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若いころ、荒俣宏の絶賛につられて読んで、ただライオンの素晴らしさにクラクラっと来ただけでした。このライオンは、発掘された遺跡の壁画で、戦車に乗った王に挑みかかっています; 大きく強くて、獰猛で、背骨のところに矢が二本ふかく食いこんでも、まだ生きている一頭だった。矢が、体の中で火のように燃えた。目がかすんでくる。血の流れが耳もとで、二輪戦車の車輪の軋む音と混じりあって、どくどくとひびく。・・・[中略]死にかけたライオンの王は跳びあがり、かれ自身を槍にさらした車輪に、くるくる回転する背の高い車輪に、しがみついた。低くうなり、額をけわしくさせて、車輪に噛みついた。しかし車輪はさらに回転して、かれを上に押しあげ、次いで闇の中に放りこんだ。 ――ラッセル・ホーバン『ボアズ・ヤキンのライオン』荒俣宏訳 後日TVのドキュメンタリー番組で、アッシリアのアッシュールバニパル王の壁画を見たとき、「このライオンだったんだ!」と興奮しました。びっくりするほど生命力に満ちあふれた浮き彫りで、とても紀元前7世紀の作だとは思えません。壁画には狩られるライオンが矢や槍を受け倒れ死ぬところもあり、生と死、それを自らの手で決定する偉大な王の力などが表されているようです。 しかし、この圧倒的なライオンが、物語の流れとどうもうまくかみ合わないような気がしてしまうのです。 世の中にはライオンが見えない人、ライオンとは無関係に生きる人(ボアズ・ヤキンの母など)もいて、彼らと、主人公の父子との対比は、意味があるように思えます。 しかし、たとえば舞台がリアルなアメリカっぽいのに、ライオンの壁画のある遺跡(イラクの乾燥地帯にあります)が近所にあるし、ドイツの描写もちらりと出てくるのです。ファンタジー要素(=ライオン)の出現するのがリアル(現実)世界であるという設定なら、なぜアメリカ的な中東や、取ってつけたようにドイツですよな表現が出てくるのか、よく分かりませんでした。 それから、ストーリーが、父と息子が生(と死)の実感を取り戻すクエストを行い、最後に共感し合うのですが、「大人向けのファンタジー」というだけあって、要所要所に女性との営みが生命の証みたいな場面があって、それ自体はいいのですが、ライオンとはどう関係あるの?と思ってしまいました。また、地図を作るということも人生の旅路の象徴のようですが、やはりライオンと結びつきにくいのです。 つまりはライオンが素晴らしすぎて、地図だの女性関係だのどうでもよく思えてしまう。 再読してもやはり、ライオンの存在感がすごすぎて、車輪(=時の流れの象徴でしょうね)に噛みつくその姿がまばゆく心に浮かびます。もしかして、ライオン(=生と死)が圧倒的であるということを表現するために、舞台設定やストーリーはどうでもよく書かれているのでしょうか!
May 10, 2026
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2019年に「2020東京オリンピック/中止だ中止」で映画が再上映された時は、コロナが怖くて観に行けませんでした。先日、38年ぶりに観ました、「AKIRA」(画像は1988年当時の前売り券とパンフレット)。 お正月にTVでもやってましたが、やはり映画館でのド迫力は圧巻! オープニングのドーンから、ねぶたとケチャを混ぜ合わせたハイテンポなテーマ曲へ、細胞が沸き立つような山城組のサウンドが、パワフルでショッキングな感動をよみがえらせてくれました。 原作を読んでいないので、当時「とにかくすごいらしい」というだけで観たものの、バイオレンスと悪夢、破壊に次ぐ破壊で、細部に目を凝らす余裕もなく、結構いっぱいいっぱいになったのを覚えています。サイバーパンク体験てこういうのかなあ、と。 なぜか後々まで私の心に残ったのは、数珠を手に吠えるように祈る教祖ミヤコ様と、信者が路面に大筆で書く「AKIRA」のパフォーマンスでした。人々の鬱積した不満や不安がふくれあがり、このような形で現れるのを初めて観たのです。宗教ってよそ事ではなく、こんなふうに社会に生まれてパワーアップし、人々を駆り立てる可能性もある、ということ。拙作『海鳴りの石』3巻に登場する、奇声を発する占い女はミヤコ様がモデルだったりします。 数年後にオウム真理教がニュースの話題になった時も、私はミヤコ様を思い出しました。 「AKIRA」では、ネオ東京の高層ビル群と対照的な、周囲の地べたでうごめくごちゃごちゃした歓楽街、スラム、デモ隊などが、当時から何やら懐かしさを感じさせていました。再度観て思うのは、やはり「昭和」、第二次大戦後~バブル期の歴史がにじみ出ていたのですね。 冒頭のドーン(新型爆弾)は原爆、大戦と復興は40~50年代、革命運動は60~70年代の学生運動(デモ隊の旗に「反帝」と書かれているのがいかにも古い。令和の若者は意味分かるの?)、そして飽和した金満文化の陰に世紀末の何か不穏な予兆があって(80年代)・・・と。 作者の大友克洋もその意識で描いていたと、先ほど調べていて知りました(昔のパンフレットにはそんなこと書いてなかったし)。 思えば80年代後半、「世紀末」という言葉がどんどん増殖し、次の世紀になる前に、浄化というか禊ぎというか、何らかの関門/敷居/試練/破壊を越えねばならないのだろう、みたいな終末と再生の予感が大きくなっていました。『風の谷のナウシカ』などの、核戦争後の世界を描いた創作がたくさん生まれたのも、そのせいでしょう。 夜にまばゆい高層ビル群を斜めに見上げる形で、金田くんと一緒に疾走すると、ストーリーは破壊と混乱へ突き進んでいきます。ふくらましすぎた風船が割れるように、自らのパワーの膨張で「爆発」てしまうテツオ、そして東京。人々は破壊に巻きこまれ、おしつぶされ、せめぎあい、それでも未来へ向かってもがく、そんなパワーが画面狭しとあふれています。 結局そのパワーは東京を破壊し尽くしたあと、ブラックホールのように超能力関係者を別の宇宙へと吸いこんでいき、廃墟に平穏が戻ります。水没した都市は浄化されたごとく陽光に照らされ、人々は瓦礫の中からまた歩み始めるだろう、というエンディング(映画版。原作は違うそうです)は、また第二次大戦後に戻ったかのようです。 ただ、AKIRAのパワーの源は、誰の細胞にも、いや生き物すべてに宿っている(生存・進化のパワー)とされます。この考えは他のSFにもあり、例えばスター・ウォーズのフォースとか、ファースト・ガンダムの「人の革新」とか。 そう考えると、世代や歴史を繰り返しながら生命が進化しつづけたように、変化は「もう始まっている」、止まらないのでしょうね。第二次大戦後の世界が原子力という恐るべきパワーを抱えて歩み始めたように、金田くんたちはAKIRAのパワーを抱えて歩んでいく。 と、そんな未来展望の映画だったのだなあ、と改めて思い出しました。 2020年の4K版のキャッチコピーは「時代がようやく追いついた」ですが、物語の時代設定2019年を過ぎた今、現実はどうなんだろう、と思います。自分が年を取ったこともありますが、昨今の世の中には「AKIRA」ほどの(つまり昭和時代ほどの)人的パワーがあまり感じられない気がするのです。 未来へ進むパワーはもっぱら、人間の代わりに仕事をし考えるロボットやAIの開発に、そして、現実の代わりに体験し楽しみ学ぶバーチャル世界に、注がれているように思えます。 出生率も減ったりして、人間自体のパワーは、小さくなっていくような・・・そう、『やがて人に与えられた時が満ちて…』(池澤夏樹)のように、静かでエネルギーの縮小するエンディングへ向かっているような気がするのです。それもまた、未来の再生へつながる一つの浄化であり試練であるのかもしれない、という気もしますが。 「AKIRA」時代の細胞パワーを懐かしく回顧するHANNAでした。
April 19, 2026
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『くまのプーさん』のA・A・ミルンの「大人のために書きあげた現代のフェアリー・テイル」(ハヤカワ文庫裏表紙より)、『ユーラリア国騒動記』(1917年)。出版当時はなかなか書店になく、長らく忘れていましたが、最近古本で入手しました。 フェアリー・テイルとあるのは、原題が「ONCE ON A TIME」(昔々~)だからでしょう。中世風の架空のユーラリア国のメリウィッグ王とヒヤシンス王女を中心に、隣国バローディアとのいさかいや魔法の引き起こしたあれこれを、軽いタッチで語り進めます。 枠構造になっていて、作者は架空の歴史家が書いた『ユーラリア王国の今昔』(全17巻!)を参照し批判しながらこの物語を書いたことになっています。 隣国との戦争の原因について、歴史家の記述(歴史というにはうそくさい、メルヘン風)を紹介したうえで、筆者は全く違う“真相”を語る――ところが、それも魔法がらみの滑稽譚なので、読者は面くらい、作者と歴史家どちらもうさんくさく思えてきます。 トールキンの『指輪物語』も、架空の歴史記録の出てくる枠構造のファンタジーですが、作者は架空の書をきちんと翻訳したことになっていて、歴史書は作者の語りにリアルさを持たせる役割。 また、以前ご紹介したジェイン・ヨーレン『光と闇の姉妹』では、架空の歴史家が本筋のファンタジー的伝説を批判しまくるという構造で、異なる視点からストーリーを考えさせ、その奥にあるだろう真実に、やはりリアルさを持たせています。 ところがこの『ユーラリア国騒動記』は、そういう枠物語自体を茶化している感じです。架空の話にしろ、真実をつきとめることに価値があるのか? と思ってしまいます。 キャラクターの性格づけもしかりで、一筋縄ではいきません。(以下ネタバレあり) メリウィッグ王は気のいいだけのお馬鹿な格好つけに描かれていますが、ヒキガエルに変えられたのにウインク一つで妖精を負かしたり、敵国王のひげを剃り落として戦争に勝利するなど、そのテンネンさが意外なパワーを発揮します。 敵国王の方も滑稽で、二人の王は戦場で豚飼いに変装してだまし合おうとしたり、あきれるばかりです(しかし、アイルランドの神話には魔術師である豚飼いが争ったり、予言をしたりする話があります。豚は豊穣の象徴だったそうです)。ところがこの敵国王は、威厳の象徴のひげをなくすや王をすっぱりとやめて、ひそかに憧れていた豚飼いになってしまうのでした。 西洋の物語では、豚飼いは王と対比されて時々出てきます。ロイド・アリグザンダーの「プリデイン物語」では主人公タランは豚飼いから最後には王になりました。王が豚飼いに身をやつすというような話もあるようです。しかし、真剣に豚飼いになりたい王とは、価値観の逆転では? と読者はびっくりです。 それから、ヒロインの王女。野心家のベルベイン伯爵夫人のもとで、王女は気の毒な立場のはずですが、やはり愚かで、伯爵夫人に丸めこまれてしまいます。無力な彼女は騎士道精神を期待して、アラビイ国のユードー王子を招来します。 読者は想像します、王子は伯爵夫人を負かし、王女と結ばれるだろうか? あるいは、王子も野心家の悪者で、王女につけこんで第二の敵となるか? ところが、どちらでもありません。伯爵夫人が先手をうって、ユードー王子に変身の魔法をかけたので、王子はウサギに似た滑稽な生き物(画像参照)になり、王女は助けてもらうどころか、 同情しているとはいえ、目をそらしたくなりました。 …[中略]伯爵夫人と王子、いまや王女はふたつの荷物を背負い込んでしまいました。 ――A・A・ミルン『ユーラリア国騒動記』相沢次子訳 ――という有様です。 ではベルベイン伯爵夫人こそは悪役かというと、自己陶酔的な夢見るオールド・ミス(もしかしたら未亡人、Countessという語には女伯爵/伯爵夫人の両義があります)で、ありもしない軍隊の経費を国庫から奪って王女をだましますが、「施し癖」があって、金貨をばらまいてしまう。ベルベインという名前は「美人」+「虚栄」で、特に男性から見るとなかなか憎みがたい魅力を持っているファム・ファタルのようです。筆者でさえ、 昨夏、わたしは…[中略]彼女(あるいは彼女の生まれ変わり)に会いました。 …[中略]彼女を見つめているうちに、何世紀もの年月が巻き戻され、彼女とわたしは、ともに、あののどかな国ユーラリアにいるのでした。 ――『ユーラリア国騒動記』と、突然センチメンタルになるほどです(ベルベイン伯爵夫人はミルンの妻がモデルだと知ると、うなずけます)。しかし彼女は悪びれもせず日記や詩作に血道をあげ、結局成敗されもせず、最後には王の愛情深い後妻におさまります。ここでも私の予想は外れました。 そしてユードー王子のダメ男ぶりは、初め変身させられたせいかと思われましたが、だんだんにもともと自己チューなおぼっちゃまでてんで役立たずだと分かってきます。ベルベイン伯爵夫人にころりと参ってしまったり。それでも最後には少し見せ場を作るのかと思いきや、大団円の輪からも弾きとばされて退場、あらあら。 というふうに、おとぎ話のお定まりを予想していると、見事に作者にまぜっかえされ、しかし最後にはハッピーエンドでちゃんとおさまる(例外はありますが)ところが、面白いです。 『くまのプーさん』のように単純なキャラ設定ではないところが、「大人のための」童話なのでしょうね。
April 11, 2026
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第22回は旅の6日め、1986年1月5日(日)最終日つづきです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 外灘の建物をさんざん撮った私たちだが、最後に広東路を昔の五馬路(現漢口路)と勘違いして立て札を写した(左写真)。背景は外灘3号(上海地質研究所)。建物の壁に「新年」などと落書きがある。 さて、すっかり冷えこんだので、再び和平飯店8階のレストランへ逃げこんだ。念願の窓辺の席で、ストープに手を温めながら、ぜいたくな朝食(7.3元、右写真は伝票)。しつこく炸醬麺と小籠包子を食べる。お茶は、この旅で知った銘柄「鉄観音」、淡い黄金色の上品な烏龍茶である。サントリーのウーロン茶とはまた違った色と味なので、私たちがレストランで何というお茶か尋ねたところ、この銘柄を教えてもらった。おいしいのでお土産にも買ったと記憶している。 窓からは朝日に金色に輝く黄甫江が見渡せ、旅の最終日にふさわしい感慨に浸った(左写真)。 午後の帰国までの時間をどう過ごすか、話し合った結果、ホテルにほど近い上海動物園に行くことにした。南京路を西進するバスで行ったと思う。動物園前で降りると、入り口付近の道端にパンの屋台が出ていて、買って食べた。西洋風のパンだからか、あるいは観光地値段なのか、結構高いがそれなりにおいしかったとメモしてある。 右写真は動物園の入り口、左画像はチケット。表には「公園を訪れるさいは礼儀正しく行動せよ」「ゴミを捨てないでください」。裏は時計店の広告で「上海時計 上海市時計産業貿易センター 優れた職人技と正確な時間管理」とある。入り口近くに、中国に住む動物たちのマップがあって、とにかく動物好きの私は写真を撮った(右写真、一部)。 日本の動物園と違って、桁外れにだだっ広い公園、というか原野みたいな所だった。見渡すとところどころに植えこみや塀があって、てくてく行ってみると何か動物が居る。次の動物は、と見渡して、また彼方の何か囲いまでてくてくと歩く。左下写真はペリカン池であるが、これだけで一つの公園のようだ。 パンダが何頭か居たが、広い場所で飼われていたので遠目にしか見えず、しかも地面にころげてどろんこになっていた。日本のように特別扱いせず、動物園の一員でしかないという感じ。それで私たちは写真も撮らなかった。とにかく全部へめぐるのに何時間かかるのか、心配になっていた。 右下写真は「珍しい牛の一種」とメモにある。最近調べたところ羚牛(ターキン)、四川省やチベットなどにいる希少種だった。 何とか全部見終えてバスに乗る。今度も(まだ昼間なのに)切符が全部はけているらしく、何度交渉しても車掌(服務員)さんは運賃を受け取らなかったので、タダ乗りである。 ホテルに戻るとすぐ、帰国の途に就く(私はあわただしさの中で旅行鞄の鍵をなくした)。 さらば上海―― 夢と希望と光の上海 So Long上海 さらば おまえ 外国(とつくに)の姿たもちて 波の果てに放浪(さまよ)う街よ―― (『蘇州夜曲』) (左画像は黄子満、模写です) 寒かったけれど雨には一度もあわず、ほとんどが晴天だった。心残りは上海博物館。人民公園に昼間行けなかったこと。饅頭を買えなかったこと。ジャンク船が見られなかったこと。挙げればきりがない。 けれど私たちは、それぞれ大事な物をかかえて帰った。Mは孔明先生の白羽扇(第6回参照)、司馬遼太郎『項羽と劉邦』の項羽ファンであるNは、米粉でつくった項羽人形*、そして私は馬のカルローズ(第14回参照)である(右イラスト)。 *項羽人形 最近Nに訊いたら、蘇州で買ったということだった。米粉や小麦粉を練って作る漢民族の郷土民芸品で、麺人形とか麺塑とかいう。三国志などの有名人物のものが多いが、最近では棒なしでガラスケースに入った高級品や、日本のキャラクターのもあるそうだ。 今度はJALに乗り、夕方6時に大阪に着いた。とたんに周りじゅうから耳に襲いかかってくる日本語の洪水に、めまいがしそうになる。たった四、五日でずいぶん耳も変わるものだ。 完 思ったより長くなりました。この旅に調子づいた私たちは、同1986年夏、今度はシルクロードの旅へと暴走。この顛末と古い写真も、夏ごろ連載したいと思っています。
April 3, 2026
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第21回は旅の6日め、1986年1月5日(日)最終日です。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 いよいよ旅の最終日。我々は時間を惜しんで早起きし、タクシーで、ちょうど朝陽の昇る頃、外灘(バンド)の海辺に出た。 こんなに早いのに、公園では現地の人々、特にご老人たちが白い息を吐きながら、集まって太極拳をやっている。我々も端っこで少し真似してみたりした。話しかけてくるおじいさんは、日本語を達者に操る。「今朝はマイナス7度」「私は若いころ日本語習いました」などと。左写真の手前のおじいさんは手袋がでかい。木立の向こうには上海大廈。 関西育ちの我々には未体験のしびれる寒さ、さすが大陸である。しかしよく晴れて、おじいさんとの会話の間に浦東の向こうから昇った太陽が、まぶしい(右写真、当時の浦東は開発が始まったばかりで建設用クレーンがそびえるのみ)。 戦前の摩天楼群はどれも真横から日を受けてセピア色だ。左下写真は左から和平飯店南楼、中国銀行、中国工商銀行上海分庁(旧横浜正金銀行)。手前の中山東路(旧黄浦灘路)にはトロリーバスが数珠つなぎである。あちこち撮りながら、黄浦公園(旧パブリック・ガーデン)*を散歩する(右下写真)。波止場に憩う船たちの左奥には先日夜景を見たシーガル・ホテルがある。 パブリックガーデンには「犬と中国人入るべからず」って看板が出ている なんて街だ… (『蘇州夜曲』) *黄浦公園 実際には「犬と中国人入るべからず」ではなく、「外国人用である/犬と自転車は禁止」。現在では改装され英雄記念碑や博物館もあるそうだ。 左写真は公園の北西󠄁角、黄甫江の曲がり目である。ガーデンブリッジの右に、上海大廈。前にも書いたが、てっぺんはフジフイルムの大きな広告。 赤れんがの建物は、1911年に建てられた旧ロシア領事館(この時はソ連領事館。現在はまたロシア領事館として現役)。郵船埠頭と呼ばれたあたりには『南京ロード』のサンタ・クララ号みたいな?船が泊まっている(右写真)。 ガーデン・ブリッジへ写真を撮りながら進む。海に注ぐ泥色の蘇州河には、今朝もおんぼろの小舟が数艘、泊まっている。「外白渡橋 1907年」とたもとに記された橋を渡る、寒そうな人々(左写真)。 再び公園外縁の中山東路を南下しながら外灘のビルを間近で見物する。江海関(税関)の時計台は1927年建築、ビッグベンを模したとかで、今でもアジア一大きい時計台。さらに、ドームのある上海市人民政府*の入り口で、直立不動で立っている「超かっくいー」兵隊さんを「激写」する(右写真)。長銃を持っているのがものものしい。柱の看板が朝日にとんでしまったが、人民政府共産党委員会、とか書いてあったと記憶している。 *上海市人民政府 旧香港上海銀行。現在は上海浦東発展銀行。 左下の写真は外灘2号・東風飯店(旧上海(特派員)クラブビル、現ウォルドルフ・アストリアホテル)と、右隣の外灘3号・上海地質研究所(旧ユニオン・アシュランス・カンパニーズビル(有利大楼)。現ショッピングセンター)、さらに右は広東路をはさんで外灘5号・上海海運公安局・上海市航全学会(旧日清ビル=日清汽船上海市店、現在は華夏銀行)、外灘6号・長江航運管理局(旧中国通商銀行)も少し見える。手前の手すりには「請勿随地吐痰」(ところかまわず痰を吐いてはいけない)とあるし、交通標識はトラック禁止、警笛禁止など、外灘地区の美化を政府が強力に進めていることがわかる。 右写真は外灘を一望(東風飯店から中国銀行まで)。戦前のこの角度の写真には右側に天使の彫像(正式には和平の女神*)があるので、私たちは見回したが、消え失せていた。 *和平の女神 第一次大戦の戦没者追悼のために1924年建てられた(中国の解説によるとヨーロッパ戦勝記念碑、勝利の女神)。日中戦争で侵攻した日本軍により取り壊されたそうだ。鋳つぶされ武器弾薬になったと思うと悲しい。つづく、最後は動物園へ!
March 30, 2026
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第20回は旅の5日め、1986年1月4日(土)お買い物つづきです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 南京東路では、ばかでかい新華書店にも行った。これはあちこちにある国営本屋さんの南京路店である。一角にレコードやカセットの音楽を売るコーナーがあり、山口百恵のポスターがやたらと貼ってある。私たちは、前年(1985年)、外国ミュージシャンとして初めて中国公演を行ったWHAM!(ワム)のカセットを発見した!(右画像) ジョージ・マイケルファンのNは大興奮。カセットの表書きには大きく「英国威猛」と書いてある。この漢字でワムと読ませるようだ。ところが、このカセットは売り切れたのか、見本として置いてあるだけらしく、注文しようとしたら「没有(メイヨ)」とお決まりの応答をされてしまった。 間口の広い瀬戸物屋さん(国華磁器商店?)も物色した。冬景色の描かれた、少し蓋がいびつな中国茶を飲むカップを入手(左上画像、2.3元)。Nが底を見て「景徳鎮だ!」と言ったし、『南京ロード』で本郷さんが「支那茶は飲みにくい(ぺっぺっ)」とやっていたのを思ったのだ。中国の人々はみなこのようなカップに茶葉とお湯を入れて飲んでいる。 にぎわう南京路をうろつくうちに、暮れてきた。左写真は福建中路との交差点で、トラック禁止・警笛禁止の標識がある。右手前が「老大房」(食品店)、その向こう(西)が新新美发厅(美容院)。現在でも老大房は同じ場所にある。左の高層ビルは人民広場(旧競馬場)近くの旧上海レースクラブハウス(今は図書館)?あるいは国際飯店?。右写真は浙江中路との交差点。バスの架線と街灯が交差して見える。遠く右の塔はおそらく東亜飯店、左の塔は第十百貨店。右一番手前から南洋衫袜商店(衫袜はシャツと靴下。清代からある老舗で、現在は大型商業ビルとして健在)、協大祥綢布商店(これも老舗で現在もあるブランド)、絨毯商店、第一医薬商店などが並ぶ。 私たちは南下して「紅燈の巷、四馬路(スマロ)」へ向かった。今の名は福州路である。しかし、歓楽街だった往時とは違い、街灯もまばらで真っ暗である。 血の色の夕焼けが美しかったが、街路そのものは闇に埋もれていた。写真も何枚か撮ったが、建物は判別しがたいほど真っ黒。右写真は福州路の鉄橋から人民公園・広場の方を見たところ。テレビ塔と、右にはたぶんレースクラブハウスが夕空にそびえている。 仕方なく西へ戻り、人民広場にたどり着いた。ふり返ると一つだけ、桃の花と赤青緑のにぎやかなネオンが見え、「汗衫」の字が読めるので下着屋さんの広告板のようだった。 広大な人民公園は戦前の競馬場。「南京ロード」で黄と紅雪美(ホンシユメイ)が待ち合わせをしていたっけ、と入り口からのぞくと、今もなんとなく競馬場ぽく、見物をする斜面のような芝生(冬枯れているが)がある。はるか向こうに国際飯店(パーク・ホテル)の高層建築の上部が見えた(写真は例によって失敗)。 私たちは南京路(南京西路)に戻って帰路につくべく西進し、成都北路*の看板のところで、諸葛孔明ファンのMの記念撮影などをした(成都は蜀の都である)。この頃にはすっかり夜で、晴れていたせいかしんしんと冷え、我々はまたどこかからバスかタクシーで帰った。夕食はホテルで食べたのだろうか、焼き飯とスープ、とメモにある。 *成都北路 現在では南北に高速道路の高架が通っている。 ところで、ホテルの部屋にはテレビがあった。中国語が分からないのだが、私の印象に残ったのは何度か観た「済公」*というドラマである。勧善懲悪の時代物で、日本でいうと「水戸黄門」のような番組か。といっても、主人公の「済公」はぼろを着たひょうきんな老人で、破れうちわにひょうたんに入った酒などを持ち、放浪している。術を使って悪者をやっつけたりするが、へらりと笑って立ち去る。「巷間の聖人」という言葉がぴったりで、気に入ってしまった。 主題歌(リンクから聞けます)がまた、耳に残る。リフレインのところが、「♪なむあみホウホ、なむあみホウホ」と聞こえる。あまりに脳内でリピートされるので、カセットを見つけて買った。のだが、今さがしても見当たらない。仕方なく百度百科の画像を借りてきた(左画像、あまりよいカットではない)。このドラマは数年後に日本でも放映されたことがあり、私はVHSに録画した。実際、当時の中国ではものすごい人気ドラマだったそうだ。 ところで、百度百科やWikipediaなどを読むと分かるが、済公は実在の道済というお坊さんで、私たちが旅の初めに行った杭州・霊隠寺ゆかりの人であったと最近知った。つづく、次回から最終日!
