な思いに駆られるのでした。 ただし、団塊世代の内川さんが同世代の当時の思い出に触れている文章などを読むと、この流行歌の歌詞通りの懐かしい思い出を実際に体験している人などはほとんどおらず、この歌詞には現実には存在しない憧れの学園生活が描かれているだけだと書いてあり、例えばこの歌の作詞者の丘灯至夫は高校時代病気がちで「4日登校すると2日休む」状況で満足に学生生活を楽しんだ記憶がないそうですし、作曲家の遠藤実は高校に進学できなかった憧れの思いをこめて作曲したとのことです。内川さんはそんな「高校三年生」にまつわる秘話を読むとなんとなく呪縛から解放されたような気持ちになりました。 しかし、内川さんにとって、高校時代、ただ一人の友人もいなかったことはやはりなんとも辛い体験でした。特に昼食の時間、売店で買ったパンをただ独り椅子に座って黙々と食べることには耐えられなくなって、その昼食の時間に校舎の周辺を歩き回って時間をつぶすようになり、二年生後半にはついには不登校気味となってしまいました。内川さんの両親は共働きだったため、朝いつも時間通りに家を出る内川さんの不登校状態に長い間気が付かずにいました。 そんな高校2年生後半頃、内川さんは奈良市の興福寺五重塔前のベンチに所在なくぼんやりと座っていたことがあります。そのとき、当時クラス担任だった化学のN先生と遭遇したのです。ただし、そのときのN先生の雰囲気は、不登校気味の内川さんのことを心配して学校周辺を探し回ってやっと見つけられたというようなものではありませんでした。N先生とバッタリ顔を合わせたとき、内川さんはもちろん驚きましたが、先生もギョッとされたようでした。その日は自宅研修日だったのでしょうか、内川さんには先生が散歩途中と思われ、先生はなんとなく気まずい思いで、内川さんに「学校にちゃんと来なさいよ」と一言忠告されただけで、その場をすぐに立ち去って行かれました、 内川さんはほっとしたのですが、あの日のN先生との興福寺五重塔前の遭遇は、いまでもなんとも不似合いな「高校三年生」の歌をBGMにしてときどき思い出されるのです。
2016年07月29日
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私の両親は、台湾からの引き揚げ者で奈良市の父親の実家に身を寄せました。私が生まれたのは奈良市の高畑町の伯父の住んでいる屋敷内の鋤、鍬等の野良作業用道具小屋だったとのことで、なんだか馬小屋に生まれたキリストか聖徳太子を連想しますが、終戦直後の焼け野が原に多くの人が掘っ立て小屋を建てて住んでいた時代のことですから、野良作業用道具小屋でも素人が急遽作った掘っ立て小屋よりも作りはしっかりしており、文字通り雨露をしのぐことのできる家屋だったと言えるでしょう。しかし母はこの小屋内でムカデに素足を刺されて足が腫れ上がった痛い思い出を私に繰り返し語ったものでした。 その後、私の両親はすぐに奈良市の大豆山町(まめやまちょう)に住んでいた父親の実家(私の祖父母の家ですね)の二階に移り住みました。私の幼いころの記憶もこの大豆山町時代から始まります。 内気な私は、幼稚園から帰宅後、家の玄関内で近所の友だちが「遊ぼう」と声を掛けてくれるのをじっと待っていました。自分から友だちに「遊ぼう」と声を掛けることは絶対ありませんでした。近所のほぼ同世代の子どもでよく声を掛けてくれた男の子によしちゃん、よりちゃんがおり、彼らとビー玉遊びやコマ回し、ベッタ(メンコの奈良弁)打ち、さらに道路に「ろう石」で絵を描いたりして楽しんでいました。 しかし小学校1年生になると、奈良市内の油留木町(ゆるぎちょう)にある祖父の持ち家を借りていた家族が新居を建てて出て行くことになり、両親と私は油留木町のその家に移り住むことしになりました。この家と土地は江戸時代から寺侍(格式の高い寺院に仕えて警衛にあたったり、事務をとったりした武士のことです)だった先祖のもので、私が移り住んだ当時の建物はペリーが浦賀に来航した嘉永年間ごろに建てられた屋敷だったそうですが、明治になって職を失った曾祖父が本来の屋敷の半分以上を切り売りした後に残った平屋建ての家屋でした。 この先祖が残した家屋は、いまなら江戸時代の奈良市には珍しい武家屋敷造りの面影を残した家屋として評価されたことでしょうが、子どもの私の目から見るとただオンボロのやたら室内が暗い家で、両親も住みにくいこの家をすぐに二階建ての家屋にリフォームしたものです。 さて小学校の1年生から油留木町に移り住んできた私に、近所の友だちが出来たでしょうか。あいかわらず家の玄関内で友だちの誘いを待っているような私に近所の友だちは一人もできませんでした。しかし、小学校内にいつも遊ぶ二人の仲良し仲間ができ、私を含めてこの仲よし三人組は順繰りにお互いの家を訪問していつも楽しく遊ぶようになりました。漫画雑誌の貸し借りとかオモチャの連発銃(細長い紙に点々と少量の火薬が付いており、ひきがねを引いて撃つたびに爆発音がし、1回撃つごとに紙が排出されてくる方式でした)で西部劇ごっこをしたり、近所の川でザリガニ取りを楽しんだこともありました。小川のひんやり冷たい流れの中に足首まで浸けて歩きまわったときの心地よさは格別のものがありました。 家庭内には父親の浮気が原因で両親の諍いが絶えませんでしたが、小学校時代には仲良し三人組仲間とのこんな楽しい遊びの日々があったのです。しかし、中学校に進学してからはただ一人の友だちも出来ず、高校でも赤い夕陽に染められた校舎で声を弾ませながら熱く未来を語り合うようなクラスメイトなど一人もいませんでした。中学校、高校時代の私には、苦い思い出ばかりで、ただ書物だけが親しく語り合う相手でした。
2016年07月24日
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7月16日南日本新聞会館「みなみホール」で鹿児島市で第7回「立川志らく独演会」が開かれました。 まずこの独演会の前座をつとめたのが立川らくぼさんで、高座で「大工しらべ」を演じ、家主の因業ぶりに堪忍袋の緒が切れた大工の棟梁が家主に対する批判を立て板に水とばかりにまくしたる場面はなかなか小気味よかったですよ。 さて次に立川志らく師匠が高座に上がり「死神」を演じますが、そのまくらに笑点メンバーの変更と東京都知事立候補の顔ぶれを話題に出しました。 笑点では林家三平の「抜擢」に多くの落語ファンが首を傾げたことと思いますが、志らく師匠は「三平が笑点に出ることで、しばらくは彼の落語を聞かなくてすむ」と言って観客を爆笑させ、笑点の司会に春風亭昇太が選ばれたことに触れて、志らく師匠にも笑点メンバー入りの話があったが、「司会ならやってもいい、そのとき立川談春を座布団運びにして、談春、座布団三枚持って行きなさい」なんてやりたかったと言ったのでまたまた会場に大爆笑が起こりました。 都知事のことでは、桝添さんのようなネズミ男が公私混同疑惑に居直ったので、記者団の怒りが強まったと言って笑わせ、石原慎太郎の都知事時代には桝添さんがやったようなことを日常的に行っていたとし、批判されたら「なにが悪い」と激しく反論して黙らせてしまっただろうと言ったので観客はなんとなく納得。 都知事選に鳥越俊太郎さんが立候補したが、頭脳明晰な人だと思っていたが、「私は昭和15年生まれで、終戦の時20歳でした」なんて言って(終戦は昭和20年で鳥越さんは5歳になります)、簡単な計算もできなくなっているようですと笑わせ、同じく都知事選に立候補した小池百合子さんの「崖から飛び降りる覚悟」とう表現が「清水の舞台から飛び降りるような気持ち」なら分かるが、テレビのサスペンスドラマで最後は崖の場面にする設定を連想させる発言だと言って爆笑させ、自民党が増田さん以外を応援したら自民党を除名なんて言っているが、もし小池百合子さんが当選したら、自民党総裁の安倍総理は必ず「小池さんは我が党の人間です、都政を頑張ってもらいましょう」と言うだろうから、増田さん以外を応援したら除名と言っていた当初の方針に従うなら、総理も除名ってことになるんじゃないかと皮肉ったのでまたまた爆笑が起こりました。 まくらで大いに笑わせてから本題の「死神」に入りますが、この演目はいまや古典落語として多くの噺家が演じていますが、そもそもは三遊亭圓朝がヨーロッパの死神説話を日本に輸入し翻案したものと解説してから、志らく師匠風にアレンジして笑いをつぎつぎと生み出します。例えば、死神が主人公に「病人師匠がの足下に死神がいたら、つぎのように唱え、手を3回ぱーん、ぱーん、ばんと叩いたら元気に生き返る」と教えるときのその呪文がなんと「あじゃらかもくれん、石田純一、あなたはいったいなにをしたかったのでしょう」という言葉だと説明したので、会場に大爆笑が起こりました。 中入りの後、再度高座に上がった志らく師匠の演じた演目は「たまや」で、これは師匠が「天国から来たチャンピオン」をシネマ落語化した演目でした。志らく師匠の著作『シネマ落語』(河出書房新書、2009年11月)の第1話に文章化されたものが載っていましたが、高座で師匠が演じた演目としては初めて耳にした噺でした。若き花火職人の辰吉が川開きの前に馬に蹴られて不慮の死を遂げますが、これがあので死神の手違いと判明し、大店の旦那で妻に毒殺された大宮徳兵衛として生き返ることになります。そこで徳兵衛が取り壊そうとしていた長屋住まいのおたまと徳兵衛として生き返った辰吉とが不思議な恋に陥るという純情ラブロマンスが展開します。不思議な関係で出会った二人が、さらにまた不思議な関係で再会するラストは思わずほろりとさせられてしまいました。
2016年07月17日
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現在の政治状況は、選挙制度の歪みの影響もあって国会で自民党が圧倒的多数派を占め、公明党等の補完勢力の協力により憲法違反の安保法案が強引に可決されました。 シールズはこのような現政権に対抗するため、「立憲主義、生活保障、平和外交といったリベラルな価値に基づく野党勢力の結集が必要だと考えます」と主張し、民主党(後の民進党)、共産党、社民党、生活の党と山本太郎となかまたちの野党にデモ活動のみならず参院選での共闘も呼びかけました。このシールズによる共産党候補予定者の取り下げの働きかけるに応えてまず共産党が一人区での野党共闘を優先させ、社民党、生活の党もそれに賛同し、最後まで党内で意見の分かれていた民進党もなんとか共産党をも含む野党との一人区での選挙協力を承認しました。 その結果、参院選一人区の全32選挙区で野党共闘が成立しました。しかし、今回の参院選では自民党、公明党などの改憲勢力は改憲隠しで選挙に臨み、また32選挙区の一人区の野党共闘でも全てが共闘ならではの団結の力が充分に発揮されたとは言えず、各新聞社の予測では改憲勢力三分の二の勢い、野党伸びずと報じています。 こんな選挙状況の最終段階でシールズは「3分の2議席の鍵を握る候補者17人!」に絞って効果的応援しようとしています。 ↓ http://sealdspost.com/archives/4049 これらの候補者の選挙区でまだ参院選への投票先を決めていない方に参考になれば幸いです。
2016年07月09日
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私の長男の結婚式が7月2日に神戸の須磨離宮迎賓館であり、幸いにして天気は快晴で、人前式も披露宴も滞りなく執り行われました。 なお、私の妻の両親(新郎の祖父母)が今年90歳と86歳を迎えるのですが、鹿児島から神戸まで出向いて、可愛い孫の晴れ姿を見るのをとても楽しみにしていたのですが、祖父が結婚式の約1ヶ月前にバスに乗車しようとして、乗車口の取っ手をを攫みそこなって尻餅をつき、腰骨を折ってしまい、結婚式の参加が危ぶまれました。しかし入院した病院で適切な治療やリハビリを受けることが出来、また本人の何とか結婚式に参加したいとの強い思いにより予想より早く回復し、鹿児島から車椅子に乗っての参加が可能となりました。 このことがあって、私の妻は夫の透析治療の送り迎えに加えて父親の病院通い、さらには神戸での結婚式に父親の車椅子参加の手配のために妹や甥っ子たちの手助け依頼とてんやわんやの大忙しで、かなりナイーブとなり、なんとも気の毒でした。それだけに車椅子の父親と足腰の弱った母親が無事に可愛い孫の結婚式に参加出来たことにほっと安堵の胸を撫で下ろしたと思います。 神戸の結婚式の披露宴は新郎新婦たちの工夫がいろいろ取り入れられ、参加者全員に感謝の言葉が送られたり、両親に感謝の言葉を添えた二人の成長を記録した写真帖を会場に配置したりし、新郎新婦の友人・知人からの心のこもった楽しいスピーチやパフォーマンスが続きました。 披露宴の最後に、私が新郎新婦の両親を代表して挨拶を述べましたが、式の最後のスピーチは極力短いものにすべきと考えて、臨席いただいた方々への感謝の言葉とともに新郎新婦へのプレゼントの言葉として「偕老同穴(かいろうどうけつ)」という四字熟語を贈りました。人生をいつまでも仲良く暮らしてともに老い、死んだ後は同じお墓に仲良く葬られましょうねという意味で、私が小学校のときに年上の従姉妹の結婚式での来賓の方の言葉として強く印象に残ったものでした。 なお、須磨離宮迎賓館(旧西尾邸)は兵庫県から重要有形文化財の指定を受けている由緒ある建物であり、式場のスタッフの接客態度の素晴らしいさにも感心させられました。しかし足腰の弱っている私のような人間には、人前式会場と披露宴会場との距離が離れており、また各建物の階段の上り下りも大変で、私の次男にはもっと便利な結婚式場を考えておいてねと注文を付けておきました。
2016年07月02日
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いまから4年前(2012年8月13日)、内川さんの父は90才の高齢で他界しました。医者の死亡診断書には「誤嚥性肺炎」と書かれてありましたが、高齢に拠る体力低下に伴って起きた肺炎のようで、以前なら「老衰」と診断されたに違いありません。実際、内川さんの父はほとんど苦しまず安らかにあの世に旅立って行きました。 内川さんの父が他界する11年前の2001年1月に母が77歳で先立ち、父は独り身となった淋しさと本来の酒と女が大好きなことから、繁華街の天文館のバーに足繁く通うようになり、馴染みのバーの女性から婚約解消の慰謝料四百万円を請求されたこともありました。父はそのことに困惑して彼になんとかならんかと相談して来たことがあります。内川さんは父の家に金を取りに来た相手の女性と会って、「慰謝料四百万円なんて法外な金が支払えますか。すでに親父が支払った金額は致し方ないとして、残りの金はびた一文払いませんよ。訴訟を起こすなら起こしなさい。受けて立ちましょう」なんて勇ましく啖呵を切ったものです。 その後、内川さんの父の認知症が進行したこともあり、天文館での金遣いがますます荒くなり、郵便局のATMから一日の上限50万円を繰り返し引き出すようになり、通帳に何千万円もああったものが二年間の間にあっという間に無くなってしまい、仕方がないので内川さんは妻に父の通帳を管理してもらうようになり、他界する三年前にはグループホームでお世話してもらうようになりました。 穏やかな大往生が遂げることができた内川さんの父の生涯は、子どもだった内川さんの目から見てもとても幸福なものだったと思います。内川さんの父は地方銀行の重役の末っ子として生まれ、何不自由ない子ども時代を過ごし、当時としては僅かな人だけしか受けられなかった高等教育も受け、戦争中は軍事訓練は受けたようですが、実際に戦地に送られて血生臭い体験をすることもなかったようです。このことだけでも同時代の男性としては極めて幸せなことですよね。 戦後、内川さんの父は大学で専攻した農業土木の専門知識を活かして奈良県庁耕地課、奈良学芸大学を経て民間会社の大阪茨木市の施工会社、コンサルタント会社に移り、その後島根大農学部に勤務し、定年退職後には息子の住む鹿児島市に終の棲家を建てました。 内川さんは残念ながら、職業人としての父の姿はほとんど知らないのですが、若い頃の父がお酒が大好きで、よく夜遅く友人を連れて酔って帰宅して来たことは覚えています。テニス、社交ダンス、オートバイも大好きで、休日にはそれらの趣味を外に出て大いに楽しんでおり、家でじっとしている姿などほとんど見たことがありませんでした。浮気がバレて母とよく喧嘩もしており、彼は幼い胸を痛めたものです。内川さんが子どもの頃の父は我儘一杯やりたいことを好きなようにやっているように見えました。 内川さんの父が高齢で他界し、また彼の父の親類や知人の大半が高齢で遠隔地の住人等のことから判断し、葬儀は家族葬で執り行うことにしました。家族葬は8月15日の終戦記念日に真夏の太陽が照り輝く昼過ぎから行いましたが、葬儀の雰囲気もその日のお天気のようにカラっとしたものでした。そしてまた、晩年に酒と女に溺れた彼の父の姿になぜか他人事のように冷静な目で見つめていた内川さん自身に彼はなんとも言えぬ悲哀を感じたものでした。
2016年06月14日
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私の手許に武部利男『白楽天詩集』(六興出版、1981年)という本がある。私はこの本を手にするたびに高校1年のときに受けた漢文の最初の授業の日のことを思い出す。 教室に入って来られた漢文の担任の先生は、いきなり黒板にさらさらと漢詩を書かわた。そのとき、この先生が黒板に書かれたものがどんな漢詩であったのか、残念ながら忘れてしまったが、確かそれは人口に膾炙された詩で、私もそれまでにその読み下し文を耳にしていたと思う。さて、つぎに読み下しによる説明が始まるのかと思ったら、先生はこの漢詩をなんとも奇妙な発音で読み出された。 上がったり下がったり、やけに高い音が発せられたかと思うと、ど すんと落ち込んだり、そうかと思うと急に浮上したり、それはまるでジェットコースターに乗って起伏の激しいレいルの上を滑走しているような感じであった。いや、レールの上をゴーゴーと走るジェットコースターよりももっとなよやかでリズミカルであった。 生徒たちはあっけにとられてぽかんとしていた。私もそのなかの-人だった。漢詩は中国の詩であるから、この奇妙な発音も中国語読みであることくらいは推測がついたが、それにしてもカルチャーショックであった。 私が驚いたのは、独特のイントネーションを持つ中国語の発音そのものではなかった。中国音の発音はラジオやテレビでときどき耳にしていた。衝撃を受けたのは、漢詩に対する既成のイメージをこの先生の朗読がきれいさっぱり吹き飛ばしてしまったからである。漢詩や漢文といえば、ついこの間まで中学生だった私の頭のなかにも 「国破れて山河在り」とか「虎穴に入らずんば虎児を得ず」といった類の中国の名句・名言の片言隻句が雑然と入っていたが、それらは格調が高くどんと重々しい感じがしていた。 しかし、教室でいま中国語で朗読されたものはそれとは全く別世界のものであった。なんとも奇妙でなよやかでかつリズミカルであった。この漢文の先生が『白楽天詩集』の著者である武部利男先生であった。 こうして、私は漢詩に非常な興味を持ち、武部先生と親しく接し、先生の薫陶を受けて漢詩の素晴らしい世界に目が開かれていった、なんてお話をつぎに展開していきたいところだが、残念ながらそんなことは全くなかった。高校在学中、ステルス機のように全く目立つこともなく密かに低空を飛行していた私は、武部先生に自分から積極的に親しく接することはなかったし、漢詩も大学受換の対象として勉強するだけであった。また、大学に進学して後も、漢詩に関してそれほど強い関心を持つことはなかった。 それでも、高校で漢文を担当されたあの武部利男先生が中国の古典詩の優れた研究者であることぐらいは知るようになった。また、なぜ武部先生が高校生に漢詩をいきなり中国語で朗読されたのか、その理由も次第に分かるようになった。 確かに、中国の古典語で書かれた漢文や漢詩の内容を理解する上で、日本人が中国の優れた文化を吸収するために編み出した読み下し(訓読)の方法は非常に便利なものである。また、漢文の訓読は、日本の「古典語」としてそれ独自の格調の高さがあり、この漢文訓読そのものが日本語をはぐくみ育ててきた。 しかし、漢詩は独特の韻律に基づく独自の美しい調べを有しており、それは漢文訓読では残念ながら絶対に体感できないものである。だから、あのとき、高校1年生の私は先生の漢詩の中国読みを初めて耳にして、漢詩に対する既成のイメージが吹き飛んだのだ。 もっとも、中国での漢字の発音は時代とともに変化し、現代中国語と古典詩である漢詩が詠まれた時代とでは発音が随分異なっている。しかし、漢詩を現代中国語音(現代北京音)で発音しても、押親や平灰の組み合わせから作り出されるリズムは大体つかめる。先生はおそらくこんなことを生徒たちに印象深く教えるために中国語でいきなり漢詩を朗読されたのであろう。 武部先生は五十代半ばにして病のために亡くなられたが、その翌年に『白楽天詩集』が遺著として出版された。私は先生のこの遺著を手に入れて読んだとき、先生の漢詩への思いがあらためてひしひしと伝わってきた。 同書で先生は、白楽天(自居易。中唐の詩人)の詩を七五調のやさしい言葉で全文ひらがな(固有名詞はカタカナ)を使って口語訳しておられたのだ。 例えば、白楽天には「買花」と題する詩があり、もし、この詩の冒頭部分を読み下しにすれば、「帝城春暮れんと欲し/喧喧として車馬度(わた)る/共に道(い)う牡丹の時/相随いて花を買いに去(ゆ)くと/貴賤常価無く/酬値花の数を看る」となり、とても格訴高く重々しい。朗読するときは、思わず正座して背筋を伸ばして朗読することであろう。ところが、武部先生は『白楽天詩集』でこの「買花」全文をつぎのように訳されている。 みやこでは はるの くれがた/がやがやと くるまが とおる/だれも いう ぼたんの きせつ/あいついで はな かいに ゆく たかい やすい きまりは なくて/その あたい はなの かずだけ/もえさかる ひやくの べにばな/こじんまり いつつ しろばな てんまくで ひよけを つくり/たけがきで まわりを かこむ/みずを やり つちを もりあげ/うつし うえ いろは かわらず いえいえの ならわしと なり/ひとびとは まよいが さめぬ/いま ひとり いなかの おやじ/はな かう ところに であう/あたま さげ ながい ためいき/この なげき だれも きづかぬ/ひとむらの こい はなの ねは/じっけんぶん なみの いえの ぜい 当時、唐の長安の都では牡丹ブームで、都の人々は相争って牡丹を買い求め、それを我が子のように大事に育て、その美しさを競い合ったそうである。そのために珍しい牡丹は「-叢深色花、十戸中人賦」(一叢の濃い牡丹の花の値段が並みの家の十軒分の税に当たる)様な高値で売買され、それを見た「田舎翁」(田舎から出てきた貧しい老農夫のことであろう)をして嘆かせることになる。そんな異常な牡丹ブームに対する白楽天の素朴な疑問と激しい義憤が時代を越えていま私たちに伝わってくるような見事な訳文である。そして、またなんて分かりやすくてリズミカルな訳文であろうか。 白楽天は、詩が出来上がると、近所の字の読めないお婆さんに読んで聞かせ、お婆さんが分かるまで何度も書き直したという逸話が残っているが、この口語訳には白楽天のそんな詩に対する姿勢や思いが見事に現代の日本語で再現されているのではないだろうか。私は、高校の漢文の最初の授業のときに味わったような驚きを先生の遺著『白楽天詩集』で再び体験したのである。
2016年06月05日
