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2025/01/29/水曜日/よく乾く春めいて12/30 松江市◼️出雲口伝を中心に出雲国造祖先は出雲口伝では、徐福の斥候として 一足先に出雲王家に入り込んだホヒ、タケヒナドリ親子ともされている。 何としても倭国に遠祖のユダヤ王国を造りたい徐福の命を受けて、出雲王国指導者の大名持ヤチホコ王と8代少名彦コトシロヌシ二人をホヒらは罠にかけ枯死させた。 二人の指導者が同時に亡くなるということは、 出雲王家始まっていらいの大事件だった。和名をホアカリと名乗る徐福には、宗像三姉妹の高貴な血筋を引くヤチホコ王の娘、高照姫を嫁がせ、既に五十猛イソタケという息子もいたのである。出雲王家からすれば身内。高照姫は伴侶に父王を殺され、怒りのあまり幼子を邸に残し実家に戻ってしまった。 ホヒらが捕まえられたことを知ったホアカリは息子を残し、船で秦に逃げ帰ったという。これを知った人びとはホアカリを鬼のような人と言い合い、彼が住んだ村を鬼村と呼んだという。 ごく一般的な日本人の心情とは馴染まない事件は最近では数々あるが、これはそのハシリ?勝つ奴が絶対、みたいなモンゴル関取の相撲には、美学が感じられないみたいな心情。とは言っても、そんなDNAも現在の私たち日本人を構成しているし、その後半島から大挙渡来したヒボコ集団もまた血肉の一部には確実にあるのだろう。日本人ってなんだろう。さて、口伝によれば、高照姫は姪に当たる大家姫に五十猛イソタケの世話を頼んだ。大家姫はクナトノ神のサイノカミ信仰を彼に伝えたというから、五十猛は出雲の神々を奉斎したことになる。 彼はやがて大年彦と名乗り、周辺に住むハタ族海童もその信仰に従うようになる。しかし彼らハタ族は出雲の人から嫌われ、大年彦はみなを引き連れ丹波国に移住した。 指導者となった大年彦は香語山と名を改め、大家姫を妃に迎え、二人は徐福が大陸から携えた樹木の種、竹や梅を植えたという。彼らの息子タカクラジは後の移住先で更に植林して木の国となした。これが紀伊国の初めだそうだ。 口伝からは紀伊半島の熊野神社に先立って、この熊野大社があったというようにもとれる。そしてなんと3度目、徐福は渡来する。この執念!資本を提供する秦の始皇帝も一体どうした訳か。3度目に上陸したのは北九州である。彼は筑紫では饒速日ニギハヤヒと名乗った。京都にいるときゃ忍と名乗ったのー神戸じゃ渚♬どうやってやんごとなき姉妹に取りいったか。イネと漢字と構造船と道教と武力か。ニギハヤヒは宗像三姉妹の市杵島姫を妃にした。これが事実なら謀略家としての徐福の奸智の恐ろしさよ。そんな権謀術数とは無縁で生きて来た縄文人的日本人が気の毒すぎる。二人の娘、穂屋姫を后に迎えたのが、なんとなんと丹波のカゴヤマ即ち五十猛だなのだ。 この母親違いの兄弟夫婦の息子がヤマト政権初代王の村雲だという。しかし彼はあくまで出雲王家だ。徐福の血を引く二つの氏。 カゴヤマはアマベ氏、筑紫ではモノノベ氏 となっていく。アマベが母系的なのに対してモノノベは父系的な印象出雲連合政権は二世紀半ば最初のモノノベ東征を受け何とか押し返すもヤマトは不安定化する。おそらく卑弥呼に比定されるモモソ姫の平和統治後、第二次モノノベ東征で出雲王国は閉じられた。長いパクス出雲王国時代が終焉し、倭国は乱れた。まさにその500年後に、出雲国造の国譲りが中央集権国家によって為された。奪ったものは奪われるものとなった。 その史実を記紀は巧みに神話に置き換えた。 当時の、今いまの世を古代に重ねるようにして。ところで徐福は中国で発掘が進み、偉人扱いの博物館が観光名所になっているらしい。彼は後進国日本に稲作を伝え、薬術をもたらし、構造船の技術を伝え、山を緑にして貧しい日本人を豊かにした、というサクセスストーリー。そんな包装紙に騙されて嬉しがるのではなく、事実が何だったのか学ぶ責任が子孫にはある。こんな道なら登って行けるが、途中柵も壊れた道なき道はあまりに足場が悪く、上宮遥拝所は諦めた。出雲国造家には是非とも整備をお願いしたい。そこまで行けば東出雲王家の王らがその下に埋められている磐座が臨めるはずなのだが。富家の本拠地、神魂神社からはかつては南にこの山が眺められたそうだ。岩清水が明見水と呼ばれて、昔から眼病に効くと言われる。眼病を癒す水奇譚は各地にあるが、こちらの水は目の曇りを取り払うためかもしれない。この水で目を洗い、出雲王家の磐座に手を合わせるのであれば。
2025.01.30