March 28, 2026
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一週間ほどちょっと忙しくて更新できませんでしたが、再開します!第19回は旅の5日め、1986年1月4日(土)フランス租界のつづきです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 錦江飯店をめざして茂名南路を北上し、淮海路を越える。まず錦江クラブ*の入り口が見えてきた(左写真)。低い建物だが白く荘重な外観。門前にちょうど真っ赤な車が着いていた。トヨタかな、と言いながら通り過ぎた(現在調べると日産スタンザに似ている)。 *錦江クラブ 旧フランス・クラブ。1926年建築。戦前の上海の名士が集ったおしゃれな場所。現在は外観はこのまま、看板が「Garden Hotel Shanghai」(花園飯店中餐楼というレストラン)。すぐ北に花園飯店(ホテル)があり、ホテルオークラの系列だそうだ。 錦江クラブのすぐ東に建つのが錦江飯店(錦江ビル*)である。古さを感じさせない明るい四角い高層ビルが晴天に映える(右写真)。玄関口のあたりが、『南京ロード』1巻で外務省の秋山さんが泊まっていたホテルに似ている(ただし秋山さんのホテルは南京路に面しているという設定)。 すっかり空腹になっていた我々はずかずか入っていき、上階だったかのレストランで例によって炸醬麺と小籠包子(シャオロンパウズ)を食べた(3元)。炸醬麺は和平飯店のものよりたしか味が濃いめで、食べ比べが楽しかった。小籠包子は蔡文姫(ツァーウェンチー)の手料理の中で美味だと本郷さんがほめた料理で、これも我々は特に思い入れをこめて味わった。 「たまには家庭料理もいいものだろう」「ええ特に小籠包子が――」「彼女の自慢料理だよ」 (『南京ロード』1巻) *錦江ビル 旧キャセイ・マンション。サスーン会が1929年に建てた。上海一の高層ビルだったが、地盤沈下がひどく、1999年に大改修して現在の錦江飯店(北楼)となったようだ。 この後の記録がきちんとしていないのだが、確か茂名南路と淮海路の交差点にある「黄山茶叶店」(茶葉店)で量り売りの中国茶(烏龍茶、龍井茶)をお土産に買い、その隣の菓子店「老大昌」でバタークリームこってりのショートケーキ(左画像)を2つずつ買った。ケーキの方は、油紙の袋に入れてくれたが、我々は、ガラス戸ごしに鈴なりにつめかけて見物する現地の人々を尻目に、その場でむしゃむしゃと食べた。どこか懐かしいくどい味のケーキは、寒さと疲れをいやしてくれたが、今回も、現地の人々にはかなり贅沢品だったのか、視線がつきささるようだった。 その後、カメラのフィルムがなくなったので、(多分タクシーで)この日も友誼商店に行ってフィルム(6.1元)を買う。あとは西日の差す南京東路をショッピングしながら西へ歩いた。河南中路との交差点(右写真。道の向こうのお店には「?福皮鞋店」。市街地図には「中华皮鞋店」となっていた。手前右はゴミ箱)の、南西角で見つけた京劇の衣装を売る「上海戯劇服装用品店」(ガイドブックには上海戯劇刀槍門市支部とある)に入った。きらきらしい品物を見た後、自分用に涙形のガラスのついたイヤリングを赤と青色違いで2組、7.4元で買い求めた(左下写真は実物と伝票)。商品はピアスが多く、はさむタイプのイヤリングは見つかればラッキーである。けれどずっと後に、私は青い方のイヤリングを片方失ってしまった。 アクセサリー類を売る店は他にもあったが、租界時代のものは「文物」(工芸美術品)というシールを貼ってある。高価でない物もある。後から聞いたが、ツアー仲間のOさんは文物のブローチ(いぶし銀)をどこかで買ったそうだ。 右写真はこの店の前あたりで撮ったもので、古い建物、塔や屋上の細部が美しいので写したのだが、右が長城鐘表商店、中央が揚州飯店だろうか。ところで写真のバスの広告にある「佛手牌」とは調味料の会社で、「味の素」にヒントを得て中国版万能調味料を作った上海の老舗ブランドだそうだ(MSGというらしい)。 お買い物まだつづく
March 24, 2026
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第18回は旅の5日め、1986年1月4日(土)フランス租界のつづきです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 淮海路をしばらく歩いた私たちは、南へ曲がり、ゼスフィールド公園*と信じた復興公園へ向かった。旧フランス租界内で池や噴水ある広い公園だったのでそう推測したのである。 左写真は途中で撮った赤煉瓦の建物二つ。どちらかを、Nは共産党第一回全国代表大会の行われた建物だと言ったが、違うような気がする。この年の夏、私たちはツアーできちんと共産党大会の址を見学したが、灰色が基調の建物だった。 *ゼスフィールド公園 実はずっと西の中山公園。『南京ロード』の昭和初め頃はかなり郊外だったろう。 右写真は、復興公園の東、重慶南路ぞいにあった、上海市廬湾区の人民政府、共産党人民委員会、中央区全人代常務委員会、人民解放軍の廬湾区人民武?部と看板にあり、要するに官公庁。奥はいい感じの洋館らしい。なお廬湾区は2011年に黄甫区に吸収合併された。 復興公園*内を歩き回る。木々は冬枯れで人も少なく残念な感じだったが、天気は良く、広々として水辺もあり気持ちが良かった。左写真の小道と水路は修理中なのか、石が積み上げてあったりする。 右下写真は南西奥にある池。噴水口があるが冬場のためか水は出ていなかった。池の西の木立の奥に、建物やあずまやが見えた。孫文の住んだ家があるという。 *復興公園 1909年フランス人が造り、フランス公園と呼ばれた。公園内の看板によると、もともと芸術家の建物があったが入場料をとって公園を拡張し、フランス人高官のみ入場できるようにした。1928年になって一般にも開放し、戦争中には大興公園、そして解放後に復興公園と名が変わった。2008年に改修され、現在の公園はにぎわっていて設備も充実しているようだ。 左写真は公園の北西奥で、赤屋根の家並みと木々が美しくて撮ったが、中央右の木立の下に、1983年につくられたマルクス・エンゲルスの石像がある。この像は現在でもあるそうだ。 さて、公園を出ると復興中路を西へ少し進んでから曲がり、茂名南路を北上する。すすけた赤い煉瓦づくりの洋館。家々にはしゃれた煙突と、鎧戸つきの窓のある屋根裏部屋が見える。古い木戸をあけて帰ってゆくマルセル(右下画像、模写です)が、狭い玄関口で待っていた黄(ワン)に出会いそうな、プラタナスの並木道である。 右上写真は、復興中路と茂名南路のT字路だったか、お巡りさんが自転車に乗っている。手前の手すりには簡体字で「計画生育」つまり家族計画と書いてある。1979年から行われている一人っ子政策のスローガンである。この政策は2014年まで続いた。 左写真もたぶん茂名南路。煙突のある古い洋館を撮ったのだが、木でよく見えない(この辺りは現在ではショッピング街だそうだ)。歩道にはバス停、ゴミ箱。ちらほらと行き交う自転車や人。外灘(バンド)のにぎわいや威圧するようなビル群に比べ、なんと静かで時の流れをゆっくりとかみしめていることだろうか。 黒い髪の/私のチャイナボーイ/不思議な人… (『南京ロード』4巻)錦江飯店へつづく
March 17, 2026
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第17回は旅の5日め、1986年1月4日(土)つづきです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 私たちは旧城内を取り巻く環状道路の北の部分、人民路(旧城河浜路)までやって来た。左写真は、人民路の看板(小さくて見えないが)とアパート風建物。左手前のようなかっこいいジープもまれに通る。 環状道路の内側が城内で、『南京ロード』冒頭の旧正月シーンで見世物小屋が建ち並び、黄(ワン)がナイフ投げをしていた所である。また苦力(クーリー)*と呼ばれる中国人労働者たちの寝ぐらもあったらしい。『蘇州夜曲』の本郷さんや、『南京ロード』で追われた黄が潜伏したのは、そんな所だと思う。 爆竹・獅子舞・蛇踊り・見世物 中国人街にじき/旧正月がやってくる 新年好! 正月だ 新禧(シンシー)、新禧(おめでとう) (『南京ロード』1巻) *苦力 一般的には中国以外の国の、中国やアジア系󠄀の移民・出稼ぎ労働者をさした。上海は租界地のため国内でもこのように呼ばれたのだろう。 円形の城内の北西部に、豫園(よえん)*がある。手前の池をまたぐのはガタガタ橋(九曲橋)、お正月ゆえか大混雑(右写真)。今の中国では新旧両方のお正月を祝うのだ。橋のたもとの、上海一おいしい老舗の小籠湯包(シヤオロンンタンパオ)(小籠包子)を売る店(南翔饅頭店)付近は、さながらラッシュ・アワーだ。 列に加わって橋を渡り、入場料1角を払って園内に入ると、今日はよく晴れて、伝統的な反り返った屋根や中国風の石庭が、光と影にくっきり分かたれている。『南京ロード』の胡(フー)が跳び出てきそうな屋根や壁。欄干にもたれる大勢の人々は、冬の日に熱気をあげているようだ(豫園の石庭などは現在も変わらないと思われるので写真省略)。 *豫園 16世紀に造られた庭園。清朝末期には小刀会󠄀という結社の本拠地もあった。 豫園の周りには、うねうねとした小道をはさみ、低い軒を並べて、日用雑貨や食品や、様々な店がずらりと並ぶ。「上海の浅草」とかつては言われたそうだ。なるほど、昨日の日本人租界の下町マーケットと張り合うすさまじさ。ああ中国だなあと実感するが、落ち着いて買い物や撮影をするどころではなかった。 豫園にほど近く、初日に夕食で訪れた上海老飯店がある。あの時はタクシーで、しかも夜だったが、今度は周りの様子も見ることができた。左写真は老飯店の玄関、非常にシンプルだが、灯籠の模様など風情がある。現在では改装されて、きらびやかになっているそうだ。 人混みで疲れた私たちは、城内を抜けて旧フランス租界を見物にゆく。『南京ロード』外伝「花は辺りに雨と降り」でパリから来たマルセルが住んだような、しゃれた洋風のアパート(長屋)が今も残っている。右写真のアパートは淮海路と西蔵路の交わるあたりだったか、向こうに上海博物館の塔が見えている。 左写真は桃源路の辺りで見た赤煉瓦の中学校。手前に写り込んでしまった帽子のおじさんのシルエットが不気味だが、なかなか風情がある。 淮海路*に出た。(少なくとも)私は「准」の字と混同して「じゅんかいろ」と呼んでいたが、本当はわいかいろ、ワイハイルーである。広くてきれいな通りで、あちこちに警笛禁止の交通標識がある。ぶらぶらと西へ行く。右写真は淮海中路の交差点で、並木は枯れ枝ばかりだが、たいへんにぎわっている。おしゃれな店というより地元の店舗が並ぶ感じ。写真中央の店には林海果実店とある)。 *淮海路 フランス租界時代は霞飛路(ジョフレ通り)と言った。 やがて「淡水路」の看板を見つけて、ウケた我々は看板を写真に収めた。「寄るな、淡水!」などと言いながら。これは当時『南京ロード』と同じLaLa誌に連載されていた『日出処の天子』(山岸凉子)の中の台詞である。左写真の標識の所に並んだ着ぶくれた子供たちがかわいい。背景の古い建物を利用した店には、「貿易商行」(=商社。店名の上に£(ポンド)の印がついている)、「修理」などと読める。旧フランス租界、つづく
March 11, 2026
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ドイツ文学のお家芸といえばメルヘン、ロマン主義、ビルドゥングスロマン(自己形成小説)などですが、ハンス・ベンマン『石と笛』(原書は1983年)はそれらをまとめたファンタジー長編。私は単行本4冊をある人に昔いただきましたが、文庫本では安彦良和が表紙を描いています(右画像、この日記のために検索して発見!)。 単行本の表紙は異なっていて、西洋写実風の絵。悪くはないけど親しみにくい。そしてこのお話が、思いきり長くて古風で真面目で堅くて、いかにもドイツ!なものですから、はっきり言って、とっつきにくい。 西洋のファンタジーというと王国には権力争いや姫君、辺境には田園とドラゴン、敵対する隣国、みたいな構図がありがちなのに、この物語の舞台は中世ドイツに似て、王国はおろか領主もほとんどいません。職能集団の自治都市、牧草地、あとは森や山岳や湖沼などの大自然です。この自然描写が細やかで美しいのですが、いや、早く先が知りたい時にかぎって長い描写が! それから、東の方は広大なステップで、モンゴル系と思われる人々(左右に弁髪を垂らしている)が異文化圏を成し、その名も「掠騎族」つまり掠奪する騎馬民族として西の人々に恐れられている・・・現在なら人種差別的とか批判も出そうな設定ですが、ヨーロッパ大陸の人々にとっては歴史を通じてモンゴルが攻めてくる恐怖は骨身に刻みつけられているのでしょうね。 主人公は「聞き耳」という名で、生い立ちからきっちり始まり、17歳で親元を離れて一人旅に出、狼の跋扈する森に入り、試練にあう、お定まりです。彼は若さゆえに自信家で浅はかで他人を敬わず残酷ですが、これが古さを感じてしまいます。昔はこういうタイプが多かったように思いますが、日本に限って言いますと、昨今の主人公たちは、素直で繊細で自分に自信がなく、他人に対して消極的で落ちこみやすいタイプが主流に思えます。いや、実は聞き耳くんも、そういう内面を持ってはいるのですが、それを自認できずつっぱって?いるようです。 そしてこのオールド・タイプの聞き耳くんが、妖女ギザに惑わされて(本当は無実の)バルロの舌を切らせてしまう。バルロは言葉にならない叫びをあげながら追ってくる、恐ろしい展開(第1巻)。日本の昔話にも舌切り雀というのがありますが、昔話やメルヘンだったら残酷展開もさくさく進んでそれほどリアリティがない。しかし、この物語は近代小説なみに聞き耳の心情が描きこまれているので、かなり迫力があります。 そう、長大な物語は、聞き耳の一生をたどる大河小説であると同時に、さしはさまれるたくさんの寓話や夢などの“お話”(メルヘン)の集合体でもあり、それらをうまく組み立てて構成されているのがだんだんとわかってきます。作者、凄腕です。 ただ、第2・3巻は特に、時間軸を行きつ戻りつ、舞台もあちこちとぶので、全体を把握しながらついていくのはなかなか大変です。訳者は親切に登場人物やあらすじを書いてくれていますし、最終巻末には解説や系図などもあります。けれど個々の場面や挿話にとらわれていると、全体の物語の流れの動きを見失いそうになります。 第2巻では鷹乙女ナルチアへの恋慕に血迷った聞き耳が、やはり思い上がって愚行を重ねますが、私はエンデの『はてしない物語』後半を思い出しました。 『はてしない物語』では主人公が、醜いと嘆くイモムシたちを笑いのたえない蛾に変えてやりますが、蛾たちは、虫時代に作った銀細工の塔を壊しては大笑いするようになります。同じように、『石と笛』の聞き耳くんも掠騎族の馬に対して力をふるい、掠奪に行くのを拒むように仕向けますが、その結果、掠騎族は窮乏し没落し、やがて残酷な復讐へとつき進むことになります。 良かれと思って力をふるったのに、裏目に出てしまう。読者は「言わんこっちゃない」と思うのですが、もっと後の方で、この“裏目”が再度ひっくり返って良い面も出てきます。“禍福はあざなえる縄のごとし”というわけです。ちょっとお仕着せがましい感じもしますけどね。 エンデもメルヘンや寓話を取り入れて主人公の冒険行を描いていますが、こちらはすっきりと分かりやすいのは、各エピソードを深追いせずに、「それはまた別の話」と打ち切って先へ進むからでしょう。想像力をかき立てられるけれど、大人の読者にはちょっと物足りない。その点、『石と笛』では伏線回収というか、一度退場したかに見えた人物や事物もまた出てきて物語をまとめていきます。 第3巻になると、聞き耳くんはさすがに試練の痛手をうけて自信をなくし、引きこもりになりますが、ここでたくさん出てきて彼の友となる動物たちが、私には好みでした。彼らの関心は食べ物のことばかりですが、人間の虚勢や欲得ではなくシンプルに生きるということを、聞き耳に教えてくれるのです。 その後、聞き耳の人生は、大人になって性格が良くなったわりに苦難が続きます。しかし今度はサクサクと語られ、読者をこれ以上うんざりさせないかわりに、少し物足りなさを感じさせます。エピソードの舞台も以前出てきた場所が多く、新たな登場人物は少なく、やっと取り戻したお宝も、譲り渡す。それで気づくのは、ああ、これは現実の人生の後半と同じだ、ということ。疾風怒濤の若い時期を終えて、苦しみ悲しみがあろうと時はたんたんと過ぎていく。そうして聞き耳はいわば苦難から”解脱”して人生を終えます。 先ははるかに遠く、まだまだ、すべてではない ――ハンス・ベンマン『石と笛』3巻 平井吉夫訳 軽々と坂を駆け上がる聞き耳が聞く、この最後の言葉は、ルイス「ナルニア国ものがたり」の最後、天国の描写を思い出させます;「さらに高く、さらに奥へ」、登場人物たちは息も切れず疲れもせず天国を疾走するのです。こういうのが、キリスト教的大団円なのでしょうね。 そう言えば、『石と笛』には、ナルニアの『さいごの戦い』で異教徒ながら善行をつんで天国へ到達する若者に似た、掠騎族の若きリーダーも出てきますし、『ホビット』『指輪物語』のゴクリ(ゴラム)に似た、地下の生き物も出てきます。メルヘンやファンタジーの要所要所をしっかり押さえている感じです。
March 8, 2026
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第16回は旅の5日め、1986年1月4日(土)です。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 新苑飯店では朝食に、お粥の他に長細い揚げパンが出て、これがおいしい。「学校給食の味だ」などと言いながら、今朝も腹ごしらえ。 ホテルで追加の一万円を兌換券に両替し、155元ちょっとになった(右下写真は伝票)。この日は市街の南の方、旧城内*(中国人街)と旧フランス租界を見て歩くことにした。 *城内 県城内とも。上海は明代には、倭寇を防ぐ城壁と堀を持った小さな町だったが、この城壁と堀が環状道路となって囲む古い地区。戦前には、租界(外国人居留地)近くだが中国人が住んだ。 今日もやっぱり、市街へバスで出なければならない。昨日と同じ57番のバスで静安寺へ。左上写真は、静安寺付近の南京西路交差点。古いアパート?の建物がお店になっている。右にある空中の丸い小空間には警官が詰めている、つまり交番のようなものか。 この日は街路名の看板を撮りまくった。写真左は、静安寺の少し西の通りである烏魯木斉(ウルムチ)北路で見かけた外車。検索したらベントレーみたいだが、不明。奥では洋館を修理中。 右写真も付近の延安中路で、アパート前の掲示板と電柱の間に大きなタオルなどが干してあるのが印象的。中央で「自転車がアウトサイダーしている」と当時のメモにある。「アウトサイダー」は1983年のコッポラの青春映画で、ポスターは横一列でたたずむ数人の若者(トム・クルーズ等)。この構図をアウトサイダーする、と言った。 バスを乗り換えて今日は48番のバスで延安東路を通り、四川中路と延安東路の交差点まで行った。これだけ乗っても7分(0.07元)である。延安東路は、現在では頭上を高速道路が通っているらしいが、戦前はエドワード七世路、ジョーたちの最初のアジトがあった所だ。 「どこだ? アジトは」 「共同租界のエドワード路/無駄ですよ/今頃はもぬけのカラでしょう」 (『南京ロード』1巻) 上記で共同租界とあるが、この道は外灘や共同租界の南境で、これより南はフランス租界だった。国境をまたいで暗躍するジョーたちにふさわしい場所かもしれない。 私たちは城内に行く前に、延安東路と河南南路の交差点にある上海博物館*を見学したいと思っていた。ところがお正月休みなのか、閉まっていた。無念! 外観だけ撮影(左写真、人物は消しました)。立派な塔のこの建物は旧中匯(ちゅうかい)銀行ビル(1934年建設)。中匯銀行は『南京ロード』にも出る秘密結社青幇(チンパン)の、頭目杜月笙(杜月生)がつくった銀行で、アヘンや賭博の資金も扱っていたとか。現在は中匯大廈と呼ばれ、93年に改築されてややいかつい外観になり、北京銀行が入っている。 *上海博物館 1952年旧競馬場ビルにできたが、59年にこの中匯銀行ビルに移転。その後96年に人民広場に分館が新築されたそうだ。 右上写真は博物館の向かいから撮ったもので、市場や商業ビル(「総合貿易信?服?公司」と読める)がありにぎわっている。右下写真は商業ビルの東隣にあった戦前ぽいビル、丸屋根の塔がかわいい。その右奥には例の現代風の上海電信ビル(まだ建設中)。 旧城内へ向かって河南南路を南下していくと、金陵東路にさしかかる。この道は旧フランス租界の大通り、法大馬路である。青幇の暗躍したアヘン窟などがあり、それらを取り締まる工部局もあったそうだ(共同租界の工部局は九江路(南京路の一本南の通り)にあった)。左写真では、大きな看板に「大豊土特産食品分店」、柱の横には「たばこ、お茶、地方のお酒」。右奥のビルのバルコニーには細かい透かし彫りの赤茶けた柵がありいい感じだが、改修するのか支柱が見える。手前に止まっている車は日産だろうか? いかにも80年代の日本車だ。 もう一筋南の人民路(旧城河浜路)は、旧城内を取り巻く環状道路の北の部分である。右写真のすてきな洋館は歯医者さんというか、「南市区歯科疾患予防治療センター」と書いてあるようだ。検索したところこの建物は人民路565号ラジオ管理事務所新館(1929年建造)かもしれないと思う。つづく、もうじき城内、豫園(よえん)。
March 2, 2026
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第15回は旅の4日め、1986年1月3日(金)つづきです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 友誼商店を出ると、外はすっかり暗くなっている。木枯らしが、南京路のプラタナス並木の枯れ葉を舞いあげ、明かりが少なく亡霊のように立つ高層ビルの谷間を吹き抜ける。けれど薄暗い通りに、人々のざわめきが絶えることなく満ちていた。 この日の夕食は「焼きそばと卵スープ」とメモってあるのだが、どこで食べたのだったか。 私たちの次なる目標は外灘(バンド)全体の夜景である。初日にも夜の南京路を歩いたが、ぜひとも高いところから眺めたい。となるとやはり、上海大廈(たいか)*にのぼるしかない。左下写真はパンフレットにあった戦前の夜景写真(『蘇州夜曲』の冒頭ページそっくり)、上海大廈の上から撮ったのかなと思う。 *上海大廈(ブロードウェー・マンション) 1935年にできたアール・デコ風摩天楼。19階建てで、かつてはアジア一の高層ビルだった。縁起を担いで末広がりの「八」の形だとか。第二次上海事変(1937年8月)以降は日本軍が占拠。戦後は国共内戦の舞台ともなったあと、ホテルとして営業中。 ガーデンブリッジを渡る。下方、闇にのまれる蘇州河には、時の流れに置き去りにされたような小舟が数隻。北岸にそびえる上海大廈はかつて租界の象徴だった巨大建築だが、今では、その屋上に「FUJI FILM」の広告ネオンがきらめいていた。右写真はパンフレットにあったもので、左手前はソ連(ロシア)大使館。 我々はミッションを遂行せんと、無謀にも泊まり客を装って上海大廈に入りこみ、エレベーターで、18階だったと思うが、行けるだけ高い階に行った。が、そこは最高級のディナールームだった。ディナーを食べなければ窓の側には近寄れない。それではと、非常階段を見つけて忍びこんだ。踊り場に狭い窓があり、わずかに美しいネオンの遠景が見えただけ。おまけに1階分下るとフロアに出るドアが開かない。 すったもんだで下りてきた私たちは、フロントへ行ってカタコトの英語で夜景が見たいと訴えた。「屋上は修理中です」と、にべもない。しかし、実は優しいフロントさん、「近くのシーガル・ホテル*へ行け」と教えてくれた。 上海大廈しか頭になかった私たちは、かなりうろついた挙げ句、黄色い屋根の海鷗飯店(シーガル・ホテル)を発見。今度は最上階に上って、ついに窓から夜景を堪能したのであった。 ところが、その時の写真をふくめ、夜に撮った写真のほとんどが、プリントサービス店で現像してもらえなかった。わずかに仕上がって来たのも、ほとんど真っ黒である。私たちの持っている押すだけカメラだと、普通のフィルム「ISO100」では夜景の撮影は無理とわかった。「ISO400」が必要だったのだ。 *シーガル・ホテル 12階?建て。1984年にできた、新しいホテルだった。現在は改築されシーガル・ホテル・オンザ・バンドという。 帰路は、今から思えばシーガル・ホテルでタクシーを頼めば良かったのかもしれない。しかしそそくさと南京路に戻った私たちは、またバスに乗ろうとした。しかし、南京東路から西へ向かうトローリーバス*はどれも、着ぶくれた現地の人で満員である。乗降口にぶらさがるようにして無理矢理乗りこむ人、窓から上半身こぼれ出そうな人などが見え、とてもそこへ参加する気にはなれない。 *トローリーバス 戦前は路面電車だった(1908年~)。黄(ワン)が連れの有田さん(左画像、模写です)を振り切った電車である; 「黄が?」「すいません、電車に乗るスキに…」 (『南京ロード』2巻) 旅行当時は、同様に張り巡らした架線から電気をとるバスが街を縦横無尽に走っていた(地下鉄はまだない!)。世界最古の路線(1914年~)だそうで、たいてい2両連結されている。そのため街角の写真を撮るとどこかに写りこみ、撮りたい建物の前に割りこんだり、そうでなくても架線は必ず写ってしまう。現在は姿を消しつつあるそうだ。 仕方なく我々は西へ向けて南京路を歩きに歩いた。不安と疲れを吹き飛ばそうと、闇夜に冗談を言いあいながら。大学で習いたてのドイツ語の活用「ゲーベン、ガープ、ゲゲーベン」だの「ゲゲーベン・ハッテン」だの、『蘇州夜曲』に出てきた「上海ゴロ」という言葉を、「いもむしごろごろ」みたいに「上海ゴーロごろ」と歌ったり。 「旅費だって?/かせいだ金は全部飲んじまってるぜあいつ」 「上海ゴロ……か」「君もああならないよう気をつけたまえ」 (『蘇州夜曲』) 人民公園の西の端まで来て、人通りも街灯もめっきり減ってさびしい感じがしてきた。公園の木立ちが黒々と道ぞいにしげり、阮明(ルワンミン)が黄を見つけた(『南京ロード』2巻)のはこのあたりではと思う。 上海雑技団の曲技場の建物が見えた。まだまだホテルまでは遠いと思うと絶望的。だが、我々が立ち尽くしていると、西行きのバスがやってきた。上海では工場など三交代制で深夜も通勤客があるため、バスがちゃんと走っているらしい。 まだ結構混んでいたが、今度は突撃して乗りこんだ。人をかきわけて車掌のお姉さんの座る所までたどり着き、カタコトや筆談やで目的地を告げ、切符を買おうとしたが、「メイヨ」と言われる。お金を見せても首を振って、メイヨ、と言うばかり。メイヨ(没有)は、ありませんという意味。今回の旅、お店で何かを買おうとしても、メイヨ、と言われることが結構あった。 押し問答して悟ったのは、時間が遅かったせいか、切符が売り切れなのだった。でも乗ってしまったものを、運賃を取らなくてよいのか。我々だってちゃんと払っておきたい。しかし、車掌さんは服務員(公務員)で、予定の切符以上のお金を取っても儲けにはならないのである。計画経済ゆえ余分の切符は支給されておらず、手書きの領収証を書くとか、そういう発想もないようだ。 さらに、車掌さんも店員さんも、きりりと胸を張ってずばずばものを言う。日本のように笑顔でお辞儀して接客したりしない(例外は外国人向けの特快や友誼商店、ホテルの従業員さん)。大げさだが、ここに共産主義の原理を見たという気がした。 バスは途中で乗り継いだように思う。車掌さんはおっかなかったが、きちんと乗り継ぎ方を教えてくれた。 こうして我々は西の果て新苑飯店に無事帰り着き、大冒険の長い一日が終わった。つづく。
