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この三連休を利用して、新潟まで帰省してきました。目的は、主人のお母さんの見舞い(元気な姿を見に・・・)と、野沢菜漬け、新米の買出し、そして、私の方の実家の祝若夫婦との別居生活の様子見に・・・とっても、有意義な旅でした。まず、5年振りに私の実家に泊まる事が出来、父、母と他愛もない話を、誰に気兼ねする事なく存分にしゃべりまくり、一緒に買い物に行き、料理を作り、お酒を酌み交わし、、、そして、すっかりと変った幼い頃に一緒に田畑の仕事をした、我が家の山々を小旅行の様にドライブして回りました。昔話をしながら見た、トンネル工事の為にすっかり変貌した山、田畑の様子は信じられない程の変りようで、びっくりしました。昔考えられなかった景色の一つ遠くの初雪の被った山の稜線です。そして、最近開通して通行可能になった、山越えの道を通って海に出ました。地元に住む父、母達も、初雪の山の風景に沈む夕日は見ることは少なくましてや、丁度地元の海に沈もうとしている夕日を一緒に見ることはあるようでありません。本当に30分ほどのドライブだったけれど小旅行に行った気分を味わいました日本海に突き出た山の稜線に沈む夕日ですそして、次の日地元の浜辺でくるみ拾いをしました。夏は遠浅の砂浜に海水浴客がいますが、今の時期はまさに冬の日本海です川には鮭が産卵の為無数に遡上しており、その様子も圧巻でしたでも、あいにく濁っていたのでカメラには撮れませんでした二泊して、今度は主人の実家へ、いつも明るく迎えてくれる、兄夫婦に感謝です抗がん剤治療に頑張る義母の様子は、すっかり髪の毛が抜け、顔色も悪く食欲も落ちていて、かつての明るく少しドジでひょうきんな義母の面影がどこか淋しげで、どうすることも出来ないけれどそれでも、息子である主人の顔を見るのがとても楽しみな様子で嬉しそうでした。年齢もあり、生きることに疲れたかのように、治療の辛さから、「もう、いい、御父さんの所へ早く行きたい」と、いつも、抗がん剤治療に行く時車に乗ると同時にお姉さんにつぶやくのだそうで、それをいつも聞きながら厳しいくらいにたしなめるお姉さんの辛さも察しられます、遠くに住む私達が出来ることといえば、少しでも元気なうちに顔を見に来ることしかありません。本当に、お姉さんに感謝です。よろしくお願いします。
2007.11.26
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博多に就職した次男が夏以来の帰省中です。でも、殆ど家にいません。一緒にご飯を食べることが出来ません。唯一家で食べられるという今日、私は夜勤です。それでリクエストを聞き、ロールキャベツを作りましたそして、頑張って夜勤前なのに、チーズケーキ焼きました。私って、なんて優しい母なんでしょ!・・・と自分で自分を持ち上げておいて・・・・何のことはない、今日の夜勤用のおやつを作る為でした。それでは、焼き上がったばかりのチーズケーキです。チーズケーキはこれで二回目の挑戦!!ひび割れてしまったのは、きっと、湯煎のお湯が足らなかったせいかな?惜しい!!!!