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2025/01/28/火曜日/本当に大寒?12/30 ホテルの部屋で、読みかけの本を読むうちにどんどん熊野神社が近づく。バス路線などこまめに調べてみると、午前早くに出れば、午後から松江市内散策もできそうである。一畑バスの終点車庫まで長く揺られる。そこからコミュニティバスに乗れる。はずだった。( ;∀;)コミュニティバスはそこにいるのに!待合室はがらんとして人の気配がない。壁に張り紙、お正月前後10日ばかり運休ですと!張り紙が多過ぎて、しばらくその案件を理解するのに手間取り、飲み込めないままに呆然、うろうろの私に親切な若い娘さんがケアマネの如く寄り添ってくださる!後光が彼女から漏れまする。結局タクシーのお世話になって熊野大社へ帰りのバス時刻もチェックの上、迎車手配せねばならぬ。基本が歩きの私は長い距離を一人でタクシーに乗るのは腰が浮く。といっても都合15分くらい。貧乏性なのである。しかし。ともかくもそこの場所に身をおく。何らかを感得するにはそれしか術がない。◼️熊野大社私は出雲のことを何も知らなかった。大国主のことも古事記の中のエピソードを読んだくらい。神話の普遍性は各民族の意識の古層に、くらいの遠巻きの眺めだった。中でも古事記全体の中で、大国主命の話や海幸山幸の話などは元々の伊弉諾伊奘冉の話に繋がり辛く、天照大神が国譲りを迫る所は何だかイスラエルとパレスチナみたいで、受入れ難いのだねえ。そんな長年のモヤモヤ前日に大庭の土地を歩き、今日、山深い熊野大社に来てみれば、より古い部族の租神の息遣いが意宇川の上手の方でいささか感じられるではないか。この大社は出雲大社よりも古い創建だという。中央集権国家の体裁に記紀が著されたが、当時の出雲国造の訴えを退け、出雲より熊野の社格を上とした古代からの認識を留めたが、いつの間にかそれは転倒してしまった。転倒といえば、主祭神も出雲族のクナト神ではなく、出雲国造の主祭神、素戔嗚にすり替えられた。クナト→クマノ響きは近しい。出雲王族による連合政権が出雲や畿内、ヤマトに緩やかに敷かれていた頃、出雲王族の暦で神事が行われていた名残は↓年2回の大祓である。出雲王国では一年を2回に分けて、二年と考えていたらしい。社務所には現出雲国造の著作冊子がいくつか販売されており、入門のような一冊を求めた。ところがあら不思議。その本とご由緒書が、帰宅後忽然と消えていた。なんちゃって。何処かに忘れて失くしてしまったってコト(/ _ ; )中を1ページも読んでないのに!この神社で気になったのが本殿よりもこちら↓すみません。奉安の神器も撮影してしまいました。境内中、こちらが一番厳かな印象をもつ。亀太夫神事!これを後日出雲の博物館でその映像を見たが、どう考えても出雲国造いじめなのである。出雲王家はお前の裏切りを忘れてはいない、とでもいうような勢いだ。よほど酷いことをしでかしたのであろうなぁ。出雲大社、との呼び習わしは明治に入ってからのことらしく、それまでは杵筑大社きづきのおおやしろと呼ばれ、地元でも馴染んでいたそうだ。出雲国造はそれまで住んでいた大庭の地 (←古代そこは出雲東王家の邸のある土地柄) から現在の出雲へと中央政権によって、おそらく記紀編纂前後に国司職能も奪われ、いわば左遷されて神主としての奉祝のみを担わされた。という。これは一つの国譲りであって、国を譲る代わりに大社を築かせたとすれば、出雲大社創建はときの藤原政権と出雲国造の間の交渉事の結果、ということになる。それを大国主の国譲りとして神話化するとは、当時の真実を未だ身近に知る豪族らはどう感じたろうか先年発掘された奈良時代の出雲大社の心柱などの遺構はそれを証する。モデルとしたのは東出雲王家の神魂神社造り。出雲国造は新たに襲跡するときには一年潔斎をして出雲の神々を奉り、朝廷に赴いて帝を寿いだ。これはそれはそれは命を縮めるようなは作業だったことを博物館の映像で知った。それでも尚、代々受け継がれている神パワー《出雲国造神賀詞(かむよごと)》にみられるように,出雲国内186社の神々の総意を代表するかたちをとり,大穴持命(おおなもちのみこと)の和魂(にぎたま)を三輪山・葛城山・飛鳥おのおのの神奈備と雲梯(うなて)神社の地に〈皇孫命(すめみまのみこと)の近き守り神〉として鎮座させ,祝いの神宝の品々を献上するというかたちをとっていた。『世界大百科事典』より
2025.01.28
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2025/01/26/日曜日/寒気はこれからサイチカさんショップへ午前中直撃したのは朝活の編み物の日があった先月下旬NHKすてきにハンドメイドで連載中のサイチカの針仕事、今月号のバッグがかわいすぎ。キットは既に売り切れぐっすんが!いつの間にか再登場。いさんで購入ポチして店舗受取りメールを出したが返事がない(^_^;)そんな訳で直撃。あー、よかった。バッグのキットはまだ余裕でありました(≧∀≦)ついでにお店で編んでいくことに。サイチカさんの編まれた作品はとても美しい。ブロッキングはせずにスチームアイロン仕上げかな?中袋は北欧の本屋さんか何かのエコバッグを使用されたみたい。お洒落。後から生徒さんの作品、フェアアイル仕様版も。帰宅後勇んで編み始めるも、多忙と不在で胴体仕上り後放り出したまま。ようやくこの週末仕上る。いつものクセで、編み始めの手が緩く、胴体と底との出会いがぶかぶかに閉じられてしまう~_~;底のデザインの可愛さゆえ、許せ!内袋には、娘と搭乗の機内でなぜか隣り合わせのハーフ、ミックス?女性がくれた欧州薬品会社のエコバッグを転用。もう10年以上も前のこと!メインの糸はブリティッシュエロイカ。この糸はとても絡みやすく、解きにくい。ブロッキングすると、フェルト化が進行する有様。なので、水通しはお勧めできない。
