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第9回は西安郊外の観光、1986年7月28日(月)です。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 西安市街の南東に位置する青龍寺を発って、始皇帝陵方面へ向かう。私たちは昨夜の寝不足がたたってやや疲れていた。バスは渭水の支流を2本ばかり渡り北東へ走る。左写真は車窓から撮った2本目の支流、灞河(はが)。渡ったのは、昔、古都長安(=西安)を発つ旅人を見送る定番の場所灞橋ではないかと思う。 まもなく、まず華清池*に着いた。アーチ門の横に、ネムノキが花ざかり。ここは玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスの舞台である。九竜湯という美しいハスの池と朱塗りの柱の東屋はゆったりとして心が和む(右写真、驪山(りざん)を背景に、水面に写る景色が美しい)。 が、建物の方は工事中だった。下写真は楊貴妃が入ったという温泉だが、これも工事中で手前に瓦がたくさん置いてある。 小山の斜面を利用して造られたミニチュアの庭園もあり、登ってゆくと、1936年の西安事件で蒋介石が張学良によって捕らえられた建物(五間亭または捉蒋亭)が、これまた工事中であった。 *華清池 「池」は温泉のこと。唐の9代玄宗皇帝が整備した華清宮がある。現在では観光地としてキレイに復元され、楊貴妃像も置かれている。 快晴で、ぎらぎら照りつける真夏の陽ざしが熱い。ここまで旅してきてようやく空気は乾燥してきたが、まだまだ汗が出る。華清池の頭上、おおいかぶさるようにそびえている驪山の緑が鮮やかである。中国という所はあまりに広々と平らな地面が目を奪うので、たまに山が忽然と現れるとかえってびっくりしてしまう。驪山旅游饗庁で昼食。 午後、始皇帝陵に着いた。緑の小高い丘で、青空をバックに明るい。まぶしい陽ざしの中、ふもとには土産物屋が軒を並べ、お寺の参道のような賑やかさである。Mは日焼け止めを塗りまくり、絹のスカーフ(Nとおそろい)を巻きつけたりしている。 左写真は始皇帝陵の碑。当時は陵の登り口左手にも黒っぽい古めかしい碑があって、これも撮ったが逆光で文字が写らなかった。現在は新しい立派な碑が別にあり、秦の始皇帝の巨大な像もあるようだ。どの史跡も、碑をどんどん更新し、ゆかりの人物の巨像を建設するのが当局の方針のように思われる。 右写真は土産物屋さん界隈から陵の丘を望む。人物は消したりカットしてある。 さて、陵の長い長い階段をひたすら上ってゆくと、だんだん辺りの景色が開けてゆく。斜面にはザクロが植えられ、実をつけていた。取って食べたくなったが、枝にくくりつけた板に、実を取ったら罰金1元というようなことが書いてある。たわわに実り濃緑に茂ったザクロは天辺まで一面に陵墓を覆っている。汗をぬぐいつつどんどん登る。振り返ると土産物屋や私たちのバスなど、豆粒のように小さく見える。 ついに頂上に着いた。素晴らしい眺望、一大パノラマである。緑や茶色の耕作地がきちんと区画整理され、並木や森を間に挟んで続き、はるか青くかすむ地平線から雲一つない空へとけてゆく(下写真、振り返って撮ったもの。手前はザクロの木々。登ってきた道が白く見える)。さすが中国の大地、空気も爽やかでおいしい。確かに暑くて喉も渇いたけれど、この景色はそれらを補って十分あまりあると思った。陵は歴史の教科書で見慣れたとおりの真四角で、項羽がほじくり返したのはここか、と司馬遼太郎『項羽と劉邦』を思い出しつつ感慨に浸る。 陵を下ってゆくと添乗員Wさんが土産物屋で骨董品(中国では文物という)のピアスなどを値切っている。ここの土産物売りは共産圏とは思えぬほどすさまじい。紐でいくつかつるした人形(フェルト製?)を1個1元と言いながら、なんとか売ろうとする。台の上には卵みたいな丸いまだらの玉(ギョク)の塊や、後ろに弁髪をくっつけたカラフルな帽子が並んでいる。バスのすぐ近くまで来て私は、小さな青い馬のついた飾り鎖を見つけた。他に同じ物は見当たらないし、ちょっと気に入って(元来私は馬が好き)いじっていると、店のおじさん・おばさんが数字を一面に書いた白いベニヤ板みたいな物を出してきた。言葉が通じないのでこのボードを使って売ると見える(右画像)。 覗きこむと、「40」のところを指すではないか。あまりにも暴利…とフンガイすると、「それなら幾らでなら買うか」と言うつもりらしく、こちらにボードを向けてくる。私も値切ろうと思い、「20」を指さすと、それなら鎖の飾りを一つ取ってしまうと言う(馬の他に飾りがいくつかついた鎖であった)。そこで私は飾りを減らすなら「15」だと言い放った。なかなか承知しないので品物を置いて帰るふりをしたところ、ようやく15元で売ってくれた(右写真、今では真ん中の鎖と小飾りが取れてしまっている。この鎖飾りを、私はのちにずっとGジャンのポケットにつるして着ていた)。 このやりとりで私は集合時間に遅れてしまい、大あわてでバスに駆けこんだ。落ち着いて考えると15元でも相当の暴利だったように思うが…、生まれて初めての値切り体験、まあいいとしよう。西安まだつづく
July 27, 2026
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第9回は旅の4日め、1986年1月3日(金)上海、日本租界探検 です。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れなどを修正しています。 今日はいよいよ我々だけで上海市街の探検。前の晩遅くまでNと議論して、まずは旧日本租界*からと決めた(Mは早くに寝ていた)。蘇州河(呉淞(ウースン)江)の北、本郷さん(左画像、模写です)のアパートもあった虹口(ホンキュウ)地区である。最初の目的地はわかりやすい虹口公園*にした。 *日本租界 正式には共同租界(英米の租借地)の一角だが、虹口地区は日本人が多く、こう呼ばれたそうだ。 *虹口公園 現在は魯迅公園と名が変わっている。 朝、ホテル前のバス停から57番のバスに乗って延安西路(旧静安寺路)を東へ向かい、静安寺*というバス停まで行く。料金は1角。右画像はバスのチケット。静安寺路は『南京ロード』で宋(スン)先生が二度目に襲われた所である。 「取り引き先へ行く途中/静安寺路を通りかかったら/大騒ぎでしてね またいつものテロかと思ったら」 ――『南京ロード』1巻 *静安寺 この名のお寺は文革で破壊され、この頃は再建工事中だったらしい。我々も見ていない。 そこから歩いて常徳路へ出る。途中にあった、人民法院(裁判所、現在は立て替えられている)の古めかしい建物(左写真)や、路地裏(右写真)を見ると、タイムスリップした感じがする。上海の路地裏には水場があり、向かいの建物との間に洗濯ロープが渡してあるのが定番のようである。長屋というか、里弄(上海のれんが造りの集合住宅コミュニティ)というか、『蘇州夜曲』で黄(ワン)が住んでいたアパートもこういうのだった。 常徳路で21番のバスに乗り、北東の虹口公園まで行く。料金1角3分(1分=0.1角=0.01元)。日中旅行社が支給してくれた中国語の市街地図「上海遊覧交通図」(左画像、一部)には、道路上に赤や緑の線でバス路線が書いてあり、起点・終点も分かるようになっていて、役立った。 バスには運転手さんのほか車掌さんが居て、乗ってから切符を買う。中国語は話せなくても、目的地を漢字で書けば通じた。しかし、切符は下りる時も回収されないので、正しく料金を徴収できるのか、そのシステムがよく分からなかった。 寒風吹きすさぶ、広々とした虹口公園は入場料5分が必要。道端でりんごを買って丸かじりしながら、あちこち見物して回った。公園内には美しい池や太鼓橋もある(現在は背後に高層ビルが借景になっているが当時はもちろんなかった)。魯迅先生の座像や墓石が有名らしいが、見たのだったか、写真は撮っていない。 葉ボタンの植え込みで囲んだ、巨大な石碑があったのでこれは撮影した(左写真、一部。人物を消してあります)のだが、石に刻まれた巨大な文字(「中民党・・・・展」?みたいな)がうまく写らず、今となっては何の碑だったのか分からない。現在は撤去されたらしく、検索しても、このような石碑は見当たらない。 時計のついた記念碑もあり、中日青年世代友好、と刻んである(右写真)。真ん中の時計はSEIKOである。この時計と台の部分だけが現在も残っていて、「紀念鐘」というそうだ。 公園内にある魯迅記念館を見学。玄関を入った所には巨大な魯迅の横顔のレリーフ(左写真)。胸像もあり、横に立って記念写真を撮る。これらは現在ないのか、撮影禁止になったのか、検索しても出てこない。この横顔は昔の魯迅の著作の表紙などに見かける。 さて、我々は公園を出て南の方へ、『蘇州夜曲』『南京ロード』に出てくる日本租界の夢の跡を探しに行く。つづく。
January 29, 2026
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クリスチャン・ダンチェッカー先生。私でも読めたハードSF『星を継ぐもの』『ガニメデの優しい巨人』に出てくる、生物学の権威の学者先生。 最初、登場したとき、エラソーに伝統的進化論とやらをふりかざしてしゃべりまくって、何てヤなやつ、と思いました。 でも、作者のホーガンという人は、悪役をつくらない主義なんでしょうか、ダンチェッカー先生は読み進むにつれて、鋭い洞察力と案外おちゃめな性格で、私を魅了したのでした。 だいたい名前が「クリスチャン」なんて、いかにも正統派、って感じですよね。 で、主人公の新進気鋭っぽいヴィクター・ハント博士(こっちの名前はいかにも真理を追い求めて勝利する!みたいな若さとパワーが感じられます)と、ことごとに反発しあっていたダンチェッカー先生ですが、謎の宇宙人や太古の宇宙船の探索を進めるうちに、正反対な性格の二人がだんだん協力しあって知恵をしぼって謎解きをしていくところが、まことにほほえましい。 世の中にはマッド・サイエンティストという頭でっかちで非常に危険な科学者たちがいますが、ダンチェッカー先生はまるで違います。太古の宇宙船で発見された太古の生物を調査しにゆくとき、彼は「遠足前の子どものように」わくわくしちゃうのです。 そして、そこで見つけた太古のサイを標本にして、研究室の戸口に据えつけ、「これはわたしのお気に入り」と呼んで、なでなでしちゃったりする。 そして、『星を継ぐもの』でも『ガニメデの優しい巨人』でも、最後の最後に、すばらしい推理をビシッと決めて、ハント博士や読者たちをあっと言わせる、その頭脳の切れのよさ。 かっこいいですねえ。 頭が切れて育ちが良く、しかもおちゃめで情にあつい。これこそ、理想の男性!