2007.11.21
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長男の夏休みは、8月の11日から21日までの長期休暇、、友人達と富士登山をして帰って来たのは、14日になってから、、、次男は19日から21日までの3日間、3男のアルバイト休みは15日から20日まで主人の休みはお盆休みと18日、19日の連休、私は19日と20日の連休なので、昨日19日が唯一、5人家族が揃っている夕食でした。メニューは、お決まりの焼肉、、、、午前中に庭木の剪定をして、ゴミ袋5袋分の剪定ゴミが出て、そして、ずっと処分をするのを保留していた(片付けられないでいた)いらなくなった学習机2台と、壊れた家電製品5台、古びた布団4組、カーペット3枚、植木鉢や、古着等など、一つづつ出しとけばよかった物を、取りあえず置いといてまとめてゴミに出したらいいという主人の考えで溜まりに溜まって、、、、大型ゴミ処理業者に依頼しました。これで3回目、、、一t車一台に山盛りになってしまいました。代金18000円也でした。高く感じますが、あれだけの量だと仕方ないかと思います。庭の一角にゴミを山なりに積み上げておいたり、押入れの中や、手がつけられない状態で各部屋において置いた物を、昨日は力強い3兄弟が揃っていたので一気に出す事にしました。あぁ~!!!!すっきりした。そんな力仕事を家族全員したので、2キロ用意したお肉見事に完食です。それにしても、3人揃うと賑やかで、子供同士の楽しそうな話し声は相変わらずでした。主人の特製のカレーライスや焼肉の夕食、いつもの食事を囲みながら、家族が揃うっていいなぁ!!と、しみじみ思った主人と私です。
2007.08.20
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私の故郷は、米どころでもありますが、山菜の宝庫でもあります4月は、米作りと山菜取り、山の雪で倒れた木の木起こしととても忙しい季節ですでも、その中でも、現金収入の少ない農家の家にとって山菜の現金収入は嬉しい物で、忙しくても必死に山菜取りをしていたのを良く覚えています年取った今の父、母にとっては年金収入以外に得られる現金収入として山菜取りは忙しいけれど、遣り甲斐のある楽しい仕事になっています採れる山菜は、蕗の薹、わらび、ぜんまい、うど、ふき、よしな、こごみ、たらの芽、筍、他にもありますが、私もおぼえきれません特にぜんまいは加工にも手間がかかって大変なのですが、とても良い収入になります。年寄り二人でこの4月の初旬から5月の中旬にかけての一ヶ月半で多い年は50万以上の収入になるそうですそのお金で、孫達にお小遣いをあげてくれたり、旅行費用にしたり入学祝いなどのお祝い金にしてくれています。ありがたいことです。それにしても、この山菜取りをしている時の父母のうれしそうな生き生きとした表情は格別です。年取っても出来る仕事があって、小遣いが出来て、孫達に喜んで貰ったり親戚に送って喜んで貰ったりするのがうれしくて仕方がないみたいです久しぶりに5月の連休に一泊二日の強行スケジュールで行ってきましたが父母の嬉しそうな顔を見たら、とてもゆったりとした気分を味わうことが出来ました都会で暮らしている小綺麗なお年寄りの上品さには程遠いけれど、泥や山菜の灰汁で真っ黒になったしわくちゃの手を見ながら嬉しそうに笑う屈託のない笑顔に癒された帰省でした
2007.05.05
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昨日田舎から、届いた荷物・・・今年は暖かく春が早い例年なら3月にならないと届かない春の香りふきのとうが、いっぱい入っていた。職場にも持って行ったらいいからと、大きなビニール袋いっぱい入っていたそして、しいたけ、さつまいもまさに、こんばんは天ぷらをしなさいって感じの材料そして、もう一つ磯の香り、昔食べたカタノリとコウカイという海草まだ、雪解け水が冷たい河口の海に、膝上まで浸かって80才を超えた父が獲ってきたもの懐かしさで食べる故郷の味磯の香りが口いっぱいに広がり小さかった頃の私の姿と今よりずっとしわの少ない、背中の伸びた父と母の姿が浮かぶ母は「ふき味噌」を作り、荷造りを指示し、父はふきのとうを獲り、しいたけを獲り荷造りをする昨日電話した時には、8時半だというのにもう寝た後だったそれで今日電話したのだけど昨日の荷物の中身のそれぞれの仕事の分担具合それぞれが、自分が獲ったもの、作った物の自慢!?苦労話「ふき味噌職場のみんなに大評判だったよ。クルミがおいしかったわ。 ふきのとうの天ぷら絶品だったよ」「かたのり、懐かしくて磯の香りいっぱいしたわ。しいたけもおいしかったよ」と、父と母が交代で電話口に出て、それぞれをおいしく堪能したことを伝えると なんともいえない、うれしそうな弾んだ声になる。本当にありがたくって嬉しいのだけど、年も年なので、張り切りすぎてすぐに無理をしてしまい勝ち・・・「気をつけてね。嬉しいけれど、無理をして海で波にさらわれたり、 岩場で滑って転んだら大変なんだから・・・」父「わかっている。でも、好きなことだから・・・その上に、 子どもにも食べさせてあげようと思ったら、つい張り切りすぎて その上、こんなに喜んで貰うとうれしくてなぁ!!!」と・・・・顔中をくしゃくしゃにして笑っている父の顔が、そこにいるかのように浮かんでくる。どうか、今年も元気に酸素ボンベを抱えて遊びに来てください。膝の痛い母と、酸素が手放せない父と二人で一人前なんだからぼちぼちとね。待ってるよ!!!
