2020末法元年                   ボンゾー(竺河原凡三)の般若月法

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2006年11月03日
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カテゴリ: 音楽・芸術
『交響曲第4番・ハ短調』は、ショスタコーヴィッチのキャリアの前半においてマーラー等の西欧的影響を自己のものにしようと、音楽のあらゆる要素を展開させようとした音絵巻である。3楽章しかないが、規模は、あの有名で軽薄な『第5』より大きく、演奏時間は約60分である。ちなみに、この曲が初演されたのは、作曲から四半世紀を経て、フルシチョフのスターリン再批判がなされた61年のことだ。56年最初のスターリン批判以降、交響曲でいえば『第11番』『第12番』と体制寄りともとらえられる通俗的な響きをもつ“大曲”を書いた後、大きく揺り戻しする。

『第4』初演を前後して、ショスタコーヴィッチの書法には、革新と深化が進んでゆく。『交響曲第13番・変ロ短調〈バビ・ヤール〉』(62年)と『交響曲第14番・ト短調〈死者の歌〉』(69年)は、歌とシンフォニーの必然的合体であり、歌の内実がもはやシンフォニーの形式を問うていない。

60年の『弦楽四重奏曲第7番・嬰ヘ短調』には、アンサンブルにおいて、四重奏トゥッテイの比重が減って、三重奏、二重奏、ソロと、様々な音楽対話のバラエティが試されるような実験が聴かれるようになる。『同第11番・ヘ短調』(66年)以降の弦楽四重奏曲は、伝統形式にありながら器がもたなくなってしまったかのような、内実優先の告白的な秘儀である。あらゆる古典音楽の技法と要素がぶち込まれると同時に、バルトーク的な現代的な変容が試され、果てには骸骨だけのような特殊な形体を取るに至った極めて特異な作品群である。

最後にたどり着いた『同第15番・変ホ短調』(74年)は、全6楽章がすべてアダージョであり、すべてが四分の四拍子、しかも切れ目なく演奏されるという異様さのなかに豊饒性が展開される。とはいうものの、これは水墨画のバラエティである。西洋的な対位法は後退している。4本の弦の一度書きの祈りの様々な歌の交錯である。

郷愁の強く臭うボロディン的なテーマから曲が導かれる。むせるようなスラブ・ロシアの土着の亡霊が深く弦に刻まれる。第2楽章から、死を前にした老妖術師の、死者との対話、或は招霊の呼び掛けの儀式が始まる。祈祷具の長剣が大きく空を切る。太く大きい祈祷文は、長続きしない。しかし、ふらふらと、亡霊たちは現れ、祈祷師の声に酔い痴れ、亡者は踊りだす。インテルメッツォのはずが、祈祷師の身振りは最後の力を振り絞って一心不乱に大きくなる(第3楽章)。悪霊までもが祈祷師の優しい夜の妄想に引き寄せられ、狭い部屋が姿無き亡霊たちの浮遊舞踏場となる(第4楽章)。第5楽章は、月光のモチーフがエロイカと運命のエコーのなかに閉じ込められ、祈祷師が男泣きとなる葬送の歌である。それはゆったりとしたリフレーンとなる。第6楽章冒頭、亡霊たちがざわめき始める。スラブの子守歌にも葬送のリフレーンにも、それは抗する。すると突然、祈祷師の心臓に異変が起こると同時に、天使が彼の目の前に現れ、彼を慰める。祈祷師は、最後の余力で、自らの罪の告白を祈るように進上する。そして、音楽は終わり、祈祷師は力尽き、近しい魂魄も、悪霊も、すべてが無に帰して逝く。

ベートーヴェン以来の弦楽四重奏曲書きは、バルトークだというのが批評家の定説ではあるが、私は、あえてショスタコーヴィッチを取る。彼の交響曲が比較的に社会に向かってアピールするソ連共産党員としての顔を現しているとすると、カルテットには彼のアナーキーな内面の妄想と瞑想がある。この対比に、機械的労働と個人の実存にますます分裂せざるを得ない現代的な切実な狂気が、重なって見えて来ないだろうか。