February 27, 2026
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第14回は旅の4日め、1986年1月3日(金)黄浦江遊覧つづきです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れなどを修正しています。 Uターンした船は、蘇州河を過ぎ、黄浦江北岸へ。国際客運埠頭を過ぎる。ここは上海の海の玄関口、昔も船が着いた楊樹浦(やんじっぽ)*である。なんと鍳真(がんじん)号が停泊中だった(左写真の右側)。この年の夏、我々はこの船で上海を再訪することとなる。 浦東*の工場群や倉庫の列を見ながら、船は広々とした港湾風景の中をゆっくりと進み、黄浦江を北へと下る。船室では背広姿のマジシャンが手品を見せていたが、私たちはお茶のサービスをしてくれた服務員のお姉さん達と、ろくに通じないおしゃべりを楽しんだ。たいへんおいしいお茶だった。それぞれ自分の名前の中国読みを教えてもらう。私のはサン・クヮオ・フォア。 *楊樹浦 黄浦江の北岸。租界時代には船着き場や倉庫、日本の綿紡績工場があった所。『蘇州夜曲』に出てくる「淮山(わいざん)埠頭」(=匯山埠頭)とはこの辺り(楊樹浦路18号)にあった日本郵船淮山埠頭のことで、金子光晴『どくろ杯』によると、長崎からの連絡船「上海丸」(または「長崎丸」)が着く所だった。上海丸は当時、26時間の航海の後、午後4時にこの埠頭に着いたそうだ。なお『蘇州夜曲』にはルビが「えいざんふとう」となっているが、誤りだと思う。日本語読みをすれば「かいざん」である。 「長崎から船で一日半/きのうの夜着いて酒場へ直行」(『蘇州夜曲』) 「淮山埠頭の対岸ですよ/取引の場所は」(同) *浦東 この頃の浦東はまだ開発前で高層建築もなく、地図によると黄浦江沿岸に工場と住宅団地があった。 船は平らな水の上をゆき、長江(揚子江)に出た。黄浦江でさえ広いのに、視界の果てまで水が広がり、まるで海だ。しかし曇天の下でも水が褐色でなるほど河と知れる。世界的大河。本当の海まではまだまだ遠いのだ。 長江との合流地点(呉淞口)でUターンして戻る。戻りには空がやや晴れて、また写真をたくさん撮る。右写真は国際客運埠頭とさらに北東の岸壁で、「浙温?」(浙江省と温州のことか)などと書かれた何かの運搬船が横を通った。左奥にたぶん旧日本領事館があるはずなのだが。 往復3時間の船旅は、ほっと一息つくと同時に、中国の広さを実感するひとときでもあった。 遊覧船から下りると、私たちはすぐ近くにある友誼商店(左は旅行パンフレットより)へ向かった。兌換(だかん)券*を使う海外旅行者向けに、お土産をわんさか売っている所で、英語は通じるが日本語はあまり通じない。私たちの第一目的はカメラのフィルムを買うことだった。空港の手荷物検査でフィルムが感光してしまうだとか、そういう噂があったため、最低限しか持ってこなかったのである。 *兌換券 外国通貨と交換可能なお金(右写真)。絵柄も美しい自然風景など。中国人の使う紙幣(人民元)やコインは別にあり、出国時に両替できない。こちらの紙幣には労働者たちやダムなどの絵柄がついていて興味深い。 さっそく6.1元でFujiのフィルムを買う。支払いは手書きの伝票を切り、計算はそろばんで行う。中国のそろばんは珠の数が日本とは違う。梁と呼ばれる仕切りの横棒の上に2つ、下に5つの珠がある。珠もまん丸ででかい。これは日本のそろばんのルーツらしい。 さて、あとは好きなものやお土産を買い回った。3人おそろいで買った蝶のブローチ(「銀蝶針」10元、左写真)の他、私が買ったのは普洱(プーアル)茶(1.6元)、絵はがき(2.4元)。そしてたくさん居る中から表情をえり抜いて買った野性的な馬の人形(12元)。汗血馬だろうか、ポージングも決まっている。 この馬は、リアル動物好きな私の心をつかんだのだが、面白いのは、馬の鼻部分に固い黒いプラスチックがはめられていることだ。よく、クマのぬいぐるみでは鼻先だけ黒いプラスチックだったりするが、馬でしかも鼻と口全体を覆うプラスチックとは初めて見た。そのため鼻がとても目立って見え、NかMかが、『南京ロード』の台詞を引いて、「鼻がこーんな…」と言った。敵方のかぎ鼻の西洋人カルロのことである。 「どんな男だ?」「グレーの髪で 大男で 鼻がこんな…」 「カルロか!? ジョーの部下の…!?」 (『南京ロード』3巻)』 大いにウケた我々は、この馬にカルローズという名前をつけてしまった(なぜズがついたのかは不明)。帰国後も長いこと、この馬は「鼻がこーんなカルローズ」と呼ばれた。左写真は鼻の方から写したカルローズ(鼻が強調されている。本物はもっとスリムでかっこいい)とそのレシート(「馬」の字がなんだか疾駆しているようで良い)。このレシートの日付の欄には「1月」と書いてあるが、「元月」と書く店員さんもいた。 友誼商店は広く、紫檀や螺鈿の家具だの玉(ぎょく)の彫刻だの大きなもの、高価なものを売る上階エリアは、人も少なく独特の香りに満ちていた。そんな一角で、私は刺繍をたっぷりほどこしたチャイナ服(「旗袍」右写真、一部)を見つけ、『蘇州夜曲』の上海リリーとばかりに思い切って買い求めた。今回の旅行でも71元は破格の高値である。サイズが合うかどうか、売り子のお姉さんに身振りで訊くと、大丈夫とのことだったが、ホテルに戻って着てみると、ボディコンシャスな形のため、あちこち相当キツい。特にカラー(立ち襟)のところは苦しくてホックがはまらない。上海リリーになるのは並大抵ではない。ちなみに、私よりはるかに細身のMが試着したらちゃんと着られて、すっきりと美しかった。この日はまだつづく!
February 21, 2026
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第13回は旅の4日め、1986年1月3日(金)上海、外灘と黄甫江遊覧です。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れなどを修正しています。 「宝山路54号」が見つからなくて失意の私たちは、冷えこみ疲れ切り、上海駅前から南京東路までバスに乗った(運賃5分=1元の20分の1)。さきほど呉淞(ウースン)路をそのまま南下していれば行き着いた場所へ戻ったわけだ。今度は外灘(バンド)のビルの真下へ行き、『南京ロード』2巻の名台詞、「外灘のビルの下に立つたび/こいつらが嘲笑(あざわら)ってるような気がする/おまえに何ができる…」の気分をぜひとも味わおうという魂胆である。 初日に宵闇の南京路を見たが、今日は裏通りへ入った。どんよりとした空の下、古いビルの谷間に立つ。左写真は和平飯店の裏、滇池路で撮ったもので、右奥が和平飯店北楼(旧キャセイ・ホテル=サスーンハウス)、左奥が中国銀行ビル。ビルかげの暗がりを、荷車を引く自転車が通る。こういう自転車リアカーは、横丁などでよく見かけた。右写真は、中国銀行ビルの裏、というか横手。古めかしい四角張ったリムジンが居た。 右下画像は『南京ロード』4巻の、ジョーの本拠地シンガー銀行ビルである。中国銀行下に立つと、暗闇にそびえ立つ摩天楼を襲撃する本郷さんの気分にひたれる。 その後、和平飯店8階のレストランで昼食にする。ちょっと身なりのよい中国人や観光客賑わっている。真っ白なテーブルクロスをかけた円卓が並ぶが、さほど高級感はなく、シンプルな合皮を貼ったパイプ椅子である。眺望が良いとのことだが、窓際の席はすでに埋まっていた。2.7元の炸醬麺(ジャジャーメン)*を食べる。ついに本場の炸醬麺である! 「ここは炸醬麺が美味(うま)いですよ」「じゃあそれ」 (『南京ロード』1巻) 「ここは前に本郷さんと来たことがあるんだ/店のにぎわいは変わらないのに/あれはいつのことだったろうか…」 (『南京ロード』3巻) *炸醬麺 肉味噌がのった汁なし麺。現在は日本でもおなじみだが、当時は中華料理店でしか食べられず、我々も『南京ロード』を読むまで知らなかった。日本の中華料理店では、キュウリやタケノコの千切りや白髪ネギのトッピングがあったし、『南京ロード』1巻の絵でもそれらしい物が描かれている。が、中国で食べるとたいてい肉味噌だけだった。五馬路(ウーマールー、現在の広東路)の天山楼(黄が食べた店)では、トッピングがあったのだろうか… さて午前中で「足が棒ですよ」(『蘇州夜曲』)だったので、午後は黄浦江の遊覧船に乗ることにした。ちょうど和平飯店のすぐ北東の岸壁が乗り場である。揚子江との合流点まで往復3時間のコース。当時はこのコースしかなかったと思う(現在は、揚子江まで行かずに約1時間で戻るものが多く、ナイトクルーズもある)。 左画像はチケット(表)。半券には「上海市内水運局 浦江遊覧 ファーストクラス追加チケット特別2元 このチケットはファーストクラスの客室乗務員の航空券と一緒に発行され使用されます。一度使用し、半券を切り取ると無効です」などと書いてある。裏には「1.身長1.0m未満の子供は無料ですが一人につき1名のみ同伴可能 2.販売されたチケットは払い戻し又は交換できません 3.時間通りに船に乗り込み、指定された座席にお座りください 4.乗船場所:外灘 北京東路」と懇切丁寧な注意書き。 冬空はいよいよ薄暗く、寒風吹きすさぶ。それでも私たちは「春江号」の甲板から、霧に包まれて遠ざかる外灘の景色を眺めて盛り上がった。右写真は甲板から撮った外灘風景だが、一つだけ現代的な高層ビルが中央左に目立っている。当時まだ完成前だった上海電信ビルである。あとは外灘1号から順に戦前の建物が並ぶが、戦前とは使っている団体が違うので名まえも違う。例えばいちばん左の外灘1号(白っぽい低い建物)は、旧アジアビルまたはマクベインビルだが、1986年当時は上海冶金設計研究院。そして現在は、Wikipediaによれば、中國太平洋保險公司である。 下写真は中央にガーデン・ブリッジ、その奥の小さな時計台は郵便局。右は巨大な上海大廈と手前シーガル・ホテルに挟まれて、低い赤い屋根の建物が旧ロシア大使館(1916年より。当時はソ連領事館だったが閉鎖中。この年の間に再開したそうだ)。 船はいったん外灘を南の方まで行ったあと引き返して北上する。見通しが悪い中、新しく建った長方形のビルの輪郭が二、三見える(右写真、一番右のビルがさっきの上海電信ビル)。クレーンがいくつも立ち、工事の様子もうかがわれ、港の景色は変わりつつあるようだった。 黄甫江クルーズ、つづく
February 16, 2026
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スタニスワフ・レムのSF古典『ソラリスの陽のもとに』(1961年)は、2度の映画化(1972年、2002年)などで、名前だけは知っていた作品でしたが、コミックス化(森泉岳土)されたというので読んでみました。 難しい内容は置いといて、まず圧倒されるのは、物語の主題となる、惑星ソラリスのゼリー状の「海」の絵の質量感です。この海が次々形成する理解不能の形態、建築物のようだったり複雑な生命機構のようだったりする、その規則性があるようなないようなごちゃごちゃさ加減を、墨絵のような柔らかさでごってりと描きこんでいます。 作者レムはこの作品で、知性があるかもと推測されるソラリスの海と、人間との、コンタクトの超絶的な難しさ(あるいは不可能さ)を描いたということです。そんなにも計り知れない海を、絵として描く(または映像にする)というのは、それだけですごい試みのように思います。 海、といっても仮にそう名づけただけで、地球の海とはまるで違う、そんな名前で呼ぶことさえまったく的外れかもしれない。それでも、名前をつけ、観察し実験し理解しようとつとめるのは、人間のさがなのでしょうか。 「なあ…あいつはなんて名前だ?/人間は宇宙の端から端まで名前をつけまくった/ ひょっとしたら自分の名前をすでに持っているかもしれないってのに…」 ――『ソラリス』沼野充義監修 いや別に、名前を持っていてもいなくても、人間は人間の使う名前をつけて構わないと思うのですが。広大で人知を超えたソラリスの海の上に浮かぶちっぽけな基地の中で、孤独な研究者たちは色々考えにふけります。 海はまた、研究者たちの心の奥底にあるトラウマのような物を察知して個別に模倣し、それを基地へ送りこんできます。主人公のもとへは、10年前に自殺した恋人がやってくる。 このエピソード、だいぶ既視感があります。ハリー・ポッターのボガートとか『葬送のフリーレン』で死者の幻影を見せる魔物とか。 前半、ソラリスの海は「脳みそである」という仮説が出てくると、なるほど! と思いました。 こちらからの刺激に対して毎回、異なる海の反応。共通項があるようですべて異なる形成物。それは、私たちの脳の投影のように思えます。同じ刺激を受けても、外的環境や、体調・精神状態、それまでの経験などによって、私たちの感じ方・考え方はその都度、異なるでしょうから。熟睡していて無反応な時もあるでしょう。 対称形の形成物は、主体的な「思考」かもしれません。非対称体は「感情」かもしれない。それらは、脳内の電気信号や神経伝達物質(アドレナリンとか)の伝達パターンだということですが、もし3D的にそれらが投影されたら、ソラリスの海のような活動になるのでは? 巨大な形成物はすぐに消える物もあれば、複雑な過程をへて爆発したり霧散したりする場合もある。それはさまざまな思考や感情が脳内で生まれては消える様子のように思えます。 主人公のところへは死んだ恋人のそっくりさんが現れるし、別の研究者のところへは子ども?が現れる、というふうに、海は複数の人間の脳内活動を投影することができるようです。集合的無意識とか、心の鏡のような存在なのかもしれません。 などと思いながら、下巻へと読み進むと、海の質感はますます迫力を増し、対して研究者や基地などは一定の細く頼りない線でのみ描かれていて、その対照がきわだってきます。 もしかして――、ソラリスの海が人間の脳内活動を投影しているのではなく、線画された研究者たちこそが、海の活動の投影にすぎないんじゃないか。だって、消えたり現れたりする死んだ恋人の姿と同じ線で、主人公も描かれているのです。 実在するのはソラリスで、人間はソラリスの見る夢なのかもしれない。だから直接コンタクトすることができないんだ… 最後の方で、巨大な海の形成物の上に降り立って歩き回る、ちっぽけで頼りなげで、でも少しの希望を持ち続ける主人公を見て、ふとそう思いました。
February 16, 2026
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第12回は旅の4日め、1986年1月3日(金)上海、日本租界探検続きです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れなどを修正しています。 呉淞(ウースン)路のマーケットを南へ抜けた所には、古くて立派な、風情ある建物があちこちに見られた(左写真)。てっぺんに天使の羽みたいな装飾があったり、しゃれたバルコニーがついていたりする。右写真は、1917年建築の虹口消防署。二階に洗濯物が干してありアパートに見えるが、現役の消防署だという。曲線を描く建物の前には、モスグリーンの制服と防寒コートを着込んだ交通整理の警官が立っていた。警官さんたちは休日や非番でもこの服を着用しているらしく、町なかや店で普通に家族と歩いていたりもする。勤務中はいかめしい顔の人が多く、カッコイイのであった。 この辺で、疲れた私たちは小さい洋風のケーキを買って道端で食べた、と当時のメモにある。ケーキはたいへん高価なものらしく、我々の周りにどっと人だかりができて、衆人環視という言葉がぴったりだった。 消防署の北隣に上海毎日新聞社の旧社屋ビルがあった。この時は本郷さんの勤め先と思って撮った(左写真)。5階建ての社屋の一部に、2階分継ぎ足されている。手前にはトローリーバス(満員!)や標識があるが、左に工事現場のようなガサガサした一角がある一方、右では購入した家電の箱をこれ見よがしに地べたに置いて、身なりのよい若い紳士たちがいるのが面白い。 上海の、特に南京路の百貨店付近などでは、若い男女が大きな家電製品の箱を二人で運んでいる光景をよく見かけた。洗濯機とかそういう大きさの物を、雑踏の中で大変な苦労をして歩いて運ぶから目立つ。けれど何となく彼らはそれが嬉しそう、誇らしそうなのだった。 私たちは呉淞路から西へ戻り、四川北路よりさらに西の宝山路へ出て北へ引き返した。本郷さんたちの活動した特務機関「宝山路54号*」の場所を探すためである。 「宝山路54号か/日本租界内だな」「おそらく厳重な警戒態勢を/敷いているでしょう」 (『南京ロード』2巻) 曇天の下かなり歩いたが、宝山路の南端は上海駅*あたりで、道路沿いは駅前大通り商店街といった風情(右写真)。 寒さにたえ、番地を確かめながら北進したが、56号と57号は見つかったもの、54号はついに見つからなかった。「54号はジョーに襲撃・破壊されたあと、お店になってしまった」と、M。しょせん架空の住所への萌えとはいえ、がっかりである。 *宝山路54号 抗日運動を粛正した実在の特務機関「ゼスフィールド路76号」がモデルだと思われる。数字も76→54と続けてあるのは作者(森川久美)の遊び心だろう。内部のつくりや予算なども、76号を参考にして設定されている。 宿舎/会議室/倉庫/留置場までついている… 「すげえ家ですな本郷さん」「特別の改造をほどこした防諜邸――/ここが俺たちの本拠だ」 (『南京ロード』2巻) *上海駅 戦前は「北站」と呼ばれた。租界の北にある。 左絵は北站で宋(スン)先生を見送った後、「六月の牡丹は血の色になりそうですね…」の黄(ワン)と本郷さん(模写、色も適当)。 つづく。
February 11, 2026
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第11回は旅の4日め、1986年1月3日(金)上海、日本租界探検続きです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れなどを修正しています。 四川北路を南下する私たちは、長春路との交差点にやってきた。左写真の左半分は古い英国風アパートで、租界時代は日本人が住んでいたそうだ。本郷さんのアパートかもしれない!? 2012年にNHK「世界ふれあい街歩き」で紹介されたが、建物はそのままで現地の人が住んでいた。現在では歴史的建物として保存対象になっているそうだ。写真の、道に渡した横断幕には「長春路農産物・副産物市場」とある。お正月だからか、たいへんにぎわっていた。 右写真は、長春路近くで古いビルを撮ったもの。これの方が、南京ロードに出てくる陸戦隊本部の建物に似ている気がする。手前には「四川北路」の看板と、たばこ・酒の店があるが、煙の字が簡体字でないのが古めかしい。右手の壁に交通安全とか色々標語が書かれている。 黄甫江に注ぐ小さな流れ(俞泾浦*)をまたぐ横浜橋*まで来た。周囲は、私たちには凄まじく見えるほど古くせせこましい町並みで、「裏町」「場末」という言葉が浮かぶ。横丁(左下写真)には、黄子満(ワンツーマン)が住んでいたような長屋(里弄)も見えた。物干し竿がずらりと突き出ているのが生活感。タオルがきちんと干してある。左端にあるのは公衆電話ボックス。カメラの紐がレンズの前に写り込んでしまっている。 上海の街路は/網の目のように/張りめぐらされ/四方八方に抜けていく―― (『蘇州夜曲』) *俞泾浦 昔は横浜川と呼ばれたそうだ。現在は検索するとほかに玉京埔(ユジンプー)、玉井埔などの表記が出る。汚泥と悪臭がひどかったが現在は水質改良した、とある。 *横浜橋 日本の横浜とは無関係らしい。昔は魯迅がたたずんでいたという。 橋の上からは、これまたヤバい(当時、私たちは「スルドイ」という言葉を連発した)、うらぶれた長屋や船が見える(右写真)。見るからに汚泥がたまっていそうである。 現在調べてみると、この辺りは海軍のいわゆる慰安所があった所だそうだ。なるほど、そんなたたずまいに見えなくもない。そして第一次上海事変(1932年)の折には海軍陸戦隊と中国軍が衝突し多くの戦死者が出た場所だそうだ。 横浜橋を渡った後、2本東の呉淞(ウースン)路へ移動して南下を続けた。この通りに「日日新聞」の旧社屋があると、調べをつけていたからだ。が、後に分かったのは、これは上海毎日新聞のことで、この新聞社は、本郷さんが二番目に勤めた東京日日新聞上海支局とは別の、独立した邦字紙だった(1924年から1943年まで存続)。ほかに上海日日新聞という邦字紙もあり、住所は梧州路10号(呉淞路より2本東の道路)。また、本郷さんが初めに勤めた上海日報は、検索で古い紙面などを見ると、古くは虹口文路5号や礼査路=現黄浦路。のちには白保羅路3,4号(=新郷路、四川北路と川公路の合流点の北付近を西へ入る小路、現在はなくなっている)にあったらしい(印刷所の住所かもしれないが)。 さて、呉淞路に入ってみると、そこは古い洋館の軒から差し掛けた店が並び、地元の人々が買い物をする、にぎやかなマーケットであった(左写真)。日本でも戦後の闇市なんかはこんなふうであったかと思う。当時のメモに、「とにかくスルドイ下町で、道端には汚れた布を垂れ幕に、洋服屋や野菜売り、薬草屋などがずらり。洋服屋の天幕の下には、古着のようなジャージがぎっしりと並んでいる。地べたに伏せた籠の中で生きたニワトリも売られていた。リヤカーや荷車、買い物籠のおばさんが行き交う。うーん、うさんくさいというか、すさまじいというか。私たちはめげずに路地を歩いたが、すこし怖かった」とある。 戦前のこのあたりは虹口市場(三角マーケット)と呼ばれ買い物をする日本人でにぎわっていたそうだが、そのにぎわいが甦って私たちの眼前にあった。現在、ここには高層ビルが立ち、昔の面影はなくなっているらしい。南下、つづく。
February 8, 2026
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第10回は旅の4日め、1986年1月3日(金)上海、日本租界探検続きです。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れなどを修正しています。 虹口公園(現魯迅公園)のすぐ東を南北に通る道路が、海軍陸戦隊本部のあった四川北路。昔は「北四川路」といったその道を、公園から南下する。戦前ぽい建物や、南京ロードに出てきそうな風景があれば、とにかく写真を撮る私たち。それを尻目に、現地の人々は厚着して忙しそうに行き交っている。 左写真は公園のすぐ南あたりにあった建物で、本郷さんたちの本拠地「五十四号」にちょっと似ている(?)と思うのだが、詳細不明。右写真は、四川北路と多倫路との交差点。道端で写真を撮ると、ちょうどバスがやって来て視界をふさぐことがよくあり、私たちは「またバスを呼んでしまった」と言い合った。この写真も、4台ものバスを「呼んで」いるが、奥の建物は、「多倫路250号 孔公館(旧知恩院)」ある。1924年に建てられ、現存。多倫路は魯迅、郭沫若や金子光晴などの住んだ界隈で内山書店などもあった場所だが、当時は普通の街角で観光案内もなく、私たちは通り過ぎてしまった。1998年に「文化名人街」として観光整備され、今はレトロを模した店が並ぶという。 同じ交差点の、街路表示のある所で記念撮影もした(左写真)。背景の建物も窓の形や、観音開きの窓枠が薄青いなど趣があり、『南京ロード』3巻の「誰か…/この魂のために/祈ってくれないか…」の見開きページみたいな雰囲気! と思ったのだ(全然違うといえば違うのだが)。 やがて「銃痕の残る」とされる旧海軍陸戦隊本部ビル*を発見(右写真)。住所は四川北路2131号(旧東江湾路1号、現在は北站黄渡路)、東江湾路との交差点にある(『蘇州夜曲』や『南京ロード』に描かれた建物とは異なっている! 森川久美がモデルにしたのは違う建物らしい)。右の方にお店の看板なども見えたが、近づいてみると、1階壁に大書された文字は漆喰で塗りつぶされ、ちょっと怖い雰囲気(下左写真)。ここは撮りまくるのも何だか気が引けて、銃痕を探せずにそそくさと立ち去る。おかげで裏手?にあったらしい史跡の説明板に、我々は気づかなかった。 「海軍さんなら船にでものってろ」/「上海陸戦隊勤務だ」 ――――『蘇州夜曲』 *海軍陸戦隊本部 正式には上海海軍特別陸戦隊本部。海軍第三艦隊所属。1932年に設置され、2000人規模だったそうだ。現在この建物は茶色になった上、1階にはレストランなどお店がたくさん入っているらしい。 四川北路の西側辺りで、年配の中国人のおじさんが、日本語で話しかけてきた。「昔は日本人がたくさん住んでいた」というようなことを語る。若輩者のこちらは、どう返していいか、わからないのだった。 右写真は、何かのお役所だろう、国旗が立っているし塀の外にポスターの掲示がずらりとある。北四川路、まだつづく。
February 6, 2026