June 2, 2006
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ラトビア発、動物だけがリアルに冒険するセリフのないアニメ、話題作「Flow」を観てきました。リアルな動物アニメ推しな私の、好みにぴったりな作品。 日本のアニメとはタッチが違っていて、油絵のような、木彫のような立体感のある(3Dではない)キャラクターの動物たち。ネコの体温や息づかいがが感じられそうな、あたたかみのある「絵」です。 仕草もリアルにネコで、金色の瞳の変化は表情豊かで。他の動物たちもそれぞれ無表情な中に表情がある。いいですねえ。 背景の緻密でリアルな大自然の映像美――特に、水。水面に映る姿や景色はもちろん、流されるネコの水面すれすれの視点、溺れかけた水中、押し寄せる高潮、雨、嵐など、迫力満点です。 大洪水が、小さなネコの視点で描かれるのですが、ネコは人間のように常に辺りを水平に見わたしたりしませんよね。視点も低いし。だからたとえば、静かに増してくる水は知らないうちに急に足場を奪ってゆきます(ネコですから、初めは濡れるのがほんとに嫌そうです)。 また、疾走してくる大きなシカの群れは、まず音として気づき、至近距離になってから突然視界になだれ入ってくる。高いところへとジャンプして逃げてゆく時も、着地すべき次の高みだけが見えていて、そして予測なしにてっぺんにゆきつくと、いきなり360度の広がりで途方もなく下の広い水面が開けたりする。 前半はネコ目線で水の恐ろしさを味わって、ひゃ~殺人鬼に追われるより怖いかも! とおびえました。 おまけに人間はどこへ行ったのか、寝床には起きたまま毛布が寄せてあるのに、書きかけの絵もそのままに消えうせて、町は水没して、ボートは無人で漂っていて、黙示録というか大破局の気配がして、かなり怖いです。 で、様々ないきさつでボートに乗り合わせた珍妙な取り合わせの小動物たちが、廃墟の町なんかを冒険していくのですが、だんだんに観ている私は、人類滅亡の心配を忘れて、ネコたちのサバイバルにのみ集中して行きました。そう、主人公のネコにすごく入りこむのです。最初は、ネコ好きな芸術家のモデルだったらしい飼いネコの立場で恐れおののいていたのが、だんだんと、本能に従い、動物なりの理解と生存意欲とで旅してゆく、野性味あふれるネコになって行くのです、私も。 そしてネコの周りじゅうにあふれる水。大群で泳ぐ小魚たち(宮崎駿の「崖の上のポニョ」に出てきた、あふれた海を思いだします)や、大波を起こす巨大な古代魚(パンフレットにはクジラとありましたが、ただのクジラではない感じ)の、なんとパワフルで豊かなこと。 さらに、ハリケーンに巻きこまれて空の高みへ吸い上げられていく水(水上トルネードというやつでしょうか)、その上昇気流に乗って空を舞うネコ。旅の道連れの凜としたヘビクイワシは、天高く昇って行ってしまう。 パンフレットの解説にもありましたが、水平方向だけでなく上にも下にも水界があり、上昇したり下降したり、そのたびに景色が変わり世界が変わります。鉛直方向の移動は、以前にも取りあげましたが、既存の階層を一気に突破することで、そのダイナミズムが恐ろしくも爽快、未知との遭遇です。 そんな大世界のただ中で、たくましくなったネコと仲間たちの生きる旅はまだまだ続きそう。 観終わったあと、思わずネコのやっていたように、四つ足でのびをしてしまいたくなる、野性のパワーをもらえそうな作品でした。
March 19, 2025
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私はコミックスは絵から入るタチで、内容以前に絵の第一印象で好き嫌いをしてしまうんですが、佐藤史生とも、『夢みる惑星』の画集の表紙(銀髪の神官イリス)に一目惚れしたのが出会いでした。 が、それとは別ルートでこの『ワン・ゼロ』に出会って、なんというかすごーく衝撃を受けました。以前とりあげたあのSFの名作『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍)の解説で、中島梓(=栗本薫)が「(この本を)読んで、私はSFの哲学に目ざめた。」と書いていますが、私も真似をして言うなら、『ワン・ゼロ』で私はSFの哲学に行きついた、という感じ。 それは1985年のこと(何て昔でしょう)。すでにトールキン・マニアだった私は、トールキンに関する特集が載っていた「幻想文学」(今は亡き季刊誌)を買いましたが、その巻頭にある“耽奇漫画館”というページで、小鬼のような顔でニヤリと笑うビローチャナと出会ったのでした。まさかその妖気漂う魔性の顔を描いたのが、うるわしいイリスを描いたのと同じ作者だとは思えませんでした。 で、とにかく『ワン・ゼロ』を読んだら一気にはまってしまったんですが、それというのも、私を惹きつけた面妖なビローチャナが、インド神話のアスラ(魔族)の王で、つまり『百億』に出てくる「あしゅらおう」と同一人物(神物というべきか)だったからなんですね。 少し前に『百億』を読んで、「おおっ」とうなって、岩波文庫のインド神話『リグ・ヴェータ』なんかを酔ったように読んでいた私には、『ワン・ゼロ』のアスラ王ビローチャナはトドメの一撃でした。 『百億』では絶対者(=神、ミロク)と永劫にわたって戦うのが「あしゅらおう」を筆頭に、幾度も生まれ変わる「プラトンのおりおなえ」「シッタータ(=釈迦国の太子)」ですが、『ワン・ゼロ』では、絶対者(者というよりその力=全宇宙に偏在する神通力)と戦い続けてきた「ビローチャナ」とディーバ(魔)族の生き残り3人が、近未来(1999年)に生まれ変わります。 そして、絶対者の力の代行者として『百億』に「ナザレのイエス」が登場するのに対し、『ワン・ゼロ』では一人の美少女が「覚醒した者」として女神のように人々を導こうとします。 佐藤史生もSFな漫画家ですから、『百億』を知らないはずはありません。とすると、ひょっとして『ワン・ゼロ』は佐藤版『百億』なのかなあ、などと思えてきます。 どちらも、欧米型ファンタジーでは善なるものであることの多い“絶対者=神”を、人類をコントロールしようとする恐るべき力として描き、主人公たちはそれに抗う側(阿修羅とは、帝釈天(インドラ)に刃向かう魔族)です。 そして、その戦いの主人公たちは、『百億』ではプラトンやシッダルタ、イエスなど哲学史上の偉人であるのに対し、『ワン・ゼロ』では、一見ごく普通の十代の若者たちと、彼らが神木の根本から掘り起こした幼児の姿のビローチャナなのでした。 『ワン・ゼロ』ではその永劫の戦いの図式に、ジョーカーというべき少年都祈雄(トキオ)と、自ら思考するコンピュータ「マニアック」が加わります。そして、読み進むにつれ二元対立的な戦いからだんだんもつれて錯綜してゆき、そのごちゃまぜ具合が何とも現在現実そのままな混沌で、『百億』のような透明でもがく余地もない未来像とはちがい、可能性(再現性)を残した未来へつなげて終息します。 次回へつづく。
January 31, 2007
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復刊ドットコムでリクエスト投票していたら先だって再版。ですが、専門書って高価ですしね。待ちきれず安い古本で入手しちゃいました。現在、すでに復刊ドットコムでは在庫切れです。お高くてもあっという間に売れたということかしら。 何しろ、副題(原題)でわくわくします。スキタイといえば、紀元前の中央アジア(黒海あたり)のナゾの遊牧民。 一方、キャメロットは英国の伝説の英雄アーサー王の宮廷のあった場所です。が、どこだか特定されていません。アーサー王じたいが存在したかどうか議論される人物で、膨大な伝説や物語が彼のまわりに集まっており、今でもアーサー王ものといえば、西洋ファンタジーの一大ジャンルを形成しています。 アーサー王伝説の多くはケルト起源とされているので、私も以前から興味があったわけですが、この本ではなんと、遠くスキタイの末裔?アラン人の文化・神話がアーサー王伝説の根底にかなりある、という新説を主張しています。 アラン人は黒海沿岸からフン族におされて西ヨーロッパに入り、1世紀にはローマ帝国の傭兵としてブルターニュ半島やイギリスに派遣され、そこに入植・定住してアーサー王伝説のもとを作ったというのです。ロングアゴー&ファーラウェイ、ですねえ。 円卓の騎士ランスロットの名前は「ロット(フランスの川)のアラン人」が起源だとか! そういえば、1世紀が舞台の『クリスタル・ドラゴン』に出てくる世界樹の精霊アラン(アラヌス)は、分割されて剣の柄や眼帯の留め具などになり、アイルランドやアイスランドにまで散らばっていたという設定でした。人々の移動や交流にともなって、モノも名前もそして伝説も、驚くほど遠くまで到達する可能性があるわけです。 