『バイオリン協奏曲第2番・嬰ハ短調』(67年)、『バイオリン・ソナタ・ト長調』(68年)、そして死の4日前に完成した『ビオラ・ソナタ・ハ長調』(75年)等は、どれも思索性の高い曲群であり、強い霊性も伴っており、聴くものに強い緊張も強いるが、聴き終わった後の解放感は何ものにも代えがたい。

複雑な横顔をもつ全集書きだったショスタコーヴィッチについて、一つのジャンルの曲群だけを聴いて、理解したなどと言わないでほしい。たとえば二つの代表的オペラ、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』と『鼻』も聴いたらよかろう。彼がモーツァルト並みに劇場感覚にすぐれていたことと、彼のなかの生命欲の激しさと機知の縦横さが分かるだろう。しかし、この分野はスターリンによって抹殺されてしまった。大粛正のさなか、彼が32歳にして、弦楽四重奏曲を初めて書き上げたことは興味深い。

一方で、ソ連共産党の党人としてのショスタコーヴィッチにも、ぬかりはなかった。彼は、62年よりソ連邦最高会議代議員に選ばれ、以後死ぬまで職責を果たした。レーニン勲章をはじめ国家の栄誉の数々にも浴した。だけれども、彼の音楽は、最後まで決して堕落することはなかった。スターリンの亡霊とスターリンに粛正された悪霊たちは、ショスタコーヴィッチの枕許を離れることはなかった。その悪夢こそが、晩年の創作の源泉ともなったのである。





『交響曲第4番』『同6番・ロ短調』『同7番・ハ長調』『同8番・ハ短調』『同10番・ホ短調』『同13番』『同14番』は、そういった性格をもつものである。私は最初、大風呂敷でヒステリックな狂騒を極める彼の交響曲のソノリティに辟易したものだが、ハイティンク、ロストロポーヴィッチ、バルシャイ、ロジェストヴェンスキー、コンドラシン盤と全集で5種類、バーンスタイン盤も新旧両方とも完備してゆくうちに、聴く機会は少なくなくなった。私にとって、聖なる作曲家、シューベルトとブルックナーはおくとして、最近では、コレクションのうえでははるかに充実しているブラームスやマーラーよりも、手が延びてしまう。他に、『第1』と『第9』も一聴に値するものだと信ずる。


3本のゆり、3本のゆり、十字架のない私の墓の上で
金箔を冷たい風に吹き払われる3本のゆりは
雨を含んだ黒い空に時おり洗われ
その美しさはいかめしい王笏のように重々しい
1本は傷口から生えたもの、夕焼けがくると
このたましいのゆりは血に染まるようだ

3本のゆり、3本のゆり、十字架のない私の墓の上で
金箔を冷たい風に吹き払われる3本のゆり
2本目は虫くいの寝所でもがく私の心臓から生え
3本目はその根で私の口を裂く

まわりには土だけ、その美しさは私の生のように忌わしい

3本のゆり、3本のゆり、十字架のない私の墓の上で

ギヨーム・アポリネール詩、ウサミ・ナオキ訳(一部表記変更有り)
『交響曲第14番〈死者の歌〉』~第4楽章「自殺」

「結局、死というのは簡単なことである。もしも人間が死んだら、それはやはり死んだのであり、元気でいるなら、それはやはり元気であるのだ」(同 6〈張りめぐらされた蜘蛛の巣〉)と唯物論的な言い方をしつつも、ショスタコーヴィッチの楽曲の多くの音符には――先ほど、『弦楽四重奏曲第15番』で実証もしたが――不気味で不思議な呪術性が宿っている。それは、報いられず、非運にも、無念のうちに死んで逝ったものたちを再び甦らせようという妖術のように聴こえるのは私だけであろうか。あの端正で美しい『ピアノ五重奏曲・ト短調』ですらも、弦のうなりのなかに、たくさんの悲しい不成仏霊を私は観てしまう。