2007.02.23
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長男が帰省して来て、この正月を家族揃って過ごしました。私も、今回は30,31,1日3日と休みだったので、のんびりしました。夕食も普段は遅いのですが、夜のバイトに毎日出る(19時~翌8時)次男に合わせて、夕方の6時に家族5人が揃って食事をしました。本当に久しぶりです。家族団欒といいますか、長男はまだこの家にいるみたいだと言いますし、私も家にいた時と感覚的に変わらないんです。私は特別なことはしていないのですが、主人は、社会人になって出て行った長男が久しぶりに帰って来たということが特別みたいですね。普通に大人同士としての話が出来るのが嬉しそうで、食卓を囲んでみんなで食べること初詣に誘って長男が一緒に行くと言って、長男の運転で出かけたのが私以上にすごく嬉しそうでした。私は、いた時と同じ感覚で昨日も帰りが遅かった長男が、帰宅してから夕食を食べると言った時「あっ、そこに置いてるし、お肉焼いたらいいよ」みたいな感じで思わず言ったら、、、主人に「おいっ!!信じられへんわ。ちゃんと作ったりぃや!」と、怒られてしまいました。主人曰く「働いて久しぶりに帰って来ている息子に、 もっと優しくするのが普通だろう。学生で遊んで帰ったんならほっとけば いいけれど働いているのに、それ位したりぃや。お前信じられへんわ。」と、「働かざる者食うべからず」信念の主人。頑張っている者には、やさしくする。なので働いて帰省中の長男は、お客に近い存在みたいです。うちの家族が寄ると、みんなで話題になるのが仕事、バイトの苦労話、、、そしてみんなで苦労自慢、、、20日間休み無しで去年の年末年始働いた3男、自分でも友達に自慢出来る自分の持ちネタだと言います。この所、昼夜逆転で麻雀屋でのバイトを年末年始休み無しの次男、、、昼間は殆ど寝ているので、夕食の時から出かけるまでの2時間位見るだけ時給も1000円を超えるようになったから仕方ないわ、、と頑張っています。長男も、12月は帰るまで残業だらけでかなりしごかれている感じ、主人も、今年の業界の大ピンチの中、何とか年を越せるように頑張ってきました。うちの主人の口癖「常に始めに楽をしようと思うな。苦労して、少しずつしんどいことをしておいたら 後で楽になる。若い時に、楽しいことや楽ばかりしていたら、年取ってから 絶対苦労する。若い時だったら、苦労も無理してでも出来るけれど 年取ってから同じ苦労は出来ても惨めなだけ。 始めに楽しむと、後の苦労が倍辛く感じる。」そんな、口癖が何度も形を変えながら、子ども達に向かって言われ続け子ども達も上手に聞いておいては、父の前からすっと遠ざかって隣の部屋に行きます。一人ずつ社会人になって巣立っていく子ども達、とても厳しい面と、母よりも気遣いを見せる面を持つ主人の事、父としての気持ち、伝わってくれたらいいなと願いながらそんな、父と子のやり取りを見ていて、ささやかな幸せを感じている私です。
2007.01.06
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私の実家は、田舎の代名詞で使われる日本海側の米どころです。兄弟は兄、姉、私、弟の4人兄弟、実家は兄が両親と同居していて6人家族、弟は車で7分ほどの距離の所に住んでいて、姉と私は関西でそれぞれ所帯を持ち、田舎に帰れるのも1年に一回がいい所です。子どもが小さい時は、親も元気で、まだちゃんと代変わりもしていなかったので、私達も子どもを連れて3泊4泊とかしながら、海で海水浴やら、山へ行くやら里帰りをのんびりとさせて貰っていました。それでも、帰るときにはお土産、家へのお世話代として、小遣いを兄、義姉に渡し、ご飯作り等も一緒に台所に立ち、決して義姉に押し付けたりしていませんでした。これは、実家の母の教えでした(自分も若い時大変だったからと)。普通以上に実家の兄、義姉に気を使って、帰省するのに、旅費(約5万円)やお土産代(約5万円)等別に小遣い、、、と、かなりかかるので、他に殆ど旅行に行ったことがありません。