話を『スキタイからキャメロットへ』に戻しますと、この本には吉田敦彦の解説でナルト叙事詩(スキタイ人の末裔オセット人の英雄神話)が紹介されていて、独立したお話としてもおもしろいです。 本文では、この神話に出てくる神宝の杯が、アーサー王伝説の聖杯である、と主張されているんですね。どれくらい説得力があるのかは、専門家でない私には判断できませんが、とにかく、民族大移動の時代に多くの人々が黒海沿岸あたりからヨーロッパへ流れ込んできたのですから、ヨーロッパ文化の基層を成す伝説に、多少なりとも中央アジア起源の要素が入っているのは、当たり前、かもしれません。 そして吉田敦彦さんといえば『日本神話の源流』という本を持っているのですけど、ここに日本神話とスキタイとの関係が記されているんです! 日本人はアルタイ語族とか言われますけど、中央アジアのアルタイ語族は、スキタイの影響を受けているから、日本神話の一部には、スキタイとの共通点がある。そして、同じくスキタイの影響を受けたヨーロッパのギリシャ神話とも共通性がある(その一例が、亡き妻を訪ねて黄泉の国に行くイザナギとオルフェウス)。これまた、ロングアゴー&ファーラウェイです。 さらに私は思うのですが、ケルトの物語と日本の民話だって、そっくりなのがあったりするんですけど…浦島太郎とオシアンとか、こぶとりじいさんそっくりの民話とか。これも実はスキタイつながり? ユーラシア大陸の東と西とをつなぐ、まんなかのスキタイ。気宇壮大なヴィジョンです。
May 25, 2017
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森川久美の最新刊(といっても昨年末に出ていて、私が作者のサイトを見てそれに気づいたのが最近だというだけ)『ざくろの木の下で』(1巻)を読みました。 お得意のヨーロッパ歴史物。主人公は流れ者の傭兵と錬金術師、舞台は(1巻では)「北の海に面した港町」「自由都市」とありますから、ハンザ同盟都市をモデルにした架空の?町、時代は16世紀ぐらいでしょうか。 お得意の“故郷を追われた男”“なまぐさ坊主”“開き直った美女”なんかが出てきて、そういうキャラクターはみんな最初ナゾめいていて、やがてだんだん正体が分かってくるにつれ、読者をぎゅーっと惹きつけていきます。 最近のこの作者の傾向なのかかなりコメディータッチ。もう少し前に出た『危険な席』もそうでした。むかしのあの、若いからこそこんなに悩むのか、みたいな圧倒的な暗さから、年とともに脱皮して、気楽になったという感じ。 読者としても楽しんで読めます。コメディーしているキャラたちもみんな可愛いし。 ただ、 むかし『南京路に花吹雪』や「ヴァレンチノ・シリーズ」あるいは現代モノ『ウエスト・エンド物語』なんかで私を魅了したあるものが足りない!と思うのでした。 先月のブログに確か書いたのですが、それはつまり、“都市”そのものです。カッコいいヒーローたちが喧嘩や陰謀に走り回る舞台となる、とてもリアルな幻想都市としてのヴェネチアや上海、ロンドン。 光より影、つまりほとんどベタで塗られた背景に、「手書き」というタッチでこれでもかーこれでもかーと細かく描き込まれた、古い石造りの建物、建物、建物。路地、運河の霧、うっそうと茂る庭園の木立、そんな重た~い風景が、私にとっての森川久美なのでした。 『危険な席』や『ざくろの木の下で』は、コメディーもアクションもキャラクターのカッコよさも◎なのに、背景が足りないのです。いくつかはシブい背景や風景があるのですが、架空の都市であるせいか、どうも重みが足りない。その都市の歴史にしみついた独特の重みが・・・ これも作者が特定の都市にこだわり続けた時代から「脱皮」したのかなあ、とも思うのですが、私はやはり森川久美の描く異国の町が好きです。 『ざくろの木の下で』の主人公たちは旅に出た模様なので、もしかするといい味の出た町に行き着くかもしれません。とりあえず続巻に期待。
April 15, 2008
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『冒険者たち――ガンバと十五ひきの仲間』の斎藤惇夫氏の新作、という新聞広告を見てびっくり、慌てて購入しました。処女作『グリックの冒険』が1970年、次の『冒険者たち』からかなりの年月を経て『ガンバとカワウソの冒険』が出たのが1982年でした。3作でガンバや個性的な彼の仲間たちはかなり描きこまれた感があり、しかも最後のテーマが相当重いものだったので、読者の私としても“完結した”気持ちがしていました。 でも、作家は(いや人間はみな)新しい分野にチャレンジしていくものなのでしょう。ロフティングが「ドリトル先生」シリーズをいったん終わらせ(るつもりになっ)たあと、ジャンルのちがう『ささやき貝の秘密』を書いたように、斎藤さんもまた別の物語を語りはじめようとしていたのだそうです。 それが28年後の今年ようやく出版された、というのです。 ところで、『冒険者たち』の冒頭には、「哲夫と竜太に贈る」という著者の献辞があります。だから私は新作のタイトル『哲夫の春休み』を見た時も、知らない人でありながらなつかしい「哲夫」くんに、数十年ぶりに再会したような気がしました。 物語は小学校を卒業し中学になる前の春休み、哲夫くんが父の故郷へ一人旅をするというもの。子供時代を終えたけれど、大人世界の住人にはまだなっていない、若者の旅。彼の目の前に開ける広い時空。それは、以前私がこのブログでとめどなく垂れ流していた『冒険者たち』シリーズに共通するイメージと重なっていて、ガンバの物語でなくてもこれはやはり斎藤さんのお話なんだなあと思いました。 折しもちょうど今年の夏、『児童文芸』誌上に、私がブログをまとめたものがひっそりと掲載されたもんですから、何てタイムリー!と個人的に盛り上がってしまいました。 哲夫くんの旅は、ガンバというよりは、「ぼくのほんとうのうち」である北の森を目指すシマリスの旅(『グリックの冒険』)により近いものがあります。哲夫くんは列車の中や長岡の町で、父の子供時代、若者時代にタイムスリップを繰り返します。それもそのはず、哲夫くんは作者の息子さんであり、作者は息子の姿や心を借りて、この物語の中で自分のふるさとと人生とをたどりなおしているのです。 だから、哲夫くんが歩いている道の風景がいつの間にかふっと過去のものにだぶったり、昔の人物がそのまま自然に現在の人物につながったりします。 そのオーバーラップの容易さは、典型的なタイムスリップもの(たとえば『トムは真夜中の庭で』)のように、現在と過去がはっきり分かれていて境目を超えるのに何か儀式(時計が13時を打つとか)が必要な物語とは、夢の本質が違うことをも示していると思います。 つまり、哲夫の行き来する過去の世界は、まだ完結していないのです。過去は、現在の登場人物ひとりひとりに何かしら影響を及ぼし、封印してきた思いを解き放つようにと働きかけています。過去をもう一度体験するというタイム・ファンタジーを通して、その解放が為されると、最後には癒しが訪れます。 つらい思い、未消化な思いがそうやって解き放たれ癒されて、はじめて人は前へ進むことができる。逆に言うと、将来へ向かっていくためには、過去をときほぐす必要があるというわけです。 『グリックの冒険』でも、吹雪の中で立ち往生した時、ヒロインののんのんが死んだ母の思い出を語ります。グリックはそれを聞いて、夢うつつにその話を反芻し、やがて再び立ち上がって旅を続けるのです。 同じように、哲夫くんも彼と知り合った人々も、過去の再体験によって未来へと踏み出す力を得、物語は前へ向いて終わります。 と、こんなふうにこの物語を一気に読み終えて、あとがきを読んだ時、私は初めて、斎藤惇夫氏の息子の哲夫さんが2年前に亡くなったことを知りました。私とほぼ同世代で、『冒険者たち』の献辞でその名を見て以来、まるで知っている人のように私が感じてきた哲夫くんは、お父さんを残して先に旅立ってしまっていたのです。 現実の哲夫さんが逝ってしまった後、作者の心の中で20年以上も眠っていた12歳の哲夫くんがようやくふるさとへ、時をさかのぼる旅に出たのです。それを知ると、今度は、この物語はお父さん自身の心の旅であると同時に、やはり哲夫くんの旅――父惇夫氏の心の中の哲夫くんの旅でもあるということが、わかりました。 そしておそらく、時をさかのぼる旅をやりとげる=この物語を書きあげるということで、作者の心も癒されたのだろうと思います。 この物語の舞台であり斎藤惇夫氏のふるさとである長岡市は、私の母方の祖母の故郷でもあります。子供のころ疎開していたという母と一緒に、私も若い頃、見知らぬふるさとである長岡を訪ねたことがありました。哲夫くんのように、タイムスリップはできなかったですが・・・
December 3, 2010
