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先月、「世界の果てまでイッテQ!」に約4年ぶりの出演を果たして話題になった “孤高のアイドル” 手越祐也くん。 久しくイッテQは…、いやイッテQどころかTV自体を見なくなっているが、久々に手越くんの『テイッ!』を見たくなり、ネットで視聴した。相変わらず華があって面白かった。ジャニーズを辞めても孤高のアイドルは健在だった。 そういえば15年前に「'09年私が選ぶ ぱすぱら抱かれたい男ランキング」なる駄記事に於いて、手越くんを10位に挙げたことがあった。 10位 手越祐也さん (「イッテQ」のビッグマウス) 全くファンでも何でもないが、24時間TVのマラソンでイモトさんがゴールした際の頭なでなでが、何となくいい感じだったので。私もなでなでされた~い ――そう、ルックスも愛すべきキャラクターも確かに好きではあったが、当時は手越くん自身にはまるで興味がなく、“孤高のアイドル” と紹介されてはいたものの、ジャニーズのアイドルとしての手越くんは全く知らなかったし知りたいとも思わなかった。しかし今回久々にイッテQを見て、アイドルとしての手越くんを今更知りたくなった。 そこでYouTubeで手越くんが当時在籍していたアイドルグループ・NEWSを検索してみると、NEWSの公式チャンネルがMVを多く上げていたので見てみた。「チュムチュム」(←タイトルclickでYouTubeへGo!!) “チュムチュム” という謎のタイトルに惹かれてまず最初にこの曲を視聴してみたのだが…。一体何なんだろう、この歌は!? この意味不明というか意味など無さそうなこの歌を歌いこなせるのはまさしくアイドルだからだろう。とはいえNEWSというのは本当に正統派アイドルだったのだろうか?やっぱりお笑い系のアイドルだったのかな?と半信半疑になりつつ、他のMVも見てみることに。「チャンカパーナ」 またしても謎タイトルの曲を選んでみたのだが、こちらは正真正銘のアイドルMVで、意外と手越くんの歌唱力の高さに驚いた。ただ、歌詞は相変わらずよく分からないけど。美しい恋にするから約束するよ、チャンカパーナって…。 MVを視聴していてふと思い出した。いつだったかパーナさん事件というのがあって、当時(10年くらい前だったかな)2ちゃんのまとめサイトで事件の一連の流れを知り、そのアイドルファンの暴走っぷりに呆れたものだが、パーナさんのパーナってこの曲のタイトルからきたもので、あの事件のファンってNEWSのファンだったのか。やっぱり凄いアイドルだったのね。「KAGUYA」 タイトルどおりかぐや姫をモチーフにした歌で、♪今は昔かぐやの姫といふものありけり~という歌いだしに若干脱力したものの、このMV(監督は蜷川実花さん)の手越くんの妖艶さったら!完全にアイドル…いや、アイドル越えてるわ!何なん、この美しさは!? 顔も肌も仕草もとにかく美しいうえに可愛すぎる!私の中で何かの扉が開いてしまった 「生きろ」 普通のタイトルの普通に良い歌も歌っているようでひと安心。それにしても手越くん、普通に――いや、普通以上にかなり歌が上手い。手越くんはルックスよし、歌唱力よし、キャラよし、華ありという無敵のアイドルだったんだと今更ながら思い知らされた。 この後、数々のMVを見てみたが、当初は後方の端っこにいた素朴そうな手越少年がアイドルオーラ全開の金髪美青年に成長していく様は圧巻で、フリーになってからのMVもいくつか見てみたが、今こそまさに孤高のアイドルと呼ぶに相応しい気がする。 ついでに4年前の記者会見も今になって初めて見たが、存外(失礼!)賢い人だというのは分かった。自信過剰気味に大きなことを言うのは自分に言い聞かせているという部分もあるんだろうな、と良い方に解釈しておこう。円満退社と言ってはいたものの、まぁ色々あったんだろうなぁということを察せずにはいられない2時間の会見だった。こういうタイプの人は遠くから眺める分には眩しく見えるのだが、近くにいる人はちょっと大変かもしれない MVや記者会見に加え、過去の様々な映像やインタビュー記事にも目を通し、20年8月に出版されたフォトエッセイ「AVALANCHE 〜雪崩〜」までも読んだ。ライヴ後の号泣シーンには胸を打たれたし、いくつかのインタビュー記事で彼の摯実さを窺い知ることができた。一方で、暴露本のようなフォトエッセイについては正直どうかと思ったけど……ってあれッ!? めっちゃ手越くんのファンになってない!? ここまでジャニーズアイドルに興味を持ったのは、小学生の頃にマッチ(近藤真彦さん)に憧れて以来40数年ぶりだ。 NEWSはMVと幾つかのYouTube映像でしか知らないけど、大勢でわちゃわちゃしていた頃より4人組になってからの方が個人的には好ましい気がした。といってもNEWSのことはほとんど知らないけど。 そんな孤高のアイドル・手越くんは本日11月11日が誕生日だそうで。おめでとうございます~。イッテQではあんなに可愛かった手越くんも今年で37歳になるのね。アラフォー男性とは思えぬ美しさは努力の賜物なんだろうなぁ。今後の更なる活躍を願っておりまする。 更なる活躍といえば先日、何や日本テレビ系オーディション番組から誕生したXYとかいうグループへの電撃加入が発表されたそうだが、どうなるんだろう…。4年ぶりのイッテQ出演も、この電撃加入と関係があるとかないとか。まぁ、どんな結果になろうとも秘かに応援したい。テイッ! 嗚呼、それにしても「KAGUYA」MVの手越くんが眼福過ぎる。OPのうなじ~背中の至高シーンといい、♪風の噂に聞くほどの~の後のニンマリ横顔といい、♪SAGA SAGA~の鎖骨チラ見せシーンやら胸元はだけた濡れシーンやらといい、あまりの美しさに何度も繰り返し見てしまうでもって♪SAGA SAGA~のお尻ふりふりシーンは可愛いし、♪恋してるノンフィクション~でスクワットのように足を広げて腰を落とすシーンではちょっと男の子っぽさも感じられて、本当にこのMVの手越くんが好き過ぎる。何故当時(15年1月リリース)この魅力に気付けなかったのだろう…。
2024.11.11
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「探偵!ナイトスクープ」で2代目局長を19年間に亘って務められた西田敏行さんが17日に逝去された。数ヶ月前に同番組で永らく最高顧問を務められていたキダ・タローさんの訃報があったばかりだというのに。初代局長の上岡龍太郎さんに続いて西田局長までも既にこの世にいらっしゃらないとは、本当に寂しい限りだ。久々にナイトスクープのDVDを観て、笑いながら偲びたい。 …と思ったが、いやいや、西田さんといえばやっぱり「西遊記」の猪八戒役が一番思い出深い。今まで視聴した数々のドラマの中で最も好きな作品を選ぶなら迷わず「西遊記」を挙げるほど、放送から40数年経った今でも愛してやまない。やっぱり「西遊記」のDVDを見返すことにしよう。 三蔵法師役の夏目雅子さん、沙悟浄役の岸部シローさん、続いて八戒役だった西田さんまで鬼籍に入られたことで、孫悟空を演じた堺正章さんが発表した「猪八戒、沙悟浄、三蔵法師もみんな天竺へ旅立ちました。私もいずれその旅に参加します。心よりご冥福をお祈りします」との追悼コメントにしんみりした。 当へっぽこブログでも西田さんの出演作を度々取り上げている――というか、本当に様々な作品に出演していることに今更ながら驚嘆している。 79年に公開された、いしいひさいちさん原作のアニメ映画「がんばれ!!タブチくん!!」では、主人公のタブチくん(田淵幸一さん)の声優を務めており、ピッタリとハマっていた。 76年~78年に放送されていたバラエティ番組「みごろ!たべごろ!笑いごろ !!」にも出演されていたようで。電線音頭としらけ鳥音頭のことぐらいしか記憶にないけど。 西田さんは時代劇にも数多く出演しており、NHK大河ドラマでも主役もしくは重要な役どころを多く演じている。西田さんの凄さが分かる5ちゃんねるのコピペが存在するくらいだ。1169 西田敏行、法住寺殿において出家、法皇となる。1180 西田敏行、父と共に源頼朝の挙兵に加わり、山木館を襲撃1561 西田敏行、武田信玄に啄木鳥戦法を献策するも謙信に見抜かれ討ち死に1584 西田敏行、西田敏行に小牧長久手の戦いで敗れる1598 西田敏行死去。遺児は後に西田敏行に滅ぼされる1600 西田敏行、真田昌幸に進軍を阻まれ西田敏行の叱責を受ける同年 西田敏行、石田三成を関ヶ原に破る1603 西田敏行、幕府を開き初代将軍になる1605 西田敏行、西田敏行に将軍職を譲り、後に駿府城に移る1614 西田敏行が西田敏行を「関ヶ原には遅すぎ、大坂には早すぎる!たわけうつけ間抜けーッ!」と怒鳴り付ける1716 西田敏行、八代将軍になる1745 西田敏行、徳川家重に将軍職を譲り、江戸城西の丸に移る1860 西田敏行、会津藩の家老となる1861 西田敏行、愛加那との間に西田敏行を授かる(それをナレーションする西田敏行)1867 西田敏行、西田敏行に命じられて江戸薩摩藩邸を本拠として江戸市内を混乱させ、薩摩藩邸焼討事件を起こさせる(それをナレーションする西田敏行)1868 薩摩藩の西田敏行らと長州藩の西田敏行らが協力して幕府を倒す (それをナレーションする西田敏行)1869 西田敏行、五稜郭の戦いで新政府軍に敗れる1877 西南の役で、長州閥西田敏行総指揮の官軍に西田敏行軍は鎮圧され、城山で自刃 (それをナレーションする西田敏行)1883 西田敏行、共立学校の初代校長となる1904 西田敏行、日銀副総裁として日露戦争の戦費を調達する1904 西田敏行、京都市長に就任し、父である西田敏行のことを、部下に語りだす1945 西田敏行、フィリピンの戦場で誤って兄に撃たれる 個人的に時代劇で強く印象に残っているのは86年の日本テレビ年末時代劇スペシャル「白虎隊」だ。戊辰戦争における会津藩の悲劇を描いた作品で、モリーこと風間杜夫さんが会津藩主・松平容保役を見事に演じ、新選組副長・土方歳三役の近藤正臣さんや沖田総司役の中川勝彦さん等を見て新選組に夢中になった。このドラマで西田さんは会津藩軍事奉行・萱野権兵衛を演じ、戊辰戦争敗戦の会津藩責任者として処刑されることとなったシーンが記憶に残っている。 その新選組の沖田さんを草刈正雄さんが演じた74年公開の映画「沖田総司」で、西田さんは二番隊組長・永倉新八役で出演している。とはいっても西田さんの出演シーンはほぼ記憶にないけど。 昭和の名優がまた一人いなくなってしまった。心より御冥福をお祈りいたします。
2024.10.20
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『禁断の惑星』 The B-52's 「Wild Planet」 The B-52's (80) ■“来襲” の衝撃を今なお鮮烈に残したまま、再び直面する新たなる衝撃! ■“禁断の惑星” に降りたったTHE B-52'S驚異のサウンドは輝きを増して強力にNEW WAVEしてる。A面 1. 月影のパーティー - Party Out of Bounds 2. ダーティ・バック・ロード - Dirty Back Road 3. ランニン・アラウンド - Runnin' Around 4. 恋のお願い - Give Me Back My Man 5. プライベート・アイダホ - Private Idaho B面 1. デヴィル・イン・マイ・カー - Devil in My Car 2. キッシュ・ロレイン - Quiche Lorraine 3. ストロボ・ライト - Strobe Light 4. ヴィーナス・西53マイル - 53 Miles West of Venus 10月12日はThe B-52'sのギタリストであったリッキー・ウィルソン(Ricky Wilson)の命日ということで、80年にリリースされた彼らの2nd「禁断の惑星(Wild Planet)」を取り上げたい。 79年発売のデビューアルバム「警告!THE B-52'S 来襲(The B-52's)」より邦題としては地味だが、個人的にB-52'sのアルバムの中ではこの2ndが一推しだと思う。 B-52'sについてはこれまでに散々書き尽くしたので、このアルバムについてより詳しく知りたい方はリッキー・フェス 第4夜もどうぞ。 B-52'sのメンバーはというと、怪しげな男性vo.フレッド・シュナイダー(Fred Schneider)に、バンド名の元になった奇抜なヘアスタイルが特徴的な二人の女性vo.ケイト・ピアソン(Kate Pierson)とシンディ・ウィルソン(Cindy Wilson)。そしてdsのキース・ストリックランド(Keith Strickland)とgのリッキーの5人組。リッキーとキースは学生時代からの親友で、シンディはリッキーの実妹である。 76年に結成され、78年には地元ジョージア州アセンズのDBレコードから、デビューシングルである “Rock Lobster” をリリース。そして79年にはワーナーと契約し、1stアルバム「警告!THE B-52'S 来襲(The B-52's)」を発表。しかし83年にリッキーがHIVに感染していることが分かり、85年10月12日に32歳の若さで逝去。翌86年にリリースされた4thアルバム「バウシング・オフ・ザ・サテライツ(Bouncing off the Satellites)」がリッキーの遺作となってしまった。 4人組となったB-52'sは89年に5thアルバム「コズミック・シング(Cosmic Thing)」をリリースしたところ、まさかの全米4位を記録。シングルカットされた “Love Shack” と “Roam” も全米3位の大ヒットとなり、The B-52'sは世界中から愛されるパーティーバンドとなったのであった。 今回、これを書くにあたり確認のためWikipediaを開いてビックリ!なぜかリッキー個人の日本語ページが出来ているではないか! 嬉しいけど、一体何故今更…いつの間に? このアルバムに話を戻してお勧めソングを挙げるならば、一番は “恋のお願い(Give Me Back My Man)”。シンディの単独voソングにはわりと名曲が多いのだが、中でもこの曲はちょっぴりしっとり系(B'sの中では)でシンディのヴォーカルが冴え渡り、おまけにリッキーのギターも格好よくて、ウィルソン兄妹の活躍が目立つ。 次いで “ストロボ・ライト(Strobe Light)” もこれまたノリノリで、リッキーのギター演奏をしっかり堪能できてお気に入り。 “プライベート・アイダホ(Private Idaho)” はB'sらしい曲としか言いようがないのだが(勿論褒め言葉)、このタイトルを拝借したというガス・ヴァン・サント(Gus Van Sant)監督の「マイ・プライベート・アイダホ(My Own Private Idaho)」はB'sのノー天気さは微塵もない作品であった。主演のリヴァー・フェニックス(River Phoenix)とキアヌ・リーブス(Keanu Reeves)は眼福であった。 映画といえば、このアルバム邦題は56年公開のSF映画「禁断の惑星(Forbidden Planet)」を拝借して付けられたのかなぁ?古すぎて見たことないけど。 元々は「Urgentisimo」(“緊急”という意味)というタイトルになる予定だったらしいが、何やかんやで「Wild Planet」になったのだとか。 そんなThe B-52'sに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ Ricky~ 恋のお願い プライベート・アイダホ ストロボ・ライト
2024.10.12
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転職して2ヶ月が過ぎた。ホワイトな職場での事務仕事は十数年ぶりという言い訳は通用しないが、ミスばかりで心苦しく思いつつも幸いなことに充実した日々を送っている。充実しすぎて駄BLOG更新を一月以上放置してしまった。 月曜は帰宅後にYouTubeで「まいにち大喜利」を、木曜には「ぶらり信兵衛-道場破り-」を視聴して疲れを癒している。 でもって近頃はリンダカラー∞のカリスマ・Denさんがお気に入りで、彼の至言に元気をもらっているのであーる。JOKER~。 先日、スマホを買い換えた。スマホで絶対に必要な機能は目覚ましとカメラ(寺社撮影用)、バスの運行案内ぐらいなので、初めて購入したXperiaを7~8年も使い続けてきたのだが、古すぎて対応不能のアプリがあったりして少々不便を感じ始めていた。そこへ婦人科検診で新たに診察を受けることになった病院がデジタル診察券というものを採用しており、万が一登録できなかったら困るな…と思っていたところ、たまたま病院帰りに立ち寄った普段は利用しないスーパーでスマホ屋さんに声を掛けられ、ちょうどいい機会なので1円スマホを購入した次第。 数独とニコニコ漫画(お気に入りの「雑兵めし物語」を読むためだけに登録。月刊誌「まんがライフオリジナル」も同作品を読むためだけに購入している。竹書房さん、早く新刊を出してくだされ)とPixiv(「鬼滅の刃」の伊黒さんの漫画を見るため)ぐらいしか使わないけど、近頃は何でもスマホで出来る…というかスマホでやらないといけないので、持っておかないといけないのよね。おばはんはデスクトップPCだけで十分なんだけど… 重野なおきさんの「雑兵めし物語」が好きすぎて、前回「ジオラマの誘惑」で書いたとおり、55歳の誕生日にいよいよジオラマデビューを果たしたのである。 「さんけい みにちゅあーと プチ 田舎家」というもので、“細部まで精密にレーザーカットされたカラー硬質紙を使用。塗装することなく精巧な模型をつくれる。質感や強度も紙と思えないくらい” とのこと。初心者でも簡単に作れて、小学生の頃の図工を思い出した。一つ作ると欲が出て、家の周りの木々や草なども置きたくなる。更には作兵衛とつるちゃんの家だけでなく、ヒゲダルマのお寺や、小菊ちゃんの田んぼ、領主のお城とかも作っていきたい。いやいや、その前にジオラマを置くスペース作りが先決かも。なんてあれこれ考えるだけでも楽しい♪ 男の子がプラレール好きな理由が分かった気がする。息子達にも子供の頃に買ってあげればよかったなぁ…今更だけど。 最後に、同じく8月23日に誕生日を迎えた方達の曲を挙げてお別れしたい。 まずはスコットランドのポストパンク・バンドであるオレンジ・ジュース(Orange Juice)が82年にリリースしたアルバムのタイトルソングである “Rip It Up”。このアルバムの旧邦題もなかなかイカしていたので、懐かしアルバム邦題でいつか取り上げたい。voのエドウィン・コリンズ(Edwyn Collins)は59年生まれで今年で65歳になった。05年に脳溢血になったが、無事復帰を果たしている。 もう一人は豪州出身のリック・スプリングフィールド(Rick Springfield)。彼は49年生まれで今年で何と75歳。おじいちゃんになってもまだまだ二枚目ぶりは健在だ。84年にリリースした「Hard to Hold」からの大ヒットシングル “Love Somebody” をどうぞ。 Rip It Up - Orange Juice Love Somebody - Rick Springfield
2024.09.07
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近頃は重野なおきさんの「雑兵めし物語」という漫画にドハマリしており、元々単行本派だったものの1年以上新刊が出ないため、遂には連載雑誌である「まんがライフオリジナル」を購入するまでになってしまった。 信濃に暮らす料理好きの雑兵・作兵衛と、元は諏訪の武家の娘でありながら甲斐の武田軍に滅ぼされ、作兵衛に助けられたことから使用人として同居することになった食いしん坊のつるの話なのだが、作兵衛は格好いいし、つるちゃんは可愛いしで毎日読み返しているくらい大好きだ。単行本もKindle版も購入している。万が一アニメ化してくれたらDVDも勿論買うのだが、残念ながらそれはないだろう。 せめて作兵衛のフィギュアでも作ってもらえないかしらん…って、それもないわな。じゃあ粘土か何かで自分で作兵衛像を作ってみようかというアホな考えも一瞬脳裏を掠めたが、流石にそれは気持ち悪い。だが次の瞬間、ふと思い付いたのである。 作兵衛とつるちゃんが暮らす家のジオラマを作るというのはどうだろう――。 すっかりその気になったものの今までジオラマに興味も関心もなかったため、とりあえずジオラマとはどうやって作るのか、必要な材料や道具が何なのかを知るためにYouTubeでジオラマ作成動画をいくつか見てみた。 動画を見ていて思い出したのだが、そういえば自分は図画工作が苦手で手先の不器用な人間であった。大人になってからは図工の能力が問われる機会がなかったので、すっかり忘れていた。作れるかしらん…!? とりあえず必要そうなものは土台と家の模型、塗料と接着剤、屋根に葺きつける何か(萱だか藁だかっぽいモノ)や、外に生えている草や木のパーツあたりかな。家の中も作ってみたいが、それだと家の外も手作りしないと無理だろう。 手際よくサクサク作る動画ばかり見ていると、何だか自分でも簡単に作れそうな錯覚に陥ってしまうのだが、当然ながらあんなに上手く出来るはずないわな。単行本の新刊が出るのが先か、作兵衛宅のジオラマ完成が先か。 今月迎える55歳の誕生日に、自分へのプレゼントとしてジオラマ作りの材料を買っていよいよジオラマデビューを果たそうと考えている今日この頃なのである。 TOMIX わらぶき農家。購入しようか思案中。
2024.08.05
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『燃えよブルース・ギター』 サヴォイ・ブラウン 「Wire Fire」 Savoy Brown (75) ブルース・ロックひとすじに10年!! 不死鳥キム・シモンズ率いるサヴォイ・ブラウン――旧友ポール・レイモンドを再び迎え入れ、また新たなる一歩を……A面 1. 共にのろうぜ! - Put Your Hands Together 2. ストレンジャー・ブルース - Stranger Blues 3. ヒア・カムズ・ザ・ミュージック - Here Comes The Music 4. いかしたフィーリング - Ooh What A FeelingB面 1. 0(ゼロ)の英雄(ヒーロー) - Hero To Zero 2. ディープ・ウォーター - Deep Water 3. キャント・ゲット・オン - Can't Get On 4. 都会に疲れて - Born Into Pain “燃えよ” だの “ブルース” だのというと、香港電影好きにはすぐさまブルース・リー(李小龍)が思い浮かんでしまうのだが、今回取り上げるのは英国のブルースロック・バンドであるサヴォイ・ブラウン(Savoy Brown)が75年にリリースした12thアルバム「燃えよブルース・ギター(Wire Fire)」。ブルース・リー主演の大ヒット映画「燃えよドラゴン(龍爭虎鬥)」の日本公開が73年12月なので、ひょっとしたらこのアルバムの邦題を付ける際に映画が脳裏を掠めたのかもしれない…知らんけど。 サヴォイ・ブラウンは65年に結成され、バンドの創設者にしてリーダーであり、ギタリスト、主要ソングライター、そして唯一の常連メンバーであったキム・シモンズ(Kim Simmonds)が22年に75歳で逝去するまで続いた。 三大ブルースロック・バンドの一組だったそうで、残る2組はチキン・シャック(Chicken Shack)とフリートウッド・マック(Fleetwood Mac)。3組のうちサヴォイ・ブラウンだけWikipediaの日本語ページがないので、日本での知名度は今ひとつなのかもしれない。恥ずかしながら私も全く知らない。そもそもブルースに全く興味がないのである。 80年に公開されたジョン・ランディス(John Landis)監督のコメディ映画「ブルース・ブラザース(The Blues Brothers)」は大好きでDVDを購入して何度も見ているし、彼らのCDも持っていて時折聴いているので多少の馴染みはあるのだが、80年代のニューウェイヴ(New wave music)やニューロマ(New Romantic)、HR/HM(Hard rock / Heavy metal music)に慣れ親しんで育ったミーハーおばはんにブルースやらR&Bといった魂を揺さぶるような音楽は、気軽に楽しむにはちょいと重いというか何というか…。 あ、全く関係ないしどうでもいいけど、ブルースといえばその昔、“スニーカーぶる~す” なんて曲があったっけ。あれもブルースだというのなら、そんなに身構えなくてもよいのかもしれない。♪じーぐざぐざぐじぐざぐじぐざぐ 一人きり~ 多少の休止期間を挟みつつも、50年以上活動していたサヴォイ・ブラウン。結構頻繁にメンバーが交代しており、「燃えよブルース・ギター」の頃のメンバーはというと、g&voのキム・シモンズの他にはbのアンディ・レイ(Andy Rae)、dsのデイブ・ビッドウェル(Dave Bidwell)にkey&gのポール・レイモンド(Paul Raymond)あたりらしい。 ポール・レイモンドといえば元UFOで一時マイケル・シェンカー・グループ(Michael Schenker Group)にも在籍していたので、日本での知名度はキム・シモンズより高いかも。 さて、この「燃えよブルース・ギター」であるが、ブルースロックの魅力を十分に堪能出来るアルバムだと思う。まぁブルースロックを全く知らないのだけれど。でも確かにブルースロックというのも悪くないな、と思わせてくれるアルバムだ。百見は一聴にしかず――是非とも御自身の耳と心で確かめてみてほしい。 そんなサヴォイ・ブラウンに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ。勿論フルアルバムで♪ 燃えよブルース・ギター(Full Album)
2024.07.21
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前回で「震える舌」を取り上げたあと、渡瀬恒彦さんが出演していた「セーラー服と機関銃」をまた見たくなり、Amazon Prime Videoで視聴した。やっぱり渡瀬さんがめちゃめちゃ格好よかった。 それからは東映オンデマンドやらKADOKAWAチャンネルやらで、渡瀬さんが出演した映画やTVドラマを見まくっている。どうして渡瀬さんがまだこの世にいた頃に、彼の魅力に気付かなかったのだろう。リアルタイムで視聴する機会はいくらでもあったのに…。本当に悔やみまくりである。 渡瀬さんは17年3月に癌で逝去されたが、存命であれば今月28日に80歳を迎えられる。傘寿祝いとして “恒さんまつり” を開催したいところだが、再就職したばかりで疲労困憊の毎日を送っているため、もう少し心の余裕が出来たらひっそりと祭りを行おうと思っている。 晩年に演じられた様々な刑事役も良いが、若い頃のアウトローな恒さんがとにかく格好いい。流石、芸能界喧嘩最強と言われ続ける伝説の男である。 「セーラー服と機関銃」で、ひょんなことからヤクザの組長になった目高組4代目組長・星泉(演じているのは薬師丸ひろ子ちゃん)を身を挺して守るシーンがある。組事務所にいきなり機関銃を撃ち込まれ、恒さん演じる佐久間さんが咄嗟に組長を抱き上げて銃撃から庇うシーンの格好よさったら。この作品は何度か見ているが、これまであまり恒さんを意識して見ていなかったので、こんなに男らしいシーンなのに気にも留めていなかった。嗚呼、恒さんの無駄遣い。この作品に恒さんは勿体無さすぎる。まぁ、ひろ子ちゃんも可愛いけど、大人になってから見ると恒さんの格好良さで成り立っている作品だと思う。 今後、ぼちぼちと渡瀬さんの魅力について語っていきたい。
2024.07.17
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前々から一度は見てみたかったが何だか怖そうで見れなかった映画が、たまたまYouTubeで2週間限定無料公開中(7月18日まで)とのこと。ありがとう、松竹シネマPLUSシアターさん。 というわけで、昭和55年(1980年)に公開された野村芳太郎監督の「震える舌」を見てみた。トラウマ必至だの、ホラー映画より怖いだのという評判を目にしていたので怖々と見てみたのだが、個人的には医療並びに医師の凄さに感銘を受け、主演の渡瀬恒彦さんの格好よさと、子役の女の子の演技力にただただ圧倒された作品であった。 ちなみに渡瀬さんは80年度のキネマ旬報主演男優賞を受賞している。 自宅マンション近くの水辺で遊んでいた女の子・三好昌子ちゃん(演じているのは若命真裕子ちゃん)は指先をちょこっと怪我してしまう。後日、昌子ちゃんは食事をあまり取らずにフォークを落としてしまい、父親の昭(渡瀬さん)が厳しく叱るも、母親の邦江(十朱幸代さん)は昌子ちゃんは風邪気味だからと庇う。医者には連れて行ったが、昌子ちゃんが口を開けたがらなかったから医者も診なかったとのこと。 また後日、昭と邦江は昌子ちゃんの歩き方の異変に気付く。その日も病院には行ったもののちゃんと診てもらえなかったという邦江に、昭は明日は自分が連れて行くと言っていたその夜、突如昌子ちゃんの叫び声が!昌子ちゃんは痙攣を起こし、舌を噛んで口中血まみれになっていた。大慌てで昌子ちゃんの口を開けさせ、救急車でかかりつけの病院へ向かうも「明日大病院で診察してもらった方がいい」と言われただけで帰されてしまう。帰宅後、何とか昭のツテで大学病院に行って診てもらうが、原因は心因性のもので心配ないと診断された。ただ念のため、翌日教授に見てもらったほうがいいと言われてとりあえず昭と邦江は一安心。 翌朝、再び大学病院へ診察に訪れるも、昌子ちゃんを診察した小児科医長(宇野重吉さん)はすぐに詳しい検査と入院を指示した。検査の結果、昌子ちゃんは破傷風と診断される。疑われていた脳腫瘍や髄膜炎ではなかったことにほっとする昭であったが、小児科医長から破傷風は非常に厄介で死亡率が高い病気だと告げられる。 光や音の刺激による痙攣を避けるため、昌子ちゃんの病室の窓や電気スタンドは真っ黒な布で覆われた。そしてここから壮絶な闘病生活が始まる。 数時間おきに強直性痙攣を起こしては体を反らし(後弓反張)、舌を噛んで口中血まみれになって唸る昌子ちゃん。昭と邦江はそんな昌子ちゃんから目が離せず、次第に疲労で精神的に追い込まれていく。 やがて主治医の能勢先生(中野良子さん。お綺麗でめっちゃ頼りになる先生)らの尽力もあって昌子ちゃんは一般病棟に移るまでに回復する――という話である。 原作者の三木 卓さんの娘さんが実際に破傷風菌に感染された時のことをモチーフに描かれているとのことで、今更ながら破傷風の恐ろしさを知った。 痙攣したときに舌を噛み切らないように、昌子ちゃんの前歯がまだ乳歯か確認した後、乳歯ならまた生えてくるからと麻酔なして歯を抜いていくシーンは確かに怖かった。怖かったといえば、昌子ちゃんを演じた子役の若命真裕子ちゃんの迫真の演技が怖いくらい凄かった。 昌子ちゃんの尋常ならざる苦しみを間近で支える母・邦江さんが精神的におかしくなっていくのも分かる気がする。気はするけど、見ていてちょっとイラッとしたのは、それだけ十朱さんの演技力が優れていたからだろう。 この作品では能勢先生を凛々しく演じた中野さんと、様々な葛藤や苦しみ、恐怖(自宅で痙攣を起こした昌子ちゃんの口を開けさせる際に指を噛まれて怪我したことから、自分も破傷風菌に感染したのではないかと怯えていた)を抱えながらも自分を見失わなかった昭さん役の渡瀬さんが素晴らしかった。 病状が落ち着き、酸素の管(っていうの?)が外れた昌子ちゃんが第一声で「チョコパン食べたい」「チョコパンだよぉ~」と言うと、能勢先生からジュースのお許しが出て、昭さんは大急ぎで自動販売機へ向かう。何本もの缶ジュースを手に走って病室へ戻る途中で躓いて転んでしまい、落ちて転がった缶ジュースを拾いながら一人涙する昭さん…というか渡瀬さんが実にいい。格好いい役者さんだったと心から思う。 最後に、これはすごくどうでもいいのだけど邦江さんの故郷は岡山らしく、お母さんが岡山から駆けつけて来たシーンがあって、渡瀬さんの口から岡山という単語が発せられただけでちょっと嬉しかったりして。この感覚は田舎モノしか分かるまい…悲しいなぁ