2025.01.26
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2025/01/25/土曜日/曇り、昨夜は少し雨12/29松江大庭の古社を三箇所めぐり、松江市内に戻って来るとお昼過ぎ。お蕎麦が食べたい、観光客ではなく地元の人が行くようなお店。が、悉くお正月モードの休店(T-T)和菓子屋さんはどこも開いている)^o^(↑ここで宿のお茶受け生菓子を買う。翌日の不味公縁の茶亭で出されたお菓子はこちらのものだった。小さく固く聡く伝統を守る菓子やかな。↓ついでに私注目のobjectさん別館へこちらは不定期オープンのようで、残念ながら閉まっていた。遅いお昼をグリル風で済ませ、とぼとぼと歩いていた時に通りがかったのが◼️売布神社 めふじんじゃ733年には売布社めふのやしろ、と「出雲風土記」に記された古社。元は意宇の入海おうのいりうみ←宍道湖畔にあったというが地形の変動に伴い現在地、大橋川の松江新大橋たもとに遷座されて800年ほど。松江の産土神となる。主祭神は速秋津比賣神はやあきつひめのかみ水戸ノ神みなとのかみ、祓え戸ノ神はらえとのかみなので、天津人の租神相殿神は五十猛命いたけるのみこと他女神2柱摂社神には櫛八玉神くしやたまのかみ徐福の子である五十猛も奉斎されるが海や食べ物、魚介海藻樹木に関わる女神が多い。御朱印をお願いすると、塩の入ったお茶が振る舞われた。道の上の旅人←ワタシに、これは甘露であった。うましものは塩、である。
2025.01.25
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2025/01/24/金曜日/晴れ❶田久 鳥取市☆初訪問鴨汁蕎麦 1500円蕎麦は挽きぐるみの二八ツユも美味しい。ランチセットは既に完売していた。年配の大将が一人でやっている蕎麦屋さん。 驚きのミシュランプレート。宿にも近く夕飯もこちらで頂いた。夜は一番に入り、プレートセットを注文大将は元々寿司屋で働いていたが、蕎麦が好きで自分で打つようになったとか。名前を失念したが、蕎麦の道で高名な方が鳥取に来た折に受講して、感化を受けたとか。それで今のお店に至るという。流石に握りが旨い。カニと穴子❷神代そば 松江市☆初訪問明日はおおみそか、まもなくお正月という日。地元の人からのおすすめ蕎麦屋はほぼ冬休み入り。神代(かみよ)そばさんだけは、本日まで営業。列に並んで、蕎麦粉10割の三彩割子 1480円を頂く。都内でもたまに見かける割子そば。でもやはり現地で食べるのが気分。十割蕎麦、コシはしっかり、お味はあっさりめで品が良い。量もたっぷり。若女将?が、これぞ商売繁盛のお多福さんのようで、しみじみ感激した。❸出雲そば かねや 出雲市☆初訪問大社周辺の大晦日の日の人気蕎麦店は軒並み予約の年越し蕎麦を渡すだけ。お蕎麦は食べられない。出雲で蕎麦難民である。そんな中で営業してくださるだけでありがたいと並び入る。割子三段。うむ。きっと人気店の出雲蕎麦はもうちょっと違う風味を味わえるのに違いない。と一口すすり、感じた。しかし、とまれ出雲そばは出雲そは。旨い蕎麦屋とごく普通の蕎麦屋同じものを扱いながらなぜこうも味が違うのか。蕎麦を打つのも茹でるのも水で晒すのも、ほぼ同じルーティンワーク。やはり、昨日より今日、もっと旨い蕎麦を振る舞いたい、その心が伴う店は断じて旨いのだ。大晦日、夜はきっと食べ物にあぶれると予め、大社側の寿司屋に折を頼んでおいてよかった!浪花酢さんも、本日予約注文のみの対応で、お店は閉まっていた。カニが美味しい。
2025.01.24
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2025/01/23/木曜日/大寒はどこへ12/29国分寺のあった辺り、神魂神社の古層にあるものかんべの里、その大庭の風景や山並みは斑鳩や當麻寺の風景と近い印象で、どこかしら奈良より古い奈良の祖型のようだった。神魂神社は厳格に封印された何かしら、であり、時間を超えてそこに坐し、高い所のものと繋がった一つの人格のような存在だった。さて、次は八重垣神社 を訪う。観光案内所では、八重垣神社の方がバスも多いから先ず神魂神社に行くのがよいです。二つの神社の間にはにわロードがあるので、そこを通れば近道です。とのことだった。なるほど。あの振り返り美鹿が。ところがここを過ぎると、ぷっつりと埴輪のサインが見当たらない。Googleは違う道を教える。思いあぐね、たまたま通りかかったギャラリー&カフェ緑陰の方に尋ねた。どうやら私のような人が沢山いるらしく、ご主人は手製の地図を下さり説明して頂いた。観光案内所に戻ったらこの地図を見せて改善してもらおうと思いながら、その地図を無くす( ;∀;)↓古本も扱ってるようで、後ろ髪を引かれた。イノシシが出るかもよー( ;∀;)と脅されながらもこの地図で無事に八重垣神社到着。肝心の場所にはいない。割とマヌケさんなはにわがのほほんと。すれ違った人は一人。山よりの道。