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歴史的事件としてのキューバ危機は、アメリカ東部時間10月28日午前9時の、ソ連ニキータ・フルシチョフ書記長のミサイル撤去声明によって終息したと見なされています。もちろんその通りなのですが、両陣営が動員した軍隊の対峙、アメリカ軍のデフコン2体制は、その後約1ヶ月に渡って続き、一触即発の緊張状態は続いていました。アメリカとしては、ソ連が約束どおり、キューバからミサイルを撤去するのを確認するまで、油断するわけにいかなかったのです。一方のソ連は、アメリカの不安を払拭するため、国連による核査察受け入れを表明するなど、約束厳守の姿勢をアピールしましたが、この対応は、キューバのフィデル・カストロ書記長を激怒させました。なぜカストロが怒ったのかと言えば、それはキューバと彼の立場が、「キューバ危機4」のところで触れました、ミュンヘン会談のチェコスロヴァキアと酷似していたからです。今回の危機が戦争まで発展した場合、一番の被害者になるのは言うまでもなくキューバです。にもかかわらず、全ての交渉は米ソ両国によっておこなわれ、当事者なのにキューバに発言権はありませんでした。今回の結果を見れば、キューバにとって悪くない結果で落ち着いたものの、下手をすればカストロもキューバもソ連に見捨てられ、アメリカに差し出されていたかも知れません。それに強い警戒感と不信感を抱いたのです。カストロは国連による核査察受け入れを拒絶し、フルシチョフを慌てさせます(ただしアメリカ軍機による偵察活動は妥協したので、空からミサイル撤去の状況を確認する事は許しています)。危機の終結後、カストロはソ連から一定の距離をとりつつ(1968年のチェコ事件(プラハの春)で和解するまで、ソ連とは微妙な関係が続きます)、ラテンアメリカ諸国やエジプトなどの非同盟諸国との関係改善に乗り出すことになります。こうして1ヶ月後、キューバにあるソ連のミサイルが全て解体・撤去されて、基地が破棄されたのを確認したアメリカは、デフコン2を解除し、海上臨検を終了しました。これを受け西側同盟諸国、ソ連と東欧諸国の軍隊も動員を解除し、平常状態に戻りました。そして翌1963(昭和38)年4月、今度はアメリカがトルコのミサイルを撤去し、広い意味でのキューバ危機は終わりました。果たしてキューバ危機の「勝者」は、アメリカとソ連どちらだったのかですが、アメリカや日本、西欧諸国などでは、キューバの核ミサイルを撤去させた、アメリカとジョン・F・ケネディ大統領の勝利と見なされてきました(キューバ危機当時、緊張してみていたウチの父鳥も、そう認識していました)。しかし、アメリカはミサイル撤去の条件として、キューバへの侵攻や政権転覆計画の放棄を約束しています。ですからアメリカの完全勝利とは言えません。むしろ、ソ連のミサイル配備の目的が、「アメリカのキューバ侵攻を抑止する」であったことを考えると、ソ連とフルシチョフもまた勝者とみなすことが出来ます。トルコのミサイル撤去の件を含めれば、アメリカ・ソ連双方にとって「引き分け」と言うところになるでしょうか。しかし、国家としては引き分けとしても、双方の指導者、ジャック(ジョン・F・ケネディ大統領)とフルシチョフの2人は、共に「敗者」と言えそうです。ジャックはキューバ危機の13ヶ月後、テキサス州ダラスで暗殺され生涯を閉じることになります。彼の暗殺については、軍部やCIAの陰謀、マフィアの策略など諸説ありますが、このキューバ危機への対応が一因になっているとする見解は強くあります。一方のフルシチョフは、キューバ危機から2年後、失脚して政治生命を絶たれることになります。失脚の理由は、「アメリカに譲歩しすぎた」ことを弾劾された結果でした。さて最後になりますが、「キューバ危機は何故戦争とならずに終息したのか?」という命題は、危機から50年たった今も、歴史家や政治学者などの間で検証が繰り返しおこなわれています。