2024.07.08
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『不正療法』 ドクター・フィールグッド 「Malpractice」 Dr. Feelgood (75) ブリティッシュ・ロック界に突如現れた大型グループ、よみがえるロックン・ロールのエネルギーをたたきつけた話題作!!A面 1. アイ・キャン・テル - I Can Tell 2. ゴーイング・バック・ホーム - Going Back Home 3. バック・イン・ザ・ナイト - Back in the Night 4. アナザー・マン - Another Man 5. ローリング・アンド・タンブリング - Rolling and Tumbling 6. ドント・レット・ユア・ダディー・ノウ - Don't Let Your Daddy Know B面 1. ワッチ・ユア・ステップ - Watch Your Step 2. ドント・ユー・ジャスト・ノウ・イット - Don't You Just Know It 3. ライオット・イン・セル・ブロック No.9 - Riot in Cell Block No. 9 4. ビコーズ・ユーアー・マイン - Because You're Mine 5. ユー・シュドント・コール・ザ・ドクター - You Shouldn't Call the Doctor 6. ルート66 - Route 66 80年代に青春時代を過ごした私にはドクター・フィールグッド(Dr. Feelgood)というと、モトリー・クルー(Mötley Crüe)が89年にリリースして見事全米1位に輝いた5thアルバムタイトルが真っ先に思い浮かぶのだが、今回は71年に結成された英国のパブロック・バンドであるドクター・フィールグッドが75年にリリースした2ndアルバム「不正療法(Malpractice)」を取り上げたい。 邦題界(?)ではこの「不正療法」と、翌76年にリリースされて初にして唯一の全英1位に輝いたライブアルバム「殺人病棟(Stupidity)」はそこそこ名の知られたアルバムタイトルではあるが、どちらも曲名が全て原題カタカナ表記なのが惜しい。 “ドクター・フィールグッド” というのは快楽(Feelgood)先生(Dr.)ということで、薬物を過剰に処方する医者を指す俗語だそうな。なので邦題もちょっぴり医療系っぽくなっている。まぁこのアルバムの原題 “malpractice” は医療過誤だとか不正療法だとかの意味なのでそのままだけど、“Stupidity” は直訳すると愚かさや愚行といった意味なので「殺人病棟」という邦題のセンスは素晴らしい。 この「不正療法」は元々11曲収録されているが、日本盤には “ルート66(Route 66)” が追加されている。何故かは知らないけど。 パブロック(Pub rock)とは70年代に英国を中心に発生したロックの一ジャンルで、演奏場所が確保できないようなバンドが、シンプルな曲構成と演奏、労働者階級を意識した作詞を持ち味とし、パブで演奏し始めたのがパブロックのルーツだそうな。(Wikiさんより引用) ドクター・フィールグッドはR&B色の濃いパブロック・バンドといっていいのかな?大人の男性が好みそうな音楽ジャンルは普段聴くことがないので、正直よく分からないや とはいえ、こういう機会に聴いてみるとなかなか渋くてよいなぁ…と素直に感じるようになった。インダストリアル系以外は何となく良さが分かりつつあるので、伊達に年齢を重ねていないと思いたい。 このアルバムをリリースした頃のバンドメンバーは、リードvo、ハーモニカ&gのリー・ブリロー(Lee Brilleaux)、gのウィルコ・ジョンソン(Wilko Johnson)、bの “スパーコ(Sparko)” ことジョン・B・スパークス(John B. Sparks)にdsの “ザ・ビッグ・フィギュア(The Big Figure)” ことジョン・マーティン(John Martin)の4人。 バンドは今でも活動中ではあるが、上記のオリジナルメンバー4名は誰一人残っていない。リー・ブリローは94年に41歳の若さでリンパ種により他界しており、ウィルコ・ジョンソンも22年に75歳で癌により亡くなったそうな。 1曲目の “アイ・キャン・テル(I Can Tell)” からリー・ブリローの20代とは思えぬ迫力のヴォーカルといい、ウィルコ・ジョンソンのギターといい、なかなか格好いい。語彙力がなさすぎて上手く言葉に出来ないけど、ちょっと荒々しさもあってノリがいいので聴き飽きない。70年代のロックはストレートに心に響いてくる感じが、80年代の商業的で小洒落たロックに慣れ親しんだ身には却って新鮮でちょっとワクワクする。 そんなドクター・フィールグッドに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ バック・イン・ザ・ナイト ゴーイング・バック・ホーム ユー・シュドント・コール・ザ・ドクター
2024.06.30
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先日、自転車を漕いでいると急に強い香りに包まれた。お線香の香りだ。ここまで強く香るのは久しぶりだなぁと思いつつ家路を急いだのだが、何年かおきにこの不思議な現象が起る。 初めてお線香の香りに気が付いたのは、十数年前に新聞配達をしていた時だった。当時は『進ぬ!電波少年』の「アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク」を久々に見て、私の中で朋友(パンヤオ)のチューヤン(謝昭仁)ブームが到来しており、私も朋友のように苦労を経験したいと考えて、何故か方向違いの新聞配達を始めた頃だった。 真っ暗な中で急に強烈なお線香の香りが鼻を突いたので、最初は不思議に思ったが、数年前に他界した父が守ってくれているのかな…などと勝手にいいように解釈して配達を続けたのだった。それからは時折、急にお線香の香りを感じるようになった。 ネットで “急にお線香の香りがする” と検索すると、霊が近くにいるだとか、ご先祖様からのメッセージだとか、誰かが亡くなるもしくは誰かの命日が近いだとかが出てくる。残念なことに私は全く霊的なものに疎く、50年以上生きていて心霊現象にあったことすらない(それっぽいのはあったけど、ただの勘違いだったと思う)超鈍感体質なのである。 今回は父が就職祝いに来てくれたのか、或いはひょっとしたら先頃迄ここで池田長發(可軒)さんについて書き記していたので、一体どんな奴が書いていたのかと可軒さんが覗きに来られたのかもとか、勝手に想像したりして。まぁ悪い知らせかもしれないので、一応気を引き締めていよう。 もし何らかのメッセージがあるのだとしたら――読み取れなくて本当にすみません
2024.06.29
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一年間無職生活を満喫していたが、来月から再び社会人に復帰する。大丈夫かしらん。これ以上ずるずると無職生活を続けたら二度と社会人に戻れない気がしていたことだし、何より公共職業訓練を受けさせてもらったからには就職して雇用保険を納めて恩返ししなければならない。労働者の皆様ならびに事業主様、どうもありがとうございました。 前回で一区切りついた池田長發(可軒)さんに関する様々なことも、暇なうちに書き終えられてよかった。働いていたらなかなかのんびりと調べられないからね。今回無事に仕事が見つかったのも可軒さんのおかげだと勝手に思っている。難有仕合奉存候 m_ _m ←もう誰も使わんて。 毎週Amazon Prime Videoで楽しみにしていた「鬼滅の刃」柱稽古編も今月末が最終話なので、来月から気持ちを切り替えてぼちぼち頑張ろう。最終決戦はやっぱり映画になるのかなぁ。伊黒さんの活躍は繰り返し見たいからTVで放送してくれないかな…と貧乏おばはんは思うのであった。 もう昨日になってしまったけれど、26日12時頃からM-1グランプリ2024の開催記者会見をYouTubeのLive中継で視聴した。今回は記念すべき20回目らしい。漫才が大好きなので、M-1も勿論大好き。今年も真空ジェシカやカベポスターが決勝に残ってくれたら嬉しい。モグライダーは今年がラストイヤーだそうだけど、うーん…芝さんは好きなんだけど。そういえばロングコートダディもラストイヤーだっけ。今から年末が待ち遠しい! 暇なうちに鹿児島島津家墓所(福昌寺跡)に行ってみようと思っていたが、機を逸してしまった。関ヶ原の戦いで敵中突破した島津義弘さんと、宝暦治水で辛酸を嘗めた島津重年さんのお墓を参拝したい。岡山から鹿児島までは直通の新幹線があるのでいつでも行けると呑気に構えてたら、暇々期間がなくなっていた。まぁ無職が無駄遣いするのもどうか、という気持ちもあったけど。 暑さと虫が苦手なので、この時期は避けたい。観光地巡りはやはり晩秋~冬にかけてがベストだ。嗚呼、南海トラフが来る前に行っておかなくちゃ。霧島神宮とかも一度は参拝したいし。 …しまった!もう4時だ!無職になると生活リズムが完全に昼夜逆転してしまうのは何故だろう。って単にぐーたら怠惰な毎日を送っているからなのだが。来月までにちゃんと朝起夜寝の生活に戻せるかな。んじゃ、おやすみなさい。
2024.06.27
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文久3年(1863年)5月10日、長州藩は攘夷を実行すべく馬関海峡(関門海峡)を通過する外国船へ砲撃、報復として仏・米国軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃して長州海軍に壊滅的打撃を与えた。しかし長州は砲台を修復したうえ新たな砲台を築いて海峡封鎖を続行、翌元治元年(1864年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた英国は長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定。仏・蘭・米国の三国に参加を呼びかけて連合艦隊を編成。四国連合は20日以内に海峡封鎖が解かれなければ武力行使を実行する旨を幕府に通達、そこへ池田筑後守(可軒さん)率いる横浜鎖港談判使節団が開国論を引っさげて帰ってきたのだから、さぁ大変! 使節が仏国と取り交わしたパリ約定には下関を3ヶ月以内に通行可能にする条項が含まれていたのだ。駐日公使オールコック(Rutherford Alcock)は幕府がこの約定を批准することにより四国連合から仏国が脱落することを恐れたが、幕府は約定の内容を不満として批准は行わず、7月24日に約定の破棄を四国に宣言した。 ――とWikiさん(「横浜鎖港談判使節団」、「下関戦争」等)に上手くまとめられているとおり、可軒さんの努力も空しくパリ約定は破棄された。7月22日、可軒さんは徳川家茂に面謁して鎖港の非を辧疏し、大いに開国論を力説したのだが、翌23日には「其方儀外國へ爲御使被差候處、不取計之事共有之不埒之至に候、依之御役被召放、知行高之内六百石被召上、隠居被仰付蟄居可罷在候」(免職のうえ知行半減、隠居蟄居の懲戒処分)を下されてしまった。 前回の建議書も長文であるが、終盤で提案している建議5項目についてもそれぞれ詳述している。全文を写したらこれまた相当な長文になるので、タイトルだけ挙げておく。(括弧内は要約) 1. 歐洲各國へ辨理公使御差遣の儀に付申上候書付(欧米各国へ大公使を派遣して和親の実を挙げること) 2. 西洋各國並東洋國々と條約御取結の儀に付申上候書付(無条約国とも早く条約締結を進めること) 3. 佛國へ留學生御差置之義に付申上候書付(海陸二軍の建設充実はいうまでもなく、西洋文明の長所を摂取するため留学生を派遣すること) 4. 新聞紙社中へ御加入之義申上候書付(西洋諸州の新聞通信社に加盟し、彼我の情報を収集することの急務なること) 5. 御條約濟國々へ御國民共通商渡船御差許之義申上候書付(国民海外渡航の禁を解き、貿易はもちろん文化交流の実を挙げること) 結局この5項目は全て明治時代に実現されたというから、可軒さんの慧眼、恐るべし。 現在英国御滞在中の天皇皇后両陛下の馬車パレードの様子を、160年前に可軒さんもパリでこのような歓迎を受けたのかなぁと思いつつ、YouTubeのLive中継で見た。 元治元年(1864年)3月28日に皇帝ナポレオン3世(Napoléon III)に謁見する際、滞在先のホテルまで迎えに来た馬車(馬も紅装束着用)で向かっている。この時の行列順序は仏国騎兵先導、組頭調役通司塩田さん通弁フレッキマン一車、副使監察一車、正使一人当地役人付添一車、定役書物並同心一車、佐原さん等三人一車という順で、城門には剣銃の兵士が警固し、中門にもアフリカ兵数百人が並んでいたという。今回の天皇御一行パレードくらいの感じだったのかな…なんて勝手に想像したりして。(佐原さんは池田筑後守家来) この約2週間後の4月14日、観兵式に招待された一行は再び皇帝より差向けられた馬車に乗ってフォンテンブローの練兵場へと向かった。副使の河津伊豆守が鎧甲冑姿で馬に乗って皇帝の側に行って謁見し、皇帝を大いに満足させた。…まではよかったのだが、乗っていた馬が可軒さんの被っていた陣笠の裏の金地に驚いたのか、いきなり暴走。騎兵隊の中に突入してしまい、皇帝が大笑いして副官をやって馬を捕らえさせたという逸話も残っている。 ここまで色々と横浜鎖港談判使節団について綴ってきたが、もしも可軒さんが使節団の正使に選ばれてなかったら、もしくは可軒さんの意見に幕府や朝廷が耳を傾けてくれていれば、おそらく近代史に名を残す活躍をしたことだろうに、つくづく残念に思う。元々昌平黌で抜群に優秀な成績を修めた頭脳明晰な方なので、こんな幕府の生贄のような端から無理な役目がうまくいかなかったからといって、免職処分に隠居蟄居はあまりに酷い。ま、まぁ帰国後の暴走はあったにせよ。 慶応2年(1866年)に処罰が解かれ、翌慶応3年に軍艦奉行並にはなったが、その頃は既に健康を害していたため数カ月で職を辞して、その後はずっと岡山市で過ごした。こんな田舎でくすぶっていたなんて本当に勿体ない(現岡山市民としては嬉しいけれども)。 慶応2年3月15日に赦免され、11月16日に剃髪して名を可軒と改めた際の一首。 可軒と號せし時詠める うきしつむ身は浪花江の捨小舟 よしやあしやの中わけて行け 可軒さんはパリで撮影した写真の裏に、このような漢詩を遺している。 愧被功名誤一身 幽棲此日又逢春 春風芳草五州夢 涙酒当年舊写真 参考文献・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年・岸 加四郎『鶴遺老:池田筑後守長発伝』(井原市教育委員会)昭和44年・岸 加四郎『池田筑後守長発とパリ』(岡山ユネスコ協会)昭和50年・明治文化研究会 [編]『明治文化研究 第2集』(日本評論社)昭和43年 高橋邦太郎『悲劇の大使――池田筑後守事蹟考』・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年・尾佐竹猛『幕末遣外使節物語――夷狄の国へ――』(岩波文庫)平成28年・榎本 秋『世界を見た幕臣たち』(洋泉社)平成29年
2024.06.26
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帰国した池田筑後守(可軒さん)は使節団の副使・河津伊豆守、目付・河田相模守と連名で、建議書(佛國行帰府上申)を提出した。 この中にある建議5項目についても各項目ごとにそれぞれ詳しく記述してあるのだが、メインの建議書だけでも結構なボリュームなので、今回は建議5項目の詳細は割愛する。 可軒さんは一体どのような思いでこの建議書を書き上げたのだろうか…。 建 議 書 三名趣意柄申上候 佛國巴里府より、一と先、歸府仕候、趣意柄申上候、書付 私共義神奈川港鎖閉、其他、諸事談判の爲御條約濟各國へ、爲御使、被差遣候に付ては、佛國へ、最初、罷越候義は、道路、自然の順のみにも無之、井戸ヶ谷殺傷、長州發砲等、同國へ被爲對候ては、種々の事件、差重候間、自來、御不都合不相成樣、談判仕候義は勿論、鎖港の義も、御國在留、同國ミニストルには、英國荷蘭等、外國のもの共違ひ御都合可取計樣子も相見え、且、同國に於ては、全世界上にて、英國とも、並稱被候位の國柄、殊に、當時、國帝第三世ナポレオン事は、自今、歐洲各國、皇帝の内、口利にも御座候間、同國に於て、談判取纏り候得ば、外各國にて異議は有之間敷と存候、旁以て、同國を目當といたし、罷越、先づ井戸ヶ谷一條より、談判相始候、殺傷被致候、士官家族、扶助金として、金參萬五千弗、持越候御用金の内より相渡し、尚、長州の事件に押移り、兼て相伺候趣も御座候間、御處置可被及次第は、内談にて相我盡し、夫是談示仕候處、彼方にて下の關通航並に償金の義申立て、下關通航の義は、元より相當の所望に御座候間、夫々御處置の次第申約し候共、償金の廉は、尤之筋にも不相聞候間、シーボルトへ承合候處、最初、砲撃を請候後、態々、軍艦差遣し、國籍に對候丈之報告致候得共、所謂、争端をひらき候爲め、軍艦差遣候故、右入費も償候は、西洋各國の通法に有之、既に於ても先代ナポレオン各國へ兵を向候に付、近來迄、年賦償金差出居候、例も有之趣相聞き、強て無謂筋にも、相聞き、不申、就而、勘辨仕候處、鎖港の義、談判仕候に、彼方、氣配相損し、御國政府、御懇親の御趣意、徹底不仕候ては、迚も相纏り兼候義に可有之と存候間、曲而、差遣し可申積にて、談判仕候内、右員數相違いたし、前後不都合の事共御座候得共、後段の談判を、大切と心得候間、程能會釋、右所望通り約束仕り、追々、鎖港の談示に押移候處、先般、兩都御開事延期之義に就き、御使、被差遣候節約束三ヶ條、今以て御取引延引いたし御違約も同樣に相當り候間、其節、御談判申上候通、右談判引戻し、即今、軍艦差向け、兩都两港共、直樣御開被成候様御談判申上積に而、已に英蘭政府とも、打合相居候へば、右は御國御迷惑に可相成と存候間、當時、御開相成候、三港とも、其代りとして、無税の商賣、御許相成度段、意外の難題申懸け、一體、無税商賣と申候義は、西洋各國、何れにも其例無之、僅々獨逸連合洲中、軍堡等一兩國御座候得共、右は因よりフレースターテンと相唱え、國主も無之 國民寄合持の國柄に而、比例には相成不申、對待の國にては、何れも比例無之趣、御國においては、内地商民、運上無御座候上は、尚更御不都合之筋に有之、最も即今、御國、一廉の御都合をも、取計候筋に候はゞ、亦、格別の義に候へども、左も無之而は、右樣の次第に至り候事者、難得其意、筋に付、精々、談判を盡し罷在候内、既に手切にもおよび可申、勢も相見え、鎖港談判等は、中々に受取可申樣子無之候共、遠海の處、能々御使をも被遣、御和親御保續の爲め、一時御國内、人心鎭定の御趣意、首尾詳悉、御懇親の御意味合を主張し、極力、論辯及び候處、彼方に於ても、和親の御交誼に對し、懇親の意を以て、條約妨害致し候、凶徒御鎭定被成兼候はゞ、何樣にも國内の軍賦を以て、御加勢も可申上旨申立て、此方より申談候、御懇親の廉とは、意味行違候へども、話は同盟の結交の誼に對し、右加勢御受不被爲在候而は、矢張、御懇親の趣意に戻り候樣相成候義に而、彼方に於て、假令、野心を挾み、情實難計候共、言辭の處、無此上懇親の筋に相當り、世界列國へ聞得も有之、御趣の意不模通候とも、あながち彼方の國へも難申、且、井戸ヶ谷、長州一條とも己に熟談および、唯此事に至り不直の名義被爲請彌以御手切に相成候、而は一體の御趣意も、全く畫餠に歸可申は申迄も無之、却而彼方の股中に陥り、詰り、鎖港の義は扨置、兩都兩港開市の期限迄、彼方見込通相促し候も、同樣の勢に相成る可、且つ西洋各國の形勢、何れも御國に垂涎仕候、只管事端を尋ね、兵端相開度存寄は有之候共、遠海の地、萬里の懸軍、持久の計行屆兼候處、斟酌致し、且互に利を爭候上は、申合方行屆申間敷と、各懸念いたし居候樣子に、自然蘇士地狹堀割出來、歐洲各國の軍艦、喜望峯を不相廻、直接東洋罷達し候樣相成候はゞ、海路も三分の二を减じ候樣、可相成、將御國に於ても、各國えも爲對御信義相立兼候事共差重り、各國の忿怒を生じ候樣之、機會ためらひ居は其期に至り候はば、不期して、連衡合同致し可申候間、其節彌、東略の志を逞いたし度遠望有之哉之候義相見え候折柄、御國方今の御模樣、返顧仕候得者、公武合體の義、先頃御上洛の御一擧に而、彌以御首尾相懸候事と、被存候共、今以、人心折合にも至り兼、内地民心、一和不仕候上、海陸軍備も、未だ充實不相成候而、五洲萬國御敵に被爲、引受候事者碫卵の勢、全國の安危存亡、如何有之哉、乍恐、御無算の至りにも可有之被存候。右樣中外の形勢、參互勘辯仕候へば、唯今内何れとも萬國に相勝れ候、御目立の御工夫第一に、御盡力被爲在、御國内反復し者は、幾重にも御力勢御座候而、政府の御威權、確に相立、外國より可申上詞柄無之、將指すべき衅端無之樣、御仕向相成候而、懷綏の御趣意を以て、御條約の明文御違背無之、確固と御遵奉被爲在、海陸二軍共充實の御備早々相立候運に、相成候樣仕度、將西洋各國の動靜相探り候處、互に隙を伺ひ併合の慮有之、目今の樣にては、歐洲各國三五年を出でずして、可及大亂兆も相見え候間、御國内御鎭壓被爲、計内治御行屆に相成候上は、各國分裂の虚に乗じ、如何樣とも御畫策可有之、然る處今破約に陥入候へば、各國合同致し、却而歐洲は無異に歸し、御國の災害に罷成候義は、必然の勢有之、夫是の處、篤に勘辨熟慮仕候共、今更申上候は恐入候得共、一體御國内不折合より政府の思し召に無之候とも、不得己鎖港可被及との義は、無據御伺柄とは乍申、佛國に於て御國へ對し、懇親相立候廉、此方申談候處は、前申上通、意味行違居候處を以て、西洋各國の所見推考仕候へは、却而侮慢を長し、覬覦を來し可申筋合にて、強而此方より申談候は、結局御國政不行屆を露し候義に相當り、自威權を貶候筋にて、乍恐御國辱の端にも可有之、將右の義を以て、御條約御違背の廉に押据へ、何樣の難題可申立も難計、事體 無據塲合、手切に至り候はゞ、大切の國事を誤り候事と、苦心仕り、尚政府御誠實の趣を主といたし、折曲申聞候。無税貿易の議、強而及斷右鎖港談判承引仕り候議有之候共、請求の趣尚勘辨も可致旨申談候處、鎖港の義は幾應談判を遂げ候得共、兼而英國其外不承知の義に付、堅く及斷候共、御國政府御懇親の段は、御使にて了解、既に此程同皇帝にも於御國軍艦御入用の趣、被承及、御國へ對し、格別懇親の意を表し、得證として自國海軍隊の内より、軍艦譲渡可申旨同國帝意裏より出し趣申聞候。三港無税の談示も確との口上は無之候共、先此方鎖港の談判に、引分れの談判と相成、至極折合宜敷候間、右を汐と致し、談判取纏方、調印仕候事に有之、尤も各國とも、鎖港の御同意申上上候はゞ、其節再談可仕樣、申聞候共、右は全く、各國とも同意仕間敷を見込、程能く申上候事に而、固より以て、難信筋に有之、全體佛國の義は、前申上候通り、鎖港一條に付而は、稍手心義御座候處、既に右樣の次第に御座候上は、此上英國え罷越候とも、最初同國より御國え差越候、ミニストルアールコツクと、上海表に於いて、面會の砌、一と通趣意柄申聞候處、既に兩都兩港をも、模樣により直樣御開可相願仕之心組に御座候上は、御談の趣、迚も本國政府に於て、快くは存申間敷旨申聞、右等參勘仕候共、幾重に申談候共、承引仕間敷は、眼前の義に有之、佛英兩國、已に如此御座候上は、外國々とても、固より同樣の義に可有之、將一兩國御同意申上候者御座候共、兩強大國不承知の上は、御趣意通りは貫徹可仕樣も無之は申迄も無之義、加之、英國に於ては、當春、長崎表に於て、同國人に切懸候ものも有之、急速御詮議、御行屆不被爲仕候哉にも相聞、旁々佛國同樣御談判穏に、引分れ可申哉か難計、自然此方談判の廉を以て、御條約御違背などゝの名義に引附け、彼是差結び、彌兵機を以て相迫り候場合に至り候へば、無御據義とは乍申、私共談判不行屆より、双方之不都合引起候樣に而、如何にも恐入候義、將重御國書等も有之、一々右に對し、侮慢の振舞御座候節は、私共萬死、無償之罪は申迄も無之、御國體 に差響候事、是非共争端御開不相成候而は、難被差置時宜に至候はゞ、得失成敗の義は、前申上候通りの義にて候處、見す見す國家を陥入、加之、隠然背叛之輩、此擧に乗じ、奸計を相設候は必然の義と、深く恐入候間、再三評議を盡し、既に召連候支配向迄も、一同見込承糺し、筑後守、伊豆守内壹人は、本地より引分れ立戻り、一體之次第申し、壹人は、御使相勤候方にも可有之抔と迄、評議相盡候へ共、左候ては第一體裁も不宜、將御使相勤候方は、矢張是迄之御趣意、押立談判仕候義に付、其内案外、行違生可申哉も、難計義に而、是以恐入候筋に奉存候間、兼而奉伺置候通、一同一と先歸府仕、一體の事情逐一申上、鎖港之義を以て、戰爭の端を被爲開候は、無上之御失擧に可有之と存候、見込之處不包申立候方、御爲可然義と評決仕候、尤彌以、御條約御保守相成、交誼永續之御宸基相定候上は、右等之次第、尚亦、各國へ御布告の爲め、御使被差遣候樣、相成可申、其節は再度、可仕積申合、但御使命の趣有之候國々の内、亞米利加、荷蘭之三國者長州一條をも兼、談判可致筈に有之、英國には鹿兒島表之義事濟には候共、一應は申談候積、其爲御國書等も御座候事故、右之國へは別段私共より、政府宛書管差遣し、一と先歸國仕候趣意柄申述べ (本文之通申遣候處英國公使より本國事務大臣之命を受返書差越候處條約に相違いたし候義は女王と雖とも其詮なく若又之を論ずる共徒に空論に属する外無之旨申越候義に御座候)外孛漏生、魯西亞、葡萄芽へは、巴里在留之公使迄、斷返し之書差遣し、瑞西國者、御條約濟の廉を以て差遣候筋にて、外國々とは別樣には御座候共、緊急之談判向も差置 御廟議相伺候爲、一と先歸國仕候際に臨み、同國而己も可罷越、無謂も無之候間 是亦、同國巴里在留公使へ斷返しの書管差遣、當五月十七日、巴里引拂、同國馬塞里に於て飛脚便船待合、同二十五日英國飛脚船へ乗船、歸府仕候、一體御自立の御基本相立候には、御國内一和相成候は、尤以其根本に而海陸二軍の御備は勿論、各國御交際にも、格別御注意被爲仕、御信義相立候樣、御覺悟無之候而は、不相成、就而は、彼方事情、御探索相成候而も亦第一義に御座候。私義見込之處にては、第一、辨理公使歐洲各國へ被差置度、第二、歐洲而已に無之、外獨立の邦々は、何れも條約御取結相成、萬一之節伐謀伐交之御方略有之度、第三には海陸二軍之方法、西洋の長所を被爲取候爲め、留學生差遣に相成、修業爲仕度義、第四には、西洋諸洲、新聞社中に御加入相成、彼我之事情相通候仕度義、第五には、御國民、自在外國へ相越え、商賣は勿論、彼方事情も心得候樣仕度義、夫是之次第は、別紙申上候通りに御座候間、篤と御熟覧被下度、私共見込之通、鎖港の義は御見合せ相成、御自立の基本、御定相成方、専ら御從事被爲仕候はゞ、御國體を被爲重し、御國威を不被爲汚義に而、外國より、不信不義の所置御座候節は、何れも其罪を御糺し被遊候事、相叶候筋に付、假令鎖港不被爲仕候とも、尊王の御趣意に取候而は、此上も無之義に而、宸裏をも可被爲安御事と、乍恐奉存候間、京都へは、私共實地目撃の上申上候、前文之次第を以て、誠實に御奉上御座候はゞ、御氷解被爲可被爲在義と奉存候。依而私共佛國在留中、對話書、並に爲取替候約定書、扶助金請取書、原書、譯文、巴里引取之節、外國々在留公使へ差遣候書寫、同返書、並に英、亞、蘭外國事務大臣への書管寫、將私共進退に付、被是嫌疑の爲め播告爲仕候新聞紙案とも相添へ、此段申上候以上。 参考文献・『痴遊雑誌』第1巻第6号(話術倶楽部出版部)昭和10年 『不二文庫〔三〕幕使池田筑後守の建白書』・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年・尾佐竹 猛『国際法より観たる幕末外交物語』(邦光堂)昭和5年・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年・明治文化研究会 [編]『明治文化研究 第2集』(日本評論社)昭和43年 高橋邦太郎『悲劇の大使――池田筑後守事蹟考』
2024.06.24
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20代の若さで、外交経験皆無だった池田筑後守(可軒さん)の心身を疲労困憊させた、7回(もしくは9回)に亘る折衝は幕を閉じた。条約違反を重々承知のうえでの、失敗前提の交渉だったにもかかわらず、可軒さんは執拗に食い下がって全力を尽くした。しかし使命の達成はおろか、仏国海軍との共同軍事行動まで約束した「パリ約定(Convension de Paris)」に調印までしてしまったのだった。 とはいえ、可軒さんはこの頃にはすっかり開国派になっており、“かえって意気揚々として得意のさまがあったのである” (田辺太一著「幕末外交談」より)。パリ約定の全文は以下のとおり。 巴 里 約 定 西暦千八六十四年六月廿日 皇紀元治元年五月十七日 佛蘭西、日本兩國間に定めたる箇條、 佛蘭西皇帝殿下と 日本大君殿下と互之信義を表して、兩國和親の交誼を厚くし、又、貿易を盛んならしめん事を希望し、文久二年即西洋千八百六十二年以來政府の間に生ぜし難澁を、互に一致し格別之法に而所置すべき事を決定し、 佛蘭西皇帝殿下の外國事務ミニストル兼セケレタリードワンデロイスと、日本大君殿下之使節池田筑後守、河津伊豆守、河田相模守と正しく上件之旨を以て、左の箇條を決定せり。 第 一 條 文久三年五月即西洋千八百六十三年七月 佛蘭西皇帝殿下之軍艦ケウシヤングに對し、長門國に於て發砲せる敵對の所置を改むるため 日本大君殿下之使節、江戸に歸着する之後三ヶ月にして、 佛蘭西皇帝殿下のミニストルに償金としてメキシコドルラル拾四萬枚を渡すへし。但其内拾萬枚は政府より出し、四萬枚は長門之領主より出すへし。 第 二 條 日本政府は又 日本大君殿下の使節歸國の後三ヶ月之内、佛蘭西之船、下の關を通行するに方り、今ある所の障碍を除き常に此通路をして自在ならしめんか爲め、時宜に應て威力を用ひ、又佛蘭西海軍隊の指揮官と共に處置する事もあるへし。 第 三 條 兩國政府にて左件を決定せり。則佛蘭西と日本との貿易をして盛ならしめんが爲めに、安政五年九月三日 即西洋千八百五十八年十月九日 江戸において結ひたる條約の行はるゝ間は、先般 大君殿下之政府外國貿易之爲め許せし減税法を、佛蘭西産物或は佛蘭西船輸入品利益之ため保存すへし、 故に此條約の存する間は、日本運上所にて製茶梱苞に用ゆへき鉛葉、ソルデールスル、はんだろふの類 筵、藤油 晝具用、青黛、ギブス 石炭之類、鍋、釜、小籠を無税になし、酒類、白砂糖、鉄、ブリツキ、器械、織麻、時計、袖表並鎖、硝子細工、藥種は五分税とし、鏡、陶器、衣服之飾、香具、石鹸、武器、小刀類、書物、紙、繪は六分税を取るへし。 第 四 條 右之決議は安政五年九月三日 即西洋千八百五十八年十月九日 佛蘭西と日本と取結ひたる條約を全くするの箇條として、 兩國君主の調印におよはす施行すへし。此を以て上に記せる全權の人々、此決議を本紙弐通に認め、双方名を記し印を押し、巴里府に於て爲取替もの也。 文久四年子五月十七日佛蘭西外國事務ミニストル兼セケレタリードワンデロイス(Drouyn de Lhuys)日本全權委任使節 池田筑後守 花印河津伊豆守 花印河田相模守 花印 調印を済ませた可軒さん等一行は予定されていた英国他諸国への訪問を中断し、その日の21時にパリを去り、マルセイユから英船・オンクセントに乗船、スエズで英船・ラングーンに乗換えたりしながら、元治元年(1864年)7月18日午前8時にピー・オー会社所属・ガンジス号で横浜に到着したのであった。可軒さん、本当にお疲れ様でした。 ――と言いたいところだが、2、3年は欧州にいるはずの可軒さん等が半年かそこらで帰ってきたことにより、使節団を出して朝廷に攘夷アピールの真っ最中だった幕府は驚愕。外国奉行や目付などを相次いで横浜に遣わし、香港なり上海なりに暫く身を潜めよという訓令を出し、遂には若年寄の立花出雲守までもが自ら横浜に急行して可軒さんの江戸入りを止めようとするも、開国の情熱に燃える可軒さんはそれくらいでは屈せず、馬を飛ばして東上した。途中の生麦村で竹本隼人正、栗本安芸守(「ふらんすお政」に登場する栗本鋤雲)が阻止しようと待ち受けていたが、可軒さんの心に灯る炎は誰にも消せなかった。…とはいえ、登城を見合わせることには成功し、ひとまず可軒さん宅に落ち着いて差出すべき建白書の内容などについて話しあった。 可軒さんが何を仕出かすか計り知れないので、幕府はその当夜、可軒さんを免職処分としたうえで知行半減、隠居、自宅謹慎(蟄居)の懲戒処分を下した。また23日には河津伊豆守、河田相模守や田辺さんまでもが免職のうえ逼塞または閉門の罰に処せられたのであった。 参考文献・明治文化研究会 [編]『明治文化研究 第2集』(日本評論社)昭和43年 高橋邦太郎『悲劇の大使――池田筑後守事蹟考』・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年
