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医師 伊丹康人先生のインタビューより
生涯現役 95歳
東京慈恵会医科大学整形外科の主任教授を退官後も、長年にわたり「人工肢関節」の研究開発に携わってきた伊丹康人先生。今年九十五歳を迎える先生の元気の源、活動の原動力とは何か。
◆ 医者は世間の人に模範を示す存在
-- 伊丹先生は、東京慈恵会医科大学整形外科の主任教授を定年退官されてから三十年がたったいまも、都内のクリニックで診療に当たっておられるそうですね。
伊丹 はい。いまでも、月水土は患者さんの診療に当たっています。
私の専門の整形外科では、骨折や外傷といった治療が多いのですが、他にも内科的疾患の投薬をしたり、血液検査を行ったりしています。
その他の曜日は、学術的な本を読んだり、日常生活で感ずるところを、いろいろとエッセイに書いたりしています。最近の大きな仕事としては、『理想的人工股関節への挑戦』という本を出版したことです。この本は二十七年間の基礎的研究と十年間の臨床を行い、三十七年間に及ぶ研究結果をまとめたものでした。
-- 三十七年間、ですか。
伊丹 はい。他にも、私が考えたメディカルフィットネス(医学体操)を、週に三回、クリニックで行うなどの活動をしています。
いま、私が皆さんに強調しているのは、ピンピンコロリでいきましょう、ということです。つまり「病で死ぬな。枯れて死ね」と。 年をとって認知症や寝たきりになり、介護者の世話になって生きる、というのじゃなくてね。自分で自分の体に責任を持って、健康な状態で過ごしていく、と。それが人間としての一つの義務です。
いまの時代は、自分の体に対して責任を持たないでいる連中が随分いますから、その分、多くの介護者が必要とされる。そして国のお金をたくさん使うわけでしょ?
そうじゃなくて、自分で自分の体に責任を持って生きていったらどうだ、と。そういうことを、私はこれから皆さんに徹底させていこうと考えているんです。
-- いま、その志に燃えていらっしゃるわけですね。
伊丹 はい。私は今年で満九十五歳になりますがね。医者が人間の体については一番よく知っているはずなんですよ。どんな病気が、どういった生活習慣や不養生によって起こるかをちゃんと熟知している。だから医者自身が病気にならないように生きて、世間の人に模範を示すようでなければ、本当の医者とは言えません。
-- ご自身では何か健康法を?
伊丹 私は朝六時半か、七時に目を覚ますと、洗面所に行って下着のままで「舟こぎ体操」というのをやるんです。これをやると、眠気が覚めてイキイキとしてくる。
着服して食卓につく時は姿勢よく椅子に腰掛け、食べ物は必ず三分で定めた「十バカ」をしないようにし、「八つの心」をもって人に接しています。執務の時の姿勢にも気をつけるにし、背筋が曲がらないようゴムバンドの 襷 を装着しています。
八つの心
•一、 おはようございますという明るい心
•二、 はいという素直な心
•三、 お元気ですかという気遣う心
•四、 すみませんという反省の心
•五、 わたしがしますという積極的な心
•六、 ありがとうという感謝の心
•七、 おかげさまでという謙虚な心
•八、 相手の立場を自分におきかえてみる心
また、午前の診察が終わると昼食ですが、必ず行っているのは、昼食・夕食の後に三十分歩くことです。そうして、うんと運動して筋肉と平衡感覚を鍛え、ピンピンコロリといくように努めています。
人間は 叱 られたり、人前で侮辱されたりしたことは決して忘れないものです。だから私は、憎まれても構わない、という考えで「おまえは何年この教室で勉強しているんだ?」「講師にもなってこんなことが分からないのか」といった、弟子たちの恨みを買うような言葉を意識的に使いました。
-- あえて憎まれ役に徹した。
伊丹 はい。すると弟子たちは、教授にこんな酷いことを言われた、と言って慣慨するわけですね。そして、今度はそういうことを言われないように、と思い、勉強に勤しむようになる。
弟子の中には「伊丹は冷たい奴だ、嫌な奴だ、そこまで言わなくても」と恨みに思っている連中が大勢いたと思います。しかし 私の目的は、サイエンス・テクニック・モラルの三つ を、できるだけ早く彼らに体得してもらうことであり、自分が憎まれることなど問題ではありませんでした。
医大の教室は、他の病院や開業医の先生方に対する、単なる医師補給所であってはなりません。整形外科学の修練と研究の道場にふさわしいものでなければならない。多くの病人を救えるような名医となるよう、切蹉琢磨する教育を行うのが、医大の教育者の使命です。
「正師を得ざれば学ばざるにしかず」という言葉がありますが、正師に近づこうと努力したわけです。
◆ 定年後も人工股関節の開発に挑む
-- 先生は慈恵医大を退官後に、私財を投じて日本股関節研究振興財団を設立されていますね。
伊丹 はい。財団を設立したのは、主任教授を退官してから七年目の時でした。
股関節は、人間の六大関節の中で「要」といわれる関節です。関節面全体には、百五十~300キロもの負荷がかかっているのです。
