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2012.11.26
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【本文】
 大臣の大饗(だいきゃう)は、さるべき所を申し請けて行ふ、常の事なり。宇治左大臣殿は、東三条殿にて行はる。内裏にてありけるを、申されけるによりて、他所へ行幸ありけり。させる事の寄せなけれども、女院(にゃういん)の御所など借り申す、故実(こしつ)なりとぞ。

【訳文】
 新任の大臣が催す大饗の宴会は、その大臣が適当な所をお願い申して借りて催すのが、普通のことである。宇治の左大臣殿は、東三条殿でお催しになっている。この東三条殿は、その当時、内裏であったのを、宇治の左左大臣がお願い申し上げなさったので、天皇は他の場所へ行幸になった。これというほどの縁故はなくても、女院の御殿などをお借り申し上げるのが、古来からの慣例であるということである。

【注釈】
・宇治の左大臣:藤原頼長
・東三条:代々摂関家の首長の領地
・女院:天皇の御母・内親王などへの尊称


第百五十七段
【本文】
筆を取れば物書かれ、楽器を取れば音(ね)を立てんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤打(だう)たん事を思ふ。心は、必ず、事に触れて来(きた)る。仮にも、不善の戯れをなすべからず。
 あからさまに聖教の一句を見れば、何となく、前後の文も見ゆ。卒爾(そつじ)にして多年の非を改むる事もあり。仮に、今、この文を披(ひろ)げざらましかば、この事を知らんや。これ即ち、触るゝ所の益なり。心更に起らずとも、仏前にありて、数珠を取り、経を取らば、怠(おこた)るうちにも善業自ら修(しゅ)せられ、散乱の心ながらも縄床(じょうしゃう)に座せば、覚えずして禅定成るべし。
 事(じ)・理(り)もとより二つならず。外相(げさう)もし背かざれば、内証必ず熟す。強ひて不信を言ふべからず。仰ぎてこれを尊むべし。

【訳文】
 人間は、筆を手に取ると、自然に何か書くようになり、楽器を手にすると、音を響かせようと思う。盃を手に持つと、酒のことを思い浮かべ、賽を手にとると、賭事をして遊びたいと思うものである。このように、人の心持ちは、きっと、何かの事実に接して生ずるのである。だから、少しでも、よくない遊びをしてはならないのである。
 かりそめにでも、仏典の一句を目にとめると、何ということなく、その前後の本文も目に入る。そのことで、思いがけず、長い間の考え違いを改めることもあるのだ。かりに、いま、この経文をひろげて見ないならば、この考え違いのあったことを知るであろうか。これが、即ち、物事に接するということの利益なのである。信仰の気持ちがちっとも起きなくとも、仏前にいて、数珠を手にし、経文を手にするならば、いいかげんにしている間にも、善果を得るはずの所行が自然と実践でき、散漫で乱れた気持ちであっても、縄床(じょうしょう)において坐禅すれば、知らず知らずのうちに、禅定が実現するであろう。
 人間においては、現象とその本体たる真理とは、元来、二つのものでなく、一体のものである。だから、外部に現われた行為が正しい法に反しなければ、内心の悟りは必ずでき上ってくるのである。したがって、仏前の形式的な所行につき、無理に不信仰を言い立ててはならない。かえってそうした所行をうやまって尊重しなくてはならない。

【注釈】
・卒爾:たちまち、ふと、思いかけずに

・散乱:放散、乱動の意
・縄床:縄で作った椅子
・禅定:精神を統一し、純化して雑念・煩悩を離れ内観によって真理を思惟し徹見する事

第百五十八段
【本文】


【訳文】
「自分の飲んだ盃を人にさし出す時に、盃の底に少し残ったたまりを捨てることは、どういうことと承知しているか」と、ある方がお尋ねになった時に、「それを『凝当(ぎょうとう)』と申しておりますのは、盃の底にたまっている酒を捨てるということでございましょうか」と申し上げましたところ、「そうではない。それは『魚道』のことだ。盃の底にたまった酒のしずくを残しておいて、自分の口のついた所を洗い清めることをいうのだ」とおっしゃった。

【注釈】
・凝当:盃の底
・魚道:魚の群れがいつも通る道

第百五十九段
【本文】
 「みな結びと言ふは、糸を結び重ねたるが、蜷(みな)といふ貝に似たれば言ふ」と、或やんごとなき人仰せられき。「にな」といふは誤なり。

【訳文】
「みな結びという結び方は、糸を組んで結んで、重ねて長くした形が、蜷という貝に似ているので、そういうのだ」と、ある高貴なお方がおっしゃった。「みな」といわずに、「にな」というのは、まちがいである。

【注釈】
・蜷:巻き貝

第百六十段
【本文】
門に額懸(か)くるを「打つ」と言ふはよからぬにや。勘解由小路二品禅門は、「額懸くる」とのたまひき。「見物の桟敷打つ」もよからぬにや「平張打つ」などは、常の事なり。「桟敷構ふる」など言ふベし。「護摩焚く」と言ふもわろし。「修する」・「護摩する」など言ふなり。「行法も、法の字を清(す)みて言ふ、わろし。濁りて言ふ」と、清閑寺僧正仰せられき。常に言ふ事に、かゝる事のみ多し。

【訳文】
門に額を懸けることを「打つ」と言うのはよくないであろうか。勘解由小路の二品(にほん)禅門は、「額懸くる」とおっしゃった。「見物の桟敷打つ」もよくないのであろうか。「平張打つ」などと言うのは、普通に言うことである。「桟敷構ふる」などと言うのがよい。「護摩焚く」と言うのも、よくない。「護摩を修する」 「護摩する」などと言うものである。「行法ということばも、法の字をホウと濁らないで言うのは、よくない。ボウと濁って言うのだ」と、清閑寺僧正がおっしゃった。ふだん口にしていることに、このよ
うな、よくない言い方をすることが特に多いものだ。

【注釈】
・護摩焚く:護摩は火中に供物を投げ入れて供養することで、焚くは重複する
・行法:教法・理法・行法・果法の一つ
・清閑寺僧正:兼好の友人





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Last updated  2012.11.27 10:47:42 コメント(7) | コメントを書く


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