2024.06.23
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前回、4月9日から談判が始まったと書いたものの、どうも正式な会談は5月7日から7回に亘って行われたらしい(9回説も有)。4月9日は忘れてください 外務省で行われた会談の出席者はというと、日本側は正使・池田筑後守(可軒さん)、副使・河津伊豆守、目付・河田相模守の三代表に外国奉行支配組頭・田辺太一に通訳官のブレッキマン(F. Blekman)。仏国側は外務大臣のド・リュイス(Édouard Drouyn de Lhuys)と書記官1名であった。 第1回:5月7日15時~17時。文久3年(1963年)9月2日に起った井土ヶ谷事件(攘夷派浪士によるフランス人士官殺傷事件)の被害者となったカミュ少尉(J. J. Henri Camus)に対する賠償、生糸輸出禁止に関する件など。対長州策についても仏国側から援助の話があった模様。 第2回:5月11日15時~17時。可軒さん「大君が庶政を司り、兵馬の権を握っているが、外国と違い政事を助言する天皇がいて、国政の可否を詔諭し、その下の大名に米国との条約締結に異議を唱える者がいて、これを抑制すれば内乱の恐れがある。幕府は万難を排して条約を締結したが、天皇はそれを嫌い、外国人を国外追放せよとの命令を将軍に下した。大君は二度も京都に行って天皇の意志を和らげようと努力したが、反対勢力は天皇側について生麦事件等、数々の事件を起こした。これを放置したなら、この上いかなる事態を生じないとも計り知れない。この際どうしても、一時横浜鎖港を行って攘夷主張の鋒先を逸らしたい、それが今回の遣欧使節の使命である」。しかしド・リュイスは鎖港には絶対に応じ難いことを断言し、1862年条約(※1)不履行の賠償として大阪、兵庫(神戸)の2港の開港を要求。 第3回:5月17日13時25分~14時15分。ド・リュイスは横浜鎖港絶対反対、横浜、大阪、兵庫(神戸)を自由港にすることを提議。可軒さん「その件は即答致しかねる」。ド・リュイス「1858年の条約(※2)の履行が延びている以上、この違約に対して3港の自由港化を仏国は武力に訴えても履行させなければならない」可軒さん「自由港にすれば政府の収入が皆無になる故、一時にそうすれば各国と貿易をしても利益がないから、これは承引できない。そこで関税の引下げを現に行っているのである」話題は下関問題に移り、ド・リュイスは長州候が単独で行ったにせよ大君にも責任がある、と幕府に10万ドル、長州候に4万ドルの賠償金を要求。 会談が暗礁に乗り上げた形となり、可軒さんは打開策に腐心した。と、そこへひょっこりシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)が現れた。使節団の仏国来着を新聞で知り、汽車で駆けつけたのだった。親日・知日家で、ド・リュイスと別懇の間柄であるシーボルトは使節の苦境を聞いて大いに同情し、ド・リュイスと私的に会って日本のために種々と弁護の老を獲ってくれたうえ、可軒さんに種々の局面打開策を授けてくれた。可軒さんは鎖港の不成功を知りながらもシーボルトの意見を容れて次の会談に臨んだ。 第4回:5月28日14時~16時30分。カミュ少尉の賠償、仏国へ留学生を送る件等(シーボルトから授かった案)は両国の意見が一致するも、鎖港については前回と同じ。可軒さんが秘密会談を提案し、そこで下関問題について話し合われて前回の要求額の支払を承諾。ド・リュイス「下関海峡に関しては、仏国政府は自国海軍をもって航路開行を確保する。大君にはこの難局を惹起した一大名に御自ら命令に服従させることを重要と見做されるならば、この挙に御援助を賜りたい」可軒さんらはこのために約定を結び、これに調印し、賠償についても取極めを行うと答えた。 第5回:5月28日14時30分~16時15分。あれッ!? 前回と同じ日!? 出典元の書籍にそう書かれているので、そのまま書き写しておく。日本側「日本の当面する騒然たる物情を沈静させるために大君はきわめて慎重な考慮をもって、横浜を一時的に閉鎖し、その代償として長崎、函館両港では既結条約の通り仏国に対して関税撤廃を行い、商館の移転費用は幕府で弁償する。その代わり横浜鎖港を認めてほしい」。ド・リュイス「要求する三港の関税撤廃は過去に蒙った損害の補償であって、新しい租界と同価値のものではない。恐らく他国もこれには同意しまい」。日本側はこの考えの正当であることを力説し、「この交換条件が受諾されなければ日本に起る騒乱を防げない。もしこれが容れられたら仏国の好意に対して、我等が信ずるが如く世論は容易に信認するだろう」と言い、確かにこの要求は条約違反であると陳謝しつつも、「敢えてこれを懇願しなければならないのは、ただただ仏国の懇情に縋る他はない、日本の危急存亡は一つにここにかかっているからである」と訴えた。しかしド・リュイスは日本側の懇情を斥けた。なおも日本側は鎖港について迫ったが、膠も無く拒絶された上、留学生を送ってくれば厚遇すること、日本の必要とする武器の譲渡と購入希望軍艦選定のためのリスト作成等を提言してきた。 可軒さんらが使命が達せられないで帰国することの切なさを訴えると、ド・リュイスは卿らの失敗は幕府の要求がそもそも不可能なことにあるのに、度々の会談で誠に全力を尽くした。長い外交官生活の間、幾多の老練な外交官が自国の利益を擁護するため巧妙な手腕を弄し、死力を尽くすのを見てきたが、若き大使・可軒さんが、それらと優るとも劣らない才幹、固執をもって主張をまげなかったと賞揚した。 第6回:6月10日13時30分~。可軒さん「横浜鎖港が成らない以上、他国を訪問することは無益と信ずるので、このたびの使節としての使命は終わったものとして帰国する決心をした」。パリに於ける交渉によって生じた「パリ約定」の各項目について、相互に逐条検討した。 第7回:6月20日14時~。「パリ約定」の日・仏・蘭語の条約文にそれぞれ調印。可軒さんはド・リュイスに明日パリを出発して帰国する旨を告げ、滞在中の好意を感謝し、別れの挨拶をした。ド・リュイスは会談を重ねるうち、この青年使節に次第に好感をもってきたらしい。愚直なまでにひたむきで純情な可軒さんが、この残酷な使命を帯びて健闘したことを思いやりながら堅く握手して談判は終了した。 うんうん、本当によく頑張ったよ可軒さん… それにしても「いらすとや」さんにシーボルトのイラストまであることに驚いた。充実度が凄い。ちなみにシーボルトはこの時68歳、故郷のヴュルツブルクに隠棲していたが新聞で見てわざわざ掛け付けてくれたのだとか。 ※1、2に関しては、万が一、興味を持たれた方のためWikiさんにリンクを貼っておくので参考にしてくだされ。 ※1. 両都両港開市開港延期問題、パリ覚書(Link先はロンドン覚書) ※2. 日米修好通商条約 参考文献・明治文化研究会 [編]『明治文化研究 第2集』(日本評論社)昭和43年 高橋邦太郎『悲劇の大使――池田筑後守事蹟考』・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年
2024.06.23
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話は少し前に遡る。池田可軒(長發)さん率いる横浜鎖港談判使節団は文久3年12月29日(1864年2月6日)に仏国軍艦に乗り込んで出発したのだが、その2日前の27日に横浜表へ向かっている。同日、徳川家茂が乗船した軍艦・翔鶴丸も京に向かって品川を出発していた。 前年に続き2度目の上洛を果たした家茂に対し、孝明天皇は文久4年1月27日に次のような宸翰を下賜された。家茂の奉答書と合わせて書き写しておく。 「朕不肖の身を以て、夙に天位を踐み、忝くも萬世無缺の金甌を受け、恒に寡德の先皇と百姓とに背ん事を恐る、就中嘉永六年以來、洋夷頻に猖獗來港し、國体殆どいふべからず、諸價沸騰し、生民塗炭に苦む、天地鬼神其れ朕を何とか云ん、嗚呼、是誰の過ぞや、夙夜是を思て止む事能はず、嘗て列京卿武將と是を議せしむ、如何せん昇平二百有餘年、威武を以て外寇を制壓するに足らざることを、若し妄に膺懲の典を擧んとせば、却て國家不測の禍に陥ん事を恐る、幕府斷然朕が意を擴充し、十余世の舊典を改め、外には諸大名の參覲を弛め、妻子を國に歸し、各藩に武備充實の令を傳へ、内には諸役の冗員を省き、入費を減じ、大に砲艦の備を設けり、實に是朕が幸のみに非らず、宗廟生民の幸也、且去春上洛の廢典を再興せし事、尤嘉賞すべし、豈料んや藤原實美(※1)等、鄙野匹夫の暴説を信用し、宇内の形勢を察せず、國家の危殆を思はず、朕が命を矯て、輕卒に攘夷の令を布告し、妄に討幕の師を興さんとし、長門宰相の暴臣の如き、其主を暴弄し、故なきに夷舶を砲撃し、幕使を暗殺し、私に實美を其本國に誘引す、如此狂暴の輩、必罰せずんばある可らず、然と雖も、是朕が不德の致す所にして、實に悔慙に堪ず、朕又惟ふ、我所謂砲艦は、彼が所謂砲艦に比れば、未慢夷の膽を呑に足ず、國威を海外に顯すに、(此處脱誤あるがごとし、未だ校正に暇あらず、)頻に願ふ、入ては天下の全力を以て、攝海の要津に備へ、上は山陵を安じ奉り、下は生民を保ち、又列藩の力を以て、各其要港に備へ、出ては數艘の軍艦を整へ、無飫の醜夷を征討し、先皇膺懲の典を大にせよ、夫去年は將軍久く在京し、今春も亦上洛せり、諸大名も亦東西奔走し、或は妻子を其國に返らしむ、宜也、費用の武備に及ばざること、今よりは決して然るべからず、勉て太平因循の雑費を減省し、力を同し、心を專にし、征討の備を精鋭にし、武臣の職掌を盡し、永く家名を辱る事勿れ、嗚呼、汝將軍、及各國の大小名、皆朕が赤子なり、今の天下の事、朕と共に一新せんことを欲す、民財を耗す事なく、姑息の奢をなすことなく、膺懲の備を嚴にし、祖先の家業を盡せよ、もし怠惰せば、特に朕が意に背くのみに非ず、皇神の靈に叛くなり、祖先の心に違ふなり、天地鬼神も、亦汝等を何とかいはん」 これに対する家茂の答奉「宸翰の叡旨、御即位已來、皇國の禍禍を、悉く聖躬の上に御反求被爲在候勅諭にて、誠以恐惶感泣の至奉存候、偖勅諭にて、幕府從前の過失を自反仕候得ば、多罪の至奉存候、臣家茂、不肖の身を以て、徒に重任を辱め、紀綱不振、内外の事、宸襟を奉煩候而已ならず、去春上洛の節、攘夷の勅を奉ずといへども、事實遂に難被行、横濱鎖港の談判すら、未成功の期限も難量、折柄、再命に依て上洛仕候上は、極而逆鱗に觸れ、嚴譴を可相蒙と、素より覺悟仕候處、意外の宸賞を奉蒙候而已ならず、至仁の恩諭を以て、臣家茂並大小名を赤子のごとく御親愛、將來を御戒飭被爲在候條、臣家茂一身の上に取、海岳の鴻恩、實以可奉報答さ樣も無之、自今以後、萬事の舊弊を革め、諸侯と兄弟の思をを成し、心力を合せ、臣子の道を盡し、太平因循の冗費を省き、武備を嚴に内政を整へ、生民を蘇息致し、攝海防禦は勿論、諸國兵備を充實仕、洋夷の輕侮を絶ち、砲艦を嚴整して、遂に膺懲の大典を興起し、御國威を海外に輝すべきの條件、彌々以勉勵仕、乍恐宸衷を奉休度奉存候事に御座候、乍併膺懲妄擧は仕間敷との叡慮の趣は、堅く遵奉仕、必勝の大策相立候樣可仕奉存候、尤横濱鎖港の義は、既に外國へも使節差出候儀に御座候間、何分にも成功仕度奉存候得共、夷情も難計候得ば、沿海の武備に於ては、益々以奮發勉勵、武臣の職掌を固守仕、大計大議は悉く國是を定め、宸斷を奉仰、皇國の衰運を挽回して、外は慢夷の膽を呑、内は生靈を保ち、奉安叡慮、上は皇神の靈に奉報、下は祖先の遺志を繼述仕度奉存候」 孝明天皇「勅答書の趣、横濱鎖港の一條、御請振不分明に付一橋中納言(※2)御諷問候、尤鎖港の成功は、是非共可奏條、更以書取言上の旨被聞食候、猶又御別紙被仰出候通、盡力勉勵可有之、御沙汰候事」 別紙 「横濱鎖港の儀、精々可遂成功、且又諸國兵備致充實、洋夷の輕侮を絶との趣、達叡聞候處、此上は惣國の守禦緊要の事にて、差當り攝海の要港急務の上は、神速其功蹟相顯れ、人心安堵、不經數年、征夷の實相行、奉安叡慮候樣、御沙汰候事」 家茂の答奉「勅答書之内、横濱鎖港の一條、御請振不分明被思召、慶喜へ内々御沙汰の趣承知仕候、然る處、彌々鎖港仕候見込にて外國へ使節差立候儀に御座候間、是非成功仕候心得に御座候、尤も再度蒙聖諭候、無謀の攘夷仕間敷との趣、奉畏候、就ては彌々以沿海の武備充實候樣可仕と奉存候」 ※1.藤原實美 急進的な尊王攘夷派の公家・三条実美。文久3年8月18日に起った八月十八日の政変で失脚し、京都から追放された。慶応3年(1867年)10月に大政奉還が成立し、12月8日に赦免されて復位。 ※2.一橋中納言 将軍後見職にあった徳川慶喜。攘夷拒否を主張する幕閣を押し切り、攘夷の実行方策として横浜港の鎖港方針を確定させた。元治元年(1864年)からは禁裏御守衛総督、摂海防禦指揮となり、慶応2年(1867年)12月に江戸幕府第15代将軍となった。 可軒さん達が小便壺で手を洗ったり、スフィンクスをバックに記念撮影をしていた頃、日本では天皇と将軍の間でこのような書翰が交わされていた。 攘夷を即日実行出来なかった言い訳に、孝明天皇からは一切言及のなかった横浜鎖港の一件を何故かいきなり提起する家茂。天皇に阿(おもね)って書いたというが、端から横浜鎖港は不可能だって分かりきっていたはずなのに…。 注目の鎖港談判、果たしてどうなる!? 参考文献・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年 Thanks, illustrations by 「いらすとや」さん
2024.06.22
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池田可軒(長發)さん率いる横浜鎖港談判使節団一行34人は文久3年12月29日(1864年2月6日)に仏国軍艦ル・モンジュ号で日本を出発した。軍艦の甲板には好意のつもりで日本人用に畳を敷いて廐のようなものを造ってくれていたようだが、これはこれで大変だったらしい。 また食事にも困ったようで、パンは何やら気味が悪いし、牛肉は臭気がどうも…と洋食が合わず暫く絶食状態であった。そんな中、雑役の青木さんが持参していた好物の餅を食べ終えて船上に出たところへ可軒さんが一人、青ざめてひょろひょろと、まるで幽霊のように現れて「せめて粥にても欲しく思えども我が家来とても死人の如く物の役には立たず、そちの働にて空腹をしのがせてくれ」と声を掛けた。「委細かしこまり候」と日本から持参した囲い米を少し取ってきた。そして体を縄で帆柱に括り付けて海水を釣瓶で汲み上げて粥を作り、可軒さんを始め皆に振舞ったところ乞食の如くがっついて食べたという。 この使節団、通訳のブレッキマン(F. Blekman)を除いた日本人全員が海外初体験であった。 翌年1月6日上海着。ここでも、食事の際に使節の一人がフォークとナイフを手に持って鼻の所に手が来ると、どうも臭う。そこで仏語の通訳官として随行していた塩田さんに “どうも自分の手が臭いんだけど、どういうこと!?” と聞いた。「御前は食事の前に何方にいらっしゃったか」「うむ、雪隠に行った。それから手を洗ったのだが、どうも此処に来てから臭くてならぬ」塩田さんがその手を嗅いでみると、正しく小便の臭いがする。「何処でお洗いなさった」「手水場で洗った」日本人の習慣として雪隠に行けば手を洗うに決まっているので、どこか手を洗う所がないかと見ると棚の上に壺があったので、両手を挿し込んで手拭で拭いていたのだが、その壺はまさかの小便壺であった。それが分かって大笑い大騒ぎとなったものの、悲しい哉、御奉行始めいずれも小便壺で手を洗っていたことが判明したのであった。 また従者の一人が廊下で詩を吟じたところ、宿屋の主人に支那人の乞食が来たと勘違いされて、大声で追い払われそうになったという。 1月13日に仏国郵船ヘータスツ号に乗込み、翌14日出帆。17日香港着、アルベートル号に乗換。船中の浴室では自動で湯が出て水温調節可能なことにビックリ!こんな便利なモノを体験しちゃったら、いかに攘夷派の可軒さんでも開国したくなっちゃうよ…。 香港を出てからは次第に暑くなってきたので、荷物倉を開いて夏物の衣類を出していたところ、行方不明になっていた可軒さんの酒樽を発見。夜食時に皆で日本酒とデザートのアイスクリームを楽しんだのであった。 23日西貢(ベトナム)着、初めて馬車に乗る。26日新嘉坡(シンガポール)着港、27日出帆。 2月3日錫羅島(スリランカ・セイロン島)着。ここが彼の天竺かぁ~と我も我もと上陸し、「生きながら西方浄土へ入たる心地にて感涙袖をぬらしけり」と有難がる人もいれば、多くの廃寺や粗悪な仏像などを目にして失望する者もいたという。その帰りに乗ったカノー(丸木舟)の水夫が金を要求して本船へ着けようとしなかったため、大喝一声、抜刀して棒を切ってみせたところ、水夫は驚いて舟を本船に着けたのだとか。 5日仏船エルショウに乗り換えて紅海へ。この頃にはすっかり船旅にも慣れ、船中で闘詩句会を開催。田辺さん、杉浦さん(杉浦 譲。後に郵便制度の基盤を整備した)、相模守、可軒さん佳句多し――とのこと。13日亜丁(アデン)着、上陸してみたものの土地の悪しきと人気の狡猾さに閉口。 19日蘇士(エジプト・スエズ)上陸、初めて汽車に乗ったときのこと。4時間で47、8里(1里=約3.9km)進む汽車は、途中にトイレ休憩があったのだが、そのことを知らなかった或る者は車中で大便を山盛りにしてしまったそうな。夜半にカイロに着き、国王の別宮泊。23日に使節並びに調役連は国王に謁見。それから市中の浴場へ。その後、葬式や婚礼も見て、パナニ(バナナ)を初めて食す。西瓜と梨子とを一つになしたる如くなり風味至ってよろし。28日にはピラミッドを見物。更にスフィンクスをバックに記念撮影。 3月1日には国王より祝宴が開かれ、客間の明るさに驚きを隠せず。3日に出発して22時にアレキサンドリア着。4日14時半に出発し、仏汽船ペルリン号に乗り込んだ。 3月10日15時仏国マルセイユ着。その美麗宏壮なのには千感万嘆ただもう呆れるばかり。船から見えただけで感極まって泣いている。やっと我に返って、同じ人間でありながらどうしてこの返の有様と我が日本とはこうも違うのかと憤慨悲憤するのであった。 マルセイユ市長が訪れ、陸上には歓迎の兵隊がおよそ15,000人。いずれも剣を抜き持ち、騎兵も多人数で待ちもうけたる有様に驚く。上陸後、歓迎委員が帽子を脱いで挨拶するので、見習って挨拶しようも陣笠の紐が解けず大弱り。用意された馬車10輌に分乗し、ホテルに到着してまたまた宏壮さにビックリ!博物館や公園、芝居も見物。夜には市中の明るさに驚きを隠せない。そんな中、使節団の一員である横山さんが体調不良でマルセイユに残ることに(エジプトで黄熱病に罹り、1864年4月26日にマルセイユで死去)。 15日にマルセイユを出発、途中でトンネルを通って驚いたりしながら夜にリオンで休憩を挟み、16日朝やっと巴里(パリ)到着。何処の停車場で飯を食うと言うと、停車場に着いた時分にちゃんと仕度が出来て待っていることに驚く一行。電信のあることなど知らなかったのだ。パリ・グランドホテルの宏壮さはマルセイユの比ではなく、水洗トイレに不思議がり、寝室が立派過ぎて寝られなかった。 3月20日に外務省で外相を訪問し、列国外交団を歴訪。その時に可軒さんは紋章の入った仏和両文の名刺を作成している。 “Ambassadeur de L. M,taicoun du Japan(大君の使節 池田筑後守)” その後(28日?)、皇帝ナポレオン3世(Napoléon III)に謁見し、国書を捧呈。具足、大和錦、太刀、蒔絵の箪笥等を贈り、その他の官吏に縮緬などを贈って非常に珍しがられたという。 劇場に招待されたり、遊所(廓)に出掛けたり、動物園で獅子やら河馬やらに驚いたり。可軒さんと河津伊豆守は造船所見物にも出掛けている。 そしていよいよ4月9日から談判が始まった。どうなる可軒さん!? 参考文献・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年・尾佐竹猛『幕末遣外使節物語――夷狄の国へ――』(岩波文庫)平成28年・榎本 秋『世界を見た幕臣たち』(洋泉社)平成29年
2024.06.21
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幕末のイケメン侍、またはスフィンクスと記念撮影した侍として人気のある池田可軒(長發)さんは、27歳にして横浜鎖港談判使節団の正使を務めた英俊としても知られている。この使節団の目的は、開港場だった横浜を再度閉鎖する交渉を行うという到底実現不可能なもので、幕府としても無理を承知のうえで朝廷(や世間)に対して時間稼ぎのために送り出した使節団であった。 そんな過酷で悲惨な役目を何故可軒さんが負うことになったのか、今回はその経緯をざっくりと記したうえで、渡欧に先立って奉じた上申書を御紹介。 嘉永7年(1854年)の日米和親条約により下田と箱館が、そして安政5年(1858年)の日米修好通商条約(安政五カ国条約)により、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)を開港・開市することとなり(神奈川開港6か月後に下田は閉鎖)、各開港地に外国人居留地を設置することが決められた。(他にも領事裁判権の規定、関税自主権の欠如といった不平等条約であった) しかし日米修好通商条約調印に際して孝明天皇は強く反対し、幕府が勅許を待たずに調印。これが後に安政の大獄や桜田門外の変へと繋がっていくのだが、文久2年(1862年)11月に急進的攘夷論者の勅使・三条実美が将軍・徳川家茂に「醜夷を拒絶すべし」と破約攘夷の実行を求める勅書を手渡し、家茂は勅書を受け入れて来春に京都に上り攘夷の詳細を説明するという回答書を提出。文久3年(1863年)3月、上洛した家茂(将軍の上洛は寛永11年(1634年)の徳川家光以来229年ぶり)に「君臣の名分を正し、人心の帰嚮を一にして攘夷の成功を期せしむ」と勅諭を述べた孝明天皇は、後日行幸して攘夷を祈願。4月20日、家茂は攘夷の実行を5月10日と決した。これを受けて翌日、天皇から諸大名に「軍政相整え、醜夷掃攘これ有るべく」とする命令が出される一方、同日家茂からは「五月十日拒絶に及ぶべき段、御達し相成り候」(5月10日から条約破棄交渉を実施する)とした上で「(外国の)襲来候節は掃攘致し候様、致さるべく候」とあくまで先方からの実力行使があった場合だけ応戦するようにとする命令がやはり諸大名に下されていた。 そして迎えた5月10日。「譬皇国一端黒土成候共開港交易ハ決而不好候(国土が焦土になっても開港交易は認めない)」とする宸翰が発せられ、長州藩は関門海峡を通過した米国船に砲撃を加え、その後も外国船への砲撃を実施。7月には英国の軍艦が薩摩藩に対して生麦事件(文久2年8月に生麦村で薩摩藩士が英国人を殺傷した事件)の犯人引き渡しと賠償金を求めて鹿児島に来港し、渉決裂に伴って薩英戦争が勃発した。 その後も攘夷実行や破約を求める勅書が諸大名に発せられたが、孝明天皇は自身の意思と無関係に急進的な勅書が出ることを憂慮して、急進的攘夷論の公家を朝廷の中枢から追放(八月十八日の政変)。これらのごちゃごちゃにより事実上攘夷勅命は無効化したものの、攘夷自体は放棄しておらず、ここにきて幕府は横浜鎖港談判の使節派遣を決めるのである。(以上、ざっくりとWikiさんより) 万が一にも談判が成功して鎖港できれば奉勅の一端として幕府の尊王が実証出来るし、不成功だったにしても各国を歴説して回るのに1、2年は掛かるだろうから、その間に世間の事情も変わるだろうという当座凌ぎの策を取ることにしたのだ。 当初は若年寄の秋月左京亮や、罷免された前老中の小笠原図書頭を使節に任命しようとしたそうだが、結局正使を務めることになったのが池田筑後守、我らが可軒さんであった。そして副使にはベテランの河津伊豆守、目付に河田相模守が選ばれた。 上 申 書 今般、私共、佛英其外國々へ、鎖港之儀に付爲御使罷越候に付而は豫め被爲施御處置之次第、(長州處分之事、尤其内のヶ條たり、)申置候趣も有之、近々御執行の運に相成候處、一体御用筋、御條約面に相觸れ候儀、及談判候事にて固より正大公明の議論を以て、執爭折服致兼候儀に御座候間、彼方氣受尤肝要に候處、各國へ被爲對、此迄の處、殺傷等引續有之、御殿山公使舘も、折角經營候處、燒失致し、然も暴徒の放火にかゝり候との風聞も相聞え、夫是交際上不都合の事共差重なり、長州發砲の始末におよび、事勢切迫、御懸念不少に付而は、各國公使はじめ、江戸表出府も御差止相成、先は横濱へ御閉置被成候も同樣の御待遇、其上京師の御模樣も自然外國人承り込罷在、當夏中御條約に全違背相成候鎖攘の御書簡、圖書頭殿御在職中被遣、其儀各國公使より銘々本國政府へ申遣候は勿論の事可有之、尤も先般右書簡は御取戻しにて御取消の趣被仰遣候得共、彼是議論申立候儀も有之、右等の廉により推考仕候えば、如何樣御懇親の旨、言辭を以て説得仕候とも、各國政府にては、其廉事實に不相露候上は、此等事情の委曲摸通り不申、定而御交際之御義理に相外れ、御懇親の御情合無之事と而已、一概に存取り、詰り鎖國の舊に可被爲復御目論見に可有之樣、猜疑の念差含候は必定にて、既に長州發砲の儀に付而も、政府の御處分を手ぬるく存取、直に各國より、軍艦差向け候趣も相聞え候、其兵機を未發に収め候儀も、僅に今般御使の談判賴有之候間、いづれにも先頃軍艦練所において、御手前樣方、亞蘭兩國公使に御談判被爲在候通り、御和親の御義理、御懇篤の御意味を押立、御國内の形勢、無餘儀事情委曲説明および、一時人心鎭靜方の方畧等談判いたし候趣を以ッて、自然鎖港の儀に相渉り候心得にて御座候間、彼方氣受不取失、横濱貿易筋、各國公使御接待振等、事實に御懇親の廉相見え候樣御仕向、公使共より政府へ非難申立候口實無之樣被成遣不申候ては、談判の御趣意相貫兼可申而已ならず、多少の行違相生じ、今般御使被遣候御趣意を以、敵意被爲任候樣存取、却て兵機を促し御條約御違背の名義に被相唱候て、各國連衡軍艦差向け、手詰の議論等に及間敷とも難申候、左候節は、私共一命固より覺悟候事には候得共、事の曲直、理の順逆、悉とく御趣意の筋とは相反し、却て一時疎暴過激の輩、自己の憤意相霽し可申ため、無謀の浪戰におよび可申端緒を啓き、御國事を誤り、兵禍の結ぶところ、慘毒百萬の生靈に及び、追て御國是御据り候後にいたり候も、取戻し不相成、無上の御失擧、天下永世の訾詬可受儀と尤も以心配仕候間、私共出帆仕候後、彼方談判筋は、私共舌頭にて相纏り可申ものと思召されず、前斷申上之通り、横濱貿易も衰頽不致、(此時桑を植えるを禁じ、種紙の出港を制限する等の議あるを以てなり、)公使御待遇向も、尚更御懇親被爲盡、中外相照應候而、不都合の事出來不申樣御處置御座候樣仕度奉存候、依之此段申上候 「私共一命固より覺悟候」と死を賭して悲壮な覚悟で渡欧した可軒さんなのであった。 参考文献・田辺太一『幕末外交談』(冨山房)明治31年・田辺太一著 坂田精一[訳・校注]『幕末外交談』2(平凡社東洋文庫)昭和41年・小林久麿雄『幕末外交使節池田筑後守』(恒心社)昭和9年
2024.06.19