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むかし手放してしまった大好きな本を、先日ふと古本で買い戻しました。1912年、アイルランドの独立運動の高まりの中で書かれた民族的?ファンタジー、スティーヴンスの『小人たちの黄金』です。 古代アイルランドやケルトが大好きな私ですが、近代のアイルランドは、飢饉やイギリス支配下の圧政、血なまぐさい独立運動など、どうも暗くて重いので、敬遠してしまいます。だいたい、政治的なニオイのする詩や小説って、なかなかおおらかな気持ちでは楽しめません。 ところが、この本は読めるんです。アイルランドの民衆(いや、あたたかでまっとうな人間性を求めるすべての現代人)を鼓舞する意図が見え見えなんですが、登場する賢者・魔女・子供たち・小人・乙女、そして神さままでもが、素朴で神秘的、しかもユーモラス。 ストーリーのあらすじを書いても、このお話の人を食った面白さは伝えることができません。けれどあえて紹介しますと、頭でっかちで偏屈で頑固な賢者が、牧神やアンガス・オグの神、彼らに愛された乙女とかかわることで、生き生きとした人間性に目覚めます。啓示にうたれ信仰に目覚めた人のように、賢者は出会う人々の心を目覚めさせてゆく。 ところがこの神話的なストーリーに、突然現れた警察が、誤解から賢者を逮捕してしまう。このあたり、賢者はちょっとイエス・キリスト的です。処刑されるのかなと心配になります。 しかし、賢者の無邪気な子供たちと、妻である魔女が、アイルランドじゅうの眠れる神々や小人、妖精たちに呼びかけて、彼らは立ち上がります。そして生命の讃歌を歌い、踊りながら進み、イギリスの支配にあえぐダブリンを解放し、賢者を救い出すのです。 この神がかり的な解放と行進は、いくつかのファンタジーに見られる共通のパターンで、もとはというと、ヨーロッパ各地にある“眠れる英雄の伝説”じゃないかと思います。アーサー王(またはフィッツジェラルド伯、オールダリーの洞窟の騎士、バルバロッサ王などなど)は人知れず眠り続けているが、来るべき祖国の危難の時には目覚めて、彼の名をあがめるすべての人々とともに祖国を救う・・・というものです。 映画「ナルニア第2章カスピアン王子の角笛」を観て、バッカスやシレノスたちの祝祭的な行進の場面がなかったのが残念、と書きましたが、人間性を抑圧するくびきを断ち切るこの行進も、同類だと思います。 それからやはりアイルランド作家の“幻の名作”『霧のラッド』のラストにも、妖精たちの大行進が、現実主義の町を解放するというクライマックスがあります。 現実のアイルランドの独立解放運動は悲劇的で血なまぐさいもののようですが、その一方で、祖国愛や人間愛を(照れ隠しと冷静さのアイロニーをほどよくブレンドしながら)神話的なファンタジーでうたいあげようとした人々がいたということは、それ自体一種の“救い”であるように思えます。
July 20, 2008
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第8回は北京から西安、1986年7月27日(日)夜~28日(月)です。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 この日はお土産用しおり(6.2元)やハンカチ(5.6元)、チョコレート(1.48元)、「维克斯(ヴィックス)」ドロップ(2.2元)などを買いこんだあと、夕食を済ませ、北京空港午後9時20分発でいよいよシルクロードの出発点西安へと飛ぶはずであった。飛行機は私が恐れていたプロペラ機ではなく、頼もしそうな代物に見えた。やがて、動き始めた機は灯りのわずかにともる飛行場をゆっくりと回り、滑走路へ向かった。夜間飛行だわ、こんな暗くても飛べるのね、伊丹じゃ9時以降は飛ばないのに、さすが広い国ねえ――滑走路も長~い。まだ走ってるわ。長――い…? さっぱりスピードを上げない飛行機に乗客たちが不安がりだした時も、私はそのうち離陸するに違いないと肘掛けにしがみついていた。 ところがとうとう飛行機は引き返して、空港の建物まで戻ってきてしまった。10時5分、中国語とたどたどしい英語とでアナウンスが入り、我々は貴重品だけ持って飛行機を降りた。一体全体なんのこっちゃ、滑走路のコンクリートと夜空しか見えない。 建物に入るとき、チケット代わりの券をくれる(左画像はチケット表と裏。結局到着先未記入のまま)。用意のよろしいこと、多分こんなハプニングがしょっちゅうあるのだろう。がらんとした椅子だけの待合室へ、私たちは戻ってきた。ジュースやお茶はおろかトイレさえ見当たらない。添乗員のWさんは忙しそうに走り回っていたけれども、私たちは腰を下ろし、ガラスの向こう、闇一色の外の様子を眺めながら待つしかなかった(あとからきくとエンジントラブルとのことだった)。 同じ待合室にいる同乗の西洋人は男も女も連ねた椅子にごろりと横になったり、賑やかに集ったり思い思いに過ごしている。ここで夜明かしになるのだろうか、大都会北京の空港で…。これから人外魔境の地シルクロードへ行こうというのに、幸先が悪すぎる。 1時間が経過した。我々はうつらうつらしたり、Yさんたちから(多分お土産の)ワインをいただいて、フィルムケースをコップがわりに飲んだりしていた。ありがたいことにWさんが息を切らして来て、飛びそうだと伝え、みなは再び飛行機に乗りこんだ。さっきもらったおしぼりが座席の下に落ちたままになっている。元気よく、機は夜の滑走路をダッシュした。…宙に浮いた時、乗客全員が力いっぱい拍手喝采した。 西安に着いたのは真夜中0時40分だった。 写真右は、中国民航の搭乗みやげの扇子。このほか、子供用だろうか、小さな地球儀のキーホルダーももらったが、その地球儀は青地に茶色い大小の水泡のような形=五つもなかったが大陸か? が落書きのように描かれただけのものだった。 28日未明にたどり着いた西安のホテルは、体育館の隣だ(陝西省体育賓館という)。真夜中だし、飛行機に預けた荷物が届かないので、なんとか歯磨きしたあとそのまま寝てしまった。お湯も出なくて、お風呂も無理。ここへ来て、辺境へ向かう実感が湧いてきた。 起きると、幸い荷物が来ていた。眠いながらも支度して出てみると、いい天気、からりと晴れている。北京の蒸し蒸し気分は一掃された! 朝8時半にバスで観光に出発。空海ゆかりの青龍寺*が第一の見学地。下りた所はなだらかな起伏のある小山の上で、すっかり田舎の風景。白く乾いてほこりっぽい細道、かたまって遊びながら行く子供、道ばたの土産物屋の老人、雑草の花まで、日本の田舎にそっくりな気がする。少し土地が高いので眼下に遠くまで広がる耕地だけが、日本との広さの違いを感じさせた。 お寺そのものは建て直したばかりということで、あまり感心しなかった。日本のお寺と同じようなつくりなのである。ただ、叩くと鐘のように鳴る石が奥に据えてあって、Mが試すと澄んだ大きな音がしたのは面白かった。実はこれが拙作『海鳴りの石』に出てくる<ひびき石>のモデルだったりする。 *青龍寺 随の時代に建てられ、空海(弘法大師)が遣唐使としてここで学んだが、長く廃れていた。1984年、青龍寺東院を恵果空海記念堂として復元し、旅行の年には真新しい記念碑などが立っていた。 次回、秦の始皇帝陵へ。
July 19, 2026
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ロングセラーの幼年童話、北極グマ兄弟の物語。舞台が北極なので何となくこの季節に合うかと思いますが、クマたちが活動しているのは北極の夏なんですよね。物語の最初、クマ兄弟が生まれるところは冬ですが、最後のクライマックスは「夏至祭」です。 やさしくて強い母さんグマと、性格は違うけれど仲のいいムーシカ・ミーシカ兄弟、友だちになったあざらしや白鳥、そして養い子のマーシカなど、みんなけなげで可愛くて、心があたたまります。でも子グマたちは、氷の割れ目に落ちたり、荒れ狂う海面が凍っていくのを浮氷の上で体験したりします。リアルに描かれる苛酷な自然環境は常に危険をはらみ、ほのぼの系のキャラクターたちを、きゅっと引き締めています。 また、ふだんは遠くを旅している父親グマ「ものしりのムー」が、なかば伝説の英雄のような、それでいていざという時には助けに現れ、大事なことを示してくれる、偉大な存在として描かれています。北極グマの子は父親とは一緒に暮らさないのでしょうが、マイホームパパでなくてもこのように存在感のある父親像というのは、なかなかすばらしいと思いました。 物語にはいわゆる“悪者”はほとんど登場しません。唯一、人間の船や鉄砲の音は恐ろしい印象を残すものの、直接残酷な姿を現すことはありません。同じ北極の住人であるエスキモー(イヌイット)の少年が出てきますが、彼は後半で、狩人と獲物という立場の違いはあるけれど、心の通じる仲間として描かれます。 肉食獣である子グマたちも、仲良くなったアザラシや白鳥との間には、食う食われるの関係が厳然と存在するため、彼らは立場の違いと友情との板挟みになって悩みます。