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先月「天空のアトラス展」を観たつながりで、この冬は、古めかしい星空案内『星三百六十五夜』や『星の民俗学』を読み返して過ごしました。どちらも、明治~昭和の星の研究家野尻抱影の本です。この人は文学者ですが、天文学者顔負けの星の観察から、古今東西の星にまつわる神話伝説、文学作品、民間伝承などを収集・紹介する一生を送った人だそうです。 『星三百六十五夜』は短いエッセイ集で、星にまつわる広範囲な知識と愛が詰まっていて、ためになるばかりでなく、心が洗われる感じがします。古典教養から昭和のお芝居、登山の話まで、そして一等星を宝石や花にたとえてみるなど遊び心も満載です。 知らない時代の話もあります。関東大震災の夜、余震にふるえながら見た空には、 赤く爛(ただ)れた火雲…〔中略〕…そこの雲から、急に一団の星が吐き出された。一と目ですばるだと判ったが、六つの星の一つ一つが火雲のいきれで妖しいまでにぎらぎら光り、かつ、雲の動く錯覚から一方へ流れているように見えた。私はあんなに不気味な、そして美しいすばるを見たことはない。 ――――野尻抱影『星三百六十五夜』9月3日 また、大陸や南方など戦地で見た星や、星の現地名の聞き書き。日本各地の漁村農村で古老から聞いた、海での目印として、あるいは農作業の目安となる暦として、独特の名で呼ばれた星の話や俚謡。当時でさえ忘れられかけたそれら伝承は、作者の記録以外には、今ではすっかり失われているでしょう。 私は子ども時代は視力が良くて、都会の空でも星座を見つけたりしていましたが、近眼・乱視そして最近は老眼で、金星さえぼやけています。おまけに家の前にLEDの街灯ができ、安全上はとてもありがたいのですが、星は探せなくなりました。 『星三百六十五夜』では、日々、夜空を楽しむ作者の様子から、昭和の頃は東京郊外でもすばるや、暗い星座がたくさん見えたことがわかります。「ぼくたちの文明が奪った夜空の光」というSEKAI NO OWARIの歌詞が思い起こされました。 さて表題の「カッカブ・ビル」です。さそり座の一等星アンタレスのことを、古代バビロニアではこう呼んだというのです。アッカド語?で「真紅の星」という意味。『星の民俗学』にはほかに、中国、インド、ペルシャ、マヤでの呼び名が紹介されていますが、「カッカブ・ビル」のところで私は、あれっと目がとまったのです。どこかで見なかったか、この名前。 そうです、カッカブ・ビール。スペース・オペラ『ノービットの冒険』(パット・マーフイー)に出てくる、大亀裂星雲(天の川の暗黒星雲)付近の一大勢力で、黒と赤のサソリをシンボルマークとしています。ああ、「狂信的」と形容される彼らは、古代バビロニアゆかりの勢力だったのでしょうか! 今のところ、「カッカブ・ビ(ー)ル」で検索しても出てこないほどマイナーな言葉ですが、1978年の『星の民俗学』と1999年のアメリカのスペース・オペラとがつながってしまいました。なんだか、感動です。
February 4, 2026
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第9回は旅の4日め、1986年1月3日(金)上海、日本租界探検 です。『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れなどを修正しています。 今日はいよいよ我々だけで上海市街の探検。前の晩遅くまでNと議論して、まずは旧日本租界*からと決めた(Mは早くに寝ていた)。蘇州河(呉淞(ウースン)江)の北、本郷さん(左画像、模写です)のアパートもあった虹口(ホンキュウ)地区である。最初の目的地はわかりやすい虹口公園*にした。 *日本租界 正式には共同租界(英米の租借地)の一角だが、虹口地区は日本人が多く、こう呼ばれたそうだ。 *虹口公園 現在は魯迅公園と名が変わっている。 朝、ホテル前のバス停から57番のバスに乗って延安西路(旧静安寺路)を東へ向かい、静安寺*というバス停まで行く。料金は1角。右画像はバスのチケット。静安寺路は『南京ロード』で宋(スン)先生が二度目に襲われた所である。 「取り引き先へ行く途中/静安寺路を通りかかったら/大騒ぎでしてね またいつものテロかと思ったら」 ――『南京ロード』1巻 *静安寺 この名のお寺は文革で破壊され、この頃は再建工事中だったらしい。我々も見ていない。 そこから歩いて常徳路へ出る。途中にあった、人民法院(裁判所、現在は立て替えられている)の古めかしい建物(左写真)や、路地裏(右写真)を見ると、タイムスリップした感じがする。上海の路地裏には水場があり、向かいの建物との間に洗濯ロープが渡してあるのが定番のようである。長屋というか、里弄(上海のれんが造りの集合住宅コミュニティ)というか、『蘇州夜曲』で黄(ワン)が住んでいたアパートもこういうのだった。 常徳路で21番のバスに乗り、北東の虹口公園まで行く。料金1角3分(1分=0.1角=0.01元)。日中旅行社が支給してくれた中国語の市街地図「上海遊覧交通図」(左画像、一部)には、道路上に赤や緑の線でバス路線が書いてあり、起点・終点も分かるようになっていて、役立った。 バスには運転手さんのほか車掌さんが居て、乗ってから切符を買う。中国語は話せなくても、目的地を漢字で書けば通じた。しかし、切符は下りる時も回収されないので、正しく料金を徴収できるのか、そのシステムがよく分からなかった。 寒風吹きすさぶ、広々とした虹口公園は入場料5分が必要。道端でりんごを買って丸かじりしながら、あちこち見物して回った。公園内には美しい池や太鼓橋もある(現在は背後に高層ビルが借景になっているが当時はもちろんなかった)。魯迅先生の座像や墓石が有名らしいが、見たのだったか、写真は撮っていない。 葉ボタンの植え込みで囲んだ、巨大な石碑があったのでこれは撮影した(左写真、一部。人物を消してあります)のだが、石に刻まれた巨大な文字(「中民党・・・・展」?みたいな)がうまく写らず、今となっては何の碑だったのか分からない。現在は撤去されたらしく、検索しても、このような石碑は見当たらない。 時計のついた記念碑もあり、中日青年世代友好、と刻んである(右写真)。真ん中の時計はSEIKOである。この時計と台の部分だけが現在も残っていて、「紀念鐘」というそうだ。 公園内にある魯迅記念館を見学。玄関を入った所には巨大な魯迅の横顔のレリーフ(左写真)。胸像もあり、横に立って記念写真を撮る。これらは現在ないのか、撮影禁止になったのか、検索しても出てこない。この横顔は昔の魯迅の著作の表紙などに見かける。 さて、我々は公園を出て南の方へ、『蘇州夜曲』『南京ロード』に出てくる日本租界の夢の跡を探しに行く。つづく。
January 29, 2026
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第8回は旅の3日め、1986年1月2日の日帰り蘇州旅つづき です。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れなどを修正しています。現在もほぼ同じである観光地の写真は、割愛しました。 寒山寺で、鐘つきのあと、「楓橋夜泊」の石碑*のある「碑亭」という展示館へ入る。最も有名な俞樾(ゆえつ、清代)の筆による石碑と、そのかたわらに元祖だという碑もある。元祖というなら8世紀のものなのか?? 写真に撮った(左画像)が、刻まれた字は判読しがたい。説明書きも撮っておくべきだった… 境内には本屋さん兼お土産屋さんもあり、「姑蘇書画店」という名が風流だ(右写真)。「姑蘇城外寒山寺」と「楓橋夜泊」に詠まれているが、姑蘇とは蘇州の古名。写っているのは中国人観光客。左の新しそうな看板には「風景名勝区管理暫行条例」、これは国立公園的な環境保護の取り組みだそうだ。 *「楓橋夜泊」の石碑 現在、俞樾の石碑は屋外に展示されているようだ。元祖と聞いた石碑は、11世紀のものを近年「集字復刻」したもの? あるいは明代の文徴明という書家のものかも。 さて、このオプショナルツアーは蘇州特産物をメインにしたいらしく、次に行ったのは玉(ぎょく、ヒスイなどの美石)の工場だった。一通り見学して、(ちょっとほこりっぽい)お土産店に案内される。見事な細工物だが、たいてい大きくて高価すぎる。邸宅とか高級中華料理店に置くような物ばかり。ここでは何も買わなかった。 それから、虎丘へ。ここは春秋時代の呉王闔閭(こうりょ)*の宮および墓所で、埋葬の3日後、白い虎が現れたという。その一帯は寺院(ここも黄色い壁)、剣池(闔閭が三千本の剣とともに眠るという)、千人岩、雲岩寺塔(虎塔)など伝説にいろどられた見所を順にめぐる。虎塔は、丘全体を虎の姿に見立てる(かなりこじつけである)と、しっぽに当たる所に立っている斜塔。ピサの斜塔は4度ほどだが、これは15度も傾いているとか、見るからに危なっかしい様子。杭州でも斜塔があったが、日本と違って大陸では塔をよく見かけるなあと感じた。 記念写真を撮った。後で見ると、ガイドのYさんは長い前髪を横分けにし、黒コートを袖を通さず背の高い両肩にひっかけて、クールにポーズを決めている(写真省略)。 *闔閭(こうりょ) 最盛期の呉王で、越との戦いに明け暮れ、死後、息子の夫差が「臥薪」したという話は有名。 次に行ったのが白檀工場。蘇州では白檀や紫檀の加工も盛んだそうだ。ここで白檀の扇子(左写真、10元)としおり(5元)を購入。扇子に同封されていた説明の紙(左写真)に「如意牌」の字が見えるが、これはブランド名らしい。当時の国営工場は現在「蘇州如意白檀扇風機有限公司」となり、技術はいわゆる無形文化財として保護されているそうだ。 夕方になってきたので、私たちは有名な庭園に一つでも行きたい(そして「あなたも私もエトランゼ」と『蘇州夜曲』ごっこをしたい!)と、Yさんに訴えた。すると報恩寺*に連れて行ってくれたのだが、閉園時間を過ぎていて入れない。がっかりだが、有名な北寺塔*(また塔!)は外からでも眺められ、寺の山門ともども写真を撮ることはできた(写真省略)。もっと早く頼めばよかったと後悔も遅く、拙政園も行かずじまい。 しかし友誼商店は開いていて、私たちはまたまたお買い物をすることになった。ここには手頃な品がたくさんあり、両面刺繍*(12.6元)や切手(1.8元)、ハンカチ(14元)、陶器の細い腕輪(12元)、櫛(1.3元)、Yさんへのプレゼント(何だったか記録がないが4元とある)まで買った。 *報恩寺と北寺塔 三国志で有名な呉の孫権が母のために建てた館。塔の上からは蘇州の町が一望できたらしい。現在は塔には登れないそうだ。 *両面刺繍 両方から鑑賞できる蘇州名物のシルクの細かい刺繍。伝統的なものではなく、最近の技術だそうだ。 友誼商店近くの王四酒家*という老舗レストランで夕食をとった。多分ご当地浙江料理をいただいたと思う。店名の入ったハンカチ(右画像はその一部)をお土産にもらった。虎塔が描かれているが、「上海ハンカチ工場No1製」とある。「双魚」のロゴのシールも貼ってあった。双魚は中国では縁起のよいモチーフだそうだ。 我々が無理に頼んだので、Yさんは食後に、小さな刺繍工芸店が連なる小路(買い物伝票によると緑葭巷(りょくかこう)あたり)に徒歩で連れて行ってくれた。すっかり暗くなったがまだ店々は開いていて、路上にたくさん刺繍を出して売っている。ここで私は飾り枠に入った金魚の図柄の両面刺繍をお土産に購入(あげてしまったので写真がないが、30元だった)。 駅へ戻って蘇州に別れを告げる。マイクロバスの移動ばかりで町の風情を余り楽しめなかったのが残念だ。もらった絵はがきを眺めるしかない。これは12枚セットで、バス路線図を記した観光絵地図もついて0.85元とある。絵地図のウラには中国語、英語、仏語、日本語で町の紹介文もある。 もう一度ゆっくりと訪ねたい町、蘇州。再び「普快」の軟座で上海へ戻った。 *王四酒家 蘇州3大レストランの一つ、1887年創業。住所は現在も同じ。 余談。Mはホテルに戻るとさっそく、買ってきたチャイナドレスに着替え、新苑飯店の真新しい白い廊下で写真を撮った。それを、帰国後、推しであった杭州のガイドのCさんに手紙とともに送った。私は「罪作り~」などと冷やかしたものだ。つづく。
January 26, 2026
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第7回は旅の3日め、1986年1月2日の日帰り蘇州旅 です。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れや顔部分を修正しています。現在もほぼ同じである観光地の写真は、割愛しました。 オプショナル・ツアー第二弾、蘇州。行くのは私たち3人と、昨日も一緒だったおばさま。昨日ほど早起きせず、昨日暗くてよく分からなかった上海駅を、少しは観察できた。 まずタクシーは直接目的のプラットホーム横に到着。改札の内と外の線引きがないようだ。辺りでは、山積みのひまわりの種などを売っている。車内のおやつに最適なのだろう。食べている人も見かけたが、種をひとつかみ口へ放りこみ、ものすごく器用にカラだけを出す。 今回は「普快」列車で昨日の特快よりは遅いが、席はやはり軟座で、田園地帯(見たところ日本の田舎によく似ている)を約1時間の旅である。向かい合わせ座席の壁から張り出した小卓に、植木鉢が置いてある。『蘇州夜曲』のワンシーン(右画像、模写です)にあった通りなので、驚喜した私たちはさっそく、本郷さんと同じひじをついたポーズでかわるがわる写真を撮った(左画像)。 何が麗しの蘇州だ/何が楽しい蘇州の過し方だ! 観光案内記事だって…!?/人をバカにしやがって… (『蘇州夜曲』) 服務員さんがお茶を入れてくれる。縁がレースの真っ白いテーブルかけに、美味な支那茶。アナクロ気分満喫。 蘇州駅に着く。左写真のように、当時の駅はでかいがシンプルで、柱の所にある獅子や、右奥の奇岩?などが、そこはかとなくチャイナである。駅はこのあと二度改築され、現在は巨大なステーションビルになっているという。 現地ガイドのYさんが現れた。長身に黒のナウいロングコート、ちょっと斜に構えカッコつけたお兄さんだ。マイクロバスで蘇州飯店*に行き、昼食。その後、絹工場の見学。この日も、どこを見物するかは決められてる。資料も写真もなく今となっては記憶があやふやだが、絹製品の販売もしていた。どれも美しくクラシカルで、高級品。Mはたぶんここで、光沢のある織り柄の朱色のチャイナドレスを買った。私はたぶんここで、寒山寺と「楓橋夜泊」のついたピンクのシルクスカーフを買った。これを風呂敷代わりに後年、旅行のたびに使っていたら、すっかりよれよれになってしまった(右写真)。 *蘇州飯店 十全街にあったが現在は閉店。 その寒山寺*へ行く。お寺のすぐ前にある運河(上塘河)の太鼓橋江村橋で『蘇州夜曲』の上海リリイの言う「東洋のヴェニス」の風情を味わった。左写真は、江村橋と赤ちゃんを抱いたパパさん(通行人!)である。冬晴れの薄青い空や裸の木々の枝を映して、運河の水は静かだ。漢詩で有名な楓橋は少し離れた所にあるとて、行けなかった。 寒山寺の名前の入ったカラシ色の壁がひどく目立つ。「楓橋路」と道路の名前も「楓橋夜泊」を意識している。中に入るとお寺の屋根はやはり反り返っていて、かわいい。昨日の西湖ほどではないが、内外の見物客にぎわっていた。 カラシ色と反り屋根の鐘撞き堂で、順番に鐘をつかせてもらう(右写真)。日本のお寺で鐘をついた経験からいうと、これは結構小さい鐘で、つきやすい。漢字(「佛日増輝」などと、大般若経の文句?)や記号が赤く刻んである。1906年に作られた鐘だそうだ。 現在のお寺は1911年5回目の再建をされたもので、1933年ごろに訪れた本郷さんが「こんな荒れ寺とはびっくり」と言ったのは、金子光晴が『どくろ杯』に「ひどい荒れかた」「吊鐘は、大きなひび割れ」などと書いたのを受けているのだろう。そんなに手入れが行き届いていなかったのかと驚く。 「月落ち烏鳴いて霜天に満つ/江風の漁火愁眠に対す」「なあにそれ?」「故蘇城外寒山寺/夜半の鐘声客船に至る/有名な詩ですよ/もっともその寺が/こんな荒れ寺とはびっくりだが」(『蘇州夜曲』) *寒山寺 6世紀に建てられた臨済宗のお寺。「寒山拾得」の故事の寒山が住んだという。張継の有名な漢詩「楓橋夜泊」(8世紀)は、現在では場所はここではないという説がある。我々の訪ねた翌年(1986年)と、2005年にも改修され鐘も新しく大きくなったそうだ。調べたところ、現在の鐘には赤い文字等はない。つづく
January 20, 2026
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第6回は旅の2日め、1986年元旦の日帰り杭州旅つづき です。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れや顔部分を修正しています。現在もほぼ同じである観光地の写真は、割愛しました。 霊隠寺の次の見物は、湖の少し南、銭塘江*のほとりに立つ六和塔。五代十国時代の970年にこの川の大逆流を鎮めるために建てられ、灯台にもなったという。高さ59.9m、微妙に傾いているようだ。ふもとには「浄宇江天」(きよらかなお寺と川と空)と乾隆帝が書いた言葉が掲げられ、よそゆきらしい真っ赤なコートの女性など中国人の観光客が多く出入りしている。 13層(清代に増築)に見えるが中は7階建てで、我々は上まで登った。塔の上からは冬枯れの木々ごしに銭塘江大橋(1453m)が雄大である。 *銭塘江 浙江省随一の河、その下流の名。浙江とはこの河の別名。隋代の大運河(京杭大運河)は、北京から南下し最後は杭州で銭塘江と結んでいた。河口付近つまり杭州あたりで、秋には逆流現象(いわゆる海嘯、「銭塘の秋濤」)を起こす。 天香楼というレストランで地元杭州風の昼食(この店は西湖の北東に現在でもあるようだ)。同行の国語教師のおじさんが、メニューを見てすっぽんと草魚を注文し、すっぽんは姿のまんま煮るか蒸すかされて、食卓中央にどーんと出てきた。西湖名物の草魚も、大皿のを皆で取り分けた。日中旅行社からは中華料理の中国語日本語対照表をもらっていたが、そこにはちゃんとすっぽんのうま煮や草魚の煮物が載っている。写真を撮っていないのが残念である。友人MもNも退いていたが、私は興味津々でたくさん食べた。どちらも淡泊で白くてやわらかく、たいへんおいしかった。 午後は西湖*を見物。湖を分かつ蘇堤という長い堤防を通って湖を南から北へ。これは蘇東坡(蘇軾)が(杭州知事時代に)作らせたのだとガイドのCさんが教えてくれる。映波橋を初め所々で橋になっている。真冬で景色は寒々しいが、遊歩道から枯れた葦?や小舟の浮かぶ美しい湖面を見渡せる。 湖北西部の陸続きの島、孤山の中山公園に到着。女性革命家秋瑾の真っ白な立像(ウィキペディアにも掲載)があり、当時、誰かも分からず記念写真を撮る。彼女は孫文とも知り合いのフェミニストで、1907年に斬首刑になったという烈女だそうだ。 公園で私の目にとまったのが、左写真、小さい獅子の形の「果皮箱」だ。口を大きく開けた姿が超キュートで、あちこちにある。文字通り果物の皮を入れる箱つまりゴミ箱である。日本の公園のゴミ箱に比べると、あまりにもチャイナな可愛さ! 観光地特有のゴミ箱らしく、パンダや狛犬やカエルや、色んなバージョンがあるそうだ。 *西湖 2011年に世界遺産に。旅行当時の私はガイドブックからか、伝説を書き写している;「天河の東の玉竜と西の金鳳が、銀河の仙島で見つけた白い宝玉、その光の及ぶところ、山紫水明、風光明媚。この玉を天宮の西王母が奪い、取り返さんとした玉竜と金鳳が西王母に襲いかかった時、玉は下界へ落ちた。これこそ西湖である。玉竜は玉皇山、金鳳は鳳凰山となり、今も西湖を見守る」。 この湖は傾国の美女西施が入水した伝説がある。私は芭蕉の象潟の句「雨に西施がねぶの花」を知っていたのみだが、蘇東坡の詩も書き写している;「水光瀲灔(れんえん)晴方(まさ)に好し/山色空濛雨また奇なり/若し西湖を杷へて西子(=西施)に比すれば/淡粧濃抹両ながら相宜(あひよろ)し」 さて、遊覧船に乗る。竜の形のや、きらびやかな御殿の形の船も浮かんでいるが、我々のは古代の船遊び用の御座船という趣で、色合いも装飾も派手すぎず、いい感じである。我々は「みやび船だー!」と大喜びした。右写真に写っているのは船の女性ガイドさんである。 お天気が曇ってきたが、漠々たる霧でいっそう風情が増した。すっかり水墨画や漢詩の世界である。ただたいへんに寒くて甲板では身をすくめていた。 甲板から湖岸を眺めていた時、Cさんが「西湖の岸には政府高官の別荘なんかが多いんですよ」とひっそり言った、それで湖岸の写真(左)を撮った、とメモしてある。しかしそれは古代の話なのか革命前清朝の話なのか、社会主義化した今の話なのか、分からなかったし訊けなかった。 船は途中で三潭(さんたん)印月(小瀛(えい)洲)*という湖中の島に上陸。島の中に池を造り、直角に曲がった回廊をめぐらしてある。中国各地から観光客が来ているのか、民族衣装の人もいて、にぎわっていた。右写真は、チベットだろうか、民族衣装の兄ちゃんたち 気が引けたので後ろ姿を撮った。お正月なので晴れ着で観光に来たのだろうか。三者三様の帽子、特に右端の兄ちゃんはカウボーイハットなのが気になるが…。遠くの人たちはよく見かける青い人民服である。 ちょうど霧が晴れた。柳など、冬枯れの枝々でさえ、鏡のような水面に映る倒影で美しさ二倍である。柳が芽吹く「江南の春」には、さぞや。 島では他にも写真を撮ったあと、船で湖南端の花港公園「花港観魚」に到着した。 *三潭印月 三潭(さんたん)は西湖の中央付近に頭を覗かせている3つの灯籠、印月は、それにともした灯と月が水面に映るさまだそうだ。杭州絵はがきセット(10枚入って0.8元)によると、小瀛洲の英訳は「Lesser Fairy Island」。調べると、瀛1字では沼沢みたいな意味だが、瀛洲となると、仙人の住む不老不死の楽園(東方三神山の一つ)だそうだ。なるほど。 その後、この手の旅行ではお定まりといえるお土産屋さん(友誼商店)に行った。ここで確かMは、白羽扇(びゃくうせん、どちらかというと、うちわだ)を買ったはずだ。当時彼女の推しであった、TVアニメ版三国志(おそらく1985年3月水曜ロードショーで放映されたもの)の諸葛孔明様のアイテムだからである。当時、人形劇(川本喜八郎作)の孔明も、アニメの孔明も、横山コミックスも、白羽扇はほんとに真っ白だった(左写真)。 私は友人に扇子(4.8元)やパンダのぬいぐるみ(12元)を買い求めた。 もう一カ所どこだったか、寄ってから駅に戻り、夕方また特快に乗って上海へ戻った。 Mはホテルの部屋に戻ると、ベッドのシーツを剥ぎ取ってまとい、白羽扇を掲げてアニメ版三国志の、赤壁の戦いの風を呼ぶ名場面の名台詞、「どう見る」などを再現(右写真)。コスプレという言葉がまだ全く浸透していなかった時代に、我々は盛り上がっていた。 ところでこの日の夕食はどうしたのだったか。ホテルで食べたのだろうか、記録がない。つづく
January 17, 2026
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第5回は旅の2日め、1986年元旦の記憶、日帰り杭州旅 です。記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。写真は汚れや顔部分を修正しています。現在もほぼ同じである観光地の写真は、割愛しました。 そもそもツアーの出発が1日遅れたせいか、オプショナル・ツアーの杭州行きは、元旦(中国でも新暦を採用している)の早朝4時起きから始まった。メンバーは私たち3人と、国語教師のおじさん、親戚と一緒に来た元気なおばさまの5人。上海駅へ送ってもらい特快*に乗りこんで上海から南へ。 車両の向かい合わせの座席には壁から小卓が突き出ていて、瀬戸物の茶器に入れた中国茶のサービスがある(右写真)。窓の外はまだ真っ暗だが、カーテンが可愛い。ファブリックはぱりっと清潔で真っ白か、座席の背もたれにかけた布などは淡い模様が入っていた。小卓は折りたたみではなく、テーブルクロスもあって豪華である。パン?も写っているが、多分私たちがホテルから持って行ったのだろう。 私たちは、紺色のきりりとした制服の、シャイな男女の乗務員さんたち(中国のサービス関係の人は全員公務員で、服務員さんという)の写真を撮ったり、パンダのパペットの車内販売を眺めたりした。 *特快 特急のこと。中国の鉄道では最も速い。左画像は切符(行きと帰り、表と裏)で、軟座とは上等の座席(普通座席は硬座)、12.5元とある。懐かしい、パンチの切り込みが入っている。裏には、座席番号を書いた薄紙がノリで貼られている。 杭州に着くと夜が明けていた。『南京ロード』的には思い入れのない土地だが、高校の世界史(3人とも共通1次試験で世界史を受けた)で「江浙実れば天下足る」と習った豊かな地方である。「上有天堂、下有蘇杭(上に天国あり、地上に蘇州と杭州あり)」という言葉も知った。日本語では同音の有名な「広州」と区別して、私たちは「くい(杭)の杭州」と呼んだ。 杭州駅は伝統的な建築で立派だった(右写真)。現在は、特徴的な巨大ビルらしい。ウィキペディアによると20世紀初めには西洋建築の駅舎だったが、戦時中日本軍の爆撃で破壊されたそうだ。残念。 現地でのガイドさんはCさんという穏やかそうな丸い顔の青年で、私たちはひそかに「アンパンマン」と呼んだ。日本人と変わらぬほど日本語が達者で、友人Mはすっかり熱を上げた。 杭州駅の西側に有名な西湖がある。マイクロバスで行ったのだったか、西湖の西北岸にある高級感あふれる西洋風ホテル杭州飯店*に案内され、朝食(6元)を食べた。当時は食事を撮影する習慣がなく、何を食べたのだったか忘れてしまった。西洋風朝食や中華風朝食など充実のメニュー(左写真、ほんの一部)は、持ち帰った。中国語表記と英語表記を見比べると面白い。兌換券のみ使えるとあるから、外国人専用のメニューである。 朝まだき、杭州のシンボル西湖はいちめんの霧に沈み、大小の島、建物の屋根、橋などをぼんやりと浮かび上がらせ、漠々と広がって見えた。 *杭州飯店 現在このホテルは地図で見つけることができない。他にも、昔と名前が異なる地名や建物が結構ある。 朝食後、ガイドのCさんに従って湖の西方にある霊隠寺*へ。入り口向かいに飛来峰という岩山があり、古めかしい石塔(理公の塔)が立つ。私は無学で「道端の塔」とメモしたが、実は寺を開いたインドの慧理を記念する塔。背後の岩山には洞窟や磨崖仏があったはずだが、覚えていない。慧理はこの岩山を見て、須弥山がここへ飛んできたのか!? と言ったので飛来峰と呼ばれるらしい。 元旦なので中国人の観光客・参拝者で賑わっている。よそゆきを着ているのか、人民服は余り見られず、寒いのでダウンジャケットやコートの人が多い。 お寺へ入る。看板に326年創建とあるから、ものすごく古い。我々は初めて中国のお寺というのを見たが、反り返った屋根が日本の寺とは違う。赤い壁と相まって、何だかかわいらしい。 いろいろ見物したと思うが、今となっては思い出のよすがは、0.7元で買った絵はがきセット。禅寺とは思えない極彩色の魁偉な天王や韋駄天など。1979年3月第1版、1984年12月第5版とあり、英語と中国語で寺の説明がびっしり書かれていて、超お得である。 *霊隠寺 杭州で最も大きな寺院。南宋のころ禅宗五山の一つとされた。後で出てくる済公が出家した寺だそうで、国内で人気なのもうなずける。
January 14, 2026