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27歳にして遣欧使節団の正使を務めた幕末のイケメン侍、池田可軒(長發)さん。その可軒さんがちょこっと登場する小説、村松梢風著「ふらんすお政」は昭和8年(1933年)に汎文社から出版された。 前々回、前回に引き続き、可軒さんの登場シーンを中心に話を紹介しよう。 使節一行を軍艦で見送ったモンブランであるが、今回の使節派遣の一件はモンブランが打った芝居に過ぎなかった。使節の成功、不成功は彼にとってそれほど重要ではなく、これだけの大仕事を成し遂げたことにより本国・仏国に与える印象――その印象を利用して更に大きな仕事が出来ると確信していた。 モンブランは領事館へ行き、総領事レオン・ロセス(Léon Roches)、小栗、栗本、既に仏国から招聘している技師ウェルニー(François Léonce Verny)と製鉄所(実は造船所)問題について種々協議した。それまで臨時雇だったウェルニーは横須賀製鉄所首長を任命することになり、モンブランは製鉄所関連の用品や原料を仏国から仕入れる一切の権利を与えてほしいと要求し、認められた。 ウェルニーと一緒に領事館を出たモンブランは、彼にこれから羅紗緬のお浅の所に帰るのかと話し掛けた。お浅はウェルニーの子を身ごもっていた。しかしウェルニーはもう彼女には興味が無いと言い放った。その頃、お浅が生まれてくる赤子の着物を縫っている所へ父親が訪ねてきた。ウェルニーから手切金を受け取ったし、眼色毛色の変わった餓鬼を生んだら世間に顔向けできないから生まれる前に始末を付けろ、とのことだった。 翌朝、お浅の身投の知らせを聞いたお政とモンブランは驚きつつも、お浅の引取を拒否したウェルニーに代わって自宅に寝かせて通夜をし、翌日に埋葬した。徹頭徹尾顔を出さないウェルニーに対してお政は敵意を持ち、ウェルニーの方からもモンブランやお政に対して感情的な隔たりが出来た。 フランス・クラブでモンブランとカトリック布教士メルモッチ僧正(Eugène-Emmanuel Mermet-Cachon)に対する送別の夜会が行われた。そこでウェルニーから踊りを申し込まれたお政は、哀れなお浅の最期を思い出して彼を激しく非難した。モンブランもお政に同意したため、ウェルニーは決闘を申し込んだが、ロセスに別室に連れて行かれた。それから2、3日後にモンブランは上海行きの汽船に乗った。 使節一行がパリに行ってからモンブランに対する待遇がまるで変わって、邪魔者扱いをし始めたという。日仏同盟の画策者である彼の信用が急転直下に失墜するとは、モンブラン自身にもお政にも意外であった。 江ノ島辨財天の祭礼に来ていた英国軍人2人が何者かに斬り殺された。斬ったのは間宮で、逃げる途中に見つけた洋館に忍び込んだものの、そこには赤ん坊が6人も寝ており、何と偶然にもお政の家だった。江ノ島の事件を既に知っていたお政は、間宮に暫くここにいて身を隠すよう勧めた。お政は羅紗緬が生み捨てた混血児達を拾って育てることにしたのだという。これはお浅の事件があった時から考えていたことだった。その夜は間宮も疲れていたので洋館で休んだものの、翌朝にお政が寝室を覗くと既にもぬけの殻だった。 モンブランが大山師だという評判が日本でも、仏国でも同時に立てられた。横須賀製鉄所の材料請負の権利を一旦モンブランに与えておきながら、幕府は更にその後から、製鉄所の主任に命じたウェルニーに対して材料購買の権利をも一任したのだった。 モンブランは非常に憤慨してパリに滞在中の池田筑後守に面会して抗議を申し込んだが、筑後守は言を左右にして応じなかったばかりか、最後にはモンブランに対して絶交状を送って今後幕府との関係を断つことを宣告した。モンブランは激怒した。「自分は、幕府から重大な任務を受けているのみならず、幕府の御用商たる特許をも握っている。貴下は幕府の一属僚に過ぎないので、自分が老中から直接大任を受けている事を知らぬのである。貴下が勝手に絶交されても、自分は貴下に束縛せられる者ではないから、自分は依然として幕府の高等政策に参与し、且つこれを運動する重要な任務を帯びているのである」 漸く筑後守は「貴下と幕府との関係を断つことは自分の一存ではなく、幕府からの新しい指令に基づくものである」と答えて、その後は何と言っても応じなかった。 その後モンブランが煩悶懊悩の日々を送っているところに、一人の薩摩人がやって来た。藩の内命を帯びて政治と軍備を研究する名目で、10人程で欧州に来ているという。この男の口から出る熱烈な議論に心を動かされた彼は、薩摩藩に協力することにした。 モンブランは新しい立場に立って活動を開始した。それは嘗て彼が幕府のために献策したあらゆる計画を片っ端から破壊し、幕仏同盟の進行をも妨害した。 モンブランの暗中飛躍は物凄く、出来そうに見えた幕仏同盟は間際になってナポレオン三世が『同盟は、幕府――日本は仏国の保護を受け、保護国たるに満足すること』という条件を明確に条文に記載すべしと外務当局に厳命を発したので、交渉は急に頓挫してしまった。 鎖港談判は表面の名目で、鎖港は到底出来難いことは来ない前から知れていたことで、その代わりに幕府同盟を首尾よく締結して帰るというのが筑後守の唯一の任務だった。然るにその後は一向談判が進行せず、到頭何もかも不得要領のままで池田筑後守は帰国することになった。 筑後守が横浜へ到着した時の状況は真に悲惨を極めた。幕府は彼に対して、鎖港談判の使命を遂げなかったことを表面の理由として、上陸禁止を命じたのだった。 筑後守は呆然となったが、憤激のあまり、命令に服従せず敢然として上陸してしまった。すると幕府では狼狽して、今度は台命と称して筑後守の江戸入りを禁じ、外国奉行の職を解き、永の蟄居を申し付けたのだった。 モンブランは筑後守より一船遅れて何食わぬ顔をして帰国し、お政の待つ洋館には再び明るい橙火と笑い声が満ちた。 徳川慶喜の顧問を務める砲兵少佐ブレナンは、滞在中の金沢で薩長討伐の軍略と地図を書き終えて眠りに付いたが、何者かに盗まれてしまった。盗んだのは盗賊の八左衛門で、彼はそれをお政に届けた。意味も分からずそれを受け取ったお政がモンブランに見せると、彼は躍り上がって喜んだ。モンブランに和訳された草稿は、薩摩の隠密の手に渡った。 仏国総領事だったロセスの昇進祝賀会が公使館で開催され、大勢の来賓が集まった。そこへ関東赤心隊の浪人3人があちこちに火を放った。事前に遊郭の羅紗緬たちにも協力を依頼しており、火事のドサクサに紛れて大挙して押し寄せ、異人の首を一人残らず取る計画だ。強風に煽られて広がり続ける火事はたちまち居留地を含む横浜を炎で包んだ。 モンブランとお政は何とか逃げ出していたが、ウェルニーが血まみれで倒れているのを見つけたモンブランは彼を抱き起こそうとした。しかしウェルニーの手には拳銃が握られており、モンブランは腹部を撃たれて倒れた。ウェルニーを斬ったのは間宮だったが、彼も駆けつけた軍隊に見つかり、一斉射撃を受けて倒れたのだった。 お政は混血児を多く収容していることで知られる、ささやかな孤児院を運営していた。そして二坪ばかりの墓地を購入し、モンブランと間宮の石碑を建てていた。 お政が墓参りに訪れると、新しい花が上げられ、線香の灰がなま新しくこぼれていた。寺男に尋ねると、50余りの旦那だと言う。誰だろう…?ふと思い当たったお政は顔に傷のある男だったかと尋ねると、そうだと答える。やはり八左衛門であった。お政は二つの墓をゆっくり拝んで、夕日の中を家路に着くのであった。 ――可軒さんの登場シーン以外は端折りまくっているので話の内容はぐちゃぐちゃだが、まぁざっとこんな物語だ。 正直、可軒さんはそれほどいい役ではないのだけれど、登場する小説は珍しいので(知らないだけでいっぱいあるのかも!?)3回に亘って取り上げてみた次第。可軒さんの研究はまだまだ続く。
2024.06.16
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27歳にして遣欧使節団の正使を務めた幕末のイケメン侍、池田可軒(長發)さん。その可軒さんがちらっと登場する村松梢風の小説「ふらんすお政」は、昭和8年(1933年)に汎文社から出版された。 前回では物語の前半をざっと紹介したので、今回はその続きから。約90年前に書かれた遣欧使節団に関する記述が興味を引いたので、少し(少し…!?)引用させていただく。 間宮から寂れた古寺に呼び出されたお政は、2年ぶりに間宮と再会した。互いの近況等を話しながらも、お政は相手がどういう気持ちで呼び出したのかを早く知りたいと思い、一方の間宮は自分の冷静な態度が段々壊されて、異人に対する憤慨よりも女の誘惑の方を強く感じだしていた。間宮はモンブランがどういうことを画策しているか話してほしい、間者になってほしいと言ってきた。お政がその頼みをきっぱり断ると、間宮の仲間である尊皇攘夷派の浪人が4、5人やって来てお政を斬り捨てようとしたが、浪人組を牛耳っている男はお政を解放した。 文久3年(1863年)12月29日の横浜港は大変な騒ぎだった。それは幕府が鎖港談判の使節として仏国に派遣する池田筑後守の一行が出発の日だった。 幕府が海外へ使節を派遣するのはこれが3度目だった。第1回は万延元年(1860年)の新見豊前守一行の遣米使節、第2回は文久2年(1862年)の竹内下野守一行の遣欧6ヶ国への使節、第3回が即ち今回の遣仏使節である。 前2回の使節は条約批准交換、国書奉呈等の目的を持って派遣されたものだが、今回の鎖港談判使節なるものはそもそも何のために行くのだか、その目的が甚だ曖昧であるというので、当時においても、後世でも疑問とされているのだ。幕府は欧米諸国と条約を締結したが国論はそれと反対に傾いて、文久3年には朝廷は期日を定めて攘夷を断行すべき厳命を幕府に対して降した。徳川幕府が内外の政局において最大の危機に直面したのがこの年だった。幕府はやむを得ず横浜で鎖港談判を開こうとしたが、外国側は受け付ける道理がなかった。その結果、ナポレオン三世(Napoléon III)へ直接使節を派遣して鎖港の交渉を行わせるというのが今回の使節派遣の口実であって、使節出発と同日を以って将軍家茂が再度の上京をして攘夷鎖港の延期を朝廷に奏請することになった。然し横浜においてすら全然可能性のない鎖港談判が、日本の国情をより理解せざる欧州の地において成立する見込がないことは火を見るよりも明らかだ。しかも条約は諸外国と締結してあるのに、仏国一国だけへ使節するというのがそもそも意味をなさない話だ。だから京都でもこの点について大いに疑議を発し、島津久光等は大反対で、使節を上海から呼び戻すべしと論じたくらいだが、幕府方は承き入れなかった。 疑えば疑える節はいくらでもあるのだった。それより先9月2日に、3名の仏国人が横浜から戸塚へ遠乗りをしようとして井戸ヶ谷村へ差し掛かったとき、突然数名の浪士に襲われて、その内の一人、公使館付士官カミュウルなる者が惨殺された事件があった。当時横浜の居留民全体は非常に激昂して、外人の遊歩区域内においてかかる惨劇を発生せしめたことは許し難い手落ちだから激烈なる手段を以って幕府に当たるべしとの輿論であった。ところが仏国の出先当局は意外に温和な態度で幕府に対し平和的解決を要求したのだった。それで幕府は被害者の遺族に対して2万ドルの見舞金を贈ることになってこの事件は落着し、今度使節がパリへ行ったとき、カミュウル遺族を訪問して弔意を表し、その見舞金を交付することも含まれている用件の一つだった。 要するに、鎖港談判とは表面上の名目に過ぎなくて、使節派遣の目的が他にあることだけは想像するに難くないのだ。 それはともかく、この日、正使池田筑後守、副使河津伊豆守、目付河田相模守等一行34人は、東波止場から多数の官民の見送りを受けて小舟に乗り、更に碇泊している仏国の軍艦モンジュル号に乗り込んだのだった。 幕府の目付で、鎖港談判の委員として去る9月以来横浜詰を命ぜられていた栗本鋤雲は、使節の一行を見送った後、特に用もないので帰路についていると、後ろから外国奉行の小栗上野介に声を掛けられた。 二人は外国奉行役宅へやって来て、小栗は外人接見室に栗本を導き入れた。二人は最初遣仏使節について語り合った。「鎖港などは出来るはずがない。その出来もしない談判に遣られた池田は実際気の毒だよ」と小栗は渋いような顔をして笑った。政局の真の枢機に與っていない鋤雲にはまだ解しかねる点があった。「何のために池田を遣ったんです?」「早く言えば謝罪使さ。仏国の士官を殺したんだから先方へ謝るのが当然だ。しかしそれだけじゃない。一応謝ったうえで、他のことは宜しくお頼み申しますというのが池田の使命ですよ。英国が長州を助ける以上は、こちらは仏国を頼むより外はありませんからね」「それでは帰ってくる時には一体どう言って帰ってくるのです」「それは鎖港が出来なかったと言ってくるでしょう。また、そう言ってもらわねば困る。だから実を言うと、行かぬ先から役目不首尾の罰則まで決まっているようなものだから、およそ今日出掛けた使節ほど馬鹿げた役目はありませんよ」「しかし、もう一つの用件の方は?」「それは無論上手くいくでしょう。しかし上手くいってもこれは秘密だから池田の手柄にしてやることは出来ない」「池田さんはそれを承知で出掛けたのですか」「いや、彼は人がいいからそこまでは考えていないだろう。だから気の毒です」 ――横浜鎖港談判使節団の話は知れば知るほど悲しくなる。可軒さんがあまりに気の毒すぎる。鎖港談判使節についてはこの頃からこういう認識だったのね。本当に可軒さんはよく頑張ったと思う。脳梅毒だか知らないけどそりゃ精神も病んじゃうよ…
2024.06.15
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文久3年(1863年)に27歳にして遣欧使節団の正使を務め、スフィンクスの前で記念撮影したイケメン侍として知られる池田可軒(長發)さん。 昭和8年(1933年)に汎文社から出版された村松梢風著「ふらんすお政」には、その可軒さんがちらっと登場する。 この小説は東京・大阪朝日新聞に掲載されていたものだそうで、渡辺邦男監督によって映画にもなっているらしい。(日活HP参照) 「ふらんすお政」は羅紗緬(らしゃめん)のお政の物語で、羅紗緬とは幕末から明治にかけて日本在住の西洋人を相手に取っていた洋妾に対する蔑称であった。 幕府の大目付を務める3,500石の旗本・土岐丹波守の妾であるお政が、芝居帰りに異国人の暗殺現場を通り掛かるところから物語が始まる。殺されていたのは駐日米国総領事館の通訳・ヒュースケン(Henry Heusken。万延元年(1861年)1月14日に攘夷派の薩摩藩士に腹部を深く斬られて絶命)だった。翌日、丹波守に役者買いがバレたお政は納屋に閉じ込められるも何とか逃げ出し、尊王倒幕派の浪人・間宮 一に助けられる。間宮はヒュースケンを斬った犯人であった。お政は盗賊の八左衛門に預けられるが、(八左衛門に)捕手が来た際に自分を捕まえに来たと勘違いして逃げ出し、知人の伝手で横浜に辿り着いた。 横浜に滞在していた仏国人・モンブラン伯爵(Count Charles Ferdinand Camille Ghislain Descantons de Montblanc, Baron d'Ingelmunster)は美人で教養のある羅紗緬を探してくるよう頼んでいたが、毎日フラフラしているお政に目を付けた蓬莱屋の主人が彼女に声を掛け、お政はモンブランの羅紗緬となった。モンブランと共に生活しているうちに日本髪をやめ、大胆な風俗を取り入れたお政は人々から “ふらんすお政” と呼ばれるように。 そんなある日、モンブランは外国奉行の池田筑後守(可軒さん)を自宅に招待した。モンブランは幕府と仏国の間に同盟を締結し、仏国の援助で陸海軍の拡張を図って軍備が整った暁には、国内を統一して新文明国を建設する計画を立てていたのだ。 池田筑後守は5,000石の旗本だったが、ほぼ大名の格式があった。しかし今日は微行だから別段供揃は立てず、外国方の役人・通役等を2、3名つれてやって来たに過ぎなかった。彼は大官らしく極めて鷹揚に、しかし如才なく振舞った。女達に対しては特別の注意を払っている風が見えた。就中(なかんずく)お政に対しては、外国の貴婦人に対するように礼儀正しかった。食堂に案内したお政は主賓筑後守を正席に着かせ、自分がその隣に腰掛けた。 食卓では様々な話題が出て、筑後守はモンブランに向かって仏国の郡県制度の状態について質問した。モンブランは常々、日本は諸侯を廃して郡県制度を実行しなければ到底平和は望み得られない、それにはまず薩長二藩を滅ぼし、然る後諸侯を廃する他ないと主張しているからだった。 モンブランが仏国の州郡制度の歴史と現状を詳しく話したところで、「徳川幕府の力で薩長を滅ぼすことが出来るかどうか」ということが問題になった。筑後守はそれは自信がないと正直に答えた。そこで今度は英国対島津(薩摩藩)の関係が話題に上り、モンブランは先頃幕府の老中3名と英公使ニール(John Neale)、東洋艦隊司令官クーパー(Augustus Leopold Kuper)が生麦事件の解決交渉について会見密議したときの内容を話した。 話が終わって、筑後守はお政に向かって言った。「わしは2、3日前、丹波守殿に会いましたよ」 お政はニッコリ笑って「あの方は、何と仰っていらっしゃいました?」「どうも、そなたのことが未だに忘れられぬらしい口振りでした、はっはっは」 と筑後守は笑った。お政も相手の顔を見て「ホホホホ…」 と笑った。お政は丹波守のことを言い出されても何とも感じなかったが、筑後守が来る前に受け取っていた間宮からの手紙の方は、思い出すと彼女の胸を騒がせるのであった。 ここまでが全体の約半分なので、一旦ここで休憩。 作中の可軒さんはこの頃20代半ばなのだが、一人称が “わし” なのね。まぁ当時の男性の一人称についてはよく知らないけど。江戸で生まれ育った可軒さんには関係ないが、彼の知行地であった井原がある岡山県では、子供でも結構自分のことを “わし” と言っていた。岡山出身の千鳥・大悟さんも “わし” を使っているし、だんなさんもそうだ。だが息子達は幼い頃から “俺” だったので、今時はもうおじさんしか使ってないのかも。
2024.06.14
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『太陽の王子 ―― 虹の果ての黄金伝説 ――』 フループ 「The Prince of Heaven's Eyes」 Fruupp (74) ビューティフルでファンタスティックなひとときを今、あなたに…。フループのファンタジー・ロック・オペラ、ここに完成!A面 1. 旅の始まり - It's All Up Now 2. 魔王との出会い - Prince of Darkness 3. 二輪馬車に乗って - Jaunting Car 4. アニーの歌 - Annie Austere B面 1. 君を知ってから - Knowing You 2. 鏡の湖 - Crystal Brook 3. かもめよ、かもめ - Seaward Sunset 4. 旅の終り~新しい明日に向って - The Perfect Wish 昭和のおっちゃんおばちゃんは年齢を重ねると演歌を好んだようだが、令和のおばはんはこの頃70年代のプログレ(Progressive rock)に惹かれつつある。 今回取り上げたフループ(Fruupp)も70年代に活躍した北アイルランドのプログレロック・バンドなのだが、活動期間は71年~76年と短く、その間にリリースしたアルバムはたったの4枚しかない。しかしこの4枚ともに良い邦題が付いており、どれを取り上げようか迷ったが74年にリリースされた3rdアルバム「太陽の王子 虹の果ての黄金伝説(The Prince of Heaven's Eyes)」にした。 このアルバムは09年にリマスターエディションが発売されて収録曲が2曲増えており、その時にだかは分からないけど少しだけ邦題が変わっている。そのままでもよかった気がするけど、原題に近づけたかったのかな?現在の邦題は以下のとおり。『天の瞳を持つ王子 ―― 虹の果ての黄金伝説』 The Prince of Heaven's EyesCD 1. 旅立ち - It's All Up Now 2. 暗闇の王子 - Prince of Darkness 3. 二輪馬車 - Jaunting Car 4. アニーの歌 - Annie Austere 5. 君を知りたくて - Knowing You 6. 透き通る小川 - Crystal Brook 7. 海に沈む夕日 - Seaward Sunset 8. 完全なる望み - The Perfect Wishbonus track 9. 天の瞳を持つ王子 - Prince of Heaven10. 二輪馬車 - Jaunting Car(single version) 確かにアルバムタイトルは改題後の方がいい。このアルバムはポール・チャールズ(Paul Charles)による、虹の果てを探しに行く男の童話に基づくコンセプトアルバムだそうで、小説のブックレットが付いているらしい。 ポール・チャールズ氏は北アイルランドの小説家、マネージャー、プロモーター等を手掛けた方で、フループのマネージャー、エージェント、作詞家、ローディーを務めていたそうな。 フループのメンバーはというと、g&voのヴィンセント・マッカースカー(Vincent McCusker)、リードvo&bのピーター・ファレリー(Peter Farrelly)、key&オーボエのスティーヴン・ヒューストン(Stephen Houston)、dsのマーティン・フォイ(Martin Foye)の4人。 71年初頭にヴィンセントによって結成されて活動していたが、75年にスティーヴンが脱退。後任が加入したものの、パンク/ニューウェーブの台頭とともにレコードの売上不振により76年に解散したとのこと。 スティーヴンは脱退後に牧師になったという。フループとは全く関係ないが、日本のプログレロック・バンドの草分けとも言われるゴダイゴ(Godiego)のb、スティーヴ・フォックス(Steve Fox)も脱退して牧師になったっけ。似たような名前だったので、ふと思い出した。 さて、この「太陽の王子」はプログレっぽい小難しさ(完全に私感です)があまり無くて、とても聴きやすい。というかすごく良い。プログレとシンフォニック・ロック(symphonic rock)の違いが分からないが、このアルバムはどちらかというと後者のような気もする。美しい旋律とロックが見事に調和していて、思わず最後まで聴き惚れてしまった。嗚呼、小説のブックレットを読みたい… こんなに素晴らしい音楽を奏でるバンドが売上不振で解散してしまったとは、なんと勿体無い!まぁ楽曲の大半を手掛けていたのはスティーヴンだったそうなので、脱退後にどうなっちゃったのかは知らないけど。 とにかくめっちゃ良いアルバムである 途中でダレることもなく、最初から最後まで聴き応えがある。解散から45年以上が経過した現在でも本国では未だ根強い人気を誇っており、何とこのたび未発表ライヴを収録したDVD+CDのコレクターズボックス「A Twilight Adventure」が発売されるようだ。 “今回、フィルム作家のリチャード・ホールが、新たに制作した映像素材と2022年に発掘リリースされたライヴ盤「Masquerading With Dawn」収録の4曲とをシンクロさせて作り上げたビジュアル作品「On A Clear Day」をDVDに収録し、またカセットテープから発見された未発表ライヴ音源をレストアして収録のCD「A Twilight Adventure」を格納したボックスセットが全世界500セット限定でリリースされる” とのこと。(HMV&BOOKS onlineより。24年6月26日発売予定) そんなフループに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ 勿論、全曲お楽しみくだされ♪ 太陽の王子 虹の果ての黄金伝説(Full Album)
2024.06.12
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昔のドラマやアニメには魔法を使える女性がよく登場した。 魔女モノの代表といえば、64年~72年に米国で254話も放送されたコメディドラマ「奥さまは魔女(Bewitched)」だろう。 「奥さまの名前はサマンサ。そして、ダンナさまの名前はダーリン。ごく普通の二人はごく普通の恋をし、ごく普通の結婚をしました。でもただ一つ違っていたのは――奥さまは魔女だったのです」という中村 正さんのOPナレーションを未だに覚えているくらい好きだった。 魔女のサマンサ(Samantha)と、広告代理店勤務の真面目な夫であるダーリン・スティーブンス(Darrin Stephens)の新婚生活を描くコメディで、更にサマンサの母で同じく魔女のエンドラ(Endora)や、サマンサとダーリンの第一子でやっぱり魔法が使えるタバサ(Tabitha)の登場でハチャメチャに。そういえば日本に “サマンサタバサ” というブランドがあるが、「奥さまは魔女」から取られた訳ではないらしい。 子供の頃、サマンサが魔法を使うときに口を左右に動かすのを何度も真似しようとしたが、どうしても無理だったことをふと思い出した。 また、65年~70年まで米国で139話放送された「かわいい魔女ジニー(I Dream of Jeannie)」も好きだった。 「宇宙飛行士のトニーくんは、どうしたことか宇宙ならぬ南海の孤島に辿り着いて、摩訶不思議な壺を見つけた。その壺から美しい煙とともに現れたのが、なんと可愛らしい魔女のジニー。 あなたのそばならどこまでも――と、とうとうトニーくんの家まで付いてきてしまった。何せ魔女のこと、ちょっと可愛いウインクするだけで何でもかんでもお望み次第。さてさて、どんなことに相成りますことやら」 サマンサが人妻(ちょっと響きがいやらしい)だったのに比べ、ジニー(Jeannie)は小悪魔的でキュートだった。NASAの宇宙飛行士であるトニー(Anthony "Tony" Nelson)が2,000年間も封印されていた壺からジニーを解き放ったことで、トニーに一目惚れしたジニーはフロリダのトニーの自宅まで着いて行いって騒動を起こす、というコメディだ。 原案・企画ならびにプロデューサー(途中で交代)は、脚本家・小説家であるシドニー・シェルダン(Sidney Sheldon)が務めていた。英語教材「イングリッシュ・アドベンチャー」の人だ。 この2大魔女ドラマは日本でも大人気で、60年~80年代頃までは魔法少女アニメが多く制作された。代表的な作品を挙げてみると…。()内はアニメ放送期間。 ・魔法使いサリー(66年~68年) ・ひみつのアッコちゃん(69年~70年)何度もリメイクされて放送されている。 ・魔女っ子メグちゃん(74年~75年) ・魔法のプリンセス ミンキーモモ(82年~83年) ・美少女戦士セーラームーン(92年~97年)等々。 あ、おじさんだけどハクション大魔王(69年~70年)もあったなぁ。あと、私がおばはんだから知らないだけで、現代でも魔法少女モノってたくさんあるみたい。 映画でもジュリー・アンドリュース(Julie Andrews)がアカデミー主演女優賞を獲得した「メリー・ポピンズ(Mary Poppins)」(64年)とか、「ハリー・ポッター(Harry Potter)」シリーズとか色々あったりして。 やっぱり全人類の夢だよね、魔法使いは。嗚呼、私も魔法が使えたら就職先探しが楽になるのだけれど。魔法学校、近くにないかしらん…
2024.06.11
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54歳の私がまだ小学生だった頃、「ザ・モンキーズ・ショー(The Monkees)」というモンキーズ(The Monkees)のコメディ番組が大好きだった。 日本では67年(昭和42年)10月~69年(昭和44年)1月まで放送されたということなので、見ていたのは勿論再放送であった。 朝7時半ぐらいから見ていたように記憶しているが、記憶違いかな? ――と思っていたら、どうやら79年~86年までテレビ東京系列の「おはスタ(おはようスタジオ)」でモンキーズを多く取り上げていたとのこと。岡山県はなぜか地方唯一のテレビ東京系列局であるテレビせとうちがあるので、テレ東が視聴可能なのである。それって「ザ・モンキーズ」も流していたのかなぁ?と色々とWikiさんで調べてみると、テレビせとうちの開局が85年(昭和60年)とのことで、その頃は既に高校生だったのでどうやら違うらしい。単に田舎だから変な時間の再放送だったのかもしれない。 それはともかく、当時は「人気家族パートリッジ(ゆかいな音楽一家)(The Partridge Family)」なども楽しく見ていたし、結構小学生の頃から洋楽に親しむ機会が多かった。 「ザ・モンキーズ・ショー」は米国では66年9月~1968年3月に放送されていたが、モンキーズは元々この番組のために作られた架空のバンドであった。 オーディションで集められた4人はというと、voのデイビー・ジョーンズ(Davy Jones)、dsのミッキー・ドレンツ(Micky Dolenz)、gのマイク・ネスミス(Mike Nesmith)そしてb&Keyのピーター・トーク(Peter Tork)。 バンドメンバーを演じるために集められた4人は、劇中にモンキーズ名義で流れる音楽を演奏するのに楽器を割り当てられたそうで、唯一ドラムが演奏できたデイビーは小柄だったためヴォーカルに、そしてギターしか弾けなかったミッキーがドラムを叩くことに。マイクよりギター経験が豊富だったピーターがベースに、ベースの練習をしていたマイクがギターになったという。 66年8月、番組放送に先駆けてリリースしたデビューシングル “恋の終列車(Last Train to Clarksville)” が全米1位を獲得。10月には番組のOPで流れる “モンキーズのテーマ((Theme From) The Monkees)” や “恋の終列車” が収録されたデビューアルバム「恋の終列車(The Monkees)」がリリースされ、米国を始め英国やカナダでも1位を獲得。続く2ndシングル “アイム・ア・ビリーバー(I'm a Believer)” も米国を始め各国で1位に輝き、モンキーズは作られたアイドルとして絶大な人気を誇った。「Do you know how debilitating it is to sit up and have to duplicate somebody else's records? Tell the world we don't record our own music.」(座って他人のレコードをコピーしなければならないことがどれだけ疲れるか知っていますか?僕らは僕らの音楽を録音していないと世界に伝えてください」 67年1月28日付Saturday Evening Postに音楽制作のプロセスに対するマイクの非難が引用された。モンキーズは本気でアーティストとしての存在意義を求め始めていた。やがて音楽監督と衝突し、彼を解任。モンキーズはアーティストとしての道を歩み始める。 68年3月に番組が終了。その年の暮れにピーターが脱退、翌年にはマイクも脱退。70年にモンキーズは解散した。解散後もリバイバルブームが起って再結成したりもしたが、現在はミッキーだけが存命で3人は既に鬼籍に入っている。 「ザ・モンキーズ・ショー」が大好きだったということは覚えているのだが、内容は残念ながらほとんど覚えていない。時折YouTubeに上がっている映像を視聴しては懐かしさを噛み締めるが、英語能力ゼロなので理解して楽しめないのが悲しい。 今までモンキーズについて書いてなかったなぁ…と今回取り上げてみたが、そういえばマイクが亡くなった21年12月にモンキーズについてちらっと綴っていた。彼らの代表的な曲をいくつか紹介したが、既にリンクを貼った動画が削除済になっているものもあるので再度貼っておこう。 作られたアイドルだったにしても、彼らのキャラクターと同様に、いやそれ以上に彼らの音楽が好きだった。今でもモンキーズの曲はよく聴いている。もう一度、吹替で見たいなぁ…。 (Theme From) The Monkees Last Train To Clarksville The Girl I Knew Somewhere I'm a Believer You Just May Be the One Daydream Believer
2024.06.10