それでも、両親に一年に一回位は逢いたいし、ゆっくり泊りがけでたわいもないことをしゃべりながら過ごしたいと思っていました。大きくなった孫の姿も見て欲しいしもありました。病気がちになった両親は、中々私や姉の所には来れません。それこそ一年に一回がいい所です。家から出てからは、そんな風で年に二回しか逢えない両親。経済的には、長い間、若夫婦を助けて来て、子守をして、働いている義姉の手伝いに家事一切を母がして来ています。長患いで、迷惑をかけることもなく、元気に畑仕事をして、野菜を作り、内孫達には、小遣いや各種祝い事にお金を出し、(外孫には半分以下です)、内孫の就職祝いには50万円を渡し、、、本当に両親も老後の事もあるし、嫁さんに気を使い、孫を精一杯可愛がり、長い間経済的にも助けて来ました。5年程前に父も75歳になり、兄に代を変わってから急に義姉の態度が変わりました。外に出た私と義姉ばかりか、近くで所帯を持っている弟家族でさえ、家に寄せ付けなくなったんです。田舎では当たり前のお祭り、正月、お盆に弟や外孫(ほんの近くに住む)を、実家の家に泊まらせなくなりました。遠くから、訪ねる私や姉家族でさえ、泊まっては困ると言います。部屋は、何部屋も余っていて、布団の用意などは母の仕事です。一泊分以上の土産も持ち帰りです。正直義姉に直接世話をかけていません。それなのに、世話をしなくてはいけないのが、嫌だからと、、、はぁ?って感じです。田舎の方は、今でも古いしきたりが残っていて、実家を継いだ長男(若しくは継いだもの)が、両親の扶養の義務と共に、財産の一切を家業を継ぐ為に一子相伝です。(うちは農家で山、田、畑、土地)等、一応両親を老後みて貰うのに十分な財産があります。外に出た者は、遺産放棄のハンコを付くのが普通です。でも、今回実家に泊まることを拒否され(お土産だけ受け取って)、実家なのにゆっくり寄ることも出来なかった情けなさと悲しさ、、、、年に一回の事なのに、それさえも許してくれない、義姉の心の闇!?と、その言いなりになるしかない実の兄のふがいなさに涙が溢れました。母と一緒に泣きました。母は言います。年寄りは、諦めて我慢して、それでも喧嘩をしないように一緒に居るしかない。同じ家に暮らしているのだから、、、とでも、ここ数年の義姉の態度で、そんなに怒りというものを感じない私ですが、情けなさで湧き上がってくるものがあります。権利ばかりを主張して、メリットがなくなれば切り捨てようとし、義務を果たそうとしないのであれば、私達長男以外の他の3人の同じ子どもとしての権利を主張しなくてはなりません。そして、当然の事ですが、扶養の義務も同じにしたらいいのだと思います。本当は相続の事でもめるのが一番親の苦痛なので避けたいのですが、後に残った親を守る為にも戦わなければならない時が来るかも知れません。同居しているお嫁さんの立場からすれば、言いたいこともあるでしょう。でも、お互い様の部分もあるんじゃないかと思うんです。とても、辛い帰省になってしまいました。
2006.08.16
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昨日、夜勤から帰ったら、小包が届いていた。雪深い新潟の実家から、春の喜びを感じる臭いもほのかなふきのとう、ワラビ、ウドの塩漬けそして、雪解けの水が冷たい初春の河口の海に入らないと採れないアオサという海草そして、去年の秋に採れたサツマイモその何れも、実家の両親の温かさが伝わってくる早速、お礼の電話をして、しゃべったほのぼのとした時間そして、昨日の夕食にはふきのとうの天ぷら、サツマイモの天ぷら他に野菜と鶏肉の天ぷらを加えそばを湯がいてアオサの味噌汁を添えて・・・食卓に春の臭いが漂っていましたそして、今日は休日サツマイモを見て、沸々と意欲が湧いたので初めてスイートポテトに挑戦しました出来上がりに大満足ですみんなの喜ぶ顔が浮かびますおとうさん、おかあさんありがとうまた、よろしくね!!
