ゆうさんの日記

PR

×

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

chai_dhi

chai_dhi

Calendar

Favorite Blog

まだ登録されていません

Comments

コメントに書き込みはありません。

Freepage List

2026.05.28
XML
「久しぶりだな、明美」
暖簾をくぐって入ってきた元夫――鉄雄の、低く冷徹な声が狭い売り場に響いた。
三年の月日が流れても、その傲慢な佇まいは少しも変わっていない。大企業の役員としての威圧感を全身から放つ男の隣で、小さな女の子が私の真っ白な割烹着を、じっと見つめている。
「……鉄雄、さん。どうして……」
震える声でそれだけを絞り出すのが精一杯だった。私の視線は、鉄雄の隣で緊張したように佇む女の子――樹里に釘付けになっていた。
背中には、私の妄想よりも少し落ち着いた、上品な深い赤色のランドセル。あんなに小さかったあの子が、本当に小学一年生になっている。私の胸の奥から、狂おしいほどの愛おしさが一気にせり上がってきた。
私の動揺を見透かしたように、鉄雄はフッと皮肉な笑みを浮かべ、淡々と口を開いた。
「別に、お前の城を奪いに来たわけじゃない。三年前、君のような女に養育は無理だと言ったが、私は冷血漢ではないつもりだ。樹里が小学校に入って、物事の分別がつくようになったら、いずれお前に会わせるつもりでいた」
「会わせる……つもり……?」

鉄雄は腕時計に目を落とし、事務的なトーンで続けた。
「急遽、会社の命令でしばらく海外の支社へ赴任しなければならなくなった。期間は数年、あるいはそれ以上だ。向こうでの生活が落ち着くまで、樹里を連れて行くわけにもいかない。だから、次にいつ日本に戻って、お前に会わせられるか分からなくなった。……だから、今のうちに連れてきた」
鉄雄の言葉が、私の頭の中で激しくリフレインする。海外。数年。いつ会えるか分からない。
つまり、この機会を逃せば、私はまた何年も、あるいは何十年も、我が子を抱きしめることすら叶わなくなるということか。
「それで、だ」
鉄雄は冷たい目で私をまっすぐに見つめ、信じられない言葉を口にした。
「私はこれから、渡航の最終準備と役員会での引き継ぎで、どうしても今夜は手が離せない。……明美、今晩、樹里を泊めてくれないか。明日の朝、私が迎えに来るまでだ」
「え……っ?」
あまりにも突然の要求に、私の頭は真っ白になった。
この三年、一瞬たりとも忘れたことのなかった最愛の娘が、今、目の前にいる。そして、今夜、二人きりで過ごせるという。
戸惑う私を余所に、鉄雄は樹里の肩を優しく叩いた。

鉄雄に促され、樹里は小さな一歩を踏み出した。そして、私を見上げると、まだ少し幼さの残る、でもどこか寂しげな声で、ポツリと言った。
「お弁当屋さんの……おばちゃん、お邪魔します」
おばちゃん――。
その言葉が胸にチクリと刺さったけれど、そんな痛みはどうでもよかった。鉄雄は私に樹里の小さな手提げカバンを押し付けると、踵を返して高級車へと戻っていった。
ブォォォンと静かなエンジン音が遠ざかっていく。

「……樹里。よく、来てくれたね」
私は割烹着のポケットの中で、震える手をぎゅっと握りしめた。あの子は、私が母親だとはまだ気づいていない。だけど、奇跡のように訪れたこの一晩。私はお弁当屋の女将として、そして一人の母親として、あの子に何をしてあげられるだろうか。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2026.05.28 19:51:46
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: