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2020.08.14
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カテゴリ: カテゴリ未分類
今日のウォーキングは第1742日目で8253歩だった。
買物で、高槻阪急からコーナン、コープへと回った。どうしようもないくらい暑い。
高圧ホースで、ブロック塀を清掃したが、思うようには綺麗にならなかった。又、思いの外時間が掛かる。

夕食は久しぶりに太郎君一家が来訪して共にした。孫が高校受験と中学進学で大変だ。野球の出来る学校に進みたいようだ。

***

戦艦大和の事が書かれていた。今更という感もあるが、終戦記念日が近いとのことで、特集されるのであろう。戦争の惨禍を語り継がねばならない一方、戦争に向けて当時の日本の政府がどのように考えていたのかを知る事にも繋がるとの思いで読んでみた。

私の父親も、戦艦大和の一部(多分速射砲)の設計に携わっていたこともあり、すこし思い入れが強いものがある。

今回は、「戦艦大和の建造は、時代遅れの間違いだった」という人が間違えていることと言う標題で、大艦巨砲主義がナンセンスと言われ続けたことに対する擁護論のようだ。

大和ミュージアムの戸高館長と現代史家大木との対談形式で書かれている。

呉の海軍工廠で、1941年12月16日に就役した。

この大和が無用の長物だったと云う事がよく言われるが、その批判は当たらないとするものだ。
大和ミュージアムにはスケール10分の1の模型がある。義兄も自衛隊員であったので、家には100分の1の模型があったことを思い出す。

対談のままに、語られる内容を記述していくと、昭和初期、飛行機がだんだん重要性を増してきたものの、日本にはパイロットの絶対数が不足していた。そこで、「予科練」の制度を創設した。予科練には、適性のある若者を募って、将来は士官的な扱いをするとの思惑だった。

最初は高等小学校卒程度、現代の中学生ぐらいの練習生を募ったが、人材が集まらなく、一般教養を省いて、すぐにパイロット教育をしたいという理由から、年齢を引き上げ、現代でいうと高卒レベルの人材を募集した。

その練習生に付けられた名前が、中学校卒の練習生には「甲」、高等小学校卒には「乙」、水兵出身者には「丙」、という、成績順のような名前だったのだ。こうした区別は、階級社会では不可避のことのようで、その名前(優劣をそのまま付した名前)による軋轢は多数発生した。兵士としてははるかに先輩の乙飛(乙種飛行予科練習生)は、若い甲飛(甲種飛行予科練習生)の常に下に書かれるなどの問題だ。この問題はたかが名前では済まされない重大事であった。

この制度が、学問の中にも影響して、海軍の中に変なわだかまりを醸成したようだ。
こうした呼び名のせいで、全員がもっと力を発揮できたことを阻害していたというのだ。

更に、募集の仕方が、将校育成とあったので、甲飛は海軍兵学校に相当すると思われ、生徒も自分は将校生徒だと思っていたのだ。ところが、いざ学校に行ってみると、士官になれるわけではないため、「騙された」と感じたとのことだ。

「これが本当の海軍ダマシ(「海軍魂」と掛けた言葉)だ」と言われたとのことだ。こんな話は初めて聞く。なんだか、之では敗戦止む無しという気になってくる。

海軍は特に時間に厳しいと言う事も書かれていた。その点では異論は無く、何処でもそうだろうと思うものの、海外に出れば、日本人は規律が正しいという言われる根がこうしたところにあるのかも知れないと感じた。



然し世界の動向は飛行機に向かい、よってお金のかかるほうにだんだんシフトしていったといえる。それが日本の財政、国防を危うくした原因の1つだとも言われる。

飛行機が全盛に向かう中、戦艦「大和」「武蔵」をつくったのは間違いだったとよく話題になるが、「大和」を起工した昭和19年はまだ、飛行機と戦艦のいずれが主であるかは判然としていなかった。また、米国は戦中に8隻も戦艦を建造したし、イギリスは戦後も戦艦を建造していることなどから、建造の方向は間違ってはいなかったようだ。

しかし、飛行機のほうが重要であることが明白になる中、巨艦をどう使いこなすかという点で、どうやら良い案が無かったようだ。航空機の時代に適応した使い方が出来なかったと云う事だ。
日本は、「武蔵」を建造した時点から航空機に切り替えたので、むしろシフトが早かったとのことだ。

こうした話も、あまり聞いたことがなかった。



そこで、予科練教育だが、日本の対戦争思想では、短期決戦で、初期に全勢力を投入し、そのまま終戦までと言う考えがあって、教育というものに重きを置かず、優秀な教官も総て即前線投入としていたのだ。

それまでの戦争はそれで良かったのだが、第一次大戦後は、まさに国家総力戦となり、生産しつつ且つ、教育しつつ戦うスタイルになってきたのだ。之に日本はなかなか馴染まなかったとのことだ。

そんな例の1つに、真珠湾攻撃から帰ったベテランパイロットは、そのまま前線で消耗するに任せ、後方の人材教育はおざなりとなって仕舞ったというのだ。之では優秀なパイロット(士官)が育つ道理がない。

アメリカ空母部隊撃滅を目的としたミッドウェイ海戦では、やっと、かなりのベテランパイロットを教官に回したのだが、そのことで、「前線航空隊の術力を低下させるとはなんたることか」というクレームがあったとのことだ。確かにちぐはぐなのかも知れない。

対談では、それをしないと後続のパイロットが教育できなかったとしている。こうなってくると、もはや戦争の帰結は明白であったろう。こうした、教育軽視、何でも実践主義のやり方が、日本を破滅させたのだと云えそうだ。そして、あろう事か特攻隊の編制に至るのだ。
愚かしいし、時の参謀、日本の為政者の愚行を思わざるを得ない。

こうして、戦後になって民間航空で教官になった人もいるようだ。今はフライトシミュレーターという武器があるので、パイロット育成もすこしはやりやすいのかも知れない。
戦争終盤に、最後まで現場で飛ばされた人もいたらしい。真珠湾にも行き、戦争が終わる頃も第一線で使われていたとのことだ。もしかすると上官受けが悪かったのかもしれないとのことだが、もはや何をか況やの気分だ。

大和の撃沈される様子を撮った写真はよく見たが、海上で、自由に行動が出来ない巨艦が、ヤブ蚊のような米軍機に集中攻撃を受けて轟沈してしまった。見え透いたような戦争の経過と帰結を誰も止めることが出来なかったのかと思う。





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Last updated  2020.08.15 08:48:39
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