このあたり、動物ファンタジーにはつきものの悩みで、根本的にはどうしようもない。 舞台が“都会”だと、自然の摂理を曲げてもそれほど支障がなかったりしますが――たとえば『川の光』でネズミたちを助けてくれるのは、まぐろの缶詰が主食の飼い猫だったり、映画「アメリカ物語」のネズミは、菜食主義者の猫と親友になったり――、この物語では、母さんグマの言うとおり、 きびしいこの北のはてのくにでは、たべものをさがして生きていくということが、なによりもたいせつなことだから・・・(中略)にんげんはアザラシやクマをとることを、クマはアザラシやニシンをとることを、そしてまたアザラシはニシンやタラをとることを、じぶんの子どもにおしえるのです。 ――いぬいとみこ『北極のムーシカミーシカ』 それゆえ、アザラシと仲良くなった子グマたちも、飢えた時はアザラシの血を飲んで生きながらえるのです。 自然のおきてから離れて安穏と暮らしている私たちは、せめてこういった物語の中で、生きるということの本来の厳しさを知るべきなのかもしれません。 そのシビアな現実を知ったうえで、最後に夢のような「夏至祭」の場面が描かれます。 「夏至祭」は、北極の動物たちがいつもの食う食われるのおきてを超えて集うことができる、一種の魔法空間です。ここでのみ、子グマたちは、もう一度友だちとして仲良しのアザラシと会うことができます。 フォア文庫版の解説では、斎藤惇夫(『冒険者たち』シリーズの作者)が、この「夏至祭」の場面を「正統をくずす」「正統に挑戦する」と述べています。生と死のシビアな世界を描いたうえでの、最後の奇蹟。これは、リアリズムの動物小説の正統ではないかもしれませんが、ファンタジーの正統だと思います。
December 21, 2009
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長新太さん(合掌)の描く海の色のくじら&いるかが愛らしい、素朴でなおかつおしゃれな連作詩。 (工藤直子さんの詩は、このごろ国語の教科書の定番で、20年来のくじら&いるかファンの私などは、びっくりです。) 中でも「パリにいきたいくじら」「パリのくじら」が私のお気に入り。憧れのパリに行ったくじらが、リュクサンブール公園の噴水池に滞在し、靴をはいてパリの街を散歩するというのが、なんともおしゃれでステキです。 ところがくじら君、はりきりすぎてパリ祭の前夜に高熱で寝こむのです。お祭の晩、池の端から遠くセーヌ川の花火を眺めるくじらの、幻想的なひとときが、例によって私の既視感を刺激します。 花火は、はじけては散り、ひらいては、くらやみに溶けた。それは、おわりのないゆめのように、いつまでも空をかざり、みているくじらは目まいがして、また熱がでたかと思ったほどだ。 ――工藤直子「パリのくじら」 じつは7月14日(パリ祭の日)は私の誕生日ですが、ちょうどこのころから花火シーズンが始まるんですよね。そして花火は、近くで見るより、遠くのを見るのが、私の夏の風物詩でした。 ひとを愛し 愛される苦を 知りにけり とほくの花火 闇に消えゆく by Hanna(若き日に)
July 8, 2005
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以前、「トッレ王」シリーズを“悲劇でない北欧ファンタジー”と書きましたが、ポール・アンダースンの『折れた魔剣』は思いっきり北欧神話的な悲劇の宿命に翻弄される英雄たちの冒険と恋を描いた物語です。 1954年の作品ですが、この年はトールキンの「指輪物語」の『旅の仲間』『二つの塔』が出版された年でもあり、ファンタジーであることや、偶然同じモチーフ(タイトルのThe Broken Sword「折れた剣」というのは、のちにアラゴルンのために作り直されたイシルドゥアの剣の呼び名と同じです)がいくつかあると聞いて、私も興味を持ったのが読むきっかけでした。 物語は北欧神話のほか、いろんな神話や伝承のキャラクターやモチーフがてんこもりで、スケールも気宇壮大、読みごたえがあります(あまりバラエティにとんでいて、ちょっと荒唐無稽な感じもしますが)。主人公は、赤ん坊のときエルフに取り替えられた二人の英雄、スカフロク(もともと人間)とヴァルガルド(もとはエルフとトロルの子)。 スカフロクは人間でありながらエルフに育てられ、エルフ界の英雄となりますが、対するヴァルガルドは最初から見捨てられたような存在で、人間界になじめず、魔女の呪いもあって極悪非道な狂戦士になってしまいます。そして二人ともに、悲劇が待ち受けているのです。 最初の方からまがまがしい予言や暗示があって、このままじゃあきっと今に悲劇だよ・・・と思いながら、読者は主人公のつかの間の栄光や恋を知り、やがて、坂道を転げ落ちるように傾いていく彼らの命運に、ああやっぱり・・・と思いながら非業の最期までの悲しいドラマを堪能する・・・そういう物語です。 以前、中世フランスの代表的叙事詩「ローランの歌」を読んだことがあるのですが、特徴的なのは、叙事詩の区切りごとにそのおしまいの行あたりに、必ず未来の悲劇を予言する語句が出てくるのです。どんな華々しい場面でも最後に、“あとで悲しむぞ”と一言あり、それが繰り返されて、読者(聴衆)の頭に「悲劇」がインプットされ、それからいよいよストーリーが予告済みの一大悲劇にむかってまっしぐら! ・・・こういうの、ヨーロッパ人の好みなのでしょうか。 とにかく、ドラマティックで派手で全世界的な悲劇、北欧神話の「地球最後の日」(ラグナロク)みたいなのにどっぷり浸りたい時に、どうぞ。悲劇というのも、わりとストレス解消になります。 画像は最近の表紙です。私の持っている1990年版には、昔のハリウッド女優みたいなお色気たっぷりのヒロイン(彼女ももちろん悲劇です!)がどーんと描かれていて、ずいぶんイメージがちがいます。
November 12, 2006
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花々は、若者の行く手はるか、道の両側にまばゆいばかりに咲きみだれ、天国にかかる虹がこわれて、その破片がスペインに落ちてきたかのようだった。彼はその花々、この年一番に花を開いたアネモネを眺めながら、歩いていった。そして、それからずっと後年、彼の唇からスペインの古い旋律が流れる時、いつでも彼は、春の魅惑の真只中にあったこの春の日のスペインのことを想い出すのだった。 ――ロード・ダンセイニ『影の谷物語』原葵訳 私がスペインに行ってみたいと思ったのは、このくだりを読んだ時でした(いまだに行ったことないんですが)。それまではスペインというと、強い日差しに乾燥した赤茶色の大地、石造りの建築物、そんなイメージだったのが、一変してみずみずしく豊かな楽園のように思えたのです。 作者は、古き良きスペインへの憧れをたっぷりとこの物語に注ぎこんでいます。『ドン・キホーテ』さながらに当時の大仰で冗長な儀礼や風俗習慣を揶揄しながらも、そのゆったりとした充実をほめたたえ、同様に、大時代的な主人公ロドリゲスを少々滑稽に描きながらも、温かい目で見守っているのが感じられます。 若くてまっさらなロドリゲスは、名剣とマンドリンだけを持って旅に出ます。「剣は戦に、マンドリンは月夜のバルコニーに」というのが亡父の教えだったので、彼はいちずに戦を求め、勲をたてて城を持ち、美しい姫君と結婚することを夢見ています。 途中で、従者モラーノが登場すると、主従二人組が名コンビぶりを発揮して面白く、小気味よい。憲察隊から逃れるのにお互い衣裳をとりかえて変装したり、ロドリゲスが決闘をして負けそうになるとモラーノがすかさずフライパンで相手を殴り倒したり。私は『ドン・キホーテ』をきちんと読んだことがないのですが、おそらくドン・キホーテ&サンチョ・パンサよりも、ロドリゲス&モラーノの方が絶妙のコンビネーションを発揮していると思います。 やがて二人は遍歴の途中で、処刑されそうになっている男を憲察隊から救います。どのように助け出すかに気を取られていると、この事件こそが“起承転結”の“転”なのだということを見落としてしまいます。助けられた男は、不思議な人物で、「今まで一度も頭を下げたことがない人間のようなぎこちなさで」礼を言ったり、不意に姿をくらましたりするのです。 のちに、彼が実は「影の谷」の森の王であったことが分かります。 ここでやっと本のタイトルにある「影の谷 Shadow Valley」が出てきます。広大で魔法の雰囲気に満ちた森の、神出鬼没の王と、弓を携え緑に装う臣民たちは、まるでシャーウッドの森のロビン・フッド一党のように、自由ですばらしい暮らしをしています。 ロドリゲスは美しい姫に出会ったあと彼らに招かれますがやがて森を去り、相変わらずいちずに戦を求めてピレネーを越えてゆきます。 彼が戦で得たもの失ったもの。絶望のあとでどんでん返し的に訪れるハッピーエンド。後半はファンタジーやメルヘンの王道を踏襲しつつ、トントンと話が進みます。前半、作者の語り口に慣れにくかったり、SF調の長い挿話があったりして、なかなか親しみが持てなかったのがウソのように、いつの間にか、まじめで感性豊かで、けれど過ぎたことにはこたわらないサッパリしたおおらかな性格のロドリゲスが、だんだんステキに見えてくるから不思議。 老ドン・キホーテが夢見た騎士道的人生とは、きっとこんなだったのだろうと思えるような、完成された騎士道物語です。