なにせ、核戦争の瀬戸際での米ソ両国首脳部による駆け引き、組織による意志決定や危機回避のプロセス、そして平和的な解決となったいきさつなど、これほど際だった題材は他にないからです。この命題について、ひとつ私見を書いてみたいと思います。ケネディとフルシチョフ双方の間には、緊張したやりとりの中にも「相手も全面核戦争を望んでいないはずだ」という奇妙な信頼関係が存在していたと思われます。したがってソ連船は臨検ラインを強行突破せず、護衛のソ連潜水艦も米艦を攻撃しようとしませんでした。またアメリカ軍も、U2撃墜の報復にキューバにあるソ連軍地対空ミサイル基地を攻撃しませんでした。もしどちらかの指導者が戦争を望んでいたら、その時点で戦端が開かれたはずです。相手がそれをしなかったことが、ギリギリのタイミングまで平和的な解決を継続させる希望、信頼関係になっていたの間違いありません。それが異なる政治体制、価値観を持つ米ソ両国に、共通する「ゲームのルール」となり、戦争回避へ繋がったと言えます。逆に言えば、双方が認識をひとつにする「ゲームのルール」がない場合、交渉は決裂するか、対立がどんどん深まってしまうといえるかも知れません。例えば1941(昭和16)年の日本とアメリカ、現代におけるアメリカと北朝鮮、日本と中国、韓国などです。双方が認識を共通する「ゲームのルール」が異なる以上、何度話しあってもかみ合うわけがないのです。キューバ危機の教訓として、米ソ両国は改めて核戦争の危機にあることを痛感しました。その結果ジャックの提案で、両国の首脳部を直通電話で結ぶ「ホットライン」が開設されることになります。双方が誤解により核戦争へと突き進んでしまうリスクを低減させようとしたのです。しかし一方で負の遺産もあります。米ソ両国は第2のキューバ危機を避けるため、直接相手を攻撃するのを避け、さながらチェスゲームのように、相手陣営を間接的に切り崩す「小さな戦争」へとシフトしていくことになります。アメリカのベトナム戦争、ソ連のアフガニスタン侵攻は、その延長戦上にあります。こうして21世紀を迎えた今日も、世界を巻き込んだ全面核戦争の危機こそないものの、各地でテロや小さな紛争が続いています。この負の遺産をいつ克服できるか、それはこれからの課題と言えそうです。
2013.01.10
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映画『13デイズ』では、ケビン・コスナー演じるケネス・オドネル大統領補佐官が、ロバート・F・ケネディ司法長官を会見場所まで車で送るシーンが出てきます。車中でロバートは緊張を隠せず、「僕は頭が良いとか有能なヤツだと言われるのが嫌いなんだ。冷酷な人間と言われているような気がしてね」と言うと、つかさずオドネルは、「安心しろ、君は十分馬鹿だ」と答えます(余談ですが、この2人は大学時代からの親友同士で、それが縁でジャック(ジョン・F・ケネディ大統領)とも知り合いになり、大統領補佐官になりました。毒舌家のロバートの親友だけあって、オドネルも相当な毒舌家だったようです) 。ロバートが苦笑すると、「だけど僕が大統領だったら、やっぱり君に交渉を任せるよ。君になら、僕の家族の命を任せられる」と励まします。もちろんこのシーンは史実ではなくフィクションですが、最後の交渉を前にした緊張感が伝わってきます。出発前、ジャックは弟に念を押しました。「ボビィ(ロバート・ケネディの愛称)、(開戦の)スケジュールを延期することは出来ない。返答は月曜(10月29日)の朝までだ。くれぐれもそれを忘れるなよ」これでは、どんな老練な政治家でも緊張するなと言うのは無理でしょう。ましてこの時ロバート・ケネディは36歳、政治家としては若造扱いの歳です(余談ながら、兄ジョン・F・ケネディ大統領は45歳、交渉相手のアナトリー・F・ドブルイニン駐米ソ連大使も42歳で、こちらも「若造」でした)。