フリーページ
日本医師会賞を受賞した原稿です。
1999年12月、娘10歳は末期医療の入り口に入ったことを宣告されました。
腹部に出来た悪性奇腫で二年半、闘病した後でした。それから七月に亡くなるまで七ヶ月の間、本人と家族の希望どおり在宅医療を続けることが出来ました。
娘は主治医の先生とよく氣が合い、まるで友達同士のように接していました。廊下で見かけると飛び付かんばかりに走りより、ふざけて叩いたり、ポケットの中をいじったり、悪戯ばかりしていました。先生も負けずににやり返します。私達親には、時には齒に衣着せずズバッと話される先生でしたが、その中にいつも温かいものを感じていました。
「風邪か?喉赤いんか?」と言いながら、大きな懐中電灯を持ってきたり、どちらがスキー上手か、必死になっていばり合ったりする、ちゃめっ気タップリなところもある先生でした。
そんな先生もターミナルに入ってからは、娘のいないところで、辛そうに元気なさそうにはなす事が、段々増えていきました。そんなたくさんの思い出の中で、二回の電話を私は忘れることは出来ません。
一回目は、翌年の四月の終わり。この少し前から先生の携帯電話に緊急で連絡することが出来ている状態でした。朝、機嫌よく寝転がってテレビを見ていた娘が、急に「息が苦しい。胸が痛い。お腹が痛い」とエビのように身体を曲げています。先生は出張で神戸を離れていましたが、直ぐ連絡しました。そしてモルヒネの座薬の量を指示してもらって様子をみました。
でも苦しそうで30分してまた電話をしました。車を運転中の先生は、もう一回指示をくれましたが、混乱している私は娘の様子を上手くまとめて話せません。先生は落ち着いた声で「お母さん、ゆいちゃん電話口に出られるかな」と聞きました。私は『そんな無理な』と思いましたが、とにかく娘に尋ねると「うん、話す」と言うので、抱きかかえるようにして電話口に座らせました。私は泣いているのを娘に見られないよう、後ろから娘を支えていました。
「うん、うん、わかる」娘は何度もうなずいていて、氣がつくと口調もしっかりしてきています。」「先生がね、空気中に酸素があって、それを飲み込みにくい感じなの?と聞いたから、そうじゃなくてお腹の方からお腹が張って苦しい感じって言ったよ。そしたら、もう一回座薬ガンバって静かにねときって」娘は私よりずっと落ち着いた顏で横になってくれました。
二回目は、それから二ヶ月ほどたって、もう足がドンドン腫れてきた處でした。娘は自分の足を見て「また元に戻るの? もっと浮腫んだらどうするの? かあかん(私のこと)は、こんなになってないからわからへん」と泣きながら訴えます。わたしは、ただただ足をさすりながら「ごめん、ごめん。わかるのだけど。どうにも出来ないで、本当にごめんね」と言うしかありませんでした。
人生の中で修羅場というのがあるのならば、ああ今まさにそうだ、そう思いながら涙が止まりませんでした。娘は「先生に聞く」といい出しました。先生とは出来るだけ事前に打ち合わせをしてから、娘と対応させていましたので、一瞬と惑いましたが、もう仕方がありません。先生は、手が空くのを待って五分ほどして電話をかけなおしてきてくれました。「うん、うん、わかった」娘はまた長く先生と話しています。受話器を置くと体の中の、血液の流れのことを、娘なりに詳しく説明してくれました。先生は「今一番きついのだけど。辛抱できるか。辛抱してね」と言ってくれたようでした。私は一瞬拍子抜けしてしまいました。でもこれ以上他にどんな事が先生に言えたでしょう。
娘は、もう泣いていませんでした。ちっちゃな声で「かあかん、さっきはごめんね」と言ってくれました。二回とも、先生とどんな話をしたのか、もう二度と娘の口から聞くことは出来ません。でも、娘の心の中には先生をシッカリ信頼している気持ちとがあったからこそ、こうやってギリギリまで先生に助けを求め、先生もそれに誠心誠意答えてくれたのだと私は信じています。
在宅での看護は、またまだ試行錯誤の状態だと思います。先生や看護婦さんたちとは何度も話し合い、その度に最善の方法を考えてもらい、支えられてきました。
この七ヶ月のターミナルの時間は、私たちにとって・祈りの時・でもありました。その時を一緒に過ごしてくださったスタッフの方皆さんに深く感謝します。
今ごろ、娘は天国で大好きな絵を書いていると思います。それからもちろん、先生に負けないように、スキーの練習も...
笑いの力が人類を救う 2012.03.03
夏は水の滞りにも注意が必要です。 2008.08.20
これもありだと感じています。 2008.08.16
PR
カテゴリ
New!
瑠璃月姫さん
New!
みお&ゆきさんコメント新着
カレンダー