2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全40件 (40件中 1-40件目)
1
原発の再開問題で、誰もが合意できる項目 原発の再開問題を「思想の対立」ではなく、民主的手続きに沿って、異論があるのを認め、合意できるところは合意するのが日本国のためによいだろう。次のことは誰でも日本人なら合意できると思う。 1.震度7で壊れては困る(地震国に建てる原発の最低条件)、 2.少し高い津波が来たら爆発してもらっては困る(多重防御をする)、 3.原発の電気を受け取るなら、核廃棄物も受け取る(大人なら)、 4.120万本以上の核廃棄物を子ども達に任せたまま原発を再開しない、 5.事故が起こったら発電所から直接消防に連絡する(企業の社会的責任)、 6.事故が起こったらNHKは事実をそのまま報道する、 7.スピーディーなどを隠さない(隠蔽体質を変える具体的システム)、 8.逃げるためのバス、マスク、ヨウ素剤、疎開先の学校を準備する(救命ボート) 9.汚染された農作物などの食材を出荷しない、 10.被曝の限度は法律を守る(法律を隠さない)、 まずこれらを合意し、具体的な議論を専門家で進め、その結果を国民に提示して合意ができるかが「民主的手続き」である。最後は国民投票をして、この困難な問題を解決するのが適当と考える。 (平成24年5月28日) 「tdyno.97-(5:32).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月31日
コメント(0)
専門家は誠実に・・・99.9%除去というのは意味が無い 島田市の瓦礫焼却について、私のブログの記事について島田市が「間違っている」と言い、その一つの理由に、「安全性の目安となる値(排ガス:セシウム134は20ベクレル/m3、セシウム137は30ベクレル/m3、焼却灰は8,000ベクレル/kg)を大きく下回っており、安全性の面で全く問題ありません。また、排ガスのばいじん濃度 も定量下限(0.004~0.005g/m3N)未満であり、バグフィルターのばいじん除去性能が正常に働いていることが確認されています。」とあります。 私自身は批判ぐらいはかまいませんし、島田市が瓦礫焼却をするのが適切かどうかは、島田市の人や周辺の人がご判断されることで、島田市や私はその判断に役立つために、正しい情報を提供することが役割です。島田市も市民の健康を犠牲にして瓦礫を引きうけようとしているのではないとおもいます。 その意味では、市民に示した上の文章は訂正してもらいたいと希望します。放射性物質が他の物質と違って「目に見えないほどの量が危険」という特徴があります。たとえば、島田市は「バグフィルターの除去率が99.9%であり、煤塵濃度は0.004~0.005g/m3N以下だから大丈夫」としていますが、セシウム137は1グラムあたり3兆ベクレルですから、仮に0.003gでも1立方メートルあたり100億ベクレルになり、同じ文章の安全性の目安とされる30ベクレルの実に3億倍になります。 つまり、「排ガスのばいじん濃度 も定量下限(0.004~0.005g/m3N)未満であり、バグフィルターのばいじん除去性能が正常に働いていることが確認されています」という内容は専門的に言うと、「だから危険なのだ。とうてい焼却できない」ということになり、この時の除去率が99.9%とすると、現実は99.9999999・・・%でなければならないということなのです。 つまり、重量で示した「ばいじん除去性能」というのは「放射性物質がどのぐらい漏れるか」という点では何の意味も無い数値ということを示しています。専門家にとってはあまりに簡単なことを説明を聞く人が「グラムとベクレルの換算が出来ない」として説明するのは誠実みがありません。 排ガスに含まれるセシウムについては、フィルター性能から計算したものではなく、投入量と捕捉量からマスバランス計算でだしたもので、それは島田市も充分にしっています(私以外にも計算値を市に示している方がおられます)ので、回答自体が正確ではありません。なぜ事実と異なることを公共機関が回答するのかはまた検討が必要です。 多くの自治体が「ばいじん除去性能」を瓦礫処理に際して市民に示していますが、一般の煤塵と放射性物質では健康に及ぼすレベルが全く異なります。どんな数値も誠実でごまかしのない数値を使ってもらいたいと思います。私は瓦礫の処理に反対ですが、自分に不利な数値もそのまま使います。それが国民に対する専門家の誠意と義務です。 また最近、自治体の公務員の人で国の方針や市長の命令だからというので市民に事実ではない言動が見られますが、自治体はその自治体を構成する市民のためにサービスをしているので、職務の命令よりもともとの職務の義務が優先します。これについては慣例でも判例でも示されていますので、公務員の倫理をもう一度、思い出してください。 (平成24年5月26日) 「tdyno.96-(5:38).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月30日
コメント(0)
日本だけ(4) 長崎造船所と機械に取り組む侍 ペリーが浦賀に来て数年。日本はオランダの技術的援助を得て勝海舟らが黒船を長崎から江戸に単独回航出来るまでになります。これはアジア、アフリカ諸国にはなかったことでした。「japan4nagasakitdyno.74-(7:28).mp3」をダウンロード (平成24年5月26日) 武田邦彦
2012年05月28日
コメント(0)
結婚相手を選んでいる? 理想の相手?? バラの花は実に美しい。私が男性だからかも知れないが、特に深紅のバラが好きだ。なんでこんなに美しいものがこの世にあるのかと思うほどだが、科学者でもある私はすぐ疑問がわく。もともとバラは人間に美しいとみられたくてあんなに美しくなったわけではない。昆虫が自分のところにやってきて蜜を吸い、その代わりに花粉を運んでくれるためだ。人間の手によって改良されたバラもあるけれど、野菊やタンポポのようにあまり人間の手で改良されていない花も美しい。昆虫は昆虫の異性に魅力を感じるが、人間でゴキブリに魅力を感じる人は少ない。ハチのオスが魅力を感じるのはハチのメスとタンポポだから、人間が昆虫に魅力を感じないで花を美しいと思うのは実に奇妙である。この謎を解決しようと、今まで「昆虫の目で見た世界」をコンピュータで示したものや、「バラはなぜ美しいか」を美学の専門家にお聞きしたりしたけれど、まったく解明できない。それなのに、人間はバラを美しいと思い、クレオパトラを美人という。・・・・・・・・・男性は結婚相手に美人を選ぶ。でも美人というのは顔が美しいとか、プロポーションが良いとか、可愛らしいとかいうものだから、「人間としての女性」そのものではない。つまり単なる見かけである。その見かけも「バラが美しい」と思うような判断基準だからきわめて怪しい。「幸福な結婚生活」と「バラが美しい」との関係を理論的に説明できる人はいないだろう。ということは、「男性は結婚相手を選んでいない」と言うことでもある。「選ぶ」というのは「自分に似合っている人」だが、まさか「美人が自分に似合っている人」などというはずもない。つまり、男性は結婚相手を選んでいるわけではなく、単に「美人」という遺伝的判断基準を持っているに過ぎない。ただ、自分の遺伝子を残すチャンスが多いという生物学的な点で言えば、美人と結婚すれば美人の子どもが生まれる可能性が高く、その子どもも結婚のチャンスが多いから結局、美人を選ぶと言うことだけである。つまり、男性は「結婚生活が幸福になるような、自分にふさわしい人」を結婚相手に選ぼうとしているのではなく、自分の遺伝子を残したいので美人を選ぶに過ぎない。だから、結婚生活の幸福という点では全く「相手を選択していない」と言うことになる。女性が「お金持ち、力持ち」を選びたいというのと、男性が「美人を選びたい」というのはいずれも動物学的に遺伝子や優れた子孫を残そうと言うことで、結婚生活の相手を選んでいないと考えられる。そこに現代の婚活や結婚生活の問題点があるように思う。現代の結婚には二つの意味がある、一つが子孫を残すこと、一つが知性的に幸福な結婚生活を送ることだが、まだ結婚に当たって、この二つを満足する指標(美人とか何とか)を探すことが出来ないので、離婚に至るケースが多い。つまり、現代人は精神的な満足を求めているのに、未だに動物学的は判断だけで結婚相手を選んでいることになる。・・・・・・・・・ ところで、子孫とは別に結婚生活に適した相手を見つける指標、それは第一に運命、第二に遠い人ではないかと思う。この世には運命というものがあり、人はそれに従って生きている。だから結婚のチャンスがあったと言うだけで相手とは何らかの運命のつながりがあり、それは一つの大きな条件になるだろう。もう一つは、遠い人である。結婚生活は二人で新しい生活を作っていくのだが、それには「相手は違う人」という感覚があった方が成功する。あまりに近いと、相手の考えていることがわかり、それが自分と違うとうまくいかなくなるが、思い切って環境が違うと元々違う同志が一つの生活を作り上げていくのだから、うまくいく。でも、どんなに近くても男性と女性、年齢も違うのだから、いずれにしても遠い人であるのは同じだ。遠い人でも近い人でも遠いと思って結婚生活をするのが良いのだろう。 「rosetdyno.90-(6:50).mp3」をダウンロード(平成24年5月19日) 武田邦彦
2012年05月27日
コメント(0)
なぜ、原発がダメなら「再生可能」なのか?(1) 世界との違い 地球温暖化を怖がって「CO2を削減しているのは日本だけ」というのはすでに日本でもある程度、知られるようになった。また「温暖化すると南極の氷は減る」と思っている人が多いのも日本だけで、両方とも「環境省のウソ」によるもので、日本人の幸福より利権を優先する環境省の体質が良く現れている。 それと同じものが「原発がダメなら再生可能エネルギー」ということで、今でもアメリカの2倍である電気代をさらに2倍にしようとしているのが環境省だ。まず、私たちがごまかされてはいけないのは、「原発がダメなら再生可能エネルギー」と考えているのは日本だけで世界は「石油、石炭、天然ガス」を使おうとしている。 この図は2005年に示された世界のエネルギーの状態だが、経済発展に伴って増えるエネルギーは「原子力、再生可能他」ではなく、「石油、石炭、天然ガス」なのである。この当たり前の現状と予想と、日本のマスコミの話題とがあまりにかけ離れているのを、日本人はどう思うのだろうか? 温暖化の時には、京都議定書の内容も、南極の氷、北極の氷について環境省を中心として伝える側に作為があったので、日本人がだまされたのは仕方が無いが、今回はデータはオープンになっている。それでも、日本人全体がまるで催眠術にかかったように「原発がダメなら再生可能」と短絡している。 今、石炭や天然ガスの火力発電所を急いで作り、日本がその国力にあった2億キロワットぐらいの発電容量まで行けば、電気代は2分の1になり、産業はまったく困らない。反対に太陽電池などをやると、電気は使えず、電気代は2倍(1キロワット42円=日本産業の破壊)になる。 ・・・・・・・・・ なぜ、こんなに簡単なことが日本社会でいきわたらず、報道は「原発がなければ再生可能」と言い続けているのだろうか? 太陽光発電はダメだが、その他の新エネルギーは悪くないものもあるが、今すぐ間に合うということを言えば、石炭と天然ガスだ。 第一の原因は「原発を再開するために、故意に高い太陽光発電や見込みのない再生エネルギーを出して、石炭や天然ガス火力をつらないようにしている」ということが考えられる。国を売っても自分の利権という時代だから、このぐらいのことは考えるかも知れない。 第二は、日本人はあまりに自信が強すぎるのではないか?とも思う。いくら「日本独自」と言っても諸外国の動向とその理由を考えずに、井の中の蛙のように自分だけの考えにとらわれるのは奇妙である。「日本だけ」というシリーズを整理しているが、日本だけの良い面と「日本だけ」というのを使い、多くの人が英語を読むのがイヤな国民性を利用して利権を狙っている可能性もある。 あれもこれも、これも「税金がありすぎて、配る余裕があるから」だから、そんな中で消費税の増税が議論されていることも日本の指導層の公平性が失われているように思う。最近、テレビの政治討論番組がおもしろくなくなったと感じるのは私だけだろうか? (平成24年5月25日) 「tdyno.94-(5:46).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月26日
コメント(0)
(速報)北九州報告・・島田市と併せて (思想を含まず、科学的に整理しました) 北九州市で瓦礫が焼却されました。前後の線量率変化を整理してみます。まず観測点1では、次のようになったようです。 焼却開始前の線量率 北九州市民家 最低0.05―平均0.06―最高0.09μS/h 2012年5月23日から24日 日明焼却場で瓦礫焼却 同年 5月24日から25日 新門司焼却場で瓦礫焼却 焼却後線量率 北九州同一箇所 最高0.14μS/h ・・・・・・・・・ 北九州市はやや自然放射線が高いところですが、福島原発事故前は0.04μS/hだったと推定されます。従って、事故後、いろいろなものが運搬されて約1.5倍になっていると思われます。それに今回、瓦礫を焼却したので、データからはさらに少し上がっています。推定では2倍程度になったと考えられます。 すぐ逃げなければならないということはありませんが、瓦礫の焼却は中止した方が良いでしょう。 ・・・・・・・・・ 一方、他地区に先行して瓦礫焼却を行った島田市ではセシウムの漏洩が見られています。 この表は実測を元に島田市の方が計算したもので、瓦礫の中に含まれるセシウム137が34.3万ベクレル、そのうち、最終的に無管理状態で空気中に飛散したのが11.2万ベクレルで、捕捉率は32.7%で、瓦礫の中に含まれていたセシウムの約3分の1が島田市の大気に出ています。 一般ゴミの場合の固形物の捕捉率は99.9%ですから、セシウムが捕捉しにくいことがわかります。セシウム134はこれより少し少なく、ストロンチウム、プルトニウムは測定されていません。 また、島田市の瓦礫焼却による島田市の空気中の放射線量については、京都大学の方が測定を行っており、次のグラフが公開されています。 これによりますと、島田市の松葉に付着した放射性セシウム量は焼却によって平均1キログラムあたり3ベクレルほど上昇しています。牧之原市、静岡市については変化が少なく、ハッキリはわかりません。 以上のことから、島田市においても瓦礫の焼却を続けると汚染の拡大が心配されます。特にセシウムの他にストロンチウムやプルトニウムを含むものが東北の海岸線などからもたらされた場合の影響はまったく不明です。 ・・・・・・・・・ 瓦礫の中には放射性物質が含まれており、受け入れ瓦礫ばかりで無く処理プラント(放射性物質を取り扱う許可を得ていないプラント)内で1キロ100ベクレルを超えることは法律的に認められていません。従って、北九州市も島田市も法律違反であることは間違いありません。 文科省が公開している1キロ100ベクレル(正式には1年10μS/h)を超えるものを扱った場合の罰則を文科省の図をそのまま示しておきます。 このように「福島原発以前」なら、北九州市長も島田市長も懲役か罰金になる可能性のある行為ということになります。今朝、テレビを見ていましたら、「瓦礫の搬出に反対する人は論理的ではない」との発言がありましたが、その理由は「測定しているから」ということですが、測定値を見ると「法律違反」ですから、「お上が測定しているから、庶民は文句を言うな」というのでは封建主義のようなものです。 瓦礫を引きうけるとその土地が汚染されるのは当然で、「東北の人の恩に報いるために、自分たちの子どもを被曝させる」ということですから、まさに「国のために死んでくれ」を連発した戦争前に戻ったようです。 なお、福島のお母さんは「自分たちの苦しみを他県のお母さんに経験させたくない」と瓦礫の搬出に反対しています。誰のために、何のためにやっているのか、市長の腹の中が見えるようです。 (平成24年5月25日) 「tdyno.92-(9:22).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月25日
コメント(0)
