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2010.05.15
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歎異抄の続きである(これは、野間宏さんの本から引用している)

今日は第十四章である。

本文は以下のごとし、

  第十四章

一、 一念 (いちねん)に八十億劫(はちじゅうおくこう)の重罪を滅すと信ずべしといふこと。

この条は、 十悪五逆 (じゅうあくごぎゃく)の罪人、日ごろ念仏をまふさずして、

命終(みょうじゅ)のときはじめて善知識(ぜんちしき)のをしへに、



の重罪を滅して往生すといへり。

これは十悪五逆の 軽重 (きょうじゅう)をしらせんがために、

一念十念(いちねんじゅうねん)といへるが滅罪の利益(りやく)なり。

いまだわれらが信ずるところにおよばず。

そのゆへは、弥陀(みだ)の光明にてらされまひらするゆへに、

一念発起 (いちねんほっき)するとき金剛(こんごう)の信心をたまはりぬれば、

すでに 定聚 (じょうじゅ)のくらゐにおさめしめたまひて、

命終(みょうじゅ)すればもろもろの煩悩悪障(あくしょう)を転じて

無性忍 (むしょうにん)をさとらしめたまふなり。

悲願 ましまさずば、かゝるあさましき罪人、

いかでか生死(しょうじ)を解脱(げだつ)すべきとおもひて、一生のあひだまふすところの念仏は、

みなことごとく如来大悲(にょらいだいひ)の恩を報じ徳を謝すとおもふべきなり。

念仏まふさんごとにつみをほろぼさんと信ぜんは、

すでに われと

もししからば、一生のあひだおもひとおもふこと、みな生死のきづなにあらざることなければ、

いのちつきんまで 念仏退転 (ねんぶつたいてん)せずして往生すべし。

たゞし 業報 (ごうほう)かぎりあることなれば、いかなる 不思議 のことにもあひ、

また 病悩苦痛 (びょうのうくつう)をせめて 正念 (しょうねん)に住(じゅう)せずしてをはらん。

念仏まふすことかたし。そのあひだのつみをばいかゞして滅すべきや。

つみきえざれば往生はかなふべからざるか。

摂取不捨(せっしゅふしゃ)の願をたのみたてまつらば、

いかなる不思議ありて罪業(ざいごう)をおかし、念仏まふさずしてをはるとも、

すみやかに往生をとぐべし。

また念仏のまふされんも、たゞいまさとりをひらかんずる期(ご)のちかづくにしたがひても、

いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそさふらはめ。

つみを滅せんとおもはんは自力のこゝろにして、

臨終正念(りんじゅうしょうねん)といのるひとの本意なれば、

他力(たりき)の信心なきにてさふらふなり。

訳文は次のようである。

一、いちど念仏をとなえれば、

ただちに八十億劫もの長い長いあいだ苦しまなければならない重罪も消えてしまうと信じるがよいということについて。

これは、十悪・五逆という罪を犯した人、しかも、ふだんは念仏をとなえたこともない人が、

いよいよ息をひきとろうとするときになってはじめて、この道のえらい師匠の導きを頼み、

一回念仏をとなえれば八十億劫のあいだ苦しまなければならない罪が消え、

十回念仏をとなえればその十倍の八百億劫のあいだ苦しまなければならない重罪も消えて往生することができる、というのである。

つまりこれは、十悪・五逆という罪がどんなに重いものかをわからせるために、

一回の念仏あるいは十回の念仏がそれほどの罪をも消し去るという、

念仏のありがたいはたらきを説いているのです。

が、その説は、まだわれわれの信じるところとなっていない。

というのは、弥陀の光明に照(てら)していただくおかげで、

いちど念仏をとなえようと思いたったときには、

ただちに、金剛のような尊くてしかも固い信心をお授けになるのであって、

そこでは、すでにわれわれを、まちがいなく往生できるものとしての位置に御決定なさり、

いのちが終れば、今までのあらゆる煩悩や悪からくる障害をとりのぞき、

生死の迷いをぬけだした真実の世界に入らせてくださるのです。

だから、もしもこの弥陀の慈悲による本願がおありにならなければ、

このようなあさましく罪ぶかいわれわれは、どうしてこの煩悩からぬけだすことができようかと、

ありがたく思い、また、一生のあいだずっととなえ続ける念仏は、

すべてみな弥陀如来のこの大慈悲の恩にむくい、

その徳に感謝するためのものだと思わなければならないのです。

念仏をとなえるたびに、この自分の犯した罪を消してしまおうと思いながらするのは、

それこそ全く自分の力で自分の罪をぬぐいさって往生しょうと努力することである。

もしそうならば、人間一生のあいだにあれこれ思い考えることはすべて、

煩悩に結びついている綱でないものはないのだから、

往生のためには、息がたえるまで念仏をとなえとおさなければならないことになる。

だが、宿業によって支配されている現在であってみれば、

この自分の現在および将来を心の思いどおりに操縦することなどできることではない。

だから、このさきも、どんなにか思いもよらない事件に出会うだろうし、

あるいは病苦に痛めつけられ悩まされて、正気をうしなった状態で死にはてることもあるだろう。