王様、皇帝、帝王
この世の支配者たちは、観兵式を思いのままやれたが
ユーモアには、ユーモアには命令出来なかった
毎日ごろごろして暮らすお偉方たちの宮殿にさすらいのイソップが現れ出ると
彼らはみじめに見えたものだ

おべっか使いのほっそりした足に汚されているお邸で
ナスレッジン・ホジャは将棋をさすように
あらゆる俗物性を洒落でやっつけた

彼らはユーモアを買収したがった
それだけは買えないぜ!
彼らはユーモアを殺したがった
だが、ユーモアに馬鹿にされた!
ユーモアと闘うのは楽ではない
次々と死刑にして行った

ちょん切られたその首が、銃兵の槍先にのっかった
しかし、旅芸人の笛が物語を始めたその途端、ユーモアは叫んだ
わしはここだよ! わしはここだよ!
そして威勢よく踊り出した

政治犯として捕まったユーモアは、すり切れたぼろ外套をつけ
目を落とし、さもしおらしく、刑場へと歩いて行った
どう見ても従順そのもので、あの世への覚悟も充分だった
ところがふいと外套から抜け出し、片手を打ち振った
さあ、隠れんぼ

彼らはユーモアを独房に閉じこめたが
どっこい、そうは問屋がおろさなかった

鉄の格子も、石の壁も、ユーモアはするりと抜けて行った
風邪で咳きこみながら
ユーモアは一兵卒として、ざれ歌とともに進んで行った
鉄砲かつぎ、冬宮殿めざして

ユーモアは嫌われるのにはなれてしまった
そんなことはかゆくもない
ユーモアは自分自身すらも
ユーモアで扱うことがある
ユーモアは不滅だ
ユーモアは機敏だ
そしてすばしこい
どんな物、どんな人も通り抜けて行く

エフゲニー・エフトゥシェンコ詩、ウサミ・ナオキ訳(一部省略、表記変更有り)
『交響曲第13番〈バビ・ヤール〉』~第2楽章「ユーモア」

まるで、ショスタコーヴィッチ自身のカリカチュアを歌っているような歌詞である。彼の楽曲のなかのアレグレット=スケルツォなどでは、ユーモアが抜け出して、最高に踊りまくるのである。或は、暗い短調の管弦のうなりのなかにも、舌をだして出没する。

『交響曲第7番』の第1楽章のあのボレロのパロディ(ターラッーラ、ラッラッ、……)は、仮面を被った作曲者がスターリンの前で、裸の尻をさらして、ひょっとこ踊りを披露しているように私には聴こえる。そこに、過去に犠牲になった幽霊たちも加わり、さらには、マスクをいいことに共産党幹部も加わる。子どもたちも、おもしろそうなので、小さな仮面を付けて、見よう見まねで踊りだす。最後には、ソ連人民全員が、仮面の尻踊りを大地に舞い狂うのである。すでに、スターリンの存在はバラバラだ。これは、自らの汚れた五臓六腑をすべて吐き返してしまうようなおかしさだ。熱く、凶暴で、手が付けられない。こんな作曲家は、ショスタコーヴィッチだけである。

笑いは、人間の心身が限りなく機械に近付き、創造性のない繰り返しが発覚したときに社会的身振りとして生じる、とフランスの哲学者は言った。しかし、ショスタコーヴィッチの笑いは、招霊妖術の幻想が契機となっていて、爆発的かつカーニバル的な笑いである。恐ろしいことに、この笑いには目的がない。招霊の祈りは、我々が自らに機械としての物質性を徹底して否定しようとするときに生ずる。

このカーニバル的な笑いは、フィードバック認識されると、当事者の客観を解放する働きをする。顔をゆがめて笑うものは笑われるものにまた笑われ、笑うものと笑われるものの区別はなくなり、私は私ではなく、あなたであり、あなたはあなたではなく私であり、そして、あなたも、私も、結局は誰でもないのである。そう、あなたも、ショスタコーヴィッチを聴きながら、憑坐(よりまし)の躍りを、声がかれるまで一緒に笑いたまえ。ハッ、エフッ、ウハハハハハハハハハァア……
(この項おわり)





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最終更新日  2006年11月06日 20時19分03秒
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