原発再開の最低条件(5) 国民の合意 体調管理に失敗し、皆様にご心配をおかけしました。まだ本格的ではありませんが、今日から助走に入りたいと思っています。ところで、臥している間に北九州で瓦礫の焼却がはじまりました。日本人にとってこの事件は深い傷になるでしょう。 事故の前、少し乱暴な言い方ですが、「安全な原発を目指そう」という人はほとんど見られず、「どうしても原発を運転する」という人たちと、「どうしても原発を阻止する」という人たちのいがみ合いでした。事故の後も同じような感じです。 私は「原発は安全でなければダメになってしまうから、推進派も反対派も同じはずだ」という立場でしたが、事故前も少数派、今でも少数派です。 なぜ、同じ日本列島に住んでいるのですから、他人の意見を尊重して話し合いのテーブルに着かないのでしょうか? かつての推進派の考えは「どうせ、反対派と話しても意味が無い。なんでも反対だし、もともと科学のことなどわからないのだから。原発が安全だということがわからないし、日本の国際競争力がどんなものかもわかっていない」ということで、政府要人、東大教授、原発関係者などがこのような考えでした。 でも、この考えの中で、1)原発が安全だ、ということと、2)もともと国際的には日本の電力は高いので考え直さなければならない、という点について、今回の事件で主張出来なくなったのです。ですから、推進派の人は「反対派は科学がわからない」という考えを少し後退させて話し合いのテーブルに着く必要があるでしょう。 一方、反対派の中で「原発が安全かどうか考える必要は無い。もともと核エネルギーを人類が利用する自体が誤りだ」というということを強く言う人がいますが、それは少し後退できないでしょうか? 人間は原始人から見ると「やってはいけない」ことを次々とやってきました。空を飛ぶヒコーキ、人間が箱の中で歌うテレビ、どこでも人の声が聞こえる携帯電話、人間の体に若干の影響を及ぼす電子レンジ、自然の水ではなく塩素を入れて殺菌する水道、食料の6割を輸入してそのうちの半分を捨てる日本人・・・一つ一つを採ってみると「そんなことしないほうが良いのに」と思うものでも、全体として必要なものとして受け入れてきました。 もちろん、これらのものは人間の文明を破壊する可能性もありますが、大きくは日本人が合意して日常生活に取り入れているものです。反対もありますが、民主主義ですから全体で合意して、部分的には手当をするという感じです。 ところが原発については、「最初に結論ありき」で対立するものですから、有意義な対話ができません。でも、民主主義というのは、お互いの「違い」について「同意する」のではなく「違いがあることを認める」ことから始めて、「どこが違うのか」を確認し、「それが克服できるものか」を議論し、「克服できなければ多数派の意見を取り入れるが、少数派にも配慮する」というプロセスを守ることです。 2010年だったと思いますが、私は原子力委員会の研究開発部会で「原子力関係者は原発が安全だと思っているが、国民の多くが危険だと思っているのだから、「危険だ」という立場で研究費を出したらどうか」と発言したことがあります。この発言は採用されませんでした。 日本にはまだ「自分と違う考えがある」ということ自体を認める習慣がないように思います。原子力委員会は原発推進(原子力利用)の立場ですが、原発が危険であれば推進できず、国民の不安を取り除くことが大切だからです。 私の提案に対して、委員長が「広報活動をやります」とお答えになったので、私は「広報活動ではありません。私たちが原発は危険だという前提に立つのです」と説明しましたが、理解されることはありませんでした。「原発は危険だ」というのは「科学」ではなく「思想」の問題とされたのです。 ・・・・・・・・・ いろいろな反論があると思いますが、今回の原発事故は私たち大人が「我を張っている」間に原発が爆発し、その被曝は子ども達が受けています。今回の北九州における瓦礫(低レベル廃棄物)の焼却は、その狂気が続いていることを示しています。 素直に考えれば、放射性物質で汚染されている瓦礫を東北から遙か九州に運び、そこで焼却するなどということは考えられません。私の知っている東北の人は震災の被害でも他の地域や国から多くの援助をいただいたことに感謝しています。原発も自分たちが受け入れたことは間違いないので、それについての判断に責任を持とうとされています。 決して、東北の人が他の地域に被害を与えようとしているのではないと私は思うのです。この際、東北の人から「他の地域の人がいやがっているのだから、自分たちで処理する」と言ってください。 九州に瓦礫を運んだ第一の理由は、政府のメンツ、第二の理由は九州にお金が行ったということと思います。この二つははたして日本の将来を明るくするものなのでしょうか? 私は瓦礫を運搬するのに携わった「瓦礫運搬派」の人にもう一度、考えてもらい、九州にも汚染を心配している人がいて、その人達は「考えが足りない人たちではない」と思ってもらいたいと願います。 (平成24年5月24日) 「tdyno.84-(9:30).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月24日
コメント(0)
保安院、必死の抵抗・・・どうしたら原発を危険にするか?! 2006年、原発の地震指針の改定は、原子力安全委員会―基準部会―指針作成委員会 という組織で検討が進んでいた。すでに指針作成委員会では、あまりにいい加減なそれまでの地震指針に対する異議がでて、一人の委員(大学の先生)が委員を辞任していた。 私が所属する基準部会に、原案が上がってきたときには審議自体がきわめて異様な雰囲気だった。「この地震指針は何が目的ですか?」という私の質問に担当課長は答えになっていない答えをして時間を稼ぎ、横にいる委員長も十分に言い含められていて、何もいわない。 原子力の委員会は原子力基本法で決められているように「自主、民主、公開」の3原則があるので、マスコミが同席している。でも原発は危険だという内容の議論は全く報道されず、最終的な官僚的結論だけが報道される。マスコミ以外の傍聴人はほとんどが原発関係者だから公開の意味を持っていなかった。 「民主主義とは勝ち取るものであり、それを維持するには不断の努力がいる」と言われるがまさにその通りで、「お上を信用する」などと言う日本の文化とは今のところ相容れないのである。 ともかく、2006年に新しい地震指針を作るに当たって、保安院は「古い地震指針を形式的にだけ改正し、何も変わらない」というスタンスを取ることに全力を注いだ。そうしないと「これまでの原発は危険だった」と言うことになり、全国に訴訟が起こってそれを止められない・・・「原発が危険なままである」と言うことには役人は責任を追及されないが、「原発の訴訟が頻発する」ことに対しては「管理」を問われるからだ。 2006年、保安院が原子力安全委員会に対して「地震指針は変わっていないということで行く」という圧力をかけたことが報道されているが、保安院は終始「原発をいかに危険に保つか」に全力をあげていた。この事件はその一幕に過ぎない。 ・・・・・・・・・ 日本国民はこのことをまだ認めない。理由は「役人は正しいはずだ。日本国のために働いているはずだ」という形式論に縛られているからだ。でも「日本国のために働く」などという役人は100人に1人ぐらいしかいないので、周囲の圧力でつぶされていく。現在、出世している役人は「日本のためより自分の保身」に終始している役人だけである。 だから地震指針の改定に当たって、保安院は「安全な地震指針を作りたい」という委員に対して最大限の抵抗をしたのである。それに対して抵抗できなかった東大教授などの主要な学者は目の前に「勲章」がぶら下がっていて、どうにもならない。 一般の日本人は定年を控えた東大教授などの主要教授が、やがて70才ぐらいでもらう「天皇陛下」からの勲章のことばかり考えている。勲章は天皇陛下からもらうように錯覚しているが、陛下は決定のご意見を述べられない。すべては官僚が決めるから、官僚に逆らえば勲章はあきらめなければならないのだ。 今年から「勲章をもらった人を蔑む」という運動でもすれば、少しは委員会の議論はまともになるだろう。勲章は陛下からいただくものではなくなっているからである。 いずれにしても本来原発の安全性を守る一つの組織である保安院が、実体的には「原発を危険に保つ」と言うことに全力を注ぐ姿、それが2006年の地震指針での保安院であった(「原発の安全」を保つのではなく、「危険に保つ」ですから、注意してください)。 人間とは恐ろしいもので、原発が安全であることが何よりも大切なのに、「原発が訴訟されることを防ぐ」という目的があると、自分たちが「原発を危険にする」のに躍起になっていることに気がつかず、また気がついても村の中でそれに「おかしい」と声を上げることが出来なくなってしまう。 (平成24年5月19日) 「tdyno.89-(7:31).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月23日
コメント(0)
人生の落とし穴:::35才脳死説・・・寂しく昼食を採る人たち 4月に入社した新人は5月になって元気にやっているでしょうか? 5月病といって少しなれてくると体調を崩す人もおられるようです。ところで、人生にはいくつかの落とし穴があります。原発を引き受けてお恵みをもらい、すっかり働く意欲を失ってその方が没落していくのを見ると、これもまた落とし穴の一つと思います。 4月に希望に満ちて会社に入った若い人も、そろそろなれてきた頃と思います。もし若い人がこのブログを読んでおられたら、私の経験を一つお話ししたいと思います。 この図は「35才脳死説」を説明したグラフです。大学を出て就職した直後は、平社員で上司の命令通り動けば良いのですから、楽なものです。大学で習ったことなどほとんど役に立ちません。常識の範囲で立派に仕事をすることが出来ます。 ところが、永久に平社員であることは希で、30才を少し過ぎた頃に、課長や店長など責任ある立場に立ちます。コンビニエンスストアーなら、それまで「ハイ!」と「笑顔」で良かったのに、「何が売れるか?」を的確に判断しないとダメになります。工場では生産設備を、研究では学力が、そして営業では人付き合い、見通しなどが求められます。 しかし、すでに10年もサボってきたので、急に要求レベルが高くなってもそれに応じることが出来ません。そして、自分の力を見つめてみると「とうてい、求められるレベルに到達できない」と感じるのです。 人間は生物ですから、「ダメだ」と思うとその苦痛から逃れるように全力を尽くします。それが「脳死」なのです。あれほど活発だった彼、いつも昼になるとみんなでわいわいと食事を楽しんでいた彼、その彼がひっそりと椅子を立ち、肩をすぼめながら歩き、黙って一人で昼食を採っているのです! 彼が楽になる方法、それは脳の活動を止めて死んだように生きることなのです。だから食事は一気にまずくなり、友人と話しながら食べるなどは苦痛です。私はそのような若い人をよく見てきましたが、平均的には35才程度のように思います。 「35才脳死」、その後に来る50年の人生は灰色で楽しみはほとんど無くなります。ただ愚痴っぽい老人になっていくのを見て、哀しくなります。もし、やがて来るジャンプ・・・平社員から課長へ・・・の時のために準備を怠っていなければ、彼の人生は生き生きと活気に満ちたものになるでしょう。 人生にとって出世というのは意味が無いように思います。それより自分の人生が充実していること、それこそが自分の人生です。だから、少しずつする努力は出世のためではなく、自分の人生のためなのです。 (平成24年5月15日) 「35yeardeathtdyno.86-(6:16).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月23日
コメント(0)
4号機の燃料プールの計算・・・危険か安全かを科学のレベルで議論しよう! 4号機のプールが危険だという人が多いのですが、その根拠が学問的に示されず、ただ「危険だ」、「人類の終わりだ」ということが先行しています。ここで「4号機の問題を科学で考える」ことを試みます。もしご異論がある方は科学的な反論を期待します。 ・・・・・・・・ 原子炉は停止すると核爆発は止まり、その後、最初は短寿命核種が崩壊してその崩壊熱が高いが、短寿命核種は早い時期に崩壊するので、どんどん崩壊熱は低くなる。 東北大学流体力学研究所がネットに一般公開している論文(この図)によると、この図のように原発を停止してから3日ぐらい経ったときに、約8メガワットぐらいの出力がある。もともと運転中は核爆発による質量欠損を加えて800メガワットで、そのうち10%が崩壊熱とされているので、停止の時が80メガワット、さらに3日後にその10%の8メガワットになっている。 さらに原子炉の方は1年後には、さらにその10分の1の0.8メガワットになっている。つまり原子炉は、運転中:停止直後:停止3日後:停止1年後=1000:100:10:1 となっていることがわかる。 一方、使用中および使用済み核燃料の方は短寿命核種がないので、崩壊熱も徐々にしか減らない。たとえば4号機は事故の時に4メガワットだったが、1年後はその2分の1の2メガワットにしかなっていない。つまり、かつては1号機から3号機の方が崩壊熱が高かったのに、今では4号機のプールがもっとも崩壊熱が高いことになる。これが「4号機が危ない」ということになっている原因と思われる。 ところで、エネルギー換算では1キロワット時は860キロカロリーだから、動力単位で2メガワット(メガは10の6乗)は2000キロワット(キロは10の3乗)、つまりエネルギー単位で1時間で2000キロワット時になるので、それをエネルギー単位のカロリーで表現すれば172万キロカロリーである。燃料プールの中の水が突如として無くなり、空だきになったときには、毎時172万キロカロリーの熱が出ることになる。 ・・・・・・・・・ 一方、20℃で1キロの水を燃料プールの投入すると、それが100℃まで上がる時の熱(顕熱)80キロカロリーと100℃で蒸発するときの潜熱539キロカロリーの合計だから、1キログラムの水で619キロカロリーの熱を奪うことができる。つまり、172万キロカロリーを619キロカロリーで割ると2779キログラム=約3トンの水ということになる。 1時間あたり3トンの水を4号機に投入できれば、4号機の燃料プールは100℃にすることができる。蒸気がでるので少し気持ちが悪いけれど、セシウム化合物の沸点より低いし、ヨウ素などの気体の放射性物質はすでに少なく、かつ100℃では燃料の被覆に使われているジルコニウムなどが水と反応するような高温ではない。 つまり若干の放射性物質が出る可能性もあるが、「すべてが終わり」というような状態とは全く違う。だから問題は1時間3トンの水を4号機のプールに入れることができるかということだが、2011年3月20日、つまり事故直後に消防車が4号機に注いだ水が1時間80トンだったから、その20分の1以下の水量だから、十分過ぎるほどで、水の蒸発はほとんど無く4号機のプールから放射性物質が大量にでることはないことがわかる。蒸気の計算に20倍の甘いところがあっても大丈夫ということになる。 また、プールが崩壊して燃料棒が4号機の床に落下してもその上から水をかければ良いので、これも同じである。従って、4号機のプールが破壊して燃料棒が落下しても、プールは破壊せずに水だけが抜けても、若干の消防車が駆けつければ冷やすことができる。燃料同士がバインドされていないので、大規模な臨界に達することもない。 ・・・・・・・・・ このような計算をすると、「4号機が危ない」ということにならないのだが、計算が複雑だから私が間違っているかも知れない。読者の方のチェックを期待します。 (平成24年5月15日) (注)東北大学のご論文はネットでオープンになっていましたので、それを使わせてただきました。 「fukushima4tdyno.88-(6:40).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月22日
コメント(0)
人間はどのような行為が蔑(さげす)まされるのか? 人は一人一人、人としての尊厳を持っています。それは背の高さとか英語ができるとかそういうものではなく、「日本人としてまともに生きていれば、その人には尊厳がある」と言うことです。ここでいう「まとも」というのは病気と闘って入院している人も、まともな人生を送っておられます。 そんな人間でも尊厳を失うことがあります。それは「働けるのに働かず」、「額に汗して得るお金では満足せず」、「人のお恵みを受ける」という状態です。たとえば仕事ができて収入があるのに、理由をつけて仕事をせずに生活保護を受けるようなものです。どうしても働けずに生活保護を受けるのは「まとも」ですが、働くのをいやがって生活保護を受ける人は蔑まれます。 福井県大飯町は原発の受け入れを町議会で圧倒的多数で決めました。理由は「あまりにも貧乏で、電源三法によるお金を必要とする」ということのようです。大飯の原発の電気は大阪の人が使うのですが、大阪湾では危険なので、貧乏な若狭湾にお願いし、その分だけお金を渡すというのに応じたようです。 私はニュースを聞き、大飯町はそれほど収入が少ないのかと可哀想になりました。地図を見ると海に面していて、漁場もあり、それほど困るようには見えないのですが、極貧なのでしょうか? 原発を誘致して産業を盛んにするというなら貧乏と関係はありませんが、電源三法で「危険手当」が出るのです。危険手当の意味は「大阪の人はお金持ちで危険はイヤだといっているので、原発を引き受ければその危険代金としてお恵みをだす」というものです。 私は大飯町が原発を引き受けるかどうかは大飯町の人が決めることですが、せめて「私たちは産業を盛んにしたいのであって、危険手当はもらいたくない。安全と信じて引きうけるのだから、お金は要らない」と宣言してもらいたいと思います。 この問題は、「東京の人は原発からの電気だけ」、「貧乏な新潟と福島の人は原発だけ」、「青森の人は廃棄物だけ」ということに象徴されていいます。東京は農業も工業もほとんどなく、それでいて他県の2倍の所得を得るというゆがんだ構造(ピンハネ構造)を採っているのに原因しています。 今後は、現場の所得の方が高いという「絆社会」を作り、原発は「安全なら都会に作り、電気に応じた廃棄物を引きうける」という原理原則をたて、もし地方が産業を活発にするなら「お恵みなしの原発」に切り替えないと、日本人が徐々にその誇りを失うことになります。 (平成24年5月17日) 「ohitdyno.85-(6:41).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月20日