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昨年の大阪万博は、暑さと脚力が不安で行かなかったHANNAですが、イタリア館のアトラス像の素晴らしさは、噂に聞いていました。そして先日、大阪市立美術館の「天空のアトラス展」で実物を見ることができました(誘ってくれた息子よ、ありがとう!)。右画像は、たまたまキレイに撮れた、後ろから見たアトラスの天球部分です。 この像は、私が小学生のころ、以前にもご紹介した『星座と伝説』という本で見て以来、忘れられないものでした。なぜといって、彼の上には、星座の描かれたまるい天球が乗っているからです。地球は天球の内側にあるわけで、つまり、アトラスは、地球ばかりか天球よりも、でかいのです!! 私が星座以前に親しんでいた「ギリシャ神話」に出てくるアトラスは、タイタン(巨人族)の一人として、ゼウスとの覇権争いに敗れ、天を背負わされています。最終的にはペルセウスが、退治したメズーサの首を見せて彼を石にしたため、アトラス山脈となっていまだに天を支えていると。 天を支えるという発想がすでにすごいと思うのですが、のちになって、世界の神話には、たとえば中国の不周山(天を支える柱)とか、沖縄の天人(アマンチュ、天を押し上げた巨人)とか、天空を支える伝説があると知りました。 しかし、普通に考えるとそれは、家の柱のように、水平な地面と天井(天空)の間に鉛直に立って支える、というイメージだと思うのです。だからアトラスも、天と地の間に在って垂直に支えていると思っていました(そういう絵画もあるようです)。 でも、この像(そして多くの他の像や絵画)では、アトラスは世界、いや宇宙の外に在って、まるい天球を肩と首に乗せています。今で言う光速の壁つまり銀河系や恒星の世界の限界を突破した、“外”からの視点で天球とアトラスをえがいているのです。 今回、展示を見て、天球に黄道や赤道、経線がほぼ正確に引かれているだけでなく、描かれたたくさんの星座が、整然と鏡像になっているのに驚きました。たとえば上右画像ではペガサス座やアンドロメダ座が見えますが、ふつうの星座図と比べると、上下(南北)は一緒ですが左右(東西)は反転しています。これは天球を、私たち地上の者のように内側から見上げるのではなく、外から見ているためですね。 2世紀に造られたというこの像は、もっと古い物のコピーだそうですが、そのおおもとのアトラスと天球をつくった彫刻家が、紀元前2世紀の時点ですでに、自らの視点を宇宙の外に置いたというわけです! ちょっと考えても頭が混乱する反転星図を、こんなにも正確に美しく造ったとは、古代ギリシャ人すごすぎです。 そして鑑賞する人は、古代ギリシャから我々まで、宇宙の外から巨神と天球(閉じた宇宙)を眺めるのです。何だかやっぱり頭がくらくらします。
January 12, 2026
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第4回は旅の初日、1985年大晦日の記憶のつづき、南京ロードで日が暮れて です。前回同様、『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。また記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 南京東路を東へ歩く私たちは、ネオンもまぶしい新雅粤(しんがえつ)菜館の向かいを通った(左写真)。ニクソン米大統領も食べたという老舗レストランで、粤は広東地方のこと。『どくろ杯』に金子光晴がこの名の店に行ったとあるのでちょっと興奮したが、これは虹口にあった最初の店のことらしい(現在は南京路店が本店で規模も拡大)。 この店ようなネオンはまばらで、街灯も暗め。写りこんだ通行人さんは人民服を着ている(顔は消してあります)。 外灘(バンド)に着くころには真っ暗になってしまい、夜景を撮ったたくさんの写真は、帰国後、現像してもらえなかった。「ISO100」のフィルムだったし、うっかりフラッシュをたいたりして、失敗続きだ。 ガーデンブリッジ(外泊渡橋)を渡り、時計台(税関)の文字盤が丸く光っているのを遠くから眺めた。黄甫江や浦東(当時は開発中でビルは一つもない)の港の明かりは少なめでかすんでいて、西洋人が闊歩した戦前よりはきっとずいぶん暗いのだろうと思う。しかしその暗がりを大勢の中国人が歩き、寒さの中にもその生活力が伝わるようだった。 6時になったので、三角屋根の和平飯店へ行って「タクシープリーズ」と言うと、長らくしてタクシーが来、6時半予約の夕食へ。 我々が通されたのは、上海老飯店の二階、外国人向けの席らしい。いよいよカニ料理! と待ち受けた。しかし、現地の物価(お給料が30元ぐらい)を考えれば途方もない一人25元の予算も、珍味上海ガニには及ばずだったのか、あるいはKさんの書いてくれた中国語メモの内容によるのか、ほぐしたカニ身のあんかけが出たものの、カニの姿蒸しは出なかった。 上海ガニは『南京ロード』の後日譚である『Shang-hai1945』に出てくる。もと仲間の水上さんが仲直りのために本郷さん宅へ持って行く場面(右画像は1巻197・200ページ)。大戦末期だがこのたくさんの上海ガニ! きっと今よりずっと安価だったに違いない。 我々の食べたカニは、ほぐし身とはいえ、大皿いっぱいたっぷりあった。他にウナギ、豚肉、エビ(これが特に美味だった)、八宝菜、鶏カラ、野菜炒め、お魚と、これぞ中華料理という味付けの料理が10皿ほども出て、さらにお椀の2倍ほどの高さの山盛りご飯(外地米なのでパラパラだが、これはこれでおいしい)も出て、死ぬほど満腹になった。 中国のお箸は先細でなく、均一な太さで長いと初めて知った。上写真は老飯店のレシート。 給仕してくれたおばさんたちは皆、人なつこくて親切だった。イマドキの日本人が珍しかったのだろうか。特に我々が持って行った筒型のおしぼりウエッティが興味と賞賛の的となった。どうぞ試してみてと身振りで言うと、驚いた表情でいじり回してしゃべっていた。我々は他に、京都みやげによくある小さなシオリをプレゼントした。 長くかかったように思えたが、ほぼ約束通り1時間余で食べ終えて、タクシーで准海路を通ってホテルへ帰った(代金は9.1元)。 この夜はホテルで家に国際電話もかけた(3分で18.6元。すごく高い)。ジュースもどこかで飲んだらしく、3.5元と記録してある。興奮のうちに、旅の初日が終わった。明日は新年である。 つづく
January 11, 2026
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年が明けてから娘の絵を入手しました。水彩の手書き年賀状です。左が引退した競馬馬、右が子馬の写真を参考にしたとのこと。馬の脚を描くのは難しい! と言ってましたが、ほんとにそう思います。 ところで12年前のお正月に、物語に出てくる馬を挙げていたのですが、読み返してみると、書き漏らしていた名馬があることに気づきました。黒馬好きな私が、特に推したい、シートン動物記『跑く足のマスタング』(『ペーシング・マスタング』とか『ペイサー』という訳のタイトルもあります)です。 マスタングとは、自動車の方ではなくて、北米大陸の半野生馬。当時(19世紀終わり)は、牧草地を荒らし飼い馬を誘い出してしまう害獣だったそうです。 だく足(ペース)とは、「同じ側の前後の足を同時に動かして走る駆け方である」(E・T・シートン『私が知っている野生動物』藤原英司訳)。 シートンは、生まれつきだく足で驚異的な身体能力を誇る黒い雄馬を目にして、その野性のすばらしさに惹かれます。「狼王ロボ」の物語やほかのシートンの作品にも共通していますが、殺す側の人間(ハンター)は、殺そうとしながらも、獲物の野性的な力強さや美しさにはっと魅了される瞬間があって、それは、ただの殺戮者ではない、真のハンターの到達する境地であるというふうに描いています。 そして、ロボもペイサーも、狩人たちが追いまくるだけではどうしても捕らえることができません; 馬は八頭死に、五人の男はくたくたにまいった。だが、あの無敵の黒馬は、いまだに無傷で自由でいる ――『私が知っている野生動物』 しかし、最後に経験の知恵というか、よく観察して弱点をつかんだ老練な狩人が、勝利をおさめます。ロボもペイサーも、真のヒーローであるがゆえに、女性いや雌のために生命を落とすのです。子孫をつなぐ本能なのでしょうが、これがロマンチックな悲劇を生むのですねえ。 かくてペイサーは捕らえられますが、すぐに暴れ回って自ら断崖から転落していきます。死すとも自由を貫いた、というわけです。シートンは淡々と事実を語り終えていますが、子どもの頃はペイサーがかわいそうすぎて、私はこの物語があまり好きではなかったほどです。 大人になって、馬を狩る人間たちの描写にも注意して読むと、人間の側にもいろんな性格や人生模様が見えるし、人間と野生動物との関係性なんかも考えさせられます。
January 7, 2026
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第3回は旅の初日、1985年大晦日の記憶のつづき、上海のホテル到着後 です。前回同様、『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。また記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 ツアーメンバーの大半が、上海に知人がいるなど縁やゆかりのある人で、行動予定が決まっているようだった。改革開放中国への観光旅行が流行りはじめの頃で、フリーツアーには生半可な客はまだ少なかったのだろう。 「生半可な客」である我々は、今日のうちに、本郷さんが昼間から銃撃戦をした憧れの南京路、高層ビルを見上げて歯がみした外灘(バンド)を、一目見なければならぬ、夕食も食べねば、とはやるばかり。このホテルは市街地から遠いので、タクシーに乗ろうとだけ決め、添乗員のKさんの部屋へぞろぞろと行って助けを求めた。 Kさんは気さくな人で、生理用品を中国で買ったらひどくゴワゴワで分厚かった、というような話をいきなりする。彼女は受話器を取りあげるや、早口の流暢な中国語(広東語?)で、旧・城内の豫園(よえん)近くの有名老舗レストラン、上海老飯店(ラオはんてん)に予約を入れてくれた。私たちはガイドブックにかぶれて「上海ガニが食べたい」などと注文をした。 次は両替だ。ホテルのカウンターで、あっさり断られてしまった。午後のこと、おまけに未完のホテルとて、兌換券のストックが尽きているらしい。途方に暮れて、確かまたKさんの助言を求めた結果、ホテル付きのタクシーに、まずどこか両替できそうな大きなホテルまで連れて行ってもらうことになった。運転手さんに見せるメモと、レストランで見せるメモ(左画像)と、Kさんに中国語で書いてもらったのを持ち、いざや出発。 タクシーは見慣れた日本車だった。のちに上海町なかでいろいろ眺めたが、映画で見る戦前みたいな(と我々は感じた)古めかしい大きな箱形のタクシーも走っていた。それは中国の国産車だということだ。 我々の運転手さんは、気の毒に風邪を引いていた。たいへん親切な、ニコニコと内気そうに笑う人で、私たちを乗せひたすら東へ走った。延安西路→新華路→番禺路→南京西路、そして国際飯店*の前で止まった。そこで 謝々(シエシエ)と言って別れるものと思っていたが、彼は車を降り、私たちを連れてホテルの中へ入っていく。手続きをしてくれようというのだ。ところがここでも兌換券がないらしい。運転手さんは風邪で苦しそうな様子のまま、歩いてホテルを出る。びくびくしながらついて行くと、2軒ほど先の華僑飯店*に入ってゆく。幸いここで両替することができた。一人1万円札1枚ずつ、計3万円出して458元になった。運転手さんが手続きを全部してくれ、私がサインだけした。 *国際飯店 (左写真中央。塔の広告板は「東芝」。ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代だった。)1934年にできた老舗ホテル。英名パークホテル。人民公園(旧競馬場)を見おろす場所にあり、かつてはアジア一の高層ホテルだった。 *華僑飯店 (左写真右の細い塔)超老舗ホテル。英名パシフィック・ホテル。1926年にできたイタリア・ルネッサンス式の建物は華安大楼といったが、戦時中に香港華僑に貸されて金門飯店となり、解放後華僑飯店と改名。現在は金門大酒店に戻っている。 お金ができたので運転手さんに支払いをした。よく考えてみると運転手さんとしても、我々が兌換券を入手してはじめて支払ってもらえるのだった。タクシー伝票には運転手さんの性格を表すような、まめまめしい字が書いてある(右上写真)。16:05から16:40まで、新苑(飯店)から南京路まで乗って7.2元(およそ472円)。中国のレシート紙は総じて、黄ばんでカサカサした紙で、ボールペンのインクが裏まで通ってしまうほど薄い。 運転手さんにお礼を言って別れた。ほんとに優しい人で、我々はすっかり感激した。 いよいよ南京路をその足で踏んだ我々は、夕闇迫るなか、東へそぞろ歩いた。まずは西蔵中路との交差点近くの陸橋にのぼって東西を眺め、感慨に浸る。このあたりが南京東路と南京西路の境目らしい。上写真は陸橋から西を撮ったもので、左側の樹木は人民公園(旧競馬場)の木々。その上に突き出しているのはテレビ局の電波塔である。 右写真は、同じ陸橋から東を撮ったもの。現在は歩行者道路の南京路も、旅行当時は『南京ロード』の戦前と同様、上海一の目抜き通りだった。写真手前のトロリーバスのほか、車が詰まって道を渡る人々があふれている。「冠心葯房」という薬局の看板や、華僑商店(旧永安公司新館、「七重天」)が見える。中央の塔は市第十百貨商店(現在の永安百貨店󠄀)か。左の塔のある建物は時装商店かもしれない。 時の流れをたたえた石造りの建築と錯綜する架線との下、行き交う大勢の現地の人々の生き生きとしたエネルギッシュな動きに、我々は感心した。 つづく。
January 6, 2026
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第2回は旅の初日、1985年大晦日の記憶です。前回同様、『南京路に花吹雪』(森川久美)を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。また記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 朝、Mのお父さまの車で大阪空港(伊丹)へ送ってもらう。関空はまだ無い時代である。 添乗員Kさんは元気なおばさん。ツアーメンバーには年配の人、家族連れ、一人旅の人も。関東から来た人もいた。長く待って、ようやく乗るべき飛行機を眺めたとき、私たちは明るい興奮に包まれた。とうとう国外逃亡――せまい日本にゃ住み飽きた(『蘇州夜曲』・『どくろ杯』)、である。 騒ぎながらボーディング・ブリッジを歩いていると、一人旅のお姉さん(Oさん)が話しかけてきた。なぜ上海へ出かけるのか? 戦前の上海に興味がある、と答えると、「たとえば森川久美とか…?」と見抜かれて、私たちは爆笑。彼女も「LaLa」誌の読者だったのだ。 中華民航*の機内では、お土産に漢字のついたカレンダーをくれた。12時5分発。晴れて機内は快適。食事が出て、非常に荒削りな爪楊枝などが珍しい。肉汁のかかったご飯(私たちは「ぶっかけ飯」と呼んだ)、パンにジャムもある。おいしい中国茶も出た。服務員さんという呼び方が似合うCAさんは、たどたどしい日本語でアナウンスした後、私たちには耳慣れぬ中国語で繰り返している。 *中華民航 中国民用航空のこと。国営ではなく独占全国企業だった。この旅の2年後に分割され、さらに統合されたりして、現在では中国国際航空。 2時間もすると、もう到着。中央の席で景色は見えなかった。 がらんとした広い空港*には、くすんだ緑色の制服・制帽(帽子には赤い帯)をつけた警備員が直立不動の姿勢で立っている。軍隊みたいな実用的かつシブイ身なりで、非常にかっこいい。だが、四方からじろじろ見られる感じで、どことなく怖い。 現地のガイドさんが来ていた。すらりとした若い女性で、パーマの短髪、色白の堂々たる美人。 ホテル「新苑飯店」の迎えのバスに乗りこんで出発。上海の中心市街からは遠いが、空港からは、住所が同じ「虹橋路」だから近いはずだ。 *空港 虹橋空港。当時、上海で唯一の空港。浦東国際空港ができてからは、中国国内線が多く発着しているそうだ。 空港前はアスファルト、向こうに木が見える。日本と植生は同じだな、と思う。しかし、その木々の向こうが見えない――つまり何もない。 バスが空港を出ると、道がまっすぐひたすら続いているのにびっくりする。彼方は地平線なのだった。空港の周囲は四方ぐるりと荒野らしい。並木のある直線の道は何物にも遮られることなく続く。さすがは大陸、国土のスケールが違う。 バスはひた走る。なかなかのガタ道でローリング&バウンディング、砂ぼこり。並木の外側で人々が道に沿って溝を掘っている。シャベルのみが道具の、人海戦術の道路工事らしい。掘った土が山になって堤を成している。こういう工事風景は、ごく幼い頃(昭和40年前半)見た覚えがあり、少しばかりなつかしい。建物らしい建物は見えない。溝の向こうにバラックのような小屋があるほかは。 永遠に直進かと思う頃、ついにバスはガックンと揺れて急カーブを切った。そのひょうしに、右手の窓から一本の立て札が土の山の上に斜めに突き刺してあるのが目に入る:「新苑飯店」。木切れに棒を打ちつけ、ペンキで赤く書きなぐってある、その荒れすさんだ様子に度肝をぬかれたとたん、バスはものすごいバウンドとともに道をそれ、溝をまたぐ折れそうな木切れの上を通り抜け、きしみと砂塵をあげつつ、まだ踏み固められてもいない黒土の上を、ウサギのように跳躍しながら進んでいく。私たちはおそれおののき、本気で寝る場所の心配をし始めた。 しかし、ブルドーザーさながらに辺りの物を踏みにじるバスの行く手には、真新しく立派な玄関が見え、たいへんホテルらしい建物が忽然と現れて、我々を安心させてくれた。 下車して玄関をくぐると、正面ロビーとおぼしき空間に、大きな「煙のような」クリスマスツリーが飾ってあった。煙、と我々が言い合ったのは、明るさに欠けるというか、雪が積もったふうな装飾が亡霊じみていたからで、しかし精いっぱいのもてなしと思えた。旅の間に唯一見たツリーである。 ここで現地ガイドからKさんを通じて、重大な情報がもたらされた。「新苑飯店はあと一週間で完成予定である」。よく見ればなるほど、ロビーの左手に暗くぽっかり空いた洞窟はエレベーターになるらしいし、廊下や階段の踊り場では、ピカピカ新品の床に材木が積んである。こんな状態でも客を入れるとは、よほど観光客が多いのだろう。 泊まる部屋(445号室)に案内されると、窓のすぐ外に瓦礫と掘り返した土の山が見えていて、これは中庭らしかった。なかなか凄まじい景色だが、室内は西洋風で広く美しい。我々は3人なので、じゃんけんの結果、Nが一人旅のOさんと同室ということになった。Oさんは中国の文物(アンティーク)を求めて来たとのこと、もはやツウの域である。
January 2, 2026
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今年は丙午、暦が還ったHannaです。 近年、「今年もなんとか続くかどうか」という感じで更新してきましたが、今年は少しリキを入れてみようと思います。 まずは昨年大晦日から、ちょうど40年前の中国・上海旅行ふり返りで、当時のメモや現在の感慨などを書きつづっていきます。よかったら、セピアでレトロな青春推し旅をお読みくださいませ。 夏には、同じく中国・シルクロード旅のふり返りも、してみようと思っています。 ともあれ、平和で災害のない年になりますように。
January 1, 2026
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いつものブログと趣向を変えて、連載を始めてみます; これは、私と友人2人(M&N)の若かりし頃の旅の記憶。戦前の上海を舞台にした森川久美のコミックス『蘇州夜曲』(1981年)と『南京路(ナンキン・ロード)に花吹雪』全4巻(1982~83年)の聖地巡礼。以降では『南京路に花吹雪』を、当時私たちが呼んでいたように『南京ロード』と表記しています。また記述や画像は当時の私たちの記憶であり、何かの正確な記録や証拠ではありません。 昭和初年 広大な中国大陸をうしろにひかえ 国際都市として繁栄する――上海 そこは各国スパイが暗躍し 犯罪シンジケートがしのぎをけずる――東洋の魔都 (『蘇州夜曲』) 初め、「LaLa」誌上に連載中の「南京ロード」をめくっても、ストーリーが理解できなかった。「登場人物がいつも暗い顔で髪振り乱して走ってる」と、私は公言し、「ぱふ」誌のキャラ人気投票で載った、主人公の黄子満(ワンツーマン)も、ミソクソにけなしていたように記憶している。(右絵は当時、定期入れにはさんでいた黄子満の模写) 連載最後で「黄(ワン)が死んだ」「いや死なない」の論争が、他の友人から聞こえてきた。半年後、番外編「花は辺りに雨と降り」(昭和58年11月号)に感動したNが全巻を買いそろえ、私も借りてみた。高校2年の三学期だった。 私は前日譚『蘇州夜曲』もふくめ5冊(内容が密なのでコンパクトといえる巻数だ)を熟読して今度は理解し、すっかりこのシリーズを愛してしまった。物語の舞台・上海をも、すぐさま愛するに至ったのは、森川久美が、上海という都市そのものを主人公として愛し、描いたからだと思える。 高3になってMにも私やNの熱狂が伝染。夏、私は誕生日に5冊を贈ってもらい、一種の中毒に陥って、何度も読み続けた。 多分この頃、誰かがふと「上海に行きたい」と言い出したのではないか。気づいた時には受験を控えウツウツとした日々の中で、口癖のように「いつか上海に行きたいね」「(大学に)うかったら行こう」と言い合っていた。シャンハイ――夢の街。そこへ行けば物語の黄や本郷さんが本当にいるのだ、路(みち)を駆け回っているのだ、という空想。 チェリッシュ・ギャラリー(イラスト集)『森川久美の世界』、イメージLP「南京路に花吹雪」*が出、やがて春。幸い三人とも大学生になった。三人三様アルバイトを始め、上海は急に、手を伸ばせば届くかもしれない夢に変わった。Mの誕生日には、私の時と同様、「南京ロード」が贈られた。 しかし、具体的な上海行きを提案したのはいつで、誰だったのか。あとから私たちがどんなに頭をしぼっても、わからなかった――上海の不思議な魔力である。 *このLPはNが貸しレコード屋から借りたのだと思う。翌年に彼女が大学生協で取り寄せようとしたが廃盤になっていた。曲のタイトルも写し忘れたとかで、定かでない。現在は、YouTubeで数曲聞けるのを発見した。 夏休みごろ話は具体化して「来年春、いや、もっと早く」。9月の学期末試験のさなかに、我々は「冬休み」と結論し、試験が終わるや、うちそろって旅行会社の広告を求めに出かけた。新聞で見つけた「鍳真(がんじん)号」の船旅も、「南京ロード」と同じく、海から上海へ入れるので魅力的だったが、日数がかかるので冬休みでは無理だ。上海の街は自由に歩きたかったので、パックツアーの場合は何とか交渉して自由行動を勝ち取らねばならない、と我々は気勢を上げた。 国鉄大阪駅の地下街、旅行会社が軒を連ねる界隈を、我々はさまよった。無難なコースは日本交通の“上海・蘇州4日間”、しかし少しさみしい気がする。と、その時、見つけた。“中国自由遊覧、上海6日間”、蘇州・杭州の日帰りオプショナルツアーつき、日中旅行社*。歓喜し、うますぎる話に不安も覚えながら、腹ごしらえにナビオ阪急5階の「青冥」で炸醬麺(ジヤージヤーメン)*を食べたと思う。 *日中旅行社 中国旅行専門。2005年の反日デモの影響を受け2006年トップツアーの子会社となる。2008年業績不振で子会社としても解散。 *炸醬麺 「南京ロード」に、本郷さんと黄がこの料理を食べる場面があるので、我々はあちこちの中華料理店でこれを食べ比べた。 ツアーに空きがあり予約可能と分かった。黄、本郷さん、ジョーたちの走った道、見上げた建物を私たちも見られると思うと、もう興奮である。日中旅行社の関西支社(西本町)を訪ね、申込金(3万円)を払った。パスポートを取り、残金15万1千円を払い込む。出発日は12月30日。オプショナル・ツアーは、蘇州・寒山寺の除夜の鐘が混み合うのを恐れて、31日に杭州、1日に蘇州と決めた。 私の大学生活は、このころ精神的にキツくなっていた。授業は休講も多く、私も風邪を引いたりしてぶらぶら過ごし、ひたすら上海行きを待った。上海行きは、『蘇州夜曲』の冒頭のように、脱出行の様相を呈し、私は毎日毎日を大きな息をつきながら通り抜けていった。 12月18日に旅行の日程表や上海の地図が届いた。地図は中国語で、それを観るだけでも感動だ。Nは地図に使われている紙が「中国の匂い、大陸の香り」だと言った。 Nは「地球の歩き方中国編」や上海グルメの本などを入手。Mは、戦前の上海地図を調べようというので、大学の史学科研究室へ乗りこんで、お茶の接待を受けた末、「秘扱」と印刷された「すごい古地図」のコピーを入手した(右画像)。私は梅田・三番街の古本市で戦前のガイドブック『支那案内』*の復刻版を購入した(2000円)ほか、金子光晴『どくろ杯』(イラスト集収録の“南京路裏話”に出てくる)や「夜想」*12号(上海)などを買いあさった。 *『支那案内』は大正8年版で復刻は昭和49年。上海のページには租界時代の地図、ホテル、公園、病院などの情報が載っている。 *「夜想」ペョトル工房 23日になって滞在するホテルが知らされた。当初、上海賓館のはずだったが、空港近くの聞いたこともない「新苑飯店」*になっていた。私たちは街中心部への遠さを考えてガクゼンとしたが、のちのちこのホテルにはもっとガクゼンとすることになる。 *新苑飯店 XIN YUAN HOTEL。住所は上海市虹橋路1900号。翌年、シルクロードツアーで泊まった時には新苑賓館と名を変え、現在もその名で同じ住所で営業している(現在はさらに大規模になっているようだ) フリーツアーなので、どこに行くか計画するにあたり、古地図を使って「南京ロード」に出てくる地名を片っ端から位置確認。インターネットのない時代は、こうした資料探索をするしかなかったのだ。よくやった、昔の私たち! 南京路はもちろん、パレス・ホテルや四馬路、五馬路、海軍陸戦隊本部は見つかった。 しかしそのほかがうまくない。ゼスフィールド公園*は当時分からなかったし、エドワード路*、南海路(ナンハイルー)*や血の雨横町(ブラディ・レーン)*も不明。本郷さんの勤めた上海日報*や東京日日新聞上海支局*の場所も、探せなかった。 *ゼスフィールド公園 現在は中山公園という。市街地の西郊外なので、入手した古地図には載っていなかった。実は、泊まった新苑飯店からはさほど遠くなかったのだが。 *エドワード路 エドワード七世通り(愛多亜路)のこと。現在の延安東路。共同租界とフランス租界の境界。外灘の南境でもある。現在ではこの通りの南側も新外灘というそうだ。 *南海路 上海市街のかなり北、長江ぞいの劉河地区にこの名の通りがあるようだ。 *血の雨横町 現在検索すると堀田善衛『上海にて』の目次に「死刑執行」の次に「腰巻き横町・裂け目横町・血の雨横町」とあるのが見つかった。*上海日報 1904年~39年(戦時下で「大陸新報」に吸収)に上海で最も人気のあった邦字新聞3社のひとつ。他の2社は上海日日新聞と上海毎日新聞。*(東京)日日新聞上海支局 虹口に支局があったとしか分からない。 さて、旅行社から電話があり、飛行機の都合で出発が一日延びるという。これにはびっくりし、不安がったり憤慨したりもしたが、中国旅行では結構あるようだ。ホテルに関しても全部中国側の指定で、こちらからは文句が言えない。 私は「南京ロード」LPの曲♪「ふらふらと上海」を聞きながら、旅行鞄を買った。くじ引きで分担を決めた『南京ロード』1・2巻をかかえ、5万円ほどの小遣いとともに、――私は寒い大晦日、ついに上海へと“逃げ出した”。 つづく!
