幕府の大目付を務める3,500石の旗本・土岐丹波守の妾であるお政が、芝居帰りに異国人の暗殺現場を通り掛かるところから物語が始まる。殺されていたのは駐日米国総領事館の通訳・ヒュースケン(Henry Heusken。万延元年(1861年)1月14日に攘夷派の薩摩藩士に腹部を深く斬られて絶命)だった。翌日、丹波守に役者買いがバレたお政は納屋に閉じ込められるも何とか逃げ出し、尊王倒幕派の浪人・間宮 一に助けられる。間宮はヒュースケンを斬った犯人であった。お政は盗賊の八左衛門に預けられるが、(八左衛門に)捕手が来た際に自分を捕まえに来たと勘違いして逃げ出し、知人の伝手で横浜に辿り着いた。 横浜に滞在していた仏国人・モンブラン伯爵(Count Charles Ferdinand Camille Ghislain Descantons de Montblanc, Baron d'Ingelmunster)は美人で教養のある羅紗緬を探してくるよう頼んでいたが、毎日フラフラしているお政に目を付けた蓬莱屋の主人が彼女に声を掛け、お政はモンブランの羅紗緬となった。モンブランと共に生活しているうちに日本髪をやめ、大胆な風俗を取り入れたお政は人々から “ふらんすお政” と呼ばれるように。
食卓では様々な話題が出て、筑後守はモンブランに向かって仏国の郡県制度の状態について質問した。モンブランは常々、日本は諸侯を廃して郡県制度を実行しなければ到底平和は望み得られない、それにはまず薩長二藩を滅ぼし、然る後諸侯を廃する他ないと主張しているからだった。 モンブランが仏国の州郡制度の歴史と現状を詳しく話したところで、「徳川幕府の力で薩長を滅ぼすことが出来るかどうか」ということが問題になった。筑後守はそれは自信がないと正直に答えた。そこで今度は英国対島津(薩摩藩)の関係が話題に上り、モンブランは先頃幕府の老中3名と英公使ニール(John Neale)、東洋艦隊司令官クーパー(Augustus Leopold Kuper)が生麦事件の解決交渉について会見密議したときの内容を話した。