コメント(1)
短信:カリウムを含む食材について 読者からの問い合わせがありましたので、カリウムを含む食材についてまとめておきます。 1)食材全体がヨウ素、セシウムなどで汚染されている場合・・カリウムを含む食材をたべる 2)食材の汚染が減ってきた場合・・・カリウムを含む食材で海外のものは避ける 3)食材の汚染がない場合・・・・・・気にしないで食べる 従いまして、昨年の5月頃は1)、現在は2)、将来は3)と変化します。セシウムは現実的にはすべてが放射性物質ですが、カリウムはその一部が放射性物質ですから、セシウムが多いときにはカリウム、セシウムが少なくなったらカリウムも控えるということです。 (平成24年5月17日) 「tdyno.84-(4:25).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月20日
コメント(0)
お子さんを守るための教室(2) 1年1ミリでも危ないか? 1年1ミリの法律の規制もありますし、1年5ミリ以上の被曝は白血病に対して労災が認定されるのに、1年20ミリとか100ミリと違法行為を勧める知識人もいて、困りものです。でも、反対に1年1ミリでも心配しているお母さんも多いので、ここで子どもを守るための考え方をまとめました。 まず、基礎知識として頭に入れなければならないことが3つあります。第一は、被曝は4階建てということです。一階が自然被曝(1.5ミリ)、二階が医療被曝(2.2ミリ)、三階が核実験被曝(0.3ミリ)、そして四階が原発被曝(1ミリ)です。 原発が爆発しなければ、普通の人は1年4ミリ程度の被曝をしています。この被曝がガンなどの元になるかという点については世界的にも議論があります。つまり学問的にわかっていないということです。ただ1950年に結核予防法ができて児童がレントゲン検診を受けるようになると、白血病が増えたので、検診の頻度を下げた経験があります。でもその時には一回のレントゲン検診で受ける被曝量が多かったので、そのまま直接、比較することは出来ません。 また広島長崎の被曝の例では、低線量率でも病気になっていますし、ドイツは原発からの被曝を1年0.1ミリにしています。ドイツは医療被曝が少なく、核実験被曝もほとんど無いので、自然被曝を中心として3ミリ程度でしょう。 考え方としては次のようなのが妥当です。 1) 被曝はいずれにしても危険である(法律でもそのように明記されている)、 2) 人間はどのぐらいの被曝がどのぐらいの被害を与えるか正確にわからない、 3) 当面、法の規制に基づくのが妥当。 第二には、基準値は「普通の人のうち、やや弱い人が対象で決まっていて、特異体質の方は含まない」ということです。 第三に、社会は危険に満ちあふれているので、若干の危険を承知で生活をしているということです。 このような3つのことがありますから、国や自治体は法律上の規制を守ったり、社会的に問題になるようなことにならないように注意をすることまでは出来ても、個人の特殊性や希望に全部、沿うことは出来ないということも知っておかなければなりません。 特に第三をよくお母さんが考えてあげてください。交通事故では1年に100万人以上の人が負傷します。そんなに多くの人が負傷し、時には子どもが悲惨な目に遭うのになぜ、車は走っているのでしょうか? それは車がなければ、スーパーに食料を届けることも出来ず、お米や水も運べず、宅急便もなくなり、救急車もなしになるので、犠牲を承知で自動車を走らせています。 このようなことは「メリット」と「損失」のバランスで決めていますし、それは医療でも同じです。薬も副作用があり、ワクチンは危険でもあります。インフルエンザがはやりそうな時期に学校に行かせること自体も問題です。そこのところをどの程度のバランスでやるかということです。 1年1ミリは「被曝をするのだから、少し白血病やガンが出るが「我慢できる範囲」」と言うことで決まっています。 でも、個人によって「我慢できる」というのは違いがあるので、「まったく影響がないとできる」というレベルとして「クリアランスレベル」を決めています。この場合1年に0.01ミリシーベルトですが、瓦礫の管理などは出来ますが、個人の被曝ではやや非現実的です。だから、「ある程度の覚悟」が要ります。もし覚悟をしなければ、自然放射線の他、医療も受けず、原発も全廃する必要を生じます。 私はこの際、原発を全廃し、医療の被曝も減らして、しばらく様子を見ることと、被曝の医学を進めることが最善と思っていますが、現に福島原発が爆発したので、過去のことは仕方が無いと思い、子どもに対してはぜったいに1年1ミリを守るという決意を大人がする必要があると考えています。 それぞれ1年1ミリの意味をお考えになり、ご判断ください。1年1ミリ以下は個人で判断するしかないのです。 (平成24年5月15日) 「mothertdyno.94-(7:23).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月19日
コメント(0)
妥当なタバコ・マナー運動とタバコ健康指導は? タバコの問題もかなり煮詰まってきました。あとは、肺がん以外の慢性閉塞性肺疾患のような苦しい病気とタバコとの関係を解析するだけになってきました。そこで、この慢性閉塞性肺疾患のことを少し後にして、まずはこれまでの「いがみ合う禁煙運動」ではなく、みんなが楽しい「妥当なタバコマナー運動」と「タバコ健康指導」について考えてみたいと思います。 ・・・・・・・・・ どんなものにもマナーがあります。お酒を飲む場合も、酒場であまり大きな声で叫ばないとか、暴れない、お酒を飲んだら運転しないなどがそれです。自分の趣味だからといって無制限にやって良いと言うことはありません。 タバコについて、社会で合意できるマナーは次のようなものではないでしょうか? 1) できるだけ人の多いところでは吸わない、 2) 吸い殻をポイ捨てなどするのはもってのほか、 3) ホテルなどの高層ビルでは火災の危険に十分に注意する、 4) タバコの煙のにおいは多くの人に不快感を与えるので喫煙所で吸う、 5) アレルギーの人、気管の弱い人は副流煙で死ぬように苦しむということを理解しかならず喫煙所で吸う、 などでしょう。 そして、医師、厚労省、自治体などが行うタバコ健康指導は、 1) 日本国憲法を守る(一人一人の尊厳を守る)、 2) 医師はタバコを吸うとある確率で病気になるので、それを覚悟してように言うこと、 3) (一部に見られる行きすぎですが)医師はタバコを吸っている人を診察しないなどをしない、 4) 自治体などは喫煙所で喫煙者がタバコを吸うのを楽しめるように配慮する、 5) 厚労省はこれまでの研究発表や調査の元データをすべて公開し、タバコの学問が正しく発展するように国民の方を向く、 ということでしょう。 最後に日本社会の禁煙運動ですが、 1) あくまで日本国憲法に基づき、他人に被害を与えないものを追放しようとしない、 2) 強いものに巻かれる方が得になるからといって、厚労省の尻馬に乗らない、 3) みんなで「ホッとする瞬間」を作る方法を考え、誰もがいやがらず、本人の健康も害さない「綺麗なタバコ、もしくはタバコに変わるもの」を考える、 4) 現在の喫煙者は尊重し、若い人に喫煙の習慣を避けさせる、 のが良いのではないかと思います。 私がここまでタバコのことを考えてきた直接的動機は、被曝が起こった時、「タバコより安全」ということで被曝を容認する道具にタバコが使われたことでしたが、「人はパンのみで生きることはできない」のですが、現代の日本社会は、若干、ヒステリー的になって日本人から「タバコ、お酒、パチンコ、カラオケ、スナック、温泉旅行」などの楽しみを次々と取り去って、「ただ、馬車馬のように働く動物としての人間」の方向は間違っていると思うからです。 お酒が飲めない人はタバコで心をいやしているのかも知れません。歌が良いと言ってもカラオケが嫌いな人もいます。温泉も万人が好きとは限りませんし、お金がかかります。タバコと聞けば牙をむくという社会は健全ではないように思います。 でも、同時にタバコの煙で死ぬように苦しむ人もいることを十分に考えなければなりません。原発の例でもわかるように「弱いものは切り捨てる」という文化こそ「野蛮な文化」なのです。そしてタバコを吸った人で慢性閉塞性肺疾患になって苦しむ人、「肺がん」「副流煙」と見当違いのことを言っているうちに、本当に苦しんでいる人の治療や対策が遅れていると私は思うのです。 腕から血が出ているに足に包帯を巻いた方が包帯の長さが長くなるので儲かるなどと、人の健康をもてあそぶのは感心しません。 そして、みんなで工夫して、一人一人の人が、余暇や自由時間を楽しく過ごすことが出来るようないがみ合いのない社会に住みたいものです。今の日本は、お金があまり対外資産を250兆円ももち、大震災と地震に見舞われても円高という状態(お金がある)で、ただひたすら沈滞した社会を作る方に進んでいるように見えます。 最後に一言付け加えるなら、タバコの問題は自由意思で吸う人の問題ではなく、副流煙で多くの人が肺がんになるというのもウソですが、タバコで疾患になり、あるいは煙で苦しむ人がいるということを知って、遠慮するという日本人の心の問題と私は考えます。 (平成24年5月19日) 「finaltabaccotdyno.87-(9:13).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月19日
コメント(1)
海洋の未来(1) イノシシからブタへ かつて人間は土から自然に生えてきた粟(あわ)や稗(ひえ)を食べて過ごしていましたが、やがて水田を作りイネを栽培するようになりました。かつて人間は山を走っているイノシシを罠にかけて捕らえて鍋にして食べていましたが、今はブタを飼育しています。 でも、海はまだ「天然物」が幅をきかせています。あまりに海は広くサカナが豊富なので、陸上ではとっくの昔に「栽培と飼育」の段階に入っているのに、海はまだ天然物の時代なのです。 日本は国土が狭い国で、そこに1億2千万人も住んでいるので、人口密度は世界有数ですが、紙面を海に囲まれ、島も多いので、排他的経済水域からいうと世界の6番目です(公的には9番目ですが、私は南千島列島を日本の領土としています)。 だから、日本の食糧自給率をあげてやエネルギーを獲得するには海の利用の学問が発達する必要があります。ほぼ10年ほど前から私は海を「自然から栽培、飼育へ」という研究を開始し、それが少しずつ実になってきました。多くの研究者が正面から取り組み、次々と成果を上げています。 新しい時代へ! 私たちは陸上の自然への負荷を減らし、海にある程度を代換えしてもらう必要があると思います。 海の菌類・藻類などの水産学の第一人者:鹿児島大学の前田先生との対談がニコニコ動画で見ることが出来ます. http://www.youtube.com/watch?v=APDQVf2u4yc&feature=related http://www.youtube.com/watch?v=FvuEYaksLII&feature=relmfu (平成24年5月15日) 武田邦彦
2012年05月18日
コメント(0)
NHKの中学校教育報道・・・2重の犯罪性と善良な習慣への挑戦 瓦礫の搬出が大きな政治・社会問題になっているとき、NHKと環境省が組んで、東京の中学校で瓦礫の搬出を巡る討論をさせ、その様子を放映した。全体としては中学生も「恩」、「可哀想」などを根拠に瓦礫の搬出を支持しているような編集だった。 この番組は、2つの点で明白な犯罪であり、また日本のこれまでの善良は習慣への挑戦である。これほど明確ならさすがの検察が動くだろう。 第一は放送法第3条の2の違反。 放送法第3条の2は放送が社会に与える影響を考え、中立的放送をするように決めている。その骨子は、異論のある場合は2つの考えを同時に報道すること、公序良俗に反する放送をしないこと、である。瓦礫のように明らかに国論が2分されている時、瓦礫搬出推進の環境省だけの場面を報道してはいけないということである。また、瓦礫の搬出は法律違反(低レベル廃棄物関係、およびクリアランスレベル関係)であるから、それを破っても良いかどうかという教育を放送するのは公序良俗に反する。 第二は放射線同位元素などの法律の違反と法律違反教唆である。瓦礫のほぼ90%は低レベル廃棄物に相当し、普通なら原発の敷地などから持ち出せないものである。たとえ事故が起こっても本来は持ち出せないものだから、移動や焼却などという処理は出来ない。また、基準値は法令(国会など)で決まっているので、政府(行政)が勝手に8000ベクレルなどという基準を作ることは出来ない。 放射性物質を含む物体は、そのもの自体が法律に該当しなくても、移動、処理、焼却などの過程で法律に触れる濃度になってはいけない。だから、普通の施設(放射性物質を取り扱えない施設)での焼却では灰も1キロ100ベクレルを超えることは出来ない。その意味で2重に法律違反である。 第三に教育の自由を定める憲法違反もしくは子どもと教育を尊重する日本の善良は習慣に対する驚くべき挑戦でもある。国民全部から受信料をとっている放送局が、国内で激しく賛否が分かれているものを片方(環境省)だけを学校に呼んだ中学校の放送をするのは、何ということだろう。 子どもを出汁にして、社会を洗脳しようとするハッキリとした意図が見られる。 NHKの経営委員長が東電の取締役になった。「経営委員会は番組に影響を与えない」などと「社会は全員、善人だ」ということを前提としたような形式的な話で、「李下に冠を正さず」を思い出す。 (平成24年5月15日) 「nhktdyno.93-(5:32).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月17日
コメント(0)
学問を捨てた名古屋大学・・・「独立法人化」と「役に立つ研究」のもたらしたもの 名古屋大学の教授が浜岡原発の審査の直前に、中部電力などから研究費を約1100万円もらっていたことが報道されました。ご本人は審査に影響を与えていないと言われていますが、金品をもらっても影響がないなら世の中から贈賄罪がなくなるはずです。 この事件はどんな背景を持っているのでしょうか? 1961年から始まった年金は、1)積み立て式にするとインフレでそのうち年金の価値がなくなる、2)その時には賦課方式(若い人が老人を養う)に変える、3)それも破綻するから税金で補う、4)それまでは厚労省の天下りや国の赤字事業に年金を使い切ってしまう・・・という悪辣な制度でした。 それと同じように1990年代に吹き荒れた「国立大学の独立法人化」と「役に立つ研究」は大学をすっかり拝金主義に変え、見るも無惨な状態になっています。 名古屋大学もかつては木訥ではあるが、学問が好きな尊敬できる先生方と研究室でした。その頃、大学内で若干の飲酒もあったし、夜な夜な錦(名古屋の「にしき」、つまり飲み屋街)にでむく教授もおられましたが、学問的な雰囲気の中にありました(機会があったら、名古屋大学が実に誠実な大学だったことを書きたいと思います)。 でも、今はすっかり変わってしまいました。何しろ文科省にゴマをすらなければお金が来ないので、学生の教育や研究もままならなくなったのです。たとえば工学部で学生に実験をさせて良い教育をするためにはどうしても一人の学生に1年100万円ぐらいは要ります。もし「世界一流」の研究なら300万ぐらいはかかります。 教授がそのお金を獲得するには、大学を通じて文科省にゴマをするか、企業からもらうかしかありません。もちろん、教授が営利会社を作れば別ですが、学生は労働者ではないので、営利を目的とした研究をすることはできません。 かくして、教授は、1)学問を志して(お金をもらえず)、その結果として学生の教育をおろそかにするか、2)学問に反してお金儲けに走り、学生が教育を受けられる環境を作るか、の2つを選択しなければならない状態になります。それが「大学の独立法人化」と「役に立つ研究」なのです。 もし学問の神様がおられればどの先生の研究が「役に立つ研究」かわかりますが、神様はおられないので、結局、文科省(御用学者を含む)が決めることになります。でもこれは奇妙なのです。もし人間が「役に立つ研究」がわかれば、その研究にお金を出すより、それを自分で研究した方が良いからです。 ノーベル賞を取れるような研究が申請され、それを審査した東大の先生はどう思うでしょうか? その研究でノーベル賞を採れると思ったら、その申請(研究費の申請)を却下し、自分で密かに研究をスタートするでしょう。先にスタートしてしまって、翌年、その研究費を認めれば自分が先にやったことになるからです。 普通はノーベル賞級の研究は、新しい内容ですから、あまり理解されることもなく、また成功率も低いのです。成功率の低い研究はお役人から言えば「税金の無駄使い」になります。