そんなときには念仏をとなえることはできない。

そういう場合の罪は、ではいったい、どうやって消し去れというのか。

罪が消えなければ往生はできないというのか。

あらゆるものが等しく救われて捨て去られるもののないようにという弥陀の誓願を信じ、

それにすべてを御依頼申しあげるなら、思いもよらないことでどんな罪を犯そうと、

また、念仏をとなえないで死のうとも、往生はすぐさま実現できるはずのものだ。

また、さいわいに臨終(りんじゅう)に際して念仏がとなえられる場合も、

まさに往生し、仏になろうとするときが近づけば、いっそう弥陀によりすがり、

その御恩におむくい申しあげるということでなくてはなりません。

念仏して罪を消そうと思うのは、自力にたよる心であって、

臨終に際しても心をみださず往生できるようにとねがう人のほんとうの気持でもあるので、

そこには他力をどこまでも信頼する心がないのであります。

注釈は次のように書かれていた。

1 一念に…信ずべし  この一文と同意のものは、もと、『観無量寿経』(「下品下生」の部)にある。一念は一回の念仏。

2 十悪五逆  十悪は、殺生(せっしょう:生物を殺す)・偸盗(ちゅうとう:ぬすむ)・邪淫(じゃいん:姦淫(かんいん)する)・妄語(もうご:うそを言う)・両舌(りょうぜつ:二枚舌を使い、両者を離間し争わせる)・悪口(あっこう:ののしる)・綺語(きご:ことばを飾り立ててもてあそぶ)・貪欲(どんよく:むさぼる)・瞋恚(しんい:憎み怒る)・邪見(じゃけん:まちがった考えにふける)など十種の悪行。
五逆は、殺父(せっぷ)・殺母(せつぼ)・殺阿羅漢(さつあらかん:立派な僧を殺す)・破和合僧(はわごうそう:(教団の和合一致を破壊分裂させる)・出仏身血(しゅつぶつしんけつ:仏の身体を損傷して出血させる)など五種の逆罪。逆はそむくこと。

3 軽重  重さ。(軽と重の意ではない。「多少とも」の多少が少の、「一旦緩急の時」の緩急が急の意であるのと同例)。

4 一念発起  一度の念仏をとなえれば、往生は可能であるという信仰に入るとき。ここの考えは第一章冒頭に照応するものであり、一念は本章はじめの「一念」を受ける。

5 金剛の信心  他力の信心の何ものにも侵されない堅固さとその尊さを金剛石にたとえる。

6 定聚  正定聚の略。かならず往生できることの決定した人々。

7 無生忍  無生法忍の略。絶対無(自力の邪見がまったく加わらない)の生(存在)をそのままに認知して不変不動の心を得ること。忍は認と同じ。

8 悲願  慈悲の願。慈悲とは弥陀が悩み多い衆生の苦を除き、楽を与えようとする深い思いやりの心。

9 われと  自分からこうこうしようとして、の意。 

10 退転  怠けてあともどりすること。

11 業報かぎりあることなれば  過去のありかたが原因となって現在の行為を結果させることは決定的なことだから。

12 不思議のこと  予期しないできごと。

13 正念  不動の信心。

この章では、私にとってはなかなか理解しがたい矛盾のようなものを感じるのである。
親鸞の意をていした、歎異抄の作者は、親鸞に帰れと言うことを言ってるのだそうだが、親鸞の教えは、法然の教え通り「専修念仏」と言うことであり、ただただ、「南無阿弥陀仏」との念仏を唱えることによってのみ衆生されると解かれてきたわけである。

この章では、一念(1回の念仏)が八十億劫の重罪を消し、十回念ずればその10倍、千回念ずればその1000倍の罪科をも滅罪出来ると言うことのようであるが、このような考えは間違っているというのである。

「劫」というのは、仏教などインド哲学の用語で、極めて長い宇宙論的な時間の単位であり、因みに、SI単位系で表すと、1.36×1017秒 つまり、1劫 = 43億2000万年と言うことになるのだそうだ。
従って、80億劫は0.35×10^20=0.35垓と言う数字になる。

その又10倍、1000倍も念仏を唱えれば、如何なる重罪も滅せられるという考えは、必ずしも当たらなく、そう言った考えは、自らが、念仏の回数によって、罪科を逃れようとする意図があり、それはとりもなおさず、他力に頼る意図から生ずるものだというのである。

戦場で念仏する間も無く死んだり、山道で強盗に遭って殺されたりする場合などは、これもまた念仏する暇はなく、そういった人は救われないのかということになってしまう。でもそう言う人をも救おうとするのが、親鸞の教えであるというのだから、念仏を唱えよ、即ち救われるという言葉と相反することになるのではないかという疑問が起こるわけである。

一念発起ということは念仏を唱えて仏にすがろうとした気持ちになった時のことを指すように思われる。そう言う気持ちこそが大切であって、念仏の回数でどうこうなるというものではないと解釈するのだがどうだろうか。

しかしながら、十悪五逆の輩も全くの善良市民も死んでしまえば、皆同じ扱いというのは、どうにも間尺が合わないような気がするのだ。第三章における定義の「悪人」と言うことなら十分理解も出来共感も出来るのだが・・・。






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Last updated  2010.05.16 07:55:38
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