2006.03.20
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昨日、テレビで「生きててもいい?ひまわりの咲く家」を見ました。昨日は、ひな祭り・・・昼間は、仕事で、となりの養護施設にうちから移籍していった子供たちを本当に久しぶりに見ることが出来ました。一年ぶりでこんなことも出来るようになった、大きくなったねぇ、と職員のみんなで感激して、舞台での子ども達の踊りにスタンディングオベェーションです。もう、みんな我子(担当児)の踊りの一部始終に、その子それぞれの個性が相変わらずなので、笑ったり、喜んだり、大騒ぎです。手を振ったり、したらいけないのに声を掛けそうになったり・・・照れくさそうに、それでも一生懸命踊っている子やはり、マイペースで棒立ちの子客席が気になってきょろきょろしている子「かわいい、カッコイイ、○●らしい・・・」等などの声生まれて直ぐからだと長くて2年半位の間、、うちに来て家に帰ることなく隣に移籍したり別の施設に移籍したり、里子に行ったり、何とか家に帰ることが出来たり、入所してくる子ども達のうちからの退所の仕方は様々です。でも、いつも職員はうちにいる間、精一杯の愛情を注いで接しているけれどそれでも、唯一の人(親や親代わり)にはなれません。いろいろな事情で親元へ帰ることが出来ないと解っている子には出来るだけ早く、一番大変だけど可愛い赤ちゃんの時代に子どもを欲しいと心から願ってくれている里親さんに出会って貰い里子に行くことを願っています。そんな、昼間の仕事を通じての思いが残っている中で夜のこのテレビを見ました。始めの半分は見ることが出来なくて(主人が別のを見ていた)諦めようかと思っていたけれど、やはりどうしても見たいと10時からテレビの前に座りました。丁度、児童福祉士の人と面接中で「一週間だけ・・・」という事で養護施設に戻ることになった場面からでした。涙で一杯になりながら、見た中でも「あなたが故郷を失ったのがとても悲しい」と言った台詞・・・自分のルーツがわからないことで殆どの子供達が思春期に悩み苦しむと聞いたことがあります。どんな、事情で、どんな親で、私は生まれたのか?自分のルーツを知ることで、良くも悪くも自分の今までとこれからを考えて(受け入れて)改めて自分の生き方を考えたり、より親の愛を求めたり、拒否したり思春期の葛藤を繰り返すのだと言います。そんな時、親に甘えることが出来ない代わりに、誰か自分の持って行き場の無い苛立ちを受け入れてくれる誰か・・・真正面から、自分を受け入れてくれる人が必要なんです。反抗している時、自分ではぶつけるだけでその時は分かっていないのだと思います。後で反抗期が収まってからやっとどれだけ自分を受け止めてくれたかが、解ると思います。我慢の時期でもあるんですよね。実の親子だったらという、甘えや、何処か遠慮を感じたり、あるいは不安があったり難しいですよね。故郷は場所ではなくて、親(親の代わりに育ててくれた人)の懐なのじゃないかと私は思っています。
2006.03.04
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帰省して、私の実家の両親、実家の兄一家(4人)、実家近くに住む弟一家(6人)うちの家族(5人)で、実家から車で20分程の温泉宿に一泊しました。姉の家族は都合で来られなかったが、他の家族は全員揃った。去年結婚50周年を迎えた両親に去年、兄弟でお祝いをしたのだが、今回はそのお礼だという。父も80歳を超え、持病で癌の再発も繰り返しているのでこんな風に、子どもの家族が一同に会することもこれが最後だと覚悟しているのではないかと思う。比較的子どもの家族4家族とも、皆健康で、そこそこ幸せに暮らせている、それに皆仲良くしているその中で、好きなお酒を飲み、子どもや孫が優しい言葉や気持ちを示してくれる・・・それが、人生の終末期の親としての一番の幸せなんではないかと思う。豊かだったとは言えないが、一生懸命働き続けて来て子ども4人を育て上げそれぞれが独立して家庭を築き孫が結婚する年まで、自分も元気にいることが出来た。そのことに、満足して幸せそうな父と母の顔を見て、小さいことで言えばいろいろ不満な点もあったけれど、良かったと思った。若い時に苦労をした二人には、晩年は心穏やかに幸せな余生を送って欲しいというのが、子どもである兄、姉、私、弟4人の願いだからいい思い出になってくれたらそれが一番いいことなのだから。子どもだけなら、思いをまとめ易いが、それぞれが家庭を持ち他人であるそれぞれの連れ合いを持つとそちらの意見や思いが係わってくるので難しい。今回も決まるまでは、いろいろな葛藤があって、間に立った母の苦悩を招いた。実家の長男一家と両親の嫁舅問題・・・嫁さんの行動、言動に振り回される両親と、他の兄弟家族、、、全てがうまくいくものではないけれど・・・些細なこと、少しずつのボタンの掛け違い・・・思いやり、相手の立場に立った考え方が出来ればこうはならなかったという思いがある。なんにしても、父母の健康と幸せを祈らずにいられない。孫達の笑い声が救いだった。