だから、「役に立つ研究」にお金がでるようになってから、1)温暖化研究など国の方針に従った研究、2)成功確率の高い平凡な研究、3)役人が理解できる普通の研究、などでなければ研究費が取れなくなってしまったのです。 ・・・・・・・・・ それでもお金は足りません。また、教授の待遇を「獲得した研究資金の額で決める」ということも多く行われています。まるでサッカーの選手のようで「あの先生は稼いでいるから」ということで尊敬されるという、大学というところでは考えられないばからしい状態になっています。 学問の魂を曲げて研究するのがイヤな先生は、教授ならまだ良いけれど、准教授なら業績を上げられないから教授になれない。結局、この制度は「お金で地位を買う」ことをせざるを得ないので、結果的に「お金をもらえれば魂を売るという教授」を作り出してしまうことになった。 情報がうまく伝わっていなかったこともあるが、このような大学が良い、先生が良いとしたのは実は日本国民だった。「お金の大学」になって以来、学問的業績のない(たとえば論文がない)教授が官庁やマスコミから大量に大学に再就職するようになった。少し名前が売れてくると、そのうち「何とか大学の教授」になっているのは、これが理由だ。 教授の定員を増やすのは見かけ上、教育をよくするので、文科省も文句を言わないが、大学側の意図は「役人やマスコミの人を一人、雇用してもそれ以上の利益がえられる」という計算が働く。惨めになったものだ。 ・・・・・・・・・ 福島原発事故以来、名古屋大学の原子力関係の先生が電力会社から研究費をもらい、研究費をもらった会社の原発の安全審査をしたという報道が続いている。簡単に言うと、賄賂と言われるものとほぼ同類だが、「お金をもらって審査に手心を加える」という行為に対して「公職選挙法」のような「公的審査法」でもできないと、「学問に忠誠を誓う」ことができなくなった大学教授には必要かも知れない。 でも、法律が必要とは情けない。名古屋大学の教授にしても、中部電力の幹部にしても、社会的には指導的立場の立派な人たちだ。その人たちが賄賂まがいのお金のやりとりをして、国民の命のかかった原発の審査をしているのだから、どうやって若い人の教育をすれば良いのだろう? やはり教育は人を育てるところだから、大学の制度を大きく変えなければならない。そして官庁やマスコミから大学に移る場合は、その人の学問業績を一般に公開しなければならないだろう。マスコミももっと積極的に「マスコミから大学へ移動した人」の数が「役に立つ研究」などが始まる時期から急激に増加していることを報道しなければならない。マスコミ自身もその報道魂が試させる時だ。 (平成24年5月15日) 「tdyno.92-(9:07).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月17日
コメント(1)
被曝と健康・・・お子さんを守る考え方教室(1) 被曝と健康 しばらく旅行をしていましたら、読者の方からのメールがたまって一部のメールにご返事ができなくなりました。いずれのご質問もかなり重要なもので、ご返事が出来ないのはまことに申し訳ないのですが、時間がとれそうもないので、「お子さんを守る考え方」のシリーズを少し書いて、日常の生活のご参考にしていただければと思います。今回はその1回目で、復習もかねて、主に「考え方」を整理します。 ・・・・・・・・・・ 「どのぐらい被曝しても大丈夫だろうか?」というご心配を今でも多くの方がお持ちです。それは「原発推進側」も「被曝心配の方」の両方が同じような錯覚をしていることもあります。 まず、法律では(一般人で原発からの被曝に限っては)1年1ミリを上限にしているということです。この1年1ミリは国際的にも、また国内法でも決まっている値で、もちろん専門家がいろいろな知見を元にしていますから、決して「いい加減な値」ではありません。 政府をはじめ、マスコミの記者、一般の方で「法律で1年1ミリと決まっていても、俺は1年100ミリまで大丈夫と思う」と発言している人がおられます。自分がどのように思うかは個人の自由ですが、人に違法行為を勧めているのですから、お子さんを守る時に、そんなことにだまされてはいけません。特に一つか二つの論文を読んでそれだけで判断している人もいますが、被曝と健康はそれほど簡単ではないので、あまり個人で判断しない方が良いでしょう。 道路の制限速度が60キロと決まっているのに、急ぐから自分で120キロで走っても良いと考えるのは良くないことですが、さらに他人に「あの道路は60キロだけど、120キロでも大丈夫だよ」というようなことを公的に言ったり、ブログに書いたりするのは社会的にやってはいけないことです。 もし、変えるなら法律や規則を変えてからにしなければなりませんし、放射線障害防止規則(厚労省)のものは2011年10月(事故後半年)に改正されていますが、それでも1年1ミリも含め、土壌汚染などの数値は変わっていません。つまり今の政府は、片方で法律を改正して1年1ミリのままにしながら、社会的には瓦礫問題などで法律違反(核廃棄物を瓦礫と呼んだりしています)を繰り返し、いわば「ダブルスタンダードの状態」を続けていますが、国民は自分たちの健康の問題ですので、紛れないようにしましょう。 ・・・・・・・・・ ところで、1年1ミリで安心か?ということになると難しくなります。簡単に言うと「学問ではどこから危険かわからないので、1年1ミリにした」ということですし、「原発で1年1ミリということは、他の被曝も入れると1年5ミリと言うこと」とも言えます。 被曝は足し算ですから、一階が自然被曝で1.5ミリ、二階が医療被曝で2.2ミリ、三階が核実験被曝で0.3ミリで、原発がなくても1年4ミリは被曝します。それに原発の1ミリが合算されるので、合計で5ミリです。 人間が自然被曝に対して防御能力を持っていて、自然放射線の1.5ミリより少し余裕があってゼロレベルから見ると1年2ミリぐらいまで大丈夫と思われます。そうすると自然被曝に加えて医療被曝で2.2ミリの被曝をしますと合計3.7ミリになって、少し危険な領域に入ります。それが、ランセット論文(世界でもっとも権威のある医学雑誌)では「日本人は医療被曝で欧米人の3倍の発がん」という結論にもつながっています。 つまり、いろいろなことを言う人がおられますが、子どもを守るという点では「原爆事故がなくても被曝は注意しなければならない」ということになります。それに加えて少し年齢の高い人は核実験の被曝を多く受けていますから、これが0.3ミリぐらいで、「被曝の3階の屋根まで」で4ミリになっています。福島原発事故は私たちに被曝に注意しなければならないという警告をしてくれたようなものです。 原発からの被曝が少し多い人は、1階から3階部分を減らすことで、たとえばカリウムを含む食品を控えるとか、医療被曝をできるだけ避けるなども有効です。ただカリウムは必要な元素ですから、あまり極端な食事も注意しましょう。 ・・・・・・・・・ 先日、広島・長崎の被曝と病気についての最新の論文を紹介しましたが、1ミリシーベルト以下でも若干の発がんが見られています。その点では、「1年100ミリまで大丈夫」などという奇妙なへりくつには惑わされずに、被曝を避けるようにしなければならないでしょう。 第一回はこのぐらいにして、とにかく1年1ミリ(外部、内部の合計)を守るという決意をすることです。子どもは親を信じ、楽しく人生を送っています。もちろん人間には限界がありますから、「人知を尽くしても」わからないことがあり、それで子どもが病気になることも万が一にはあるでしょうが、その場合は「外出もさせられない(交通事故)、暖房器具も使えない(火事)」などとなります。あくまでも常識の範囲は親の責任ということです。 でもお母さんの責任だけで守ることは出来ません。政府は1年1ミリを守るようにし、農家は1キロ40ベクレル以上の食材は出荷せず、学校関係者は子どもをどこかに連れて行ったりするときには、一つのことを計算するのではなく、その子どもの総合的な被曝量を計算し、お母さんの負担を減らすようにしてください。 (平成24年5月13日) 「tdyno.91-(7:27).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月16日
コメント(0)
子どもに贈る日本(1) 核廃棄物満載の国土 日本で最初の原発が動いたのは1963年だからもうすでに50年になろうとしています。その後、今日の54基になるまで原発は徐々にその数を増やしてきました。原発を動かせば、次の3つのことが起こります。 1) 原発が爆発して被曝する危険、 2)電気を使えるメリット、 3)核廃棄物がでる。 仮に安全な原発があれば、これは二つになり、「電気は増えるが、核廃棄物がでる」ということになります。電気が増えるのは良いことですが、それに伴う核廃棄物は困りものだと多くの人がおもっています。 アパートを経営しようという人がアパートを建てて入居人を募集したとします。「家賃は月6万円。但しトイレは使わないでください」(お金は欲しいが、汚いものの始末はイヤ)という募集では入居人はいないでしょう。そして「欲しいものだけ欲しい」というのはいかにも子どもです。 でも、先日、私は経団連の会長が「電気がいるから原発の再稼働をして欲しい」と言っているのを聞いて「子ども?!」と疑いました。すでに原発を運転し始めてから40年ほど経ったし、今度の福島の事故は原発を進める上で、安全を軽視し、廃棄物は知らないというような中途半端な管理体制が起こしたものでもあります。 すでに日本では120万本を超える使用済み核廃棄物があります。それが発電所に半分、その他のところにもほぼ「無防備な状態」で放置されています。「どうするの?」と大人に聞くと「核廃棄物は危ないから子どもに任せる。俺たちは電気だけ欲しい」といいます。それは政府、経団連だけではなく日本の大人のほぼ全員なのです。 ・・・・・・・・・ 原発を再開する人は、経団連も含め「電気の分だけ廃棄物を自分の町に引き取る」というのを条件にすること、これまでためてきた120万本を私たちの世代で処理すること、の2つを実施し、子どもたちに「核廃棄物がない日本」を引き継ぎたいと思います。今は「電気が欲しいから、核廃棄物は子どもたちに」という考えですが、私は同意できません。 (平成24年5月14日) 「tdyno.90-(4:03).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月15日
コメント(0)
子どもに贈る日本(1) 核廃棄物満載の国土 日本で最初の原発が動いたのは1963年だからもうすでに50年になろうとしています。その後、今日の54基になるまで原発は徐々にその数を増やしてきました。原発を動かせば、次の3つのことが起こります。 1) 原発が爆発して被曝する危険、 2)電気を使えるメリット、 3)核廃棄物がでる。 仮に安全な原発があれば、これは二つになり、「電気は増えるが、核廃棄物がでる」ということになります。電気が増えるのは良いことですが、それに伴う核廃棄物は困りものだと多くの人がおもっています。 アパートを経営しようという人がアパートを建てて入居人を募集したとします。「家賃は月6万円。但しトイレは使わないでください」(お金は欲しいが、汚いものの始末はイヤ)という募集では入居人はいないでしょう。そして「欲しいものだけ欲しい」というのはいかにも子どもです。 でも、先日、私は経団連の会長が「電気がいるから原発の再稼働をして欲しい」と言っているのを聞いて「子ども?!」と疑いました。すでに原発を運転し始めてから40年ほど経ったし、今度の福島の事故は原発を進める上で、安全を軽視し、廃棄物は知らないというような中途半端な管理体制が起こしたものでもあります。 すでに日本では120万本を超える使用済み核廃棄物があります。それが発電所に半分、その他のところにもほぼ「無防備な状態」で放置されています。「どうするの?」と大人に聞くと「核廃棄物は危ないから子どもに任せる。俺たちは電気だけ欲しい」といいます。それは政府、経団連だけではなく日本の大人のほぼ全員なのです。 ・・・・・・・・・ 原発を再開する人は、経団連も含め「電気の分だけ廃棄物を自分の町に引き取る」というのを条件にすること、これまでためてきた120万本を私たちの世代で処理すること、の2つを実施し、子どもたちに「核廃棄物がない日本」を引き継ぎたいと思います。今は「電気が欲しいから、核廃棄物は子どもたちに」という考えですが、私は同意できません。 (平成24年5月14日) 「tdyno.90-(4:03).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月15日
コメント(0)
お医者さんの窓から見た社会・・・タバコを医師が禁止する理由 お医者さんの多くが「タバコはダメだ」と言います。ところがこのブログで示したようにタバコを吸う人が減ると肺がんが増える(年齢調整後も)という事実もあります。この2つの事実を無理なく説明することは出来るでしょうか? というのはお医者さんとタバコのことを話してみると、決して利権とか名誉などではなく、真剣に患者さんの健康を心配されていることは明らかなのです。お医者さんと私はともに科学者同士ですから、タバコを禁止したいというお医者さんと膝をつき合わせてお話しすれば、かならず意見は合うと思っています。 科学は予見、先入観、感情、意見などを廃して、論理的客観的に事実を整理し、まとめるものです。だから、もしお医者さんと私の意見が違えば、それはデータか、データの整理か、あるいは私が先入観に邪魔されているかなのだからです。 そのような気持ちでお医者さんの読者の方から寄せられたメールをじっくり読んでみますと、今の私には「おそらくこうだろう」という一つの考えに到達しました。 それは、 1) お医者さんは患者さんを通じて社会を見ているし、タバコも評価している、 2) それに対して私は患者さんではなく、タバコを吸う人全体を見ている、 3) 私にはタバコを吸う人4000万人が見えて、その中にわずか4万人ほどの人が肺がんになっているのが見えない(私には1000人のうち、999人がよく見える)、 4) お医者さんは病院に来る患者さんを見ているので、999人はよく見えず、タバコを吸って肺がんになった人、お一人が目に入る、 5) 本来、お医者さんが言いたかったことは、タバコを吸い始める人のうち、将来、肺がんにかかる人に呼びかけたい。つまり、1000人の人がタバコを吸い始めたとき、もしお医者さんが神様で将来、ガンにかかって死ぬ人がわかれば、その人に注意すれば良いのだが、神様ではないのでわからないので、その他の999人にも呼びかける、 6) 私が「タバコを禁止するのは不当だ」と言っているのは、この999人に対してである。この人たちはタバコを吸っても肺がんにならないのだから、楽しみを奪ってはいけないと私は言う、 ということらしいのです。 これが副流煙になるとさらに極端で、平山論文の例では、夫がタバコを吸う530人のうち、妻が肺がんにかかったのは1人だから、それ以外の529人には「夫婦げんかをしてまで、夫にタバコを止めさせることはありません」と言うべきでしょう(先回の計算でミスがあり、本文も修正しました)。 ただ、タバコは自由意思で吸うものですから、タバコを吸って税金を払い、1000人とか500人に1人がガンになっても、その情報が正しく伝わっていたらあとは本人に任せれば良いのではないかと思うけれど、副流煙は自分の意思ではないから、どのぐらいの危険なら社会的に禁止すべきか、まだ議論は不十分と思います。 さらに、タバコの煙に特に敏感な人、気管関係の弱い人などについての特別な配慮も必要です。 ・・・・・・・・・ 私はお医者さんが患者さんを通してだけ社会を見るだけではなく、タバコを吸っていて健康な人をご診察されるのが良いと思うけれど、それには時間が無いと思います。逆に私はタバコを吸う人全体を見て、患者さんを見ていません。だから違う感想になるのは当然のように思います。 でも、いずれにしても「喫煙と肺がん」について、それを理由にタバコの追放運動をするのは行きすぎで、自治体はもちろん、お医者さんも含めて、もう一度、人の基本的人権と人間の一生の意味がただ「体だけが健康なら良い」と言うことなのかについて、かなり低い肺がんの確率を考えて、禁煙についての言動の修正することが良いと思います。今の日本の禁煙運動は「良心的」とは言えない状態です。 (注)私が言う「ためにする」行為はこれまでの私の論理に入っていない。たとえば、1)妻がタバコ賃がもったいないので夫に健康を理由に吸うなという、2)知事が自分の票を取りたいので禁煙運動を進める、3)厚労省の調査担当者が出世するために調査を行う、4)タバコは肺がんは少なくても、歯の病気、気管支系の病気、血管系などあらゆる病気の元になるので、肺がんではなくても肺がんと言えば良いという医師の論理、などはこの論議には入っていない。あくまでも一つ一つを誠実に考えなければ、日本の再生は無理と思うからです。 (平成24年5月6日) 「taanddoctdyno.87-(9:58).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月14日
コメント(0)