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大阪で働いている次男が休みを取って 我が家に帰ってきたとき、二日目は「お父さんとだけ二人で食事がしたい」と嬉しいことを言ってくれたので、その日の夕方に天文館の焼き鳥の店に出かけ、大いに談笑しました。 次男は酒が一滴も飲めず、最初に就職した 大阪の信用金庫では上司から酒をしつこく強要されるなどパワハラまがいの嫌がらせを受け、精神的に耐えかねて半年で退職し、その半年後に大阪の総合病院の事務職に再就職しています。 病院の仕事にも慣れ、今年の春のGWでは4年前に卒業した大学のゼミの担当の先生と13人のゼミ仲間に呼びかけて彼の生まれ故郷の鹿児島市内や指宿方面の卒業旅行を成功させたりしています。 次男坊の意外な側面を知ったので、焼き鳥屋さんでまずそのことを言いましたら、自分がしてあげたことで、みんなに喜んでもらえることがとても楽しいとの返事でした。私と全く違って、そんな風な優しい性格に育ったことをとても嬉しく思いました。 焼き鳥屋で私はハイボールを、彼はノンアルコールのビール小瓶を頼み、まず乾杯してから、焼き鳥をいろいろ注文して食べ始めました。私はハイボール二杯目を追加注文し、酔いが回ってきたので、思い切って彼が高校三年生になったときの私への冷たい対応について質問をしました。 私が進学先をどこにするのかと質問したとき、彼はこう言ったのです。「あなたは何でそんなことを訊くの。あなたにはそんなこと関心がないでしょう」。むかーっと来た私は彼に怒鳴ったものです。「子どもの将来のことに関心を持たない親がどこにいるかっ!」 私のことをよそよそしく「あなた」呼ばわりし、子どもに関心がない人物と見られていたことに私は激しいショックを受けました。このとき以来、私と彼との間にはなんとも言えぬ疎遠な関係が生じたように思われました。 そんな疎遠な関係に変化が生じたのは、私が慢性腎不全で透析治療中に心不全で気絶し、一週間ほど入院治療を受けていたときのことだったように思われます。彼が大阪から病院見舞いに来てくれ、瘠せ細った(透析治療による体重コントロールのためです)私の姿を見て驚いたようです。彼はそんな私の手を強く握って「早く元気になってね、お父さん」と声を掛けてくれ、「僕のお父さんはお父さんだけだから」と言ってくれました。そのとき私の両目から涙がどっと溢れ出したものです。 焼き鳥屋で、彼が高校三年生のときの私への発言について 訊いたところ、彼は苦笑いしながら「そんなこと言ったかな。ただお父さんは僕が子どもの頃、叱るときに『お母さんに言いつけるよ』といつも言っていたので、自分の行為をチクる人というイメージが強かったな」との返事でした。なんだかずっこけるような返事で、半ば冗談半分に言っていたと思うんですが、子どもの彼にはそのニュアンスは伝わらなかったようです。子どもの頃、私が家庭で希薄な存在だったということを言いたかったのでしょうが、まあいいではないですか。もう私たち親子の間にあったわだかまりがすっかり溶けており、二人で仲良くいろいろな焼き鳥を注文して楽しく談笑しました。 焼き鳥を満喫し、店を出るとき割り勘にしょうと言って私の財布を覗いたら二千円しかありませんでした。「ごめん、いま全額払ってくれる。後でお母さんから半額出してもらうよ」と言いましたが、やはり我が家では私は影の薄い存在だなと痛感させられました。 2016年5月29日
2016年05月29日
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昨日5月21日には、南日本新聞会館みなみホールで開かれた柳亭市馬独演会を楽しんできました。鹿児島での師匠の独演会は今回で第4回目なんですが、私たち夫婦は昨年は欠席しており、久しぶりで師匠の美声を楽しんできました。 柳亭市馬師匠といえば、 「山の あな あな ねぇあなた」という題名のCDを出しており、「俵星玄蕃」、「会いてえ なぁ ふる里に」で美声を聞かせ、今年の4月29日に放送されたNKH FM「今日は一日戦後歌謡三昧」では加賀美幸子アナウンサーと一緒に司会を務め、ときに同番組で美声を響かせていました。そんな師匠の独演会に来られたお客さんたちの期待の一つに師匠の美声を聞くことがあったことは間違いありませんね。なお今回の独演会の演目はつぎの通りでした。 柳亭市江 子ほめ 柳亭市馬 かぼちゃや 柳亭市馬 狸賽 中入り 柳亭市馬 片棒 柳亭市江の「子ほめ」の後に柳亭市馬師匠が高座に上がり「かぼちゃや」を演じましたが、この噺のマクラに大相撲5月20日の白鳳と稀勢の里の熱戦に触れ、ザンネンでしたねと言い、あの稀勢の里は肝心なとこでコロッと負けるのがまた人間らしくていいいですねと「褒めていた」(?)のですが、翌日の鶴竜との相撲にまさにコロッと負けてしまいました。また師匠は相撲行司や呼び出しの声を真似て美声のサービスもしてくれました。 中入り後に、演じ始めた噺はどうも同じ柳亭市馬師匠が以前鹿児島の高座で演じた「片棒」のようです。後で調べましたら、2012年5月9日の鹿児島市の宝山ホールで開かれた「東西特選落語名人会」で師匠も二番目に出ており、やはりマクラで相撲の呼び出しや相撲甚句で美声を聴かせて会場の観客は大喜びさせ、そのときも自然と盛大な拍手が会場に響き渡っていました。そのとき師匠が演じてたのが「片棒」でした。財を成した大店の旦那が三人の息子の誰を後継ぎにするかを決めるため、彼ら三人を呼んで自分の死後にどのような葬儀を執り行うかを訊くのですが、次男坊が笛、太鼓に踊りや神輿で賑やかに葬儀を行いたいと語る場面で市馬師匠は見事に祭りの雰囲気を作り上げ、さらにサービスに美空ひばりの「お祭りマンボ」の一節を歌いましたから、またまた会場には拍手が響き渡り、観客は市馬師匠ならではの楽しくて明るい「片棒」を大いに満喫していました。 今回も「片棒」で次男坊の笛や太鼓入りの賑やかに葬儀の語りの部分で前回以上に賑やかな祭りの雰囲気を作り上げ、美空ひばりの「お祭りマンボ」の一節を歌いだすと会場は一斉に手拍子し、その非常な盛り上がりに師匠自身が思わず笑い出すというハプニングもあり、なんとも楽しい高座となりました。
2016年05月22日
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mastan さんから下に掲げた中国文書について「概略的にどのようなことが書いてあるのでしょう」 とのご質問がありました。 それで、googl(香港)で調べたところ、つぎのようなURLに関連するものtが検索されました。 ↓ http://www.bbc.com/zhongwen/trad/china/2016/05/160516_china_calligraphy このサイトのページの解説文によると「唐宋八大家の一人である曾鞏の遙か後世まで伝わった唯一の筆跡『局事帖』が5月15日の日曜日に北京で行われた特別興業で競売に出され、1.8億元人民幣で落札され、仲買人の手数料を加えて2.07億元で販売されました」とのことでした。 曾鞏は科挙に合格し、しばらく中央官庁で働いていましたが、その後、地方の斉州、襄州、洪州、福州、明州、亳州、滄州等の地方の知事を歴任していたようですが、「局事帖」はその頃に友人に送った手紙のようです。 この毛筆で書かれた文章を活字化すると以下のようになります。 ↓ 地方の知事をしていた頃に曾鞏が友人に書いた手紙ですが、なかなか難解な文章で、遠隔の僻地に左遷された曾鞏が「日迷汩于吏職之冗,固岂有楽意耶?」(役所の雑務に忙殺されている毎日なので、どうしてそれが楽しいことであろうか)とぼやいたりしています。mastan さんからどうしても全文の概略を知りたいとのことでしたら無理して調べてもいいですよ。しかし、相当私には手こづりそうです。
2016年05月20日
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五月十三日(金)に私たち夫婦は鹿児島中央駅から午後3時28分の新幹線「みずほ」に乗って神戸に向かいました。翌日のお昼に長男の婚約者のご両親と顔合わせするためです。 三宮駅近くの宿泊したホテル前のマロニエ並木 5月十四日お昼にご両親との初顔合わせを三宮の和食のお店「栄ゐ田」で行いました。妻はすでに先月に相手の御嬢さんのお母さんと結婚式予定場所での試食会で顔合わせをしているのですが、私たち夫婦が相手のお父さんと会うのは初めてのこととなります。私はお父さんと会うのは初めてなので些か緊張しました。まさか顔合わせ後に長男の婚約が破談になるなんてことはないでしょうが、ふと映画「男はつらいよ」の第一作のことが思い出してしまいました。 映画「男はつらいよ」シリーズ第一作で渥美清演じるフーテンの寅さんがホテルニューオータニで開かれた妹のさくら(倍賞千恵子)の見合いの席で大醜態を演じる場面があります。見合い相手は、オリエンタル電気の下請け会社の社長さんの息子とのこと、見合い相手の父親に寅さんがセールス関係の仕事をしていると紹介され、父親から「どういう御種類のセールスを?」と質問され、「えー、主に…本ですね…」と寅さんは答え、さらに「出版関係ええ、出版といいますか、まあ、法律とか、統計とか…」と言い添えたので、相手の父親はなんとなく納得しますが、さらに寅さんが「その他、英語、催眠術、灸点方、夢判断、メンタルテスト、諸病看護方、染み抜き方、心中物、事件物、と、まあいろいろなんでもやってますけど…」と言い出したので、見合いの席の雰囲気がなんとなく怪しくなります。 その後、会食が始まり、寅さんは慣れないフォークとナイフを使ったために、付け合せの野菜を入れている器を見合い相手のおでこに見事に当ててしまいます。まあ、これは手元が狂ったハプニングとして許されますが、寅さんが学のあるところを披露したいと思ったのか、妹のさくらの名前が戸籍上は「櫻」と出されており、「木へんに貝2つでしょ、それに女ですから、ええ、二階の女が気(木)にかかる」とこう読めるんですよ!」と説明し、調子に乗ってさらに漢字は面白いと言い出し、尸(しかばね)の下に水や米、比を加えると尿、屎、屁になるなんて下ネタ的なことを言い出します。 会食で出されたビールで酔いが回った寅さんは、セロリをかじりながら見合い相手に「こんな美人の妹に、ぶっ壊れたツラの兄貴が いるってことは不思議でしょ?お兄さん」と問い掛け、「いやー、それもそのはずよ、これとオレとではね『種違い』なんだよ。あたしの親父ってのはね、大変な女道楽、私のお袋ってのは芸者なんですよ、えー、その親父が言うにはね親父がへべれけの時私を作ったんだとさ…」「親父はね、あたしのことをぶん殴る時いつも言ってたね。『おまえはへべれけの時つくった子供だから生まれつき バカだ』とよ! あんちゃん悔しかったなあ!…酔っ払って つくったんだもんなぁ…オレのこと…。真面目にやってもらいたかったよオレは!本当に」なんてことを言い出し、女性にだらしがなかった寅さんの親父のことまで暴露し出します。言わずにはおれない寅さんの悲しい過去を酔いに任せて吐き出したのでしょう。全然違った環境に育った私ですが゜なぜか寅さんの気持ちが痛いほど分ります。 その他、酒にへべれけになった寅さんの演じる様々な醜態に見合いの席は無茶苦茶となり、後日になってさくらの見合い相手側から予想通り縁談は断られてしまいます。 さて、話変わって長男の許嫁のご両親との初顔合わせなんですが、両家の相互の簡単な自己紹介が終わって全員着席したた後、私が「まずビールでも頼みましようか」と言ったところ、相手のお父さんが「体のためいま禁酒しています」とのこと、みんなでウールン茶を飲むことにしました。 座の話が続かずシーンとなったので、何か話題がないかと私がお父さんに「何かご趣味をお持ちですか」とお訊きしたところ、「仕事が忙しかったので特にありません」とのこと、前に長男からお父さんが仕事に忙しく「家族のことは全て妻に一切任せております」とおっしゃっておられると聞いていましたが、私と同い歳(2月生まれで学年は一つ上)なのにいまも務めておられるとのこと、お会いして私とは随分違ったい真面目一筋の仕事人間の方らしいとの印象を持ちました。お母さんは穏やかで優しそうな女性という印象でした。 話題がなかなか続かないので、長男が「私は鹿児島で生まれ育ちましたが鹿児島県人の血は一滴も入っていません。父は奈良県人で母は熊本県人です」と紹介したので、私は彼の言葉に続けて、「私の父は奈良県人ですが、母は日本統治時代の台湾に生まれた仙台にルーツを持つ東北人です」と付け加えたのはいいんですが、つい「私のオヤジは酒が強かったんですよ。酒も女も好きでした」と余計なことを口走ってしまい、自分でこれはヤバイと慌てて話題をすぐ変えましたよ。 この両親同士の初顔合わせで私は些か醜態を演じてしまいましたよ。会食が終わり、これからもよろしくと挨拶をして席を立とうとしたとき、私の席に出されている水の入ったコップをそっと横に退かそうとして手許が狂ってコップが倒れ、なんとお父さんの膝に水を掛けてしまったのです。 さらに私の醜態は続き、靴を履こうとして新品の靴を履いてきたこともあり、なかなか履けず、お店の人が持ってきた長い靴ベラも上手く扱え切れず、自分の指先を靴のかかとになんとか無理矢理入れ込んでやっと履くことが出来ました。後から席を立たれた相手のご両親はおそらくその様子を些か困惑して見ておられたことと思います。 翌日の五月十五日(日)に新神戸駅から午前10時12分発の新幹線「さくら」に乗って鹿児島に帰りましたが、車窓から熊本近くの沿線から屋根に敷かれた青いビニールシートが次々と見え始め、今回の熊本大震災の生々しい被害が目に入って来ました。 おっと、その後いままで神戸のご両親からなんの連絡もありませんから、今回の初顔合わせは無事に済んだと思っていいのでしょうね、ホッ。
2016年05月17日
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五月五日は私たち夫婦の37回目の結婚記念日でお互いの忍耐力の強さと記憶力の弱さでなんとか続いたのだと思います。そんな結婚記念日に、NHKの大河ドラマで有名になった篤姫ゆかりの地である薩摩今和泉の今和泉小学校近くに建てられた幼女時代の篤姫の像を見学に出かけました。この篤姫像は2012年に建てられており、私たち夫婦が前回薩摩今和泉に出掛けたとき(2010年5月4日、「篤姫の実家・島津今和泉家の別邸跡を再訪」にはまだ建てられていませんでした。 今回は、日頃運動しない私の健康のために自動車を使わず、公共交通機関と徒歩で篤姫像見学に出かけることにしました。当日は天気も快晴で午前中に篤姫像見学に出発しました。ネットのマップで調べると、拙宅から鹿児島中央駅までバスで約20分、鹿児島中央駅から薩摩今和泉駅まで54分、薩摩今和泉駅から今和泉小学校まで徒歩で6分とのこと、乗り換え時間も入れて往復約3時間半の旅になることが判明しました。 JR指宿枕崎線沿線には無数の鯉のぼりが泳いでおり、その多くが孫の健康を願って祖父母が購入し、そのお孫さんの家で屋根より高く元気に泳いでいるのだなと思うと自然と胸が熱くなりました。 しかし、JR薩摩今和泉駅に下車してから予想外の障害が存在していました。駅の入り口に行くために歩道橋(路線橋と呼称するのかな)を渡る必要があり、最近自宅の二階ぐらいしか上り下りしない私にとっては思わぬ障害物でした。それでも時間を掛けてゆっくりと鉄橋の手すりを頼りに上り下りしたのですが、足腰が弱っていることを痛感させられました。 薩摩今和泉駅の入り口(私たちにとっては出口かな)には「天璋院篤姫ゆかりの地」と書かれた看板がでかでかと掛けてありました。駅から海沿いに今和泉小学校を目指して歩いて行くと、数人の観光客らしい人たちが小さな像をバックにして撮影している様子が目に入ってきました。篤姫の銅像を撮影しているに違いありません。 天璋院篤姫は幼少時代には於一(おかつ)と呼ばれ、2008年放映のNHK大河ドラマ「篤姫」の原作となった宮尾登美子の『天璋院篤姫』では、島津今和泉家の娘として生まれた篤姫が幼少時代を同家の別邸がある今和泉で過ごしていたと書かれ、大河ドラマ「篤姫」でもそのように描かれたので一躍この地が有名になり、2012年に彼女の幼少時代をモチーフにした銅像も建立されたのです。 銅像近くに篤姫銅像実行委員会会長の今林重夫氏が書いた解説板があり、「篤姫が幕末から明治維新にかけて江戸無血開城に心血を注ぎ江戸百万人の人々の戦禍から護り大奥に仕えた婦女子の身の方について私財を擲って援助したことは有名です」と彼女の業績を紹介し、そんな彼女の八歳ぐらいを想定して地元の田原迫華氏が造ったことが書かれてありました。 残念ながら篤姫の幼少時代の肖像は残されておらず、この今和泉の少女像はどうも大河ドラマ「篤姫」の主役を演じた宮崎あおいに似せて造られたようです。また大河ドラマでは江戸無血開城に尽力したように描かれおり、この銅像の解説板もその見解に従って彼女の業績が紹介されています。 しかし、史実としては、第13代将軍徳川家定の正室だった篤姫は家定の死後に天璋院と号して江戸城大奥を仕切りましたが、彼女は江戸攻撃に迫ってきた薩州隊長の西郷隆盛に徳川家存続のための嘆願書を出しただけで、江戸城無血開城は勝海舟と西郷隆盛の話し合いの結果と思われます。そのことは下記の拙サイトに書きました。 ↓ 拙サイト「やまももの部屋」の「宮尾登美子の天璋院篤姫と鹿児島」 http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/atuhime.htm#tangan 篤姫像の撮影後、近くの観光客用に建てられた四阿(あずまや)で海を眺めながらお昼の弁当を食べました。食後にまた来た道を戻って薩摩今和泉駅に行き、あの障害物の路線橋をエッチラオッチラゆっくり渡っていると、後ろからバスケットの試合帰りらしい元気な女子高校生たちがどっと押し寄せてきましたので、私が「お先にどうぞ」と大きな声を掛け、彼女たちは次々と「こんにちは」と私に挨拶しながら飛び跳ねるようにして私の横を通り過ぎて行きました。 今回の篤姫像見学の小旅行は、今月中旬に神戸で長男のフィアンセのご両親とお会いするための予行練習を兼ねたもので、なんとか無事に帰宅できましたので本番の神戸行き旅行にそれなりに自信が持てました。 2016年5月9日
2016年05月09日
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与野党が全面対決した衆議院北海道5区の補欠選挙は4月24日に投票が行われ、野党統一候補の池田真紀氏(無・新)が残念ながら自民党の新人で公明党などが推薦する和田義明氏に敗れました。この衆議院北海道5区の補欠選挙の開票結果は以下の通りです。 ▽和田義明(自民・新)当選、13万5842票。 ▽池田真紀(無・新)、12万3517票。 この結果について、露骨に与党寄りの報道をする「産経ニュース」の2016年4月.25日の記事は「追い風風吹かず『野合』共闘に限界か… 参院選に向け票差以上に大きいダメージ」との見出しでつぎのように論評しました。「野党が共闘の象徴と位置づけた今回の補選の敗因に、基本政策を横に置き、選挙協力を優先させた「野合」批判があったことは間違いない。票数の差以上にダメージは大きい。」 産経は民進党、共産党等の野党共闘は基本政策が異なる政党間の「野合」だとの批判があり、野党共闘に今回の敗戦は非常なダメージがあったとしているのです。しかし、与党の自民党と公明党の関係は選挙に勝つための「野合」そのものであり、安保法案反対で一致した北海道五区補選の野党統一候補はよく善戦したと思います。与党はさぞかし今回の選挙結果に青ざめたことでしょう。だからこそ、野党共闘は「野合」との批判を一層強めてくるものと予想されます。 なお、2016年4月28日の「NHK NEWS WEB」は北海道5区補選で実施した出口調査(1725人対象中75%の1299人回答)でつぎのような結果を得たと報じています。【政党支持率】政党支持率は、自民党44%、民進党20%、公明党5%、共産党5%、、無党派24%【支持政党別投票動向】和田氏は、自民党支持層の90%、公明党支持層の90%台前半、無党派層の30%余りの支持を獲得池田氏は、推薦を受けた民進党支持層の90%台後半、共産党支持層の100%、無党派層の70%近くの支持を獲得。 この出口調査の結果によると、回答者の回答政党支持率は、自民党44%、公明党5%で与党支持者49%なのに対し、民進党20%、共産党5%の野党支持者25%ですから、野党共闘が成立しなければ与党候補がワンサイドで勝利したことは間違いありません。野党共闘ということで無党派層24%中の70%近くが野党共闘候補支持に投票したそうですから、その結果の野党候補の善戦だったと思われます。 今回の善戦が追い風となって野党共闘が全国に広がることを願ってやみません。
2016年04月30日
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立川志の輔独演会が4月21日に鹿児島市民文化ホールであり、夫婦で楽しんで来たのですが、志の輔師匠がこの独演会で新作落語 「買い物ブギ」のマクラにまず石原慎太郎の著書「天才」に触れ、同書がベストセラーとなったことから、本屋さんの店頭に田中角栄コーナーが出来て、以前出版されていた角栄本があふれ出したとし、さらに若き日の志の輔師匠が目の当たりにした田中角栄について面白可笑しく語り出しましたので、今回そのことを紹介したいと思います。 私は、石原慎太郎の思想だけでなく彼の小心者のくせに尊大振る人間性も大嫌いで、そんな人物が田中角栄について書いた『天才』にも全く関心がありませんでした。ただし、私にとって田中角栄という人物は金権政治家としてのイメージが強いのですが、その人心掌握術に長けた人間性には前から興味がありました。そんな田中角栄を志の輔師匠がどのように語るのか大いに興味を持ちました。 田中角栄の懐刀として有名だった人物に元警察庁長官の後藤田正晴がいますが、その次男が後藤田祐輔というそうで、志の輔師匠がまだ明治大学の学生だった頃のバンドやバイクのツーリング仲間だったそうです。その友人(後藤田祐輔、慶応大学出身、本田技研工業に勤務)が結婚したとき、噺家となっていた志の輔師匠は結婚式の司会を頼まれたそうです。 結婚式の招待者は800名、大概カップルですから出席者は1600人ぐらいにはなるだろうという盛会なもので、名だたる名士や政治家たちが顔を見せ、仲人が新郎の勤務するホンダの本田宗一郎で、主賓が田中角栄と医師会の会長だったとのこと。 まず仲人としてホンダの創業者の本田宗一郎が挨拶し、自分は仲人を頼まれたが、新郎のことは全く知りませんと言って会場の全員を爆笑させて座を和ませ、つぎにスピーチしたのが主賓の田中角栄だったそうです。 司会の志の輔師匠が田中角栄から渡された長い巻物を読んで主賓のことを紹介をしている最中に突然アヒルがガーガー鳴くような声がし、そのアヒルが「儂を知らないようなヤツはおらん」と言ってこれまた会場の1600人を爆笑させたそうです。そして後藤田正晴が次男の結婚式に主賓として出席してもらいたいと毎日やってきたので、「国務大臣はそんなに暇なのか、と言ってやりましたよ」と言ったので、またまた会場のみんなを爆笑させたそうです。 お色直しの最初の話としてホンダの社長がスピーチを始めたとき、この田中角栄が席から突然立ちあがってスタスタと出口に歩き出したそうです。スピーチしていたホンダの社長も気を遣って「先生がお帰りになります」と司会のようなことを言い、田中角栄もドアのところで会場を振り返って手を振り、廊下に出て行ったそうです。 司会の志の輔師匠は、田中角栄が話の途中で退席をするということは何か手違いがあったのかと心配になり、慌てて田中角栄を追いかけたそうですが、「後藤田祐輔くんの友人で今回の結婚式の司会をしている立川志の輔です」と名乗り終わらないうちに、田中角栄から手を取って「友達かよろしく頼む」と言われ、すぐにこの人の傘下になっても良いと思ったそうです。 そんな話なんですが、豪放磊落でありながら人心掌握術に長けた田中角栄という人物像が自然と浮かび上がってくるエピソードでありました。