March 23, 2009
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小学生の息子に読む“寝る前のお話”、ここ数日は「長くつ下のピッピ」でした。 言わずと知れたリンドグレーンのロングセラーですけど、2巻「船に乗る」3巻「南の島へ」になると、物語の内容が少し変わっていくのに、最近気づきました。 1巻では「世界一つよい女の子」ピッピの破天荒ぶりを描くエピソードが続く。いじめっ子をやっつけたり、火事から子どもを助けたりもするけど本人は無自覚。「なんておもしろい火事でしょう!」なんて言ったりして。 ピッピは常識破りの破天荒で周囲をびっくりさせ、今までの価値観をひっくり返す“トリックスター”。 2巻になるとちょっと変化が。 ピッピは、弱者を助けるいわゆるヒーロー(女の子だけど)的要素が強くなってくる。乱暴者をこらしめるエピソードが多い。 そのうえ、ピッピ自身子どもでありながら、“子どもの守護神”的ふるまいをする。遠足についてきて皆を楽しませたり、お菓子を買いまくって子どもに配ったり。難破ごっこをした時など、トミーとアンニカにスリルを味わわせながらも、彼らの両親へ「子どもしんだとか ゆくえふめとか おもわないでね。…すぐかえる。ほんとよ。」という手紙を出しておくことを忘れない。 ただの破天荒なお騒がせ者から、守護神的ヒーローへ、進化だ。だからこそピッピが去ろうとしたとき、子どもたちはあんなにも悲しく、トミーはピッピを連れ去る船に憎しみさえいだく。 3巻でもピッピの人助けは続く。 1巻ではイヤがられあきれられた彼女のウソ八百のおしゃべりも、3巻ではラウラおばさんをはげます妙薬となる。南の島へ行ったピッピは、ここでも子どもの守護神ぶりを発揮し、彼女がいるだけで皆は底抜けに楽しく遊ぶし、真珠泥棒をやっつける本物の冒険もできる。 最終章のおとなになりたくないピッピを読むと、ピッピは、子どもの姿をとって子どもたちの中に顕現した、“永遠の子どもの神さま”なんじゃないかな、と思う。 ピッピの本を楽しむとき、大人の読者も子どもになって、彼女をあがめ、いっしょに無邪気な理想郷で永遠に遊び続ける。その遊びと楽しみは、無限!
June 6, 2005
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「わたしの唯一のファンタジーです」という大江健三郎のことばがカバーの見返しにありました。ほほう、ノーベル賞作家もファンタジーを書く・・・ファンタジーという言葉はなんてメジャーになったのでしょう。 私は大江健三郎の他の作品をほとんどまったく知らないので、何とも言えないのですけれど、ファンタジーらしく書こう、という意図が感じられます。タイムマシンという言葉が何度も出てきて、確かに主人公のティーンエイジャー「三人組」が別の時代にゆくのですが、これはSFではないというしるしに、作者は「「夢見る人」のタイムマシン」と呼んでいます。 そして、近未来に行って競馬欄を見て金儲けをするような、そんなタイムマシンではいけない、と言っています。 夏休み、真木、あかり、朔の3きょうだいが、亡くなったおばあちゃんの「森の家」に滞在し、近くの大樹のうろで眠ることによって、いろいろと別の時代にトリップするのです。 「童子」といわれる特別な子供がよその世界に行きたくなると、「千年スダジイ」の根本のうろに入って、会いたい人、見たいものをねがいながら眠る。心からねがえば、会いたい人、見たいものの所へ行くことができる。 ――大江健三郎『二百年の子供』 “3人(4人)きょうだいが、ある仕掛けを使って何度か別世界へトリップする”。その仕掛けは、ちょっと変わった大人(親ではないが、子供たちが親とは別の意味で頼れる存在)が関係している。・・・これは、ヒルダ・ルイスの『とぶ船』とか、あの「ナルニアものがたり」を私に思い出させました。 タイムトラベルすることによって、自分たち(そして自分たちの家族、故郷、国、人類)のルーツを知り、歴史や時について考え、今の自分がどんな基盤の上に立っているのかを確認する・・・これは、以前にも河合隼雄の受け売りを書きましたが、アイデンティティの確立する10代の子供たちの通過儀礼なのですね。 『二百年の子供たち』のストーリーも、イギリス児童文学(ファンタジーの古典)と同じ形式を使いながら、なかみは日本ならではの歴史や、ものの考え方を、お説教臭くなくさらりと書いているところは、さすが大作家、読んでいて心地よく納得のいく展開と文体。 きょうだいそれぞれの個性(知的障害者で、それゆえ魔法使いのような特別な視点を持つ不思議な兄、頭脳明晰で常識派の弟、そして繊細で思いやり深い真ん中の女の子)もすてきだし、何よりこの三人が補い合いながらも、三人だけでやっていくのではなく、周りの人々と関わりを持っていくさまが、自然に嫌味なく描かれています。 タイムトラベル先のできごとは、江戸末期の逃散や一揆の話、戦争当時の話、明治時代アメリカにわたった津田梅子の話、そして未来(2064年)の日本の農村の姿。どれも、日本人にしか語れないできごとや人々の心を短く強く訴えかけるようなエピソードばかりだと思いました。 イギリスの古典的児童書によくあるお説教臭さがないかわりに、作者の、若い世代にこれはどうしても伝えなくては!という熱い想いのようなものがいっぱいにこめられた作品で、そういう意味では、文体もストーリーも簡潔でふんわりしている割には“重い”一冊かもしれません。
July 17, 2007
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先日『雪渡り』について書きましたが、『水仙月の四日』も、長岡輝子の朗読を聞くと、その迫力がすばらしいです。 独特のことばやむずかしい表現があるにもかかわらず、妖怪好きの下の子は、雪婆(ば)んごが、ひゅう、ひゅーう!と、聞くだに身も凍りそうな声をあげるところが大好きです。 ところで、「水仙月」っていつなんでしょう。ちょっと調べてみましたら、どうも諸説があるようです。賢治(と雪ばんご)の故郷である岩手あたりでは、水仙は四月ごろにならないと咲かないらしい。 一方、寒の入りの頃だとか、小正月(雪女が出るらしい)という説もありました。 私は小さいころから自分の感覚で、ずっと「水仙月」は二月だと思っていました。だから、「水仙月の四日」は二月四日(立春)で、冬の最後に雪ばんごが大暴れしているんだな、と勝手に納得していたのです。 この物語では、「赤いケットにくるまった子供」は、雪童子(わらし)に助けられますが、本来、吹雪にあって凍死するところだったのだと思います。 「水仙月の四日だもの、一人や二人とったっていいんだよ。」 ――『水仙月の四日』という雪婆んごのセリフがありますから。 けれど夜明けが来ると雪婆んごは、 「あたしゃこれからまた海のほうへ行くからね。だれもついてこないでいいよ。ゆっくりやすんでこの次の仕度をしておいておくれ。ああまあいいあんばいだった。水仙月の四日がうまく済んで。」 ――『水仙月の四日』 と去ってゆきます。私には、これが冬が去り、春が来ることのように思われました。「この次」とは次の冬で、雪童子などの冬の精たちはそれまで春・夏のあいだ「ゆっくりやすむ」のだと思えたのです。 ヨーロッパの伝説で、冬の終わりに魔女が一暴れして去ってゆく、その時、魂を連れてゆく、みたいな話を読んだおぼえがあるので、そんな記憶とごっちゃになったのかもしれません。 ともあれ、今夜も雪が降り出したようです。北国では、雪婆んごが叫び、雪童子が鞭を鳴らし、雪狼(おいの)が駆け回っていることでしょう。
February 3, 2006
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数日前が仕事の〆切で、そのあと兄妹ともヤマハの発表会で、何だかとっても忙しかったです。 そして今日は息子の卒業式(小学校)でした! は~、やっと一区切り。 とんさんさま、『夢狩人3』届きましたv ゆっくり読ませていただきます。てゆーか、昔これ(多分連載で)読んでいましたです。でもすっかり内容を忘れていたので、なつかしさに若返る気分です。 で、明日から(夫の単身赴任先へ)旅行です。rayさま、また九州にお邪魔します! 面白そうなファンタジーも図書館で借りているし、プチ読書感想文を書きたいんですけど、とりあえず今夜は荷物づくりです
