ゆうさんの日記

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2026.05.31
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カテゴリ: まこととかおり
その日は、数ヶ月に一度の「家族全員が揃うはずの日曜日」だった。
薫は史華との同棲の準備で出払い、香織も紗季との「女子会」へ出かけてアパートにはいない。狭い2DKのリビングには、夜勤明けの父・誠(46)と、午前中のパートを終えた母・真琴(42)の二人だけが残されていた。
「……真琴、ちょっといいか」
誠は緊張で強張った顔をほぐし、ダイニングテーブルの向こう側に座る真琴に向き合った。その手には、色褪せた古い通帳と、旅行会社のパンフレットがしっかりと握られている。
「なんだい、改まって」
真琴はスマホの画面から目を離さず、気のない返事をした。画面の向こうでは、例の保育園の保護者である男から『今夜、いつもの場所で待ってる』とメッセージが届いていた。
「これ……見てくれ」
誠がテーブルの上に差し出したのは、最近テレビやSNSで大流行している「台湾旅行」のパンフレットだった。色鮮やかな小籠包や、ランタンが夜空に舞う幻想的な九份(きゅうふん)の景色が並んでいる。
「台湾? 何これ」

誠の目は、少年のように輝いていた。
「実はな、夜勤の手当てを少しずつ貯めてたんだ。へそくりってやつだな。やっと二人分の旅費が貯まったんだよ。同じ『まこと』同士、今まで苦労かけたお礼に、お前を贅沢させてやりたくて」
不器用な誠が、何年も汗水垂らして、自分の小遣いを削りに削って作った、文字通り「命の結晶」のようなお金。誠は、真琴が驚き、喜び、あの頃のような笑顔を見せてくれるのを確信していた。
しかし。
「は? 台湾?……正気?」
真琴の口から出たのは、冷や水のような一言だった。彼女はスマホを置くと、心底信じられないといった風に眉をひそめた。
「ちょっと待ってよ。そんな自由に使えるお金があったわけ? だったらさ、旅行なんか行くより、先に買うべきものがあるでしょ。うちの洗濯機、もう十年以上使ってて、最近脱水のたびにガタガタ凄い音がしてるじゃない。そんな無駄遣いする余裕があるなら、新しい洗濯機でも買いなさいよ!」
「え……? いや、でも、これはお前と旅行に行くために……」
「私、海外旅行なんて興味ないから。言葉も通じないし、お腹壊しそうだし。大体、二泊三日も家を空けられるわけないじゃない(――そんなことをしたら、彼と会う時間がなくなってしまう)」
真琴にとって、誠との旅行など苦痛以外の何物でもなかった。真面目で退屈な夫と、四六時中顔を突き合わせて異国の街を歩くなんて真っ平ご免だ。何より、男との密会スケジュールが狂ってしまう。
「でも、真琴……」

真琴は吐き捨てるように言うと、自分の部屋へと引きこもってしまった。バタン、と薄いドアが閉まる音が、狭いアパートに冷たく響いた。
ダイニングテーブルに一人取り残された誠は、差し出したままのパンフレットを、ゆっくりと引っ込めた。
通帳に並ぶ数字を見る。夜のガソリンスタンドで、クソ真面目に頭を下げ、泥にまみれ、眠気と戦いながら、ただ「妻の笑顔が見たい」という一心だけで積み上げてきた時間。それが、一瞬にして「無駄遣い」と切り捨てられた。
誠は、泣き言を言う男ではなかった。怒鳴り散らす甲斐性もなかった。
翌週、小田切家の脱衣所には、ピカピカに輝く最新型の洗濯機が設置された。

真琴は嬉々として新しい洗濯機を回していた。誠のへそくりは、すべてこの白い機械へと姿を変えた。真琴にとって、それは夫を言いくるめて手に入れた「便利な家電」でしかなく、誠の魂が削られたものだということには、最後まで気づきもしなかった。
その日からだった。
誠の身体から、「生気」がぱったりと消え失せてしまったのは。
元々口数の少ない男だったが、それ以上に、表情という表情が顔から抜け落ちてしまった。
朝、夜勤から帰ってきても、ただ黙って食卓に座り、味のしないような顔でご飯を口に運ぶ。真琴が「今日の保育園でね」と話しかけても、誠は「ああ」とか「ん」としか答えない。
かつては、仕事へ行く前に「行ってくる」と家族に声をかけていたが、それすらすらなくなった。夜の20時になると、ロボットのように黙って作業着に着替え、何も言わずに玄関を開けて出ていく。
まるで、心をどこかに置き忘れてきてしまったかのように。
ただ息をして、ただ働き、ただ毎日を消化するだけの、灰色のマシーンのようになってしまった誠。
薫が史華との新しい未来へ向けて巣立とうとし、香織が紗季との甘い夜に溺れていく中、この家族の土台を支え続けてきた「真面目な父」の心は、誰にも気づかれないまま、静かに壊れてしまっていた。





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Last updated  2026.05.31 04:45:14
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