2016年04月24日
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あるフランス人の作家が「結婚は判断力の欠如、離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如」と言ったそうですが、終生添い遂げることになった私の両親は相当の忍耐力の持ち主たちだったのでしょうか。 私が妻と結婚した年の夏、当時山陰のM市に住んでいた私の両親の家に初めて帰省したことがあります。おっと、「帰省」とは本来は「故郷に帰って両親の安否を問うこと」だそうですが、私の両親がM市に住んでいたのは勤務先が同市であり、両親ともに出身地は別の地方の人間でした。 私の妻は、なにかあるとすぐ怒鳴り出すオヤジとそれに「はいはい」と素直に従うオフクロの姿に強い印象を残したようで、私も久し振りに見る両親の意外な関係の変化に驚きました。例えば、近くの勤務先からお昼に帰宅したオヤジが「食事の支度が遅い」と激しい剣幕で怒鳴りだし、オフクロが「はいはい、すぐ支度しますよ」と従順に対応する姿に驚いたものでした。 私が子どものころ、両親はともに教師でしたが、この共稼ぎ夫婦の喧嘩はいつも絶えることがなく、私はいつ始まるかもしれない二人の喧嘩に恐れおののいていました。喧嘩が始まると、亀が首を甲羅にすくめるようにして、いさかいの嵐が過ぎ去るのをじっと待ったものでした。 安月給の共稼ぎ夫婦の喧嘩の主たる理由は、オヤジの金遣いの荒さと浮気でした。酒好きのオヤジは、酒場で一日に何千円も散在して夜遅く帰って来るようなことがよくありました。軽い浮気は日常茶飯、子どもの私が知りたくなくても知るようになった深刻な浮気の数も片手では足りないくらいありました。 普段見るオフクロの姿は観音菩薩様のように穏やかでしたが、ひとたび夫婦喧嘩が始まると般若の如く怒り狂い、口から火を噴いて激しい言葉でオヤジをののしったものでした。 そんな若い頃のオフクロのことを知っているものですから、妻に「オフクロも変わったものだ。昔のオフクロはもっと突起だらけのゴツゴツとした石ころを心に持った女性だったが、オヤジとの数多くのイサカイにいつの間にか表面が研磨されてまるくなったのだろう」と言ったものです。 しかし、私が子どもの頃、自分の両親がなぜ離婚しないのか不思議に思いました。いさかいが絶えなく、また趣味も価値観も全く違う二人であり、教師をしているオフクロがもし離婚しても、すぐ生活が困窮するわけでもないだろうになんて考えたものです。ところがオフクロはその教師という職業にとても高いプライドを持っており、いつも世間体を気にしていた人間でした。そんな彼女に離婚という選択肢は考えられなかったようです。 ところで子どもにとって両親の離婚は不幸なことなのでしょうか。勿論、仲の良いことに越したことはありません。しかし夫婦喧嘩の絶えない家庭の子どもは両親の不和に心を深く傷付けられているのです。大人の目からは子どもの心の裡はほとんど見えません。大人たちは、彼らのちょっとした言葉や行為でさえもが、それが子どもたちの心のなかで何倍にも増幅され、幼い心に大きな衝撃や影響を与えているということをほとんど知りません。オフクロは私の子どもの頃のことを回想したとき、私につぎのように言ったものです。「お前の子どもの頃は給料も安くて生活は大変だったけれど、でも、お前に辛い思いをさせるようなことはなかったと思うよ」 それで、私はその母の言葉にどう対応したでしょうか。私はそのとき、表情を全く変えずに小さく頷いただけでした。結婚は判断力の欠如から始まるそうですが、記憶力の欠如によって美化され持続することが出来るようです。 この拙文は、拙サイト「やまももの部屋」のやまももの短編小説のページに「幼な心を傷付けられた両親の不和」と改題して転載いたしましたので、興味がございましたらご覧ください。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/stories/stories.html#huwa
2016年04月16日
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私は、奈良市に生まれ育った団塊世代の人間です。団塊世代は戦後の「焼け跡」に生まれているのですが、この「焼け跡」という表現は単なる常套句や象徴的表現ではなく、実際にそう感じさせる風景が幼い私の目の前に無造作にさらけ出されていました。私のふるさとの小さな町である奈良市は幸い戦災に遭ってはいませんが、街のお寺や神社の軒下には戦災で家を焼け出された人たちがまだ沢山寝起きをしていました。私鉄に乗って長いトンネルを越えて隣の大阪の街に入ると、瓦礫と化したコンクリートと無数の折れ曲がった鉄筋で構成される無惨な廃墟跡が鉄道沿線に延々と続いていました。 こんな戦後の焼け跡生まれの私の幼い頃の思い出を織り成す重要なものとして、シンチューグン(進駐軍)の兵隊と映画があります。身体の大きい彼らは、小さな黒い眼のメアリーさんたちを小脇に抱えるようにして私のふるさとの町のメイン通りである三条通り等をよく闊歩していました。 私が幼い頃、映画館の前の座席はよくシンチューグンの兵隊さんたちと黒い眼のメアリーさんたちで占められていました。シンチューグンがアッハッハと大笑いして、それからちょっと間をおいて後ろの座席の日本人観客たちがどっと笑っていたのがとても印象的でした。シンチューグンは英語のセリフを耳で聴いて笑い、日本人観客はスクリーンの字幕を読んで笑うため、このようなタイムラグが生じたのです。ジェリー・ルイスとディーン・マーチンのコンビが水兵役を演じるドタバタ喜劇映画には沢山のシンチューグンが詰めかけ、彼らの爆笑が館内に渦巻きましたが、私も彼らと一緒にキャッキャと大笑いして見ていたものでした。 シンチューグンのことは、私が物心ついた幼い頃の思い出としてのみ残っていますが、映画の方は、私の子ども時代の全ての時期を通じて数多くの懐かしい思い出を残しています。私が幼い頃は、映画のストーリーなど全く分かりませんでしたが、画面が動くというただそれだけのことで目はスクリーンに釘付けとなり、眼前に繰り広げられる見知らぬ世界に幼い胸をわくわくさせたものでした。 私が子どもの頃、映画は娯楽の王様でした。映画の人気がピークに達した1958年には、日本の映画人口が11億2745万人にもなったそうです。当時の人口が9178万人ですから、なんと一人当たり年間に12回以上映画館に足を運んだ計算になります。私の家庭もその例外ではありませんでした。私の両親は給料の安い共稼ぎの教師夫婦でしたから、家族旅行など夢のまた夢でしたが、映画だけはほぼ毎月1回見に出かけたものです。奈良東映(東映系)、友楽会館大劇場(大映系)、南都劇場(日活系)、尾花劇場(松竹)、有楽座(新東宝系)、奈良セントラル劇場(洋画系)、有楽会館洋劇場、電気館などの映画館があり、映画の帰りには東向き商店街の上海楼という中華料理屋さんに立ち寄り、ワンタンをよく食べたものです。その頃、外食なんてめったにしませんから、家族でお店に入ってワンタンを食べるという「晴れやかな行為」は、私にはものすごく贅沢なことのように思われました。 母は芸術性の高いものが好きでした。そのお陰で、「自転車泥棒」「禁じられた遊び」「旅情」「エデンの東」「居酒屋」「河の女」「道」「鉄道員」などを子供時代に見ることができました。邦画では、「七人の侍」「夫婦善哉」「新平家物語」などを見ることができました。特に「七人の侍」は、なかなか画面に出てこない野武士がとても不気味で恐かったですね。また、母が「夫婦善哉」の森繁久弥の演技をえらく誉めていたことが記憶に強く残っています。 両親はまた、幼い私のためにディズニー映画が上映されるといつも連れていってくれました。「白雪姫」「不思議の国のアリス」「ダンボ」「ファンタジア」「ピーターパン」「わんわん物語」など、みんな懐かしい名前ですね。母が「ファンタジア」を見終わった後、「日本の人たちが耐乏生活を強いられていたときに、アメリカではこんな素晴らしい映画を作っていたのね」とため息混じりに言った言葉がとても印象的でした。ところで、ディズニーの「ピノキオ」だけは、それを見に行く予定の日に私は高熱を出したために見ていません。そのとき、私は、熱にうなされながら、「ピノキオを見たい、見たい」と泣いたものです。私は、ジフテリアに罹ってしまったのです。 映画を平均して毎月1本は見ていた我が家でしたが、ところが1950年代中頃からテレビの普及とともに映画人口は急速に減り続け、映画館から潮を引くように人々の足は遠のいて行きました。我が家も例外ではありませんでした。テレビが家庭にはいるようになってから、全く映画館に足を運ばなくなりました。 手許にある『昭和史全記録』(1989年、毎日新聞社)は、各年度事に封切られた主な映画の題名をリストアップしているのですが、我が家では1957年には「喜びも悲しみも幾年月」、「戦場にかける橋」、「追想」」「道」など10作品も見ていますが、翌年の1958年には「十戒」、1959年には「尼僧物語」、1960年には「チャップリンの独裁者」、「五つの銅貨」ぐらいしか見ておらず、そして、さらに1961年になると、なんと見た映画が1本もないのです。 おや、待てよ、私の家にテレビ受像機が入ったのは、私が中学校に入学した時のことで、世間がミッチーブームに沸いた1959年(昭和34年)4月10日の皇太子結婚の儀頃でしたから、私の家族の映画鑑賞の回数が1958年以降激減したのはテレビが主原因だとは思えません。我が家に何があったのでしょうか。うーん、その頃に父の浮気が発覚し、小学校高学年になった私の成績もガタ落ちしたものでした。 その後、私自身は、学生時代も社会人となっても、映画館に熱心に通うことようなことはなく、よほど話題になった映画だけをたまに観るぐらいになってしまいました。
2016年04月10日
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映画「男はつらいよ」シリーズのの第一作で、寅次郎(渥美清)が御前様(笠智衆)とお嬢さんの冬子(光本幸子)にばったり出会い、二人の写真を撮る場面があります。そのとき、笑顔を無理に作ろうとした御前様、なんと「チーズ」ではなく「バター」と言ってしまいます。「バター」では口が開いたままになって、口許に笑みを浮かべるこはできませんね。えっ、誰ですか、御前様の天然ボケぶりには開いた口がふさがらないなんて言うのは。 ところで、寅次郎による御前様と冬子の記念写真の場面、どこでロケがおこなわれたかご存知ですか。私のふるさとの町である奈良市の奈良公園内にある鷺池に浮かぶ檜皮葺き(ひわだぶき)六角堂の浮御堂の前なんですよ。このときのスチール写真を見ると、左側に寅次郎、右側に御前様と冬子、そしてその間に大きな擬宝珠(ぎぼし)飾りのついた木造の橋が あり、後ろに浮御堂が見えています。 この鷺池に浮かぶ浮御堂、寅さんだけでなく、私も中学生時代にカメラで撮影したことがあります。そして、それは私にとって初めての写真撮影でした。確か中学1年のときのことだと記憶しています。父からペトリの小さな二眼レフカメラを譲ってもらい、さてなにを写そうかと公園に出かけ、ぶらぶら歩いているうちに鷺池にやって来て、その池に浮かぶ浮御堂の美しい姿が目に飛び込んで来たので、この建物を撮影対象に選ぶことに決めたのです。 そのとき、浮御堂のなかには観光客が5、6人ほどいて、それらの観光客の中に赤い日傘を差した若くて美しい女性の姿が目に入りました。これは絵 になるなと思った私は、池のほとりから浮御堂の欄干に件む彼女の方にカメラのレンズを向けました。私ほ、カメラのファインダーの中心に日傘を差したこの女性を据え、その周囲に複数の人間を配し、それらを浮き御堂の全景のなかに納めてパチリパチリと何故か撮影しました。 私は、写真屋さんにこの写真の現像を頼んだ後、それが出来上がってくる日を指折り数えて待ちました。そして、数日後、心待ちにしていた写真をやっと手に入れました。しかし、袋を開けて写真を見てたとき、私はガッカリしてしまいました。だって、鷺池に浮かぶ浮御堂が私がイメージしていたものよりずっと小さく写っており、その浮御堂のなかにいる観光客たちはまるで豆粒の様だったからです。そして、悲しいことに、あの赤い日傘の女性は、それら小さな数個の豆粒たちのなかにおいて特に際だった存在ではなく、同じように単なる豆粒の-つでしかななかったのです。 私は首を傾げました。おかしいな、私が二眼レフのカメラのファインダーから覗いて見たあのときの浮御堂の情景といま手許にある写真とはあまりにも違いすぎるではありませんか。あのとき、日傘の女性は、そのころ視力1.5だった私の目に大きくそしてくっきりと鮮明に映り、他の親光客たちはその他大勢として彼女の背後に下がり、浮御堂全景は彼女とその日傘にとてもよく調和しながら水面にその美しい姿を浮かべていたはずではなかったのか? 私の目が正しいのか、それともこの写真が正しいのか、私はそのとき、いろいろ考えたものです。 私は、初めて写した写真を見てショックを受けました。しかし、私はまたこのときの経験からとても大事なことを学びました。さて、私はいったいどんなことを学んだと思いますか。使用した機械としてのカメラの能力や撮影者の腕前の低さを思い知らされた。いえいえ、そんなことではありません。人間の目なんて、いかにいいかかげんなものであるかということを学んだろうですって。いえいえ、そうでもありません。確かに、それらの写真は対象となった人間、建物、池の大小の比例関係において、それをかなり正確に再現していたことでしょう。撮影テクニックが未熟なことは当たり前のことです。しかし、それらのことを考えても現像された写真はあまりにも魅力がありませんでした。それに比べて、2眼レフのカメラのファインダーを通して私が捉えたと思った情景の方はずっとずっと魅力的で素晴らしいものに思えました。そうなんです、私という人間が主観的に創り上げたイメージの世界の方が確かに素晴らしいものだと思われたんです。 私は、子どもの頃から絵を描くのが大好きでしたが、この浮御堂の写真撮影の体験以降、自分の主観を大切にし、風景画でも人物画でも描く対象に対して感じたものを表現するために大胆な省略や誇張などを意図的におこなってデフォルメするようになりました。しかし、デフォルメの魅力を頭で理解したからといって、それで実際に魅力的な絵が描けるわけではありません。そのためには、豊かで鋭い感受性と独創的で優れた表現力が必要なんです。私は、次第に自分の画才に嫌気がさすようになり、いつのまにか絵筆を握らないようになっていきました。しかし、いま文章を書くとき、あの浮御堂の体験を大切にしたいと思っています。 1998年2月20日 執筆
2016年04月03日
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3月24日木曜日に鹿児島市のTOHOシネマズ与次郎に夫婦で山田洋次監督の「家族はつらいよ」を観に行きました。 この映画は山田洋次監督が「東京家族」で共演した橋爪功、吉行和子、西村雅彦、夏川結衣、妻夫木聡、蒼井優、中嶋朋子、林家正蔵の8人の俳優を再結集して撮影した喜劇作品です。おじいちゃん(橋爪功)から「誕生日のプレゼントになにか欲しいものはないか」と訊かれたおばあちゃん(吉行和子 )が、「あら、いいの」と言って机から持ち出したのが「離婚届」だったという熟年離婚問題を取り扱っていますが、ほとんど観客は中高年の男女ばかりの映画館内の笑い声が絶えませんでした。笑いのツボを心得た山田監督ならではのコメディタッチの作品でした。 おばあちゃんの離婚理由が、おじいちゃんがいつも靴下を裏返しにして脱ぎ捨てる、歯磨きしながらオナラをするとか、食事の時にクチャクチャ音を立てるとか実にたわいもないこと、でもそれが毎日積み重なるとたわいもないことと言えなくなるのかもしれませんし、女性の観客はそうそうと頷いていたようですよ。 おばあちゃんが離婚に踏み切ろうとした理由は、おばあちゃんの亡くなった弟(作家だったとのこと)の本が ブームになってて 印税が 入るようになり、、また田園調布に住む友人から一緒に住まないかと誘われたからとのこと、経済的にも住居の心配も全くなくなれば、靴下脱ぎっぱなしの爺さんにそりゃー離婚届けを突きつけたくなりますよね。 夫の退職後に夫源病(夫がストレスの原因になっている病気)に罹る女性が多いとのこと、実際私の妻の知人にもそんな女性がいて、家庭内別居状態とのことですが、山田洋次監督のこの映画を妻と一緒に笑いながら観ている私はなんて幸せ者なんでしょうか。 しかし映画館からの帰宅途中、車を運転する妻に「離婚届けを渡されたら病院通いもできなくなるから、僕を見捨てないでね」と気弱に言う私でした。
2016年03月26日
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たくさんの野良犬や野良猫を拾って大切に育てていたアイさんのことを拙サイト「やまももの部屋」のエッセーのページに「犬猫の尻尾」と題して載せたことがあります。その拙文に「功徳を積んだアイさんの天国行きは間違いないですね。それでも閻魔さまが間違ってアイさんを地獄に送ったら、犬や猫たちが尻尾を繋いでアイさんを地獄の底から助け出そうとするでしょうね。蜘蛛の糸ならぬ犬猫の尻尾ってわけです」と書いたものです。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/sub2.htm#dogcat そんな心優しいアイさんが今月の14日(2016年3月14日)に腎不全で他界されました。享年78歳とのことでした。お通夜に参列し、喪主となられたアイさんの奥さんや参列者の方々と故人を偲ぶなかで、犬猫だけでなく誰にでも心温かく接し、みんなに愛されたアイさんの人間像が浮き彫りとなり、あらためて私なりのアイさんとの思い出を書くことにいたしました。 アイさんは職場の同僚で、2007年3月に退職されています。誰とでも心優しく接するアイさんは、1976年4月に赴任したばかりの私にも、年齢的には10歳ほど違いがあるにもかかわらず、すぐ親しく声を掛けて下さいました。特に永吉町に職場があった当時、終業後の夕方になると広いグラウンドにアイさんたちと毎日と言うほど集まり、ソフトボールの練習を楽しんだものです。アイさんは守備もバッティンクもなかなか巧みで、トンネルを繰り返す私のためにゴロの守備練習をしてもらったことがあります。そんな私は守備ではピッチャーを務めることが多くなりました。どうも球の速度は遅いけれど、キャッチャーのミットに打ちやすい球を正確に投げるコントロールが評価されたようです。しかし打撃はさっぱりで、専ら下位打線を担わされました。 拙宅は1989年3月にいまの伊敷台に新築していますが、そのときアイさんからたくさんの樹木をいただきました。すでに庭師さんに頼んで、前庭の樹木を植える場所をレンガで囲いを造り、そこに土を入れ、さらにツツジ、ヤマモモ、サンゴジュ、ウバメガシ、クロガネモチ、ザクロを植えてもらいましたが、それでも空間が目立つ様子を見て、アイさんはわざわざ自宅の犬迫から萩、ナンテン、キンモクセイ、グミ、アジサイ、クコ等の苗木やホトトギス、シラン、スミレ等の野草を車で運び植えて下さいました。いまも萩は毎年秋になると必ず長くて細い枝先に無数の花を開花させて目を楽しませてくれます。 職場が坂之上に移ってからは、鹿児島市の伊敷台に住む私はバスやJRで通勤していましたが、会議で一緒になる日には、ほぼ同方向の犬迫町に住むアイさんに自動車で送ってもらうことが多くなりました。そんな日は、妻が帰宅した私に「アイさんに送ってもらったのね」と必ず言い当てたものですが、それはヘビースモーカーのアイさんの車に30分近く同乗していたので、私の身体からタバコ臭がしたからです。晩年のアイさんはお医者さんから禁煙を厳しく指示されていましたが、喫煙を最後まで続け、慰霊写真にも咥え煙草姿のアイさんの姿が写っていましたよ。 それから、アイさんと言えば忘れてならないのは竹の子のことです。毎年アイさんは犬迫町の自宅の裏山に竹の子が顔を出すと、職場のみんなに配って下さり、我が家でも竹の子が生える季節になるとアイさんの竹の子を楽しみにして待つようになりました。 アイさんが退職後も伊敷台2丁目のAコープいしき店でよくお会いしていましたが、この2、3年お会いすることがなくなり、竹の子のプレゼントも途絶えました。今年の竹の子の季節になって、アイさんはどうしておられるのだろうかと妻と一緒に気にしておりましたら、知人から3月14日夜にメールでアイさんの悲しい訃報を知らされ、お通夜に参列させてもらい、アイさんのご冥福を心からお祈りいたしました。 アイさんのことを追悼するとき、私のような他人に対する不信感のバリアーを張り巡らした人間でも、人間っていいなーと思うんですね。
2016年03月20日
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私が小学校時代に教わった担任の先生の作文指導内容は「感じたことをそのまま」「見たことをそのまま」書いたり描いたりすることでした。前回に書いた拙文「運動会の800メートル走でびりでし」は、そんな作文指導方針に対する私流に皮肉を込めた短編小説でしたが、拙文のヒントとなった斎藤美奈子の著作を今日のブログで紹介したいと思います。 斎藤美奈子は『文章読本さん江』(筑摩書房、2002年2月)で、谷崎潤一郎が『文章読本』に書いたつぎのような文章をまず紹介し、それに続けて彼女流の解説を加えています。 「文章の要は何かと云えば、自分の心の中にあること、自分の云いたいと思うことを、出来るだけその通りに、かつ明瞭に伝えることにあるのでありまして、手紙を書くにも小説を書くにも、別段それ以外の書きようはありません。」 文章読本の開祖といえば谷崎潤一郎で、この文豪が書いた『文章読本』は非常に有名ですね。しかし、この谷崎の上記の見解に対して、心の中にあること、言いたいことをその通りに書いていたら文章になるわけないじゃないか、という批判が出てくるのは当然ですし、私もなぜ文豪がこんなことを書いたのか首をかしげていたのですが、斎藤美奈子の『文章読本さん江』を読んでその疑問が氷解いたしました。それは、明治前期の主流の文章作法書がお手本通りに文章を作成することを重んじていたことに対するアンチテーゼとして書かれた文章だったんですね。そのことを説明するために、斎藤美奈子は『文章読本さん江』で一例としてつぎのような文章を紹介しています「余友人卜数名某地ノ梅花ヲ見ント欲シ瓢ヲ携ヘテ共二至ル見レバ数百株ノ梅樹蕾ヲ破り遠ク望メバ雪ノ如シ清香馥郁トシテ鼻ヲ撞ツ此景色実二言フ可カラズ、是二琴ア携フル所ノ瓢ヲ解キ、共こ飲ム。酒甜ニシテ或歌ヒ或舞イ既ニシテ太陽西山二没セントス。」 うわーっ、なんだかよく分からないけど、すごーく立派な文章みたいと思われるのではないでしょうか。そして、この文章が明治時代の少年向けの投稿雑誌に載ったものだと聞かされましたら、思わず「うそーっ、ほんと、信じられなーい」っておっしゃるかもしれませんね。おっと、こんな表現で驚く人はもういないかもしれませんが。 この少年が書いたというご立派な文章に対し、斎藤美奈子が「どこぞの爺さんじゃあるまいし、瓢箪に詰めた酒を腰に梅見に出かけ、酔っ払ってあるいは歌い、あるいは舞った? もちろんこれはフィクションである」とし、この文章が文範の定型句を模倣し、紋切り型の美辞麗句を適宜アレンジしてでっちあげたものであることを指摘しています。 そして斎藤美奈子は、谷崎潤一郎も明治の投稿少年の一人であり、「自分の心の中にもないこと、自分の云いたいとも思わないことを、できるだけねじ曲げて、かつ装飾的に伝えること」を要諦とする教育を受けて来たからこそ、後年自らの文章作法書を編むにあたり、心得の第一番目に「文章の要は何かと云えば、自分の心の中にあること、自分の云いたいと思うことを、出来るだけその通りに、かつ明瞭に伝えることにある」としたのだとしています。うーん、納得。 しかし、どんな作文もどんな視点から誰に対してどのような意図や企みを持って書くかということから逃れることはできませんね。思った通り、見た通りなんて文章は書けっこありませんね。
2016年03月13日
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今日(2016年3月4日)の鹿児島の地元紙「南日本新聞」の一面に、伊藤祐一郎鹿児島県知事が2013年に打ち出したスーパーアリーナ構想の成功体験となった「さいたまアリーナ」を積極的に評価する「さいたまアリーナ」の「効果 年394億円」、「用途多彩にフル稼働」との見出し文字が派手に踊る記事がデカデカと掲載されました。 同記事によると「さいたまアリーナ」(SSA)は、総務省出身の伊藤祐一郎知事が埼玉県の企画財政部長時代に具体的に構想したと公言しているものであり、00年開業したSSAは、約1万5千平方メートルの広大なフロアを有する多目的屋内施設であり、埼玉県が約700億かけて造ったものだそうで、「民間の試算では、年間の経済効果が約394億円に上り、約3600人の雇用創出効果がある」とのことです。 こんな記事がデカデカと出されるのは、伊藤祐一郎県知事さんが埼玉県での成功体験が忘れられず、いま知事をしている鹿児島県にもスーパーアリーナを建てたいと願望しており、地元紙としてもその意を汲んで積極的に応援しようとしたものに違いがないと推測されても仕方がありませんね。 しかし、拙ブログに以前「鹿児島県知事の『スーパーアリーナ』(仮称)構想について」と題して、「この『さいたまスーパーアリーナ』は自治省出身の官僚である伊藤知事にとっておそらくとても誇らしい成功体験なのだと想像されますが、世界最大のメガシティと評価されている東京の都市圏に建設された「さいたまスーパーアリーナ」の成功体験をもしそのまま夢よもう一度と考えているとしたらそれは鹿児島県民にとって非常に迷惑な話ですね。まあ、そこまでトチ狂ったオカシイ知事さんではないと思いたいですけどね」と書いています。 ↓ http://plaza.rakuten.co.jp/yamamomo02/diary/201402060000/ しかし成功体験は往々にして人間を狂わせることが多いですから、気をつけなければなりません。
2016年03月04日
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内川まさと君が小学3年生だった頃、国語の授業で担任の先生が前日に生徒たちに自由題で書かせた作文を返却し、何名かに読ませたことがあります。なんと意外にも「内川まさと君」と彼の名前も呼ばれ、クラスのみんなの前で読まされました。題は「800メートル競走」でした。「僕は運動は苦手です。運動会の800メートル走でもびりになりました。でも場内アナウンスで『内川君がんばってください』とはげまされ、見ているみんなもあたたかく拍手してくれました。とてもきつくて走るのをやめようかと思いましたが、みんなのあたたかいはげましで最後まで走り切ることができました。 家ではお仕事から帰ったお母さんに運動会でびりになったと言いましたら、お母さんは最後までがんばって走ってえらかったねとほめてくれました。僕は今回の運動会から最後までがんばることの大切さを学びました。」 うわーっ、なんて嫌な作文でしょうか。「努力する大切さ」とか「人の心の優しさ」等の先生がいかにも喜びそうなことをただただ書き連ねた、なんともいやったらしい作文です。 斎藤美奈子は『文章読本さん江』(筑摩書房、2002年2月)で、これまでの学校作文は欺瞞的な「あるがままのふり」「思った通りのふり」のイベント作文や「自己変革したふり」の読書感想文を生徒たちに強いて来たとし、これでは生徒たちが「学校作文不信にならないほうがおかしい」と指摘しています。 内川まさと君の担任の先生も例外ではなく、国語の時間、いつも「思った通りに素直に書きなさい」と作文指導していましたから、もしまさと君が先生の指導通りに書いたらつぎのようなものになっていたと思いますよ。「僕はスポーツが苦手なので運動会が大嫌いです。運動会なんてなくなればいいと思います。800メートル走ではびりになりました。3年生男子の最後を走っていると、場内アナウンスの『内川君がんばってください』との大きな声が聞こえて来ました。なにも僕の名前を出さなくてもいいのにととても腹が立ちましたが、みんなが拍手してくれるので最後まで走るしかありませんでしたが、名前を知られて大恥をかきました。だから運動会は大嫌いです。 家ではお仕事から帰ったお母さんに運動会のことをどう伝えようかと迷っていましたら、お父さんが今夜は珍しく酒のにおいもせずに早く帰って来て、お母さんの機嫌もよさそうなので、びりになったと正直に言いましたら、お母さんは最後までがんばって走ってえらかったねとほめてくれました。お母さんも学校では体育だけは苦手だったと言っていましたから、今回の運動会のことでは仕方がないと思ったのでしょう。でも算数で僕が悪い点を取ったことは隠しておこうと思います。本箱の裏に隠した算数の試験の紙がとても心配です。」 内川君が運動会のみならず学校経験からから学んだことは、「人は十人十色」「好きこそ物の上手なれ」ってことで、不得意なこと、嫌いなことを無理して上達しようと努力するより、得意なこと、好きなことに熱中し、より一層磨いた方がいいよってことでありました。
2016年02月28日
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昨日(2月20日)に南日本新聞会館「みなみホール」で「柳家喬太郎独演会」がありました。鹿児島では柳家喬太郎師匠の独演会が今回を含めて6回開かれていそうですが、私たち夫婦には5回目となる喬太郎師匠の独演会でした。今回の演目は以下の通りです。 柳家喬太郎 宗漢 林家たけ平 扇の的 柳家喬太郎 お菊の皿 (中入り) 柳家喬太郎 本郷刀屋 怪談牡丹燈籠 其之壱 今回の独演会の第1席は柳家喬太郎の「宗漢」でした。まくらで、鹿児島ではこの独演会は南日本新聞社が主催しており、いつも同社の社員食堂での食事を楽しみにしているとか桜島の噴火のこと等を話題に出して軽く笑いを取った後、田舎医者の前田宗漢が山向こうの町の大店の娘のために往診に出掛けることになりましたと噺をすぐに本題に入らせます。宗漢は患者から信頼を得るのも医術の一つと、自分のおかみさんに下男のふりをさせて町まで同行させます。娘の治療も無事に済ませ、大店で食事もいただき帰ろうとすると大雨になり、一泊することになります。この大店では来客用の布団がなかったので、宗漢は大店の主人の幼い子どもと一緒の布団に寝ることになり、下男のふりをしたかみさんはなんと大店の下男の権助と一緒の布団に寝ることになります。翌朝早々に宗漢たちが帰って行った後、朝食の席で、大店の子どもが言います。「あの先生、よっぽど貧乏なんだね。ふんどししてなかったよ」。すると権助も相槌を打って「先生の下男にもきんたまがなかったよ」。 実になんとも言いようのない下ネタ系のお噺で、落語の世界では「バレばなし」と呼ばれる艶笑小噺の一つだそうですが、初めて聴く珍しい噺とはいえ、洒落っ気やエスプリなど全くないこのお噺を聴き終わって、ちょっと首を傾げてしまいました。しかし、権助がなぜ医者の下男が男でないと気付いたかと考えて、エッ、エーッ、この権助さんは同性愛者だったのじゃないか、いまならなんの問題にもならないことが隠されている当時としてはいささか「アブナイ」お噺だったのかもしれないと気付きましたよ。 第二席は林家たけ平さんが登場し、元気いっぱいにまくらから男女差などの話題で大いに笑いを取ります。女性たちは集まるととても賑やかに会話を楽しみますが、男性たちは集まってもただ黙々と陰気な雰囲気で各人各様の作業にいそしむばかりとの指摘に大いに頷かされました。本題は有名な平家物語中のエピソードから取られた「扇の的」で、源氏と平家の「屋島の戦い」で那須与一が海上の平家の一艘の船に立てられた扇の的を見事射貫いたお噺を滑稽談にしたもので、たけ平さんは随所にくすぐりを入れて笑いを取っていました。なお、この林家たけ平さん、喬太郎師匠の話によると、いまは二つ目ですが来月三月に真打になる予定とのことです。 第三席は柳家喬太郎師匠の「お菊の皿」。とても有名な古典落語の噺ですが、これを喬太郎師匠風にアレンジして全身を使っての大熱演て、会場は大爆笑につぐ大爆笑の嵐となって、なんとも楽しい一席でありました。 このお噺、町内の仲良し三人組が近所の隠居さんの家に番町皿屋敷のことを聞きに行くところから始まります。彼らが旅先の住人から江戸の番町皿屋敷の話を訊かれて、何にも知らないといったため馬鹿にされたとのことなので、隠居さんは彼らに詳しく解説しはじめます。番町に住んでいた青山鉄山という旗本がお菊という腰元に恋をしたという最初の話の部分は古典落語通りに語られますが、鉄山がお菊さんに預けた十枚一組の皿の一枚が足らないことから、彼女を井戸の上に吊るして責めさいなむところから雰囲気が喬太郎師匠の独自世界が展開しだします。青山鉄山がサディスチックに責めさいなみ、お菊さんがマゾヒスティックにもがき苦しむサドマゾの世界を師匠が大真面目に熱演すればするほど会場の笑いの度合いは強まりました。 仲良し三人組は怖いもの見たさで番町皿屋敷跡に出かけ、幽霊のお菊さんが六枚まで皿を数えたときに逃げ帰りますが、その噂は江戸中にあっというまに大評判となって広まり、沢山の人が詰め寄せ、一袋十個入りのお菊ちゃん饅頭(ただし実際に入っているのは九個のみ)が売り出されるほどの一大興業になったというところから、さらに喬太郎師匠の噺はヒートアップし、皿屋敷跡で昼夜二回開かれるお菊さんのライブショーでは、火の玉を無数に炸裂させ、レーザー光線が賑やかに交差するなかをスポットライトを浴びてお菊さんが井戸から登場し、すっかりその気になったお菊さんにも気合が入り、人気アイドルタレント顔負けの派手なジェスチャーで皿数えを始めます。この喬太郎師匠の大熱演に会場の観客の笑いも弾け飛び、お菊さんショーという不思議世界のライブに参加している雰囲気となりました。しかし、あまりの熱演に予定時間をかなりオーバーし、そのため中入り後の演目は短いものにならざるを得なかったそうです。 中入り後に新たに高座に上った喬太郎師匠、「お菊の皿」で熱演したため時間配分を間違ったので、最後は短くまとめますと言い訳して始めたのが「本郷刀屋 怪談牡丹燈籠 其之壱」でした。若侍の飯島平太郎が酔っ払った浪人の黒川考蔵に絡まれて切り殺してしまうという牡丹灯籠の前半部分だけをさらっと演じて今回の独演会の幕は降りました。 しかし、今回の独演会、喬太郎師匠の「お菊の皿」という「狂太郎ワールド」とも言うべき一席に観客と一緒に大いに酔いしれることができて大満足でした。 なお、拙サイト「やまももの部屋」の「十人十席の噺家の高座」のページに今回の独演会で喬太郎師匠が演じた「お菊の皿」のことを追加しておきました。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/rakugo/kyoutaroutensiki.html
2016年02月21日
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私は1988年7月23日から8月15日の夏に中国の上海外国語学院で短期留学を行ってます。当時のことを日記に簡単にまとめているのを読み返しましたが、僅か28年前のことなのになんて歳月の隔たりを感じることかと驚いてしまいました。日本が変化した以上に中国が大きく変貌を遂げており、それはまるで外国人がチョンマゲ時代の江戸から西洋化と近代化が始まった明治への移り変わりを語るような変な感じなのです。いまは死語となって忘れ去られてしまった言葉である外貨兌換券、友誼商店、万元戸、郷鎮企業、自由市場等々の言葉の説明から開始する必要があるようなんですよ。 さて、上海外語学院では、入学時に初級、中級、高級のクラス分けのための口頭試問があり、私は高級班に配属されました。これでも私は外国語学部中国語学科を卒業しており、高級班入りは当然と言えば当然なんですが、実際に高級班に属しての三週間の語学研修にはかなり苦戦させられました。担当の先生は隔日交代で卜華礼先生と王麗先生でしたが、卜華礼先生はベテランのママさん教師で表現がとても分かりやすくゆっくりと語りかけられるので私でも助かりましたが、もう一人の王麗先生は花の26歳のお嬢さん先生で、彼女の早口の中国語には非常に苦労させられました。トンチンカンな回答をするたびに、そんなことも分かんないのとの表情が露骨に顔に出て、私の小さな胸は授業中痛みっぱなしでありました。しかしおいしい油条(ユウチャオ)をクラスのみんなに持って来られたり、彼とのラブロマンスを休み時間をオーバーして語ったりと個人としてはとてもチャーミングな小姐(シャオチエ)でありました。 28年前の上海の短期留学では、友誼商店通いが欠かせませんでした。上海の夏は蒸し暑く、水道水は硬水で飲めず、友誼商店でミネラルウォーターやコカコーラを買うようになり、日本ではほとんど飲まなかったコカコーラの常用愛飲者になってしまいました。あっ、「友誼商店」とは外国との友情関係を深める商店という意味で、当時は大半の外国製品は友誼商店でしか入手できませんでした。 友誼商店と言えば、同商店では外貨兌換券がないと外国製品を入手できません。しかし上海市民のなかにも友誼商店で良質の外国製品購入希望者が多くいたようで、外貨兌換券が路上で闇のレートで交換されていました。外貨兌換券というのは、一般の中国市民が使用する人民幣とは別に、外国人にのみ渡された兌換券で、外貨兌換券と人民幣の額面価値は等価とされましたが、外貨に両替可能なことや、人民幣では買えない外国製品が買えることなどから外貨兌換券に対する中国市民の人気が高く、人民幣との闇両替が横行し、闇両替のレートでは外貨兌換券1元が人民幣1.5元~1.8元程で交換されていました。街を歩くと路上で闇両替商のお兄さんに「換銭」「換銭」(ファンチェン、ファンチェン)とうるさくつきまとわれたものです。現在の日本での中国人旅行客の爆買の下地がもうこの頃に存在していたのですね。 外国人は国営商店でも買い物が出来たのですが、販売員の接客態度が「売ってやるからありがたく思え」という感じで、紳士の私などは販売員のレデイの皆様方がおしゃべりを終えるまでじっと黙って待ち続けたものです。しかしすでに街には自由市場が開設されており、こちらの近郊農村から販売に来ている農民たちは商売熱心で、カメラ持参で撮影している私が日本人らしいと判断すると「はじめまして」「いらっしゃいませ」と日本語で愛想よく声を掛けてくれたものです。なお、農村部に従来存在した人民公社が1983年頃にはすっかり解体されており、農民は責任を負った以上の農産物を自由市場で販売することが許されるようになり、都市近郊の農村部には郷鎮企業(人民公社解体後に急増した農村企業の総称。人民公社の解体後、公社あるいは生産大隊が経営していた社隊企業は、中国農村の末端の行政単位である郷 や鎮が経営する集団所有の郷鎮企業として再出発しています)が雨後の竹の子のように数を増やし、主として農産物を加工して都市の自由市場で活発に販売するようになりました。 郷鎮企業で莫大な利益を得た農村住民のことを年間に一万元以上の収入のある農家と言う意味で「万元戸」と称し、彼らの建物はほとんどが二階建てや三階建てで、当時の上海の一般庶民の貧相な建物と比べて光り輝いているように感じました。 自由市場 万元戸の建物 私が上海に短期留学したのは1988年の夏のことでしたが、その翌年の1989年6月4 日に北京で天安門事件が起こり、学生たちの民主化運動は徹底的に弾圧されました。 なお、この拙文を拙サイト「やまももの部屋」の中国関連の「中国 横看成嶺」と題されたページに「私の上海短期留学日記」と改題して加筆転載することにしました。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/shanghai/shahghai.html
2016年02月14日
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気象台によると、1月24日から25日にかけ鹿児島県内は強い冬型の気圧配置となる影響で、薩摩地方を中心に平地で20センチ、山地で30センチの積雪が予想されると報じていましたが、24日朝午前8時の鹿児島市内の我が家の庭も一面真っ白の雪景色となっていました。 県内では2010年12月31日、上空1500メートルに氷点下8.3度の寒気が流れ込んだ影響で、鹿児島市で観測史上2番目となる最大25センチの積雪を記録しましたが、今回の寒気も、これに匹敵する積雪をもたらす恐れがあると予測されましたが、1月25日に鹿児島県内の伊佐市大口で氷点下15.2度の観測史上最低気温を記録しました。また鹿児島市内で氷点下5.3度、12センチの積雪がありました。 なお、下の写真は2011年正月に撮った我が家の庭の雪景色です。 ↓ http://plaza.rakuten.co.jp/yamamomo02/diary/201101010000/
2016年01月24日
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毎日新聞2016年1月17日の東京朝刊に「総統に蔡氏 8年ぶり民進政権 対中融和見直し 」と題された記事が載りました。 ↓ http://mainichi.jp/articles/20160117/ddm/001/030/137000c 同記事によりますと、台湾の中央選管の最終開票結果はつぎのようになりました。 蔡英文氏 6,894,744(56.12%)=民進党 朱立倫氏 3,813,365(31.04%)=国民党 宋楚瑜氏 1,576,861(12.84%)=親民党 蔡英文氏は16日夜に記者会見し、「台湾人は1票で歴史を書き換えた」と勝利宣言したそうです。また同時実施の立法院(国会、定数113)選挙でも、民進党が68議席と大勝し、同党は初めて単独過半数を獲得し、国民党は64議席から35議席に大幅減したとのことです。 なお、争点の対中政策を巡って蔡氏は「現状維持」を掲げていますが、ただ民進党は、中国と国民党が交流の基礎に位置づける「一つの中国」の原則を確認したとされる「1992年合意」を認めておらず、もし今回の選挙結果を背景に民進党政権が「92年合意」に対して否定的な姿勢を続ければ、「中国が一転して強硬な対台湾政策を実行に移す可能性があり、台湾海峡を挟んで中台が緊張することも考えられる。一方で、求心力を増す蔡氏を相手にする中国は、民進党政権が長期化する可能性を見据え、台湾政策の再検討も迫られそうだ」としています。 また毎日新聞のサイトの2016年1月17日00時48分に「歓喜の声を上げる民進党支持者たち」と題された記事が載りました。 ↓ http://mainichi.jp/articles/20160117/k00/00m/030/148000c 同記事によると「立法院(国会、定数113)選挙(小選挙区比例代表並立制)では、民進党が現有40議席から68議席に躍進し、悲願である初の単独過半数を確保した。国民党は64議席から35議席と大幅に数を減らした」とし、「今回の選挙では、長年続いてきた国民党、民進党の2大政党に対し『第3勢力』と呼ばれる新政党が存在感を示したのも大きな特徴だ。学生運動参加者らが結党した新政党『時代力量』は初参戦ながら5議席を確保した。一方、李登輝元総統を精神的指導者に仰ぐ台湾団結連盟(現有3議席)は議席を失った 」と報じています。 そして、「14年春の対中経済協定に反発した学生運動を経て「公民意識」が社会に広がり、多くの学生や社会運動団体が政党を結成して政治に参加し始めた。比例の政党数は過去最多の18に上った。王業立・台湾大教授は「以前の小政党は『統一』『独立』といった路線の違いを背景に、国民党から分離した。新興政党は対中協定反対や環境保護といった目標から出てきたので全く異なる」と分析し、「時代力量は1987年の戒厳令解除後に生まれた若者らが多く、民進党よりも独立志向が強いとされる。国民党の馬英九政権の対中融和路線に反対する立場が一致した民進党と時代力量は、一部選挙区で選挙協力した。 /時代力量は民進党への対応について、政策ごとに是々非々で臨む姿勢を示しており、民進党政権の『監視役』になる可能性もある」としています。
2016年01月17日
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2016年もよろしくお願いします。張九齢の有名な漢詩に「照鏡見白髪(鏡に照らして白髪を見る)」と題された次のようなものがあります。宿昔青雲志(宿昔 青雲の志)蹉跎白髪年(蹉跎たり 白髪の年)誰知明鏡裏(誰か知らん 明鏡の裏)形影自相憐(形影 自ずから相憐れまんとは) 左右ともに最近撮った私自身の写真ですが、まさに「形影自ずから相憐れむ」の感を覚えます。左の写真は意識的に解像度を落とし、右の写真は縮小して載せることにしました。 ところで、この張九齢の「照鏡見白髪」と題された漢詩を井伏鱒二が和訳しているのですね。そうです、于武陵の「勘酒」と題された漢詩「勧君金屈巵 満酌不須辞 花發多風雨 人生足別離(君に勧む金屈巵 満酌辞するべからず 花發すれば風雨多く人生別離足る)を大胆にも「コノ杯ヲ受ケテクレ ドウゾナミナミ注ガシテオクレ 花ニ嵐ノタトエモアルゾ 『サヨナラ』ダケガ人生ダ」と意訳した優れた文学者です。この井伏鱒二が張九齢の「照鏡見白髪」をつぎのように和訳しています。 シュッセシヨウト思ウテキタニ ドウカスル間ニトシバカリヨル ヒトリカガミニウチヨリミレバ 皺ノヨッタヲアハレムバカリ ではこの井伏鱒二訳を参考にして、私自身が年老いた写真を見ての感慨を詩にさせてもらいます。 出世なんてどうせ他人事だと思ってはいたが いつまにやら馬齢を重ね 独り撮った写真をそっとながめて見れば 玉手箱を開けてビックリ皺くちゃ爺さん
2016年01月05日