December 31, 2025
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年末年始にぴったりの物語。1943年マルシャーク作、旧ソ連の子どものための戯曲ですが、日本でも毎年この季節に上演されているようです。私は、残念ながら舞台は観ていないのですが、子どものころ岩波文庫で覚えるほど読みました。今でも同じ訳で出ています(左画像、表紙は少し変わりました)。訳者さんがあとがきで述べているように、タイトルは直訳の「十二月」だと弱いので(おまけに1年のうち12月だけかと誤解されそう)、日本語でつけ直し、これが好評だったとのこと。しかし、私は子供心に、「森は生きている」だなんて、自然観察本みたいだな、と思ったのをおぼえています。 今では『十二の月たち』という絵本(右画像)などもあります(作者が違いますが、こちらは脚本でなくて語り直しなのでしょうね)。 ストーリーは、1月から12月までの12人の精霊が大晦日に一堂に会すというスラブ民族の民話をもとに、主人公の「継むすめ」とその対極としての若い女王を描いています。 継むすめ じゃつまり、女王さまも、みなしごなのね? 兵士 みなしご、ということになるな。 継むすめ かわいそうね! 兵士 かわいそういだとも! だれもあのひとに、智恵や分別を教えてあげることはできないんだ。 ――マルシャーク『森は生きている』湯浅芳子訳 貧乏でも、労働と生活の中で智恵や分別を身につけている継むすめと、富と権力があるばかりにわがままで世間知らずな女王。この見事な対比と、「人にものを頼む」ことなどの大切さについては、すでにいろいろ考察があるようです。 私はというと、この物語のキー・アイテムの一つ、「指輪」に注目です。これは継むすめが大晦日に出会った12人のうち四月の精に「記念に」もらった「婚約の指輪」です。婚約の、と訳されていますが、おそらく「約束(エンゲージ)の指輪」という意味でしょうか。 継むすめが困った時は、指輪を地面か水の中か雪のふきだまりかに投げて、決まった言葉を唱えれば、12人の精霊たちが助けに行く、という約束です。その言葉というのが、 ころがれ、ころがれ、指輪よ 春の玄関口へ 夏の軒ばへ 秋のたかどのへ そして、冬のじゅうたんのうえを 新しい年の焚火をさして! ――『森は生きている』 という詩です。 意味の深い詩ですね。円い指輪が、春夏秋冬、一年の季節の巡りを、文字通り「ころがれ=めぐれ」と、言っているのです。つまりこれは魔法の指輪で、円の形は季節の巡りを表しています。 トールキンの『指輪物語』の考察でむかし書いたのですが、サウロンの「一つの指輪」は支配する力を持つ金の指輪です。これをはめると支配する力をふるうことができる。それが原題の示す「The Lord of the Ring」つまり指輪の王(あるじ)です。 『森は生きている』では、ト書きにははっきり書いていませんが、四月の精は継むすめの指にはめてあげたのでしょうね。季節季節に森に来て働き、森の恵み受け尊重してきた継むすめは、今や季節のめぐりの指輪をもらったことで、季節を支配する力つまり12の月の精霊を呼び出す力を授かったのです。 指輪を取り上げてしまった継むすめの義理の姉が、指輪をはめようとしたのに指に入らない、というところからも、常人ではなく継むすめだけに与えられた特権であることがわかります。 しかし、トールキンの描くサウロンの指輪と違うのは、支配力をふるうには指輪をはめるのではなく、指輪を外して地面や水中や雪中(つまりもとの自然界)に返さなければならないのです。そうして詩を唱えれば、指輪はころがり=季節はめぐり、救い手となって現れる。 よく考えると、トールキンの指輪では、指にはめて固定してしまえば、それは束縛という形の支配力を象徴しています(結婚指輪もそんな側面がなきにしもあらずですね)。そして、トールキンの主人公たち(ビルボやフロド)は、そのような魔法の指輪を外して手放すことで、救済されました。 『森は生きている』の継むすめも、女王に指輪を投げ捨てるぞと脅された瀬戸際で、指輪を所有することに固執せず、「投げてください!」と手放します。そして救われるのです。 四月 きみがこれを惜しがらなかったのはよかった。(中略)それをはめていれば、きみは…(中略)…ふるえるような寒さにも、吹雪にも、秋の霧にもあわない。 ――『森は生きている』と、あるように、手放したことで指輪はめぐって再び彼女のもとへ戻り、彼女を季節季節のあるじにしてくれ、祝福をもたらすのです。 トールキンでもこの物語でも、指輪を金銭欲や権力欲の束縛の象徴として使うのではなく、手放してめぐらせること、それは季節のめぐり、時のめぐりとそれのもたらす恵みを理解する、心豊かな賢者になることを意味しています。継むすめも、最後には「女主人」と呼ばれていますが、そう、彼女は「季節のめぐりの指輪のあるじ」、ビルボやフロドと同様、真のThe Lord of the Ringなのです。
December 23, 2025
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4Kリマスター版が期間限定上映!と、友人Nさんから誘われて、先日初めて観ました「サウンド・オブ・ミュージック」。約3時間の大作ですが、圧倒的な山岳美と圧倒的な歌の魅力で、長さを感じません。さすが往年の傑作。 じつは私の母が映画公開当時(1965年)にアメリカで観て、サウンド・トラックLP(画像)まで購入しているのです。ニューヨークの映画館では、ヒロインたちがナチスを逃れてスイスへと山越えする最後の場面で、観客から喝采と激励の叫びが沸き起こり、びっくりしたとか。当時の人気がうかがえます。 私はサウンド・トラックは何度も聞いて歌は知っていましたが、映像とストーリーをようやく堪能することができました。 まず、アルプスの雄大な景色とそのふところにいだかれたザルツブルグの町がすばらしいです。60年も前の映像とは思えませんでした(「4Kリマスターの威力だよ」と友人)。その中で文字通り跳んだりはねたり走り回るヒロインや子どもたちの、のびのびと豊かな様子が、もうまるで異世界です。 そう思ってみると、ザルツブルグという舞台そのものが都会を離れ、巨大なサイズ感でそびえる山を間近にして、異世界のようですし、その中でヒロインのマリアの居る修道院は、俗世と隔絶されてやはり異世界です。そして二重の異世界の中、ハイジのように、山々を愛し一人歌うマリアは、ほとんど人間離れして天然。 このテンネンなヒロインが、絵に描いたような軍人(ツンデレのスパダリ!)のところへ、子どもたちの家庭教師として行く。そして持ち前のピュアなパワーと歌の力で道をきりひらき、恋の苦悩をのりこえて幸せをつかむ。令和でも人気の玉の輿系王道恋愛漫画の、ルーツをみる思いです。 7人の子どもたちもテンネンで、妖精のようです。実母の死後、父の軍隊式教育にもめげず健やかなのは、兄弟が多いおかげでしょう。一人っ子だったら絶対心を病んでいそうですが、彼らは助け合って父に対抗してきました。マリアという味方を得て、とうとう父の頑なな心を癒やすことに成功します。 そこへお定まりのライバル女性登場。ウィーンの富裕な未亡人です。彼女もいい味を出しています。洗練されたファッションと物腰で、決して嫌がらせやえげつない嫌みなんか言いません。それでいてしっかりライバルしています。脇に配された、楽団をプロデュースする叔父さんも素敵なディレッタント(好事家、趣味人)で、最後にはきちんとヒロインたちを助けてくれます。 ナチスや愛国心がからんだストーリーの後半は、当時のオーストリアの史実とは異なるそうですが、それにしても、政治や戦争が人々の心を分断し困難と悲劇を生むという構図は、遠くのこと・過去のこととは思えない一面もありました。 歌に関しては言わずもがなでしたが、一つ一つの歌がそれぞれ違う場面で複数回歌われたり言及されるのが良かったです。たとえば「私のお気にいり」は最初、雷雨の恐怖を忘れるために歌われますが、ナチスから隠れてちぢこまる時に「歌ではどうにもならない時もある」と説明されます。「すべての山を登れ」は、恋の悩みを克服する激励として歌われた後、最後に本当に山越に向かう時に歌われます。 そして、このラスト・シーンで、青空と雪峰の美しさが印象的でした。それまでは、町なかの場面では特に、美しい景色でも背後の空は曇っていることが多かったですが、これはもしかして時代の暗雲を示していたのかもしれません。そしてスイスへ向かう最後の空が青く晴れ渡っているのが、ゆくての希望と自由を表しているように思えました。 エンディングでは、満員の観客から拍手が沸き起こっていました。おお、日本の映画館でも(インド映画鑑賞時は別として?)感動の拍手が。そのことにさらに感動してしまいました。
November 25, 2025
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1985年ごろ、私は買ったばかりのビデオデッキで深夜の映画番組を録画しました。なかみはフランスのSFアニメ。ヤマトとガンダムしか知らなかった私に、不思議な深い印象を与えてくれた「時の支配者(The Timemasters)」です。ただし当時観たのは英語版の日本語字幕でした。 先日、その作品を某配信サービスで見つけ、懐かしさのあまり一気見してしまいました。ルネ・ラルー監督「Les Maîtres du temps」(1982年)。リマスター版が最近できて日本でも上映されていたそう(ただし映像が所々乱れたり、音声がズレたりしています)。 深い独特の色合いでシンプル・シュールに描かれた異星の風景、流れるテクノポップ。それらは、奇妙な夢を見ているような浮遊感を生みます。キャラクターは、欧米のコミックス(フランスだからバンド・デシネですね)風。どこか懐かしいような、斬新なような、幻惑的な雰囲気。 今観ると、SFがまだサブカルであった頃のあの斬新さは、レトロに感じられます。 ストーリーもシンプル(以下ネタバレ)。輸送業者ジャファーの宇宙船に、ペルディド星の友人から救難信号が入る。友人夫妻は死に、1人取り残された幼い息子ピエールが通信機「マイク」を持っている。亡命する王子・王女とお宝を乗せているジャファーは行く先を変更し、救出に向かう。途中でペルディドに詳しい老人シルバードと小妖精2人が加わる。 ジャファーたちはかわるがわるマイクを通じてピエールに話しかけますが、中でもシルバードは幼い少年に歌を聞かせます。 この歌がなぜか私の耳にずっと残っていて、SFらしからぬバンジョーのフォークソングなんですが、昔観た英語版では、サビで「♪Another Robinhood~」などと歌っていたのが、もとのフランス語では大酒飲みの放浪者の歌詞になっていました。お国柄で歌詞も変わるのですねえ。 邪心を起こした王子が出奔し、彼と彼を追うジャファーはガンマ星に不時着。のっぺらぼうの白い天使の姿をした集団につかまります。彼らは炎のような思想体に操られて個性を失っています。この天使のビジュアルも強烈で、あとから読んだミヒャエル・エンデ『鏡の中の鏡』に、彼の父の描いた絵とともに「天使」が出てきた時、私はこの映画の天使が頭から離れませんでした。 天使たちが(英語版では)「ユーニティ(統一)! ユーーニティ!」という叫びの中でジャファーたちを炎に投げ込もうとする儀式の場面には、うすら寒い恐怖を覚えました。が、ここで王子は改心して自ら炎に飛びこみ、統一を拒み憎むという強固な意志によって炎の思想体を打ち破り、自らも果てていきます。 おお、こんなところに「マビノギオン」のエヴニシエン伝説が出てきました! 人間を不死の奴隷に変える大釜に自ら飛びこみ、釜を破壊して果てるクセ強のウェールズ王子のエピソード(以前「オレンジ党」シリーズで出てきました)。 さて、ようやくペルディド星に近づくジャファーたちの宇宙船。ところが突然、時空の歪みに突入して全員失神してしまいます(これも既視感、「クラッシャー・ジョウ」映画版(安彦良和、1983年)で、宇宙船が突入したワープ空間が不意に歪められる場面。この時代の流行だったのかも。そういえばジャファーはクラッシャー的だし、ほかにもスペースオペラの要素がいっぱいです)。そして、時の支配者なるエイリアンに、ペルディド星を植民化するにあたり60年過去に戻したと教えられます。 Wikipediaなどによると、ストーリーのこの部分は原作(なんと1958年の小説)を改変していて、原作では光速によるウラシマ効果によってペルディド星と宇宙船乗組員とに時間のズレが生じるのに対し、映画では時間を操るエイリアンを登場させています。 結局ジャファーたちはピエールを救出できませんでしたが、実はピエールは惑星ごと60年過去に連れ去られ、危ういところを別の宇宙船に救助されていました。そして…、60年後、少年はシルバード老人となったのでした。シルバードはピエール(過去の自分)とマイクを通じて交流したものの、出会うことはなかったのです。タイム・パラドックスは生じませんでした。 昔の私はこの最後のタイムリープに煙に巻かれた気分になり、説明不足だと感じました。今思えばエイリアンは、過去の自分自身と出会ってしまうというタブーを避け、しかもピエールを救うために、過去へ連れ去り、ちょうど間に合う60年前の別の宇宙船に救助させた、のかもしれません。 こうして映画はエイリアンと時間の不思議、宇宙の神秘みたいな感じのシュールな演出で謎めいたまま終わっていきます。ジャファーと王女は結ばれるようだけど。 さまざまな典型的要素を詰めこんだストーリーを前衛的な映像と音楽で表現した、当時のトガった作品に、今となってはノスタルジーを感じるのが、新しい快感です。
October 15, 2025
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注意! 虫ネタです。 ようやく少し涼しくなって、夏の間ジャングルのようになった庭の木を刈り込もうとしたところ、ヒイラギに大きな青虫というかイモムシが何匹もついていました。キレイな緑色に細い毛をまばらに生やし、すごいスピードで這い回り、棘のある葉をむしゃむしゃと食べています。 ヒイラギの葉を食べる虫なんているのかしら、けれどそういえば数年前からヒイラギの葉に時々いかにも食べられたような痕がありましたっけ。 スマホで調べたら、どうやらシマケンモンという蛾の幼虫のようでした。「縞剣紋」と書きます、キレイでスピーディーなイモムシにしてはいかめしい名前。と思ったら、縞模様や剣の模様のあるのは、成虫の蛾で、それはそれはいかめしい、木の幹みたいな保護色の(はっきりいって超地味な)羽を持っているのでした。 シマトネリコの木(こちらの名前は縞ではなく「島」とねりこ)にもつくそうですが、我が家のシマトネリコの幼木は無事でした。南方産のものが、温暖化で北進し、今では西日本で普通に見られるそうです。といっても、成虫の方はそのへんにとまっていても気づかないほど保護色です(成虫を知りたい方は検索してください)。
October 12, 2025
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ディズニーの「アラジン」はアニメ版も実写版も、ペルシャやイスラム圏の景色や装束(と思われるもの)が美しくあふれています。砂漠や回教寺院のような建築物や、精霊(ジン)、絨毯etc…(画像はブルーレイ表紙) 本の「アラビアンナイト(千夜一夜物語)」も、絵本や児童書(やなせたかしのが最近は再注目ですかね)から、岩波のガラン版(ヨーロッパのものでは最古とされる)とディクソン版(右画像)、角川のバートン版など大人向けの訳本までありますが、どれもヨーロッパで流布した物語からの訳です(平凡社の東洋文庫にはアラビア語からの訳本が(何巻も!)あるようですが、私は未読です)。 それらを読むと、「アラジンと魔法のランプ」の話の舞台が「支那=中国」となっていて、まずびっくりします。アラビア世界から見て東方の未知の国として、魔法や不思議な話の舞台とされたのか? しかしそれなら、話に出る「支那」の風俗がまるっきりアラビア風なのは妙ですね。アラビアでアラビア風の国の話を語っても異国の雰囲気は出ないでしょう。 と思ったら、そもそも大もとのアラブの説話集には「アラジン」の話はなかったと解説にあります(「アリババと盗賊」「船乗りシンドバッド」もないそうです)。これにもびっくりです。フランス人ガランが、タイトルの千一夜に足りないので(?)、シリアで現地のキリスト教徒から聞いたお話を付け加えたのだとか。 アラブ世界に住むキリスト教徒からだと、アラビアも中国も異文化という点では同じだったのでしょうか。 少なくとも、中世から近代までのヨーロッパから見れば、そんなもんでしょう。純アラビア風な支那の国が描かれている「アラビアンナイト」は、ヨーロッパ人の憧れる夢のオリエントだったわけです。角川文庫に収録された英語圏の児童書の挿絵には、サルタンの服装や帽子が中国(清朝)風で、日本人からすると文化がごちゃごちゃ、違和感がすごくあります。 一方、悪い魔法使いはマグリブ人(モーロ人とも。北アフリカやスペインのイスラム教徒)で、シリアやヨーロッパのキリスト教徒から見れば西・南方という、対比があるように思われます。 アラジンの話の元になる説話や伝説は他にはないのかしらと思っていましたが、そっくりな話は見つかっていないようです。ただ、手持ちの『子どもに語るアジアの昔話1』(松岡享子訳)収録のアフガニスタンの説話「大工の息子」が少し似ています。 アラジンは仕立屋の息子ですが、こちらは大工の息子で、どちらも貧しい職人の父を亡くし、母は困窮。大工の息子は犬や猫を得たり、願いをかなえるアイテムがランプでなく蛇王の魔法のルビーだったりするところは違いますが、王女の婿になるくだりや、王女がだまされて宝を奪われ、宮殿ごと僻地に追いやられるところは同じです。大工の息子は犬猫の助けを借りて敵を追い払い、王女と宮殿をもとに戻します。 この話ではイスラム的脚色がなく、ランプや指輪の精霊の代わりに動物が助けとなるところが、素朴な感じがします。 イスラム的ということでは、アーヴィングの『アルハンブラ物語』に、スペインで語られる伝説として、「モーロ人の埋めた宝」を紹介し、 [モーロ人が建てた]塔の礎石の下に埋められているイスラム教徒の黄金伝承…[中略]…隠匿された財宝には必ず呪文がかけられていて、魔法や魔よけによって守られている。 ――アーヴィング『アルハンブラ物語』平沼孝之訳などとあります。アラジンのランプが隠されていた穴が、輪のはまった平たい岩の下にあるというのを、思い出します。 おそらく、オリエンタルな情緒で素朴な昔話を肉付けし、アラジンの物語ができたのでしょうねえ。 そしてディズニーがそこへ個性的なキャラクターを肉付けしました。ランプの精や邪悪な魔法使い、ジャスミン姫も(名前も違いますが)、没個性な昔話とは違って、「個人」として生き生きしています。このようにして起源の分からない説話が、各時代独特のいろどりに飾られながら語り継がれていくと考えると、興味がつきません。
September 30, 2025
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何年も前、どこかのレビューに惹かれてタイトル『風の名前』をメモしていた長編を、オンラインで買い求めてみました。ところが画像のように、第1巻の「1」が目立たない位置にあったため、届いた文庫本の薄さにびっくり。5分冊の1巻目でした。 読み始めてやっと本題に入ったところで1冊が終わってしまい、…いや、分冊だと軽いし、お試しできる点は便利なんだけど、次々と買い求めるのが何だかめんどくさいです。 王道をいく異世界ファンタジーで、魔法使いもの。独自の地図あり、暦あり(伐曜日、とかあります)で設定も楽しくこみ入ってます。呪文を唱えるだけの魔法ではなく、「秘術」「共感術」などの理論的?な解説が独特で凝ってるし。伝説の「秘術師」が物語作家に自分の来歴を語る形式なので、枠物語としての面白さもあります。 子供時代の悲劇、魔法学園、謎の女性、竜退治、復讐譚と、ドラマチックな仕立てはてんこもりです。才能+努力+試練+悪知恵=ほとんど完全無欠の主人公。 難を言えば、できすぎ。できすぎの主人公が自伝を語るので、鼻持ちならない感じもします。特に3巻の魔法大学あたりでは、最年少なのに何もかも他人より抜きん出ている主人公、可愛げがない。 魔法学校が舞台で、いけ好かない先生や友人から意地悪されたりしますから、ハリー・ポッターをどうしても思いだします。が、ハリーは有名な生まれのわりには素直で普通の子なので、読者としては憎めなかったのに対し、この物語の主人公クォートはずっとエゲツナイので、良くも悪くもお近づきになりたくないようなタイプ。 と、こんなふうにしっかり個性を描き出された主人公が、どのように生き抜いて伝説の秘術師として成り上がっていくか、物語はまだまだ続きそうです。5冊あったのは第一部で、第二部は7冊あるそうです。そして第三部完結編はまだ作者が執筆中みたいです。いやはや。 面白いんだけど気力がいりそうな大長編、このあと読み進もうかどうしようか迷います。個人的には主人公の弟子のバストくんが気になりますが…第一部だけでは、まだまだ謎がいっぱいです。
August 26, 2025
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さらにつづきです。* * *スカートゼミ(3) どうやらギョロ目姉ちゃんの声らしい。「…ある夏の朝、キャンプに来た子たちが、セミの子供をたくさんとったの。都会の子にはセミがめずらしかったのね。虫かごに入れて部屋においといたのよ。ところが夕方見ると、小さなかごにすきまもないほど、おとなのセミがぎっしりつまっていたの。どのセミも羽や体が曲がったり、ゆがんだりしていたわ。脱皮したのに、せまいので体がうまくのびないまま、かたまってしまったのよ。 みんなはびっくりしてかごをあけた。でもそのセミたち、まっすぐに飛べないの。そして、あかりに目がくらんで、ひとばんじゅう天井でバタバタもがいていた。…朝になると、みんな電灯の上で死んでいたの」 ぼくらは息もできないほどシーンとしてしまった。暗がりが体にしみこむようだ。と、前を行く和也(かずや)が急にくるっとふりむいた。「おい、幼虫をにがせ。今の話、聞いたろ」 和也にしてはめずらしくまじめなその口調に、黒ブチめがねはしぶしぶかごをあけ、「一ぴき、二ひき、三びき」幼虫をとり出して、道ばたの枝にのせた。 けれど、ぼくはまた見てしまった。暗くてわかりにくいけれど、黒ブチめがねのにがしたのは三びきだけだ。最後にとったあの大きな幼虫は、かごのおくに残っている。 ぼくらはようやく暗い森を出た。 次の朝。ぼくは和也の声で目をさました。「おい、まだ一ぴき残ってるじゃないか!」 和也は黒ブチめがねから虫かごをひったくり、ふたを大きく開いた。そのとたん、「あっ」ぼくもふくめて全員びっくりした。中にいるのは茶色いセミの成虫だが、両方の羽の先がまるでスカートのすそのような形にめくれあがっている。かごの底にあたってひん曲がってしまったのだ。“せまいので体がうまくのびないまま、かたまってしまったのよ…”「こいつ、飛べるかな」 さすがの黒ブチめがねも心配そうな声を出して、かごをまどから外へつき出した。「よし、いいか。そら、飛べ」 まぶしい朝日をあびて、スカートゼミの黒い目玉がキラリと光った。と、ジジジ! しゃがれた声とかわいた羽音を残して、スカートゼミは飛んだ。先のめくれた羽で、ぎこちなく木立ちのほうへ飛んでゆく。「やった…よかった。飛べたねえ」ぼくも和也も、ほっとして笑った。 さて、キャンプももう終わりだ。「さすが、セミネ山だったなあ」 山道を下りながら、和也がしんこきゅうして言った。「だってさ、おれ考えたんだけど、ギョロ目姉ちゃんって、セミの女王さまとちがうか」「そういえば、あのギョロっとした目は、セミそっくりだったな」「ばかいうな。ギョロ目はただのかんり人だ」 急に黒ブチめがねがわりこんだ。「でも、けさは見かけなかったよ」「きっとギョロ目姉ちゃんは、スカートゼミといっしょに森へ帰ったんだ」「それに、天井の電灯に黒い影なんて、けさはぜんぜん見えなかったぜ」「さっすがセミの山、セミネ山だなぁ!」 だが、黒ブチめがねはむきになって言った。「ちがう! この地図の漢字を見ろ。セミネ山ってのは蝉(せみ)じゃなくて、瀬峰(せみね)山だ! セミとは関係ないんだってば!」おわり。 ずうっと昔、私がキャンプで体験したことをもとにしてできたお話でした。