March 18, 2009
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池や水たまりの水面をのぞくと、別世界がある。木や家がさかさまに立っていて、海のような空を雲が流れていて、すいこまれそう。水魔がいたり(天沢退二郎『光車よ、まわれ!』)、また、いなくても、すぐ身近なところに別世界があるというのは、何だかこわいような、惹きつけられるような、不思議なゾクゾク感をひきおこします。 ああ、なんて深い空でしょう。もう一つの世界が、水のなかに、そして、ノンちゃんの足の下の土のむこうがわにあるようです。 ・・・ あの空が、うその空だとは、ノンちゃんにはとても思えないのです。 ――石井桃子『ノンちゃん雲に乗る』 おかあさんに置いて行かれて泣いていた8歳の女の子ノンちゃんは、そんな水面の裏側の世界「地下天国」に落ちて、雲を乗り回すおじいさんに拾い上げられます。ノンちゃんは身の上話をしたりおじいさんの話を聞いたり長い時間を過ごしたのち、うちへ戻ります。 作者は、絵本や翻訳で有名な石井桃子。こんな長編の作品もあるんです。1951年つまり半世紀以上も前に書かれたもので、しかも物語は「いまから何十年かまえ」つまり戦前の日本が舞台なのですが、古さをまったく感じさせない、すばらしいファンタジーです。…もちろん当時の日本には“ファンタジー”という言葉さえなかったと思いますが。 主人公の子供が別世界へ行き、最後にまた現実世界へ帰ってくるという形の物語としては、C・S・ルイスの『ナルニア』シリーズにも匹敵すると、私はひそかに思っています。 手元にあるのは福音館の本ですが、ページをめくっていくと、とちゅうで活字の色が変わります。ノンちゃんが現実世界にいる時は黒い字。雲に乗ると青い字になり、現実に帰還すると黒い字に戻ります。 エンデの『はてしない物語』が、やはり現実世界とファンタージエンとで活字の色を変えて印刷されていますし、物語の舞台が多層なファンタジーでは活字の種類を変えてあることも最近では結構見かけます。 でも、自分が生まれるより前の日本の児童書で、すでにファンタジーの形式をバッチリそなえた物語があるということが、私には驚きでした。もっとも、私がこの本を読んだのはノンちゃんと同じ年頃で、『ナルニア』やエンデや『指輪物語』に出会うずっと前だったのですが。 ノンちゃんは別世界で雲に乗りますが、別に雲の上で大冒険したり悪者をやっつけたり宝をかちとったりするわけではありません(そこが、西洋のファンタジーとの大きな違いだと思います)。ノンちゃんは雲のおじいさんに、自分のこと、家族のこと、学校のことなど――つまり「現実」――を語るだけです。 現実世界で空想する別世界、ではなく、別世界に身を置いてそこから現実世界を眺めなおす。異なる視点から眺めた現実、そこに見えてくる根源的で普遍的な世界像や、心の真理や、感動。これこそファンタジーの真髄だと思います。 トールキンによると、ファンタジーを創る(=語る)人は空想の世界を、 「現実」に源を発するものでありたい、あるいは「現実」にむかって流れこんでいくものでありたい ――トールキン『妖精物語について』猪熊葉子訳と思い、そうした空想世界ではその「根もとにある真実、あるいは真理を、突然のぞきみること」ができるということです。 こうして考えると、雲の上で自分の物語を語るノンちゃん自身が、ファンタジーを語る人だということになります。 また、ノンちゃんは最後に現実世界に帰ってきてから、雲に乗った別世界体験をどうにかして語ろうとします。実際にはおとうさんもおかあさんも、その話をちゃんと聞いてくれませんでした。雲に乗っていた時、現実世界のノンちゃんは池に落ちて意識がなかったため、両親はものすごく心配して、彼女の話を病人のうわごとか何かのように思ったのでしょう。しかしノンちゃんはその後も別世界の話を忘れず、いつか自分の子供に語ろうと思っています。ここでもノンちゃんは“ファンタジーを語る人”なのです。 こんな多層構造も、ファンタジーの大きな特徴です。調べてみると、映画化されたことがある(1955年、原節子主演!)みたいですが、ファンタジー映画が脚光を浴びている今日この頃、あらためて、日本独自のファンタジーの古典として、ジブリのようなハデさはなくとも、じっくりと観られるような映画になったらいいのになあ、などと思います。
June 15, 2007
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復刊ドットコムのお知らせに、絵本『つきよにごようじん』復刊とありました。 NHK「みんなの歌」のトラウマ・ソングとして有名な「まっくら森の歌」の方は、このお知らせを読むまで知りませんでしたが、絵本は手元にあります。むかし初版本を、たしか大谷美術館(西宮市)の絵本展の売店で入手したのです。 幻想的な絵(本橋靖昭。この人が「まっくら森」世界の生みの親だそうです)も好みでしたが、ストーリーの書き方が不思議で・・・、説明がほとんどなく、うっかり読み進むと最後に、え?となるのです。で、もう一度読むと、よけいに謎めいた感じが強くなるのです。(以下、ネタバレ!) 森の番人が小屋を出て夜回りに行くのですが、絵の時計を見ると時刻は10時半。よい子は寝ている時間だから、年少読者はわくわくします。 すでに窓から小さい怪獣が覗いているし、小屋の中の小物にも怪獣ぽいデザインのものがあって、細部を見ていくと楽しい(『バムとケロ』シリーズなんかもそうですね)。 くもまがくれの つきあかり。 みかづきどきには ごようじん。 ――齋藤浩誠『つきよにごようじん』(以下もすべて) 背景に三日月が出ています。人面に見える木々や覗く小さな目。で、次のページなんですが、 がさ がさ がさ おおきなあしおと。 ひた ひた ひた しのびよる あやしげなあしおと。大小の怪獣にあとをつけられているように読めます。たしかにいろんなシルエットが番人の背後や周囲に覗いています。 続く数ページで、森の動物たちが「おおかみねずみに おおかみがえる、おおかみうさぎに…」と皆オオカミ化して、「ブレーメンの音楽隊」のように縦に積み重なったり、キバを向いてとびだしてきたりして、それなりに怖い! 番人も走って逃げています。 でも、実は追いかけてくるのは本来は小動物(やや大きな怪獣が1ぴきいますけど)ばかりで、「もりのちいさな へんしんおおかみ」なんですね。 森の外れに出ると、動物たちは本来の無害な姿に戻り、 いつのまにやら まんげつが、 もりを まあるく てらしだす。あれれ? 最初、三日月じゃなかった? ファンタジーだから月が変わるのかしら? と思っていると、(→核心ネタバレ)さっきより格段にすごい絵で、ふりかえった番人は、満月のもと、巨大な狼男に変身! 逃げ帰る小動物たち、ぼーと鳴くふくろう。これで終わりです。 この最後のどんでん返しが面白怖くて、子供には人気なんでしょうね。 ところで、月夜にご用心しなければならなかったのは、誰でしょう? さらに、読み返してみます。絵本の表紙裏には木がびっしりの地図があり、これも参考にしながら・・・、すると東?の方に「みかづきもり」があって、実は最初に出てきた三日月が、本当の三日月ではないことに気づきます。絵をよく見ると、森や雲のシルエットに邪魔されて、上ってきた満月が低いうちは三日月に見え、光もおぼろなのがわかります。 森にさすほのかな月光の効果?で小動物たちはオオカミ化しているのでしょうか。そして番人はこの程度の月光では変化しないので、必死に逃げているのでしょうか。 番人はさいしょから「おおおとこ」と呼ばれていて、「がさ がさ がさ おおきなあしおと。」は番人自身の足音だったようです。そして地図でいう「つきみのおか」まで来るとあたりは開けて満月は全貌を現し、月光をいっぱいにあびて・・・、おおおとこはついに狼男になるのです。こうなると最強で、もう逃げなくてよいわけです、 満月の狼男、定番ですがいちばん恐ろしい。 ついでに、「おおかみおとこ」から「かみ」を抜くと「おおおとこ」になるんですけど、確かに番人はスキンヘッドなんです・・・って、深読みしすぎかな? 最初と最後にしかめつらのふくろうが居て、すべてを見守っているかのようです。 “月夜にご用心”して読み進まねばならないのは、じつは読者だったりして。 シンプルな文章とストーリーなのに、何度も味わえる。そんな絵本です。 ところで、地図には、このストーリーには出てこない部分も記されています。番人小屋の西?に広がる「まっくらもり」や、川、海の中には「つきのはな」「かいぶつゴラゴラ」「きかいじかけのさかな」、すべてがとっても気になります。 もしかして絵本『まっくら森』には出てくるのかしら。残念ながらこちらは絶版のままです。これも復刊されますように!