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日本の食文化の特徴の一つに箸の使用がありますが、大昔は手掴みだったそうで、6、7世紀頃に中国から箸が渡来し、次第に普及していったと言われます。では中国ではいつ頃どのような理由で箸が誕生し、食事に使う道具として普及していったのでしょうか。 そのことについて太田昌子著『箸の源流を探る 中国古代における箸使用習俗の成立』(汲古書院、2001年9月)が詳しく調べています。同書は、中国古代文献から箸使用の定着について考察するだけでなく、さらに中国の考古学界の発掘成果から箸の出土を考察し、さらに箸が発生し普及した理由等について食器具類・食事様式・居住環境の変化と関連させて考察を加えています。 太田昌子は同書の50頁から57頁において、二本の棒でものを挟みあげる用具としての箸は、はるか三千年前以上前の殷代の遺跡から銅製の箸が発掘されているが、これらの箸は熱いものを挟み取る冶金か調理の道具であったろうと推測しています。そんな箸が食事用の道具として普及する過程については、同書の242頁から243頁につぎのように要約しています。 「まず住居と食事様式の 変化、特に手食から箸使用への変化との関連について考察してみた。 それにさきだち、新石器時代から春秋戦国時代ごろまでの住宅建築の発達状況を見ると、貴族階層の住む住宅は殷時代頃より次第に発達して、戦国時代には瓦葺きの高層建築も見られるようになった。このような広壮な貴族階層の住宅では、例えば調理は奴婢たちが別棟の厨房において行い、主人側の家族は別棟に運ばれた食物を、従者の介添えを受けながら食べていたと思われる。それに比べ一般庶民の住居は、戦国或いは漢時代においてさえ、萱葺き屋根の粗末な作りで、大きさも一と聞か二た間程度の狭小なものであったようである。従って調理と食事の場も分離せず、調理された食物はただちに家族たちに供せられたと思われる。そしてこのような環境であってこそ、元来調理用具であった箸がそのまま食事の場にも取り込まれて行く可能性があったと考えられる。 一方食事作法についての意識には、中国古代の支配者階級の中で重んじられていた伝統的儀礼に束縛されていた貴族たちと、それとは全く無関係の一般庶民との間に、大きな差異があったと考えられる。貴族たちは、自らの地位と権威の保全のためにも伝統的な礼法に忠実であることを要求されたに違いない。したがって礼法で定められていた直接手で食べるという食事様式を、新しく箸を使用する方法へ変えるという発想は、全く生まれなかったと考えられる。一方庶民階層の人たちは、窮屈な礼法の埒外に置かれていたために、因習に縛られることもなく、便利でしかもよりおいしく食事を楽しむ方法をひたすら追い求めたと思われる。そしてこのような自由な雰囲気の中でこそ、元来は調理用であったと思われる箸のような用具でも、さほどの抵抗感なしにごく自然に食事の場へ取り込まれていったのではないかと考えるのである。 そしてこのような食事様式の変化をよりいっそう促進させた要因として、春秋から戦国時代にかけて次第に人口が増加し、商工業も発達していった都市という環境の影響が大きかったと考える。その理由の一つは、材料の入手もまた加工も比較的容易で、値段もさほど高くはなかったと思われる箸は、早くから商業ペースに乗り、市場でかなりの数量が売買されたと考えるからである。 そしてまた、当時は酒や塩、干し肉などの食品が市場で売られたのみならず、調理品も売られるようになり、街頭で食事を楽しむという習俗も生じつつあったようであるが、このように家族という閉じられた場から公共の場へと食事が開かれた時、新しい 箸使用習俗の定着と普及は大いに促進されたと考える。 さらには、街頭において一定の値段で提供された調理品は、恐らく碗のような比較的小型の食器に盛られていたと思われるが、小型の碗は手では食べにくく箸やスプーンの方が適しているので、このような小型の食器の使用が広がるに従って箸使用の習俗もまた広がっていったことも考えられる。」 太田昌子は、春秋戦国時代(紀元前770年に周が都を洛邑へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代)の社会的、経済的大変動の時期に、手食から箸使用の食事へと変化したことはほぼ間違いなかろうとしています。 ところで、『箸の源流を探る』の著者の太田昌子は私の母で、息子の私から太田昌子の経歴と彼女の古代中国の箸の起源と普及の研究のかかわりについて紹介させてもらいます。 母は、1993年3月に鳴門教育大を定年退職し、父と一緒に私の家の近くに引っ越してきました。私が両親の家を訪れますと、いつも母は自分がいま研究していることについてあれこれと楽しそうに語ってくれました。母は、まるで可愛い吾が子を慈しみ育てるような気持ちで自分の研究テーマに愛情を注いでいたのです。また、中国古代史がご専門の奈良女子大名誉教授の大島利一先生から箸の研究についていろいろアドバイスのいただいておりましたが、その大島先生からお手紙が届くと、いつも恋人からの手紙を見せるように嬉しそうに私に見せてくれました。私もよく母から箸の研究の原稿についての意見を求められ、根がヤクザな私は「もっとはったりを利かせて読者に興味・関心をもたせないと駄目だよ」なんて言っていましたが、生真面目な母にそれは無理な注文だったように思います。 母の箸の研究を纏めた『箸の源流を探る』は残念ながら遺著となってしまいました。母が亡くなる前日の朝、私は両親の家を訪れているのですが、そのとき母は、「背中が痛くて熟睡できないのよ」と言いながらも、私に暖かいコーヒーを出してくれました。その後いとまを告げて帰ったのですが、まさかそれが永久の別れになるとは想像もしていませんでした。翌日には解離性大動脈瘤破裂のために突然あの世に旅立ってしまったのです。 母の葬儀も全て終わり、父と一緒に両親の家に戻ったとき、母の書斎の机の上に愛用の広辞苑が開かれたままになっているのが目に入り、突然なんとも言えぬ寂寥感に襲われ、胸に熱いものがこみ上げて来ました。 私の母は、1923年5月17日に日本統治時代の台湾の台北市大和町に市川實雄、まつよの次女とて生まれ、1943年に奈良女子高等師範学校の家政科を戦争中のために3年半で繰り上げ卒業し、戦後まもなく奈良女子大文学部附属高等学校・中学校で家庭科の教諭となりました。本来は食物学を主な研究領域としていたのですが、1960年代末頃から独学で中国の古文(漢文)のみならず現代文を習得して古代中国の箸の起源とその普及に関する研究を開始し、同校の校長をされていた奈良女子大の大島利一先生(甲骨文や金文に造詣の深い中国古代史の研究者)から激励されたこともあり、同研究に没頭するようになりました。そして、かつて奈良女附属高校の同僚だった奈良女子大の中塚明先生(日本史研究者)の紹介で研究成果が汲古書院から出版されることとなりました。しかし、その原稿が脱稿し、校正も初校を終えた後、『箸の源流を探る 中国古代における箸使用習俗の成立』(汲古書院、2001年9月)が出版される直前の2001年1月19日に解離性大動脈瘤破裂で急逝しましたので、同書は母の遺著となりました。享年77歳でした。 なおこの拙文に加筆して拙サイト「やまももの部屋」のエッセイのページに「母の遺著『箸の源流を探る』」と改題して新たにアップしましたので、興味がございましてらご覧ください。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/sub2.htm#hasi
2015年12月13日
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今年(2015年)、台湾でドキュメンタリー映画「湾生回家」が興行収入1億円を超える異例のヒットとなったそうで、そのことについて野嶋剛が「東洋経済 ONLINE」に「今なぜ台湾で『懐日映画』が大ヒットするのか」と題して興味深い論評文を書いています。なお映画の題名にある「湾生(わんせい)」とは、戦前、台湾で生まれ育った日本人のことを指します。 ↓ http://toyokeizai.net/articles/-/94829 野嶋剛はこの評論文で、従来は「台湾では国民党の『国民化教育』によって日本への思いは『皇民意識』として克服すべき対象となった。日本でも、台湾統治という植民地領有行為そのものが批判の対象となった。/その結果、国家の領有や放棄というレベルとは本来別次元であるべき湾生たちの『人間の歴史』までが忘却され、軽視されてきたのである」としながら、近年になって台湾では「中国は中国、台湾は台湾」という認識が完全に定着し、「愛台湾(台湾を愛する)」というスローガンが政治的党派の違いを超えて共通のものなり、「その意味では、この湾生回家のヒットは『日本人も愛した台湾』という点が、より台湾の人々の涙腺を刺激するのだろう」と結論づけています。 ところで、私がこの野嶋剛の評論文で最も印象に残ったコメントは、「記憶は環境によって育てられる面はある。台湾における日本時代への懐かしみは、国民党の苛烈な統治や弾圧が強化したものであろう。/日本での湾生たちの台湾思慕も、敗戦によって焦土となった日本は当時の台湾に比べてはるかに暮らしにくかったことや、日本で引揚者が受けた差別的視線なども関係しているはずだ。戦前の台湾経済水準は、日本の地方都市を大きくしのぎ、給料面でも東京に遜色ない金額を得ることができた。日本に戻った『湾生』たちが台湾での生活をより一層懐かしんだことは疑いようがない。(中略)映画で湾生たちは、口々に『私の故郷は台湾』と語っていた。そして、戦後の日本でずっと他人に語れない『台湾の私』を抱え込んで生活してきた。その感覚を映画の主人公のひとりである老婦人は『自分がいつも異邦人のような気持ちだった』と明かしている」という箇所でした。 ああ、そうなんだ、私の母も「湾生」として「異郷の地」に生きる複雑な思いを子どもの私にだけ繰り返し語っいたものでした。私の母は自分のことを「湾生」と呼称したことは一度もありませんでした。しかし「自分のふるさとは台湾だ」といつも言っていましたし、私が幼い頃、彼女は問わず語りに彼女のふるさとの街と生まれ育った家庭のことを何度も何度も楽しそうに語ったものでした。母のふるさとの台北の街は大きく、道路や建物は立派で、沢山の人々や車がとても賑やかに往来していたとのことで、住んでいた家も大きく立派で、お手伝いさんが沢山いて、ピアノもあり、何不自由のない生活を送っていたそうです。私は何度も何度もそんなことを聞かされて育ちました。 幼い私は、母のこんな想い出ばなしを聞きながら、その想い出ばなしと比較して、自分が今住んでいるふるさとの町はなんてちっぽけなんだろう、自分たちはいまなんて恵まれない境遇にあるのだろうと思わざるを得ませんでした。 幼い私には、人間の屈折した心理など皆目分からなかったのです。だから、彼女が語る話の表層に出ているものを素直に受け取るだけでした。母がその想い出ばなしの奥の方にどんな複雑な想いを託していたのかなんてことは全く理解できませんでした。 私はそのことを拙サイト「やまももの部屋」の「やまもものエッセイ集」に「母のふるさとの街と家」と題して載せています。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/sub2.htm#furu 私の父は奈良市で生まれ育った人間ですが、日本統治下の台湾帝大(現在の国立台湾大学)で学び、戦後も国民党政権が必要とする「留用者」として一時台湾で教鞭を執っています。そんな父は「俺は蒋介石から給料をもらっていた」と子どもの私に言っていたものです。台湾が日本の統治から中国の国民党の統治となった様子もよく聞かされました。 そのとき、台北の台湾人は「光復」(祖国復帰)と言って歓呼の声をあげて「中国軍」を歓迎したそうです。ところが台北の街に入ってきたのは敗残兵同様のみすぼらしい兵隊たちでした(実際、中国大陸で共産党軍との内戦に敗れた国民党軍でした)。彼らの文化程度は低く、水道の仕組みも分からず、水を飲むために蛇口だけを壊して持っていこうとしたそうです。国民党政権の役人も腐敗しており、日本人資産の接収だけにとどまらない「略奪」まがいの行為や官庁・企業の役職の独占、賄賂等が横行し、治安も悪化したそうです。 台湾人の失望は怒りとなって学生たちを中心とする抵抗運動が起こり(1947年2月28日に起こったので二二八事件と呼称されています)、父か教えていた学生たちの多くがこの抵抗運動に参加し、根こそぎ逮捕されていったそうです。この抵抗運動への徹底した弾圧は、その後の台湾に外省人と本省人の間に深い溝を作ったそうです。 そんな体験を戦後の台湾でしている父ですが、台湾から故郷の奈良市に帰った後も青春時代を過ごした台湾を懐かしみ、よくアコーディオンで「夜来香」(イエライシャン)、「雨夜花」(ウーヤーホエ)等を奏でながら歌っていたものです。その後、仕事の関係で奈良市を離れ、松江市や鳴門市に移転した父でしたが、定年後に私が住んでいる鹿児島市に家を建てて晩年を過ごしています。自分が生まれ育った奈良市に帰る気は全くなかったようです。 そんな私の両親は、いま錦江湾の海上に屹立する桜島の全景を眺めることのできる高台の墓地に静かに眠っています。 なお、拙サイト「やまももの部屋」のエッセイのページにこの拙文を一部書き直して「私の両親の懐かしの台湾」としてアップしています。
2015年12月06日
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台湾のひまわり学運と議会占拠について、浅野和生編著『中華民国の台湾化と中国』(展転社、2014年12月)に基づいて、台湾住人の「台湾人意識化」の増大とサービス貿易協定の問題点ついて補足しておきたいと思います。 まず、同書によると台湾に住む人々はつぎの4グループに分けられるそうです。第一グループはマレーポリネシア系の先住民族、第二グループが17世紀から18世紀に主として中国南東部の福建省から移住した閔南人、第三グループがそれより少し遅れて広東省や福建省の山岳地帯から移住した客家人、第四グループが1945年以降に大陸中国から移転した人々で外省人と呼ばれるそうです。なお、第二グループと第三グループを併せて一般に本省人と呼びます。 これらの四グループに分けられる台湾住人の「台湾人意識化」の増大について、同書の33頁~34頁に台湾の国立政治大学が2014年6月に実施した世論調査に基いてつぎのように紹介されています。「戦後の台湾からは三十数万人の日本人が退去して、それと入れ替えに九十万人といわれる中国人が台湾に流入してきた。戦後の国民党政府は、台湾の脱日本化と中国化のために教育政策他を進めたが、今日まで五十年を超える大陸との断絶期間のなかで台湾に居住する人の構成比では、外省人一世が減少する一方なのに対して、第一世代とは意識が異なる外省人第三世代が増え続け、無論、この間に本省人も増加した結果として、台湾では中国人意識は台湾人意識に置き換えられつつある。 また、八〇年代から経済発展を続けて台湾が豊かになるとともに、九〇年代に李登輝政権の下で政治的民主 化と、教育の台湾化が進められたことの影響と相まって、しだいに台湾に誇りをもち台湾人アイデンティティをもつ人々が台湾では増え、それを堂々と表明する人々が増えるようになった。 こうして台湾化教育から十年あまりが経ったころ、国民党馬英九政権が誕生すると、急速に中台接近が進み、人的交流が一般化した。すでに述べたように、台湾の人々は現実の中国人との接触を通して、自分たちは中国人とは異なる台湾人だということを改めて皮膚感覚としてもつようになり、六割が中国人ではない台湾人としての意識をもつにいたった。これに『中国人でも台湾人でもある』という人を加えると、今日の台湾では実に九割以上が台湾人意識を抱いているという状況になった。つまり、台湾の人々のアイデンティティの台湾化が進んだのである。」 また同書の143頁~145頁には「中台サービス貿易協定の問題点」についてつぎのように解説しています。「同協定が台湾の世論において懸念された点は以下の通りである。 中国側の開放リストによると、合資による証券会社を設立する際、中国における適用範囲は上海、福建、深センの三都市に限られ、電子商務については、その拠点は福建省のみに適用される内容である。また、資金力に勝る中国企業が本格的に台湾に進出した場合、民間の中小企業が多い台湾は到底中国企業に太刀打ちできず、台湾の市場構造が中国企業に取って代わられる危険性がある。 出版業界を例にとると、言論・表現の自由が保障されている台湾では、どんなに政治的に偏った本でも自由に出版することができる。しかし、中国に進出する台湾の出版社は、中国当局の言論統制と出版物の検閲を受けるため、中国共産党に批判的な書籍、あるいは台湾独立や李登輝元総統に対して肯定的な記述のある書籍を出版することができない。また、現在、台湾には数千社の出版社があり、その大半は中小企業であり、中国に進出して事業展開する資金力はない。一方、中国の出版社は数百社で、すべて中国共産党が管理している。もし中国の出版社が本格的に台湾に進出した場合、台湾の出版社は太刀打ちできない状況である。 通信に関しては、中国の通信機器メーカーなどが台湾国内の通信網 やデータセンターなどのメンテナンス業務を担った場合、一般市民の通信や通話が盗聴され、金蔑関を含む企業の業務用データが流出し、サイバー攻撃のリスクも高まる。さらに、個人情報や個人のプライバシーの保護が軽視される危険性が高まる。 最大の問題は、台湾に進出する中国のビジネスマンが一定の金額を台湾に投資した場合、あるいは台湾に投資して会社を設立した場合、一件の投資につき会長、管理職や技術者など四名とその家族に台湾の居留ビザを与えることである。居留ビザは無制限に更新できるだけでなく、居留ビザを取得した後、四年後に市民権を付与する仕組みになっている。さらに、家族の子供に子孫が誕生した場合、当然その子も台湾の市民権を獲得することができる。すなわち、数年間台湾に定住して市民権を取得した後、台湾の総統選挙、県市長選挙や立法委員選挙に投票できてしまうのである。したがって、香港、チベットやウイグル自治区と同様、中国人が次々に台湾に入り込み、最終的に台湾の政治を牛耳ることが可能になる。しかも、中国人が台湾に移住した後、直ちに台湾の国民健康保険に加入することができるため、日本や台湾のような健康保険や医療制度が整っていない中国にとって、非常に魅力的な話である。 以上の諸点が、各種マスコミやネット上で指摘された。」 こんな危険な問題点を持つ「中台サービス貿易協定」の内容が次第に明らかになり、台湾人としてのアイデンティティが強まっていた台湾住民の反発が増大し、「ひまわり学生運動が広範な台湾住民の支持を得ることになったのですね。 なお拙サイト「やまももの部屋」の「台湾の『ひまわり学生運動』と議会占拠」と題した新たなページにUPしましたので、興味がございましたらご覧ください。
2015年12月03日
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インターネットの「リテラ」に「『NEWS23』でキャスター岸井成格の降板が決定の情報!「安保法制批判は放送法違反」の意見広告にTBSが屈服?」とのタイトルで、うすら寒くなるような記事を見つけました。 ↓ http://lite-ra.com/2015/11/post-1718.html 同記事によると、11月の14日の産経新聞と翌15日の読売新聞に「私達は、違法な報道を見逃しません」とする意見広告が掲載され、9月16日にTBS『NEWS23』でキャスター岸井成格氏が「メディアとしても(安保法案の)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」という発言を取り上げ、放送法第四条の規定に対する重大な違法行為だと批判し、その後、『NEWS23』の降板が決まったというのです。 この広告の出稿主は「放送法遵守を求める視聴者の会」だそうですが、同記事によると「呼びかけ人には、作曲家のすぎやまこういち氏や評論家の渡部昇一氏、SEALDsメンバーへの個人攻撃を行っていた経済評論家の上念司氏、ケント・ギルバート氏、事務局長には、安倍首相の復活のきっかけをつくった安倍ヨイショ本『約束の日 安倍晋三試論』(幻冬舎)の著者・小川榮太郎氏など」の安倍政権応援団の人々が名前を連らねているとのことです。 なお、下に掲載した画像は11月15日の読売新聞の意見広告です。
2015年11月30日