人災としての震災・事故(2) 東海原発と石橋委員の退席事件 東海地震が明日にも来る!と言って社会の注目を浴びた東大地震研助手だった石橋先生は、原子力安全委員会検討分科会委員つとめ、「発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針」の改正作業に携わった。 しかし、1)科学的な検証をしていない、2)多くの人の懸念が示されているのに考慮しない、ということを主たる理由に、委員を辞任したのは2006年8月のことだった。地震が頻発する日本で杜撰な地震指針を作るわけにはいかないと石橋先生は主張したが、それは通らなかった。 翌年、新地震指針は私が委員を務めていた基準部会に上がってきた。報告した東大名授は地震指針の成立にあたって強い異論があり、石橋先生が辞任したなどと言うことは一切触れず、通り一遍の説明をした。この部会で私は最初に発言し、「地震指針の目的は何なのかハッキリしない」と質問したところ、分科会でも学問的な審議を妨害した水間課長が約2分の質問に20分の訳のわからない回答をして時間つぶしをした。 分科会の議事録を見てもこの水間という官僚などが同じようにのらりくらりとした答弁をして実質的な議論を妨げていたが、これが委員長の方針だったのか、それとも周りをぐるっと官僚に縛られていたのか、それは不明だが、どんな状態にしろ委員や委員長になった限りは公の場所でハッキリと自らの意見を述べるべきである。 ・・・・・・・・・ 分科会委員を辞任した石橋先生は1976年、東海地震が起こるという研究結果を日本地震学会では発表し、マスコミが大々的に取り上げたことで、膨大な国家予算をつかって東海地域の地震観測網が敷かれ、注目が東海だけに行き、その後の阪神淡路大震災と東北大震災の26000人に及ぶ犠牲者を生む原因を作った。 石橋先生自体は、建設省の研究所を経て神戸大学に移動しているが、石橋先生が地震学会で「東海地震がまもなく来る。それは来るべき時に来なかった空白期間があるから」と発表したのは問題が無い。学問の自由があり、私がこのブログで示す「専門家の柱」でも、知―学者―啓蒙家―社会、の列の中で学者に当たるからだ。 でも、この石橋発表に従って、当時の東大教授と官僚が「東海地震しか地震予知はできない」などとして「東海地域の地震予知網」を作った過程をよく考えてみなければならない。それは、同じく石橋先生が原発の耐震分科会で辞任に至ったように、「学問」と「政策」の区別が良くついていなかったことによると考えられる。 学問は現状を否定することから始まり、それが正しければ徐々に納得する人が増え、やがて社会の通念となるものだが、石橋先生の学説は1970年代から始まった日本の地震予知の研究結果の一つであり、それを政策にまでする時に問題があったと考えられる。 この問題はおろそかに出来ない。それはこの時の石橋発表を利用した東大教授と官僚のために、阪神地域と東北の観測がおろそかになり、それが26000名の犠牲につながったからである。石橋発表があってから36年後にあたる2012年4月、ゲラー東大(地震)教授が「地震予知はできないと政府は宣言するべきだ」という論文をだしている。 ゲラー教授の論旨は次の通りである。 1) 予知の根拠とされる地震の前兆現象については学問的に測定技術では見つかっていない、2) 国内で1979年以降10人以上の死者が出た地震は、予知で起こる確率が低いとされていた地域で発生した、 3) マグニチュード8クラスの東海・東南海・南海地震を想定した地震予知は方法論に欠陥がある、 4) 地震研究は官僚主導ではなく、科学的根拠に基づいて研究者主導で進められるべきだ、 5) 政策の根拠法令となっている大規模地震対策特別措置法の廃止。 つまり、1976年当時、地震学の進歩のレベルから言って、地震予知が「できないこと」はほぼわかっていた。でも、国の予算を使い、膨大な研究費を東大に出すためには「地震予知ができる」という宣伝を行う必要があり、メディアはそれに追従した。それが26000人もの犠牲者をだしたことを私たちは厳格に考えるべきでしょう。 ところで石橋先生は静岡のマスコミで、一種の懺悔をさせられていますが、このような社会的な動きも慎重でなければなりません。石橋先生が学問的見地から「東海地震が近い」という発表をされることについて、それが的中しなかったからといって社会的な批判を受ける必要はありません。学問は道のものを探求していくのですから、社会の責任追及は及ばないのです。 でも、もし石橋先生が学問の領域を超えて政策として東海地震対策をするように働きかけたり、積極的に国民に呼びかけたりしたら、それは学者ではなく、啓蒙家としての動きですから社会との関係が発生し、責任も取らなければなりません。 原発事故以来の、「大丈夫医師、大丈夫専門家」の問題点は、社会に直接、語りかけていることで、そうなると「大丈夫」と言ったことに対して、被曝による患者さんが出たら個人の責任で補償する必要を生じます。 東海地震、石橋先生、そして石橋先生が原発の耐震指針に反対されて委員会を退席されたことなど、一連の事件は科学と政策という未来的な課題に大きな教訓と研究の余地を残すものでしょう。 (平成24年5月6日) 「tdyno.86-(7:04).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月14日
コメント(0)
簡単なことなのに・・・被曝2題1) 「不安をあおる」というのは不誠実 よく「武田は不安をあおる」と言われますが、法律で1年1ミリ(法律は被曝の4階部分をどのぐらいにするかを決めている。3階までで1年4ミリだから)と決めているのに、それを政府が守らない(ダブルスタンダード)であることを知っているのに、脱法行為を勧めている。でも、それに同意する人が多いのに驚く。ネットでも「不安をあおる」という人はその前に「私は脱法主義だ」と宣言して欲しい。そうしないとみんなが動揺する。 2) 「4号機は危ない」とだけ言うのは不誠実 原発は運転から1年も経つと(計算の仕方が難しいが)、運転中を基準にすると1000分の1以下、運転から数日後とすると100分の1ぐらいになっている。この状態をどのように評価するかを書かなければならない。福島原発がその中にある放射性物質量の通りに縮小したら、今は100分の1以下の建物である。 4号機は2010年11月から止まっているので、すでに1年半止まっている。だから長寿命核種だけだから、放射線量が多くても逃げる余裕はある。 (平成24年5月13日) 「tdyno.84-(3:39).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月13日
コメント(1)
原子力、被曝の重要ニュース 1) 原子力委員会の議題が官僚の妨害で議論できず これは毎日新聞のスクープで、他の新聞やテレビではあまり報道されていませんが、原子力委員会でこれからの原子力の主たる政策を議論するための議題が、「原発再開の妨げになる」という理由で事務方(官僚)がストップをかけて推進派の機関に修正を依頼していました。このようなことを認めていると、完全な官僚支配になります。原子力委員会の委員は首相の任命になるもので、官僚がその上にいるわけではありません。 2) 環境省とNHKが中学校で教育?? 環境省(大臣官房長)とNHKの撮影舞台が都内の中学校にでむき、「瓦礫を引き受けるか」の教育を担当した。教育は政治と独立であることが日本国憲法の大前提であり、今、政治的に厳しい状態にある瓦礫問題を、一方的な情報をもとに中学生に考えさせるということが起こった。 1キロ100ベクレル以上の瓦礫(焼却後の灰も含む)は「核廃棄物」であり、その説明はされていないと考えられる。NHKも放送するとはとんでもないことだ。 3) 南相馬市で規制値の100倍以上の土壌(ほぼ報道されず) 南相馬市の大山さんのブログは個人的にもご連絡をいただいていたのですが、1キログラムあたり550万ベクレルなどの汚染物(土壌と乾燥した藍藻類)が見つかっています。おそらくこれだけではなく、かなり汚染されたものが多く散乱していると思います。線量計でしっかり測定して子どもを守りましょう。 4) 日本の電気代が高い理由の一つ 大阪市が関西電力から市立科学館の経費73億円の寄付をもらっていた。電気料金の流用にあたり、こんなことをしなくても良いのだから、なにかの目的がある。目的がなくて電気料金を流用するのは犯罪になる。このように「自分の勢力を保つため」にお客さんからの電気料金を目的外に使うので、日本の電気代はアメリカの2倍になる。利用者から「独占で」高い電気代を取り、それをまるで自分たちのお金のように自由に配ることは、今度の原発事故を境に全部、中止してもらいたいし、なにかの法的な措置ができるようにしなければならない。 5) 名古屋大学教授が審査直前に1100万円をもらって審査 浜岡原発の防潮堤の安全審査で名大教授が2006年から2008年にわたり中部電力と関係会社から1100万円程度をもらっていた。常識的には審査に当たるときには「審査される会社と利害関係が無い」ことが前提で、最低でも5年は無関係でなければならない。「お金をばらまいて有利な審査をしてもらう」ということが横行しているが、これも法的制限をかける必要がある。 6) 個人バッシングがさらに盛んになる 被曝は危険とか、汚染の事実を報じる人への個人的なバッシングが続いている。匿名なので発信元は不明だが、かなり専門的なものもあり、もしかすると関係機関の関与も考えられる。私のブログで三重県の放射線量の増加を書いたら、これもバッシングの対象になっている。多くの人が「バッシング記事」でさらに知ってもらえるので、良いと言えば良いが・・・。誠意のないイヤな社会になったものだ。原子力や被曝を判断できる力のある人が、違法を勧め、遵法をバッシングするのだから。 (平成24年5月11日) 武田邦彦
2012年05月11日
コメント(0)
諸行無常の科学的解釈・・・なぜ鐘の音は鐘に戻らないのか? 世の中には当たり前のように見えて実に不思議なことが多いものである。マイナス40℃の氷を暖めてマイナス20℃にする時、氷を暖めるので氷の一部が融けるような気がするが、不思議なことに氷は0℃(融点)にならないと融けない。これは奇妙な現象などで小学校で融点を学ぶが、日本人のほとんどが温暖化騒動で「氷は温度が上がったら融ける」という宣伝に引っかかった。 地球は平らと思っていた頃、朝、東から昇った太陽は西に沈む。西に沈んだのだから次の日は西から昇るように思うのだが、不思議なことに毎日太陽は東から昇る。いったい、いつの間に西から東に行ったのだろう? その回答は「太陽は毎朝、東の土から出来て、西に沈み土に戻る」というものだった。人間は最初に間違う(地球は平ら)と、結論も間違う(太陽は土から出来る)ものであることがわかる。 ・・・かくのごとく人間の知恵ははかない・・・ お寺の鐘を叩くと、その鐘の音は不思議なことに四方八方に広がり、決して戻ることはない。なぜ鐘の音は再び鐘に帰ってこないのだろうか? なぜ川を流れるものは絶えず上流から下流に流れ、とどまることを知らないのだろうか? 今の人間はお金のことばかり考えているけれど、昔は自然との距離が近かったから、自然の中に実に不思議なことが多いのに気がついていた。その一つが「諸行無常」だ。人間は誕生し、成長し、全盛期を迎え、やがて衰えて死ぬ。それは人間ばかりではなく、他の生物も、川も山も何もかも誕生して成長し、やがて死を迎える。なんで「ジッとして」いなのだろうか? この世にはジッとしているものはない。どれもこれも変化する。樹木を見ると元気よく新芽をだしているのだから、そのまま10年ぐらいは変わらなくても良いのに、慌ただしく紅葉し、落葉する。なんと気ぜわしく、もったいないのだろうか? 人間社会も科学も何の意味があるのかわからないが、「進歩、革新、新しいこと」とうるさい。科学が人間を幸福にしてくれることなど無い。もし科学が幸福にしてくれるということと、科学が進歩するということを組み合わせると、人類は絶滅の直前にしか幸福にならない。なぜなら、人類が絶滅の寸前がもっとも科学が進歩してるときであるし、その人類から見ると1000年前の人は科学技術が遅れていたために「不幸」であると言うことになるからだ。 なぜ、進歩も変化も無駄であることを知っていて、進歩や変化を求めるのだろうか? なぜ、あらゆるこの世のものは諸行無常なのであろうか? それは今から147億年前、ビッグバンという事件によって時間が出来たからだ。そしてその時間は過去から未来にしか流れないので、その時間の流れに遅れまいとすべてのものは変化してやまない。 実はこの世に生まれたものはすべて「ジッとしていること」はできない。鐘の音は「その場にとどまっている」ことは不可能で、どちらかに行かなければならない。つまり鐘の音はお寺の中に留まっているということ自体が宇宙の力を受けて不可能なのだ。 人間も必ず歳を取る。どんなに若く見える人でもいつまでも赤ちゃんのような肌を持っている人はいないし、90才になれば体の自由は若い頃のように効かない。生物は日々、体を入れ替えることが出来るのだから、変わらなくても良いように見えるが、そうはいかないのだ。 「エントロピー増大の原理」と言っても良いし、「時間は止まらない」と表現してもよい。平家物語(仏教)のように「諸行無常」でも良い。とにかく止まっていられない!という一大欠点が私たちを悩ましているのだ。 毎日を止まるとストレスがたまる。毎日、過度に動くと辛い。私たちは宇宙の動きに従って、「適切な変化」を強いられている。しかし、それはとても良いことでもある。私は「昨日も晴れ」と書くことがあるが、過去は流れていくので、悪いことは思い出さないですむ。昨日がどんなに土砂降りでも「晴れ」と思えば、二度と再び昨日は来ないので、土砂降りは晴れになる。 あまり長い間の変化も予想すると頭が痛くなる。だから、今日一日ぐらいが良い。それが私の「今日も朝」だ。私の人生は昨日で終わったかと思ったら、今日も朝が来た。それなら今日一日ぐらいはまた頑張るか!という具合である。長期的目的はたてない。変化は変幻自在であって、どうなるか予想もつかない。30年前は携帯電話もなければ、ほとんどクーラーすらなかった。地球が温暖化するなどということは全くなく、私の知り合いは「寒冷化に強い作物」の研究をしていた。 進歩は良くもあり、悪いくもある。変化はせざるを得ないが、良いとばかりは限らない。でもそれが人間、生き物、そしてこの宇宙に住むものの定めだ。 20年前、私は川にも山にも、誕生があり、成長、繁栄があり、衰退と死があるのに気がつき、愕然としたことがある。人間だけではない。それが私たちに時の大切さ、今の大切さを教えてくれる。 (平成24年5月2日) 「tdyno.68-(8:06).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月10日
コメント(0)
謬作京華名利客 誤って都会の中で名利の客となった(自分はしばらくの間、間違って大都会で生活をし、名誉やお金にまみれてしまった)・・・明治6年、郷里に帰った西郷隆盛47才の詩の一部です。 自然は美しく、それを汚すのは人間の心だ 誤って華やかさの中で名誉とお金に心を奪われる でも本当に人生を知っているものは自然の中で我を取り戻す。 田舎では人は心を失わずにすむけれど、人が空間を作り出す都市は醜悪だ これだけ豊かな現代日本が人の心を踏みにじりながら進むのは もっとも下賤な大都市がものごとを決定しているからに他ならない。 人間は自然の中に帰ると、本来、人間がするべきことがなんであったかに思い至ります。あれほど大切だと思った収入、地位・・・そんなものは何の意味も無かったのです。食糧自給率1%、工業生産もほとんどせず、人の活動のうわまえをとるだけの仕事をしている東京の人が生産をしている地域の2倍の所得を得ている・・・この奇妙な状態で生み出される奇妙な現象、それが原発事故、瓦礫の搬出、原発の再開、年金不祥事、年金崩壊、赤字国債、エコポイント、そして地球温暖化対策などです。 西郷隆盛が鹿児島に帰った直後に作ったこの詩は今に至っても輝かしい光を放っています。 (平成24年5月8日 鹿児島にて) 武田邦彦
2012年05月09日
コメント(0)