会見場所に最初に到着していたのはロバートの方で、ドブルイニンは彼に案内されて室内に入りました。ドブルイニンはこの時のロバートの様子を「司法長官は蒼白な顔をして私を迎えた」と表現し、ロバートも「大使は無表情でぎこちなかった」とドブルイニンの様子を語っており、2人とも極度に緊張していた事がうかがえます。まぁ、無理もありませんね。時間がないこともあって、挨拶もそこそこにロバートは本題に入りました。ロバートはドブルイニンに、一連のエクスコム(最高執行評議会)の結果を具体的に話し、政府もこの結論を支持するだろうと、キューバへの侵攻不可避の現状を説明しました。そして、「ドブルイニン大使、合衆国政府はフルシチョフ書記長が26日夜に提案された条件を、全面的に受け入れる用意があります。我が国は今後キューバに侵略することも、カストロ議長の暗殺や政権転覆を謀る工作をしないことをお約束いたします。また他国がキューバに対して侵略行為をおこなうことも、支持も支援もしません。貴国はキューバから速やかにミサイルを撤去し、二度と配備しないことを約束していただきたい」と切り出しました。「トルコのミサイルの件はどうでしょうか? そちらも了承いただけるなら、我々も反対する者を説得しやすくなります」無理は承知ですが、ソ連本国の事情を考えると、どうしてもアメリカに要求を飲んでもらわないといけないのです。ドブルイニンは必死でした。「大使、我が国は"交渉"には応じますが、"脅迫"や"強要"を飲むことは出来ません。それは貴国においても同様と思います」ロバートの言葉に、ドブルイニンは押し黙りました。逆の立場なら、ソ連は絶対に要求をのまないことを彼は知っていました。「・・・しかし、それでは・・・。最悪の事態を避けることが出来なくなります」ドブルイニンは慎重に言葉を選びながら答えました。本当は「それでは戦争を避けることが出来なくなります」と言いかけたのですが、自制して主語をぼやかした言い回しに変えました。なぜなら、「戦争を避けることが出来なくなりますよ」と発言して、ロバートが「そうですね」などと返事を返してきたら、その瞬間、戦争になることが決定的になってしまうからです。腰を浮かしかけたドブルイニンを、ロバートが手で制しました。話には続きがあったからです。「ドブルイニン大使、これからお話しする事は内密にお願いいたします。トルコのミサイルですが、安全性に問題があることが懸念されているため、撤去の計画があります」ドブルイニンは目を見張りました。アメリカはソ連の要求を拒否するのに、ソ連の要求する通りの結果になるからです。「撤去の計画・・・、それはいつのことですか?」これが10年先などと言われたら、話になりません。「大統領は半年を目処に、実行することを望んでいます」半年と言うことは、キューバ危機のほとぼりが冷めて、表面的には無関係という形で、ミサイルを撤去すると言うことになります。ソ連にメンツがあるように、アメリカにもメンツがあります。ドブルイニンからみてそれぐらいの時間は許容内に感じられました。「その話は間違いなく、あなたのお兄様のお言葉なのですね?」「合衆国大統領の発言です」ロバートは"合衆国大統領"と言う言葉に力を入れました。「内密にと言うことですが、同志フルシチョフ以外の政府高官の耳に入れても大丈夫ですか?」「もちろんです。フルシチョフ書記長が問題ないと考えられるなら、どなたにお話いただいたもかまいません。しかしこの話が露見した場合、合衆国政府はその話を全面的に否定し、トルコからミサイルを撤去することはありません。それともう一点、時間的な制約があります。お返事は遅くとも、アメリカ東部時間(10月29日)月曜の朝までにいただかねばなりません。それを過ぎれば全て無効です」ドブルイニンの顔に緊張が戻りました。もちろん彼は、ロバートが強調した時間の意味に気がついたのです。「わかりました。では司法長官、私は至急大使館に戻らねばなりません。