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2014年3月に台湾で起こった「ひまわり学生運動」の指導者・林飛帆は、親中派として知られるメディア王の蔡衍明による大手ケーブルテレビ買収に反発し、「反メディア独占」を掲げて2013年9月に大規模デモを指揮した人物です。この台湾の「ひまわり学生運動」について、東京外大の小笠原欣幸氏の「中国と向き合う台湾―激変する力関係の中で」(『ワセダアジアレビュー』 No.16 ) が的確に纏められており、幸い同論文が「小笠原ホームページ」にUPされていましたので、同稿が触れているこの学生運動のことを下に紹介させてもらいます。 ↓ http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ogasawara/analysis/wasedaasiareview16.pdf 「馬政権は二〇一三年六月、中台の市場開放・経済協力をさらに進める『サービス貿易協定』を締結した。ビジネスチャンスが拡大する業界は歓迎したが、対中経済依存を警戒する諸団体が反対した。また、協定の内容が非常に複雑で事前の説明も不足していたので、影響を受ける業界も不安・不満を表明した。立法院での協定批准審議が民進党の妨害で九箇月たってもまったく進まない中、国民党は二〇一四年三月、審議打ち切りの挙に出た。それに抗議する学生らが台湾の国会にあたる立法院の本会議場を三週間にわたり占拠したのが『ひまわり学生運動』である 。三月三〇日には学生らを支援する大規模抗議集会が台北市中心部で開かれ、一〇‐五〇万人もの市民が集まった。抗議行動がこれほど大きくなったのは、馬政権の対中政策の進め方に不安を抱く人が増えていたことが背景にある。 ひまわり学生運動は、(1)反馬英九、(2)反中国、(3)反グローバル化(格差を広げる自由市場経済の拡大への反感、ここには中台の巨大資本への反感も含まれる)、(4)反体制(若者が閉塞感を感じる社会と既成政治への反感、ここには国民党だけでなく民進党への不満も含まれる)の主張が綯い交ぜになったものである。学生らの行為は住居侵・不法占拠・業務妨害にあたるが、多数の民意の支持を得て政権から一定の譲歩を引き出すことに成功し、平和的に立法院の議場から退去した。台湾のひまわり学生運動は、アジアにおいて学生運動が何らかの成果を生み出した数少ない事例であると言ってよいだろう。」 シールズ関連で関心を持った高橋源一郎の『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書、2015年5月)を読んでいましたら、書名と全く同じ「ぼくらの民主主義なんだぜ」というタイトルでこの台湾の「ひまわり学運」について高く評価する評論文が目に入りました。高橋源一郎はつぎのように書いています。「3月18日、台湾の立法院(議会)は数百の学生によって占拠された。学生たちは、大陸中国と台湾の間で交わされた、相互に飲食業、金融サービスなどの市場を開放するという内容の『中台サービス貿易協定』に反対していた。占拠の直接のきっかけは、その前日、政権を握る国民党が協定発効に関わる審議を、一方的に打ち切ったことだった。 立法院を占拠した学生たちは、規律と統制を守りつつ、院内から国民に向けてアピールを続けた。中国に呑みこまれることを恐れる国民の強い支持を受け、占拠は24日間にわたって続いた。 この運動について、中国に批判的な立場からの、彼らを支持する意見を、それから、運動に共感しつつも、学生たちの思想の未熟さを指摘する意見を、読むことができる。けれども、わたしは、もっと別の感慨を抱いた。 占拠の一部始終を記録したNHK・BSの「議会占拠 24日間の記録」にこんな光景が映し出された。 占拠が20日を過ぎ、学生たちの疲労が限界に達した頃、立法院長(議長)から魅力的な妥協案が提示された。葛藤とためらいの気分が、占拠している学生たちの間に流れた。その時、ひとりの学生が、手を挙げ、壇上に登り『撤退するかどうかについて幹部だけで決めるのは納得できません』といった。 この後、リーダーの林飛帆がとった行動は驚くべきものだつた。彼は丸一日かけて、占拠に参加した学生たちの意見を 個別に訊いて回ったのである。 最後に、林は、妥協案の受け入れを正式に表明した。すると、再度、前日の学生が壇上に上がった。固唾をのんで様子を見守る学生たちの前で、彼は次のように語った後、静かに壇上から降りた。 『撤退の方針は個人的には受け入れ難いです。でも、ぼくの意見を聞いてくれたことを、感謝します。ありがとう』 それから、2日をかけ、院内を隅々まで清掃すると、運動のシンボルとなったヒマワリの花を一輪ずつ手に持って、学生たちは静かに立法院を去っていった。 この小さなエピソードの中に、民主主義の本質が浮かび上がったようだった。民主主義は『民意』によって、なにかを決定するシステムだ。だが、『民意』をどうやってはかればいいのか。結局のところ、『多数派』がすべてを決定し、『少数派』は従うしかないのだろうか。 学生たちがわたしたちに教えてくれたのは、『民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも、「ありがとう」ということのできるシステム』だという考え方だった。彼らが見せてくれた光景は、彼らが勝ち取った政治的成果よりも、重要だったように、わたしには思えた。それは、わずか数百の参加者で、たまたま「直接民主主義」が実現されいた場所だから可能だったのだろうか。」 そして高橋源一郎は、「民主主義の原理を記した、ルソーの『社会契約論』には、不思議な記述がある。ルソーによれば、『表意志』(「民意」と考えていいだろう)は、意見の違いが多ければ多いほど、その真の姿を現すことができるのである。そこに垣間見える民主主義の姿は、わたしたちの『常識』とは異なつている。/もしかしたら、わたしたちは、『正しい』民主主義を一度も持ったことなどないのかもしれない。『民主主義』とは、ドイツの思想家、ハーバーマスの、想像力を刺激することばを用いるなら、一度も完成したことのない『未完のプロジェ クト』」なのだろうか」と結んでいます。 この高橋源一郎の評論文にも紹介されていますが、NHK・BSの「議会占拠 24日間の記録」がyoutubeのつぎのURLに記録されています。 ↓ http://www.at-douga.com/?p=13771 なお、「りんご学生運動」の指導者・林飛帆が今回の台湾の議会占拠を決意した理由を知りたくて、「Yahoo奇摩 台湾」で検索しますと、「蘋果日報」2014年03月20日の「反骨林飛帆 社運屡見身影」と題された記事で、つぎのように語っていることが分かりました。 ↓ http://www.appledaily.com.tw/appledaily/article/headline/20140320/35713064/# 私なりに林飛帆の発言を和訳するとつぎのようになります。「サービス貿易協定に反対する団体の不満を引き起こし、この行為は違法、違憲で民主的な手続きのやり方に違反しており、根本的に密室政治的手法で進めるやり方であり、ここに黒色島国青年戦線(やまもも注:2012年に台湾の大学生、大学院生らが中心となって結成した学生運動団体)は立法院に攻め入ることを決定した。」「馬英九政権のやり方に天は怒り人は恨んでおり、いま各界は私たちを支持しており、馬英九政権としては全面的にに検討せざるを得なくなった。」 ところで、私がこの台湾の学生運動で一番に疑問に思ったことは、なぜ立法院を占拠した学生たちを警察がただちに強制排除しなかったということです。ネット検索で判明したことは、どうも与党の国民党内で総統の馬英九と立法院院長の王金平との権力争いがからんでいるようです。しかし、国民党内にそのような内紛があったとしても、立法院(国会)が学生に占拠されたのですから、立法院の院長(議長)として黙認できるとは思えません。 学生の立法院占拠に対する王金平の表向きの発言を知りたくなり、「Yahoo奇摩 台湾」をあれこれ検索し、なんとか台湾唯一の国営通信社である中央通訊社の2014年3月20日の記事に「王金平:学生を保護し追い払わない」と題された記事を見つけました。 ↓ ↓http://www.cna.com.tw/news/FirstNews/201403205003-1.aspx 同記事によると、立法院に院長(議長)として最高の権限を持つ王金平が立法院占拠後3日後の午前中に官邸の外でメディアが警察の力によって学生を追い払うのかどうかとの質問に対しつぎのように答えたそうです。「王金平上午在官邸外受訪,媒體詢問是否會動用警察權驅離學生?他說,國會自主對象是立法委員,但目前在議場裡的不是立委,所以不是警察權問題,而是社會治安問題。目前還是保護學生為主,不會強制驅離,並叮嚀學生及抗爭群眾,天氣轉冷要多保重身體健康。」 私の中国語能力の不足のためだけでなく、同じ中国語とはいっても台湾語で使われている公用語の北京語は大陸の北京語表現と微妙に違っているので、意味がよく分らないところがあります。それでも恥を忍んで自己流に和訳すると以下のようになります。「国会が自主的に行う対象は立法委員ですが、いま議場内にいるのは立法委員ではありません。ですから、警察の権限とは関係なく、社会治安問題です。いまはやはり学生を保護することを優先し、強制的に追い出したりはしないし、さらに学生や抗議する大衆とは穏やかに接したいと思うし、天気も急に寒くなったので健康にはくれぐれも注意してもらいたい。」 流石は海千山千の政治家ですね。おそらく後で揚足を取られないようにこんな意味不明のことを言ったのだと思います。ただ、立法府の最高責任者として立法院を占拠した学生たちを強制排除しないということだけは分りますね。そのような王金平の態度が学生運動に幸いして長期占拠が可能となり、4月6日には王金平が議会を占拠する学生たちに「在兩岸議監督條例草案完成立法前,將不召集兩岸服務貿易協議相關黨團協商會議(中台の議案を監督する条例草案が立法化されるまで、中台サービス貿易協議に関する国会議員による審議は行わない)」と約束するような成果を挙げることが出来たのですね。台湾のこの学生運動から学ぶべきことは多々あると思いますが、日本でも国会占拠の戦術を真似ようなんてことは考えないで下さいね。
2015年11月26日
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鹿児島市天文館のマルヤガーデンズ内にあるミニシアター「ガーデンズシアター」で台湾映画「KANO」を観てきました。映画の「KANO」という題名は、戦前に日本が植民地として統治していた台湾に実在した嘉義農林学校(かぎのうりんがっこう。現在の国立嘉義大学)の日本語読み略称「嘉農」(かのう)から由来しています。 この嘉農は、1931年8月13日から8月21日まで甲子園球場で行われた第17回全国中等学校優勝野球大会に台湾代表として初出場し、いきなり準優勝を果たし、一躍注目を集めました。その後も1932年夏、1935年春と夏、1936年夏と甲子園に出場しています。 私の父は、日本の植民地時代の台北帝大出身者ということもあり、よく子どもの私にカギノーリンが甲子園で活躍した話をしてくれました。オヤジの話ですと、カギノーリンには高砂族(台湾の少数民族)出身のものすごく足の速い選手たちがいて、その足の速さを活かして甲子園で大活躍し、当時の日本でもすごい評判になったとのことでした。 私の父は1921年生まれですから、このカギノーリンこと嘉義農林学校が台湾代表として甲子園に初出場していきなり準優勝した1931年は、父がまだ10歳の頃のことで、最後に台湾代表として甲子園に出た1936年のときでも15歳ですから、オヤジが生まれた奈良市でその評判を耳にしたのだと思います。しかし、台北で学ぶようになったこともあり、足の速いカギノーリンの高砂族の選手の話は父にその後も強い印象を残したのでしょう。 そんなこともあって、マルヤガーデンズ内にあるミニシアター「ガーデンズシアター」で台湾映画「KANO」を観ることになったのですが、観終わって思ったことは、近藤兵太郎(永瀬正敏)というアニメ「巨人の星」の星一徹のような人物に鍛えられて弱小チームが甲子園で準優勝するまでになるという典型的なスポ根映画は、野球の実況シーンはとてもスピーディで迫力に富んでおり、それなりに面白かったのですが、嘉南大圳とこの水利施設建設に大きな役割を果たした八田与一のエピソードが不自然に挿入されているところ等に疑問も感じました。 この映画が台湾でヒットした理由の一つに、日本統治時代の再評価と言うことがあると思います。間違いなく、日本の統治により台湾からペスト、コレラ、赤痢、発疹、チフス、腸チフス、ジフテリアなどの伝染病の脅威がなくなり、大型水利設施の建設により荒れ地や沼地が豊かな田畑に生まれ変わりました。しかし、戦後になって大陸から入って来た外省人による国民党統治時代にはそのような日本統治時代の成果が評価されませんでした。それでも本省人(戦前から台湾で生まれ育った漢民族)には、外省人の国民党統治より日本植民地時代の方が汚職なども少なかった、治安もよかったとする親日の雰囲気が残っていました。 1996年以降の台湾民主化によって日本統治時代のことも次第に知られるようになり、その頃まだ子どもだった人がいまは20歳以上となり、この「KANO」という映画で初めて嘉義農林学校が台湾代表として日本の甲子園で大活躍した事実も知り、特に嘉義農林学校を率いる近藤兵太郎監督の「民族の違いがなんだ。守備に長けた日本人、打撃力のある台湾人、俊足の台湾原住民、それぞれの強みを生かしたらいい」との指導方針によるサクセスストーリィに痺れたのだと思います。 ただし、今年亡くなられたミステリー作家の陳舜臣さんが『青雲の軸』で生まれ育った台湾で受けた民族差別の体験を語っていますが、日本統治時代の光と影を正しく見つめることが必要だと思います。 私の父は台北帝大で農学を学んでいたので、日本人技師による台湾の大型水利施設の重要な役割を強調していました。しかしまた、当地の日本人の台湾人に対するあからさまな差別的言動に非常な違和感を覚えたことも正直に語っていました。 陳舜臣さんの『青雲の軸』でも、日本で一緒に受験した李騰志という台湾人が作者に「日本に来て、ちょっとふしぎに思ったことがあるんだ。こちらの人間には、あの日本人の目がない。意外だったなあ」と言っています。「あの日本人の目」とは、台湾での日本人の目に表れる台湾人に対する差別的態度のことです。 なお、平田宗興さんがご自身のfacebookに5月に台湾の嘉義を訪れておられ、そのときに写真に撮られておられますので、紹介させてもらいます。 ↓ https://www.facebook.com/okihirata/posts/891964700865462?pnref=story https://www.facebook.com/okihirata/posts/891962307532368?pnref=story それから、他の方がこの映画についてどのように評論されているか知りたくなり、ネットをいろいろ検索し、ナドレックさん運営の「映画のブログ」に「『KANO 1931海の向こうの甲子園』は親日映画なの?」と題された「KANO」についての映画評論があることを知り、読ませてもらいました。 ↓ http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-522.html ナドレックさんによると、この映画が台湾で2014年2月27日に封切られ、「そこから3ヶ月ものロングランになったが、この時期は『ひまわり学運』、すなわち立法院を占拠した学生運動の時期にピタリと重なる」とのご指摘があり、大いに納得させられました。 2008年に台湾の中華民国総統に就任した馬英九の親中政策により、台湾が「中国の経済植民地」になるのではないかとの懸念が「ひまわり学運」の学生運動となり、世論も学生を支持するような状況下でのこの映画の大ヒットが生まれたという視点を新たに得ることか出来ました。 そういった視点からこの映画を見直しますと、大ヒットの理由は単に日本統治時代の再評価ということではなく、嘉義農林学校を率いる近藤兵太郎監督の「民族の違いがなんだ。守備に長けた日本人、打撃力のある台湾人、俊足の台湾原住民、それぞれの強みを生かしたらいい」との言葉にあるように、中国大陸による中台一体化の併呑の危機を感じた台湾の人々の外省人、本省人、少数民族の枠を超えた多民族主義的な台湾ナショナリズムの高揚と重なったからと言うべきかもしれませんね。
2015年11月12日
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退職後サンデー毎日の私ですが、10月31日の土曜日と昨日11月7日の土曜日と同じ土曜日に2週続けて同窓関連の楽しい出来事がありました。K君のお嬢さんの結婚式に参加 10月31日の土曜日には大阪外国語大学中国語学科の同級生K君のお嬢さんの結婚式に招待されて出席しました。以前このブログに「大学同級生のK君との44年ぶりの再会」と題してアップしています。 ↓ http://plaza.rakuten.co.jp/yamamomo02/diary/201509130000/ 東京で長年暮らしていたK君が鹿児島に移り住み、大学の同窓会名簿で私が鹿児島市内にいることを知って電話を掛けて来てくれ、それから以降、電話やメールで何度か連絡を取り合っているうちに、今度は鹿児島中央駅隣のアミュプラザ4Fで会おうということになり、9月中旬に大学卒業後44年ぶりに再会いたしました。 その日、別れる間際にK君から彼のお嬢さんの結婚式が来月末にあるので参加してくれないかと招待され、再会で意気投合したその勢いで快諾したのですが、帰宅後冷静になって考えるとK君のお嬢さんのみならず彼の家族の方と全く交流がなく、正式の招待状を受け取ったとき、慌てて下記のような辞退のメールを送りました。「口頭で招待を受けたときは、光栄です、喜こんで参加しますと言いましたが、よく考えるとK君のご家族とはこれまで全く交際はなく、新婦の父親としてのK君の友人として招待を受けるに相応しい方々は他におそらくたくさんいらっしゃることと思います。/それで、光栄なことにご招待状を受け取った後で大変失礼なことだと思いますが、今回はやはりご辞退させていただきます。本当に申し訳ありませんが、どうかご理解下さい。」 しかしK君からすぐに返信メールが届き、結婚式場には新たに連絡を取って席を用意した等のことが書かれており、それをむげに断ったらそれこそ本当に失礼な話だと思い、当日参加させてもらうことになりました。 当日は秋晴れで、陽光の輝く式場のガーデンテラスでまず人前式がとりおこなわれ、その後140人以上の人々が参加する披露宴が開かれました。つぎつぎと心ろのこもったお祝いのスピーチや新郎の同僚たちの元気なパフォーマンス、新郎の父と新郎の立派なお礼の挨拶などに感心させられ、また素晴らしいお料理にも大いに満喫させられました。 なかでも私が感激したのは、K君のお孫さん3人が披露したストリートダンス風踊りで、軽快なリズムに乗って可愛いお孫さんたちが元気いっぱい舞台で飛び跳ね踊る姿を見て思わず落涙してしまいました。 私にはまだ孫がいませんが、私の長男が来年の7月頃に結婚するとの電話をもらったとき、「嬉しいな、孫の顔も見られるね」と返事したのですが、その「孫」という言葉を発したとき、思いもかけずに涙がどっと溢れ出し、涙声になってまともに言葉を続けることができなくなりました。それには自分でも驚ろいたものです。それ以来、最近は「孫」という言葉に条件反射のように涙を流してしまう私です。大阪市立大学同窓会の鹿児島支部総会に参加 昨日の土曜日(11月7日)にはいちき串木野市のシーサイドガーデンさのさで開かれた大阪市立大学同窓会の鹿児島支部第2回総会に参加して来ました。私は大阪外大卒業後、大阪市立大学の大学院の文学研究科で4年間東洋史を学んでおり、去年の第1回鹿児島支部総会から参加しています。 今回の支部総会の企画として、いちき串木野市羽島に建てられている薩摩藩英国留学生記念館見学もありました。大阪市大の前身である大阪商業講習所は薩摩藩英国留学生の一人である五代友厚によって創立されたものであり、 今回の支部総会の企画として立案されたそうですが、健康に自信のない私は辞退させてもらい、総会と懇親会のみに参加させてもらいました。 前回の総会のときは、退職直後の参加であり、名刺もないままに参加したのですが、今回は直前に拙ホームページ「やまももの部屋」http://yamamomo02.web.fc2.com/とそのURLも印刷された名刺を持参し、自己紹介のときには「やまももの部屋、やまももの部屋、やまももの部屋をよろしく」と連呼したものです。もうビョーキですね。
2015年11月08日
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シールズ(http://www.sealds.com/)は結成当初から「SEALDsは特定の政党を支持するわけではありません。しかし、次回の選挙までに、立憲主義や再分配、理念的な外交政策を掲げる、包括的なリベラル勢力の受け皿が誕生することを強く求めます」と主張していました。 そのシールズが2015年10月28日に東京・有楽町の日本外国特派員協会で会見し、16年夏に行われる参院選に向けた活動方針を説明しました。 Jcast二ュースの2015年10月28日の「SEALDs、参院選で「『野党間の連携』呼びかける その後、『解散』の方針明かす 」と題された下記のような記事が載っていました。 ↓ http://www.j-cast.com/2015/10/28249177.html 「安全保障関連法の成立に反対してきた学生団体『SEALDs(シールズ)』が2015年10月28日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で会見し、16年夏に行われる参院選に向けた活動方針を説明した。 SEALDsが特派員協会で会見するのは法案成立直前の15年9月16日以来1か月ぶり。前回会見では法案に賛成した賛成議員に対して落選運動を展開する方針を明らかにしていたが、今回の経験では野党間の連携に向けた取り組みを強調。統一候補が実現した際には支援する方針を明らかにした。これに加えて『民主主義をバージョンアップする』として、投票所の増設を呼びかけるなどして投票率上昇に向けた運動にも取り組む。ただし、SEALDsはあくまで安保法案に反対するための『緊急アクション』として立ち上がった経緯もあり、参院選をメドに解散する方針だ。」 当日の日本外国特派員協会で発言する諏訪原君、芝田万奈さんの動画もあります。 ↓ http://www.j-cast.com/2015/10/28249177.html?p=2
2015年10月29日
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安保法案に反対する学生グループ「シールズ」のことを知りたくて先ず入手したのが『高橋源一郎×SEALDs SEALDsってなんだ?』(河出書房新社 2015年9月)でした。 同書で「シールズ」の運動を最初に開始した明治学院大の奥田愛基君、牛田悦正君と上智大の芝田万奈さんの3人は2012年の夏頃から官邸前での反原発抗議で知り合い、特定機密保護法反対で2013年12月にSASPLを結成し、2014年2月のSASPL初デモには500人参加、同年10月のSASPL最後のデモでは2000人参加、2015年5月3日にSEALDs結成イベント、同年5月14日に安保法案の閣議決定がなされたその日のSEALDsデモに1500人参加した等のことを知りました。 ところでシールズの奥田君のお父さんはホームレス支援で有名な牧師の奥田知志氏だそうで、そんな父親のことを聞かれて、従来はそんな父親が当たり前だと思っていたそうですが、いまでは「家にマザー・テレサがいたらウザくないですか」と笑いにするそうです。 奥田君は北九州生まれですが、不登校の経験があって沖縄県八重山諸島の人口50人くらいの鳩間島の中学を卒業後に島根県の人口千人くらいの浅利町の三学年で30人という高校に入学、その後平和学を勉強したくて明治学院大の国際学部に進学したそうです。そのときの大学入試の面接をたまたま高橋源一郎氏が担当したそうですが、奥田君に野生っぽさを感じ、「本当に学校教育を受けてきたんだろうか」と思ったそうです。 また私は同書で、小説家で文芸評論家の高橋源一郎氏が明治学院大の教授でもあることや、同大学の学生として奥田君、牛田君と知り合ったことや、高橋氏自身が高校生の頃から政治活動をしていたことも知りました。奥田君によると同書の「おわり」の部分で、高橋氏が45年前にデモに参加して逮捕されて失語症になったこと、奥田君自身がデモを始めるようになった後で知らされたとしています。同書には書かれていませんが、私は高橋氏の若かりし頃の苦い経験がSEALDsの奥田君、牛田君のいまの活動のあり方に何らかの影響を与えていると推測しています。 この『高橋源一郎×SEALDs SEALDsってなんだ?』を購読後一ヵ月以上経って『SEALDs 民主主義ってこれだ! 』(大月書店、10月20日)を入手することが出来ました。この本では何名かのSEALDsのメンバーの発言が活字化されたものを読むことが出来ましたが、何れも独自的な自分の言葉でしっかりと分かりやすく語られており、私が学生時代に聞き飽きたアジ演説とは非常に異なっており、実名で顔をさらして堂々と発言する彼らの姿に市民社会の成熟を実感させられました。 それらの発言の中で千葉泰真君が朝日新聞の投書に寄せられ86歳の特攻隊を目指した予科練経験者の言葉を年齢と経験の違いを越えてデモをする若者たちへの共感の言葉として最後に紹介させてもらいます。「安保法案が衆院を通過し、耐えられない思いでいる。だが、学生さんたちが反対のデモを始めたと知った時、特攻隊を目指す元予科練(海軍飛行予備練習生)だった私は、うれしくて涙を流した。体の芯から燃える熱で、涙が湯になるようだった。オーイ、特攻で死んでいった先輩、同輩たち。『今こそ俺たちは生き返ったぞ』とむせび泣きしながら叫んだ(中略)若かった我々が、生まれ変わってデモ隊となって立ち並んでいるように感じ、学生さんたちに心から感謝する。今のあなた方のようにこそ、我々は生きていたかったのだ。」
2015年10月25日