左手には今は高校の敷地である、出雲王家の拝み石があるこんもりとした樹木林が広がっていた。◼️八重垣神社茅の輪は夏越えの祓いの時かと思いきや、年末のこの時期に設えていた。スサノオを祭神とする神社ではよく見かける。蘇民将来の蘇はユダヤを示し、将来とはどこから来たのかを示す言葉であるのだとか。ユダヤ教の過越の祭りのようなものなのか。というわけでこちらでは素戔嗚尊と八重垣媛をお祀りする。縁結びのご利益があるとされ俄然カップルで賑わい、神魂神社との随分な異なりにたじろぐ。他に二柱のお子さまの青幡佐久佐日古命。大己貴命とはすなわち大国主命ところで、八重垣といえば八雲たつ 出雲八重垣 妻籠に八重垣つくる その八重垣をの理解には↓この本が興味深い。著者は、日本最初の和歌とも言われるこの歌を、なんとシュメール語で解いた。不届きな輩どもが妻を手籠にすることがないよう、出雲に法をつくったよ、この法だよという意味なのだとか!八雲らを断つ(ために) 出雲の法令だ。手籠にする者らに そんな法令を作ったのだそんな法令(なのだよ)なるほど。スサノオはスさの王蘇はス、将来は、はるかスメール(シュメール)からの⁈日本語はかく、おもしろい。◼️不思議な椿の葉っぱ和合する葉っぱとはむつまじや。大きな椿の木が神社の正面に。境内はお正月の準備か屋台があちこちで造作されて、既に十分な賑わい。
2025.01.23
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2025/01/20/月曜日/雨のち晴れ12/29さて、神魂神社最寄りバス停に戻る。神魂神社手前には風土記の丘という自然の景観を生かした公園施設がある。素直に上り坂を行けば神魂神社はすぐの所を迷い迷い寄り道してしまう。昔話体験もできるようだ。しかし時期が時期なので松江の公共施設は殆ど閉館。◼️神魂神社参道は丘の東側かな?風情あるというよりも時代降りて、威厳のある石段。未だかつてこんな石段を踏んだことがない。間も無く直角に折れて階段を登る、その前にこの手水がある。この柄杓をしみじみ眺め感動する。こんな見事にぴったりな竹がこの辺りにあるのだなぁ。神魂神社は、かもすじんじゃ と呼ぶ。ちょっと読めない。お正月に向けた準備がされていたが、宮司の方も見当たらず、私以外には若い男性が一人。熱心に神社の撮影をしていた。小泉八雲が愛し、ブルーノタウトが感嘆した古社は、現存する最古の大社造。神殿が国宝。出雲大社はこれを模して造られたのだろう。公式には、アメノホヒが最初に天降りしたのがこの地で、出雲を平定し社を築いたとある。アメノホヒが乗ってやって来たという大きな鉄製の釜があることから、たたら集団の出雲族を上回る製鐵技術を有していたのでは、と妄想この地で出雲を平定した、ということはこの地にアメノホヒ以前の王国ないしは集団がいた事を示す。出雲口伝によれば、神魂神社の建っている場所は東出雲王家の宮があった所という。出雲口伝では、アメノホヒ、或はホアカリ、を大祖とする出雲国造が25代までここを邸としたとあるが、真っ先にここに住んだのは秋上家。また、アメノホヒを徐福と比定していて驚いた。興味深い。こんな話は学校の授業では聞けない。秦の始皇帝の時代、秦に滅ぼされた斉の王族であるアメノホヒは3度和国にやって来たという。丸木舟ではなく、構造船の技術をもち、日本に梅と竹を植えて育てた。彼の野望は大陸で亡んだ斉の国を和国で再興し、その王になることだったという。彼の血を引く集団はやがてモノノベと呼ばれる。勢力を大和で伸ばしたが、わずか三代ほどで歴史の舞台から姿を消した。祭神は出雲大社とは逆に東を向いて座す。拝殿ではなく↓この面の右手から手を合わせると対面本殿の祭神はイザナギとイザナミ。出雲口伝では、モノノベの家運が衰退しはじめた秋上家はこの社を本来の持ち主出雲王家の富家に返したいと申し出たが、富家はそれを断ったという。そこで秋上氏は、出雲王家の本来の神である幸神をイザナギイザナミでカバーし祀ったとか。令和の今に至るまで秋上氏が宮司として今もなお出雲王家の祖霊を慰めている、とも見える。神魂神社の近隣の学校敷地には、歴代の出雲王家の王の拝み石が今も残っているというが、私はそこら辺を眺めるに留めた。ここは観光を一切排除している。神域なので、来訪者も敬意をもって参拝すべし。二千年以上の歳月が織り込まれている場所だ。
2025.01.20
