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2010.09.04
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カテゴリ: カテゴリ未分類
日経新聞に連載されている「私の履歴書」シリーズで野球監督の広岡の履歴書が掲載された。(敬称は省く)
とびとびに読んでいる「私の履歴書」だが、余り野球が好きでない私は、スポーツ選手や芸能人には余り興味がなく読み飛ばしていたが、折角書かれているのだからと今回は読んでみた。

そもそも「私の履歴書」なるシリーズは、1936年にスタートし、第1回目は政治家の「鈴木茂三郎」であったという。この「私の履歴書」執筆にはいろいろルールがあるらしいが、とにかく各界の著名人が、出生から今日に至るまでの半生を描く自伝である。

大概は自分の成果を語るのであるからまあ、自慢話のようなものになる。最近の執筆は、一仕事を終えて、現役を退いた人が書くようになってきているわけで、正に履歴書ということなのである。

子供の頃から始まり、成績はあまり良くなかったとか、良くできた子であったとかを述べ、両親のことにも触れ、そして、各界で活躍し何を成したかを語っていくのである。

この「私の履歴書」に執筆を依頼されると言うことは、各界の著名人というだけあって、成功者しか取り扱っていない。ここに執筆依頼されるということは、成功者であることの裏打ちのようなものである。野球関係では、7~8人目の登場と言うことになるのだろうか。

広岡は私とは1まわり以上違う78歳になっている。私などは、巨人―大鵬―卵焼きの程度にしか野球のことは知らなかったが、広岡は、守備範囲の広い巨人軍の遊撃手であることぐらいしか覚えていない。
冒頭、人生のテーマの一つということで「屈辱を受けても、自分はその人より正しい人間であるという信念を持って、見返すべく努力、勉強していく」と書かれていた。

何のことかと読み進む内に段々と謎が解けていった。川上哲治に対して、かなりな仕打ちを受けたことを、今ではわだかまりはないといいながら縷々書きつづっているのである。そのことから逆に私などは「打撃の神様」と言われた川上の人間性を垣間見る事になった。


文面から見る限りは広岡という人は、なかなか理詰めの人であるだけに少し冷徹な面を感じる。従って、川上に対してもその衰えのまま評価したのかも知れないが、当時の縦社会の常識を越えるような軽口を叩いたと書いている。

私などは、学生時代は、3つも年上だと雲の上の人の感じであったが、長じると、その位の差は、余り問題ではなくなる。しかし根本には、尊敬の気持ちは持っているものである。
広岡がその気持ちを無くしたわけではないだろうが、試合で、広岡の送球が1塁の川上のグラブの上をかすめて通った時に、試合後の取材で、「あのくらいのボールが取れないファーストが居たら野球なんか出来るか」とやってしまったらしい。

自分が全盛なら、12歳年上の川上は衰えているに決まっているのだが、同一視してしまったわけだ。先輩の平井に「相手の取りやすいボールを投げるのもプロの技術」と教えられたという。
そんなことが有ってか、川上の広岡に対する仕打ちはかなり常軌を逸した陰湿なものになっていったようである。

川上は、人のことは余り頓着せず、他人のバットを勝手に使い折っても、金で返す式で素っ気ないという。水原から監督を引き継いだ、川上は、球団首脳に「嫌だから外すでは、いい指導者になれない」と言われたのか、広岡に「俺も現役時代はわがままでいい加減なことをやっていたと思う。それを水に流して俺に協力してくれ」と内野の守備コーチを依頼してきたという。

後に長嶋が入団してくるが、長嶋は4つ下の天衣無縫の男である。広岡がバッターの時、3塁走者の長嶋はホームスチールを敢行してアウトになった。どうやら川上は、広岡に告げずに長嶋に口頭でホームスチールを指示したらしい。広岡が打てなかったからと後に川上の息子が書いた本にあったというが、これで、広岡は切れてしまったという。嫌がらせではなかったというが、それならバッターにも告げて、スチールをしやすいようにするのが道理ではないかというのだ。

そんなことで、途中から球場を蹴って帰ったと言うことだが、後に藤田に、「どっちが良くも悪くも、試合途中に帰るのは良くない」と諭されたようだ。

そんなことがあって、現役を退いて、指導者としての研修にアメリカのドジャースキャンプに行った時、何と、巨人から、広岡をドジャースタウンに入れるなという通知が来ていたのだという。もちろん川上の差し金だが、この時こそ情けなく「ここで勉強して川上哲治さんを越える野球を必ず身につける」と心に誓ったそうだ。

広岡にとって、川上は、反骨バネのエネルギーになっていたのかも知れない。
広島時代を終えた広岡は、帰郷して川上に巨人時代の非礼をわびに行った時「巨人で持てあましている選手が居たら、私に任せてもらえませんか」と頼んだところ、「私の一存では決められない」と1週間待たされ結局断られたとも書いている。



スタミナづくりに肉は欠かせないといった時代に、肉食ばかりでは血液を参加させ、疲労を招き怪我を誘発させやすいと玄米や雑穀類を取り入れ、「肉を食わないヤギさんチーム」と揶揄されたとも書いている。

西武の監督になって、念願の巨人軍と日本シリーズで対戦し日本一になった時、川上を訪ねチャンピオンになった報告をした時も、「負けりゃよかったのに、お前達はこれから何時でも勝てる。藤田(元司)に勝たせてやれば良かったのに・・・」という返事が返ってきたというのだ。
藤田は、広岡より学年で2つ上だけである。さほど違いはないと思うのだが、そんな返事だったそうだ。

あくまでも川上の広岡に対する気持ちは変わらなかったと言うことであろう。
広岡もその時「巨人の監督が、藤田でなくて川上だったらもっと良かった」と書いている。



広岡は一般受けするタイプの人間ではない。プロ野球で、それが良いか悪いかは分からないが、自力で、何事も獲得したという点では賞賛に値すると思っている。好き嫌いとその結果とはまた別問題である。

これは何もプロ野球に限ったことではないが、プロ野球の場合は、一般企業にいるよりも、捨てる神があっても拾う神があるという点では実力さえあればチャンスは多いとも感じた。
一般企業では、上司が馬鹿だと、部下はどうしようもないくらい惨めである。





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Last updated  2010.09.09 05:51:56
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