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11年にローリングストーン誌(Rolling Stone)が『The 100 Greatest Guitarists』を発表したが、私の最も愛するギタリストは入っていなかった。まぁ当然かな…とは思ったけど。 23年10月には150人増やした『The 250 Greatest Guitarists of All Time(史上最高のギタリスト250人)』を発表。サイトには250位から掲載されており、悲しいような嬉しいような、わりとすぐに見つかった。 247 Ricky Wilson When the B-52s played live, Ricky Wilson often seemed to exist happily in the background amidst the manic exuberance of lead singer Fred Schneider and the beehive hair and campy dance moves of Kate Pierson and Cindy Wilson. But his mix of downhome chicken scratch, angular post-punk, rockabilly, and surf rock on classics like “52 Girls,” “Strobe Light,” and “Private Idaho” made him one of the most inventive players of the New Wave era. Wilson often used only four or five strings on his blue Mosrite guitar and odd tunings to get a strange, spartan sound. “I just tune the strings till I hear something I like,” he once said. With his death in 1985, the indie-rock scene lost an unassuming radical. (The B-52'sのライヴでは、リッキー・ウィルソンはリードシンガーのフレッド・シュナイダーの熱狂と、ケイト・ピアソン&シンディ・ウィルソンのビーハイブヘアと派手なダンスの後ろで楽しそうにしているように見えた。しかし、“52 Girls”、“Strobe Light”、“Private Idaho” などの名曲で彼がミックスした田舎風のチキンスクラッチ、とがったポストパンク、ロカビリー、サーフロックで、ニューウェーブ時代の最も独創的なプレイヤーの一人となった。リッキーは奇妙で質素なサウンドを得るために、青いモズライトギターの弦を4本か5本だけ使い、奇妙なチューニングをすることが多かった。「気に入った音が鳴るまで、ただ弦をチューニングするだけだ」と彼はかつて言った。1985年に彼が亡くなったことで、インディーロック界は控えめな急進派を失った。) The B-52sの創設メンバーで、85年に逝去したリッキー・ウィルソンが247位に!あの奇妙奇天烈なギターサウンドが認められていて嬉しい。欲を言えばもうちょっと上の順位でも良くない!? とはいえポリス(The Police)のアンディ・サマーズ(Andy Summers)が250位で、元サイモン&ガーファンクル(Simon & Garfunkel)のポール・サイモン(Paul Simon)が246位だったりするので、基準がよく分からない。 ポール・マッカートニー(Paul McCartney)が173位かぁ。ま、ポールはベーシストのイメージがあるからね。一つ上の172位はプリテンダーズ(The Pretenders)のクリッシー・ハインド(Chrissie Hynde)だ。…あ、ジョン・レノン(John Lennon)が159位にいる。ジョンが亡くなった24年後の同月同日亡くなった元パンテラ(Pantera)のダイムバッグ・ダレル(Dimebag Darrell)は131位。 …ええッ!? スティーヴ・ヴァイ(Steve Vai)が127位!? どういう基準!? 100位内を見ていくと、ニルヴァーナ(Nirvana)のカート・コバーン(Kurt Cobain)が88位で、ザ・クランプス(The Cramps)のポイズン・アイビー(Poison Ivy)姐さんが87位とな!? 83位は何故かセットになっているアイアン・メイデン(Iron Maiden)のエイドリアン・スミス(Adrian Smith)&デイヴ・マーレイ(Dave Murray)。 おッ、76位がジョーン・ジェット(Joan Jett)姐さんで75位がリッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore)御大だ。 ギブソン・レスポールの生みの親であるレス・ポール(Les Paul)氏が68位。ギタリストとしての順位は半端だけど、ギブソン社初のソリッドギターであるレスポールの名は今度も語り継がれていくだろう。 51位にはテレヴィジョン(Television)のトム・ヴァーレイン(Tom Verlaine)が。B-52'sのリッキーが参加した唯一のバンド以外の曲が、トムの1stソロアルバムに収録されているのだ。 懐かし邦題で二度取り上げた邦題界の巨匠、フランク・ザッパ(Frank Zappa)が46位にランクイン。そして44位にはラモーンズ(Ramones)のジョニー・ラモーン(Johnny Ramone)。みんな大好き、ラモーンズ! 38位にはAC/DCのヤング兄弟、アンガス・ヤング(Angus Young)&マルコム・ヤング(Malcolm Young)。アンガスが38位かぁ…と思いきや、35位にはまさかのエリック・クラプトン(Eric Clapton)の名が。こんなに早く出てくるとは思っても見なかったのでビックリ!なななんで!? でもって33位がクイーン(Queen)のブライアン・メイ(Brian May)とは。ローリングストーンとはどうも意見が合わないみたい…。 31位はジョージ・ハリスン(George Harrison)だ。ジョージは好きだが、これは妥当な順位かな。しかし何故クラプトンの方が低いの? 14位で出てきたプリンス(Prince)、もうちょい上でもよかった気がするけど。 いよいよ TOP 10。 10位はオールマン・ブラザーズ・バンド(The Allman Brothers Band)のリーダー、デュアン・オールマン(Duane Allman)。クラプトンの傑作 “いとしのレイラ(Layla)” にも参加している実力派。 9位はジョニ・ミッチェル(Joni Mitchell)…うん、まぁ納得。8位は「Ambassador of the Blues(ブルース界の巨人)」B.B.キング(B.B. King)で、7位はプロデューサーとしても有名なナイル・ロジャース(Nile Rodgers)。 6位のシスター・ロゼッタ・サープ(Sister Rosetta Tharpe)は30~40年代に活躍された方らしい。Wikiさんによると「ロックンロールの母」「ソウルシスターの元祖」。 5位がジェフ・ベック(Jeff Beck)、4位がエディ・ヴァン・ヘイレン(Eddie Van Halen)、3位はジミー・ペイジ(Jimmy Page)、2位がチャック・ベリー(Chuck Berry)。この辺りは説明不要だわな。 そして栄えある第1位は…やっぱりジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)。ここが変わることはないだろう。 日本では神と崇められたマイケル・シェンカー(Michael Schenker)や王者のイングヴェイ・マルムスティーン(Yngwie Malmsteen)が入っていなかったのはちと寂しい。 私にはギタリストの技量の差なんてさっぱり分からないけど、愛しのリッキーが250人に選出されただけでも嬉しいかぎり♪ ありがとう、ローリングストーン
2024.06.09
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数ある時代劇の中で最も好きな時代劇といえば「ぶらり信兵衛-道場破り-」である。 その「ぶらり信兵衛」が先月から東映時代劇YouTubeの公式チャンネルで配信されており、毎週木曜日に更新されているのだ。ありがとう東映さん。 「ぶらり信兵衛 道場破り」については、16年前に時代劇チャンネルで朝夕再放送されていたときに一度取り上げたが、令和になってまさか無料で毎話視聴できるなんて!まぁ、Amazon Primeの東映オンデマンドに加入すればいつでも視聴可能なのだが、有料なので諦めていた。 十六店(じゅうろくだな)という裏長屋に暮らす浪人・松村信兵衛を中心に、長屋の連中がわちゃわちゃする一話完結の物語なのだが、とにかく十六店の連中が皆さんお人よしで気の良い連中ばかり。信兵衛は皆から少々頼りなく思われているが「先生」と慕われており、第2話で親に置いていかれた鶴之助の面倒も見ている。夜鳴き蕎麦屋・重助の孫娘であるおぶんはそんなお人よしで優しい信兵衛に惚れており、鶴之助の世話もよくしてくれているが妄想癖があって、毎話挿入されるおぶんの妄想の中では皆が滑稽に演じている。 しかし実は信兵衛は神道無念流の達人であり、長屋の連中に困りごとが起ったりすると連中には内緒で「取手呉兵衛(とってくれべえ)」と名乗って道場破りで金を工面してくるのである。道場破りとは言っても、大概は師範代までには圧倒的な強さで勝っておきながら道場主にはわざと負け、裏で道場主からこっそり金をもらうのである。 こうして十六店の平和は守られ、住人の平穏で騒がしい毎日が過ぎていく――という、お気楽な癒し時代劇なのだ。 信兵衛を演じている高橋英樹さんが素晴らしい。正統派二枚目ながらコミカルな演技も実に上手い。特におぶんちゃんの妄想の中でノリノリで滑稽に演じている高橋さんが大好き。 そのおぶんちゃんを演じているのは、後にスター・にしきのあきらさんの奥様になられた武原英子さん。武原さんはスケジュールの都合だかで途中から交代してしまうのだが、おぶんちゃんはやっぱり武原さんがよかったなぁ。 十六店の連中が集う飲み屋・まる源を営んでいる源次と、従業員の竜二役には東 京二・京太のお二人。 漫才協会会長の塙さん(ナイツ)がよく漫才協会の話を面白可笑しく語っているが、塙さんの初監督映画「漫才協会 THE MOVIE 舞台の上の懲りない面々」が今年公開された際に笑い話として協会所属芸人である「J・J京二・たかし」の話をしていた、その京二さんだったりする。今ではお年寄りエピソードを笑い話にされる京二さんだけど、50年前(「ぶらり信兵衛」は73~74年放送)は格好いい人だったのね。それを思うと高橋さんの変わらなさはスゴい! 十六店に暮らす駕籠かきの金太と銀太を演じているのは柳澤愼一さんと渡辺篤史さん。柳澤さんは懐かしの海外ドラマ「奥さまは魔女(Bewitched)」でダーリン(Darrin Stephens)役のディック・ヨーク(Dick York)の吹替をされていたと知ってビックリ!まさかダーリンの声の人だったとは! 貧乏子だくさんを地で行く大工の乙吉とおまさ夫婦役は小島三児さんと有崎由見子さん。小島さんは多くのTVドラマに出演されているが、個人的に一番印象深いのは「西遊記」の牛魔王役だったりする。「ぶらり信兵衛」が一番好きな時代劇なら、「西遊記」は一番好きなTVドラマだからだ。 そして、おまさ役の有崎さんは落語家・柳家金語楼さんの娘さんである。金語楼さんは二代目 三遊亭金馬さん率いる三遊亭金馬一座で初舞台を踏んだが、その一座の中には「堀江六人斬り」(1905年(明治38年)に大阪の堀江遊郭の貸座敷「山梅楼」で当主が内縁の妻の親族ら6人を刀剣で斬り付けて5人が死亡した事件)で両腕を切断されながらも唯一生き残った芸者・妻吉(後に得度し、大石順教となる)もいたという。…って有崎さんには全く関係ないけど。 信兵衛が実は剣の達人で、道場破りで生計を立てていることを知っている数少ない人物の内の一人が、芸者のこふね。実はこふねも信兵衛に惚れている。渋皮の剥けたいい女・こふね役には浜木綿子さん。二代目 市川猿翁さんと3年で離婚し、香川照之さんを女手一つで育て上げた方である。息子さんの不祥事もあったけど、昨年に元夫である二代目猿翁さんの弟・市川段四郎さんと奥さんが自死した件で、段四郎さんの長男・四代目 市川猿之助さんが自殺幇助の有罪判決(懲役3年・執行猶予5年)を受けた事件が思い出される。…ってこれも浜さん、ほとんど関係ないけど。 昨日は第5話が公開された。公開期間は1週間である。第1話と第2話はずっと公開されているので、心が癒されたい方にお勧めしたい。 50話全部公開してくれるのかなぁ。東映さん、是非とも全話公開を何卒お願いいたします。
2024.06.07
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『666 - アフロディテス・チャイルドの不思議な世界』 アフロディテス・チャイルド 「666 (The Apocalypse of John, 13/18) 」 Aphrodite's Child (72) ヴァンゲリス、デミスと世界的なビッグ・スターを生んだ伝説のグループ、A.チャイルドが、壮大なスケールで綴るサウンド・ドラマ!! 感性への刺激がイメージ世界を拡げる!A面 1. システム - The System 2. バビロン - Babylon 3. ラウド・ラウド・ラウド - Loud, Loud, Loud 4. 4人の騎手 - The Four Horsemen 5. 子羊 - The Lamb 6. 第7の封印 - The Seventh SealB面 1. エーゲ海 - Aegian Sea 2. 7つの球 - Seven Bowls 3. 獣の目覚め - The Wakening Beast 4. かなしみ - Lament 5. 獣の行進 - The Marching Beast 6. イナゴの戦い - The Battle of the Locusts 7. やっつけろ - Do It 8. 苦難 - Tribulation 9. 獣 - The Beast10. OFIS - OfisC面 1. 7つのトランペット - Seven Trumpets 2. アルタモント - Altamont 3. 子羊の結婚 - The Wedding of the Lamb 4. 猛獣狩り - The Capture of the Beast 5. ∞ - ∞ 6. HIC ET NUNC - Hic et NuncD面 1. 満員 - All the Seats Were Occupied 2. ブレイク - Break 今日は令和6年6月6日――666といえば、新約聖書のヨハネ黙示録13章18節に出てくる獣の数字である。 “Here is wisdom. Let him that hath understanding count the number of the beast: for it is the number of a man; and his number is six hundred and sixty-six.”(ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。) 666といえば、アイアン・メイデン(Iron Maiden)が82年にリリースした3rdアルバム「魔力の刻印(The Number of the Beast)」が真っ先に思い浮かんだが残念ながら既に紹介済なので、今回はタイトル自体は原題のままだがサブタイトルや曲名に邦題が付けられている「666 - アフロディテス・チャイルドの不思議な世界(666(The Apocalypse of John, 13/18))」を取り上げてみた。 アフロディテス・チャイルド(Aphrodite's Child)はkeyのエヴァンゲロス・パパタナシュー(Evangelos Papathanassiou。ヴァンゲリス(Vangelis)として知られる)、vo&bのデミス・ルソス(Demis Roussos)、gのアナギロス・クルリス(Anargyros "Silver" Koulouris)、dsのルカス・シデラス(Loukas Sideras)の4人により67年に結成されたギリシャのロック&ポップ・バンドだ。 68年に兵役中だったクルリスを除く3人は国際的な活躍の場を求めて英国に向かうが、労働ビザの関係で仏国に居留する事になったという。3人は68年にデビューアルバムをリリースし、翌69年には2ndアルバムをリリース。 70年後半に「666」のレコーディングを開始し、クルリスも任務を終えてバンドに復帰。しかしヴァンゲリスが作ったサイケでプログレ寄りの曲を、ポップ路線を継続したい他のメンバーは受け入れられず、メンバー間の関係は悪化。72年6月に「666」がリリースされたときには既に解散していたそうな。 この「666」は2枚組のコンセプトアルバムで、中心となるコンセプトはヨハネの黙示録のカウンターカルチャー的解釈であり、黙示録に基づいたサーカスショーが観客の前で上演されると同時にサーカステントの外で実際の黙示録が起こり、最後に2つが1つに融合するというもの。…何だか難しいなぁ。ビートルズ(The Beatles)が67年に「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)」を発表して以降、多くのバンドがコンセプトアルバムを制作したが、このアルバムもやはり「サージェント・ペパーズ」に影響を受けたものだと「666」プロジェクトで作詞を担当したフェリス(Costas Ferris)が語っている。 “バビロン(Babylon)” の歌詞はヨハネの黙示録第18章の大いなるバビロンの崩壊に言及しており、“4人の騎手(The Four Horsemen)” や “第7の封印(The Seventh Seal)” にはヨハネの黙示録第6章が用いられているらしい。曲を聴いてるだけではさっぱり分からないけど。 “∞” はギリシャの女優であるイレーネ・パパス(Irene Papas)が、「I was, I am, I am to come」と歌いながら段々激しい喘ぎ声になっていくという何とも生々しいもの。 ずいぶん前にジョン・レノン(John Lennon)&ヨーコ・オノ(Yoko Ono)の「ダブル・ファンタジー(Double Fantasy)」に収録されているオノさんの “キス・キス・キス(Kiss Kiss Kiss)” という曲を聴いて以来、この手の喘ぎ曲は大の苦手だ。オノさんは前からだったけど、ジョン・レノンまでも一気に苦手になったぐらい吐きそうな楽曲であった。まぁオノさんの「もっともっと」はキツかったけど、 “∞” はまだ英語だからギリギリ許容できるかな…。 喘ぎ曲を除けば、やっぱりプログレアルバムの傑作の一つだと思う。未聴の方は是非聴いてみるべきだ。今はYouTubeで簡単にFull Albumが聴ける恵まれた時代なので、少しでも興味が湧いたら視聴してみてほしい。新たなお気に入りジャンルが見つかるかも!? さて、ヴァンゲリスといえば81年に公開された「炎のランナー(Chariots of Fire)」のテーマ曲が全米1位を獲得し、アカデミー賞で作曲賞を受賞。82年公開の「ブレードランナー(Blade Runner)」でも音楽を担当して様々な賞にノミネートされたので、映画好きの方にはお馴染みかも。嗚呼、久々に “炎のランナー” の美しい旋律を聴きたくなってきた。 ヴァンゲリスは22年に新型コロナウイルス感染症により仏国で逝去した。イレーネ・パパスも同年、93歳で亡くなったとのこと。 そんなアフロディテス・チャイルドに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ バビロン 第7の封印 ∞ おまけ 炎のランナー
2024.06.06
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『狂魔密儀』 メイヘム 「De Mysteriis Dom Sathanas」 Mayhem (94) BURZUMのCount GrishnackhによるMAYHEMを率いていたEuronymousの殺害事件を背景にリリースされた1stフル・アルバム。Euronymousのノイジーで殺傷性の高いリフ、Hellhammerの怒涛のドラムス、Attilaの呻く様な特異なヴォーカル、そしてベースで参加したCountの狂気が封じ込められた狂気溢れる作品。これぞブラック・メタルと呼ぶに相応しい衝撃作。CD 1. Funeral Fog 2. Freezing Moon 3. Cursed in Eternity 4. Pagan Fears 5. Life Eternal 6. From the Dark Past 7. Buried by Time and Dust 8. De Mysteriis Dom Sathanas ノルウェーのブラックメタル・バンドであるメイヘム(Mayhem)が94年にリリースした1stアルバム「De Mysteriis Dom Sathanas」の直輸入盤に、日本語解説と帯を付けて国内仕様で販売した際に付いた邦題が「狂魔密儀」だ。曲名は原語のまま、カタカナタイトルすら付いていない。 メイヘムは84年にg&voのデストラクター(Destructor。後にユーロニモス(Euronymous)と改名)、bのネクロブッチャー(Necrobutcher)、dsのマンハイム(Kjetil Manheim)の3人で結成された。 その後幾度かのメンバーチェンジがあって88年にdsのヘルハマー(Hellhammer)とスウェーデン出身のvo.デッド(Dead)が加入。デッドはコープスペイント(白黒化粧)を施し、自傷行為を行ったりと死への執着を見せており、ユーロニモスは彼に自殺を勧め、同じノルウェーのブラックメタル・プロジェクトバンドであるバーズム(Burzum)のb.カウント・グリシュナック(Count Grishnackh)は91年初頭にデッドが所有するショットガンの弾丸数発をデッドに送ったという。 そして91年4月にデッドはナイフで手首と首を切り裂き、ショットガンで頭を撃ち抜いて自殺した。遺体を発見したユーロニモスは警察に通報する前に遺体を撮影、その写真はメイヘムのブートレグライヴアルバム「ドーン・オブ・ザ・ブラック・ハーツ(The Dawn of the Black Hearts)」のジャケット写真になっている。 デッドの自殺後にネクロブッチャーが脱退。87、8年頃から既に曲を書き始めていた「狂魔密儀」のレコーディングにはハンガリーのブラックメタル・バンドであるトーメンター(Tormentor)のvo.アッティラ・シハー(Attila Csihar)と、デッドに弾丸を送ったカウントがサポート・メンバーを務めた。 93年8月、ユーロニモスがアパートメントでカウントによって刺殺される。ユーロニモスの遺体はアパートの外で23箇所の切り傷を負った状態で発見されたのだとか。カウントは逮捕され、殺人と教会放火の両方でノルウェーで最高刑となる懲役21年の判決を受けたが09年に釈放された。 …とまぁ色々とゴタゴタしたものの94年に何とか発売さた「狂魔密儀」はブラックメタル史に名を刻む大傑作と言われ、多くのブラックメタルバンドに多大な影響を与えたのであった。 アルバムリリースに合わせてユーロニモスとカウントはトロンハイムのニーダロス大聖堂を爆破する計画を企てていたという。「狂魔密儀」のジャケットに写っているのがその大聖堂である。幸いなことに(!?)アルバムは94年5月24日にリリースされたが、ユーロニモスは既にこの世にはおらず、カウントの裁判は94年5月2日から始まったのだった。 何とも血なまぐさいアルバムではあるが、名盤であることは間違いない。文句なしに良い!今までブラックメタルに縁がなかったという方に是非ともお勧めしたい。 ユーロニモスの遺族はベースパートの差替えを申し出たが、結局カウントのベースのままで発売されているという。うーん…御遺族感情を考えると手放しで褒め称えるのも良くないのかも。 ちなみにユーロニモスの死後にバンドは一旦解散するも、94年に再結成。アッティラ・シハー、ヘルハマー、ネクロブッチャーと新メンバー2人を加えた5人組でメイヘムは現在も活動中。 そんなメイヘムに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ Funeral Fog Pagan Fears De Mysteriis Dom Sathanas
2024.06.05
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声優・増山江威子さんの訃報にショックを受けた昭和アニメファンは多いだろう。私もその一人である。色っぽいながらも優しく、時にはキリッとした増山さんのお声が大好きだった。 増山さんが演じられた数々のキャラクターを思い浮かべつつ、今宵は増山さんを偲びたい。 増山さんは日本の連続テレビアニメの創成期から活躍されている大ベテランだが、私が初めて増山さんの声に出会ったのは、71年に放送された「アンデルセン物語」のキャンティだったと思う。勿論、再放送だったけど。 山田康雄さん演じるズッコと二人でアンデルセン童話の世界に入って何かいいことをしようとする話だった。 「天才バカボン」でのママ役はとてもハマリ役だった。 原作者である赤塚不二夫先生の要望で「元祖天才バカボン」「平成天才バカボン」「レレレの天才バカボン」でもママ役は増山さんが続投したというのも納得。 優しくて美人で芯のある母親を演じられる唯一無二の声優さんだった。 先頃YouTubeで1~6話までが公式配信されて驚いた「ジャングル黒べえ」でも、しし男の母親役を演じている。 増山さんは様々なキャラクターを演じてらっしゃるが、やっぱり母親の役が一番しっくりくるような気がする。 …とはいえ、「キューティーハニー」の如月ハニーもやっぱり増山さんの声じゃなきゃ! お色気には全く興味のなかった小学生時代、ハニーちゃんの格好良さにシビれた。アニメも主題歌もめっちゃ大好きだった。当時は空中元素固定装置の意味が分からなかったけど。 女性が憧れる格好いい女といえば、「ルパン三世」の峰不二子役もそう。声の色気も半端ない。 個人的には正直なところ、不二子ちゃんのような平気で裏切るタイプはあまり好きではないのだが、劇場版「カリオストロの城」の不二子ちゃんは好き。 不二子ちゃんの3サイズは90・60・90だと何故かずっと思い込んでいたが、今回Wikiさんを見て99.9・55.5・88.8だと知った。ナイスバディ 私にとって増山さんの代表作といえば、やっぱり「一休さん」を挙げたい。 この作品では一休さんの母上さま・伊予の局と、新右衛門さんと実は相思相愛である末姫様、そしてナレーションも務めている。 母上さまの慈愛に満ちた凛としたお声が本当に素晴らしい。 女性声優の中では増山さんのお声が一番好きだった。二番目は「銀河鉄道999」でメーテル役を演じた池田昌子さんかな。 増山さんの訃報を受けて、2代目ルパン(栗田貫一さん)や安国寺の哲斉さん(井上和彦さん)等がコメントされているのを見て、昭和の偉大な声優さんがまた一人いなくなったことを実感して寂しくなった。 昭和のルパン、次元、五ェ門、銭形のとっつぁん、一休さん、秀念さん、黙念さんに外観和尚、初代のバカボンパパ、レレレのおじさん、本官さん、黒べえもパオパオもしし男の父親も、皆さん鬼籍に入られており、昭和も遠くなったなぁ…としみじみ感じる今回の訃報であった。 増山さん、どうぞ安らかに…。
2024.06.04
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『首切り役人の美しい娘』 インクレディブル・ストリング・バンド 「The Hangman's Beautiful Daughter」 The Incredible String Band (68)A面 1. コエオアディ・ゼア - Koeeoaddi There 2. ミノトールの歌 - The Minotaur's Song 3. 魔女の帽子 - Witches Hat 4. すきまだらけの歌 - A Very Cellular SongB面 1. マーシィー・アイ・クライ・シティ - Mercy I Cry City 2. 新月のワルツ - Waltz of the New Moon 3. 水の歌 - The Water Song 4. 緑の冠 - Three Is a Green Crown 5. 風のように - Swift As the Wind 6. たそがれ - Nightfall 英国のサイケデリック・フォークバンドであるインクレディブル・ストリング・バンド(The Incredible String Band)が68年にリリースした3rdアルバム「首切り役人の美しい娘(The Hangman's Beautiful Daughter)」。原題直訳ながらインパクトのある邦題だったが、今は「ザ・ハングマンズ・ビューティフル・ドーター」となっており、曲名邦題も消えてしまった。 サイケデリック・フォーク(アシッド・フォークとも)というのは、サイケデリックなトリップ感を醸し出すフォーク・ミュージックのことだそうで、確かにこのアルバムを聴いていると不思議な感覚に陥りそうになる。 マルチトラックやオーバーダビングを活用したサイケなフォークに世界中の様々な楽器が加わり、何とも幻想的でトリップ感溢れるこの不思議なアルバムは全英で5位を記録し、グラミー賞にノミネートされたという。 使用されている楽器は一般的なギターやピアノ、ハーモニカ以外にもビートルズ(The Beatles)の楽曲にも取り入れられたインドの弦楽器・シタールや管楽器のシェナイ、北アフリカのモロッコあたりの民族楽器・ゲンブリ、中東からモロッコやギリシャで使われる撥弦楽器・ウード、鍵盤楽器のチェンバロ、木管楽器のパンパイプ(パンフルート)、元はアフリカの楽器で黒人奴隷によって米国にもたらされたというカズー、他にもティン・ホイッスル、口琴(マウスピース)、ウォーターフォン、打弦楽器のハンマー・ダルシマー、パイプオルガンやフィンガーシンバル等々、実に多彩である。 インクレディブル・ストリング・バンドはクライヴ・パーマー(Clive Palmer)、ロビン・ウィリアムソン(Robin Williamson)、マイク・ヘロン(Mike Heron)の3人により66年に結成されたが、クライヴが早々に抜けてロビンとマイクのデュオになる。「首切り役人の美しい娘」も2人の作品だ。その後はメンバーを増やして活動していたが74年に解散。99年再結成したそうだが以前ほどの高評価は得られなかったうえ03年にはロビンが脱退、結局06年にフェスで行ったコンサートが最後になったそうな。 ロビン曰く “ビートルズが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)」(67)を、ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)が「サタニック・マジェスティーズ(Their Satanic Majesties Request)」(67)を録音する前に自分達の演奏を聴いていたのだから、インクレディブル・ストリング・バンドがこれらのアルバムに影響を与えたんだ” とのこと。 真偽の程は定かではないけど私は民族音楽系がわりと好きな方なので、このアルバムは結構好みだったりする。 「首切り役人の美しい娘」ではちょっとグロテスクな感じがして敬遠されるかもしれないが、「ザ・ハングマンズ・ビューティフル・ドーター」にしても気を引くタイトルではない。んー、勿体無いなぁ…いいアルバムなのに。 そんなインクレディブル・ストリング・バンドに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ コエオアディ・ゼア すきまだらけの歌 たそがれ
2024.06.03