すぐにモスクワに連絡を取らねばなりませんから」ソ連における駐米大使の地位は、決して高いものではありません。ドブルイニンに交渉の決定権はなく、クレムリンのフルシチョフ書記長に取り次ぎしなければならないのです。この時代、ホワイトハウスとクレムリンに、直通のホットラインはありません(後日談になりますが、キューバ危機を教訓に、ホットラインが引かれることになります)。ワシントンとモスクワ間のテレックスによる通信は、通常の短い電文でも、片道8~10時間位かかるため、本当にのんびりしている時間はなかったのです。ワシントンからの急報がモスクワに届けられた時、ニキータ・フルシチョフ書記長は閣僚を招集して情勢の分析と今後の対応について話し合いをしていました。もちろんこの時彼らは、ロバート・ケネディとドブルイニンの会談の事を知らず(タイムラグのため、まだ連絡が伝わっていなかったのです)、U2撃墜によって、いつアメリカの軍事行動が開始されるか、その意見集約が中心だったと言われています。そんな時に届けられた駐米大使からの報告に、閣僚たちはどよめきました。さらにこの時、もう一つの急報が届けられました。それは、「ケネディが米東部時間28日午前9時に、テレビ演説をおこなう予定。内容は国家の安全保障に関わる重大な声明」というものでした(実は日曜日の放送は、22日のテレビ演説の再放送だったのですが、ソ連側がそこまで知るよしもありません)。この話にはもう一つ補足事項があり、ケネディ大統領の日曜朝の礼拝(ケネディ家は敬虔なカトリック教徒です)は、普段より時間が長い点が言及されていました。宗教観念の希薄な日本人にはピンときませんが、欧米諸国の国家元首が開戦を決定する時、教会で神に祈りを捧げてから行うのが通例でした。つまり時間が長い礼拝とは、戦争に際して神に"赦し"を請う時間だったと思われたのです。以上の点からフルシチョフは、これ以上の交渉引き延ばしは出来ない、すぐにアメリカのキューバ侵攻の開始される可能性が高いと考え、ドブルイニンが伝えてきたアメリカの条件を、全て受諾することを決断しました。モスクワ時間28日午後5時(アメリカ東部時間午前9時)、モスクワ放送はフルシチョフの緊急声明を、ロシア語と英語の2カ国語放送で世界中に発信しました。「キューバに侵攻することはないというアメリカ合衆国の約束を信頼し、我が国はアメリカが"攻撃的"と表現した兵器を解体し、木箱に収めてソ連本国に戻し、全ての基地建設を中止いたします。この命令は直ちに実行されます」こうしてケネディ大統領が開戦の声明を出すちょうど一日前、危機は回避されることになりました。次はキューバ危機のその後について触れてみたいと思います。
2012.12.29
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ジョン・F・ケネディ大統領が戦争を決断した数時間後(時刻は10月27日20時頃と言われています)、ホワイトハウスから1台のリムジンがそっと出ていきました。同じ頃、ソ連大使館からも1台の車がでていきました。2台の車が向かった先は、司法省もしくは国務省の一室だった、さらにはワシントン市内の公園だったとも言われていますが、正確にはわかっていません。しかし乗っていた人物についてはハッキリわかっています。ロバート・F・ケネディ司法長官とアナトリー・F・ドブルイニン駐米ソ連大使でした。二人は人目を避けて面会しました。両者が会見することになったのには、さながら小説のような事情があります。開戦決定後、エクスコム(最高執行評議会)の会議室には、ジョン・F・ケネディ大統領、ロバート・F・ケネディ司法長官、ケネス・オドネル大統領補佐官、ロバート・S・マクナマラ国防長官、マクジョージ・バンディ国家安全保障担当大統領特別補佐官、ディーン・ラスク国務長官ら、軍人以外の主要メンバーが集まりました。戦争と決まったから、後はやることがないと言うわけではありません。