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2025/01/17/金曜日/晴れ〈DATA〉出版社 宝島社著者 中見利男2014年9月26日 第1刷発行〈私的読書メーター〉〈「秘密」って弱い。そんな訳でツイ手を伸ばし読んでみる。本居宣長以来関心が細波のように広がる古事記の世界は結果私を出雲へ向かわせる。宣長は古事記に書かれたことは全て真実と捉えたが、近年の考古学的発見は古事記の神話世界に新たな光を当てている。ことばを解く学びから足で歩いて大地に向かい感じる学び。私なんぞそこに大いに惹かれる。皇室と出雲国造の婚礼が本書発行の契機らしく柳の下感あるが、荒神谷遺跡を端緒にされていれば著述内容も自ずとその筋に整ったのではないか。神魂神社考察は私には交通整理になった。感謝。〉終章含めば全七章その第三章「神魂神社に隠された賀茂氏の租神」この冒頭に、改めて大社と国造の間の七つの謎を上げている。❶出雲大社はいつ創建されたか。❷出雲国造は、出雲大社のある杵築(きづき)に移住してきたのか。❸出雲国造の祖神は天照大神の第二子にも関わらず、なぜ『古事記』『日本書紀』で裏切り者扱いされているのか❹出雲国造が『出雲国造神賀詞』(いずものくにのみやつこのかんよごと)のなかで、天穂日命に関する記紀の記述は間違っているとアピールするのはなぜか❺出雲国造と神魂神社、熊野大社の関係とは❻出雲の地で行われた大国主の国譲りとは、一体何だったのか❼なぜ皇室関係者は今でも出雲大社の本殿には近づけないのかしかしこれらの殆どは最近見つけたブログ酔石亭主.fc.net さんの考察が優れて納得がいく。素人の方だろうか?だとしたら専門家と呼ばれる人の一般好事家に向けた発信が貧しくないだろうか。それとも寡聞にして知らず、か。まともな資料に出会えてない?さて。◼️この章でスッキリしたこと神魂神社は元々は出雲国造の邸内社だったという。出雲国造の火継ぎの神事がここで行われてきた。明治になるまでは国造家は北島家と千家の二つが分担していた。これは出雲王国が東西に分かれて一人は大名持、一人は事代主を担っていた、という富家に伝わる出雲口伝を思い出させる。神魂神社の名を冠した神が『出雲風土記』に登場する神魂命(かみむすびのみこと)で、造化三神の一柱であり、本来性を持たないが、この神だけは女神であるという。神魂神社の千木はどうであったか。水平に天に向かっていれば女性を表すそうだが。古事記では神産巣日神←かみむすび←の子を少彦名神とし、これは大国主と共に国造りを共同で行う神である。日本書紀では神皇産霊尊←かみむすび←物事を創造する神で新撰姓氏録にてはその孫を賀茂建角身命←かもたけつぬのみこと←であるとしている。日本語の音に漢字を当てたため、書によって当て字が異なるのが煩雑だ。それらを眺めると、古事記→日本書紀と、漢字のチョイスが記紀編纂当時の持統天皇への参賀が亢進するかのようだ。つまるところ、記紀は神武東征以降を自らの始まりとしてその正統性を内外に知らしめる作為がある。多くの指摘にあるように、編纂当時の歴史を400年前の神世の時代に落とし込んでいる歪みも。王族の連合統治から大王一人に移り、中国風の法制度に移り変わる中で、各王族のもつ歴史は全て焚書となったという。刀狩りならぬ物語狩り。賀茂建角身命彼は日向の峰に天降り大和葛木山に至り八田烏となって神武東征を先導したという。その後、この章が混乱するように感じられるのはスサノオと大国主のラインを一つの霊統としている点にあるように私には思われる。出雲口伝ではスサノオ=徐福としている。私はこれはこれでスッキリしていると思うが、スサノオは難しい。決定打が無いようにさえ思える。他に賀茂氏を二つの系統、天津と国津の捉え方も私の観点では少し異なる。物部氏の饒速日系、十種神宝、吉備王国、カタカムナと連動した呪文、ひふみよ、ふるべわらわらとふるべの所、手付かず。伏見神宝神社の十種神宝図↓その効力?
2025.01.17
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2025/01/15/水曜日/晴れ後くもり12/29 ホテル朝食7:00から、電車時刻は7:05。 仕方なくお菓子とお水を朝ご飯と心得、 長年のあこがれ松江へ駅に着くや観光案内所オープンとは幸先よし神魂神社、八重垣神社に午前中行きたいことを相談すると、間も無くバス発車とのこと。荷物ロッカーが100円5枚∑(゚Д゚)に慌てながら、バスになんとか間に合う。30分は揺られてバスの中は私一人。すぽーんと降りたところが風土記の丘というバス停このバス停には目指す神社の看板があった↓国宝の神社、とはすごいなあと見ていると、そのすぐ側には熊野大社の案内。あら、そちらが出雲一之宮なんですねー出雲大社ではなく!発見←そのレベル(^^)ここまで来ることはそうそう無いこと。ちょっと歩くけれど、真名井神社にもやっぱり寄ってみよう。一人旅の断然良い点でございます。真名井神社とバス停往復は35分くらい。ゆっくりと歩く。奈良時代、ここらに国分寺や国衙がおかれ、中央統治としての律令国家の中心地だった。国司は都から派遣されたが、出雲だけは特殊で出雲国造家が担い、風土記も彼らが編纂したのだとか。甚だ異例で、それだけでも出雲の重みが伝わる。そうしてそのずっと昔から実は、大庭からこの辺りが 富家=向家なる東出雲族王族の本拠地だった。そんな場所に真名井神社はある。◼️真名井神社光射す神奈備山(=茶臼山)は、出雲にある四つの内の一つとか。特別に鎮まった印象をもつ。その山の懐にある真名井神社へは、現在松の長い参道があるが、古はいかがだったか。人っ子一人いない道をゆく。伊弉諾尊と天津彦根命が祭神というから、今は天津神のお社ということになる。天津彦根命は天照大神と素戔嗚のウケイの時に生まれた子神で、やがて山城国造の祖。