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内川さんが母校の大学の「中国語学科」に進学した当時、中国の文化大革命の影響を受けて日中友好協会が前年の1966年から2つに分裂し、文革の評価を巡って学科内でギスギスした雰囲気が漂っていましたが、彼が入学して2年目の終わり頃に突如として行われた大学封鎖に賛成か反対かで対立はさらに先鋭化しました。 内川さんの在学中の1968年から1970年にかけて全国的に学生運動の嵐が吹き荒れていましたが、彼の母校の小さな大学も1969年1月20日に全闘委によって上本町八丁目校舎の新館が封鎖されました。 このときの新館封鎖のことについて、内川さんの母校の70年史の157頁にはつぎのように紹介されています。「今春以来の紛争の発端は、4月15日大阪府中小企業会館ホールで行われた入学式へ『入学式反対』を叫んで全闘委(全学闘争委員会)学生が乱入したことであるが、その根源は1月20日の新館封鎖にある。『東大闘争支援』・『東大への機動隊導入反対』という本学とは直接関係のない目的で突如として断行された新館封鎖は、教職員・学生の全学的な力で1日で解除された(後略)」 封鎖の前日の1969年1月19日には「東大解体」を主張して東大安田講堂を占拠していた全共闘系の学生たちが機動隊に排除されていました。母校の全闘委の臆面も無い権威主義的で独自性の全く欠如したどんくさい新館封鎖理由には呆れるばかりですね。この1月20日に行われた最初の封鎖は封鎖派と封鎖解除派が暴力的に衝突することもなく、また機動隊が導入されることなく平和的な話し合いで解決しました。その最初の封鎖に対する翌日の21日からの解除の動きについて、前掲の70年史誌154頁にはつぎのように書かれています。「一・二部自治会の学生300人は21日午後3時、生協ホールに集まり両執行部の提案した封鎖解除実力行使を圧倒的多数で承認、行動隊を編成した。その後教授会代表3人と学生代表3人が封鎖学生に解除を説得したが、聞き入れられないため、午前9時半ごろから教職員に続いて行動隊、一般学生500人が、旧館からの廊下づたいに新館に入り封鎖解除行動に出た。教職員の説得で学生間の暴力事件はなく、封鎖は約30時間で解除された。」 しかしその後また全闘委による大学封鎖が繰り返されることになりました。 内川さんのような内向的でおとなしい人間も全学集会のような場所で大学封鎖断固反対を主張したものでした。そして同年1969年6月6日に学生自治会が呼びかけた封鎖実力解除の行動のときは、なんの疑問もなく学生自治会が用意した防御用のヘルメットを被り、木製の盾を持って旧館のバリケード封鎖解除のために校舎内に突入したものです。 いまでもそのときのことを内川さんは鮮烈に記憶しています。突入した旧館一階はがらんとしており人ひとりいないように見えました。しかし右横の廊下の突き当り隅っこに見張りらしい一人のヘルメット学生の姿が目に入りました。その瞬間、相手は火炎瓶(瓶に灯油を入れて布で栓をしたものだと思います)を彼めがけて投げつけ、近くの横の壁にガシャと当たって砕け散り、液体が内川さんのヘルメットや服に飛び散り、火がボッと燃え上がりました。傍にいた学友の「転がれ」との声に慌てて廊下に伏して何回か横に転がり、学友が着ているジャケットを脱いでバンバン振って火を消してくれたので大事には至りませんでした。 母校の70年史誌の158頁によると、この1969年6月6日の学生たちの衝突で「重傷者4名を含む学生20数名の負傷者を生じた」としています。 その後も学生同士の衝突は繰り返され、街のど真ん中に建っているオンボロ学舎の4階屋上から全闘委の学生が円弧を描いて投擲する火炎瓶がポーンポーンと階下で破裂する音が暗闇に響き渡り、燃え上がる炎の中に乱戦する学生たちの無数の姿が浮かび上がる「戦争状況」を内川さんは記憶しています。 しかし、なぜか内川さんには、その後数度にわたって繰り広げられた衝突についての確かな記憶がありません。母校の70年史誌によると、その後も学生同士の衝突は繰り返されましたが、結局は全闘委による大学封鎖は7月7日と10月2日の2度に渡る機動隊導入によって解除され、紛争は収束していったようです。 そんなこともあって、内川さんは後から思うんですが、全闘委が行った反対派を学外に一方的に締め出す大学封鎖は勿論許されないことだと思いますが、ヘルメットに鉄パイプのゲバ棒、火炎瓶で武装した封鎖派に対抗するためとはいえ、学生自治会側も解除派の学生に防御用ヘルメットを被せ、木製の盾を持たせたて実力行使を強行した行為は正しかったのでしょうか。 勿論、学生自治会側が機動隊導入を主張していたら学内の大半から「大学自治の放棄」だと批判され孤立したことは間違いありません。しかし、すでに全国で学生同士が衝突を繰り返し負傷者を出していたとき、その悲劇を繰り返すことを止める勇気と決断も必要だったのではないかと思います。 それに大学の教育、研究活動を阻害し、学生に修学、進学、卒業の中止を暴力で強要する全闘委の封鎖行為は明らかに不法な行為です。このような不法行為に学校当局が主体的に機動隊の導入を要請することこそ大学の自治が発揮されたというべきではないでしょうか。 封鎖の実力解除は機動隊に任せるしか仕方がなかったと思います。餅は餅屋と言いますからね。えっ、餅屋に封鎖解除は無理やろ~、ですって。餅屋が杵(きね)使うてバリケード壊すんかい。餅投げて火炎瓶に対抗するんかい。えらいこの大学は餅だらけでべたべたでんな~。そんなことになったらアンタ、往生しまっせ~。 内川さんにとってこの学園紛争の体験は余りにも哀し過ぎて、冗談で笑い飛ばすしかありません。これまでこの頃の忌まわしい体験がPTSD(心的外傷後ストレス障害)となり、その後ずっとこの体験を心の奥底に隠し続けて来ましたが、やはりこれからは時間を掛けて掘り起こし、癒していく必要があると思うようになりました。 なお、この拙文と前回のエッセイ「母校の70年史のある記述に思わず落涙」を一篇の短編小説に纏め直し、拙サイトの「やまももの短編小説集」のぺージに「母校の70年史誌と大学紛争」と改題してアップしておきましたので、興味がございましたらご覧ください。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/stories/stories.html#funsou
2015年10月08日
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母校の同級生のK君と44年振りに再会してから以降、これまでずっと意識的に封印して来た母校の中国語学科のことがいろいろ懐かしく思い出され、改めてお世話になった先生方のお名前や担当された科目名などを確認しようと考えて母校の70年史を開くことにしました。同記念史誌は1992年に購入しておきながら、いままで一度も開いたことがありませんでした。 同記念史誌の「第2編 部局史」には諸学科の歴史等の概要が掲載されており、私が一年生のときに中国語Aクラス担任をされた中国文法の伊地智善継先生、中国語音韻史の辻本春彦先生、中国現代商業通信文の住田照夫先生、中国社会主義経済の芝池靖夫先生、Bクラス担任で中国文学の相浦杲先生、中国近代史の彭沢周先生、中国語学の大河内康憲先生、中国近代史の西村茂雄先生等の懐かしい名前が載っていました。また近代歴史ゼミナールでは帝塚山大学から林要三先生が非常勤で教えに来られ、お世話になりました。 ところで先ほど母校の中国語学科のことを「ずっと意識的に封印して来た」と書きましたが、中国語学科の先生たちのことが書かれている部分を読み始めましたら、その258頁に以下のような文章に遭遇しました。そして私が意識的に母校や学科のことを心の裡に封印してきたその理由の一端を探り当てたように思われ、不覚にも思わず落涙してしまったものです。 それでその母校70年史の258頁の文章の一部を下に紹介させてもらいます。「ふり返って、専門学校時代の『中国語』には日本の中国侵略の影がつねに、どこかにつきまとった。そしてそれと同じように、大学の『中国語』には新中国の政治、いやその国の政治をめぐる日本の政治情勢が抜きがたく影響した。それは直接現代を学問の対象とする難しさであるが、研究室で、また学生が日頃とりあげる問題は生々しく人々の『今』とかかわっていた。中国語を学ぶことは中国革命の進んだ経験を学ぶことであると信じた学生は少なくない。昭和35年の文化クラブ案内を見ると中国革命研究会がある。後の文革期にはもちろん毛沢東思想研究会があった。その後には開放政策の時代が続く。政治を離れられないのは我々の宿命のごとくであった。しかしただ言えるのは、学生はいつの時代にも中国に対して純情であり、ひたむきであった。彼らは鏡に映すがごとく、そのままにその時代の中国を映している。それはせつないばかりに忠実であった。昭和40年代は多難な、悲しい時代であった。中国をめぐる日本の左翼陣営の対立は、共に中国を学ぶ仲間が対立し、互いに傷つかねばならぬ事態をまねいたからである。学生だけに限った話ではないのだが、現代を扱うとはなんと過酷なことか。これが平穏になるのはここ10年であろうか。」 私が母校の中国語学科で学んだ時期がまさにその昭和40年代の多難で悲しい時代であり、共に中国を学ぶ仲間が対立し、互いに傷つかねばならぬ事態をまねいた時期だったのです。中国に起こった文化大革命の嵐がそのまま日本の小さな大学の小さな学科にも吹き荒れ、当時の在学生に程度の差はあれPTSD(心的外傷後ストレス障害)を起こしていたのです。 こんなPTSDは、同じ母校に学んだ同級生のK君との新しい友情を築き上げる過程で時間を掛けて掘り起こし、癒していく必要があるのかもしれませんね。
2015年10月04日
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私が年金受給年齢に近づいた頃、健康も害しており職場からの退職を考えるようになりました。しかし退職となればそれに伴う心配事がいろいろありました。 えっ、自分がいなくなったら職場が困るのではないか、ですって。そんなことは天下御免の窓際族の私ですからこれっぽっちも考えませんでした。しかし、当時は日本年金機構の厚生年金基金の記録ミス問題が大騒ぎとなっていた頃でしたから、年金制度については全く無智蒙昧な私でしたから、確かに退職後にちゃんと年金が受け取れるかどうかってことには些か不安を感じ心配しましたよ。 しかし私が一番気になったのは蔵書の処分のことでした。これが骨董品なら意外な高額で売れる可能性もありますが、書籍ばかりは自分にとっては必要だったとしても、全く関心のない人にはただのゴミの山でしかありません。 いよいよ退職日も近づき、職場に置いていた書物を公費購入と私費購入とに選り分け、公費書籍は図書館に全部返却し、私費で購入した書籍は総て箱詰にして引越し業者に頼んで自宅の倉庫に運送してもらいましが、その個人蔵書が一千冊以上もありました。 有無相通じるということで、古書店を通じて必要だと思う人の手に渡ればいいのですが、鹿児島市内では私の一千冊近い蔵書の大半を引き取ってくれそうな古書店などあるとは思えません。それで、退職後一年近く経ってから、ネット検索で東京神田の神保町のある古書店が出張買取りをしてくれることが分かり、箱詰めにしていた蔵書を全て棚に出し、蔵書の概要が分かるように写真に撮り、去年の5月(2014年5月4日)に連絡を取って引き取ってもらうことになりました。 それでも、花のお江戸の神田神保町からは九州最南端に位置して桜島の噴煙上がる鹿児島は遥か遠くに離れていますね。その後なかなか実際に引き取りには来てもらえず、昨日(2015年9月15日)になってやっと引き取りに来てもらうことになりました。 こちらとしては書籍の買い取り価格などは二の次で、少しでも必要とされる方々に渡れば幸いだと言ったこともあり、棚に横積みにした千冊近い蔵書のほとんどをきれいさっぱり引き取ってくれました。ところで、さてその買い取り価格総額はお幾らだと思われますか。計一万円也でしたよ。でもね、ゴミとして紙屑業者に引き取りをお願いしてその代金を払うことを考えればありがたいことかもしれませんね。いやー本当にありがたかったです。本当にありがたい、ありがたい(ちょっとクスン)。
2015年09月16日
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私は約3年前に退職した後、外に出ることもめっきり少なくなり、しゃべると言えば妻や病院のお医者さん、看護師さんぐらいに限定され、人恋しさが募っていました。そんなときに大学時代の同級生のK君(現在県内在住)から電話があり、何度か連絡を取り合っているうちに昨日(9月12日)、鹿児島中央駅隣のアミュプラザ4F紀伊国屋書店でお昼に会いましょうということになり、私はイソイソと 出掛けていきました。 K君は大学卒業後ながらく東京で働いていたのですが、鹿児島が気に入っていまは地元に住んでいます。大学の同窓生名簿で私が鹿児島市に居ることを知って電話を掛けて来てくれたのです。 待ち合わせを約束した紀伊国屋書店で先に声を掛けてくれたのはK君の方でした。私の記憶の中のK君は英会話が得意で、そんな得意な英語を自由に駆使して外国人留学生と楽しそうに交流する姿でした(後にもらったメールによると全国高校生対象の英語のコンテストで二位の賞状を貰ったとのこと。そんな英会話能力が卒業後の仕事に役立っているようです)。 久しぶり(1971年卒ですから44年ぶり)の再会であり、初め別人かと思いましたが、じっと見つめると大学時代のK君の面影が全くないわけではありません。私は思わず自然と「いゃー、立派な紳士になりましたねー」なんて言ったものです。K君は私の運営するサイト(やまももの部屋)などで私の現在の写真を見ていたこともあり、先に気づいてくれたようです。 同じアミュプラザ5Fのあるレストランで昼食を摂りましたが、大学の同級生ってこんなに肩肘張らずに気さくに話し合えるものなんですかね。2時間ほど語り合ったのですが、K君が「聞き上手」なので話題は大学在学中のことばかりでなく政治、文学等多岐にわたって語り合い、つい私の在職時代に感じた少子化対策に関連した複雑な思いなども吐露してしまいました。こんなことお医者さんや看護師さんに語れないですよね。 学生時代、私は奈良市から近鉄奈良線に乗って上六(上本町6丁目)駅まで行き、その後如何にも大阪の下町らしい猥雑な雰囲気の上本町8丁目の繁華街をテクテク歩いて幼稚園の門と間違うような小さな大学の門を入って学舎まで通った人間です。1年生の時は少人数クラスでの語学学習特にヒヤリングに苦労させられ、10円ハゲができたほどです。その少人数クラスの同級生の一人がK君だったのです。 K君と大学の少人数クラスの仲間として席を並べたという縁も不思議なら、鹿児島ではおそらく数えるくらいしかいないであろう大学の同窓生のそれも同級生として44年振りに再会できたことは奇縁としか言えません。このK君との奇縁をこれからも大切にしていきたいと思います。K君、これからもよろしくお願いしますね。 2015年9月13日 なお、この拙エッセイを短編小説に書き直し、拙サイトの「やまももの短編小説集」のぺージに「大学同級生との44年ぶりの再会」と改題してアップしておきましたので、興味がございましたらご覧ください。
2015年09月13日
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安倍内閣が推し進める今回の安保法案は、自衛隊が米軍のために物資供給などに携わる後方支援活動が従来の「非戦闘地域」限定から戦闘発生可能な地域(戦闘地域)にまで拡大され、その後方支援活動で多数の自衛隊員の死傷者を出す可能性のある非常に危険なものです。 テレビ朝日系の報道ステーションを見ていましたら、8月30日の国会前に安保法案反対で集まった12万人のデモ(主催者発表)の報道がありました。 ↓ http://www.dailymotion.com/video/x33vmtt シールズ(SEALDs:Students Emergency Action for Liberal Democracy-s 自由で民主的な日本を守るための、学生による緊急アクション)の若者たちのみならず、様々な年代の人々が安保法案の危険性に危機感を感じて国会前のデモに参加したようですね。創価学会の支持者も与党として公明党がこの法案に賛成していることに強い疑問を呈し、77歳の戦争体験者の年配者がこの法案の対米従属性の危険性とインチキ性を語り、海外メディアの報道の紹介で、ドイツの国営放送が同国で「憲法解釈の変更」によって海外派兵に転じ、後方支援に活動を限ったアフガニスタンの国際治安支援部隊(ISAF)に参加し、50人以上の犠牲者を出したことなどを報じていたのが特に強い印象に残りました。 ところで、このデモには私たち団塊世代が若かりし頃にお馴染みだった過激派デモのヘルメット、ゲバ棒の姿が全く見当たりませんでした。この点について産経新聞8月31日(月)7時55分配信の「学生団体『シールズ』とは 洗練イメージで存在感、一部野党が賛同」に興味深い記事を見つけました。 ↓ http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150831-00000067-san-soci 「中核派など“古参”の極左グループに対して過去の内部抗争や過激行動を厳しく批判。シールズの活動に合わせビラ配りや勧誘を行う活動家らとのトラブルも発生した」とのこと、「日本の自由民主主義の伝統を守るために、従来の政治的枠組みを越えたリベラル勢力の結集を求める」学生組織であるシールズの若者たちは過去の忌まわしい教訓をしっかりと学んでいるようですね。 2015年8月29日放送のラジオフォーラム第138回では、司会を景山佳代子氏(社会学者/大学講師)が担当し、ゲストにSEALDs KANSAIのメンバーの佐伯宗信さん、寺田ともかさんを呼び、「SEALDs運動は2015年の安保闘争なのか?」と題して放送されましたが、そこで寺田ともかさんは「過去の学生運動は暴力に走ってしまったが、そういうことにはならないようにしようと思った」と語っています。 ↓ https://www.youtube.com/watch?v=3MDOGVzNVe4&feature=youtu.be&t=4m19s https://www.youtube.com/watch?v=3MDOGVzNVe4&feature=youtu.be&t=25m40s 過去の学生運動が全て暴力に走ったわけではありませんが、 シールズのデモのスピーチでは過去の学生運動のような難解なサヨク用語は使われず、誰にでも理解されるフツーの言葉が使われ、抗議集会の参加を呼びかけるフライヤー等の写真にはカッコよさが追及され、デモ当日には太鼓の音に合わせてノリのよいラップ調のシュプレヒコールを叫ぶところに「いまの若者ならでは」のイキのよさを感じます。団塊世代の元全共闘とか元べ平連だったなんてオジサン、オバサン連中がシールズの活動内容に横からいろいろ口出しして来そうですが、老害として無視するのが一番だと思います。 なお、このSEALDs関西の寺田ともかさんによる2015年8月30日の国会前でスピーチを紹介しておきます。このスピーチの映像はIWJ Independent Web Journalにアップされたものです。 ↓ http://iwj.co.jp/wj/open/archives/260891 寺田ともかさんは、このスピーチで2004年11月イラクのファルージャで米軍が行った総攻撃での民間人に対する無差別殺人という戦争犯罪を例に挙げて、こういった殺人に日本も積極的に関与していくことになるのではないかとの危惧を語っています。 なお、シールズのリーダーの奥田愛基氏のことはよく知らないのですが、Webマガジン「ぽこぽこ」で小林よしのり氏と奥田愛基氏の対話が載っています。 ↓ http://www.poco2.jp/special/talk/2015/09/kobayashi-sealds/ また「荒川強啓デイ・キャッチ!」では奥田愛基×鳥越俊太郎×近藤勝重 「若者の行動でニッポンは変わるのか」が放送されています。どちらも参考にしてください。 ↓ https://www.youtube.com/watch?v=2TZoj1B0K5E ところで、武藤貴也という衆議院議員がシールズの主張を「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づくものとツイートで批判したことに対し、民青に属しシールズの一員だと名乗る浪人生が「ふざけんなよ。てめーの体のすべての穴に五寸釘をぶち込むぞ」なんて脅迫的で暴力的な言葉で悪罵したことがネット内で拡散しています。現在のネット社会では、誰もがシールズの一員だと名乗ることが出来ますから、シールズの活動が評判を呼ぶと必然的にこんなトンデモナイ跳ねっかえり人物も出て来るのでしょうが、シールズが本当に健全な組織なら自浄作用が働くと思いま す。
2015年09月01日