人災としての震災・事故(1) 災害を生んだ気象庁マグニチュードとその後の不誠実 2011年3月11日に起こった東日本大震災で、気象庁は最初、地震の大きさを示すマグニチュードを7.9と発表しました。7.9というのはかなり大きい地震という程度ですから、この発表を聞いて安心した人も多かったでしょう。 もともとマグニチュードを発表するというのは、学問だけで必要な数字ではなく、一般の人が知ることによって地震の大きさを知り、それによって避難するべきかなどを考える参考になるからです。地震が起こった直後は、正確な数字が必要であることは言うまでもありません。 それが大きく違っていたのですから大変なことですし、事実、津波の予測は最初の方のマグニチュードを参考にして計算されましたので、やや小さめの数値がでていました。それで命を落とされた人が多いことをかんがえると、私たちはこの問題をいい加減にしておいてはいけないと思うべきでしょう。 ・・・・・・・・・ 一見して単純な計算ミスのように感じますが、実はかなり深い問題を含んでいること、気象庁の数値が不適切であることをたびたび指摘されていたこと、さらには発表の途中で間違いに気がつき、計算方法を変更したのに、どこから変えたのかすらハッキリしていないという隠蔽工作も疑われています。 今後、地震が予想されている中で、このような人災のもとを残しておいては、同じ轍を踏む可能性も高く、今回の東北大震災で犠牲になった人にも申し訳ないと思いますので、ここで明らかにしたいと考えます。 ・・・・・・・・・ 地震の大きさを示すマグニチュードは、気象庁マグニチュードと、モーメント・マグニチュードという二つの数値があります。気象庁マグニチュードは日本の気象庁が独自に計算しているもので、震源地から異なる2つ以上の場所で測定した地震波から計算する方法です。この方法は迅速に計算値が出るという特徴が有りますが、地震が大きいときには正確ではないことも知られていました。 そこで東大地震から地震研の騒動の時にアメリカに渡った金森先生が研究されたモーメントマグニチュードを使うのが世界的な標準になっています。つまり、わかりやす言うと気象庁マグニチュードは被害が起こらないぐらいの小さな地震には役に立ちますが、東北大震災のように大型の地震では役に立たないということです。 すでにマグニチュードが8付近より大きな地震では気象庁マグニチュードが間違いであることがわかっていたのですから、自動的に二つの計算値を出して、正しい方を発表すべきだったのです。実際にはおそらく8.8という発表値からモーメント・マグニチュードを使ったと考えられますが、あまりハッキリと訂正を出していませんし、謝罪もしていません。 ・・・・・・・・・ 金森先生は世界的にも有名で優れた先生ですが、日本がだしている最も大きな学術賞である京都賞をお取りになり、その時に「目的を持った研究はダメだ。学者が好きで研究したものでなければ良い結果は得られない」と受賞インタビューで言っておられます。 日本の科学をダメにしたり、原子力が衰退したのも「役に立つ研究」という文科省と東大が主導した学問とは無縁の研究でしたが、私は金森さんのインタビューを聞いて、立派な学者、学問を大切にする学者は皆さん同じことを言われると思ったとともに、「役に立つ研究」ほど「役に立たず、かえって災厄をもたらす研究」であることを感じるのです。 ・・・・・・・・・ 仮に気象庁がメンツにこだわらず、モーメント・マグニチュードを使用していたら、津波の予想は遙かに精度が良くなり、その結果、亡くなった多くの方の命が助かったでしょう。「大丈夫だよ」、「そんな大きな地震など来るはずが内」、「アメリカに行った金森の言う方法なんか使えるか」など、人間的、空気的なことばかりが先行して、地震の計算のように純粋な学問の問題が人間的なことで汚れてしまったのです。 良く事故があると、その教訓を活かすことによってせめて犠牲になった人を弔いたいということが言われますが、その点で気象庁が今度の地震の大きさについての混乱の原因をハッキリさせ、反省を述べ、次の大地震までに何をするのかを明らかにしなければならないでしょう。 気象庁は官庁ですから、もしかすると気象庁は間違いをしない、謝りもしないと思っているかも知れませんが、学問の世界ですから、間違いは間違いとして訂正し誤ることをしないと気象庁という役所は成り立たないでしょう。 かつて私のように自然科学を目指したものにとっては、気象庁は誠実で純朴な役所のように思っていましたが、地球温暖化問題などで近藤先生も言われているように、学問的純粋さを失っているように思います。また原発事故の後も防災に最も重要な風向きを日本国民に知らせなかったのも、最近の気象庁の腐敗を物語っていると感じられます。 (平成24年5月9日) 「momenttdyno.80-(9:31).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月09日
コメント(0)
副流煙・・・受動喫煙について(その1) 女性の肺がん(腺がん) このブログをお読みになっている人のほとんどが「タバコの副流煙は有害だ」と信じて疑わないと思います。でも私は「自分の目でデータを確かめて納得してから」しか自分の考えを述べないようにしています。なにしろ、今の日本社会は、たとえば温暖化にしてもIPCC(国連の機関)は「温暖化すると南極の氷は増える」と言っているのに、日本人は英語を読まないだろうと高をくくって国内では「減る」と言うぐらいですから、油断できないのです。 (多くの人は今でも「政府はウソをつかない、NHKは本当のことを言う」と信じておられますが、決定的なことで事実と違うことを言って来たのです。原発でも「震度6で壊れる」ということがわかっていたのに「政府が安全だというから安全だと報道しても問題は無い」というスタンスだからです。副流煙もまずはそのように考えて調べています。) ・・・・・・・・・ 副流煙はまず次の2つの問題があります。 1) 世界で最初に副流煙の害について論文をだした厚労省の平山論文は事実記載に乏しく、データの提出と求められても提出に応じなかった。 2) タバコの追放を続けているWHOは副流煙の健康被害について調査をしたことろ、副流煙の環境にいた人の方が肺がんが少なかったので、発表を見合わせた。 そして、より具体的には、2008年に厚労省が発表した多目的コホート研究があります。これはタバコを吸う人と一緒に住んでいた女性がどのぐらい肺がんになったかという調査です。調査は対象者が2万8千人で期間は13年間。調査中に109人の人が肺がんと診断されています。 特にこの研究では4種類の肺がんのうち、主たるものである腺がんに絞って整理をしています。腺がんは肺がん全体の約3分の2ですから、109人のうち約72人が腺がんと推定されます(詳細なデータは公表されていない)。従来の研究では腺がんのうち、2割が女性の喫煙者で、もともと女性の喫煙者は2割ですから、タバコを吸っている人の割合と、腺がんの割合は一致しているということでした。 ところが、この調査では女性が喫煙せず、夫が喫煙している場合、腺がんが2倍に増えたと書いてあります。このときに夫の喫煙率は50%ですから、72人のうち、14人が喫煙者ですから残りの58人がタバコを吸わない女性で、そのうち29人が夫がタバコをする女性、29人が夫がタバコを吸わない女性となります。 「タバコを吸っている夫とともに生活している女性は腺がんが2倍になった」ということが本当なら(数字が発表されていないので怪しいが)、腺がんのうち39人が夫がタバコを吸っていて、19人が吸っていないということになります。「変わらない」という結果に対して、わずか10人の出入りで「2倍」という数字が出てきています。2万8千人の13年間の調査という触れ込みなのですが、その実体は10名の前後で2倍になったりならなかったりするということなのです。 つまり、もしこの10名が統計的なばらつきではないとしても(タバコと肺がんの全体的な関係でも同じですが)、タバコをすう夫と一緒に住んでいる女性は1万4000人で、そのうち、10名が「夫がタバコを吸うために腺がんになった」ということですから、その可能性は1400人に一人ということになり、確率は0.07%にしか過ぎません。 とうてい、「夫がタバコをすると妻が肺がんになる」などと言うことができる数字ではないのです。逆に「夫がタバコを吸っても妻が肺がんになることは希だ」と言った方が科学的には正しい程度の数字です。また良心的な学者なら大きな母集団の中で29人と39人でこのぐらい大きな違いを言うのに良心の呵責にさいなまれるでしょう。普通なら「調査したがハッキリした結果は得られなかった」というと思います。 ところでこの報告のきっかけとなった有名な平山論文(論文と呼べるものかどうか怪しいが)ではタバコを吸う夫とともに生活をしていた40才以上の「タバコを吸わない妻」約92000人を調査し、そのうちの174人が肺がんで死んでいるので、「タバコを吸う人と一緒に生活していた妻は肺がんになる」という結論を出しています。 この場合は、「タバコを吸っていた夫とともに生活し、肺がんで死んだ妻」は、6500人に1人という低率です。6500人のうち1人が肺がんで死んだという事実を正直に表現すると、「夫が喫煙者でも肺がんにはならない。極めて希に肺がんになる妻もいるが、あまりにその割合が低いので、他の原因も考えられる」とするべきでしょう。 というのは、肺がんの原因は、タバコの他に、排気ガス、空気の汚れ、核実験の放射性降下物、台所や家の中のほこり、農薬や殺虫剤の粉など多種類があるからです。これらの発ガン率の範囲に入ります。 ・・・・・・・・・ 科学としてこの調査を見ると、「タバコ以外の要因」をまったく無視しています。おそらくタバコを吸う家庭の平均収入は、吸わない家庭に対して低いと考えられますし、町中のアパートに住んでいる人が多いと考えられますので、自動車の排気ガスもより多く吸っているはずですし、衛生環境自体も望ましくないでしょう。 科学的に整理するもので、何かに注目するのは良いのですが、注目したもの以外の原因を無視すると正しい結果は得られません。温暖化騒動が盛んだった頃、「最近は気温が高くなった」ということと「最近はCO2濃度が上がっている」という二つを結びつけて、「CO2が上がると気温が高くなる」という人がいました。気温は太陽活動や都市化などいろいろなものが関係しますから、CO2にだけ注目すると、CO2が原因という結果が得られます。 当時、私はそのような説明をする学者に、「最近、私の年齢が上がってきていますので、私が歳を取ると気温が高くなるのではないですか?」と冷やかしたものです。このデータは日本の厚労省などが「副流煙は危険だ」という基礎的なデータになっていますが、実に不誠実なものであることがわかります。 このほかにもアメリカ保険局などのデータがありますが、いずれも「結論ありきで整理した」というもので、とうてい、国民の健康を心配したようなまじめなものではないものばかりです。大きな研究費と出世が絡んでいる研究を私はイヤと言うほど見てきましたが、その多くがこのようないい加減なデータで決定的なことを言う場合が多いのです。 学問への誠実さ、研究者の倫理をシッカリしてもらいたいものです。実はこの研究グループのトップが食品汚染の暫定基準を決めるときに「食料が足りなくなるから、基準は高くする」と発言した人で、セシウムで1年5ミリ、全核種で約17ミリの被曝を給食でさせました。このような人は、いつもその時、その時、ですね。 (平成24年5月4日) 「fukuryuentdyno.81-(11:16).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月08日
コメント(0)
ダブルスタンダードと「独自基準」 親は「政府が間違っていたから」という理由で子どもの健康を害しても良いとことはない。政府が悪ければ、親が正しくなければ子どもの信頼に応えられない。 ・・・・・・・・・ 農水省は「1キロ100ベクレルという新基準を作ったのに、それ以下の独自基準はけしからん」と言い、それに追従するマスコミも見られる。マスコミの論調は「違法でなにが悪い! 庶民は被曝しても文句を言うな!」という内容が書いてある。専門家も御用学者も「空気がそうなら、そう言う」という信念を貫いている。 でももともと「違法な独自基準」を決めているのは政府の方である。日本の法律に違反しているのにマスコミが「ヨーロッパは・・・」とヨーロッパの基準を持ち出すなど、日本を馬鹿にしているのも甚だしい。国民の健康を心配するなら、せめて「法律を守れ」ぐらいは言って欲しい。 繰り返すことになるが、日本の法律は「1年1ミリシーベルト=外部+内部被曝」と決まっている。これを正面から否定する人はいない。厚労省の大臣がさらっと「1年1ミリですよ」と言って、これまでの違法を謝罪しない。まさに現場から離れた東京の論理だ。 それなのに、またも政府の機関が決めた今回の食品の基準は「食品だけで1年1ミリ」と公言した。厚労省の食品安全担当が、厚労省の大臣とは違うダブルスタンダードなのだから驚く。交通事故で言えば、飲酒運転が禁止されていても、酒飲みの運転手を保護して、はねられる子どもを無視するという方針だ。最初から、食べる人の健康ではなく、食材(本当は汚染された食材は食材とは言えない)を作る側に軸足を置いた値である。 まず食品基準を決めるときには、次の手順が必要である。 1) 原発が原因となる被曝は1年1ミリ以下に納めるのが、原発を実施するにあたっての国民同士の約束(法律、規則、指導)であり、それを守るのは当然だ、 2) 1年1ミリは外部被曝と内部被曝の合計であるので、まず、政府全体でその割合を決めなければ個別の規制は決まらない(たとえば、内部食材0.4ミリ、内部水0.1ミリ、内部土ほこり0.1、外部0.4ミリ・・・これが示されないと議論にもならない)、 3) 個別の食材の規制では、内部食材0.4ミリの場合、次に厚労省の標準食品表(1日あたりの日本人の標準的食品の量)に基づき、計算し、食事の偏り(サカナの好きな人などの幅)の計算を公表する、 4) もしくは、現在の農薬などに適応されている「無毒量(1年1ミリ)の100分の1」の原則を使用する(これが低レベル廃棄物やクリアランスレベルの0.01ミリ)で、個別の食材に100分の1則を使うのは、データの不確かさ、個人の防御力のばらつき、個人の嗜好の幅などが考慮される、 5) 50年間の内部被曝、人体からの排泄などを考えて、1年の積算被曝量を出す、 6) それに基づくと、1キロ40ベクレルが最高で、それ以上にはならない。 というものだ。このような理論的な計算をしてから議論しないと、政府や厚労省、農水省、一部マスコミの論調は「おまえら国民は何も知らなくて良い。結果だけ教える」というもので、まったく民主主義というものを尊重していない。 福島原発の後、政府は徹底してダブルスタンダードを使っている。1年1ミリの法律を使って14才の少年を書類送検してみたり、同時に1年20ミリの新基準をだしている。食品でも「暫定基準」なるものがセシウムだけで1年5ミリ、全核種で17ミリとして、半年あまりで1年1ミリ(内部被曝だけ)とする。 まるで、夜店の値引きのようだ。原発が事故を起こしたら、どのような基準で行くかもすでに原子力安全委員会で決まっているのに、誰も知らないからという理由で勝手放題である(10万年に1回の事故に限って、上限を1年5ミリまであげうる、被曝によるがん死は1年150人以下にするなどが決まっているが、政府、マスコミはそれを守ろうともしない)。 政府、マスコミに法律や決まりを守る誠実さを求めたい。誠実であっても子どもに被害が出るかも知れないが、それは不可抗力だ。でも、最初から不誠実で子どもに健康被害がでたら、私たち大人は大人を止めなければならない。 (平成24年5月6日) 「shokuhinndabletdyno.86-(9:20).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月08日
コメント(1)
お金は多い方が良いとなったのはいつ頃か?・・・錯覚社会 現代は「同じ仕事で給料が20万円と30万円のどちらにします?」と聞けば、100人が100人、30万円と答えるでしょう。でもこのような習慣はここ300年ぐらいで定着したもので、その前は20万円を選んだ時代が長かったのです。 ヨーロッパではゲルマンの時代がそうで、「パンを食べられる範囲で良い。それ以上は面倒だ」と答えましたし、江戸時代は「宵越しの金は持たない」のが良い人生とされていました。お金(貨幣)がそれほどの意味を持たず、それより人生そのもの、時間そのもの、家族や友人が大切だった時代があったのです。 先日、ある若い人にこの話をしましたら、なかなか理解が難しいようでした。少し話してみてわかったのですが、その人は「このような生活が幸福である」というのを社会から常に教えられていて、自分にとって必要なもの、自分の幸福をもたらすものについて、おそらく一度も考えたことがないようでした。 かく言う私も同じで、32才まで私は「世間でこれが良いというものを、そのまま自分にも良いこと」という錯覚をしていたのです。考えてみれば世間で良いとされるものでも自分にとって良いかどうかはわかりません。それがわかったのが不覚にも32才になってからで、それから40才まで修行を積んで、やっとある程度、「自分の人生にとって大切なもの」が見えてきたのですから、その若い人がわからないのはやむを得ないと思います。 それまでの自分は「仕事をするのでも、会社にいるより自宅にいる方が得く」、「同じものを買うのに高いより安い方がお得」などとお金を中心とした尺度と、空気的損得(自分の人生にとっての損得ではなく、世間で決めたものをそのまま)で決めていたのです。 ・・・・・・・・・ かくして私の人生は気楽になり、朝になると「ああ、今日も朝が来たか!」と感謝してまた仕事に取りかかることができるようになりました。そんな私にとっては「安いアルバイトは続くけれど、時間給の高いアルバイトは続かない」、つまり「人はパンにのみ生きるものではない」という解説や教えを聞くとしっくりいくのです(その裏でお金を狙っている人には腹が立ちますが・・・)。 (平成24年5月7日) 武田邦彦
2012年05月07日
コメント(0)