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『烏と案山子とアイスクリーム』 キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド 「Ice Cream for Crow」 Captain Beefheart and the Magic Band (82) 吠える唸りの詠い吐く手にモハビの砂漠が狼狽したのです。A面 1. 烏と案山子とアイスクリーム - Ice Cream for Crow 2. 幽霊の主人はステキな殉教者 - The Host the Ghost the Most Holy-O 3. セミ・マルチカラーのコーカシア人 - Semi-Multicoloured Caucasian 4. ガーランド氏のツィード・コート - Hey Garland, I Dig Your Tweed Coat 5. 晩鐘 - Evening Bell 6. ボール紙のキリヌキ夕陽 [モハビの砂漠にて] - Cardboard Cutout SundownB面 1. 覗き穴から緊張した過去が見えるよ - The Past Sure Is Tense 2. インク算術思考法 - Ink Mathematics 3. 妖術師ライフの存命 - The Witch Doctor Life 4. 81年版プープ・ハッチあるいはアヌストイズム - '81 Poop Hatch 5. 千と十日目の聖人トーテム・ポール - The Thousandth and Tenth Day of the Human Totem Pole 6. やったネ、シャレコーベ氏 - Skeleton Makes Good 「烏と案山子とアイスクリーム(Ice Cream for Crow)」はキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド(Captain Beefheart and the Magic Band)が82年にリリースした12thにして最後のアルバムである。 キャプテン・ビーフハートことドン・ヴァン・ヴリート(Don Van Vliet)が通っていた高校にフランク・ザッパ(Frank Zappa)が転校してきて親しくなり、ザッパが「Captain Beefheart vs. The Grunt People」という映画の台本を書いて、ヴァン・ヴリートが魔力を発揮するキャプテン・ビーフハートというマジック・マンを演じる計画だったことからこの名を名乗るようになったとのこと。 このビーフハートという言葉の由来は、彼の恋人に自分のナニを見せる癖があったという叔父がバスルームのドアを開けたまま排尿していて、彼女が通りかかると自身のナニについて "Ahh, what a beauty! It looks just like a big, fine beef heart" とつぶやいたからだとか(Wikiさん参照)。 まぁナニの話は置いといて、曲名の邦題がどことなくザッパっぽくて好ましいものの、帯文句が分からなさすぎて買うのを躊躇してしまいそう… 幼少の頃は絵画と彫刻に夢中で、子供彫刻コンクールで優勝したりTV番組で取り上げられたりしていたビーフハートだったが、10代前半頃から音楽にも目覚め、64年にザ・マジック・バンド(The Magic Band)を結成。このときビーフハートは単にバンドのリードシンガーに過ぎなかったのだが、いつしかキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンド(Captain Beefheart and his Magic Band)となり、72年からはキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドになった。しかし74年にはビーフハートによる長年の虐待、報酬の不足、方向性の違いなどからほとんどのバンドメンバーが脱退。一時音楽活動を停止するも翌年からは若いミュージシャンを起用して活動を再開。 しかし82年にリリースしたこの「烏と案山子とアイスクリーム」を最後にビーフハートは音楽界を引退。その後は公の場に姿を現すことはほとんどなかったが画家として活躍し、10年に病没した。 キャプテン・ビーフハートの音楽は、リズム・アンド・ブルースとアヴァンギャルド・ジャズの融合だとかジャズ、ブルース、サイケデリック・ロックの融合だとかいわれ、ローリングストーン誌曰く「キャプテン・ビーフハートのキャリアにおける決定的な問題は、彼をありのままに受け入れる人がほとんどいなかったことだ」とのこと。 ジャンルにとらわれない自由な演奏にダミ声のおっさんの歌声が乗ったこの音楽は、残念ながらチャートを賑わせることはなかったが、様々なミュージシャンに影響を与えたそうな。 私は岡山県民なのでこの言葉を使わせてもらうと、クセがすげぇんじゃ。勿論、いい意味で。 そんなキャプテン・ビーフハートに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ 烏と案山子とアイスクリーム 覗き穴から緊張した過去が見えるよ やったネ、シャレコーベ氏
2024.06.02
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『くたばれキャベツ野郎』 セルジュ・ゲンスブール 「L'Homme à tête de chou」 Serge Gainsbourg (76) 東京映画祭外国審査員で二度目の来日。映画、レコードでその才能を発揮しているゲーンズブールの注目すべき強力アルバム!A面 1. くたばれキャベツ野郎 - L'Homme à tête de chou 2. マックスの理髪店 - Chez Max coiffeur pour hommes 3. マリルーとレゲエ - Marilou Reggae 4. マリルー - Transit à Marilou 5. フラッシュ・フォワード - Flash Forward 6. 複葉飛行機 - Aéroplanes 7. 初期症状 - Premiers symptômes B面 1. 俺のマリルー - Ma Lou Marilou 2. マリルーのヴァリエーション - Variations sur Marilou 3. 消火器殺人事件 - Meurtre à l'extincteur 4. 雪の下のマリルー - Marilou sous la neige 5. 月の精神病院 - Lunatic Asylum 仏国人音楽家で俳優・監督としても活躍したセルジュ・ゲンスブール(Serge Gainsbourg)が76年にリリースしたコンセプト・アルバム「くたばれキャベツ野郎(L'Homme à tête de chou)」を取り上げてみた。73年リリースの「ゲンスブール版女性飼育論(Vu de l'extérieur)」とどちらにしようか迷ったが、女性を飼育ですって!? キーッ!! とお叱りを受けるのも嫌なので、キャベツ野郎の方にした次第である。 このアルバムはゲンズブールが購入してジャケットにも使用されている、クロード・ラランヌ(Claude Lalanne)によるキャベツ頭の男性の彫刻にインスピレーションを得て制作されたとのこと。分かりづらいのでキャベツ頭の男の画像を貼っておく。こんな感じだ。んー、芸術はよく分からない。 この「くたばれキャベツ野郎」は、かなり自由な考えを持つシャンプーガールに恋する40代男性の物語らしい。 「キャベツ頭の男」と呼ばれる語り手は、“マックスの理髪店”(Chez Max coiffeur pour hommes)にて理髪店のシャンプー係として働いている若い女性・マリルーと出会い、“俺のマリルー(Ma Lou Marilou)” にて彼女をデートに誘って情事を始め、“マリルーのヴァリエーション(Variations sur Marilou)” にて彼女の独りでのエロティックな遊び、“消火器殺人事件(Meurtre à l'extincteur)” “雪の下のマリルー(Marilou sous la neige)” において語り手は、彼女が2人のロッカーとベッドにいるのを見て嫉妬してマリルーを殺害、“月の精神病院(Lunatic Asylum)” にて最後に彼が狂気に陥るというような内容とのこと。(Merci beaucoup, Wikiさん、Google翻訳さん) …流石「エマニエル夫人(Emmanuelle)」(74) が制作された国の人だ。米国のノー天気なエロ、伊国の陽気なエロに対して、仏国はぐじゅぐじゅしたエロのイメージがある。(ちなみに日本はロリエロ大国)。 人妻だったブリジット・バルドー(Brigitte Bardot)と親密になったり、ジェーン・バーキン(Jane Birkin)と長らく事実婚状態だったりと浮名を流したゲンズブールは91年に62歳でこの世を去った。 当時のミッテラン大統領は「彼は私たちのボードレールであり、アポリネールでした。…彼は歌を芸術のレベルにまで高めました」と述べて追悼の意を表したという。 ゲンズブールはモンパルナス墓地(Cimetière du Montparnasse)に埋葬されたが、ここには著名人が多く埋葬されており、哲学者・作家のジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)とシモーヌ・ド・ボーヴォワール(Simone de Beauvoir)、作曲家のサン=サーンス(Camille Saint-Saëns)、作家のギ・ド・モーパッサン(Guy de Maupassant)やモーリス・ルブラン(Maurice Leblanc)、ジャック・シラク(Jacques René Chirac)元仏国大統領等も眠っている。 邦題に興味を持ち、初めて仏語歌曲を聴いてみ…いや、初めてではないかな。ミッシェル・ポルナレフ(Michel Polnareff)の “シェリーに口づけ(Tout, tout pour ma chérie)” とかあったわ。とはいえあまり馴染みの無い仏語の響きに耳がもぞもぞするも、音楽自体は思っていたより聴きやすい。歌詞を知ったらより楽しめそう。 英語圏外の楽曲には親しみやすいように邦題が付いている場合が多く、ゲンズブールの曲にも面白邦題が結構あるので、いつの日かそれらも紹介したい。 そんなゲンズブールに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ くたばれキャベツ野郎 マリルーのヴァリエーション 月の精神病院
2024.06.01
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『スーパースターはブロンドがお好き』 ロッド・スチュワート 「Blondes Have More Fun」 Rod Stewart (78) 真似のできない並はずれたファッション・センス。華麗に、セクシーに、スーパースターは気どり屋さん。人気最高頂No.1ヴォーカリストが放つ世紀のビッグ・セラー!!A面 1. アイム・セクシー - Da Ya Think I'm Sexy? 2. ダーティ・ウィークエンド - Dirty Weekend 3. あばずれ女のバラード - Ain't Love a Bitch 4. 青春の思い出 - The Best Days of My Life 5. 愛の代償 - Is That the Thanks I Get? B面 1. 求む、いい女 - Attractive Female Wanted 2. スーパースターはブロンドがお好き - Blondes (Have More Fun) 3. ラスト・サマー - Last Summer 4. シャドウズ・オブ・ラヴ - Standin' in the Shadows of Love 5. うちひしがれて - Scarred and Scared 英国人シンガー・ロッド・スチュワート(Rod Stewart)が78年にリリースした9thアルバムには「スーパースターはブロンドがお好き(Blondes Have More Fun)」という、セクシーでプレイボーイなロッドにピッタリの邦題が付いている。 “まず前作の『明日へのキック・オフ(Foot loose & Fancy Free)』で日本でも人気が急上昇中でしたから何としてもスーパースターにしたかったというのがひとつ、そこにマリリン・モンロー(Marilyn Monroe)の映画のタイトル『紳士は金髪がお好き(Gentlemen Prefer Blondes)』が重なり、『スーパースターはブロンドがお好き』となった次第” と、このアルバム邦題の名付け親であるワーナーの担当者さんが「Guitar Magazine LaidBack・It's only Japanese title, but we like it.(たかが邦題、されど邦題)」で語っており、捻りがあるようでないような気もするがそこそこインパクトもあって素晴らしい邦題だ。 “アイム・セクシー(Da Ya Think I'm Sexy?)” だとか “あばずれ女のバラード(Ain't Love a Bitch)”、“求む、いい女(Attractive Female Wanted)” なんていう邦題もロッドだからこそしっくりくる。まぁフェイセズ(Faces)時代の「馬の耳に念仏(A Nod Is as Good as a Wink... to a Blind Horse)」には勝てないけど。 今年3月20日に東京・有明アリーナで「Live in Concert, One Last Time」という一夜限りのライヴを行ったロッドは現在79歳。その模様がYouTubeに上がっていたので視聴してみたが、80歳目前とは思えぬ若々しさ! そのライヴで1曲目に歌っていた “Infatuation” は、84年にリリースされた13thアルバム「カムフラージュ(Camouflage)」からの先行シングルで、洋楽番組を観まくっていた青春時代をふと思い出した。 そう、私の洋楽記憶の大半は80年代のものなので、70年代の――セクシー番長を張っていた頃のロッドは正直よく知らなかったりする。ちなみに80年代のセクシー番長といえば俳優のバート・レイノルズ(Burt Reynolds)とヴァン・ヘイレン(Van Halen)のデイヴィッド・リー・ロス(David Lee Roth)が思い浮かんだが、記憶違いかもしれない。 70年代の洋楽はほぼリアルタイムで知らないながらも、“アイム・セクシー” は余程流行ったのか聴き覚えがあった。全米・全英1位を記録し、日本でもオリコン12位だったらしい。 改めてセクシー番長時代のロッドのPVを見てみると、金髪ハスキーボイスの色気がたまらない。このロッドの系譜に女性ではキム・カーンズ(Kim Carnes)がいたが、男性では誰かいたっけ?すっと思い浮かばないあたり、ロッドが唯一無二のシンガーだといえるのかもしれない。いやまぁ、沢山いるとは思うけど…。森進一さんとかもんたよしのりさんとか葛城ユキさんとかは金髪じゃないから除外ね。(葛城さんは一昨年6月に、もんたさんは昨年10月に亡くなられた。) いつの日か邦題に絶滅の危機が訪れるとしても、このアルバム邦題は最後の最後まで粘るのではないかと思っている。こんなにイメージぴったりの邦題はなかなかない。ワーナーの担当者さんはいい仕事をしましたね。←上からで失礼 そんなロッドに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ アイム・セクシー あばずれ女のバラード スーパースターはブロンドがお好き
2024.05.31
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3月におよそ1年半ぶりの新刊(21巻)が出た中村 光さんの「聖☆おにいさん」。 世紀末を無事乗り越えたブッダとイエスが、有休をとって下界でのバカンスを満喫しようと、日本の東京都立川の安アパート「松田ハイツ」の一室で「聖」(せい)という名字でルームシェアして暮らすという設定で描かれる日常コメディ(Wikiさん丸写し)なのだが、仏教・キリスト経・ギリシャ神話・北欧神話等の様々な神々が出てくるので、歴史好きにはとても嬉しいやら楽しいやら。 数年前に実写ドラマ化したのは知っていたが、ちょっとイメージと違っていたので見ていない。ところがどうやら今度は映画化されるらしく、「聖☆おにいさん THE MOVIE〜ホーリーメン VS 悪魔軍団〜」が今年12月20日に公開予定とのこと。 うーん…見たいような見たくないような…。監督は「今日から俺は!!」と同じ方だそうで。あ、それで梵天さん役が「今日俺」で三橋貴志クン役を演じた役者さんなのか。まぁ「今日俺」も原作が好きなので、実写版は見なかった。面白かったそうだけど、デカくない今井勝俊クンは違う気がする。帝釈天さんを演じる勝地涼さんの方が梵天さんに向いてそうだけどなぁ。 勝地さんは山田裕貴くんが志村さんを演じた「志村けんとドリフの大爆笑物語」で初めて知ったが、加藤茶さん役を上手く演じていたし、梵天さんの目力も合いそう。 「聖☆おにいさん」の好きなキャラBEST 5はというと 1・ルシファー 元天使長だったが天界大戦争(ミカエルとの兄弟喧嘩)で敗北し、いまは堕天使の長。面倒見の言い兄貴っぷりが格好いい。 2・ウリエル 神の炎を司る天使で、イエス曰く「破壊天使」。大体無表情で場の空気も破壊する。 3・ペトロ イエスの一番弟子にして十二使徒のリーダーで、初代ローマ法王。漫画では明るい兄ちゃん。 4・帝釈天 雷を司る軍神。下界で着用しているスーツはアルマーニという、お洒落さん。 5・十一面観音 頭部に11の顔を持つ菩薩。「あー麺」というHNでレビュー系ブロガーとして活動しており、下界では有名。「いえっさ」のHNでテレビドラマ感想ブログを綴っているイエスもあー麺の大ファン。 神々が登場する漫画ではあるが内容はほっこり系なので、暇なときには読み返してほわほわしている。うーん、実写映画化かぁ…。 ジョニー・デップ(Johnny Depp)に似ているといわれるイエスを松山ケンイチさんが演じていることより、ブッダの実写化の方がちょっとキツいような。役者さんは頑張っているとは思うが。それより映画では天使長・ミカエルを日本人が演じることに無理がありすぎる。演じる岩田剛典さんに罪はないけど。あ、この方はEXILE系の「HiGH&LOW」シリーズで主演してたっけ。 いつの日かAmazon Primeで視聴可能になれば見るかもしれない。
2024.05.29
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『特別料理』 ローウェル・ジョージ 「Thanks, I'll Eat It Here」 Lowell George (79) リトル・フィートの中心人物、ローウェル・ジョージが超メガトン級の巨体をぶつけて創り上げたソロ傑作第一弾!ファンキー&タイト、とてつもなくポップなアメリカン・ロックの金字塔がここに築かれた!!A面 1. あの娘に何をさせたいの - What Do You Want the Girl to Do 2. オネスト・マン - Honest Man 3. ふたつの列車 - Two Trains 4. キャント・スタンド・ザ・レイン - I Can't Stand the Rain B面 1. チーク・トゥ・チーク - Cheek to Cheek 2. イージー・マネー - Easy Money 3. 僕のすべてを君に - Twenty Million Things 4. 川を探して - Find a River 5. ヒムラーズ・リング - Himmler's Ring ローウェル・ジョージ(Lowell George)が79年にリリースした唯一のソロアルバム「特別料理(Thanks, I'll Eat It Here)」。これも今では「特別料理 イート・イット・ヒア」だの「イート・イット・ヒア(特別料理)」だのとカタカナタイトルと併記されており、曲名も “あの娘に何をさせたいの(What Do You Want the Girl to Do)” 以外の邦題は消えてカタカナタイトルになってしまっている。寂しいなぁ。 アルバム邦題が絶滅してしまう前に1枚でも多くの邦題を書き残しておかねば!と勝手に使命を負った気になっているが、一部の面白邦題以外は誰もそこまで興味がない気もする… 面白邦題の王といえば何と言ってもフランク・ザッパ(Frank Zappa)である。「フランク・ザッパの○△□(Ship Arriving Too Late to Save a Drowning Witch。現在は「たどり着くのが遅すぎて溺れる魔女を救えなかった船」に改題されている)」(82)や「ハエ・ハエ・カ・カ・カ・ザッパ・パ!(The Man from Utopia)」(83)といった邦題史に残る傑作を多く残したザッパは、60年代半ばから約10年間マザーズ・オブ・インヴェンション(The Mothers of Invention。MOI)というバンドを率いていた。 ローウェル・ジョージは68年からこのMOIでギタリストとして活動したが、薬物摂取を理由に半年ほどで解雇された模様。69年にMOIは解散し(翌年再結成)、ローウェル・ジョージはMOIのオリジナルメンバーだったベーシストのロイ・エストラーダ(Roy Estrada)とリトル・フィート(Little Feat)を結成した。 ザッパのバンドにいた二人が結成したバンドのアルバムには嘸(さぞ)素晴らしい邦題が付いているに違いないと思いきや、カタカナタイトルばかりでちょっとガッカリ。 ロイ・エストラーダはキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド(Captain Beefheart and The Magic Band)に加入するため72年にリトル・フィートを脱退。でもってローウェル・ジョージは70年代後半から薬物中毒に陥りながらも、79年3月に初のソロアルバム「特別料理」をリリース。おッ、これはこの先面白邦題作品を続々と発表してくれるかも!? という日本のファンの淡い期待に沿ってくれることなく、同年6月に34歳の若さでドラッグのオーバードーズによる心不全で死去。バンドも79年に解散した。 エストラーダの方はというと、12年に児童性的虐待で仮釈放なし懲役25年の有罪判決を受けて現在服役中とのこと。 このアルバムにはリトル・フィートのdrであるリッチー・ヘイワード(Ritchie Hayward)とkeyのビル・ペイン(Bill Payne)が参加。他にも参加者リストにはTOTOのデヴィッド・ペイチ(David Paich)やジェフ・ポーカロ(Jeff Porcaro)、ビートルズ(The Beatles)メンバーのソロアルバムなどに参加しているセッションドラマーのジム・ケルトナー(Jim Keltner)やキーボーディストのニッキー・ホプキンス(Nicky Hopkins)などの名も。 カテゴリー的にはルーツ・ロック(Roots rock)、サザン・ロック(Southern rock)とかに分類され、フォーク、ブルース、カントリーミュージックに起源を持つロックミュージックだそうな。米国の片田舎を想起させるような音楽とでも言えばよいのか、どことなく土臭い音楽とでもいうのかな。勿論、演奏技術は一級だけど。ちなみにオリジナル曲は3曲だけで、残り6曲は全て誰かのカヴァーだったりする。 そんなローウェル・ジョージに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ あの娘に何をさせたいの ふたつの列車 イージー・マネー
2024.05.28
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『あいつにノック・アウト』 ポーラ・アブドゥル 「Forever Your Girl」 Paula Abdul (88) ヘビー級のステップで君をハートブレイク! ジャネット・ジャクソンからZZトップまで、彼女はダンスのインストラクター。 大ヒット “あいつにノック・アウト” A面 1. 恋するままに - (It's Just) The Way That You Love Me 2. あいつにノック・アウト - Knocked Out 3. 甘い誘惑 - Opposites Attract 4. ステイト・オブ・アトラクション - State of Attraction 5. アイ・ニード・ユー - I Need YouB面 1. フォーエバー・ユア・ガール - Forever Your Girl 2. ストレイト・アップ - Straight Up 3. ネクスト・トゥ・ユー - Next to You 4. 冷たいハート - Cold Hearted 5. 恋のかけひき - One or the Other 以前、ブランドX(Brand X)の「だ・れ・だ?!(Is There Anything About?)」を取り上げた際にフィル・コリンズ(Phil Collins)と寺尾聰さんが80年代の2大謎需要と書いたが、もう一人謎の需要で大ヒットを連発した人を忘れていた。 MTV全盛期に振付師(choreographer)として活躍し、88年にデビューアルバム「あいつにノック・アウト(Forever Your Girl)」をリリースするや見事全米1位に輝き、シングルカットされた6曲のうち4曲がこれまた連続で全米1位を獲得したポーラ・アブドゥル(Paula Abdul)だ。 彼女が振付を担当したPVにはジャネット・ジャクソン(Janet Jackson)の “Nasty” や “Control”、インエクセス(INXS)の “Devil Inside”、デュラン・デュラン(Duran Duran)の “Notorious”、ZZトップ(ZZ Top)の “Velcro Fly” などがある。ZZトップのPVは良かったなぁ…髭おじさん達のぎこちないダンスが微笑ましくて。ジャネットのPVだとやはり “Rhythm Nation” のダンスが最も印象に残っているが、この曲はポーラが振付を担当したのではないのね。 さて、いきなり全米1位を獲得した「あいつにノック・アウト」だが、6枚のシングルはリリース順に “あいつにノック・アウト(Knocked Out)”、“恋するままに((It's Just) The Way That You Love Me)”、“ストレイト・アップ(Straight Up)”、“フォーエバー・ユア・ガール(Forever Your Girl)”、“冷たいハート(Cold Hearted)”、“甘い誘惑(Opposites Attract)”。3rdシングルの “ストレイト・アップ” が初のチャート1位になってからは6thまでの4曲が連続1位を記録。デビューアルバムから4曲のNo.1ヒットが出たのは史上初のことだった。 決して悪いアルバムではないけど、当時は何であんなに売れたんだろう?彼女のPVでぼんやり覚えているのは “甘い誘惑” ぐらい。アニメと実写の融合PVは良かったなぁ。 久々に彼女やジャネットのダンスPVを色々見たが、いい意味で80年代の香りがキツかった。随分前に日本のどこぞの高校のダンス部がバブリーダンスとかいうので話題になったことがあったが、確かに80年代のダンスって今見ると面白いモノかもしれない。大好きだったジャネットの “Rhythm Nation” も確かに格好いいけど、格好いいというより何だか甘酸っぱい気分になった。ZZトップのダンスは相変わらず微笑ましかったけど。彼女たちの肩パット姿に青春時代を思い出した。 ポーラは92年にエミリオ・エステベス(Emilio Estevez)と結婚。「アウトサイダー(The Outsiders)」や「レポマン(Repo Man)」、「ブレックファスト・クラブ(The Breakfast Club)」に「セント・エルモス・ファイアー(St. Elmo's Fire)」、そして “The Mighty Ducks” というカテゴリーを設けるほど愛してやまない「飛べないアヒル」シリーズなど、エミリオが出演した青春映画は結構好きだったので、この二人の結婚には正直驚いた。しかしたった2年で破局した。 90年代は低迷していたものの、21世紀に入ってからは人気オーディション番組「アメリカン・アイドル(American Idol)」や「Xファクター(The X Factor)」の審査員を務めて人気復活。何や昨年末に「アメリカン・アイドル」のプロデューサーを性的暴行で告訴したらしいけど…。 そんなポーラ・アブドゥルと80年代ダンスに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ ストレイト・アップ あいつにノック・アウト 冷たいハート 甘い誘惑
2024.05.27
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『僕はゴキゲン』 ジャクソンズ 「The Jacksons」 The Jacksons (76) モータウン・サウンドとフィラデルフィア・サウンドの華麗なる融合! ジャクソン・ファイブからジャクソンズへ。鬼才ギャンブル・ハフのプロデュースで一段とイメージ・アップしたジャクソンズ。大きく成長したマイケルを中心に●●●なニュー・アルバム、エピックから登場!A面 1. 僕はゴキゲン - Enjoy Yourself 2. ふたりはハッピー - Think Happy 3. 愛のひととき - Good Times 4. キープ・オン・ダンシング - Keep on Dancing 5. ブルース・アウェイ - Blues AwayB面 1. 愛ある世界へ - Show You the Way to Go 2. いつもふたりで - Living Together 3. くよくよしないで - Strength of One Man 4. 今日も夢みる - Dreamer 5. スタイル・オブ・ライフ - Style of Life ジャクソン兄弟の11thアルバムにして、モータウン・レコードからエピック・レコードへ移籍しグループ名をジャクソン5(The Jackson 5)からジャクソンズ(The Jacksons)に変更しての初アルバムでもある「僕はゴキゲン(The Jacksons)」。 改名後初アルバムということで原題はセルフタイトルなのだが、邦題は残念ながら先行シングル “僕はゴキゲン(Enjoy Yourself)” がアルバムタイトルになってしまった。今は「ザ・ジャクソンズ・ファースト〜僕はゴキゲン」と改題され、曲名も全てカタカナタイトルになっている。 帯文句で●●●と書いた箇所は、単に画像から読み取れなかったため。黒地に緑字は見にくいことこの上ない。万が一興味がある方は自力で画像を探して確かめるか、アルバムを購入するかしてください…すみません。 ジャクソンズはジャクソン家の兄弟からなり、69年にジャクソン5でデビュー。デビューシングル “帰ってほしいの(I Want You Back)” がいきなりBillboard Hot 100とR&Bチャートの両方で1位を記録したうえ、その後も4曲連続で両チャートの1位に輝くほどの爆発的人気を獲得した。 75年にレコード会社を移籍したものの、モータウンは「ジャクソン5」の商標を手放さなかったため新たに「ジャクソンズ」と名乗ることに。名前関係のゴタゴタといえば日本でも新加勢大周(坂本一生)さん問題とかあったなぁ。 この頃のジャクソンズのメンバーはvoのジャッキー(Jackie Jackson)、リードg&voのティト(Tito Jackson)、voのマーロン(Marlon Jackson)、リードvoのマイケル(Michael Jackson)、key&voのランディ(Randy Jackson)の5人。ジャクソン家は10人兄弟(姉も妹もいる)で、ジャッキーは長男、ティトは次男、マーロンは四男、マイケルが六男でランディは七男だ。三男・ジャーメイン(Jermaine Jackson)は元々ジャクソン5のメンバーだったがレコード会社移籍の際に脱退し、モータウンに残った。長女・リビー(Rebbie Jackson)、次女・ラトーヤ(La Toya Jackson)、三女で末っ子のジャネット(Janet Jackson)もそれぞれソロシンガーとして活躍した。(五男は夭逝している) 「僕はゴキゲン」は全米36位とまずまずの成績で、その後も何枚かアルバムをリリース。82年に「スリラー(Thriller)」でメガヒットを記録したマイケルは84年にジャクソンズを脱退。“King of Pop” の称号を得るも、09年に50歳の若さで急逝してしまった。 マイケル脱退後のジャクソンズは89年にアルバム「2300ジャクソン・ストリート(2300 Jackson Street)」をリリースしたものの90年に解散。2000年代に入ってから何度か再結成しているらしい。 R&Bとかソウルとかファンクとかには全く興味がないので音楽的なことには言及しないが、普通に聴きやすいアルバムだとは思う。マイケルはこの当時16歳ぐらい、伸びやかな歌声が耳に心地いいというか、飽きずに聴いていられる。本当に天才だったんだなぁ、マイケル。 そんなジャクソンズに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ 僕はゴキゲン ふたりはハッピー いつもふたりで