July 24, 2025
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きのうのつづきです。* * *スカートゼミ(2) ほら、耳をすませ、目をこらせ。何か小さなものがたくさん出てくる。しめってやわらかな、去年のかれ葉をかきわけて…「何だろう?」 細い木によじのぼる…ゆっくりと…目がさめたばかりのように…ほら、あちこちで。 その時、暗かったあたりの景色が、映画館のようなうすあかりにてらされた。「月だ」 ぼくは上を向いて思わず声を出した。「おい!」 和也(かずや)が息をつめた声でぼくをつついた。「見ろよ…のぼってくるぞ…」 ほんとうだ。ぐっしょりぬれたやぶや低木のあちこちに、ぞろぞろのぼってくる、羽のない茶色の虫がいた。かぎのついた前足でひっかけながら、一歩一歩ゆっくり進む。ひらたい頭に丸い大きな目がとびだした、何十という虫たち。それから、「和也! 白いのが出てくる! 茶色がわれて、白いのが。あっ、黒い目がついてる」ぼくはこうふんしてささやいた。森のあちこちで、白いものが月光にぼーっと光っている。ぼくらは時を忘れてその光景を見つめた。「これは、セミの子供たちよ」 ギョロ目姉ちゃんのしずかな声がした。「六年間も暗い土の中ですごしたあと、こうやって羽のあるすがたに生まれ変わるの。最初はまっ白でやわらかい。だんだんにからだや羽がのびて、そして……」「やっほー、かんたんにつかまえられるぜ!」 黒ブチめがねの大声に、ぼくはハッとわれにかえった。黒ブチめがねは、もう茶色い幼虫を一ぴき、手に持っている。枝からひきはなされた幼虫は、かぎのついた前足でのろのろと空(くう)をかいた。「つかまえよう!」 和也も急にいさましくさけび、さっそくやぶをのぼっている一ぴきに手をのばした。 さあ、それからみんなは一度にざわめきたって、かん声をあげながら幼虫をつかまえ始めた。その間にも、次々とま新しいセミが幼虫のからをやぶって出てくる。 ぼくも手近な幼虫をそっとつかんだ。わりあいかっちりしている。うるさく鳴いたり、ぶかっこうに飛び回ったりするおとなのセミにくらべて、こいつは何て無口でおちつきはらっているんだろう。 黒ブチめがねは、今度は高い枝にじっととまって、今にも皮をぬぎ始めそうな大きな幼虫に手をのばした。「もうつかまえるのは、いいでしょう」 急にまた、ギョロ目姉ちゃんの声がした。「だって、たくさん持ってって観察するんだ」「…もう三びきもとったじゃないの。さあ、そろそろもどるわよ」 そこで、みんなは回れ右をした。また一列になって歩きだす。 その時ぼくは、黒ブチめがねが虫かごのふたをいじっているのに気づいた。「あれ、おまえ、それ…」「しっ、ギョロ目にはないしょだぜ」 黒ブチめがねのやつ、いけないと言われたあの大きな幼虫を、やっぱりあきらめきれずに枝からとって虫かごに入れたのだ。ぼくは何も言わずに和也のあとから歩きだした。 帰り道はずいぶん長く感じられる。月も雲にかくれたのか、またまっ暗になり、背中がゾクゾクした。やがて、森からわきでるような低い声が前方から聞こえてきた。つづく。
July 23, 2025
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夏休みに合いそうな、昔の創作を手直しして電子化しておきます。 1993年8月の公明新聞どうわコーナーに3回にわたって掲載されました。当時は畑アカラさんという方が元気いっぱいな挿絵をつけてくださっていました。* * *スカートゼミ(1) 夏だ。キャンプだ! ぼくは和也(かずや)と「セミネ山自然の家一泊二日」に参加する。いよいよ今日、出発なんだ。おっ、和也のやつ、まっ白な新品の虫とりあみをかついできたな。「セミネ山っていうぐらいだから、セミがたくさんいるぜ、きっと。つかまえるぞぉ」「…和也、虫かごは持ってきた?」「え? わっ、忘れた!」 和也はいつもこんな調子なんだ。 ぼくたちは、キャンプ・リーダーのおじさんを先頭に山道を歩いていたが、前を行く黒ブチめがねの子がふりむいた。「ぼくはかんさつケース持ってきた。貸すよ」見ると、それは銀色の虫かごで、かた側に拡大レンズがはめこんである。「すげー、かっこいい」 感心するうちに、道は上り坂になった。ギラギラまぶしい行く手の山は、ばかでかい深緑のブロッコリーのよう。ジージーとセミの声がやかましい。さすが、セミネ山だ。 川べでお弁当を食べ、また歩いて、ようやくぼくらは「自然の家」に着いた。「なーんだ、ただのふつうの家じゃん」 和也はまっ先にくつをぬいでドカドカ入っていったが、すぐに「わっ、何あれ!?」不安そうな声が聞こえてきた。行ってみると、和也は大きな部屋のまん中で、白目をむいて見上げている。天井にひらたい電灯があって、そこに、木の葉のようなぶきみな影がうじゃうじゃといっぱいうつっているのだ。 黒ブチめがねや、ほかの子たちも次々やって来た。最後に、「自然の家」のかんり人だというギョロ目のお姉さんが来て、みんなの見ているものに気づくと言った。「あれはね、夜にあかりにひかれて集まったセミの死がいよ」 女の子たちがきみわるそうにあとじさった。「ほんとにここはセミネ山だなあ」 和也のつぶやきにも、さっきのいせいはない。 その時、リーダーのおじさんの声がした。「おーい、外でバーベキュー始めるぞ」 みんなはだまってぞろぞろと部屋を出た。 夕食、おかし、キャンプの歌にクイズ大会。それからまだまだ、もりだくさんだ。ぼくらはすっかり元気づき、何でもこいという気分になった。やがてギョロ目姉ちゃんが、「食後の運動! 夜の森たんけんに出発」と号令をかけると、たちまちみんな一列になって、細いまっ暗な山道に入っていった。 さっき夕だちがふったので、森には水がいっぱいだった。太いみきはぬれて黒ずみ、やぶが服にこすれると、ザッと水がかかる。頭上のえだから大つぶの水てきが、ぼくの頭のてっぺんにポタッと落ちて、びっくりさせられる。 前を行くのは、しめった足音をたてる黒ブチめがね。じまんのほ虫あみをかついだ和也は、ぼくの後ろ。もっとあとからは、ささやき声をたてながら女の子たちが続く。 息をすうと、森の空気がぼくのむねの中へ流れこんできた。右も左も、木々と下草のひみつめいた暗がりだ。大きなまっ暗などうくつの中にいるような、ぶきみな感じがだんだん強くなる。もうだれもしゃべらない。声をたてるな、夜の森だぞ! ほら、知らない虫がはい回る気配がする、シダの若葉がひらく音がする、ポタポタしたたる水、ぬれたクモの巣、それから…それから…「あれ、何だろう?」つづく。
July 22, 2025
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宮崎駿の話題作「君たちはどう生きるか」、テレビ放映を観ました。 戦時中、プレ思春期の少年が母を失い、父の再婚相手の家へ疎開し、やがて異界へ――という設定は、「影響を受けた作品」である『失われたものたちの本』と同じですが、そこは宮崎監督のこと、独自の世界を展開しています。 物語の外枠である現実世界は、冒頭の火事のスピード感・炎と影の世界と、疎開先の屋敷の緑あふれ鮮やかで緻密な自然の静けさ、そしてくすんだ色調のシンプルな主人公眞人の部屋、などがすばらしく対照的。また、眞人の周りには、実母の死と叔母でもある継母の妊娠という、生と死の対照もあります。 お城のように広大な屋敷は和洋折衷で、異界を包み隠している塔は古めかしい西洋風。上記の本の続編『失われたものたちの国』に出てくる図書室を彷彿とさせます。 宮崎作品ではよく、西洋趣味が和風なものとうまく共存しています(「トトロ」のサツキたちの家は和洋折衷だし、「千と千尋」の銭婆の家も西洋風でした)が、今度のはいかにも、日本文化の成り立ちを表すかのようです。 欧米と戦争をしているのに、この屋敷内には西洋文化の粋があふれ、出征する兵士がいる横で眞人の父は戦闘機を作って儲けている、そんな対照もあり、矛盾にあふれた世の中が垣間見えます。 さて塔の下に広がる異界ですが、現実世界のリアルさ・バランスのよさとは違って、だいぶちぐはぐな感じがします。一つ一つのイメージは鮮烈ですが、どこか行き当たりばったり。石舞台(ドルメン)の墓所に金ぴかの門があったり、突然漁師のキリコが登場し杖で炎を操ったり。ペリカンやインコも場違いな感じ。 それもそのはず、この異界は、昔行方知れずになった大伯父が長年にわたって創ったものですが、どうも異世界創造は彼の手に余ったようです。海などの風景は美しいものの、彼が持ちこんだ鳥はむやみに増えて統制がとれなくなっています。 キリコが魚を捕り、それを影の人々やワラワラに食べさせ、ペリカンはワラワラを食べ…と、この世界でも自然界のことわりがあるように思えますが、死にゆく老ペリカンの言葉を聞くと、どうもバランスがとれていません。景色も動植物も、多様性が足りない感じ。大伯父が一人で考え出したのだとしたら、それももっともです。現実世界の大自然とか宇宙とかの均衡や精緻さには到底及ばず、だからこの異世界はちぐはぐな感じがするのでしょう。 異界でも、眞人は誕生と死を次々に体験していきます。魚をさばくと血や臓物があふれる生々しさ。一方、東南アジア風の影の人や帆船の列は、死者を思わせます。大伯父が外遊したり書物で読んだりした外国のあれこれでしょうか、それにしても影の人は表情もなく亡者のような外見だし、帆船の列は「紅の豚」のあの世へ向かう戦闘機の列を思わせます。 と思ったらワラワラが昇天して現実世界へ生まれ出るという。ワラワラは、かわいいけどつくりが単純なところや、大量に出発して生命の螺旋を描くのにほとんど食べられてしまうところ、なんだか私には“精子”のように思われました。 その後、眞人は老ペリカンを看取り埋葬しています。異界にも生と死が満ちているのです。 異界での物語の後半になると、大伯父はなんだか宮崎駿監督が描いた自分自身の姿ように思えてきます。「悪意のない石」をかき集めて一生懸命バランスをとろうとしながら異世界を創造してきたが、力尽きようとしている老人。 完璧な世界を創ることは、そんなにも困難で不可能に近く、創った世界は今にも崩壊しそう。それではと身内に後を継いでくれというのが大伯父の計画でしたが、それも眞人に拒まれて、とうとう異世界と大伯父はもろともに倒れ崩れていきます。 でも、バランスがおかしく矛盾だらけなのは本当に異世界だけでしょうか。インコたちはどこか、日本の軍とか政府、いや人類そのものに似ていませんか。自分たちの繁栄のみを願うあまり、世界を壊してしまうというところ… 自分たちの好きな鳥ばかりが殖えすぎ、海には魚がほとんどいないところ… 大きなお墓を作って金ぴかの銘「我を学ぶ者は死す」を取り付けるところ。でもよく考えると、生き物が死ぬのは当たり前ですよね。 眞人はそんなことを感じたでしょうか。それでも、不完全なその世界は大伯父が心血を注いで創り上げてきたものなのです。眞人は大伯父の心も感じたでしょうか。 そして、現実世界への帰還の時、眞人は母の若い姿であるヒミを連れていこうとしますが、彼女はもといた過去に戻ると言います。戻ったら(火事で)死んじゃう!と言う眞人。いえいえ、過去だろうと現在だろうと、現実世界に戻れば人は必ずいつか死ぬ、さっき墓碑銘にあった通りです。死ぬことより、眞人を産む未来が嬉しいと言って過去へ戻ってゆく母。ここにも、生と死があります。 眞人は異世界の相続を拒んだけれど、母やキリコを現実へ呼び戻し、現実世界のバランスをきちんと整えました。彼は体験から学んだことをこれから役立てていくでしょう――ということを、大伯父(宮崎監督)は期待しているようです。そして、次の世代の人たちすべてに、様々な意味で不完全でバランスを失いそうな現実世界で、これからどう生きるか考えてほしい、と訴えているように思えました。 以上、このほかにサギ男とか、深掘りしたくなるキャラもありますが、今回は省略ということで。 ところで! 蛇足ですが、私にはちょっとした発見があって嬉しかったので書き足しておきます;だいぶ前の日記「本の思い出話、幼年編4」に書きました、講談社の世界名作全集、これが、眞人の机に積まれた本の中にあったのです!(左の画像は、私の持っている講談社世界名作全集『ギリシャ神話』の裏表紙と、映画「君たちはどう生きるか」の一場面より。アニメの画面を撮影して載せちゃってごめんなさい!) 眞人が本を一冊ずつ拾うシーンを見て一目でわかりました、幼い頃からの大好きな裏表紙。私の持っている(従兄弟のお古の)本は昭和34年出版なのですが、戦前からこのシリーズはあったようです。
July 3, 2025
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小学2年生の頃からの愛読書、エルショーフの『せむしの小馬』をご紹介。岩波文庫では現在、新訳『イワンとふしぎなこうま』となっていますが、中身の挿絵は旧版と同じです。この挿絵が、古めかしいけれど趣があって、私は大好きです。 そのころ友達もこの本を持っていて、いわく、「おもしろいけど、なんか損な本じゃない? 下半分は真っ白けだから」。当時の私はうまく反論できませんでしたが、そうです、このお話は韻文つまり叙事詩形式なので、一行一行は短くて、どのページも下半分は確かに真っ白。ページ数の割にお話が短いから買って読むには損だ、というわけです。 日本語の訳文もリズミカルで民話らしい語り口調になっているし、語り手の口上や解説もあり、枠物語というか、実際に語り部がお話を語るのを聞いているような臨場感があります。(以下ネタバレ) たとえば、第一章冒頭は「さあさあ、お話はじめよう」とあり、主人公イワンがせむしの小馬と出会って王様に仕えることになるまでをどんどん話し進めます。一章の終わりには、第二章以降のストーリーの概要を示し、まるで次回予告のようです; [前略] ねぼうして羽をなくしたこと、 うまく火の鳥をつかまえたこと、 [中略] 一口で言うならば、 イワンが王さまになった話。 ――エルショーフ『せむしの小馬』網野菊訳 それなのに第二章冒頭には「話だと早くすすむけれど/じっさいは、早くはすすまない。」と、人を食ったような口上があります。しかも、さあイワンの物語の続きだよ、と見せかけて、何ら関係のない「前おき」のお話(別のおとぎ話の最初の部分みたいな)が二つも挿入されています。 中世ロシアの叙事詩(ブイリーナ)の形式に、本筋とは無関係な導入部があるそうですが、おそらく『せむしの小馬』第二章(そして第三章にもある)冒頭の挿話は、ブイリーナの伝統を踏まえているのでしょう。 ちなみに、第二章二つ目の挿話に出てくる「ブヤーンの島」とはそうしたロシアの叙事詩や神話に出てくる伝説の島だそうです。 さて主人公は「イワンのばか」と作中でも呼ばれ、自分でも名乗っている通り、陽気でテンネンな末息子です。けれど、穀物泥棒の夜番をしに行く最初の場面を見ますと、二人の兄は熊手や斧を持っていく割に怖がったり怠けたりしているのに対し、イワンは毛皮の帽子をかぶり、パンをかじりながら夜番をして、見事に雌馬を捕まえます。ばかに見えてもイワンの方が実際的ですね。 イワンはこの後でも、よく寝るし食べるし、せむしの小馬の忠告は聞かないし、子供っぽくて憎めません。小馬もそう思うらしく、窮地に立たされたイワンに、 「なぜ、イワーヌシカ、元気ないの?/どうして、うなだれているのです?」 ――エルショーフ『せむしの小馬』と声をかければ、 イワンは小馬の首にしがみつき、/だいて、せっぷんして言った。 「おお、こまったことになっちゃった! [後略]」 ――エルショーフ『せむしの小馬』と決まり文句で泣きついて、一から十まで助けてもらいます。 けれどいつも困りごとをふっかける王様は、ひがみ屋の家来の中傷をすぐ信じるし、イワンに対しても罵詈雑言で命じたかと思えば、「勇士とよんだ上、「道中ぶじで!」と」言ったり、態度がころころ変わり、まるでわがまま放題の子供のようです。読者には、イワンの受け答えの方がまだまともに思えてきます。 イワンは王様の無理難題にこたえて、月の娘で太陽の妹という海の王女を、王様のもとへ連れて行きます。そして最後にはこのお姫様と結婚して王になるのですが、おとぎ話はふつう、主人公が王女に恋をしてそれで頑張る、そういう話が典型でしょう。なのにイワンはテンネンで子供ですから、 「このひとは、ちっともうつくしくない。 顔色わるいし、やせている。 [中略] ぼくはただでももらいたくない」 ――エルショーフ『せむしの小馬』 王女の母に向かってさえ、王女は「マッチ棒みたいなやせっぽち」、「およめにいくようになれば、ふとるかもしれませんね」などと、遠慮も何もありません。王女の方がイワンを選んで結婚し、王女の頼みで人民がイワンを王と認めるのです。最後までイワンの主体性のなさを貫くところ、作者のひねりがきいているのでしょうか。 そしてまた、物語の最後の語りが、昔から私が好きなところです。イワンと王女の婚礼に、語り手も招かれてお酒をいただいた、と言い、枠物語のしめくくりになっていますが、 だが、ひげつたってながれちゃって、 口には、ちっともはいらなかった。 ――エルショーフ『せむしの小馬』これでおしまいです。聴衆がさいごにどっと笑うのが聞こえるよう、落語みたいな終わり方です。
June 4, 2025
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前回、『レーエンデ物語 月と太陽』で、「古今東西の革命や反乱に共通する怒濤の盛りあがり、それが二転三転してころがるように悲劇になってゆく、そのエッセンス」などと書きましたが、その後、録画してあったミュージカル映画「レ・ミゼラブル」(2012年)を観ましたら、「そう、これだこれ!」と思いましたので、書き留めておきます。 私にとっては、原作は未読だし、映画では敵役ジャベールがロビン・フッド(ラッセル・クロウ)、前半のヒロイン・ファンティーヌが白の女王(アン・ハサウェイ)、後半の重要人物マリウスがニュート(エディ・レッドメイン)なもんで、なかなか物語に入り込めませんでした。 しかしクライマックスの「六月暴動」のバリケード戦になると俄然面白くなりました。ここでは青年革命家たちが夢や理想を描いて暴動を起こし、最初は市民たちも協力するのです。が、ジャベールの潜入と密告により政府軍に追い詰められたとき、市民たちは見て見ぬふりをして彼らを助けませんでした。革命歌で絶望を払いのけ、青年たちは最後まで抵抗して斃れてゆきます。 史実でもこの暴動は鎮圧されますが、その精神は数年後の二月革命、六月蜂起、そしてパリ・コミューンなど市民や労働者たちの闘争へと受け継がれていく感じです。 その、革命家たちの勢いが峠を越えると市民たちが背を向け、あっという間に悲劇へまっしぐらというところが、『レーエンデ物語 月と太陽』と共通しているのです。また、暴動鎮圧の後、市民たちは戻ってきた日常生活の中でひっそりと革命家たちを悼む、そこも同じだと感じました。市民たちは彼らに共感していたのですが、自分たちの生活を守るために彼らを見捨てた…それは仕方ないのです。そして生き延びた市民たちこそが、彼らの夢、活躍、そして悲劇を語り継ぐことになり、そこに希望が生じます。 歴史をひもとくと、たとえばイタリアのカルボナリの革命運動とか、江戸後期の大塩平八郎の乱とか、さきがけとなる運動は弾圧されても何度も息を吹き返し、ついには革命に至るということがよくあります。物語にすれば、未来に希望をつなぐ悲劇、となり、感動を呼ぶのでしょう。
May 21, 2025
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昨年第1巻を読んで、今頃やっと2巻目『月と太陽』です。第1巻に増して、ハイテンポで読者を前へ駆り立てる語り口は簡潔でよどみなく、すばらしいですね。 第1巻の感想で革命じゃなかった、続刊に引き継ぎか?と書きましたが、予想通り第2巻はまるごと革命の嵐です。古今東西の革命や反乱に共通する怒濤の盛りあがり、それが二転三転してころがるように悲劇になってゆく、そのエッセンスをぎゅっと蒸留したような。[以下ネタバレあり] 主人公の一人、高位のお坊ちゃま(後のルーチェ)が自宅の火事と謎の暗殺者から逃れる幕開けがまず、陰謀のニオイに満ちています。貴種流離譚といいましょうか、劇的展開への期待が冒頭から膨らむのです。そして神秘的な森の中で助け出され、僻村へかつぎこまれる場面、 「[前略]…あんたは森で行き倒れてたんだ。すごく弱ってて熱もあったから、ほっとけなくて…[後略]」 ――多崎礼『レーエンデ国物語 月と太陽』 ええと、恥ずかしながら大昔の拙作『海鳴りの石 2巻』の最初もですね、主人公が家族を暗殺され火事から逃れ、神秘的な森の中で助け出されて僻村へかつぎこまれるんですよね; 「あんたはこのちょっと先で行き倒れてた」 ――『海鳴りの石 2巻』 なんか既視感でくらくらしちゃいました。そして彼がもとの身分を封印して暮らすうち荒事に巻き込まれていく、と筋書きもおんなじなんです。こういうストーリーって、読んでいても書いていても文句なしにわくわくしちゃいます。 ただ、こういった物語では、因果応報というか倫理的にと言うか、はじめは大義のためと思いながらだんだん大がかりに殺しを続ける最強の主人公は、どこかで歯車が狂って最後は非業の結末に至るというのが、ある種のパターンのように思えます。『月と太陽』のヒロイン、最強の女戦士テッサもそうです。ごくまともな倫理観を持った悩める乙女でもある彼女を、読者は応援しながら読むのですが、ああやっぱり、悲劇が待ち受けていました。 その悲劇に真っ向から向き合う彼女は、革命の旗印になると決めた以上、失敗に終わっても旗印として磔刑に処され、さながらイエス・キリストのように死んでいきます。けれど私には、たとえ逃げのびても、彼女の始めた動乱で失われた多くの命の重みで、とても生きていけない、というふうにも読めました。生き延びたら、彼女の片割れだったルーチェのように、狂うというか、別人格になってしまったでしょう。 そして伝説・歴史になっていく彼女たちの生きざまが最後に記され、読み手はホッと息をついて主人公たちと同じ視点でのやるせない悲劇から目覚め、ストーリーを俯瞰することができます。 唯一、私的に気になったことをちょっとだけ書いておきますと、バルナバス砦に刻まれていた文句、「レーエンデに自由を」なんですけど、帝国文字だったとあります。それがなぜだか『FREE LEENDE』とわざわざアルファベットにしてあるんですけど、異世界もののハイ・ファンタジーなので、ここでアルファベットが出てくるとちょっと拍子抜けしてしまいませんか。 この物語世界は中世・近世ヨーロッパ世界に似ています。レーエンデがスイスっぽいと前に書きましたが、法王はローマ教皇とか神聖ローマ皇帝の雰囲気があります。でも、れっきとした異世界のはずなので、帝国文字はアルファベットじゃないはずなんです。トールキン風に異世界の歴史を翻訳した物語とするなら、日本語の作品ですから日本語「レーエンデに自由を」で十分だと思うのですけど…。これは本編を貫くスローガンでもあるので、なおさらアルファベットにしないのが良いと、私は思います。どうしても刻んだ文字を描写したければ、帝国文字を創っちゃって欲しかったです。 この第2巻は時代が下ったためか革命のためか、幻想的な場面が少なく、幻影の海や古代魚などの謎は法王の権力の秘密とともに、またもや続巻へ持ち越されました。この点でも読者を駆り立てる、技アリな展開です!
