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福岡に住んでいた頃のことである。
そう書き出しておいて、すぐに白状しなければならない。その頃のことが、もうずいぶんと霞んでいる。何年の、どの季節の出来事だったのか、はっきりしない。前後の順序も怪しい。以前、先生のお宅が焼けた日のことを書いた回で、火は一日で十万枚の写真を奪い、歳月はもっと静かに記憶を奪う、というようなことを記した。あのとき自分は、それを他人事のつもりで書いていた。そうではなかった。歳月は、自分の福岡の日々も、同じように削っていたのである。
だから、これから書くことには、覚えている、という保証がない。覚えているような気がする、という程度のものが混じる。そこは、そのように書く。
彼が福岡へ渡ったのは、牧正人史先生のもとで、姓名科学の考え方を学ぼうと思ったからだった。勤めを辞め、住まいを移し、それだけのことをして渡った。
結論から書いておく。学べなかった。
奥義と呼ぶべきものに、彼の手は、ついに届かなかった。先生は目の前におられた。同じ土地で、同じ時間を過ごしていた。それでいて、その中心にあるものを、彼は受け取れなかったのである。
ある日、先生から一つの指示を受けた。秋葉原へ行って、今のシステムに合うディスクを求めてきなさい、というものであった。
先生はNECのオフィスコンピューターをお使いだった。データは、盥のような形をした円盤に収められていたのではないかと思う。ただしこれは、後から思い返しての想像であって、確かなことではない。当時の彼は、大まかなことしか分かっていなかった。専門的な中身については、まったくの素人だった。もっとも、その点は今でもさして変わらない。
彼は東京へ出て、秋葉原の街を歩いた。
その日に何が起きたかは、ずっと前の回に書いた。だからここでは繰り返さない。立ち寄った部品商の店先で、店長と話していたところへ、一人の男が横から口を挟んできた。かくかくしかじかで、ソフトを収めるディスクを探している。そう話しているうちに分かったのは、その男が、牧先生の甥にあたる人だったということである。九州から東京へ働きに出ている、ソフトウェアの技術者であった。
東京の、数えきれないほどある店の、その一軒。同じ日の、同じ時刻。そこで、探しものの持ち主の身内に行き当たった。奇跡という言葉を軽々しく使いたくはないが、あれを他にどう呼べばよいのか、今もって分からない。
話はそこから、とんとん拍子に運んだ。叔父にソフトのことを直接聞いてみる、ということになって、その人は彼と一緒に福岡へ戻ったのだと思う。ここも記憶が確かではない。ただ、そういう流れであったという感触が残っている。
そして、おそらく半年ほど後のことであったろうか、新しいシステムで、先生のマシレグラフが出力されるようになった。ようだ、と書くほかない。彼自身が手を動かしたわけではなく、後から伝え聞いたことだからである。
さて、勘定をしてみる。
あの福岡の日々で、彼がしたことは何であったか。部品商の店先で立ち話をした。その相手を、福岡の先生のところまで連れて行った。数えあげてみると、それだけである。運んだのは荷物ではなく、人であった。
古い機械の中で眠っていたものが、新しい形に書き換えられた。それは確かに起きたことだ。だが、書き換えたのは彼ではない。彼は、その場に居合わせただけである。偶然が、自分という者を通り抜けていっただけかもしれない。それを自分の仕事と呼んでよいのかどうか、今もって分からずにいる。
学びに行って、使い走りをして帰ってきた。
歳月を経た今、振り返って、思う。
これが、いちばん深い悔いである。先生が教えを惜しまれたのではない。用が、いつも機械の周りのことばかりであった、というのも言い訳になるまい。結局のところ、受け取る器が、こちらになかったのだ。目の前に泉があって、汲む桶を持たずに立っていたようなものである。あれから長い歳月が過ぎて、今ごろになって、彼は先生の遺された書物を、一頁ずつ読み解いている。あのとき人から受け取れなかったものを、紙から掘り起こそうとしている。順序が逆であった、と思う。
それでも、あの日、店先で交わした立ち話がなければ、先生のお仕事は、古い機械の中で眠ったまま、誰にも知られずに消えていたかもしれない。自分の手柄ではない。手柄ではないが、事実ではある。
生かされて、今を、存在する。
福岡での日々のほとんどを歳月に持って行かれてなお、秋葉原へ行ってこい、と言われた、あの短い一言だけを、今も、自分は、確かに、覚えている。