同盟国への連絡、国民への公表のタイミングや避難計画など、決めることは山積みでした。淡々と打ち合わせが進む中、ロバートがふと疑問を口にしました。「本当にフルシチョフは失脚したのだろうか? 我々は何か勘違いしていないか?」その疑問は、メンバー全員が恐らく何度も考えたことだったでしょう。「まってくれよボビィ(ロバート・ケネディの愛称)、U2が撃墜されたのは紛れもない事実だよ。それをどう説明する」バンディがたしなめました。「2つのスタンドプレーが重なった結果だとしたら?フルシチョフは強硬派をなだめるために第2の親書を書いた。U2は恐怖で頭がいかれたソ連軍の指揮官が暴走した。2つの出来事が連続して起きたから、僕たちはソ連が戦争を企んでいると考え、戦争しかないと思いこんだ」周囲は顔を見合わせました。50年後の今日から見れば、ロバートの推理は、かなり正確にソ連側の事情を言い当てていたのですが、証拠も根拠もありませんから、ただの希望的観測に過ぎません。「ボビィ、ドブルイニンと会ってみるか? お前の考えの通りなら、ソ連も交渉の糸口を探しているはずだ」そう声をかけたのは、大統領の兄でした。戦争を決断したものの、平和的な解決を諦めていなかったのです。「僕が?」兄の言葉にロバートは驚きました。彼は司法長官であって外交の権限はないのです。「そうだ、お前だ」ジャックからすれば、この状況で自分の意志を正確に理解し、ソ連と交渉することが出来る人間は、世界でただ1人、弟のロバートだけでした。当然の指名でした。一瞬躊躇った後、ロバートは承知し、閣僚たちは交渉のための条件を大急ぎでまとめました。 ・フルシチョフの第2の親書は無視し、第1の親書の内容を全面的に受け入れる。・トルコのミサイルを、半年後に撤去することを非公式に約束する。しかし撤去前にソ連がこの情報を暴露した場合は、密約の存在を否定し、撤去はおこなわない。・10月29日(月)朝までに返答がない場合は、取引は無効とする。 条件について簡単に説明したいと思います。最初の親書を受け入れて、2番目に来た親書を無視するという、アクロバットな方法をとりました。これは第1の親書の内容(アメリカはキューバへの侵攻、カストロ政権転覆等の謀略をしない、安全を保障する代わりにソ連はミサイルを撤去する)に、アメリカは異論がなかったものの、2番目の親書の内容(キューバの安全保障のみならず、トルコのミサイル撤去が、キューバのミサイル撤去の条件とする)は、とうてい受け入れることが出来ないものだったからです。もしソ連の「恫喝」に屈して、トルコからミサイル撤去を受け入れたら、アメリカは自国の安全のみを考えて、同盟国を平気で見捨てる国になってしまうからです。それはアメリカの国際的な地位の失墜を意味します。西側諸国の盟主としての責任がある以上、フルシチョフの第2の親書を受け入れることは絶対に出来ないのです。さらにいえば、もし要求に屈すれば、ソ連は味を占めて、同じ手をこれからも繰り返してくるかも知れません。それでは危機は何度も再発し、根本的な解決になりません。むしろ今後も核戦争の危機は続くことになってしまいます。こんなことは今回が最初で最後にしなくてはならないのです。しかし次の条件を見ると、半年後にトルコからミサイルを撤去するとあります。ソ連の要求は拒絶するのに、ソ連の希望どおりの展開になってしまう。どういうこっちゃと思われるでしょう。この辺に政治のややこしい駆け引き、建て前と本音がよく見て取れます。フルシチョフの第2の親書は、アメリカにとって受け入れられません。しかし原則論にこだわって相手を追い詰めすぎると暴発するかも知れません。現にU2偵察機が撃墜されましたが、これは暴発の延長線上と言ってよいでしょう。したがって表面的には、ソ連の要求は拒否しますが、裏ではフルシチョフに少し花を持たせて、危機を穏便に解決しようとしたのです。それが半年後(つまり、ほとぼりが冷めた後)に、トルコのミサイルを撤去するという条件だったのです。