May 4, 2025
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冬鳥が北へ帰る季節。「Nils! Come on Nils! Come on up!」という(ちょっと素っ頓狂な)声とともに、タケカワユキヒデ作のオープニング、 ♪Oh come on up, Nils 旅に出かけよう/準備なんか いらない 春をさがしに 空を行けば/はじめて見るものばかり [以下略]が、耳によみがえります。『ニルスのふしぎな旅』、アニメ(1979年)自体はあまり観ていなかったのですが、それというのも主人公ニルスがとても幼い外見・口調で、お子様番組だからとチャンネルを変えられてしまうのが常(昭和のテレビ事情ですね)だったのです。 で、原作(岩波文庫版、主人公はニールスという表記)を読んで判明したのは、ニルスは14歳、いわば中2の反抗期なのです(左の偕成社版の表紙絵は年相応だと思います)。体も大きいので、いつも猫のしっぽを引っぱるというと猫にとってはひどいイジメでしょうし、飼い牛の耳にハチを入れるなどは、とんでもない悪行です。 きっと彼は、農家の日常生活におさまりきらない、ティーンエイジャーのエネルギーを、もてあましていたのでしょうね。 こういう状態は、父母がしたように「お説教を読ませる」では解決しません。やはり、(現代風にいうと)何かハードな部活にうちこんで集団で合宿などするとよいかも…、と、教育者である作者はちゃんとわかっています。かくして、ニルスは小人にされたうえ、野生のガンの群れとともに旅に出るというハードかつわくわくな“合宿”に出かけることになります。 最初は家に帰りたがったニルスですが、すぐ新生活に慣れ、旅を楽しむようになります。今まで友人も父母も好きになれなかった、というくだりもあってちょっと驚きますが、彼が自分を他人や家族と切り離し、自立しようとしている証拠なのでしょう。 この本は、地理の副読本にと書かれた物語だけあって、ニルスとガンたちの旅程を示したスウェーデンの地図がついているし、構成も考え抜かれた感じです。 旅が始まるとまずは、ニルスが空から俯瞰した南スウェーデンの広々した田園風景がすばらしいです。ニルスも感動のあまり笑っています。日頃のストレスを解消する笑いかもしれません。 それから、彼の放りこまれた野生の小動物たちの世界をリアルに描きます。たとえば、ガンは敵から身を守るため湖の浮氷の上で寝る、それでも夜中には接岸箇所からキツネが襲ってくる、などです。 ニルスはキツネのしっぽを引っ張ってガンを救いますが、おお、猫へのイジメの技がこんなところで役立っています。 第4章グリミンゲ城では、黒ネズミ族と灰色ネズミ族の戦いが出てきます。私は最初読んだときハッとなったのですが、斉藤惇夫『グリックの冒険』で語られる、東京の町の覇権をかけたクマネズミとトブネズミの戦い、あれは、グリミンゲ城のエピソードが下敷きなのでは。灰色ネズミ(ドブネズミ)が外国からの“移民”で、強い生命力で勢力を広げたいきさつが書かれているところも、似ています。『ニルス』の方は黒ネズミ(クマネズミ)視点で語られているのに対し、『グリック』はドブネズミ側から描かれているなど、対比してみるのも面白いです。 また、第6章に出てきた、ガンたちの呼び声「きみはどこだい? ぼくはここだよ!」にも、初読当時の私はうれしがりました。このシンプルな“翻訳”を、動物行動学者のローレンツが「著者セルマ・ラーゲルレーフ女史は、ガンのこの気分感情声の意味を天才的なひらめきでみごとにいいあてた」と書いている(『ソロモンの指環』)のを、私は先に読んでいたからです。 第7章や第12章、第15章では訪れる地方の地理的特色を物語風に紹介したり、第9章や第14章では地方の伝説が一夜の夢、的に語られます。 特に第14章は、海に沈んだ町ヴィネタの物語。バルト海南岸にあったという伝説の中世都市で、今では同名のゲームにもなっているようです。私がこの話が好きなのは、フランスやコーンウォールの、イースの伝説と似通っているからです。 このほか、訪ねた土地に暮らす人とニルスとの交流が描かれる章もあり、ニルスの人間観、人生観が深まっていくのが分かります。いや、ほんとうに内容の豊かな本です! きっと教育者としての経験のほか、多くの知識や入念な調査を土台にしているのだろうと思います。 こんな調子で、岩波文庫は上下巻合わせるとかなり分厚いにもかかわらず、もとの本の前半だけで終わってしまっています。ガンたちの目指すラプランドへはたどり着かないままなのです。ちなみに、ガンの群れのリーダーは「ケブネカイセのアッカ」と呼ばれますが、ケブネカイセはラプランドの高峰だそうです。 ラプランドといえば中世魔女伝説の故郷。どのように描かれているか、いつか完訳版を読んでみたいものです(偕成社などから出ているようです)。
April 2, 2025
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ラトビア発、動物だけがリアルに冒険するセリフのないアニメ、話題作「Flow」を観てきました。リアルな動物アニメ推しな私の、好みにぴったりな作品。 日本のアニメとはタッチが違っていて、油絵のような、木彫のような立体感のある(3Dではない)キャラクターの動物たち。ネコの体温や息づかいがが感じられそうな、あたたかみのある「絵」です。 仕草もリアルにネコで、金色の瞳の変化は表情豊かで。他の動物たちもそれぞれ無表情な中に表情がある。いいですねえ。 背景の緻密でリアルな大自然の映像美――特に、水。水面に映る姿や景色はもちろん、流されるネコの水面すれすれの視点、溺れかけた水中、押し寄せる高潮、雨、嵐など、迫力満点です。 大洪水が、小さなネコの視点で描かれるのですが、ネコは人間のように常に辺りを水平に見わたしたりしませんよね。視点も低いし。だからたとえば、静かに増してくる水は知らないうちに急に足場を奪ってゆきます(ネコですから、初めは濡れるのがほんとに嫌そうです)。 また、疾走してくる大きなシカの群れは、まず音として気づき、至近距離になってから突然視界になだれ入ってくる。高いところへとジャンプして逃げてゆく時も、着地すべき次の高みだけが見えていて、そして予測なしにてっぺんにゆきつくと、いきなり360度の広がりで途方もなく下の広い水面が開けたりする。 前半はネコ目線で水の恐ろしさを味わって、ひゃ~殺人鬼に追われるより怖いかも! とおびえました。 おまけに人間はどこへ行ったのか、寝床には起きたまま毛布が寄せてあるのに、書きかけの絵もそのままに消えうせて、町は水没して、ボートは無人で漂っていて、黙示録というか大破局の気配がして、かなり怖いです。 で、様々ないきさつでボートに乗り合わせた珍妙な取り合わせの小動物たちが、廃墟の町なんかを冒険していくのですが、だんだんに観ている私は、人類滅亡の心配を忘れて、ネコたちのサバイバルにのみ集中して行きました。そう、主人公のネコにすごく入りこむのです。最初は、ネコ好きな芸術家のモデルだったらしい飼いネコの立場で恐れおののいていたのが、だんだんと、本能に従い、動物なりの理解と生存意欲とで旅してゆく、野性味あふれるネコになって行くのです、私も。 そしてネコの周りじゅうにあふれる水。大群で泳ぐ小魚たち(宮崎駿の「崖の上のポニョ」に出てきた、あふれた海を思いだします)や、大波を起こす巨大な古代魚(パンフレットにはクジラとありましたが、ただのクジラではない感じ)の、なんとパワフルで豊かなこと。 さらに、ハリケーンに巻きこまれて空の高みへ吸い上げられていく水(水上トルネードというやつでしょうか)、その上昇気流に乗って空を舞うネコ。旅の道連れの凜としたヘビクイワシは、天高く昇って行ってしまう。 パンフレットの解説にもありましたが、水平方向だけでなく上にも下にも水界があり、上昇したり下降したり、そのたびに景色が変わり世界が変わります。鉛直方向の移動は、以前にも取りあげましたが、既存の階層を一気に突破することで、そのダイナミズムが恐ろしくも爽快、未知との遭遇です。 そんな大世界のただ中で、たくましくなったネコと仲間たちの生きる旅はまだまだ続きそう。 観終わったあと、思わずネコのやっていたように、四つ足でのびをしてしまいたくなる、野性のパワーをもらえそうな作品でした。
March 19, 2025
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ほぼ全編寒くて、ペールトーンで幻想的な異世界を描くアニメ「大雪海のカイナ」。この季節に見ると(よけい寒さを感じるけど)いいんじゃない? と思います。 2023年にTV版を観て、続編映画はアマプラで先日観ました。 最初からアニメで創られたお話らしく、コミック版は登場人物の表情が乏しい感じであんまり良くなかった。アニメは主人公カイナとヒロインのリリハが、単純に私好みの顔というか表情というか(昭和的ともいう?)。 舞台・背景の方も、凝った設定のSFコミックスを描く弐瓶勉が原作なのでじっくり見たかったのですが、映画部分(後半)はコミカライズされてない。 で、その背景世界の第一印象は、ナウシカ&ラピュタ的世界です。文明衰退後の厳しい自然の中で、過去の遺物や言い伝えを頼りに生き抜く話なので、どうしてもそう見えちゃう。もちろん細部は異なり、極寒で昼でも薄明。泡みたいな白い小球でできたいちめんの「雪海」、そこに立つ世界樹的な巨木「軌道樹」、上空を覆う「天膜」、舞台設定はこの三つだけ。このうち巨木は、中山星香『フィアリーブルーの伝説』とか、オールディズ『地球の長い午後』とかにこういった設定があったなあと思い出します。人間が小さくて無力で、巨木や巨大昆虫が圧倒的迫力で、みたいな。 TV版では、初めて天膜に来るリリハ、初めて雪海に行くカイナ、途中旅する巨木の幹、というふうに、三つの舞台設定が紹介される感じで、ビジュアルも凝っていて楽しかったです。昆虫や海洋生物(「大雪馬」というのが超キュート)などにも、独特の雰囲気があります。 クライマックスには旧世界の怪物ロボット(ラピュタのロボットとか巨神兵みたいな)を操る悪者相手の戦争沙汰があり、これも普通に面白いです。ただ、この世界の成り立ちや危機(水源である軌道樹が枯れていく)に多くの謎を秘めたままTV版が終わったので、続編の映画版に期待しました。 ところが、映画版でも登場人物たちのストーリーは分かりやすくまとまっていたのですが、肝心の世界設定が説明不足というか、だいぶ力わざな感じで、うーん、いろいろと疑問が湧いてしまいました(以下ネタバレ含む)。 まず、伝説の「賢者」が水源すなわち命の糧として軌道樹を創ったのだから、大事にすべきだ、というのが主人公たちの信条。これに対して独裁者ビョウザンは、「賢者の記録を読んだら軌道樹を切り倒せとあった」と言って怪物ロボットを使って軌道樹の親玉「大軌道樹」の破壊を試みる。 この時点で思ったのが、ヒロインのリリハを始め多くが過去の文明を賢者って崇めてるけど、過去文明はなにか過ちを犯して滅んじゃって、あげくにこんな極寒の環境になったり水が涸れたりしてんじゃないの? ということ(冒頭にそんな解説があった)。賢者を盲信していいのかなあ。 もう一人のヒロイン亡国の女戦士アメロテは、現在の状況から、軌道樹を無くするのが正しいかもしれない、と言っています。けれど現在の世界しか知らない登場人物たちが、その世界の文字通り根幹である軌道樹を破壊することは、心情的にも無理でしょう。無理を通すには、ビョウザンのようにパラノイア的カリスマ性で皆を強引に引っ張るしかないのかも。ただしビョウザンは選民主義の妄想狂で、ムスカみたいで、いつ「人がゴミのようだ」と笑っても不自然でない感じだったけど。 このように考えると、このお話自体が、記録や歴史の継承・その正しい読み解きの大切さを説いているのかな?という気もしてきます。 ともあれ、主人公カイナは幸い文字が読めたので(一般人は文盲なのです!)、滅びた文明装置の記録・制御室へ入り、装置を読解することができました。この場所が弐瓶勉の真骨頂だろうと思ったのですが、いやまず、そこへ入るのに暗証キーがあるけど暗証番号がすぐ横の壁に手書きで書いてある、っていうのがダサすぎです。 なぜ書いてあったのか、たとえば部屋を閉ざした過去の人々が、きっと衰退した子孫たちは文字も読めなくなってるだろうと予測して壁に書きなぐっておいたのでしょうか? そのいきさつが分からないと、この場面はつまんないですよね、謎解きの一つもなく暗証番号が分かってしまうなんて。 部屋の中は、とってもハイセンスな情報装置が独特の雰囲気を醸し出していてステキ。なんですけど、あっという間に映像が流れていくので、映画を観る方も静止画面にして、東亜工業(弐瓶勉のトレードマーク的な)の文字を読み取らねば、この世界全体の設定である、惑星改造、地球化計画などはわかりがたいのです。 その後のいくつかの場面でも、細部の文字を読み取って、私にもようやく分かってきたのは、賢者=惑星改造者ではないかもしれない、ということ。実は天膜・軌道樹・雪海などは、惑星改造者がテラフォーミングを自動設定して創った人工環境なので(ああナウシカ世界だなあ)、そのままいけば時至れば自動的に軌道樹は切り離されて一大変動が起こり豊かな土地や水や光が惑星に満ちるはずだったのでしょう(それにしてももう少しゆるやかな変動にしないといろいろ悪影響がありそうですね。最後の場面、軌道樹を衛星軌道に打ち上げちゃったりして、宇宙に破片がいっぱいでしたけど)。 ところがこの自動的な計画に途中で故障が起こったらしく、支障、修復などの文字が見えます。修復はされたものの、その後は自動装置のタイムテーブルがうまく進まなくなったようで、次の命令待ち(と書いてあります)の状態だったよう。 そこで、キノコのような精霊「ヒカリ」の登場です。賢者の使いだというんですが、この精霊が人の心を読んで、思いやりのある人物2人にある言葉を言わせることで、惑星化計画の最後の一大変動へのゴーサインとする、と設定し直したようなのです。 TV版の頃から出てきたこの精霊、SF的設定にあまりそぐわない気がしてましたが、たぶん最初の計画が破綻したあと修復した人(それが「賢者」かな)の、AIかなんかだと理解すると、SF的に落ち着きますね。清い心の持ち主にしか見えないなどと、仕組みが今ひとつ理解不能ですが…、ファンタジーならいいんですが、この話は設定がSFだと思うので、なにか理屈が欲しい感じ。 結局、カイナとリリハは2人で声を合わせて精霊に惑星化計画完了、と言うことで、世界を救い、新たな世を導きます。うーん、「バルス」ですねこの場面。肝心なところでラピュタを思い出させちゃうって、やはりもう一ひねり足りないのではないかしら。 などと、あれこれツッコミつつ、これは「シドニアの騎士」または「人形の国」なんかと時系列でつながるのかなあ、とちょっと空想が広がります(よく知らないけど!)。
February 19, 2025
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昨秋のある日、スーパーのレジ横で売られていた雑誌に、目が吸い寄せられました。「ドリトル先生航海記」ロフティングと大書してあるのです。生物学者の福岡伸一教授が自身の原点としてドリトル先生へのリスペクトを吐露している本(というかNHKの講座番組)でした。 「フェアネスとは何か/人間も動物も植物も――決して「命を分けない」誠実さ」という副題がついていました。 おお、これこそ私の幼い頃から敬愛するドリトル先生への、真っ当な評価というもの! 私が常々感じていたことズバリそのもの! と、興奮のあまりその日は買いそびれ、ようやく入手して読んだ時はNHKEテレ「100分de名著」の該当する放送はとっくに終わっていました。 でもいいんです、テキストを読めば…、ドリトル先生に憧れて生物学者になった人、本当に居るんですねえ。そして、物語の舞台を訪ねて英国の港町ブリストルで川岸に座った人、居るんですねえ(実は、もう一人のドリトル先生愛あふれる先達、こちらは文学者の南條竹則が聖地探訪を試みたくだりが『ドリトル先生の世界』という解説書にあり、この本に福岡伸一の名前もちゃんとあります)。 というのも、私は幼い頃、トミー・スタビンズのようにドリトル先生と出会ってハクブツ学者になれればと本気で願っていたのです。そのうちイギリスの地図でパドルビーや物語に出てくる地名を探すようになりました。ロンドン旅行に行った時には、雀のチープサイドの住処「聖ポール寺院のエドモンド聖者さま(の左耳)」を見に行ったものです(見えなかったけど)。 このNHK講座では先生の職業「博物学者」(naturalist)について、博物学者の著者ならではの解説が随所にあります; 自然のかそけき声に耳を傾け、目を凝らし、そこに無上の喜びを感じて…[中略]…探求しているのは人間にとっての有用性ではなく、自然そのものの素晴らしさ。 自然や生命を「分解」したり「分析」したりはしません。彼は自然をありのまま、全体として捉えようとする。 [動物蒐集家のように]死を網羅するのではなく、生の物語に耳を傾ける本当の生物学者 ロゴス[論理]とピュシス[自然]のあいだを行ったり来たりしながら、生命の豊かさにリスペクトを示し… ――NHK100分de名著「ロフティング ドリトル先生航海記」福岡伸一 私はこんなにも的確に理解はしていませんでした――さすが理系、ロゴスも極めた語り口です。 私が高校で進路を考えたとき、博物学を学べる所というのが見つかりませんので、生物学を勉強しようとしましたら、もれなく数学や物理化学もついてきて、数字の苦手な私は入り口で挫折してしまいました。 この講座にはその他にも、「自然(ピュシス)は隠れることを好む」という(ヘクラレイトスの)博物学的名言が、ドリトル先生にも当てはまる、というくだりなど、はっとさせられる指摘もありました。ドリトル先生の存在自体がピュシスなのですね(もはやうっとり)。 私の方は大学になり卒論にドリトル先生シリーズを書きたいと言ったところ、担当教官に一蹴された悲しい記憶があります。差別表現があり評価されていない、とのこと。私としてはそのあたりや、ドリトル先生(=ロフティング)の社会改革的思想について、学びたかったのですが、初心者は手を出さぬがよい、という感じでした。ちょうど「ちびくろサンボ」が差別表現で絶版になったりした頃でした。 それ以来、腰が引けてしまってひそかに「立場や価値観が違う相手ともわかり合える人」ドリトル先生を賞賛する(HPへリンクします)にとどまっていた私です。ところが、最近になって、この講座のようにドリトル先生シリーズを評価する声が結構あるのに気づきました。時代の変化に嬉しい気持ちです。この講座テキストはほんとに簡潔で分かりやすいですが、もっとたっぷり重箱の隅までドリトル先生愛を共感したい気持ちにさせられました。
January 26, 2025
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↑震災後1ヶ月の風景、実家(芦屋市三条町)のルーフテラスより。 テレビやネットで震災30年の報道を見て、私も当時の写真を久しぶりに出してみたので、覚え書きです; 私は5~10歳を神戸市東灘区、10~15歳を西宮市、15歳から結婚までを芦屋市で過ごしました。阪神大震災(と地元で当時言いました淡路の方ごめんなさい)が起こったのは結婚後1年余り、私は大阪府T市に居て明け方飛び起きました。T市でも被害が出ましたが、うちは無事でした。 テレビで最初、「奈良で仏像が壊れました」「京都の文化財のお寺でも少し被害が…」と言うばかりなので、特に心配しませんでした。 何時間後か、テレビにヘリコプターからの、阪神高速倒壊の映像が映りました。「ぼんち」という文字が付近のビルに見えます。見慣れた広告。「え。うちの実家はこの真北の山腹だよ」 その時まだ神戸からは何の情報も入っていなかったのです。「便りが無いのは良い便り」ということわざとは真逆の状況です。今でも、各地の災害の報道を見るたびにこのことを思い出します。情報がまだ来ない所に、もっとひどい災害が発生しているかもしれない、ということ。 携帯はまだなく、電話は通じませんでした。公衆電話ならかかるかも、と昼じゅう近所の公衆電話あちこちから、かけまくりました。今思うと愚かで、迷惑なことでした。反省その1。 午後になって両親の安否を確かめずにはおられず、夫とタクシーに乗りこみ実家を目指しました。柱がヒビ割れた高速道路の下を進み、どっと逃げ出す人々の車の流れに逆らい、段差ができて大渋滞の甲武橋をガッタンと渡り、ガスの匂いのする関学周辺を抜け、きな臭い地帯を迂回して芦屋市に入りました。危険なドライブを敢行してくれたタクシードライバーさんに感謝ですが、ほんとに無謀で迷惑でした。反省その2。 カーラジオから戦慄する状況の報道が絶え間なく流れていました。暗くなり、赤い月が昇りました。↑実家近くの駐車場。 高台にある実家のマンションは無事でした。停電なのでドアをドンドン叩き、出てきた両親に一緒に避難をと勧めましたが、両親はすっかりハイになっていて、家に残ると言いました。前日のお風呂の水が貯めてあってトイレも流せるし食料もあると言うのです。眼下で、街の数カ所から火と煙があがっていました。 私は持ってきた一万円札数枚を渡しただけで、またタクシーで引き返しました。そう、被災した両親に何を持って行けばよいのか見当がつかなかったのです。お金なんか何の役にも立たないことに後から気づきました。反省その3。 実家では4日後に電気が復旧し、両親は「戦中戦後はこんなだった」と奇妙なほど元気に給水車に通い、電気鍋で料理をしておりました。1か月経たない2月15日に私は実家付近や東灘区の母校である小学校(校舎は壊れるも、運動場が避難所になっていた)の写真を撮りました。 ←実家付近の断層上の道路。 →三条町と西山町の境あたり ↓左右ともJR芦屋駅北側付近。左写真のビルは1階がつぶれ手前に傾いている。 災害時の行動はほんとうに難しいものです。 すべての被災者の方々に平穏が訪れますように。日本でも世界でも、追悼すべき災害や戦乱がたくさんあります。↑震災後1ヶ月、ブルーシートの街
January 17, 2025
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ジョン・コナリー作『失われたものたちの本』は私の苦手な血みどろダークだったのに、なぜか懲りずに続編『失われたものたちの国』(タイトル似すぎ!)も読んでしまいました。相変わらず物理的に痛くてグロい場面が多いのですが、読者はぐんぐん引っぱられていく感じ…書き手の力量が半端ないのでしょうね。 今回は舞台が現代に設定され、主人公もシングルマザーのセレス(32歳)。彼女は最愛の娘を突然失う(正確には失ってはいませんが、小学生の娘は交通事故で昏睡状態に陥っています)という精神的危機にあり、母を失った前作の主人公デイヴィッドと少し共通点があります。そして彼女も異界へトリップし木こりに助けられます。 ただその後の展開は前作よりかなり複雑になっています(以下ネタバレあり)。善玉と悪玉の単純な対決ではなく、敵が複数で利害関係がややこしく、それも「絶対悪」とは言い切れないキャラクターばかりなのです。例えば、ペール・レディ・デスというラスボスが出てきますが、自然の摂理にのっとった死神ですから、「悪」というのとはちょっと違います。 再登場の「ねじくれ男」も、そう、前作でデイヴィッドに滅ぼされてますので、魂というか残滓だけの存在ですが、最終盤に全ての物語=人生の書物をおさめた図書館を披露するあたり、あれ、何だか前作とはちょっと違う立ち位置のようにも思えます。 ところで、どうも私の悪癖で、すべてをトールキンの『指輪物語』と比べてしまうのですが、ねじくれ男が亡霊となってなお悪を企むところ、なんだかサウロンを思い出しました。そしてドライアド(樹木の精霊)の最後の一人カーリオは、境遇はエントを思わせますが、主人公セレスを襲い、つけ回したり、彼女と奇妙な絆でつながり、最後に自爆テロ的にねじくれ男を滅ぼす所はゴクリ(ゴラム)を思い出させるのでした。 ちなみにカーリオも一人称の代わりに「我々はカーリオだ」と言うので、最初これもゴクリ的だなと思いました。読み進むと、意味合いがだいぶ違うのが分かります;カーリオは個人というより種族全員の記憶を意識していて、最後の一人である彼には孤独とともに、種族全体の滅亡の痛苦が重く宿っているので、複数形なのです。悪役とはいえなかなか複雑で印象的なキャラクターです。 さらにフェイという種族が出てきます。いわゆる妖精で、可愛い系ではなく、美しいが恐ろしい、異形で異質の自然霊たち。人間と敵対していますが、彼らには彼らなりの生き方と価値観があり、何より環境破壊を行う人間が許せない。 その人間側の悪玉は冷徹な権力主義者ボルヴェインですが、彼は贅沢をするでなく権力に酔うでもなく、誰も信じず、妻子を殺した人狼を憎むばかりで、何のために独裁者を目指しているのか?と言いたくなるような、むなしい人物に思えました。 こうしてみると、複雑な利害・敵対・だまし合い関係はどうも現実世界の縮図のようでもあります。滅びゆく自然、むなしい権力闘争、消えゆく古い叡智。そんな混乱の中で、主人公セレスは自分の道を追求していかねばなりません。 作者は親という立場を経験したあとこの続編を書いたそうですが、なるほどジェンダーの問題や子どもを思う親の一途な心が繰り返し出てきます。セレスの旅の目的は(現実世界に帰るというほかに)、さらわれた(他人の)赤ちゃんを奪還することなのです。 しかし西欧でなくニッポンのおばさんである私には、作者ちょっと頑張りすぎな感じもしました。前作は素直に自分の少年時代のあれこれを描いていたのが、今回は主人公を若い現代のシングル・マザーにしたので、その主人公セレスは過敏なほど男性社会を憎み、ことあるごとに男性というものに反発し失望しながら探索行を続けるのが特徴的になっています。 そして、なぜだか私には分かりませんでしたが、異界では彼女は思春期の肉体に戻っていて精神は大人のまま、という設定です。 「…二倍も歳を取ってからまた十六歳になるなんて嫌でたまらないのよ。思春期なんて、一回だけでもううんざり」…[中略]男の子に――そして女の子にも――気に入られるために可愛くて、スリムでいなくてはいけないプレッシャーもそうですし、世界に自分の居場所を確保していたいだけなのに、どうしても逃れられないあのストレス… …まるで自分の身体組織が混乱して自分に反乱を起こし、己の肉体に言うことを聞かせることもできなくなってしまったようなあの感じ。[中略]ホラー小説に夢中になったのも不思議ではありません。残忍であればあるほどのめりこんだのです。 ―――ジョン・コナリー『失われたものたちの国』田内志文訳 と、すごい鬱屈を吐露するセレスですが、どれも私自身の思春期の思い出には当てはまらないのです。他人に気に入られたい、自分の居場所を確保したい、などは思春期に限らずだと思うし、身体変化に翻弄されるというなら、思春期のあとも妊娠、出産(セレスはまだですが、更年期も!)など女性は男性に比べて大きな変化を続けるのです。 おまけにこの鬱屈は物語が進み状況がそれどころではなくなるにつれて、いつの間にか語られなくなりそれっきりな感じです。どこに落とし所があるのか、何のためにセレスは16歳に戻ったのか、それで何を得たのか、私にはよく分かりませんでした。 ともあれ、古くからの女性の叡智や自然との共存意識が滅びていくさまを悲しみ憤りつつ、物語は緊迫して進み、セレスは生への活力と愛情を取り戻して帰還します。物語を語り、人生をつむぎ、最後に奇蹟が…訪れたようです。
January 13, 2025
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