2024.05.26
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『黄金伝説』 シンプル・マインズ 「New Gold Dream (81–82–83–84)」 Simple Minds (82) 全英アルバム・チャート第3位に輝くシンプル・マインズ初のビッグ・ヒット・アルバム。永年の “黄金の夢” を現実のものとした彼らはロック・シーンの最前線に躍り出た。A面 1. さらば夏の日 - Someone Somewhere in Summertime 2. カラーズ・フライ・アンド・キャサリン・ホイール - Colours Fly and Catherine Wheel 3. 奇跡を信じて - Promised You a Miracle 4. 安息のとき - Big Sleep 5. 至上の愛 - Somebody Up There Likes You (Instrumental)B面 1. 黄金伝説 - New Gold Dream (81–82–83–84) 2. グリッタリング・プライズ - Glittering Prize 3. 狩人の詩 - Hunter and the Hunted 4. キング・イズ・ホワイト - King is White and in the Crowd スコットランド出身のシンプル・マインズ(Simple Minds)が82年にリリースした5thアルバム「黄金伝説(New Gold Dream (81–82–83–84))」を取り上げてみた。 まぁ普通の邦題なのだが、「黄金伝説」というとどうしてもココリコの番組を思い浮かべてしまう。田中さんが中国で中華料理検定取得を目指す伝説や、チュートリアルが一週間を獲った貝だけ食べて過ごす伝説、麒麟の二人が凍った湖の上で極寒生活をしながら釣った魚だけで一週間過ごす伝説、くりぃむしちゅーの二人が一週間でクリームシチュー500杯食べきる伝説とかを覚えている。無人島0円生活でのよゐこのちねり米や、1ヶ月1万円節約生活でのオードリー・春日さんのダクト飯も懐かしい…(牛丼を3回ぐらいに分けて食したり、水の入ったボトルに飴を入れてジュースにして飲む姿には衝撃を受けた)。 いやいや、バラエティ番組の方ではなくて、シンプル・マインズについてである。 このアルバムが全英3位に輝き、続く6thアルバム「スパークル・イン・ザ・レイン(Sparkle in the Rain)」(84)で初の全英1位を獲得。でもってシンプル・マインズの名を世界中に知らしめたのは、85年2月にリリースしたシングル “Don't You (Forget About Me)”。80年代青春映画の傑作「ブレックファスト・クラブ (The Breakfast Club)」の主題歌であるこの曲で見事全米1位(全英7位)となり、7thアルバム「ワンス・アポン・ア・タイム(Once Upon a Time)」(85)からシングルカットされた “アライヴ・アンド・キッキング(Alive and Kicking)” も全米3位(全英7位)を記録した。 ♪ど~んちゅ~ ふぉげらばみ~ ど~んど~んど~んど~んというジム・カー(Jim Kerr)のもっさりヴォーカルから当時は勝手におじさんだと思っていたが、“Don't You” 当時でまだ25、6歳だったことに驚いた。デュラン・デュラン(Duran Duran)のサイモン・ル・ボン(Simon Le Bon)が58年生まれでジム・カーが59年生まれだったとは! ジム・カーといえばプリテンダーズ(The Pretenders)のクリッシー・ハインド(Chrissie Hynde)と84年に結婚したが(90年離婚)、姐さんが51年生まれということは8歳下だったのか…。ジム・カーは92年にエイス・ワンダー(Eighth Wonder)のパッツィ・ケンジット(Patsy Kensit)と再婚したが(96年離婚)、パッツィは68年生まれなので次は9歳差婚であった。20代の頃は頼れる姉御に惹かれて、30代になって小悪魔的ロリっ子ちゃんに参っちゃったのかなぁ。 シンプル・マインズは現在も活動中だが意外とメンバーはちょくちょく代わっていて、創設メンバーで今も残っているのはvo.のジム・カーとgのチャーリー・バーチル(Charlie Burchill)の二人だけだ。「黄金伝説」の頃のメンバーはジム、チャーリー、そしてbのデレク・フォーブス(Derek Forbes)、dsのマイク・オーグルトリー(Mike Ogletree)、keyのマイケル・マクニール(Michael MacNeil)だった。制作時はdsの交代時期だったようで、マイク以外にメル・ゲイナー(Mel Gaynor)とケニー・ヒスロップ(Kenny Hyslop)が叩いている曲もあるみたい。 おばはんになってからシンプル・マインズの曲を聴くと何だか気持ちが落ち着くような感じがして、ずっと聴いていられる。HR/HMやプログレもいいけど、こういうほわ~ん、もわ~んとしたロックもいいよね(感じ方には個人差があります)。 そんなシンプル・マインズに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ さらば夏の日 奇跡を信じて 黄金伝説
2024.05.22
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『スリだー』 アル・ヤンコビック 「Eat It」 "Weird Al" Yankovic (84) 模倣と創造のランデブー、事情通にバカ受けのイミテーション・ワールド 今世紀最大のロック・パロディスト『へんてこりん』なアル・ヤンコビックのデビュー・アルバム遂に完成。全米大ヒット曲のパロディーを集中させて世界を騒がす未曾有のケッ作。A面 1. 今夜もEAT IT - Eat It 2. ロッキーXIII主題歌「ライ・オア・ザ・カイザー」 - The Rye or The Kaiser(Theme from Rocky XIII) 3. アイ・ラヴ・ロッキー・ロード - I Love Rocky Road 4. キング・オブ・スエード - King of Suede 5. クイズ・ジェパーディ - I Lost on Jeopardy 6. マイ・ボローニャ - My BolognaB面 1. リッキー - Ricky 2. ブレイディ・バンチ - The Brady Bunch 3. 嘆きの点数 - Stop Draggin' My Car Around 4. 遅刻へ道づれ - Another One Rides the Bus 5. ポルカズ・オン・45 - Polkas on 45 みんな大好き!パロディ音楽の第一人者であるアル・ヤンコビック("Weird Al" Yankovic)のこのアルバムは、全米でリリースされている2枚のアルバム(「"Weird Al" Yankovic」(83)、「"Weird Al" Yankovic in 3-D」(84))からパロディ・ソングのみを収録した日本限定盤だ。これを邦題アルバムと言ってよいのか怪しいところだが、素晴らしいタイトルなので取り上げておこう。 アル・ヤンコビックの代表作といえば、マイケル・ジャクソン(Michael Jackson)の “今夜はビート・イット(Beat It)” の替え歌 “今夜もイート・イット(Eat It)” と、同じくマイケルの “BAD(Bad)” の替え歌 “FAT(Fat)” だろう。このアルバムの英題は「Eat It」ながら邦題(日本限定盤だけど)はマイケルが82年にリリースした大ヒットアルバム「スリラー(Thriller)」から取られており、ジャケットも本家のパロディである。 念のため、このアルバムに収録されている各曲の元ネタを記しておくとA面 1. 今夜はビート・イット - Beat It(Michael Jackson) 2. ロッキーIII主題歌「アイ・オブ・ザ・タイガー」 - Eye of the Tiger(Theme from Rocky III)(Survivor) 3. アイ・ラヴ・ロックン・ロール - I Love Rock 'n' Roll(Joan Jett and the Blackhearts) 4. キング・オブ・ペイン - King of Pain(The Police) 5. ジェパーディ(危険がいっぱい) - Jeopardy(The Greg Kihn Band) 6. マイ・シャローナ - My Sharona(The Knack)B面 1. Mickey - Mickey(Toni Basil) 2. セーフティ・ダンス - The Safety Dance(Men Without Hats) 3. 嘆きの天使 - Stop Draggin' My Heart Around( Stevie Nicks and Tom Petty and the Heartbreakers) 4. 地獄へ道づれ - Another One Bites the Dust(Queen) 5. スターズ・オン45 - Stars on 45(「Stars on 45」は当時流行っていた人気アーティストのメドレーソング) アル・ヤンコビックの愛すべきバカバカしさは、完成度の高い替え歌&本家そっくりのパロディPVを見て、聴いて理解していただくしかない。 ただ、パロディは元を知っていないと面白くも何ともないので、洋楽に馴染みの無い方は楽しめないのが残念なところ。 替え歌のみならず、88年に第1作目の「裸の銃を持つ男(The Naked Gun: From the Files of Police Squad!)」が公開され、後に続編が2本作られたこのシリーズ全作にチョイ役でアルも出演しているのだが、一瞬の出番にもかかわらず実に絶妙なキャスティングで笑ってしまった。 22年には何と!アルの自伝的映画「こいつで、今夜もイート・イット アル・ヤンコビック物語(Weird: The Al Yankovic Story)」がRoku Channelで放映され、数々の賞を手にした。ちなみにアルを演じたのはダニエル・ラドクリフ(Daniel Radcliffe)であった。 「スリだー」以降も、マドンナ(Madonna)の “ライク・ア・ヴァージン(Like a Virgin)” の替え歌 “Like A Surgeon”、ニルヴァーナ(Nirvana)の “スメルズ・ライク・ティーン・スピリット(Smells Like Teen Spirit)” の替え歌 “Smells Like Nirvana” 等々面白替え歌ソングを次々と発表し、ささくれ立った私たちの心を和ませてくれている。 そんなアル・ヤンコビックに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ 今夜もEAT IT リッキー アイ・ラヴ・ロッキー・ロード おまけ Like A Surgeon Smells Like Nirvana FAT
2024.05.19
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『だ・れ・だ?!』 ブランドX 「Is There Anything About?」 Brand X (82) 特異な存在で音楽シーンに次代を指示するスーパー・プロジェクト、ブランドX。ジャズ、フュージョンを越えて新世代のジャンル「X」をクリエイトする。A面 1. イパネミア - Ipanaemia 2. 長い4月 - A Longer April 3. モダーン、ノイジー&イフェクティヴ - Modern, Noisy and Effective B面 1. スワン・ソング - Swan Song 2. だ・れ・だ?! - Is There Anything About? 3. ATGA - TMIU-ATGA 英国のジャズ・フュージョン(ジャズ・ロック)バンドであるブランドX(Brand X)が82年にリリースした6thアルバム「だ・れ・だ?!(Is There Anything About?)」。流石にこの邦題は恥ずかしいと気付いたのか、現在では「イズ・ゼア・エニシング・アバウト?」という何の変哲も無いカタカナタイトルになっている。 おそらく私だけだろうけど、ブランドXとジェネレーションX(Generation X)がごっちゃになってしまう ゼンゼンチャウヤンケー!! ビリー・アイドル(Billy Idol)がいたパンク・ロックバンドがジェネレーションXで、フィル・コリンズ(Phil Collins)がいたジャズ・フュージョンバンドがブランドXである。ちなみにブランドXの結成が75年で、ジェネレーションXの結成は76年だ…ってどうでもいいけど。 ジェネシス(Genesis)のドラマー兼ヴォーカルだったフィル・コリンズ、80年代にはソロでも大ヒットを連発し、当時は “世界で一番忙しい男” と言われていた。確かにソロとして共に全米1位に輝いた “One More Night”(84) や “Sussudio”(85)はいい曲だったし、ジェネシスが86年にリリースした13thアルバム「インヴィジブル・タッチ(Invisible Touch)」は捨て曲なしの名盤で未だに大好きなアルバムではあるものの、80年代におけるフィル・コリンズの異常人気は何だったんだろう? 85年7月13日に開催された「ライヴエイド(LIVE AID)」で彼は英国の会場で演奏した後にコンコルドで米国の会場に移動し、両会場に出演した唯一のミュージシャンとなったが、何故そこまで需要があったのだろう?81年に “ルビーの指輪” で空前の大ヒットを飛ばした寺尾聰さんと並び、80年代の2大謎需要であった。 さて、「だ・れ・だ?!」リリース時のブランドXのメンバーはというと、keyのロビン・ラムリー(Robin Lumley)とJ・ピーター・ロビンソン(J. Peter Robinson)、gのジョン・グッドソール(John Goodsall)、bのジョン・ギブリン(John Giblin)とパーシー・ジョーンズ(Percy Jones)、そしてdsのフィル・コリンズ。 80年~92年までの休止期間はあったものの99年までバンドの活動は続いていたらしい。16年にジョン・グッドソールとパーシーを中心に再結成(フィルは不参加)するも、20年にパーシーが脱退。ジョン・グッドソールが21年11月に、ロビンは23年3月に亡くなっている。 昔からジャズは苦手なのだが、いざ聴いてみると案外すんなり聴けた。ジャズ・ロックということでロック色が強めだからかな。耳も感性も未熟なので、残念ながらこういう大人の音楽を楽しめる心の余裕が備わってないのである。いいアルバムだとは思うけど。 そんなブランドXに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪フルアルバムを貼っておくので、お暇な方は是非ご一聴あれ。 だ・れ・だ?!(Full Album)
2024.05.18
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「探偵!ナイトスクープ」で永らく最高顧問を務められていたキダ・タローさんが今月14日に亡くなられた。93歳だったそうだが、先月も出演されていたことに驚いた。御冥福をお祈りいたします。 初代局長の上岡龍太郎さん、初代最高顧問の横山ノックさん、そして2代目最高顧問のキダタローさんまで鬼籍に入られてもなお番組が継続しているのは素晴らしいが、もう久しく見ていない。 近頃は麒麟の田村 裕探偵とスリムクラブの真栄田 賢探偵、そして昨年新たに入局したカベポスターの永見大吾探偵の調査だけをYouTubeで視聴するくらいだ。 以前、「探偵!ナイトスクープ ~全国アホ・バカ分布図~」と題した駄記事を書いた。90年(平成2年)1月に放送された「東京からどこまでが『バカ』で、どこからが『アホ』なのか調べてください」という、アホとバカの境界線を探す依頼の調査結果について綴ったが、そういえばこの放送回の顧問もキダ先生だった。北野 誠探偵の中途半端な調査をよくキダ先生が貶していたが、この回もそうだったように思う。それが面白かったなぁ。 「探偵!ナイトスクープ」のDVDはVol.1~14と25周年記念DVD 百田尚樹セレクション(Vol.15、16)&キダ・タローセレクション(Vol.17、18)の計18枚出ているようだ。 私が持っているのはVol.1~6とVol.14の7枚。個人的には上岡局長時代のナイトスクープが好きだった。2代目の西田局長時代も悪くはなかったのだが、いつの間にか見なくなってしまった。3代目の松本局長になってからは一度も見たことがない。 秘書もやっぱり岡部まりさんが良かったし、探偵の面々も以前の方が好きだった。嘉門達夫探偵とか越前屋俵太探偵、前述の北野探偵とか長原成樹探偵とか。桂小枝探偵の小ネタ集もバカバカしくて面白かったなぁ。 記憶に残っている依頼は、先程の「アホとバカの境界線」の他には、有名な「謎の爆発卵」や「タケモトピアノCMの謎」、笑い転げた「大和川ボート通勤」や「巨大シジミ」、調査中止となった「謎のビニール紐」等々。 久々にDVDを見返してキダ最高顧問を偲びたい。笑っちゃうだろうけど、しんみり偲ぶよりはキダ先生も喜んでくださることだろう。 昔の「探偵!ナイトスクープ」は本当に面白かったなぁ。局長や探偵達は元より、依頼者もアホ(褒めてます)で最高に面白かった。 キダ最高顧問も今頃は上岡局長とナイトスクープの思い出話に花を咲かせているかしらん…。
2024.05.17
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ジョージ・ハリスン(George Harrison)のちょうど一周忌に当たる02年11月29日、英国のロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall)で追悼公演「Concert for George」が開催された。 親友のエリック・クラプトン(Eric Clapton)が主催し、音楽監督とホスト役を務めたこのコンサートには、ジョージと親交のあったミュージシャン達が勢揃いした。 ビートルズ(The Beatles)仲間だったポール・マッカートニー(Paul McCartney)とリンゴ・スター(Ringo Starr)を始め、ビートルズのゲット・バック・セッションに参加したビリー・プレストン(Billy Preston)、ドイツ・ハンブルグ時代の友人で「リボルバー(Revolver)」のジャケットデザインを手掛けたクラウス・フォアマン(Klaus Voormann)。トラヴェリング・ウィルベリーズ(Traveling Wilburys)仲間のジェフ・リン(Jeff Lynne)やトム・ペティ(Tom Petty & The Heartbreakers)、ジョージの敬愛するジョー・ブラウン(Joe Brown)。更にはジョージのシタールの師であったラヴィ・シャンカール(Ravi Shankar)&娘のアヌーシュカ・シャンカール(Anoushka Shankar)、ジョージが大好きだったモンティ・パイソン(Monty Python)等。そして勿論、ジョージの一人息子であるダーニ(ダニー)・ハリスン(Dhani Harrison)も加わり、心温まる最高のコンサートであった。 それから時は流れて14年9月28日、米国ロサンゼルスのフォンダ・シアター(Fonda Theatre)で「George Fest」が開催された。副題は「A Night to Celebrate the Music of George Harrison(ジョージ・ハリスンの音楽を祝う夕べ)」。そして16年2月26日(ジョージが73歳の誕生日を迎えるはずだった日の翌日)には2CD+DVD(Blu-Ray)の限定デラックス・エディション(普通に2CDのみも有)が発売された。 プロデュースを手掛けたダーニ曰く、「僕と同世代のミュージシャンが、小さなクラブで父のキャリアの中でもディープな楽曲を自由に演奏するショウを今までずっと思い描いていたんだ。そして、今回はまったく新しく鮮やかな形で、自分が一番大切に思ってきた音楽界のヒーローたちと再びステージを共にし、僕の人生で一番馴染みのある曲を演奏する自分がいた。…皆さんにもこの録音を僕と同じように楽しんでもらえますように。父の曲に、今までできると思いもよらなかった最高の解釈が施されています」(Sony Music Group HPより) ということで、以前の「Concert for George」と比べると「George Fest」に参加しているミュージシャンは馴染みの無い方もチラホラ。おばはんが知っているのはザ・ビーチ・ボーイズ(The Beach Boys)のブライアン・ウィルソン(Brian Wilson)、ハート(Heart)のアン・ウィルソン(Ann Wilson)、そして何故かアル・ヤンコビック("Weird Al" Yankovic)!いや、嬉しいけど…。そして「Concert for George」に出演していたラヴィ・シャンカールの娘でアヌーシュカの異母姉であるノラ・ジョーンズ(Norah Jones)とダーニくらい。 他にはスプーン(Spoon)のブリット・ダニエル(Britt Daniel)、ザ・キラーズ(The Killers)のブランドン・フラワーズ(Brandon Flowers)、ザ・カルト(The Cult)のイアン・アストベリー(Ian Astbury)、ザ・ストロークス(The Strokes)のニック・ヴァレンシ(Nick Valensi)、ザ・フレーミング・リップス(The Flaming Lips)の皆さん等々。あ、ザ・カルトぐらいは知ってるかな。 “Savoy Truffle” や “It's All Too Much” といったビートルズ時代のややマイナーな曲や、“Ballad of Sir Frankie Crisp (Let It Roll)” のようなソロ時代の目立たなかった曲も含まれている点は素晴らしい。ノラ・ジョーンズが歌う “Something” も素晴らしいが、個人的に一推しなのは “What is Life” by アル・ヤンコビック。アルも好きだし、この曲も大好きなので嬉しい。嗚呼、美しき人生哉。あとはザ・フレーミング・リップスの “It's All Too Much” が良くて、意外とライヴ演奏もアリだなぁと思ったりして。 一方、大定番の “While My Guitar Gently Weeps” は今回入っていない。やっぱりエリック・クラプトンがいてこその “While My Guitar…” なのかしらん!? ライヴの各演奏はジョージの公式YouTubeにあがっているので、いくつか貼っておこう。ダーニ世代のミュージシャン達が楽しそうに演奏しているのを見ていると、何だか心が和む。ジョージの曲はいい曲が多いので、子の代、孫の代まで引き継がれるといいなぁ♪ Old Brown Shoe - Conan O'Brien Ballad of Sir Frankie Crisp (Let It Roll) - Jonathan Bates, Dhani Harrison Beware of Darkness - Ann Wilson Something - Norah Jones It's All Too Much - The Flaming Lips What Is Life - "Weird Al" Yankovic
2024.05.16
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『夜ごとに太る女のために』 キャラヴァン 「For Girls Who Grow Plump in the Night」Caravan (73) プログレッシヴ・ロックにこの名盤あり!!「ロッキン・コンチェルト」と双璧をなすキャラヴァン、1973年の不朽の名作! A面 1. メモリー・レイン・ヒュー - Memory Lain, Hugh 2. ヘッドロス - Headloss 3. ホーダウン - Hoedown 4. サープライズ・サープライズ - Surprise, Surprise 5. シースルースルー - C'thlu ThluB面 1. ドッグ・ドッグ - The Dog, The Dog / He's at It Again 2. ビー・オール・ライト / チャンス・オブ・ア・ライフタイム - Be All Right / Chance of a Lifetime 3. いのししの館 / 狩へ行こう / ペンゴラ / バックワーズ / 狩へ行こう(反復) - L'Auberge du Sanglier / "A Hunting We Shall Go / Pengola / Backwards / A Hunting We Shall Go (reprise) 英国のカンタベリー・シーン(Canterbury scene)を代表するバンドの一つであるキャラヴァン(Caravan)が73年にリリースした5thアルバム「夜ごとに太る女のために(For Girls Who Grow Plump in the Night)」。ほぼ原題直訳の邦題だが、夜ごとに太る女って…私のこと!? 何だかチョコザップ(chocoZAP)やらカーブス(Curves)やらの誘い文句にありそうなタイトルは面白いけど、曲名の邦題が手抜きでよろしくない。ザッパ(Frank Zappa)やカーカス(Carcass)、コルピクラーニ(Korpiklaani。フィンランド出身のフォーク・メタルバンド)あたりだと、“目盛0(レイ)、ヒューッ!”(ザッパ風)、“獄門打首頭顱喪失(カーカス風)”、“歌えや踊れやドンジャラホイ”(コルピ風)てな感じになって楽しめただろう。 さて、カンタベリー・シーン(日本ではカンタベリー・ロック)というジャンルであるが、これは英国南東部のケント州カンタベリー出身者を中心とするプログレッシブ・ロック系のバンドやミュージシャンによる音楽を指す。64年にカンタベリーで結成されたワイルド・フラワーズ(The Wilde Flowers)からカンタベリー・ロックを代表するソフト・マシーン(Soft Machine)とキャラヴァンが生まれ、メンバーの離合集散とともに人脈がさらに広がり、ジャンルとしてくくられるほどの存在感を示すようになったとのこと(Wikiさんより)。 以前、ケヴィン・エアーズ(Kevin Ayers)の「夢博士の告白(The Confessions of Dr. Dream and Other Stories)」を取り上げたが、彼もワイルド・フラワーズのメンバーだった。ワイルド・フラワーズが67年に解散した際、メンバーはソフト・マシーンとキャラヴァンの2派に分裂したらしく、ケヴィンら4人はソフト・マシーンを、他の4人はキャラヴァンを結成した。 キャラヴァンの創設メンバーはg&voのパイ・ヘイスティングス(Pye Hastings)、bのリチャード・シンクレア(Richard Sinclair)、keyのデイヴ・シンクレア(Dave Sinclair)、drのリチャード・コフラン(Richard Coughlan)。その後ちょこっとメンバー交代があり、このアルバム作成時にはbがリチャードからジョン・G・ペリー(John G. Perry)に交代、そして新たにgやviola等を担当するジェフリー・リチャードソン(Geoffrey Richardson)が加わって5人組になっている。パイとジェフリーは現在もキャラヴァンで活動中のようだ。 73年10月リリースということは50年前のアルバムになるのだが、そこまで古臭さも感じさせなくて聴きやすい。結構キャラヴァン、いいかも。他のカンタベリー系も聴いてみようかな。……あ、「夢博士の告白」で音楽的にはちょっと好みじゃないって書いたっけ。カンタベリー系というよりキャラヴァンがいいだけかも。というかキャラヴァンというよりこのアルバムがたまたま良いだけかも!? 機会があったら他にも色々聴いてみようっと。 そんなキャラヴァンに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ メモリー・レイン・ヒュー / ヘッドロス ホーダウン シースルースルー
2024.05.14
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「鬼滅の刃」の柱稽古編がついに始まった。おばはんは一日千秋の思いでこの日を待っていたのである。 嗚呼、蛇柱・伊黒さんと風柱・不死川さんのアニオリ共闘シーンを家でじっくりと鑑賞出来て嬉しい 伊黒さんの技のエフェクトを最初に映画館で見たときは正直、少しガッカリしたのだが(思てたんと違う!)、改めて見るとまぁそこまで悪くはないような…。私の脳内ではもっと透き通った半透明の美しい蛇の姿を勝手に思い描きながら読んでいたので、こういう荒々しい白塗り蛇のエフェクトになるとは。だけど伊黒さんの格好良さ、美しさが堪能出来れば、蛇の姿など別にどうでもいい。 伊黒さんの活躍を存分に堪能でき、且つ幼少期の痛ましくて幼気な姿が見れるのは最終決戦なのだが、やはり映画になるのかなぁ?というか、柱稽古編ってどこまで進むのだろう?柱稽古から最終決戦って結構スムーズに繋がっているよね!? それにしてもやっぱり伊黒さんかっこよ 「一休さん」の蜷川新右衛門さん、「ガンバの冒険」のイカサマ、そして「鬼滅の刃」の伊黒小芭内さんが私の大好きキャラTOP 3である。我ながらどういう趣味なんでしょ どうかどうか、最終決戦での伊黒さんの動く雄姿が見られる日まで南海トラフが発生しませんように。戦争に巻き込まれませんように。健康でいられますように。ufotableさんがなるべく早くアニメ化してくださいますように。そこまで手間隙掛けて凝りに凝った作画でなくても、動いて鈴村健一さんが喋ってくだされば満足ですので、早めにアニメ化されますように――とはいっても、作画のハイパークオリティが鬼滅の良さでもあるのよね。 柱稽古編での伊黒さんの処刑場稽古が楽しみ♪
2024.05.13