裏話になりますが、アメリカがこうもあっさりと、トルコのミサイル撤去に同意したのは、ミサイルに重大な問題があったからです。トルコに配備されていたのは、「PGM-19 ジュピター」 という中距離弾道ミサイル (IRBM) でしたが、初期に開発されたミサイルだったので、この時すでに時代遅れになっていました。ジュピター・ミサイルは、後発のミサイルとくらべて維持コストも高く、安全性(発射台は露天式だったこともあり、落雷などに弱く、故障しやすいものでした)にも問題を抱えており、ケネディ大統領は、キューバ危機の9ヶ月前の1962年1月に、全て退役させて解体処分するよう命令を出していました。しかし、一端配備された核ミサイルを、簡単に撤去してしまうことは同盟国トルコを不安にさせることになるため中々言い出せず、ミサイルを管理していた空軍(言うまでもなさそうですが、トルコのミサイル撤去反対派の筆頭はカーチス・ルメイ空軍大将でした)の反対もあって、調整に手間取っていたのです。もちろんそういう事情はあって計画は停滞していたものの、遠からず撤去する事になるのは、アメリカ政府内の決定事項だったのですが、ソ連が撤去を要求してきたために、逆に拒絶して配備続行をしアピールしなければならない馬鹿馬鹿しい話になっていたのです(一説には、フルシチョフはその事を知っていたので、撤去を要求してもたいした問題にならないと安易に考えていたと言われています)。そんな事情もあったので、ほとぼりが冷めた後にミサイルを撤去することは、従来の方針どおりと言うことになるため、アメリカ政府・軍部とも抵抗はありませんでした。最後に10月29日朝までの期限については、解説は不要でしょうね。米東部時間9時に開戦についての大統領声明の発表が予定されていました(この時点で宣戦布告する予定はなかったという説もあります)。それを過ぎたらもう戦争になってしまうのです。アメリカ側から会見を打診された時、アナトリー・F・ドブルイニン駐米ソ連大使は多忙の中にいました。彼もまたU2撃墜のニュースに絶望していた人間の1人でした。もはや戦争は避けられないと、ソ連人以外の大使館員を全て退出させて、機密文書の焼却処分をおこなっていたのです。ソ連本国からは、「トルコのミサイル撤去の条件を絶対条件として、なんとしても交渉の糸口をつかめ」という指示が来ていましたが、アメリカ国務省の反応はU2撃墜で硬化しており、とりつく島もない状態でした。そんな中のホワイトハウスからの連絡でしたから、宣戦布告の文書を手渡されるかも知れないと、彼は緊張しました。しかし会見相手が司法長官のロバート・ケネディと聞いて、ドブルイニンは落ち着きを取り戻しました。外交に権限がない司法長官が、宣戦布告の文書を手渡してくるわけがないからです。すぐに会見に応諾しました。こうして戦争の足音が迫る中、最後の交渉がおこなわれようとしていました。次回は、急展開する「キューバ危機」の最終章、ロバート・ケネディ、ドブルイニン会談について触れたいと思います。
2012.12.24
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「大統領閣下! U2偵察機がキューバ上空でレーダーから消えました! 撃墜されたと思われます!」国防総省(ペンタゴン)からの連絡を受けた時、ジャック(ジョン・F・ケネディ大統領)は受話器を握りしめたまま、しばし呆然としていたと言われています。まもなく、キューバ側からもU2撃墜と、パイロットのルドルフ・アンダーソン少佐の死亡が発表されました。キューバ軍が保有する対空兵器では、2万m上空を飛ぶU2には届きません。撃墜する能力を持つのはキューバに駐留するソ連軍の地対空ミサイル部隊(低空での偵察活動によって、アメリカ軍も存在を確認していました)しかありません。つまりソ連からの先制攻撃なのは明白でした。