December 17, 2022
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ほのぼのしたアナログ調の絵柄がすてきな、岩本ナオ「金の国水の国」。コミックスを読み、プライムビデオで映画も観てみました。 原作のストーリーやキャラクターはもとより、絵本のようなやわらかい線の特徴を保った、優等生な映画でしたね。細かい変更はありましたが(敵対するA国B国にちゃんと名前がある、国境に城壁がある、などなど)、どれも理解しやすくなっていて、子供でも楽しめる感じ。 実は設定的にもいろいろ突っ込みどころはあるんですが・・・、交易で栄えているというA国、自国は砂漠と涸れつつあるオアシスで、産物がなさそうですが、中継貿易専門でしょうか? 原作冒頭の地図だと隣のB国以外の国が見えませんけど、B国とは交易してないんだし、具体的にどうやって儲けているのでしょう。 B国は以前A国との戦争に敗れて以来、貧しいということですが、水があり森林があり海もあるのですから、A国よりはよほど農林水産業が発達していそうです。水運を利用すれば、A国と国交がなくとも他の国(どこにあるにせよ)と交易もできそうなのに、なぜ貧しいままなのでしょう。 あと、大多数が無宗教的な現代ニッポンの作品ではありがちだと思うのですが、神様とか宗教の扱いが適当です。この物語も、そもそも二国の仲違いの仲裁をして、いちばんの美女をB国に嫁にやり、いちばんの賢者をA国へ婿にやれ、という神託を下した神様(または宗教指導者)がいたはずなのに、冒頭だけであとはまったく触れられていません。形だけにせよ2国ともが従った神様の権威はどうなっているのでしょう。2ページ目以降、神様に祈る場面もなく、宗教指導者も出てきません。 描かれている風物からすると、特にA国はイスラム圏のようにも見えますが・・・ けれど、そういうことをあれこれ追及すべきではないのかも。たぶんこのお話はおとぎ話というか、寓話というか、余計な条件をそぎ落として単純化してあるのでしょう。 支配者層の意地の張り合いで長年不仲だった2国を、それぞれの国のごく常識的な男女が中心となって和解させる、というのがそのシンプルな筋。 どうしても昨今のご時世から、ロシアとウクライナとか、ロシアとNATOとか、南北朝鮮とかの対立を思ってしまいます。国の体面(というより支配者たちの体面)のために、人々が惑わされ、戦争にかりたてられ、生活基盤を壊され、果ては犠牲者になってしまう、この愚かしさ。 対立抗争を終わらせるのは、軍事力よりも経済力よりも、市井の人々の健全な常識と思いやりである、ということを、シンプルでピュアなメルヘンに触れることによって、多くの人が認識すればと思います。 この物語によれば、一見お飾りのチャラ男であるイケメン俳優の左大臣も、一見王をたぶらかし私腹をこやすだけの右大臣も、一見ぜいたくで高慢な第一王女も、一見もうろくして頑固な国王も、じつは根っからのワルでもバカでもなく、それぞれの立場でそれなりに考えたり頑張ったり悩んだりしているのです。B国の族長も、嫁に来た設定の王女サーラを結局奪いもせず飲み比べを提案し、自分が負けて祝いのご馳走をあげてしまったのも、じつはわざとなのかもしれない、なんて思います。 そして何があっても持ち前の落ち着きと思いやりとマイペースを崩さなかったテンネンのサーラ姫、立派ですね。ナランバヤルもざっくばらんで、やはり落ち着きと思いやりがありました。気がつくとみんなが二人を応援して、みんなが善人になっている。読者もまた。
September 10, 2023
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ようやくシーズン2を全部観ました。前にも増してどの場面も暗いので(物語が暗い展開になってきたからでしょうけど)、目をこらさないと誰が何をしてるやらわかりません。 (→ネタバレあり)シーズン1の私なりの要約は「皆と離れても信じる道をゆく主人公たちが、物語を進め歴史をつくる」でしたが、今回の感想を一言でいうなら、「最期におのが過ちを悟っていい人になる」でしょうか。 もちろんラスボスのサウロンをはじめ、(サルマンらしき?)悪い魔法使いやヌメノールのアルファラゾンなど、次へ続く悪役たちはますますワルの度合いを高めて行ってますが、このシーズンで退場する人々は退場間際に自分の愚かさに気づいて多少なりともいい人になって散っていきます。 こういう結末は、誰を/何を信じて良いのか分からない、裏切りと期待外れ続きのストーリーの中でいっそう輝きを放ち、視聴者の心をつかむ!というわけでしょう。 生き延びる人々の中で相変わらず見所があったのが、ヌメノールの女王ミーリエルとドワーフのディーサです。欲にまみれた男どもが右往左往する時も、まっとうな常識を貫いてゆるぎません。もちろん、女性キャラがみんなそうではなく、時代に翻弄され迷い揺れ動く者もいます。ガラドリエルもそうだし、新たに出てきた避難民のエストリドなんかも。 トールキンだけではありませんが、古典的なファンタジーのキャラクターは、どうしても最初から悪玉は見るからにワルっぽく、善玉は人質でも取られない限りいつも正義を行う、的なところがあります。でもこのシリーズでは、混迷の世にあって選択を誤ったり迷ったりするキャラクターが特徴的ですね。 ケレブリンボールなんか、おのが才能を追求しそのためにサウロンにつけこまれちゃいます。彼は最初から領地の統治や雑事は同胞に任せておけばよかったですね。サウロンことアンナタールの欺しの演技も見事でしたが、それを自力で看破したケレブリンボールさんは、最期まで(呪いの予見をしたりして)、ノルドールらしく立派でした。 ドワーフ王ドゥリン3世は指輪によってモリアの富への執着が高じていきますが、これもいかにもドワーフらしい(「ホビット」のトーリン/ソーリンなんか指輪なしでも強欲にとり憑かれてた)。バルログを掘り出した途端に迷妄から覚めて立ち向かい、もろともに山の深部に埋もれてしまいます。バルログを掘り出すのは第3紀じゃなかった?という原作からのツッコミを入れたくなりましたが、踏みとどまっておきます。バルログは実は「サウロンの悪意によってとっくに目覚めていたかもしれない」という記述が追補編注釈にありますから…きっと、ドゥリン4世以下の面々はバルログのことを後世に戒めておいたのに、性懲りも無くドゥリン6世がまた掘り出した、のでしょうね… そして、突然イケメンになり話の分かる賢さを見せ、最期にいい人の片鱗を見せたのが、アダルさんです。雰囲気が変わったのは、実は俳優さんが変わったからですが、悪役とはいえ微妙な終わり方でした。トールキンならこういうキャラクターはつくらないでしょうね。 ともあれ、原作の第2紀を超圧縮した感じで話が進みますが、まあ二次創作ですから仕方ないでしょう。 そうそう、トム・ボンバディルが出てきて(かなりとってつけたような登場)びっくりしました。俳優さんのお顔はイメージ通りでしたが、いや、なんかストーリーにはめ込むと違和感だらけ。ただし、歌はすばらしかったです。何度も聴いてしまいました。
November 7, 2024
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