桓武天皇が平安京に遷都するに当たり、山城国の秦一族が土地も資金も大いに助けた、ときく。となれば、天津彦根の祖先は秦氏。ユダヤの失われた十支族である可能性も。しかし、聖地というのは動かない。祀る神やしきたりは時と共に変化しても、地層のように重なっていくのだ。水。まして滝や湧き水のある所は出雲族台頭以前から神聖な場所だったろう。見渡す広い平野からは稲作の風景が伺えるよう。たっぷりと水が湧き出るありがたい山。田を潤し、稲が育つ瑞穂の国、葦原の中津国、そんなことばが浮かんでくる。お社はこじんまりとした大社造り。社務所があったが人の気配はない。このお社の御朱印を得られた方もいるようだけど。古さびて、枯れて清潔正月の用意がととのえられている。神魂神社を目指して歩く頃には薄日がさして、萌のような輝きの山姿
2025.01.15
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2025/01/13/月曜日/晴れ12/28 午後お昼ご飯を済ませ、羅漢さんの襖絵を見るべく玄忠寺へとバスに乗る。今回持参して良かったとしみじみ感じたのは丈夫な折り畳み傘である。 この時節の山陰の気候はアイルランドみたいに 一日の中に荒天と晴天が入り混じる。ひゃー立派なお寺さんでございます。時折雪が降りしきる。由緒を尋ねれば、創建1508年、浄土宗のお寺。戦国時代以前からあった元の場所は城の拡張で移転した。その後火事で類焼するなどして、現在の場所に落ち着いた。広大な敷地を有する時代もあったが、明治の廃仏毀釈では最大の危機に瀕したらしい。寺には荒木又右衛門の墓や遺品や羅漢さんの襖絵などあり、ガイドさんの説明も頂ける。剣豪ファンには堪らない場所かも私なんぞはピンとこないけれど、荒木又右衛門といえば日本三大仇討ちの一つ、伊賀越仇討ち=鍵屋の辻の決闘。他に曽我兄弟、赤穂浪士の討ち入。そういえばチャンバラごっこなど見かけることがなくなって久しい子どもたちの姿。仇討ちも流行らない訳なんだなあ。剣の立つ心優しいヒーローが生まれないものだろうか。当寺には剣豪モノの映画、歌舞伎、マンガ冊子も展示されている。一部の方に垂涎モノの赤胴鈴之助の漫画は敗戦の翌年にはもう出版されて、食べ物が不足な中で飛ぶように売れたのだとか。旗本と藩主のプライド、幕府の裁定寵臣の美男子への横恋慕、ボーイズラブ系荒木又右衛門という人物への崇敬柳生新陰流などなど、とにかくまるでドラマな仕立ての歴史的事件なので、瞬く間に芝居になって日本中が沸き返ったという。他に、それはまぁ夥しい数の羅漢さんの襖絵他が見られる。地元の作家、民藝運動と連動した高木百拙氏これらを丁寧に説明くださる。どこまで続くお座敷かな既に2時間近く経ってしまったような。見学は私一人でもったいない。そろそろホテルへ、とお尻がもぞもぞする頃に障子を開かれると見事な庭園そうそう、初夢吉祥の一富士二鷹三茄子は嘘かまことか、日本三大仇討ちが元⁈の巻そういえば柳生新陰流を習っている不思議な女性と知り合った。何が起きるか、旅は不思議。
2025.01.13
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2025/01/10/金曜日/すこぶる晴れ12/28 午後 宇部神社車で拝殿近くまでアクセスできる道がぐるりと回っている。参拝者は本殿ご祈祷の方を除けば、私くらい。初詣用意に、きびきびと働く下職の方がいる。しかし今年の私は不思議なことに、冬至の21日が歳が新たまった印象がとても強く、その後の聖夜も大晦日もお正月も従属的にしか感じられない。祭神は武内宿禰。日本史上最も不思議な存在かもしれない。何しろ360余歳で世を去ったとか、とんでもない長寿だ。そんなわけで私とツレのための長寿お守りをお土産にもとめたのだった。神功皇后とはベストコンビだったのだから、おそらく出自は半島系、息長氏で日向から大和に入った古代豪族の王家の一つと思われる。三韓征伐を学校では習うけれど、私が読んだ本の中では神功皇后=気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)は日本書紀に見えるby Wiki、は実は里帰りで海を渡った。というもの。父祖の地に戦争を仕掛けに行く訳がない、という考察には納得。神功皇后は孕っていたというから里帰り出産かしら。戦のために帯を締めてお産を遅らせたのは、2度目の妊娠なのかも。故郷で恋が芽生えた?そんなこんなの思いを抱え、しかし栄華を誇った息長氏の頭領がなぜこの地なのか。吉備津彦と何か関わりがあったのか。何代もの大君に支え、日本を漫遊して産物、地味、気候、などを実踏しながら中央にその情報をもたらしたというから、ここが一族の中で最も光る君の終焉の場所だったか。市内に戻るバスの時刻が目下いちばんの関心事ではあり、因幡万葉歴史館は今回断念する。先ほどの学びを生かし、ともかく宮ノ下バス停を探す! あっさり見つかる。鳥居を出てスグ(T_T)このバス路線上の古本屋さん邯鄲堂に寄りたいと市内中心の少し手前で降りる。既に長のお休みモードだった!まあ、こんなもんであろうのお〜バス停が複数あったがタイムリーなものは一つも無く、ホテルまでとぼとぼてくてくと歩く。