「閣下、U2を撃墜したソ連軍地対空ミサイル部隊に攻撃を許可してください」と懇願してきたのは、マクスウェル・D・テイラー大将(統合参謀本部議長)です。彼は軍人と言うこともあって、エクスコム(最高執行評議会)の中では積極的なキューバ攻撃賛成派でしたが、最強硬派である空軍参謀総長カーチス・ルメイ空軍大将とは異なり、平和的な解決を図りたいという大統領の考えに、一定の理解を示していました。しかし、交渉で解決できるにせよ、戦争になるにせよ、偵察飛行は継続し続ける必要があります。米軍機を攻撃したソ連軍部隊を放置しておくことは、次の犠牲者を出す事になり危険です。それにアメリカ軍の伝統として(他国の軍隊でも大なり小なり同じ考えはあります)、殺された仲間の仇は戦友がとるという軍人特有の「掟」があります。放置することは士気にも関わります。「ただちに報復攻撃を行う事は承認できない」ジャックは答えました。第2次大戦中は彼も海軍軍人でしたから(余談ですが、魚雷艇PT109の艇長として太平洋戦線に派遣されましたが、1943年8月2日にパトロール中、日本駆逐艦天霧と衝突して乗艦を沈められるという経験をしています。さらに余談を言いますと、天霧艦長だった花見弘平少佐(階級はケネディ艇と戦った時)とは、一度も会うことはありませんでしたが、戦後手紙のやり取りが始まり、親友と言ってよい間柄になっています)、テイラーの主張も軍人特有の考えも理解出来ていました。しかし進言を聞き入れれば、今度はソ連がまた米軍機を攻撃し、それに対して米軍がまた反撃してと、なし崩し的に全面戦争に拡大していくことになってしまいます。この時は報復攻撃を許可しなかった大統領ですが、彼が取り得る選択肢は、もはや少ないものでした。エクスコムのメンバーのほとんども、戦争やむなしに傾いていました。フルシチョフの強硬な第2の親書、そしてソ連軍によるU2偵察機の撃墜、この2つが、1つの延長線上にあるソ連の決断と考えない者はいないでしょう。ソ連はアメリカとの全面戦争を画策しているのだと、誰もが考えるようになっていました。海上臨検を提案し、外交による解決案を考え出したロバート・S・マクナマラ国防長官ですら、「大統領、もはや戦争しかありません。これ以上敵に時を与えぬ為、なるべく早くに開戦すべきです」と主張しました。外交交渉による解決を主張する者はこの時いませんでした。ジャックは無言で、皆から背を向けて窓の外に目をやりました。後に大統領の実弟ロバート・F・ケネディ司法長官は、「あの時(つまりキューバ危機の時)、「自分が大統領じゃなければよかった。そうすればこんな決断をしなくてすむのに」と思ったことが一度だけある」と兄から聞かされた事を回想していますが、それはこの時かもしれません。「しかし、明日も我が国の偵察機がキューバ側の攻撃を受けるようであれば、その時は直ちに爆撃を開始しよう。またソ連がミサイル撤去を表明しない場合、29日に開戦だ。現時刻をもって全アメリカ軍はデフコン2に移行する」大統領の決断はとうとう戦争と決まりました。その言葉に真っ先に賛同したのは、言うまでもなさそうですが、ルメイ大将でした。「閣下のご決断を支持します。テイラー将軍、空軍は月曜まで(報復を)待つことが出来ます。一度にキューバ全土を火の海にしてやった方が、アカ共を一匹残らず始末してやれますからな」と、テイラーに向かって言いました。ルメイはどこまでいってもルメイでした。こうして史上初(ついでに2012年12月現在までで、唯一の命令です)のデフコン2(準戦時態勢)が発令されました。デフコン2になると、デフコン1(核兵器の使用を含む国家総力戦体制)へ即座に対応できるよう、全ての弾道ミサイルに模擬弾頭(やっぱり核兵器ですから、事故などが起きないよう、通常は専用の貯蔵施設で厳重に管理されています)から核弾頭へと換装されます。また戦略空軍部隊は、核爆弾を搭載した全爆撃機の1/8に当たる機に出撃命令が下り、アラスカ・北極圏上空に空中待機することが義務づけられます。