形式論・・・日本は原発先進国? 第2次世界大戦の前に、「鬼畜米英」、「大東亜共栄圏」などの「言葉」が先行し、冷静な国力や国際情勢の分析がおろそかになったことも先の大戦の敗北の原因になったとされています。戦争は敗戦に終わり、310万人の日本人が犠牲になったのですから、戦争がやむを得なかった可能性はありますが、やはり政策として失敗だったことも明らかです。 日本の政策のように高度で複雑なことを考える時、言葉の遊びのような形式論で話を進めることもできますし、それなりに相手を説得できるように論理展開も可能です。事実、日本の論壇では「形式論で論旨を構築し、それにあった事実を集める」という手法を使う人がかなり多くテレビ解説や新聞、雑誌に登場しています。 その一つが「日本は原発先進国で原発の技術は世界一だから、それを守るべきだ」という「形式論」です。かなり地位も高く、論理性もある立派な方がこのような形式論を述べておられることに危惧を感じます。 この論理は「原発の技術が世界一」ということを根拠なしに前提にしているのです。日本の原発が世界一の技術力を持っているなら、もちろん福島原発事故などは起こっていません。いくら大きな地震と言っても「震度6,津波15メートル」というのは日本の海岸線ではそれほど珍しくありません。 震度6などは日本では普通のことで、高層マンションを建てるときでも「耐震設計」をしますし、地震の少ない国の設計をそのまま日本の高層マンションに応用することなど出来るはずもありません。地震や津波に強い建物の設計は、地震や津波がある国で発達するものだからです。 震度6の地震・津波のある国で原発を持っているのはほぼ日本だけですから、もし日本の原発技術が世界一なら、日本は独自の技術で原発、再処理施設などを設計しなければなりませんが、両方ともまったく出来ていません。 つまり、基本設計能力も安全保持設計もできないし、事故が起こったときの現場の対応(地元に連絡)や緊急体制(避難、ヨウ素剤など)もまったくダメなのに、単に「原発を(ややだまして)発展途上国に売る力」だけを「技術力」と言っているようです。 「日本の原発技術は世界一だから、これを温存しなければならない」などと言う形式論が堂々と議論されることに大きな違和感を覚えます。そろそろ形式論から実体論に、空気的事実から科学的事実に変わっていかなければならないとかんがえます。 日本が原子力発電を利用するためには「日本には基本的な原子炉技術はない。一から再スタートだ。再処理技術もフランスのもので日本にはない。だから核廃棄物の処理や格納もできない」という事実を認識して、議論をやり直す必要があります。 (平成24年5月6日) 「keisikirontdyno.87-(7:45).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月07日
コメント(0)
日本の発展を妨げているもの・・・東京の食糧自給率1%、工業衰退、平均給与ダントツ? アメリカが1970年代に衰退したことについて、今から30年ほど前に詳しい経済学の解説書を読んだことがあります。いろいろな数字でしっかり整理した本でしたが、結論は「現場にいないニューヨークやワシントンの連中がアメリカをダメにした」というものでした。 人間の頭脳というのは実にダメなもので、頭脳が間違った判断をしようとするのを止めるのは、「現場」と「辛さ」の2つのように思います。現場はいやでも事実を目の前に突きつけますし、辛さは傲慢になった自分の心を直し、事実を見ることができる勇気を与えてくれます。 アメリカは、その後、シリコンバレーなどを中心とした情報産業で最後の火をともすのですが、現場にいない人の支配は変わらず、現在は衰退の一途をたどっています。国が発展するときには、「現場が活躍し、失敗を飲み込み、根菜類を食べる」のが特徴で、現場から離れ、失敗を塗布し、くさい野菜は食べないようになったら、その国は衰退し始めます。あのローマもそうでした。それが栄枯盛衰であり、諸行無常でもあるのです。 人間、特に頭で考える人間が「良い」と思うことは、個別には確かに良いこともあるのですが、全体を見ると悪い方向になることはしばしばあって、このようなことは哲学や物理学では普通のことですが、経済学でも「合成の誤謬」と言っていますし、お釈迦様も中庸と教えておられます。 イエス様が「貧乏な方が天国に近い」と言われたのも同じで、人生の真実を見ることが難しいように人間社会で「お金があると不幸になる」と思っている人はそれほど多くはないでしょう。普通はお金があった方が幸福になると信じて不幸になっているように思います。 ・・・・・・・・・ 明治維新(もしくは開国)以来、50年間、日本は日露戦争に勝ってしばらく、現場が活躍し根菜類を食べたのですが、それからの35年、軍では中枢部が指導するようになり、だんだん非現実的になって戦争に負けました。戦後も、最初のうちは松下幸之助、本田宗一郎というような現場型の人が産業を指導していましたが、やがて40年から50年を経てバブルが崩壊すると、頭だけで考えた東京型思考が日本を衰退させていきます。 たとえば、積み立てても意味が無いことが最初からわかっていた年金を始めたり、空気も水も綺麗で環境が悪くないのに頭だけで環境が大切だと言ってみたりということが起こり始めるのです。そして、今では地方の現場の工場が軽視され、本社の部隊が幅をきかせるのと同じように、東京でビルの中で仕事をしている人たちが実権を握るようになりました。 なんと言っても東京の食糧自給率は1%、工業もほとんど無くなりました。それでいて東京は地方の2倍近い所得をとっています。実に不思議です。たとえば税金というのはもともと働いている人の生活を豊かにするために税金を払っているのですが、「税金を払っている人が苦労し、税金をもらう人が楽をする」という奇妙な社会になってしまったのです。 「国民は増税反対だが、財務省が増税を進めている」という話は、それ自体が「税金」というものの論理に反するものです。国民が税金を納めるのは「喜んで納める」からであり、「いやいや納めるなら税金ではなく、お殿様の徴収金みたいなもの」だからです。 ・・・・・・・・・・ 東京の電気を原発でつくり、東京は使うだけ、地方は危険な原発を動かし、廃棄物を処理するというシステムは、まさに今の増税路線とおなじく、本来は地方の召使い、国民の公僕だったはずの人たちが力をつけていつの間にか主人になってしまったことを意味しています。 今回の震災の瓦礫の問題も「中央が決めたことだから、地方が汚染されようがやれ」という感じですが、なんでも東京をみてそのご機嫌を取っている地方自治体の首長さんは少しプライドをもって考えなければならないでしょう。 もともと、東京はなにもできません。食べ物もつくれず、GDPにも貢献できないのです。それにも関わらず、地方は自らの努力を怠り、中央の補助金、交付金、工場誘致など「東京頼み」だけの政策を採っているように見えます。 私は良く地方に行きますが、地方の回復は1にも2にも東京からの脱離にあるとおもいます。それには、1)明治の初めのように東京の人が東京の利権を考えるのではなく、地方の力を増やして日本全体が栄えるように我が身を捨てる(万機公論に決すべし・・明治天皇の五箇条のご誓文)、2)地方の人が外国と直接渡り合えるように自分で考え、努力する、の2つが必要なように思います。 最終的には現場にいる地方が力を持たないと日本は衰退していくでしょうし、それに東京が我が身を捨てて協力することこそ日本人なのでしょう。「失敗を認めない」、「うまく言い抜ける」などは現場には関係がありません。言葉だけを使って人生を送っている人だけの特殊な文化、それが今の東京の幻想なのです。 原発の爆発すら認められない、事実を認めることはできない・・・そんな文化が技術者の方まで波及しているのですから、かなり重傷でしょう。なんとかこれを覆して明るい日本を作りたいものです。 (平成24年5月6日) 「tokyotdyno.78-(6:45).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月06日
コメント(0)
瓦礫のトリック・・・法律を作る国会議員が「法の目をくぐる」習慣か? 被災地の瓦礫を他県に移動するのは次の点で「法律違反」か「法律の網の目をくぐる」という範囲になるのです。 1) 1キロ100ベクレル以上は「低レベル廃棄物」(低レベル廃棄物の基準は明確ではありませんが、これまではこの程度でした)、 2) 低レベル廃棄物相当のものだから、首長や議会が単独に決められるものではなく、住民説明、住民投票などを必要とする、 3) 1年に0.01ミリシーベルトの被曝になる可能性のあるものは「原子炉で汚れたもの」として一般の社会に持ち込まない(クリアランスレベル:違反は1年以下、100万円以下の罰金)。およそ1キロ100ベクレル相当。 4) たとえ持ち込むものが1キロ100ベクレル以下でも、簡単な操作中に100ベクレルを超える行為をしてはいけない。「焼却したら直ちに8000ベクレルになる」などは法の精神から許されない、 5) 日本の法律ではセシウム137が1キロ1万ベクレル以上になると「放射性物質」になって厳密な取り扱いを求めている(放射線障害に関する複数の法律。もちろん同じ数値)。そこでその10分の1のレベルは普通は使用を制限する(10分の1については多数の議事録あり)、 6) 合計2300万トンの瓦礫のうち、400万トンだけを搬出する合理的な理由が示されていない、 7) 地元はそのほかにも瓦礫を多く抱えていて、むしろこの400トンも含めて処理施設ができるのを望んでいる、 8) 瓦礫処理単価が、阪神淡路で2万2千円、今回が6万3千円で、その差の理由が明確に示されていない。遠隔地に運搬するからという理由もあるが、遠隔地に運搬する理由が示されていない。 9) 福島原発から漏れた80京ベクレルは、もし日本人全員が平均的にかぶるとすると日本列島には住むことができなくなるが、 このようなことを考えると、政治家や役人が自ら法や法の精神を守ろうとしない姿が浮かび上がります。これほどの矛盾を認めては民主主義とは言えません。 「tdyno.81-(6:51).mp3」をダウンロードこの音声は音声を起こしていただける方が時間があればhttp://ameblo.jp/help-each-other/に掲載されることもあります。(平成24年5月5日) 武田邦彦
2012年05月05日
コメント(1)
瓦礫のトリック・・・法律を作る国会議員が「法の目をくぐる」習慣か? 被災地の瓦礫を他県に移動するのは次の点で「法律違反」か「法律の網の目をくぐる」という範囲になるのです。 1) 1キロ100ベクレル以上は「低レベル廃棄物」(低レベル廃棄物の基準は明確ではありませんが、これまではこの程度でした)、 2) 低レベル廃棄物相当のものだから、首長や議会が単独に決められるものではなく、住民説明、住民投票などを必要とする、 3) 1年に0.01ミリシーベルトの被曝になる可能性のあるものは「原子炉で汚れたもの」として一般の社会に持ち込まない(クリアランスレベル:違反は1年以下、100万円以下の罰金)。およそ1キロ100ベクレル相当。 4) たとえ持ち込むものが1キロ100ベクレル以下でも、簡単な操作中に100ベクレルを超える行為をしてはいけない。「焼却したら直ちに8000ベクレルになる」などは法の精神から許されない、 5) 日本の法律ではセシウム137が1キロ1万ベクレル以上になると「放射性物質」になって厳密な取り扱いを求めている(放射線障害に関する複数の法律。もちろん同じ数値)。そこでその10分の1のレベルは普通は使用を制限する(10分の1については多数の議事録あり)、 6) 合計2300万トンの瓦礫のうち、400万トンだけを搬出する合理的な理由が示されていない、 7) 地元はそのほかにも瓦礫を多く抱えていて、むしろこの400トンも含めて処理施設ができるのを望んでいる、 8) 瓦礫処理単価が、阪神淡路で2万2千円、今回が6万3千円で、その差の理由が明確に示されていない。遠隔地に運搬するからという理由もあるが、遠隔地に運搬する理由が示されていない。 9) 福島原発から漏れた80京ベクレルは、もし日本人全員が平均的にかぶるとすると日本列島には住むことができなくなるが、 このようなことを考えると、政治家や役人が自ら法や法の精神を守ろうとしない姿が浮かび上がります。これほどの矛盾を認めては民主主義とは言えません。 「tdyno.81-(6:51).mp3」をダウンロードこの音声は音声を起こしていただける方が時間があればhttp://ameblo.jp/help-each-other/に掲載されることもあります。(平成24年5月5日) 武田邦彦
2012年05月05日
コメント(0)
話すべき時に話す社会・・・空気的事実から科学的事実の通る社会へ 会社の技術者だった時、「会議の前に根回しをしろ」と何回も叱られましたが、大学に移るまで、その意味を理解することはできませんでした。せっかく、出張費と時間を使って多くの人が一つの会議に集まるのですから、そこで情報や意見を交換して決定するのが一番、良いのですが、それは「事実を元にして意見を出す」ならよいのです。 でも日本の会議は「空気を読む」ことによって「空気的事実をもとに判断する」のですから、会議の前にあらかじめ空気を知っておきたいということです。 それは会議が終わった後でも同じで、会議の後の飲み方になると「ああ言えば良かった」というような発言がどんどん出るのです。会議で下手に反論をすると「空気を読まない」と批判されるのを恐れて、会議で発言せず、飲み方で本音を言うのです。 国の会議に出るようになってから、会議の途中や終わったときに、横にいた新聞社の論説委員が「武田先生、実は・・・なんです」と重要情報を教えてくれます。そんな重要なことなら会議で言うか、新聞に書けば良いのに、その新聞の論説委員の地位は、「大事なことを新聞に書かない」、「肝心なことは会議で言わない」ということで保っているのです。 つまり、形式的には民主的であり、会議が開かれるのですが、そこでは肝心なこと、事実は話されず、みんなが腹の中にためておくのです。東大教授が私にトイレで「武田先生、温暖化しないことなんか、みんな知っているんですよ。それでうまくいくのだからいいじゃないですか」と言ったことに象徴されます。 情報を独占し、それで個人の利益を計る、それが国の偉い人の共通した行動様式にまで発展していると言えるでしょう。 おそらく福島原発の後も、「法律では1年1ミリなんですけれどね」と国の委員会の裏では発言があったでしょう。「低レベル廃棄物は1キロ100ベクレルぐらいですから、瓦礫を1キロ8000ベクレルではどうですか?」とか、「いや、どうせ地方の議員は金が欲しいから、「助け合い」などと言いますよ。大丈夫です」などというのがひそひそ話として飛び交ったはずです。 そうかといってネットなどで自由な議論ができるようになると、激しい個人攻撃、バッシング、口汚い罵りあいが起こるのですから本当に困ったものです。それもかなりの地位の人(たとえば大学教授など)も匿名で裏から批判してくるのですから、格調高い社会とはとても言えません。 こんなことを全部無くして、表裏ない、明るく、楽しい社会にしたいものですね。戦後、オートバイの製造で活躍した本田宗一郎さんは「人生、どうせ死ぬのだ。やりたいことをしよう」という趣旨のことを言っておられました。厳しいビジネスを進めてきた人ですが、笑い顔は屈託無く、今の実業界ではなかなか見かけない顔でもありました。 私たちも明るい日本を取り戻すために、額に汗して働くだけで満足し、補助金やエコポイントなどに見向きもしない礼節信義を守り、誠実な姿を子どもに見せたいものです。 (平成24年5月3日) 「kaigitdyno.70-(7:09).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月04日
コメント(0)