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『刺青 ~神秘のロック野郎~』 タトゥー 「Tattoo」 Tattoo (76) 明日のポップス・シーンはこれだ!! あの「ラズベリーズ」のウォーリー・ブライソンがクリエイトする “タトゥー”。メロディアスでストレートなサウンドが爆発する神秘な世界!!A面 1. ホワット・ディド・ヒー・ドゥ - What Did He Do 2. ギブ・イット・トゥ・ヤ・イージー - Give It To Ya Easy 3. 君にあげよう - Send A Ship 4. おまえが欲しい - I Still Want You 5. 完璧な愛 - Absolutely LoveB面 1. 冷たい初恋 - It's Cold Outside 2. ヤー・スティール - Yer Stale 3. ひとりぼっちの土曜の夜 - Lonely Saturday Night 4. おまえの街 - This Is Your City 5. ハイウェイが呼んでいる - The Highway Calls My Name 今回取り上げるのはタトゥー(Tattoo。カタカナで書くと何だか間抜けっぽい)が76年にリリースしたセルフタイトルアルバム「刺青 ~神秘のロック野郎~(Tattoo)」。このバンドがリリースした唯一のアルバムである。 タトゥーといえば、20年ほど前に来日してTV番組「ミュージックステーション」でドタキャン騒動を起こしたロシアの女の子デュオ・t.A.T.u.の方がまだ知られているかもしれない。 しかしこちらのタトゥーは米国の男性5人グループだ。なので邦題もサブタイトルに “ロック野郎” と付いている。 グランド・ファンク・レイルロード(Grand Funk Railroad)が74年にリリースした「ハード・ロック野郎(世界の女は御用心)(All the Girls in the World Beware!!!)」を取り上げた際にも書いたが、この時代は巷に野郎が溢れていた。白バイ野郎、特攻野郎、冒険野郎、トラック野郎、ヒコーキ野郎など、海外のドラマや映画び邦題には “野郎” が付くものが多かったし、日本でも「トラック野郎」シリーズなんていう映画もあったぐらい、野郎が満ちていた。なのでなかなか時代を反映したサブタイトルと言えよう。 近年はあまり野郎を見なくなったもんなぁ。数年前に元SMAPの3人(新しい地図)主演の映画「クソ野郎と美しき世界」で見かけたくらいだ。 今はポリコレ(political correctness)に厳しい時代なので、野郎邦題は付けにくいかも。 さて、このタトゥーというバンドはエリック・カルメン(Eric Carmen)と共にラズベリーズ(Raspberries)を率いたウォーリー・ブライソン(Wally Bryson)が、故郷であるオハイオ州クリーブランド出身のミュージシャン仲間らと結成したバンドであったらしい。 メンバーはg&voのウォーリー・ブライソンの他に、gのデヴィッド・アレン・トーマス(David Allen Thomas)、bのダン・クレイウォン(Dan Klawon)、drのトム・ムーニー(Thom Mooney)、Pianoのジェフ・ハットン(Jeff Hutton)。 タトゥーとは関係ないがラズベリーズが75年に解散して以降、エリック・カルメンはソロとして75年にリリースした1stソロアルバム「エリック・カルメン(Eric Carmen)」からのシングル “オール・バイ・マイセルフ(All by Myself)” が全米2位の大ヒット!その後は低迷していたが、84年公開の「フットルース(Footloose)」の挿入歌 “パラダイス~愛のテーマ(Almost Paradise)” の作曲を手掛け、87年公開の「ダーティ・ダンシング(Dirty Dancing)」の挿入歌で自身が歌った “ハングリー・アイズ(Hungry Eyes)” は全米4位を記録して復活を遂げた。しかし今年3月にエリックは74歳で亡くなった。 話をタトゥーに戻すと、このアルバムは『disaster』と評された。ディザスターというのは災害や大惨事、大失敗とかいう意味だけど、そんなに酷い!? このジャケットが若干不気味で悪趣味だったかも。白塗りで着物姿の女性が内腿に彫ってある刺青(ライオン?何かの獣)を見せているような写真なのだが、背景が真っ黒なのでちょっと怖い。まるで団鬼六の世界のような… そんなタトゥーに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ ギブ・イット・トゥ・ヤ・イージー おまえが欲しい
2024.05.12
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『ヒッチハイクの賛否両論』 ロジャー・ウォーターズ 「The Pros and Cons of Hitch Hiking」 Roger Waters (84) ピンク・フロイドの “頭脳” ロジャー・ウォーターズの私的なインナートリップ。初のソロ作となったコンセプトアルバム。A面 1. 4:30AM トラベリング・アブロード - 4:30AM (Apparently They Were Travelling Abroad) 2. 4:33AM ランニング・シューズ - 4:33AM (Running Shoes) 3. 4:37AM ナイフを持ったアラブ人と西ドイツの空 - 4:37AM (Arabs with Knives and West German Skies) 4. 4:39AM 初めての出来事 パート2 - 4:39AM (For the First Time Today, Part 2) 5. 4:41AM セックス革命 - 4:41AM (Sexual Revolution) 6. 4:47AM 愛の香り - 4:47AM (The Remains of Our Love)B面 1. 4:50AM フィッシング - 4:50AM (Go Fishing) 2. 4:56AM 初めての出来事 パート1 - 4:56AM (For the First Time Today, Part 1) 3. 4:58AM さすらう事そして生きる事をやめる - 4:58AM (Dunroamin, Duncarin, Dunlivin) 4. 5:01AM 心のヒッチハイキング - 5:01AM (The Pros and Cons of Hitch Hiking, Part 10) 5. 5:06AM ストレンジャーの瞳 - 5:06AM (Every Stranger's Eyes) 6. 5:11AM 透明なひととき - 5:11AM (The Moment of Clarity) ピンク・フロイド(Pink Floyd)のベーシストであるロジャー・ウォーターズ(Roger Waters)が84年にリリースした初ソロアルバム「ヒッチハイクの賛否両論(The Pros and Cons of Hitch Hiking)」。邦題は原題直訳なので取り立てるほどではないが、何故か素っ裸のお姉さんがヒッチハイクをしているジャケットが目を引いたので取り上げてみた。 当時はネット通販がなかったので、青少年がこのアルバムをレジに持っていくには勇気が必要だっただろうなぁ…と思ったら、お尻を隠して売られていた所もあったようだ。 赤パンツを履かせてみたり、■で隠してみたり。更に■に加えて帯で半分隠したりして。 外人さんはスタイルがいいので、素っ裸ヒッチハイク姿もエロさより格好良さが勝っている…なんて思うのは私がおばはんだからかな。 85年に出版された「ロック名盤・レコード&ビデオ・ガイド」という本には「ザ・プロス・アンド・コンス・オブ・ヒッチハイキング」というカタカナタイトルで記載されているので、途中から邦題に変更されたのかも。だとしたらちょっと珍しい。 さて、このアルバムは神経症を患った主人公が見ている夢を、聴き手が同時進行で追っていくというコンセプトアルバムで、中年の危機に直面した主人公の男がカリフォルニアをロードトリップし、途中で拾ったヒッチハイカーと不倫し、荒野に移住して妻と和解しようとし、最終的には孤独になるがより深い洞察力を得るという夢の旅物語らしい。 物語は午前4時30分から午前5時13分までの43分間に起こる断続的な夢としてリアルタイムで構成されており(収録時間も43分)、夢の終わりに男は孤独で悔い改めながら目覚め、おそらく危機を乗り越えたのか本当の妻に慰めを求る――というものだそうな。 YouTubeでフルアルバムを聴いただけなので、そのあたりの物語は分からない。まぁ女性の喘ぎ声が入っていたりするけど。ただ、このアルバムにはエリック・クラプトン(Eric Clapton)が参加しており、彼のスライドギターを聴くことができる。 「ヒッチハイクの賛否両論」をリリースした翌85年にロジャーはピンク・フロイドを脱退し、87年に2ndソロアルバム「RADIO K.A.O.S. 〜混乱の周波数〜(Radio K.A.O.S.)」をリリースした。これも架空のラジオ局「Radio KAOS」を舞台としたコンセプトアルバムなのだとか。 残念なことに今の邦題はただの「RADIO K.A.O.S.」になっている。 A面 1. ラジオ・ウェイヴ - Radio Waves 2. 誰がそんな情報を必要としてるんだい? - Who Needs Information 3. 彼か、もしくは私が… - Me or Him 4. 予知能力 - The Powers That BeB面 1. サンセット通りにて - Sunset Strip 2. ホーム〜誰にでも国は存在する〜 - Home 3. 4分間のシミュレーション・ゲーム - Four Minutes 4. 流れが変わる時〜ライブ・エイドが終わって〜 - The Tide Is Turning (After Live Aid) “流れが変わる時〜ライブ・エイドが終わって〜(The Tide Is Turning (After Live Aid))” というのは、85年7月13日に開催されたアフリカ難民救済を目的としたチャリティコンサート「Live Aid」にロジャーは参加を申し込んだものの、主催者のボブ・ゲルドフ(Bob Geldof)に断られたらしい。しかしそのイベントがこの曲を書くきっかけになったそうな。 まぁ確かにこんな難解なアルバム曲で観客と盛り上がるのは難しいわな。残念だったけど。 そんな素っ裸ヒッチハイク ロジャー・ウォーターズに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪これは是非フルアルバムをご堪能くだされ。 ヒッチハイクの賛否両論(Full Album)
2024.05.11
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『放射能』 クラフトワーク 「Radio-Activity(Radio-Aktivität)」 Kraftwerk (75) ナチス・ドイツの魂を継承して、アメリカに侵略を敢行したジャーマン・プログレッシヴ・パワー、クラフトワーク、「アウトバーン」に続く待望の最新作! エレクトロニクス・エフェクトを駆使し、無限の可能性を視覚的に表現したクラフトワーク 快心の第2弾!!A面 1. ガイガー・カウンター(放射能測定器) - Geiger Counter(Geigerzähler) 2. 放射能 - Radioactivity(Radioaktivität) 3. ラジオランド - Radioland 4. エアウェーヴス - Airwaves(Ätherwellen) 5. 中断 - Intermission(Sendepause) 6. ニュース - News(Nachrichten)B面 1. エネルギーの声 - The Voice of Energy(Die Stimme der Energie) 2. アンテナ - Antenna(Antenne) 3. ラジオ・スターズ - Radio Stars(Radio Sterne) 4. ウラニウム - Uranium(Uran) 5. トランジスター - Transistor 6. オーム・スイート・オーム - Ohm Sweet Ohm ドイツの電子音楽?テクノ・ポップ?のバンド・クラフトワーク(Kraftwerk)が75年にリリースした5thアルバム「放射能(Radio-Activity・Radio-Aktivität)」。邦題というか原題を直訳しているだけなのだが、まぁ珍しいタイトルなので取り上げてみたい。 人類史上初、且つ世界で唯一核兵器が実戦使用された国で生まれ育った者として、放射線の怖さは心に刻まれている。日本に投下された原子爆弾は2発。一つは45年8月6日に広島市に投下されたガンバレル型ウラニウム活性実弾でコードネームはリトルボーイ(Little Boy)。もう一発は同年8月9日に長崎市に投下されたプルトニウムを用いたインプロージョン方式の原子爆弾・ファットマン(Fat Man)。大量の熱線と放射線を浴びて亡くなった方は両市で20万人にも上った。 私が16歳だった86年4月26日、チェルノブイリ原子力発電所事故が起った。当時は連日報道されていたが、所詮異国の事故ということでわりと呑気にニュースを眺めていた。 放射線の恐ろしさに初めて震えたのは、99年9月30日に茨城県で起った東海村JCO臨界事故だ。施設内で核燃料を加工していた最中にウラン溶液が臨界に達して核分裂連鎖反応が発生、至近距離で多量の中性子線を浴びた作業員3名中2名が亡くなった。後年、その被爆から死に至るまでの状況をネットで知って、PC前で慄然とした。 11年3月11日には東日本大震災による福島第一原子力発電所事故が発生。チェルノブイリ原発事故と並ぶレベル7の深刻な事故だった。どこかのTV局ではプレゼント当選者として「怪しいお米 セシウムさん」などというとんでもないフリップを誤放送して大顰蹙を買ったっけ。東日本一帯が立入禁止の政府管理区域となり、新首都が「岡京」になるとの某タイムトラベラーさんの予言も懐かしい(岡山県民なので未だに覚えている) ちなみに放射線、放射能を光にたとえると、放射線は光で、放射能は光を出す能力のことだそうな(電気事業連合会HPより)。 さて、アルバム「放射能」であるが、当初のジャケットはナチス政権の宣伝省が1930年代後半に導入した国民ラジオのイラストだった。09年のリマスター盤からは放射性標識の三葉マーク(アルファ線、ベータ線、ガンマ線)が描かれているジャケットになっている。 Wikiさんによると、「放射能」は放射性崩壊(Radioactive decay)とラジオ(radio communication)をテーマに編成されたコンセプト アルバムらしい。 クラフトワークのこの頃のメンバーは、v&シンセその他のラルフ・ヒュッター(Ralf Hütter)とフローリアン・シュナイダー(Florian Schneider)、電子ドラムのカール・バルトス(Karl Bartos)とヴォルフガング・フリューア(Wolfgang Flür)の4人。このグループは現在も活動中だが、ちょくちょくメンバーが代わっており、この中で今も残っているのは創設メンバーでもあるラルフ・ヒュッターのみだ。同じ創設メンバーだったフローリアンは08年に脱退、20年に癌で亡くなった。 個人的にこういう無機質な音楽には興味をそそられないのだが、クラフトワークというグループ名を昔から知ってはいたので今回初めてアルバムを聴いてみて、世の中にはこういう音楽を受け入れられる人が大勢いるんだな…と感じた次第。勿論、悪くはないけど。 再びWikiさんによると、2012年7月7日に幕張メッセで行われた反原発ライブイベント「NO NUKES 2012」(YMOが “放射能(Radioactivity)” をカヴァーした)で このイベントに参加したクラフトワークは、同曲を福島の原発事故を明確に意識し反原発(反放射能汚染)を訴える坂本龍一さんの監修による日本語詞で歌唱し現在も世界中のライヴで歌い続けている――とのことらしい。 YouTubeにその “放射能” の福島バージョンが上がっていたので貼っておこう。反原発派だった坂本さんの詞も書いておく。原発の代替エネルギーが開発されればよいのだけれど。 放射能(Fukushima Version)←タイトル click 日本でも 放射能 きょうも いつまでも フクシマ 放射能 空気 水 すべて 日本でも 放射能 いますぐ やめろ そんなクラフトワークに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ ガイガー・カウンター(放射能測定器) ウラニウム オーム・スイート・オーム
2024.05.09
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『大狂乱スレイド一座』 スレイド 「Old New Borrowed and Blue」 Slade (74) ハード・ポップの王者スレイド、彼等のステージには聴かせて、見せて、楽しく、陽気で、という本来の姿がある。A面 1. ジャスト・ウォント・ア・リトル・ビット - Just Want a Little Bit 2. 明りが消える時 - When the Lights Are Out 3. ボクの町 - My Town 4. 虹を見つけよう - Find Yourself a Rainbow 5. マイルズ・アウト・トゥ・シー - Miles Out to Sea 6. 屋根に昇って - We're Really Gonna Raise the RoofB面 1. ドゥ・ウイ・スティル・ドゥ・イット - Do We Still Do It 2. ハウ・キャン・イット・ビー - How Can It Be 3. ドント・ブレイム・ミー - Don't Blame Me 4. マイ・フレンド・スタン - My Friend Stan 5. エヴリデイ - Everyday 6. グッド・タイム・ガールズ - Good Time Gals GWは存分に楽しめましたでしょうか?GW明け一発目は元気を出してスレイド(Slade)が74年にリリースした4thアルバム「大狂乱スレイド一座(Old New Borrowed and Blue)」を取り上げたい。 英国のロックバンドであるスレイドとの出会いは、83年にリリースされた彼等の11thアルバム「神風シンドローム(The Amazing Kamikaze Syndrome)」からシングルカットされた “ラン・ランナウェイ(Run Runaway)” のPVがMTVで流れたのを視聴したことによる。当時はMTVやらベストヒットUSAやらの洋楽番組はビデオ録画して繰り返し見ていたため、“ラン・ランナウェイ” も幾度となく見まくった。そのうちノー天気なPVとケルト調の音楽に魅了された次第である。 この「大狂乱スレイド一座」、何故こんな邦題が付けられたのかは分からないけど、まぁちょっと心の片隅には引っ掛かるタイトルだ。曲名の邦題が何の捻りもなくて勿体無いけど。 英国では70年代初頭のシングルチャートを独占していたそうで、71年~74年の間に12曲ものTOP 5シングル(内3曲が1位を記録)を出したのだとか。 勿論このアルバムも英国では1位に輝いた。芬蘭(Finland)2位、諾威(Norway)3位、豪州6位、独国20位とまずまずの成績だったが、米国では受け入れられずに168位に終わった。(ちなみに前述のシングル “ラン・ランナウェイ” は英国7位、米国でも20位) 原題は「Old New Borrowed and Blue」だが、米国では「Stomp Your Hands, Clap Your Feet」というタイトルに変更された。「大狂乱スレイド一座」はこっちの方がやや近いかも!? スレイドのメンバーはリードv&リズムgのノディ・ホルダー(Noddy Holder)、リードgのデイヴ・ヒル(Dave Hill)、bのジム・リー(Jim Lea)、dsのドン・パウエル(Don Powell)の4人。 70年代後半に一時人気が低迷したが80年代になると復活。69年のデビュー以来一度もメンバーチェンジすることなく頑張っていたが、92年にバンドの要であるノディとジムが揃って脱退。残ったデイヴとドンは新メンバーを入れてスレイドII(Slade II)として復活し、後にバンド名をスレイドに戻した。 69年生まれの私は、70年代のグラムロック(Glam rock)とかプログレ(Progressive rock)とかのジャンルにはちょっと取っ付き難いイメージを勝手に持っているのだが、そのグラムロックの中でスレイドはわりと取っ付きやすいというか聴きやすい方だと思う。このアルバムもノディの気取りの無いパワフルな歌唱に元気をもらえる。 そういえばスレイドの “クレイジー・ママ(Mama Weer All Crazee Now)” (72) や “カモン!!(Cum On Feel the Noize)” (73) はクワイエット・ライオット(Quiet Riot)がカヴァーして大ヒット!この曲が収録されたクワライの3rdアルバム「メタル・ヘルス〜ランディ・ローズに捧ぐ〜(Metal Health)」(83年リリース)は当時のHM/HRアルバムとしては珍しく全米1位に輝き、そのおかげでスレイドのリバイバル・ブームが起ったのであった。 そんなスレイドに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ ジャスト・ウォント・ア・リトル・ビット 明りが消える時 エヴリデイおまけ・1 個人的一推し曲 ラン・ランナウェイおまけ・2 クワイエット・ライオットver. “カモン!!” カモン・フィール・ザ・ノイズ by Quiet Riot
2024.05.07
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『フランク・ザッパの○△□』 フランク・ザッパ「Ship Arriving Too Late to Save a Drowning Witch」 Frank Zappa (82) ザッパは誰でもなく、また十万人。ガッシーッと楽曲主義でフランク畑でつかまえて。 船は進む、ザッパ海峡、今日もまた。アッパレ ザッパレ! 回を重ねるごとにエスカレートする超豪華解説書「マ●コ・カパックの友」(不定期刊行物)付き。A面 1. いまは納豆はいらない - No Not Now 2. えー、うっそぉ、ホントー? - Valley Girl 3. ア、いかん、風呂むせて脳わやや - I Come from NowhereB面 1. フランク・ザッパの○△□(マルサンカクシカク) - Drowning Witch 2. フランク・ザッパの▯(長方形) - Envelopes 3. 娘17売春盛り - Teen-Age Prostitute GW中は邦題界の王者たちを取り上げよう!ということで、今回はフランク・ザッパ(Frank Zappa)が82年にリリースした35thアルバム「フランク・ザッパの○△□(Ship Arriving Too Late to Save a Drowning Witch)」を取り上げたい。 ザッパといえば邦題!邦題といえばザッパ!というくらいに、日本の洋楽好きには広く知られていたザッパの面白邦題。以前取り上げた「ハエ・ハエ・カ・カ・カ・ザッパ・パ!(The Man from Utopia)」よりはマシかもしれないが、「○△□(マルサンカクシカク)」って…。やっぱり「ハエ・ハエ・カ・カ・カ…」同様、ジャケットのデザインから付けたんだろうなぁ。 しかし絶滅の危機迫る邦題界に押し寄せた原題尊重の波に飲まれたのかは知らないけど、ザッパの邦題の幾つかは原題直訳か、もしくはカタカナタイトルにしれっと変更されている。 現在このアルバムは「たどり着くのが遅すぎて溺れる魔女を救えなかった船」という原題直訳の長ったらしいタイトルとなっており、曲名の邦題も以下のとおり。A面 1. ノー・ノット・ナウ - No Not Now 2. ヴァリー・ガール - Valley Girl 3. アイ・カム・フロム・ノーウェア - I Come from NowhereB面 1. 溺れる魔女 - Drowning Witch 2. エンヴェロウプス - Envelopes 3. 十代の娼婦 - Teen-Age Prostitute “ア、いかん、風呂むせて脳わやや(I Come from Nowhere)” は誰もが一度は「あいかむふろむのーうぇあ」と声を出して邦題のバカバカしさを確認してみただろう。“いまは納豆はいらない(No Not Now)” は「のっとなう」を納豆に無理やりこじつけたセンスが素晴らしい。“娘17売春盛り(Teen-Age Prostitute)” は「娘十八 番茶も出花(正しくは鬼も十八 番茶も出花)」っぽくて語感がいいけど、まぁ今のご時世で売春盛りはよろしくないかな。 日本では邦題で語られることの多いザッパのアルバムだが、普通に楽曲もよいのである。 「○△□」は全米Billboardチャートで23位とまずまずの成功を収め、シングルカットされた“えー、うっそぉ、ホントー?(Valley Girl)” も32位に達した。この曲ではザッパの娘で当時14歳だった娘のムーン(Moon Zappa)がラップを担当。父ザッパは真夜中にムーンを起こしてスタジオに連れて行き、彼女が友人たちと交わした会話を再現させたという。その後、彼女は女優、歌手として活動しており、昨年8月には「Earth to Moon」という回想録を出版している。 ザッパ門下生であるスティーヴ・ヴァイ(Steve Vai)は、80年代前半にフランク・ザッパ・バンドのギタリストとしてザッパの演奏不可能なパートを受け持っていたようで、この「○△□」にも当然参加している。スティーヴ・ヴァイといえば、86年に公開された映画「クロスロード(Crossroads)」にも出演。十字路に現れる悪魔に魂を担保にブルースの極意を得るという契約を交わした「クロスロード伝説」をモチーフにした映画で、スティーヴが演じたのは十字路に現れた悪魔の手先であるギタリスト、ジャック・バトラー(Jack Butler)。ラルフ・マッチオ(Ralph Macchio)演じる主人公・ユジーン(Eugene Martone)とのギター対決ではユジーンが勝利するのだが、ラルフくんファンの私でも流石にいやいや、スティーヴには勝てんやろ…と心の中で思ったものだ。 ザッパは93年に前立腺癌により52歳で死去。変な邦題のおじさんとしか思っていなかったが、彼の音楽にもっと早くから触れておけばよかった。邦題からは想像が付かない格好良さがある。 最後に、帯文句にある「マ●コ・カパック(Manqu Qhapaq)」とはインカ神話によるクスコ王国の初代国王であるのだが、そのまま書いたらアップ不可だったため一字伏字にした。別にエロとは無関係なのに… そんなフランク・ザッパに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ えー、うっそぉ、ホントー? ア、いかん、風呂むせて脳わやや 娘17売春盛り
2024.05.06
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『原子心母』 ピンク・フロイド 「Atom Heart Mother」 Pink Floyd (70) ピンク・フロイドの道はプログレッシヴ・ロックの道なり!A面 1. 原子心母 - Atom Heart Mother 1. 父の叫び - Father's Shout 2. ミルクたっぷりの乳房 - Breast Milky 3. マザー・フォア - Mother Fore 4. むかつくばかりのこやし - Funky Dung 5. 喉に気をつけて - Mind Your Throats Please 6. 再現 - RemergenceB面 1. もしも - If 2. サマー '68 - Summer '68 3. デブでよろよろの太陽 - Fat Old Sun 4. アランのサイケデリック・ブレックファスト - Alan's Psychedelic Breakfast 1. ライズ・アンド・シャイン - Rise and Shine 2. サニー・サイド・アップ - Sunny Side Up 3. モーニング・グローリー - Morning Glory GW中は邦題界の王者たちを取り上げよう!ということで、今回は英国が誇るプログレ(Progressive rock)の先駆者であるピンク・フロイド(Pink Floyd)が70年にリリースした5thアルバム「原子心母(Atom Heart Mother)」を取り上げたい。 古の中国で作られた四字熟語のような「原子心母」という邦題は単に原題直訳で、Atom=原子、Heart=心、Mother=母ということから付けられたとのこと。発売から50余年、この言葉に何か意味を持たせてもいいのではないかと思うくらい馴染んでしまっている。 この不思議なタイトル、元々無題だったがBBCラジオでコンサート放送を流すにあたりタイトルが必要となり、たまたま持っていたタブロイド紙のコピーから見つけようということで、プルトニウム238を動力源とするペースメーカーの埋め込みに成功した女性についての記事の見出し “atom heart mother named” が目に留まったことから付けられたという。 邦題もだが、このジャケットの牛もインパクトが大きい。タイトルやバンド名の記載はなくて、ただ牛がデーンと写っているだけという斬新なデザインを担当したのは、英国のデザイングループであるヒプノシス(Hipgnosis)。彼等はピンク・フロイド以外にもロイ・ハーパー(Roy Harper)の「精神本部(HQ)」やナザレス(Nazareth)の「競獅子(Rampant)」等、数多くのカバーデザインを手掛けた。ちなみにこのアルバムジャケットの牛さん、ルルベル3世(Lulubelle III)という洒落た名前だそうな 65年に結成されたピンク・フロイドの創設メンバーは、g&voのシド・バレット(Syd Barrett)、bのロジャー・ウォーターズ(Roger Waters)、keyのリチャード・ライト(Richard Wright) 、そしてdrのニック・メイスン(Nick Mason)の4人だった。 67年に「夜明けの口笛吹き(The Piper at the Gates of Dawn)」という素晴らしい邦題のデビューアルバムをリリース。当初の邦題は「サイケデリックの新鋭」だったらしい(Wikiさんより)。しかしシドがこの頃から既に過剰なドラッグ摂取で正常な状態ではなかったようで、翌年には新たなgとしてデヴィッド・ギルモア(David Gilmour)が加入してシドは脱退。79年にリチャードが首宣告されるまでは(後に復帰)暫くこの4人体制で、「原子心母」制作時もこの4人のメンバーだった。 ドラッグ中毒などで精神を病んだシドは70年に「帽子が笑う…不気味に(The Madcap Laughs)」というイカした(死語)邦題でソロアルバムをリリース。同年に2ndアルバム「その名はバレット(Barrett)」を出したのを最後にシドは表舞台から去り、06年に60歳でこの世を去った。リチャードも08年に癌により65歳で他界している。 一方、ギルモアさんは先月24日に5thソロアルバム「Luck and Strange」を9月6日にリリースすると発表、10月からツアーを行う予定だという。またロジャーも昨年、ピンク・フロイドが73年にリリースした8thアルバム「狂気(The Dark Side of the Moon)」の発売50周年記念盤「The Dark Side of the Moon Redux」を新たにレコーディングしてリリースした。この二人の対立(というかロジャーの独裁化)がバンド崩壊を招いて85年にロジャーが脱退。そこからは色々とゴタゴタしたようだが、05年7月に開催されたLIVE 8では20年ぶりにメンバー4人が揃って演奏した。 実は「原子心母」を通して聴いたのは今回が初めてだったが、当時は若者達もこのアルバムを聴いて衝撃を受けたのだろうか。A面に丸々収録されている “原子心母(Atom Heart Mother)” は20分超で5つのパートからなるクラシック調の大作だ。おばはんになってからのんびり聴く分にはいいが、若い頃だとおそらく聴いていられなかった気がする。 このアルバムは英国で1位を獲得したが、米国では55位止まりだった。ノー天気な米国人(褒め言葉)にはこういう作品は合わなかったのだろう。まぁしかし「狂気」で初の全米1位に輝いて以降は出すアルバム全てが世界中で大ヒットするのだけれど。 そんなピンク・フロイドに興味を持たれた方は、こちらをどうぞ♪ 今回はフルアルバムをお楽しみくだされ。 原子心母(Full Album)
2024.05.05
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