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まさとは、幼い頃は多くの子どもがそうであるように様々なものを集めて楽しんでいました。収集対象は、松ぼっくり、ドングリからビー玉、めんこ、下着、いやいや、下着は集めませんでしたが、とにかくなんでもかでも集めたものです。 そんな彼が郵便切手を集めるようになったのは小学校の高学年の頃(彼は団塊の世代なので、1950年代後半)だと思います。それまで、地味な色と図案の多かった日本の郵便切手が昭和33年(1958年)になって急にカラフルになり、また鳥居清長「雨傘美人」、安藤広重「東海道五十三次之内・京師」や「第3回アジア競技大会」「ブラジル移住50年」「世界人権宣言15年」など優れた図案の特殊切手(記念切手、切手趣味週間切手、年賀切手などのこと)が次々と発行されるようになります。 この頃に日本の切手が子どもたちの興味関心を惹きつけるだけの魅力を持つようになり、子どもたちの間に切手ブームが起こりました。その頃、まさとは小学校高学年になっていましたが、彼も例外ではなく切手集めに大いに熱中し始めました。 まさとの切手収集は、最初、グリコのおまけについていた外国切手から始まりました。しかし、グリコのこの外国切手にはろくなものがありませんでした。そのうちに、まさとは家に来た郵便物に貼られた切手にカラフルで魅力的なものがあることに気づき、母に頼んでハサミで切手の部分を切り取らせてもらい、水ではがしてストックブックに整理するようになりました。この方法での切手集めが彼にものを集める楽しさをなによりも実感させたようです。 使用済み切手を集めることにすっかり熱中したまさとは、ある日、親の留守中に無断で家の中を家捜しをしたことがあります。そのとき、普段使わない奥の部屋の押し入れの襖も開けてみましたら、しめしめ、その中に挨だらけの大きな麻袋が一つ見つかりました。いかにも古い郵便物がぎっしりと詰まっていそうです。彼は、期待に胸を大いに膨らませながら、逸る心を抑えつつこの袋の紐を解きました。しかし、残念、郵便物は全く入っていませんでした。でも、その代わりに、その袋の中には古い書籍がいっぱい入っていました。 これらの書籍にはとても粗悪な用紙(戦後統制のために物資が不足し、娯楽用出版物は用紙の確保ができず、古紙などを漉き直した再生紙に印刷されていました)が使われており、書いてある言葉も難解なものが多かったのですが、内容は小学校高学年になっていた彼にとってとても有意義なもので、それらを親に黙って国語辞典を引きながらこっそり読み耽るようになりました。 まさとが両親に無断で読み耽ったのは、敗戦直後に雨後の筍のように出版されたいわゆるカストリ雑誌でした。きっとまさとの父親が購入し、子どもの目には触れないように隠していたものに違いありません。おっと、カストリ雑誌なんて言葉はいまの若い人には死語でしょうね。三省堂の『新明解国語辞典』には、「滓(かす)取り焼酎」について、「酒の滓をしぼりとって作った下等な焼酎。アルコール度が高い」と解説し、肝心の「滓取り雑誌」については、「三合飲めばつぶれるといういうことから、三号で廃刊になるような粗悪な雑誌」とまさに「明解」の名に恥じない見事な解説をおこなっています。これらカストリ雑誌の多くが戦争中の抑圧の反動なんでしょう、性風俗を主題にしており、なんとも隠微で淫らな感じの文章と扇情的な挿し絵によって構成されていました。 さて、まさとはカストリ雑誌でいろいろ大事なことを真剣に学びつつ、切手集めへの情熱と努力もその後しばらく続きました。家での古い郵便封筒こ貼られている使用済み切手は漁り尽くしたので、祖父母や知人にもお願いして集める努力をしました。また、新しく発行される特殊切手は、新聞で発行日をチェックし、その日に最寄りの郵便局で買うようになりました。しかし、古い切手の方は入手できない切手がまだまだ沢山ありました。そのために、学校の友だちと切手の交換もしましたが、さとしが欲しい切手は友だちみんなも欲しがっているものばかりですから、交換には限度があります。後はお金を出して購入するしか方法がないようになりました。 ところで、まさとと同じ団塊の世代である漫画家の西岸良平が『夕焼けの詩』第28巻(小学館)に「切手」と題してこの昭和30年代の子どもたちの切手熱を描いています。そこに登場する一平君は、切手を買うお金をお母さんからもらおうとして、「手紙も出さないのに切手ばかり買い込んでムダづかいして」とお母さんに叱られてしまいますが、そのときに一平君はつぎのような反論をおこなっています。「チェッ、ムダづかいじやないや、これでもマネービルのつもりなんだい!」「ほら、このカタログを見てごらんよ、二年前に郵便局で十円で売っていた記念切手がもう三十円だよ! もっと前の『月に雁』なんて八円だったのが千円以上になっているんだ、貯金なんかよりずっとわりがいいだろ」 一平君が言っている「月に雁」とか「見返り美人」なんて切手は、小学生には高嶺の花でしたから、まさとはこんな高額な切手を入手することは初めから諦めていましたが、でも少年向け月刊誌に載っている通信販売の切手のなかで安いものはお小遣いを貯めてよく買うようになりました。 まさとが中学生になって初めて迎えたお正月、彼はこれまでにない大金を手に入れました。祖父母や親類の人たちからもらったお年玉が小学生のときに比べて大幅にアップしたのです。彼は、それではと喜び勇んで私鉄に乗ってトンネルを越えて大きな街のデパートまで切手を買いに出かけることにしました。 デパートの切手売場のガラスのショーケースのなかには前から欲しい欲しいと思っていた切手がずらっと並べられていました。そして、その周りには獲物にたかるハイエナの様に沢山の子どもたちが群がり集まり、それらの切手をじっと食い入るように眺めていました。まさとは彼らの熱い視線に耐えながら十数枚の切手を買いました。それらのなかには、年賀切手「羽子板をつく少女」(1949年発行)や原節子によく似た看護婦さんがにっこり微笑む「日本赤十字社創立75年」(1952年)なんて切手もありました。 しかし、不思議ですね、前から欲しい欲しいと切望していた切手を一遍に十数枚も買えたのに、デパートからの帰り道、まさとは全然喜びを感じませんでした。家でこれら買ったばかりの切手を眺めていると、羨ましそうに彼を見ていたあのショーケースの周りの子どもたちの眼が思い出されて来ます。そしてまた、彼らの前で高額の金を支払ったときのあのなんとも言えぬ抵抗感が彼の心によみがえるのです。その日から彼の切手コレクションへの情熱は急速に萎えていきました。それから以降、まさとの切手収集は郵便局で新しく発行された特殊切手を買うことに限定されるようになりました。そして、東京オリンピックが開催された1964年に空前の切手ブームが到来したとき、まさとは切手への関心を完全に失っていました。 大人になってからも彼には収集癖は全くありません。 2011年10月5日記
2015年08月27日
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8月9日に霧島アートの森で開催された山口晃画伯と同美術展については、4月24日に開かれた立川志の輔師匠の独演会においてアンコールで登場した志の輔師匠から紹介があって初めて知り、さらに4月26日のNHKのEテレ「日曜美術館」で「画伯!あなたの正体は? ドキュメント・山口晃」でこのユニークな画家とその絵の概要を知ることが出来ました。それで私たち夫婦は8月9日に鹿児島に帰省していた次男の運転で霧島アートの森で開かれている山口晃展を鑑賞に行きました。今回の展示展テーマが「汽車とかたな」ということで、刀を扱った「無残ノ介」の墨絵漫画が展示作品の約半数を占めており、それらの漫画には正直言って首を傾げさせられましたが、明治、大正、昭和、平成の時空間を超越させて自由奔放にしてかつ細緻でリアルなタッチで描き出されてた汽車や建物、乗車客の絵にはなにか懐かしくなるような不思議な世界が展開されていました。この展示会で「平成の大和絵師」と称される山口晃画伯の魅力の一端を垣間見ることが出来ました。なお、今夜(8月16日)の午後8時からNHKのEテレで「時代の先頭を走る画家・山口晃」と題して4月26日に放映された山口晃画伯のドキュメント番組が再放送されますので、興味を持たれた方はぜひご覧ください。
2015年08月16日
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又吉直樹『火花』(文藝春秋、2015年3月)が芥川賞を受賞し、大変な評判なので購入して読んでみました。 あらすじを把握したり、興味深い表現などをチェックするために付箋を貼り付けていましたら、大半の頁に付箋を貼り付けてしまい、ほとんど付箋の役割が果たせなくなってしまいました。こんな体験は久しぶりです。視点人物の「僕」(徳永)と彼が尊敬する神谷という若手お笑い芸人の「世界の常識を覆すような漫才をやる」ことへのあくなき探究を描いた青春小説の内容が私にとってとても新鮮であり濃密だったからだと思います。 この小説は花火の場面で始まり、花火の場面で終わります。最初の花火は「僕」たち「スパークス」や神谷たち「あほんだら」のコンビの姿や声を矮小なものにして無残に圧倒する爆音と夜一面を覆って花開くものとして描かれ、ラスト近くには大手スポンサー名とともに次々と打ち上げられる壮大な花火に混じって「ちえちゃん、いつもありがとう、結婚しよう」のメッセージとともにとても地味な打ち上げ花火が描かれます。このラスト近くの地味な花火に見物の観客たちの反応が次のように描かれ、私に強烈な印象を残しました。「しかし、次の瞬間、僕たちの耳に聞こえてきたのは、今までと比較にならないほどの万雷の拍手と歓声だった」とあり、「僕」も神谷さんも共感の拍手を激しく送り、「これが、人間やで」とつぶやいています。 しかし、この小説の題名は「花火」ではなく「火花」です。次々と生み出されるお笑い芸人たちと競争の火花を散らす姿や、「僕」と神谷が交す日常的な会話でさえも白刃を交え火花を散らす姿が描かれています。 神谷「お前は父親になんて呼ばれてたん」 「僕」「お父さん」 神谷「もう一度聞くけど、お父さんになんと呼ばれてたん」 「僕」「オール・ユー・二ード・イズ・ラブです」 神谷「お前は親父さんをなんて呼んでんの?」 「僕」「限界集落」 神谷「お母さん、お前のことなんて呼ぶねん?」 「僕」「誰に似たんや」 神谷「お前はお母さんを、なんて呼ぶねん?」 「僕」「誰に似たんやろな」 神谷「会話になってもうとるやんけ」 あきまへんな、「僕」のボケは無理やりひねり出した人工的なもんから息が続かずにほんまに日常会話に堕してしまってますがな。せやけど神谷が「会話になってもうとるやんけ」と鋭いツッコミを入れるさかい、「僕」のしょうもないボケもボケとしてなんやしらん笑えますから笑いって不思議なもんでんな。 それに比較して、「僕」が神谷と秋の世田谷公園を歩いていて、他の楓が色づいているのに一本だけ緑を残した楓を見て「僕」が「師匠、この楓だけ葉が緑ですよ」といったとき、神谷は凄い笑いの冴えを発揮しています。 神谷「新人のおっちゃんが塗り忘れたんやろな」 僕「神様にそういう部署あるんですか」 神谷「違う。作業着のおっちゃん。片方の靴下に穴開いたままの、前歯が欠けてるおっちゃんや」 そして神谷は「僕」の欠点は綺麗なファンタジーになるところにある批判し、「楓に色を塗るのは、片方の靴下に穴開いたままの、前歯が一本欠けたおっちゃんや。娘が吹奏楽の強い私立に行きたい言うから、汗水たらして働いてるけど、娘から臭いと毛嫌いされてるおっちゃんや」とファンタジーから遠く離れた猥雑な世界に笑いを着地させます。うーん、見事ですね。 お笑いを提供する商品として大量生産、大量消費され、自然淘汰されていく芸人のあり方に「僕」も神谷も肯定的です。神谷は言います。「漫才はな、一人では出来ひんねん。二人以上じゃないと出来ひんねん。もし世界に漫才師が自分だけやったら、こんなにも頑張ったかなと思う時あんねん。そいつ等がやってないこととか、そいつ等の続きとかを俺達は考えてこれたわけやろ? ほんなら、もう共同作業みたいなもんやん。同世代で売れるのは一握りかもしれへん。でも、周りと比較されて独自のものを生み出したり、淘汰されたりするわけやろ。この壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある。だから面白いねん。でもな、淘汰された奴らの存在って、絶対に無駄じゃないねん。」 神谷は「僕」と日常会話のなかで白刃を交えているときは、凄い腕前を見せるのですが、舞台ではさっぱり人気を得られないようです。その理由がつぎのエピソードから何となく分かるような気がします。泣き止まない赤ちゃんに対し、「恩人の墓石に止まる蠅二匹」「俺蠅きみはコオロギあれは海」「蠅共の対極に居るパリジェンヌ」「母親のお土産メロン蠅だらけ」と蠅川柳を語り続けるのです。 「僕」が赤ちゃんに「いないないばあ」と定番の言葉を発しても泣き止まないことに対し、神谷は「あれは面白くない」と切って捨てるのですが、こんな誰であろうと一切ぶれずに自分のスタイルを全うする神谷に「僕」は自分の軽さを感じるのでした。 神谷は面白いことのためなら暴力的な発言も性的な発言も辞さない覚悟を持っていました。そんな神谷が追い求める面白いものとは次のようなものだと「僕」は推測します。「神谷さんが未だ発表していない言葉だ。未だ表現していない想像だ。つまりは神谷さんの才能を凌駕したもののみだ。この人は、毎秒おのれの範疇を越えようとして挑み続けている」。 「僕」はこんな神谷さんから計り知れぬ影響を得ながらも、独りよがりでなく目の前のお客さんを笑わせたいと思うようになり、少しづつではありますが人気を得ていきます。 しかし、相方の山下が同棲している彼女のお腹の中に双子の赤ちゃんがいることが判明し、「スパークス」のコンビを解消たいと告げられた時、「僕」自身も芸人を辞めて別の人生を歩むことを決断します。 そして「スパークス」解散ライブで素晴らしい芸を披露します。「僕」が口上として「世界の常識を覆すような漫才をやるために、この道に入りました。僕達が覆せたのは、努力は必ず報われる、という素敵な言葉だけです」と切り出し、相方が「あかんがな!」とツッコミを入れるところから始まります。そして「僕」が「あえて反対のことを言おうと宣言した上で、思っていることと逆のことを全力で言おう」と提案し、「お前は、ほんまに漫才が上手いな」から開始して、「一切嚙まへんし、声も顔もいいし、実家も金持ちやし、最高やな!」と言った調子で観客に今回の漫才の趣旨を充分に伝え、その後つぎつぎと大きな声で唾を散らしながら逆説的な表現で思いを吐き出していきます。 「僕を嫌いな人達、笑わせてあげられなくてごめんなさい」「ほんで、客! お前等ほんまに賢いな! こんな売れてて将来性のあるライブに一切金払わんと連日通いやがって」「お前等、ほんまに賢いわ。おかげで、毎日苦痛やったぞ。ボケ!」「僕の夢は子供の頃から漫才師じゃなかったんです。絶対に漫才師になんて、ならんとこうと思ってたんです。それがね、中学時代にこの相方と出会ってしまったせいで、漫才師になってもうたんですよ。最悪ですよ!そのせいで僕は死んだんです。こいつが、僕を殺したようなもんですよ。よっ、人殺し!」「僕達、スパークスは今日が漫才する最後ではありません。これからも、毎日皆さんとお会いできると思うと嬉しいです。僕はこの十年を糧に生きません、だから、どうか皆様も適当に死ね!」 こんな調子で繰り広げられた漫才を見た神谷が「めっちゃ面白かったな」「あんな漫才見たことないもん。あの理屈っぽさと、感情が爆発するとこと、矛盾しそうな二つの要素が同居するんがスパークスの漫才やな」と手放しで絶賛します。 しかし、妥協せず、騙さず、自分が面白いと思ったものを舞台で披露する神谷はいつまで経っても人気が出ず、彼自身にも「面白いもの」に対する迷いが生じ、なんと自分の胸にシリコを入れて巨乳にするというグロテスクなことまでやり出します。笑いの神髄をとことん追及して一番笑いから遠いところに落ち込んでしまったようです。 お笑いの世界の自然淘汰の厳しさと哀しさを内部にいる人間だからこそ純文学作品に昇華することのできた傑作だと思います。
2015年08月06日
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内川さんが就職して職場の独身寮に住んでいた頃のことである。 寮の夕食も終わり、個室で待っていると、おいでなすった、ピンポーンと呼び出し音が鳴りました。ドアを開けるとやはり桃畠一二三(ひふみ)さんでした。愛嬌のある笑顔で右手の親指と人差し指で輪を作ってグイと酒をひっかけるマネをして「今日も行きませんか」といつものようにお誘いです。それで内川さんは桃畠さんと一緒に近くの居酒屋に出掛けて行きました。 内川さんが職場の独身寮に住んで一年後に桃畠さんも入寮して来ました。入寮の挨拶に来た桃畠さんの話だと、桃畠さんは内川さんより一歳年下の東京生まれとのことでした。堅物の内川さんと違い、桃畠さんは大学生の頃から飲み屋街のネオンの色に染まっていたようで、すぐ内川さんを近くの居酒屋に誘うようになりました。 正直言って内川さんには慣れない居酒屋行きなんか迷惑な話だったんですが、桃畠さんは全く気にする風もなく内川さんを週末になると必ずと言っていいほど居酒屋に誘い、内川さんもそんな週末の居酒屋通いが結構楽しくなりました。 近所の国道沿いにある居酒屋に赤提灯が点っていましたが、内川さんは桃畠さんといわゆる赤提灯談義といわれるような職場の噂話などはほとんどしませんでした。雄弁な桃畠さんがもっぱら文学論を語り、内川さんがほぼ聞き役に徹していたのですが、二人の波長は合っていたようです。しかし内川さんは内心思うのでした、なんで自分のような堅物を誘うのだろうかと。 居酒屋では、桃畠さんはなかなか雄弁でしたが、また都会人らしいスマートさで自説に固執するようなことはありませんでした。しかし桃畠さんが高く評価するオスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」や森鴎外の「安部一族」について、内川さんがいまいちその良さがよく分からないと正直に言ったとき、桃畠さんは「うーん、内川さんならそうでしょうね。残念ですがまだまだ成長が足らないようですね」などと言って内川さんを苦笑させたものです。しかしこんな辛辣な表現も桃畠さんの口から出るととても愛嬌があって憎めませんでした。 しかし、くどいようですが、どうして桃畠さんは内川さんのようななんの面白味もない堅物人間を居酒屋に誘い続けたのでしょうか。もしかしたら内川さんの田舎町出身らしい朴訥さや愚直さが東京生まれの桃畠さんを安心させたのかもしれませんね。 桃畠さんは彼個人の滑稽な失敗譚をよく酒の肴にしていました。職場の勤務時間終了後、グラウンドでソフトボールのキャッチボール練習をしていたら、フライを取るにはじっと飛球から目を離さずにいることが大切だと教えられ、その通りにして顔を上げ続けていたら目ん玉にもろに大きなボールが当たってしまったというような話で、二人で大笑いしたものです。しかし、内川さんは太宰治の「人間失格」で道化を演じる主人公に「ワザ、ワザ」と声を掛けた竹一少年の気持にもなったものでした。 桃畠さんの出身高校は当時全国屈指の超難関校の都立日比谷とのことでしたから、幼い頃から成績抜群の「できる」子どもだったに違いありません。幸か幸か内川さんはそんな「できる」子どもではありませんから、桃畠さんの滑稽な失敗譚を聞いても内川さんの竹一少年的側面が邪魔をしてどうしても心から笑えませんでした。 内川さんは内心やはり思うのでした、なんで自分のような人間を誘うのだろうかと。えらくしつこいですね。でもね、内川さんが疑問に思うのも仕方がないんですよ。内川さんには中学校進学以降ただ一人も親友がいなかったのですよ。内川さんには赤い夕陽に染められた校舎で声を弾ませながら熱く未来を語り合うようなクラスメイトなど一人もいなかったのです。ただ書物だけが親しく語り合う相手だったのです。そんな内川さんにとって、居酒屋に遠慮なくいつも誘い掛けてくる桃畠さんにはいささか戸惑いを感じました。でもそんな内川さんだからこそ、桃畠さんは彼に敏感に同類のにおいを嗅ぎ取っていたのかもしれませんね。 内川さんと桃畠さんとの居酒屋の付き合いが一年近く続いたある夕方のことです。桃畠さんがいま付き合っている女性が自分の部屋を訪れるから、内川さんも部屋に来てくれないかと真剣な顔で言うのです。彼の部屋には同じ独身寮の住人が三人すでに呼ばれており、その女性が来ると桃畠さんは子どもの頃に習ったというバイオリンをやおら取り出して弾き始めました。 前にもに桃畠さんからそのバイオリンの音色を聴かされたことがありますが、お世辞にも上手とは言えませんでした。下手なバイオリンは「ギーコ、ギーコ」とノコギリで木を切るような音がしますね。ちょっと酷い譬えですが、桃畠さんのバイオリンはそんな感じでした。桃畠さんは彼女の前でバイオリンを弾き出しましたが、音楽にはさっぱり疎い内山さんには曲名も分からず、彼には失礼でしたがその場で大笑いしてしまいました。そこにいた他の三人もつられて笑い出したものです。しかし彼女は最後まで黙って静かに聴いていました。内川さんの心にも「ワザ、ワザ」という竹一少年の声は聞こえませんでした。 桃畠さんはなんで付き合い始めた相手に下手なバイオリンを聴かせたかったのでしょう。後で知ったことですが、桃畠さんは知人の奥さんの紹介で彼女との交際が始まったそうです。桃畠さんはきっと結婚を決意したとき、釣書にすまし顔でお利口さんに収まっているような自分ではなく「本当の自分」をさらけだしたかったのでしょう。バイオリンは下手だけれど、ありのままの自分をさらけ出す姿を見てもらいたかったのでしょう。そして彼女も、最後まで懸命に弾き続ける彼の姿に感動したに違いありません。 その後、しばらくして内川さんは桃畠さんからその女性と結婚することになったと告げられました。桃畠さんは独身寮から出て行き、もちろん内川さんの居酒屋通いにも終止符が打たれました。 桃畠さんとは彼が他の職場を移ったこともあり、その後は年賀状の遣り取りぐらいしか交流がありませんでしたが、10年前に桃畠家から訃報が届きました。年齢は内川さんより1歳年下ですから57歳で他界したことになります。内川さんは最近嗜むようになったウイスキーの水割りグラスの氷の音を静かに聴きながら、桃畠さんの早世理由がお酒の飲み過ぎと関連しているのかもしれないなどと考え、酔いが回って目の縁をほんのりと紅くしていた桃畠さんの愛嬌のある笑顔を懐かしく思い出すのでした。 2015年7月18日
2015年07月18日
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2015年7月11日に鹿児島市の南日本新聞会館「みなみホール」で「立川志らく独演会」が開催され、私たち夫婦も大いに楽しんで来ました。 鹿児島市で開かれる「立川志らく独演会」も今回で6回目になり、私たち夫婦は2010年7月25日に開催された第1回目から今回の6回目までずっと聴きに出掛けており、皆勤賞をいただけそうですね。今回の「立川志らく独演会」の演目は、立川らく次「松曳き」、立川志らく「二人旅」、立川志らく「子別れ」の三席でした。 さて開演で最初に高座に上がったのが予想通り立川らく次さんで、2011年7月17日の鹿児島市開催の第2回目「立川志らく独演会」以来4回目の出演です。南日本新聞の志らく師匠のエッセー「南国太平記」のさし絵を担当しているという関係もあるかもしれませんね。 立川らく次さんの「松曳き」は、今年5月24日に鹿児島市内の黎明館2階講堂で開かれた「桃月庵白酒独演会」でも聞いており、白酒師匠が登場人物の赤井御門守と家老の三太夫とをともにお馬鹿さんに仕立て、両者の間で繰り広げられる滑稽譚として演じていましたが、らく次さんの「松曳き」では殿様はまともな人物のようで、三太夫の粗忽者振りを際立たせていました。しかし、この殿様も自分に姉などいないのに、粗忽者の三太夫から「殿様お姉上様ご死去」との誤報を伝えられて驚ろき涙するのですから、やはり落語世界の住人のようてす。 立川志らく師匠の「二人旅」は、まずマクラで師匠自身のネット被害のこと(パソコンがウイルスに汚染され、パソコン、携帯などの個人情報が盗まれ、遠隔操作、盗聴等の被害体験)や、2011年に談志師匠が亡くなり、談志師匠の長女の松岡ゆみこ氏から談志師匠が40年前に購入して暮らしていた東京都練馬区の中古の一軒家の庭には談志師匠が愛した八重桜があり、談志師匠の遺骨の一部がこの樹の根もとに埋葬されていることもあり、弟子の志らく師匠に一億円で買ってもらいたいとの依頼があり、この話を耳にしたテレビ朝日が同テレビ局の『大改造!!劇的ビフォーアフター』にその建物のリフォームの様子を取り上げ放送した顛末を面白可笑しく語りました。 今回のリフォームでは、老朽化が進んでいる談志邸の改善以外にも談志師匠が大切にしていた資料や着物などの救済や整理も行われ、一部を談志ミュージアムとして完成させ、志らく師匠一家はリフォームの済んだ旧談志邸の借家人として暮らすことになったそうです。 本題の「二人旅」は、江戸っ子二人が旅の途中で退屈を紛らすために謎かけ、尻取り、都都逸作り等をしながら道中を続ける噺ですが、噺家の腕の見せどころはこの二人の取り留めもないような対話を観客を飽きさせずに聴かせられるかどうかです。謎かけで「火事場の纏と掛けてなんと解く。その心は燃えるほど振られる」といった調子で、都都逸作りでは「道に迷って困ったときは、知らなきゃどこかで訊くがよい」なんて実にくだらなくて、志らく師匠は見事にこの道中噺に江戸の風を吹かせていましたよ。 中入り後に志らく師匠は「子別れ」を演じました。この人情噺は上・中・下の三部構成であり、通常は上の「強飯の女郎買い」を省き、中の「子別れ」と下の「子は鎹(かすがい)」を合わせて演じることが多いのですが、今回は志らく師匠がこの人情噺全編をしっとりと語り、ときどき八百屋のおやじを唐突に登場させて笑いを取る以外は会場の観客も静かにしんみりと聞いていました。 なお、今回の独演会について拙サイト「やまももの部屋」の「十人十席の噺家の高座」に追加しておきました。 ↓ http://yamamomo02.web.fc2.com/rakugo/shirakubusyoudoko.html
2015年07月14日
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