原発推進派も反対派も原発再開に反対なのに・・・ 原発推進派は何が何でも原発を再開しようとしているように見えますし、反対派は絶対に再開を防ごうとしています。なぜ、「安全でなければダメ」というのはなのに、これほど対立するのでしょうか。 原発推進派: もう一度、事故が起こったら原発は最終的にダメになるから、絶対に安全でなければならない。なぜなら原子力を続けたいから。 原発反対派: もう一度、事故が起こったら原発は最終的にダメになる。絶対に安全でなければならない。もう原子力はやりたくない。 どこが違うのでしょうか? 途中までは完全に一緒なのに最初から対立しています。つまり、どちらも原発が安全でなければならないという信念には変わりはありません。そうなると、原発推進派も反対派も再開はイヤなはずです。では、誰が原発を再開しようとしているのでしょうか? 実は、今、原発を再開したいと思っているのは、驚くべきことに原発推進派(原子力の人たち)ではなく、原発には興味がなくお金に興味のある人たちのように感じます。 お金に興味のある人たち: 原発が安全かどうかを議論していたら、原発を再開できない。安全かどうかを議論せずに再開すればお金は得られる。事故が起こったらその時はその時だ。原発を止めれば良い、ということですから原子力に信念がない人です。 今、議論がややこしくなっているのは、あたかも原発推進派と原発反対派が争っているようにマスコミが見せているからかも知れません。本当の対立構造は、「原発に興味ある人たち」と「原発よりお金に興味ある人」の対立とも思います。また「子供の健康が大切な人」と「自分だけがよければよい」という人の争いとも言えます。 すでに原子力委員会が2度にわたって「原発を止めた方が電気代が安くなる」という報告を出していますから(日本の原子力委員会です)、産業界が「原発の電気が欲しい」と言うはずもありません。また思想的に右の論客の多くの人が「原発を止めると日本が弱くなる」というのも原爆を保有したいということ以外は、根拠を持っていません。もし思想的に右の人が原爆を持った方が良いというお考えなら素直にそれを訴えた方が良いと思います。 また、ヨーロッパが太陽光発電、風力発電、バイオマスなどをやったおかげで電気代が高くなり、経済的に大きな圧迫を受けていることはよく知られています。また1988年から始まった地球温暖化騒動もその多くが間違いであったことも指摘され始めています。 「お金が欲しく、自分だけが良ければ良い」という人の特徴は「原発の電気は欲しいけれど、核廃棄物は引き取らない」というものです。原発を再開したい人はその敷地に原発からもらった電気に相当する核廃棄物を引き取る義務を設けるべきと思います。そうするとその人たちは「自分だけ良ければ良い」ということですから、原発再開に反対するでしょう。 ところで、原発の事故が起こった後も、東京の人たちで原発再開を支持している人が多いのはどういうことでしょうか? 俺たちはお金を持っているので、危ない原発は貧乏な新潟県と福島県、核廃棄物の中間処理はこれも貧乏な青森県にということなのに、それを「絆」と言っているのでしょうか? すでに、核廃棄物は発電所を中心にすでに12万本が貯まっているのですが、それは「子供たち、孫たち」に任せるという感じです。 原発の電気は自分で作り(多摩川立地)、そこから出る汚いものは自分で処理する(千代田区に核廃棄物貯蔵所)という前提で議論をしなければならないでしょう。そうすれば常識的な答え、つまり「原発はしばらく休止し、今年の夏はなんとか我慢して、石炭や天然ガス火力発電所を緊急に作る」ということになると思います。 (平成24年4月30日) 「tdyno.73-(4:25).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月04日
コメント(0)
若い人も年配者も注意しよう! 論文から見た被曝による発がん 先日、放射線影響研究所からの最新論文をご紹介しました(第14報)が、すでに第13報でも、「閾値がないこと、直線近似できること、発がん性は若い人が、ガンになる時期は年配者が、危険なこと」が示されています(このブログにも解説をしてありますが、グラフ化した労作もあります(http://blog.livedoor.jp/hardthink/archives/51932680.html)。 よく「閾値はみとめられていない」とか「1年100ミリ以下はデータが無い」というのはハッキリとした間違いですから、学者は「低線量の被曝で健康に障害がでるというデータは多いが、私の意見は違う」と学会で述べるにとどめるべきです。医師や資格を持った専門職がそのようなことを言えば、医師は医師免許を、専門家は専門職を辞する必要があるでしょう。これについての理論的なことは小学館でネット放送している「ガリレオ放談」をご覧ください。 さて、この図は、10才の時に被曝した人が30才までにガンになる確率は、30才の人が50才でガンになる確率の実に5倍という数を示しています。若い人だけが危険ということではありませんが、私たち大人が原発の電気は欲しがったために子どもたちを被曝させ、原発を動かせば必ずでる核廃棄物の貯蔵もせずにそれを「危険だから」という変な理屈で子どもたちに回そうとしています。 今回の原発事故をきっかけにして、「大人が責任を回避し、利益だけをとって、後は子どもに任せる」といういつの間にかついた悪い習慣を止めたいものです。若い人が希望に満ちて生活できる社会、それが年配者にも楽しい人生をもたらします。 とても悲しいことですが、今のように学問的にも法律的にも許されないことを子どもたちにしていたら、将来、子どもたちは病気になるでしょう。そのときにこれも悲しいことですが、補償問題で裁判になるでしょう。かなり厳しい裁判になると思います。なにしろそのお子さんのガンが福島からの被曝によるものという証明が難しいからです。 せめて、そのときのために被曝の履歴や、「被曝しても大丈夫」と発言していた人の記録を取り、個人的にでも賠償を請求するしかないと思います。少なくとも統計的にはガンの発症が増えるでしょうから、大人としてはそれに備えるだけの精神力が求められると思います。 悲しい日本になったものです。こんなことを防ぐには線量の高いところの子どもを戦時中と同じように疎開させればすむことですし、原子力の年間予算4500億円でおつりが来ます。大人の決意だけで子どもを守ることが出来るのです。自治体が「大丈夫おじさん」を呼んで住民にさらに被曝させることが続いています。 日本のような閉鎖的な社会では自治体が作り上げた雰囲気を壊すと村八分になると思って、子どもを守る行動に出ることが出来ない人も多いのです。今一度、放射線による被曝の病気は「時間がかかる」ということを確認し、1年1ミリが法律の限度、1年1ミリが広島の原爆症の認定基準、1年5ミリが成人男子の白血病の労災認定基準、1年1ミリが電力会社の被曝の内部基準ですから、子どもについては大人は十分に注意してあげたいと思い「tdyno.69-(5:31).mp3」をダウンロードます。 (平成24年5月3日) 武田邦彦
2012年05月03日
コメント(0)
なぜ、増税がいけないか? なぜ、国債が日本をダメにするか? 共産主義がダメになったのは、「制度が良くても人間が悪ければダメになる」ということです。みんなで額に汗して働いて、みんなで分け合おうという考えは良いし、それを制度化した共産主義も良いのですが、実施段階で崩れたのです。 むかし、封建主義の時代はお殿様がいて身分が固定されていましたから、それほど働かなかったのですが、油断していると敵が攻めてくるので、やはり「他国に負けてはいけない」というプレッシャーでなんとか進歩もします。そんな時に「地球環境のために自分の国だけCO2を減らす」などやっていたら滅ぼされてしまいます。 歴史始まって以来、「競争のない社会」が繁栄した例はほとんどありません。特に近代になって交通手段が発達してからは鎖国でもしない限り他国に負けてしまうのです。「競争がないと人間は働かない」というのは、人間が未熟だからか、それとも生物としての特性かはまだはっきりしていません。つまり「人間は競争がなければサボる」ということです。 増税も国債も共産主義がダメになった理由を加味して考える必要があります。純経済学的に考えれば、増税してもその使い道が正しく、日本を発展させる方向なら有効なお金の使い方ですし、国債も死蔵されそうになっているお金が社会を回るのですから良いことです。 でも、今、なぜ増税したり、赤字国債を大量にだしているのかという理由と、そのお金がどこに行っているのかが「日本の発展の方向に向いているのか?」ということと、「民間がなぜお金を借りたがらないのか」ということを考える必要があります。 ・・・・・・・・・・ これを考えるに、いろいろな側面がありますが、まず銀行から行きますと、もともと銀行の役割は「お金」の分配を通じて社会の発展に寄与するわけですから、本来なら死蔵するお金を集めて、社会でお金を必要としているところに「リスクを判断して」回す役割です。しかし、日本の銀行が本当の意味で「投資」することをせず、歩積両建でもわかるように、むしろ確実性と威張ることで、誰に貸しても大丈夫という高度成長時代にだけ役割をはたしたのです。 それでも、民間の人が活性があり、お金があれば新規事業をしたいという状態なら国は発展します。将来性のない事業(見通しの間違い)や収益性のない事業(競争の甘さ)をやれば潰れてしまいます。つまり「自然淘汰」の社会になっています。 でも、増税や国債の危険なところは将来性のない事業(今までも、工業化が終わったあとに大規模工業団地を作りペンペン草がはえている、レジャー熱が冷めた頃に大型レジャーランドを作ったり、ダメなことばかりやっている)、収益性のない事業(必要かどうかは別にしてバラマキ福祉制作等)をやっても「役所は潰れない」ということがあります。そのもっとも酷いのが年金で、最初から人から貰ったお金を単に食いつぶすだけということもあります。 それでも高速道路とか都市計画のように国や自治体が実施した後、それが効率アップにつながる場合は、そのもの自体は事業性がなくても国全体の力を上げることができますが、個人が買うテレビにエコポイントを付けるなどをすると、「個人が考えて損をしないようにお金を使う」というよりはるかに効率が悪くなります。特に「環境も悪くないのに、お金を配ることだけを目的とした環境政策」などは日本を衰退させるだけです。 つまり、現在の政府や自治体のように民間の会社に比べ、極端に不能率で、生産性が低く、新しいものを生み出さないところにお金が行くのが「増税」や「赤字国債」だから、ダメなのです。民業を圧迫し、規制を強化し、国民が自由に頭脳を使って活動するのを制限しているのですから、むしろ「悪」になるのです。 まさに、小さいことにしかお金を使えない政治家、能力の無い役人が、威張り、自分の権益の増大と退職後のために事業を行い、大赤字をだしている状態ではお金を使っても発展できないということです。制度や目的は正しくても、実施する人が腐敗していては目的は達成されないのです。日本の繁栄の象徴は、本田宗一郎の新しい技術、松下幸之助のビジネスモデル、トヨタの超厳しい経営に見られるように、それらは役所とは全く正反対の活動であることがわかります。 でも、今は日本に活力がなく、生み出す力もありません。だから増税し、国債を発行し、無駄にお金を捨てている・・・それでも発展が望めるという考えはダメなことがペンペン草が生えている大規模工業団地の跡がよく示しています。 (平成24年4月29日) 「taxtdyno.74-(6:58).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月02日
コメント(0)
太陽電池の補助金・・・もう止めよう、みっともない! 人は自分の収入を法に触れないとか、他人に過度の迷惑をかけないという範囲では、自由に使っても問題はありません。日本に住み、日本の大人であれば、それは基本的人権として当たり前のことでもあります。そして、「節約が大切だ」とも言いますが、普通の人は「節約」をしようとしてもできません。なぜなら、節約してもお金が余れば銀行に預金しますし、それはやがてどこかで使うのですから、長い人生では節約はなかなかできないのです。 また、人には理想があります。たとえば太陽電池を購入する人は「石炭や天然ガスを節約した方が良い」と考えているのでしょう。でも、自分の考えを自分のお金でするなら良いのですが、太陽電池をつけるのに200万円のうち100万円を補助金(他人のお金)を使い、電力会社に3倍の値段で買い取ってもらって、それは他の人が払うというのは感心しません。 自分が太陽電池が良いと思い、それは普通に電気を使うよりお金がかかるなら、自分のお金でやらなければ意味がないでしょう。人によっては「補助金を半分出してもらい、電気を3倍で買ってもらったので、電気料金は2割ぐらい安くなった」と言って自慢している人がいますが、それなら、最初から電気料金を割引してもらった方が社会には迷惑になりません。 具体的に少し計算してみましょう。200万円の太陽電池のうち100万円を補助(他人のお金)を使い、1年10万円の電気のうち、2万円分を6万円で売ったとすると、その人は、20年間で自分のために他人のお金を(最初に100万円、1年ずつ4万円で80万円の合計180万円)もらうことになります。 私ならその人に180万円をあげるぐらいなら、毎年2万円、20年間で40万円を最初に渡してしまって、「太陽電池をつけないで普通の電気を使ってください」と言います。補助金や「高く買ってもらう」というのは他人のお金に目をつけているのですから、いわば乞食です。なんで太陽電池のように高邁なことを言っているのに乞食をやるのか、屋根に太陽電池をつけている家を見ると、ずいぶん自分勝手で自分の今年か考えない人だなと思います。 太陽電池が高いのは、シリコンなどを作るのに大量の電気やエネルギーを使うからで、それが自分の目には見えないというだけです。「環境」というのは自分だけが良かったり(電気代が節約できたり)、全体を考えなかったりするのではダメで、少なくとも日本全体のことまで見えなければ環境を語る資格はないように思います。 太陽電池のメーカーが中小企業なら国家が補助金を出すのもわかりますが、大メーカーばかりです。大メーカーなら自分で技術開発もできますし、大量生産したらどのぐらいのコストになるかぐらいは簡単に計算できます。かつて太陽電池の大メーカーの技術担当重役に会ったときです。先回の記事の年金のような話を聞いたことがあります。 武田「あなたのような大メーカーがなんで太陽電池の補助金をもらわなければならないのですか?」 重役「お金は要らないんですよ。でも去年、財務省に呼ばれて予算が余っているから太陽電池に使ってくれ。経産省には連絡してあると言われたので、乗ったんです」 年金課長の回顧録といい、この話と言い「税金は足りない」というのがいかにウソであるかがよくわかった瞬間でした。自然エネルギーに力を入れたヨーロッパが、高い電気代に苦しみ、結局はロシアからの大量の天然ガスや石油などに頼っているという現実もよく考える必要があります。 「solartdyno.71-(5:32).mp3」をダウンロード (平成24年4月28日) 武田邦彦
2012年05月02日
コメント(0)
なぜ、年金のお金は無くなるのか? 私が「国債は買ってはいけない」という本を書いたとき、日本のお金の流れをよくよく調べたり、計算したりしました。その中でびっくりした一つに「年金は積み立てていたら無くなる」ということでした。当時の私の計算結果ですが、20才から年金を積み立てても、最初の10年はわずかに全体の1.5%しか積み立てられないのです。その原因は物価上昇とか生活程度の向上なのですが、これはすでに歴史的事実なのです。 さらにこれに加えて社会保険庁が「年金の使い込み」をしたので、本来、払わなければならない約束は800兆円、実際にあるはずの年金が150兆円。そしてそのうち約100兆円が消えているのです。年金制度を始めたら膨大なお金が集まったので、それに群がった人たちが(どうせ焦げ付くことがわかっている)公共投資にそのお金を投じたことと、役人が天下りで他人の年金をむさぼったことでなくなりました。 このことは有名な国民年金制度の創設者で元厚生省年金課長だった花澤武夫氏の回顧録を見れば一目瞭然です。 「この資金(年金)があれば一流の銀行だってかなわない。 厚生年金保険基金とか財団とかいうものを作って、その理事長というのは、日銀の総裁ぐらいの力がある。そうすると、厚生省の連中がOBになった時の勤め口に困らない。 年金を支給するのは二十年も先のことだから、今のうちに使っても構わない。先行き困るという声もあったが、そんなことは問題ではない。将来みんなに支払うときに金が払えなくなったら賦課式にしてしまえばいいのだから」 つまり、国民から年金といってお金を集めれば何でもできる。そして国民に支払う段階ではお金がなくなっているから賦課方式(今のように若い人が払って高齢者がもらう)にすれば良いというのですから、年金を始める時に、すでに「年金を支払うことなど考えず、どんどん使え」、「無くなったら賦課方式(その年精算方式)に変えれば良いと言っていたのです。 つまり年金は最初から官僚がお金を取るために始めた制度だということを当時の担当課長自身が言っているのです。でも、官僚も人間ですし、明治以来の制度で疲労し腐敗しています。それに競争に勝ち抜いてきた「自分だけが良ければ」という人の集まりですから、むしろ「揺りかごから墓場まで」というようなこのぐらいのことを気がつかない私たちの方が問題だったのでしょう。 今、消費税の増税法案がでていて、「年金との一体改革」と言っていますが、これは簡単に言うと「これまで厚労省などが使い込んだ(もしくはダメな団体に融資した)ので、お金が足りなくなり(つまり年金を他の目的に使用してなくなった)、税金で補填する」ということです。 こんなことはとうてい、認められません。第一に使い込んだところが弁済するのが普通で、霞ヶ関が払うべきです。第二にそれでも国として足りないものがあるなら、なぜ年金がこんなになったのか、花澤氏の回顧録の内容の解説、150兆円のうちの焦げ付きの責任などを明らかにしてからが当然です。それにしてもおとなしい国民と、政府発表を繰り返すだけのNHKですね。 年金の話は、政府のあまりの無責任さに驚くばかりですが、これは果たして年金だけのことでしょうか? 実は私たちの代表である政府はすでに年金の話と同じように腐敗しているかも知れません。何しろ制度を作るときに使い込みを前提にしているということですから、私が今まで体験したリサイクルや温暖化なども最初からトリックだったのも当然のようにおもいます。 そして今でも、エネルギーや電力などに同じようなトリックがあり、それに荷担している人が多いことを考えると慄然とします。 (平成24年4月26日) 「pension2tdyno.72-(4:44).mp3」をダウンロード 武田邦彦
2012年05月01日
コメント(1)
全40件 (40件中 1-40件目)
1