現在、日本で股関節症を抱えている人は約三十万人ともいわれていますが、私が医大で教授をしている頃には股関節を悪くされている方がたくさん見えられたんです。
ですから私は股関節についての研究をし、自ら考案した股関節体操を患者の方にしてもらうことで、手術をせずに済む人もたくさん出てきました。そうやって、 自分で対処できるものは自分で防ぐ、 それでもどうにもならない方には、人工股関節を用いるんです。
-- それはどのようなものですか。
伊丹 人工股関節は、コバルトクローム合金やチタン合金などの金属やセラミック、プラスチックから作られており、それを直接体内に埋め込むものです。
しかしこの人工股関節には、いろいろと問題がございましてね。私が研究を始めた当時から、世界では多くの人工股関節が作られてきましたが、どの製品も患者さんを苦しめるばかりで、本当によいものは一つもないといっていい状態でした。
私はそれじゃいかん、ということで、人工股関節の研究を三十七年間、教授時代からずっと続けてきたわけです。そして日本股関節研究振興財団を設立するために、自分の住んでいた家を売却し、それを資金に充てたんです。
-- 家を売られたのですか。
伊丹 はい。しかし資金面の苦労はいまでも絶えません。昔はフォーラムやセミナーや国際会議等のイベントも催していたのですが、いまは資金的な問題でほとんど出来なくなってしまいました。その代わり、定年になった人たちが入れ代わり立ち代わりここに来て、財団の事務局で頑張ってくれているんです。どこまで頑張り通せるか分かりませんが、やれるだけはやってみよう、と。
-- 開発の方も苦労されたでしょう。
伊丹 それは大変なものでした。人間の体はそう簡単には人工物を受け入れてくれません。人体にとって、人工物はどこまでいってもやはり異物です。体内に埋め込んだ人工股関節を固定する骨セメソトを注入した後に、患者がショック症状を起こして死亡するケースがいまでもたびたび起きています。
私たちは大学教授やセラミックの大手企業などにも協力をお願いし、二十七年間、これでもかこれでもか、と研究を重ね、理想的人工股関節と思われるものに到達しました。そしてその人工股関節を用いて十年間で百七十の症例を集めました。結果的に、外国のものより格段に精度が高い製品を作ることができたんです。
-- その根底にあるのは、人の役に立ちたいという思いでしょうか。
伊丹 そう、 困っている人たちを何とかして救わなくちゃいかんという、何と言うか、もう......信念ですね。 それが医者の使命です。
◆ 戦死した兄貴の分まで生きる
伊丹 ところで、私の兄貴は自分で言うのもなんですが、優秀な医者だったと思います。当時の第六高等学校から東大の医学部に入りその後、陸軍軍医学校で教官を務めていました。
先述したように、私は戦地で研究を重ね、その論文を教授会に提提出するために、昭和二十年に一時帰国したんです。当時、私のように支那の陸軍病院にいる者は、太平洋戦争がどのような戦況にあるか、まるで分かりませんでした。
私はこのまま、お国の役にも立たないうちに、日本が勝って戦争が終わってしまうのではないか、という心配すらしていました。
再び支那へ帰るというその日、陸軍軍医学校にいた兄に、私はこんなことを言いました。
「南方で華々しく日本軍が戦っているようだから、陸軍省に行って、僕を南方戦線に送り込んでもらえるよう頼んでみてくれないか」と。そしたら兄貴がね、「そんな馬鹿なことを言うんじゃない!!」と言って、もう、凄く怒ったよ。もの凄い勢いで怒鳴られた。
ところが、他でもないその兄貴が、半年後に自ら南方戦線に出ていき、敵機の攻撃にやられて戦死してしまったんです。
-- ・・・・・・。
伊丹 おそらく、弟の私が「南方でひと働きしたい」などと言ったものだから、その一言が兄貴を刺激して、南方へ向かわせたのだと思っています。弟があんなことを言っているのに、自分が何もせず、ボヤボヤしているようじゃ申しし訳ない、と。あんなことを私が口にしてしまったものだから、私が兄貴を殺してしまったようなものだ、と思ってね......。
-- いまでもその思いが消えずに。
伊丹 私は中学時代から大学を卒業する時まで、ずっと兄貴と一緒に下宿をしていたんです。まさか兄貴が戦死するとは想像もしておらず、「終戦になったらどうするつもりだ」と聞いてみたことがありました。兄貴は「田舎に帰って赤ひげをやるんだ」なんて言ってた。そういう兄貴だったな......。
まぁ、そんな兄貴の分までね、 私は寿命の続く限りは元気で生きて、皆さんのお役に立ちたいと思っているんです。
初めにもお話ししましたが、医者は病気にならないように生きて、世間の人の模範にならなげればなりません。これから 黄泉 の国に旅立つまでに、「ピンピンコロリ ~病で死ぬな、枯れて死ね」の方法を著書にして、皆さんに読んでもらいたいと考えています。そのような指導ができなければ、本当の医者とは言えないと思います。
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