2006.01.06
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今日、故郷の新潟から小包が届いた。中身は、ナス、サツマイモ、大根の間引き菜、枝豆、ピーマン80歳になる父と74歳になる母が丹精込めて作ってくれた新鮮ピチピチの野菜たち、、、こんな、小包が月に平均2~3回届く季節毎に品は変わり、海の幸が満載の時もあり、取れたての新米の事や懐かしい春の香りを漂わせてフキノトウや蕨やぜんまいなどの山菜の時があり、夏にはジャガイモ、夏野菜、秋には今日のような野菜の他にきのこや、栗が入っていたり、冬にはズワイガニやすけとう鱈・・・・書き上げてみて、今更こんなに豊かな小包を受け取っている幸せな娘がどれほどいるかと思う。 今更ながら両親の深い愛と、健康への感謝の気持ちが生まれてくる。年相応の衰えもあり、磐石な老後ではないがその残された老いの日々をそれなりに楽しみながら、日々感謝しながら生きている。そんな、二人に心からの感謝の気持ちが、どれほど伝えられているのか解らないが、とにかく二人の健康を祈り、小包の品々を無駄にしないように感謝して食するだけである。 おいしかったよ。また、楽しみにしているからね。そういう電話を入れるのが一番の二人の喜びであるようなので、こん夜も電話した。こちらの方も元気な二人の声を聞くとほっとする。 元気でいてくれるだけで、自分たちも頑張れる。今日も、電話する時は、故郷を遠く離れた子どものままの私が居た。
2005.09.24
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故郷の私の父が今年80歳になった。兄弟4人で2万円ずつ出し合い、旅行券を贈った。父ばかりでなく、母もすごく喜んでくれた。娘や息子たちがみんなでプレゼントしてくれたことがうれしかったようだ。田舎から、月に何度も届く小包にいつも感謝しているが、甘えるばかりで言うほどの贈り物は出来ていないように思う。 それでも、上洛した時には、京都の名所の数々を連れて歩いた。南座に連れて行ったり、天の橋立に行ったり、寺社、仏閣を60代70代前半まではいろいろ歩き回ることも、日頃の農作業に比べれば大丈夫と健脚を見せてくれていた。 そんな、元気な姿を年に1~2回見るだけで離れていても、見守られているという実感があって安心していた。でも、去年あたりから上洛するだけで精一杯のように、体力が落ちてきたのが目に見えて解る。 そうなると、離れて暮らす実家から出た私や姉はいつも何か不安で落ち着かない。 離れた土地に嫁いだことが後悔さえされる。そうなってみると、やはり故郷というものは、場所ではなくて、父や母の笑顔、懐なのかと思えてくる。 しわくちゃの笑顔や、「おぉ、きたか?元気か?」の声が涙が出るほどうれしい。 主人の父は2年前に亡くなり、今はいない。最近、父と最後に撮った写真を引き伸ばしたら、すごく主人が喜んだ。 主人にとったら、故郷の片方がもう逢いたくても逢えない。心にぽっかり穴が空いているようだ。と、いつか主人が言っていた。もっと甘えておけば良かった。安心させようと思って「大丈夫だ、頑張っている」とばかり言っていたように思うと、洩らす。 「実家に一緒に暮らす兄たちは不満や愚痴をよく言っていたけれど、俺は、もっとよく頑張ったな、すごいぞとか、もっと褒めて欲しかったんだと思う。でも実家に帰った時は兄家族の手前、親父も俺の事を思っていても直接褒められなかったんだろう。だから、自分の兄弟との旅行の時には気兼ねなく褒めていたのだろう。おじさん、おばさんは逢うと頑張っているな。と言ってくれたのはそういうことだろう。でも、親父が亡くなってこの頃、兄貴がようやく俺の頑張っている事を認めるようになってきたと感じる。もっと、早く親父が元気なうちに話しとけば良かった。」 ・・・と、写真を見ながら呟いた。84歳で亡くなった父と主人の関係、、、来年春、社会人となって、家を出て行くうちの長男、次男主人も、私も実家から遠いことをこの頃後悔している。家から巣立っていく息子たちに寂しさを訴えているのは私より主人の方なのだ。
2005.09.07
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