2025.01.10
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2025/01/09/木曜日/乾燥注意報レベル12/28 鳥取2日目の本日、鳥取市歴史博物館を朝一で訪ねるつもりでホテル側のバス停へ。お天気もそこそこ良さそうで幸先よし。それにしてもバスが来ない。ハテ。病院の車整理にあたっている方に尋ねてみると。前夜から確認の、土日と銘打ったバス時間はなんと!それは運休を示しているのだった。我が地域では土日とあると、それは土日のみ運行するお約束。そんな自分の浅い経験がひっくり返る。次のバスは50分は先。それではその後の宇部神社で今日一日が果てそう。仕方なくタクシーで行く。あー、我が通行手形はや(T-T)地域の歴史や手仕事を期待して来たが、ギャラリーでは写真店が百年前に撮影した鳥取の風俗や家族の写真を展示していて、これが興味深く楽しめた。当時の人びとの眩しいほどの明るさと健康な肉体! 今や失われて久しい輝き。『潮騒』のイメージそのもの。↑このフィルムケースの細工が素晴らしかった。左下↑雪道を歩く女性の姿は川瀬巴水の版画の世界百年前と令和の画像対比展示もいくつかあり。ここのショップで藍染織物の花瓶敷とコップ敷を購入した。しまいべ織 という。木綿糸を藍染して一間機で織った因幡の手織。長野県富士見町では裂織りが、当地ではしまいべ織が、地域の女性たちの手で受け継がれてゆく様に感銘を受ける。わずかでも購入という形の協賛↑たくみで買った流し雛がここに!バスの時間を気にしつつ、バス停に向かう。道すがらオシャレな文化財アパートメントに遭遇あれ、バス停どこ?逆方向は目の前なのに目的方向が見つからないではないか。進行方向にあるのかしら、行けども見当たらない。悪い予感がして振り返ると、えー!バスが。私の乗るはずのバスが行ってしまった。ああ、手形、交通の。たっぷり歩いた後のバス停で次の運行を見ると1時間は先であるΣ(゚д゚lll)えーい、ままよ。バスを待つ間に着いてしまうわ。歩く私。マフラーを外し、帽子を脱ぎ、ダウンの前を開けて、それでも汗ばみひたすら歩く。宇部神社まで。そして50分はゆうに歩いたろうか。ようやく辿り着く、のであった。ここからGoogleに従い坂を登ったけれど、歩行者は素直に階段を上がるのが正解
2025.01.09
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2025/01/08/水曜日/晴れ月日の過ぎるのが早過ぎる!ネジを逆転回しに…さて、12/27午後荒れ模様の砂丘から市内に戻る。砂丘発鳥取駅行きバスで途中下車、県立美術館へ。お城跡を見ながら小さな川を渡る。いわゆる山城。実に見事なお椀型の山で、これは難攻不落な要塞だったろう。秀吉の兵糧攻めで武運尽きた。美術館は絵金の大規模な展覧会開催中だった。土佐の絵師のほぼ一切をここで見られるとは!幕末、鳥取藩は佐幕派だったはずで、故に城郭が残っていないのだと思う。それが土佐藩の。さすがにそんな拘りはもはや無いのだろうなあ。芝居の一場面を切り取った表現は足指に至るまで力や緊張が感じられる。展示の仕方も照明など工夫されて、町中の夜に見ている臨場感があった。最晩年の脱力した絵、女性のポートレートが良かったけれど、撮影忘れ。↓ミュージアムショップで買うか迷う。荷物になる!と心の声がここのカフェが気持ちよかった。美術館カフェは世界中どこでも狙い目である。薬膳カレーを食べていると青空がのぞき、お日さまの光もさすではないか。通行手形がある事だし、もう一度チャレンジだ!と再び砂丘を目指す。バスの窓にはみぞれ混じりの雨が市内が晴れても砂丘は天気が違うようだ。辿り着くと、やはり風は強い。それでもちゃんと砂丘を見ることが出来たし、5分ほど?歩くこともできて満足。ということにしよう。馬の背とオアシス↓再び市内に戻り、念願の鳥取民藝美術館へ。通りの反対側には、素敵な建物!それはそのはず往年の吉田医院。タイルの文字も温かい。今は公開を中止している模様。左端の円形建物は童子地蔵堂。亡くなった子どもたちの鎮魂のお地蔵さんを収めている。お堂の中もさることながら心映えがうつくしい。その隣、階段を登れば民藝美術館。吉田ショウヤ氏の、大きな遺産だ。用の美に生涯の情熱を注いで鳥取を美しい街にした。撮影ができるのは有り難かった。世田谷美術館では室礼以外撮影ができなかった。↑灯が特集されて展示されていた。このランプシェードは最もポピュラーな吉田氏デザイン。ネクタイ織物も心惹かれる。普遍的な意匠。誠実な仕事と丁寧な暮らしが結びついて目に見える。美術館を出て階段降りると左手にはたくみ工芸店。最近はめっきりモノを買わなくなったが、再び鳥取の女性が作り始めたという、昔ながらの小さな流し雛を記念に買う。さて。問題は昨夕無断キャンセルしちまった、ありえない人間に成り果てた一件をどうフォローするか、である。砂丘からも、もう何度かお店に電話を入れているが繋がらない。ううう。4時過ぎに繋がったときは覚悟を決めて←キャンセル料あるかもなあ←昨日の無礼を詫び、できれば本日改めて伺いたい旨を伝えた。カウンター端っこで良ければと仰るではないか(T-T)え⁉︎いいんでしょうか?ありがとうございます‼️というわけで昨夕予約の午後7時と同時刻この蟹丼を食べに行きました。大将!ご迷惑をお掛けしました。美味しかったです。ご馳走様でした。気分も懐も?軽くなって鳥取の一日が暮れる。あとは宿の温泉にざんぶりこ。
2025.01.08
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2025/01/07/火曜日/雨のち晴〈DATA〉出版社 徳間書店著者 吉田大洋1980年5月31日 初版発行〈私的読書メーター〉〈味読すると出雲口伝の富氏の名前、お。となる。口伝が著者の見解の資料的扱いであることは不満なれど日本古代王国の様相が出雲を中心に全体的に俯瞰できる。明治以降危機に瀕したのは仏教界ばかりか、出雲大社神事を交代に勤めていた北島家と千家家にもあった。以降千家の専任となる。千家は天孫族が遣わした斥候アメノホヒが始祖、出雲神族はクナトノ神が祭神で、口伝ではドラビタ人というから驚きだ。そこに砂鉄を求め中東から朝鮮半島にいたスサノオらが、騎馬民族ヒボコ新羅系らが渡来し、乙巳の変、壬申の乱を経て倭漢藤原一族が望月を詠う迄に〉著者案内に満州生まれ、とある。ご縁のあった方は京城生まれ、だった。日本が大陸にぼわーと広がったほんの短い、ほんのちょい前の時代のことだ。そんな方はもちろんそれ以降生まれて来ない。もはやその国も地名も地上に存在しない。ヤマトと呼ばれた土地に群雄割拠して、我こそこの土地の王であると覇権を争い、謀略と血塗られた時代があった。彼らはどこから来たのか。幸いにも神社があり、この国の古い時代を知る手掛かりがそこにある。あるいは、口伝のように語り継がれた一族の歴史がある。トーテム、家紋や地名の中にもヒントは満ちている。著者は大神神社を訪れた時の違和感から古代出雲に関心が芽生えたというが、私も大神神社と諏訪大社に共通するご神体や蛇の存在に共通の印象をもち、御祭神は何かに関心を抱きながら神社訪問がぐっと増えた。その根本に 素朴な疑問がある。すなわち日本人とは何か 幕末の長州人の荒々しさは、歴史を知れば知るほど私には日本人とは思えない一面が感じられたが、彼らがヒボコ系であるとするなら妙に納得がいくまた伊勢神宮に祀られているアマテラスの違和感、あのキーンとした天孫族の存在も直観的に親近感が湧かない。それは京都人にも通じる何か、である。言ってみれば他者を見下す、あの感じ。大国主が手に入れた幸玉、和玉あのような在り方が私にとっての日本に近しい。ところでオオクニヌシとは代名詞であり、17代に渡るとか。故に別名のオオナムチ、ウツクシタマ、アシハラシコオ、ヤチホコ、オオモノヌシなどなど沢山の異名をもつ。しかし何とまあ、大国主らの一族である出雲族は元は中東のシュメールの地に発するという。それがインドまで逃れて来たのは残忍なアッシリア人の征服による。高度な文明も破壊的な攻撃を受けては風の前の塵に等しいのだった。彼らドラビタ人は現地に溶け込み、医療や農業や機織りを伝えながら混血し、遠く日本まで辿り着いたのだという。その彼らの大祖神が熊野大神、クナトノ神であり、天孫族もこの神を畏れ、都を移すたびにサエの大通りを作って祀り、6月と12月には祝詞を捧げたという。香取神宮の主祭神(フト大神)も同一神。出雲神族は何よりも言葉を大切にし、神聖なものとして崇拝したという。特に歌の類には強い言霊が宿っているとして、最高の祝福は言葉によって与えられた、という。言霊信仰は出雲神族のものだったのだ。これは大きく新たな認識だ。これこそ日本の心ではなかろうか。歴史をみれば、出雲神族は常に反体制的に動いているという。これなども我らの判官贔屓につながる。壬申の乱では吉野に逃れた大海人皇子につき南北朝の乱では南朝方、これも吉野戦国時代には家康をたすけ西南の役では西郷隆盛をかくまい切腹自害したのがこの本に登場する富氏の祖父で熊野大宮司の家から出た富村雄氏だそうだ。何か事あるごとに出雲、大和、諏訪の出雲神族が一体となって動きそれは未だ続くのだ。ところで、今はいかでか。かつて天皇家ではアマテラスを祀ってはいなかった。基本はムスビの神で、最後にコトシロヌシを祀るという。コトシロヌシは天孫族に国譲りをした大国主の息子で、国譲りを認めた後、天孫族に呪の言葉を発して自ら海に飛び込み自害したという。その事実が美保神社の青柴垣の神事で毎年4月6日の夜に行われるそうだ。こうして憤怒の歴史を今に留めおくのだ。古事記は天武天皇日本書紀は天智天皇に親和的に描かれているらしい。何故なら当時の女帝、持統天皇は天智天皇のむすめであり、百済出自であり、これに知恵ものとして使えたのが藤原不比等、これまた中国、半島系の渡来人なのだ。記紀編纂に辺り、持統天皇を持ち上げるべく編み出したのがアマテラスの過剰な存在なのだという。本居宣長は何というだろうか。また古事記の3割が出雲風土記からの出典という。
2025.01.07
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