出撃を命じられたB52爆撃機の搭乗員たちは、「神様! とうとう始まっちまった!」と叫んで仲間同士、手を取り合った後、機上の人となりました。残った搭乗員たちも、家族に別れの手紙を書くのに忙しくなりました。彼らは後に「生きて地上に戻れることは出来ないだろう」と覚悟したとインタビューに答えています。全アメリカ軍への命令である以上、欧州に駐留している米軍、在日米軍などにも戦争準備態勢に入り、通報を受けた西側同盟諸国(NATO、日本、台湾(中華民国)等)も、軍の動員と警戒態勢が発令されました(ただ今回調べた限りでは、日本政府や自衛隊が、どのような対応をしていたのか確認できませんでした)。デフコン2発令は、アメリカ国民にも強い衝撃を与えました。アメリカ中のスーパーマーケットから食料品が消え、多くの国民が家に閉じこもりました。そしてテレビやラジオを一日中つけっぱなしにして(もちろん急な避難命令に対応できるようにするため)、家族みんなでリビングで夜を明かす、そんな家庭が多かったと言われています。一方ソ連も、U2撃墜に動揺していました。マリノフスキー国防相は「しまった」とうめいて絶句し、フルシチョフ書記長は、「なんという愚かなことをしたのだ! 貴様は全てを台無しにするつもりか!」と、イッサ・ブリーエフ大将(キューバ駐留ソ連軍司令官)を強い口調でなじりました。そして、「二度と偵察機に手を出すな」と厳命しました。ソ連軍の指揮系統は、書記長の命令が絶対厳守、優先されます。アメリカもその事をよく知っている以上、U2撃墜はフルシチョフの命令と判断したことでしょう。実質的にソ連からアメリカに宣戦布告したに等しいのです。トルコにあるアメリカのミサイルを撤去させるどころか、そのミサイルは逆にソ連に向けて発射される可能性が高くなってしまいました。まもなくクレムリンに、西側諸国の軍隊が動員されはじめたとの報告が届きました。対抗上ソ連もミサイルへの核弾頭搭載(ただしキューバのミサイルへの核弾頭搭載は、最後まで許可しませんでした)、ワルシャワ条約機構軍の動員が発令されました。フルシチョフもケネディ大統領と同様、戦争を回避したいのが本音でしたが、アメリカが戦争準備を明確にした以上、対抗上戦争準備しないわけにはいきません。彼もまたソ連国民1億数千万人の安全と国土の保全に対して責任があるのです。U2撃墜の丸1日後、東西両陣営は、数百万規模の軍隊の動員が進み、東西ドイツなどの境界線では国境が閉鎖され、両軍のにらみ合いが始まりました。1962年10月27日、世界は、核戦争の恐怖と狂気の「暗黒の土曜日」の中にありました。
2012.12.15
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キューバ危機がいまだ解決の糸口がつかめていない1962年10月26日、この日、2つの事件が起きています。1つは海上臨検で初めて臨検船が出ました。マルキュラ号というレバノン船籍の船で、ずっと無寄港で航行していたため、米ソ間の対決も臨検も知らなかったのです。それが唐突に現れた米駆逐艦(今回も捕まえたのはピアースでした)から停船を求められ、理解できずに逃亡を図ったため、警告射撃を受けて停船、臨検される羽目になりました(マルキュラ号は武器などは積んでいなかったので、すぐにキューバ行きを許可され解放されました)。もう一つはかなり深刻な「事件」です。空参謀総長カーチス・ルメイ空軍大将の命令で、なんとアメリカ空軍戦略航空団のB52戦略爆撃機(核爆弾搭載可能です)隊がキューバ近海で大規模な演習を行ったのです。この報告に、ジャック(ジョン・F・ケネディ大統領)は激怒しましたが、とうのルメイはどこ吹く風で、「通常訓練の一環です」と平然と答えました。「ルメイ将軍、自分が何をしたかわかっているのか! フルシチョフはアメリカに戦争の意志有りと判断したことだろう。私が望みもしないメッセージを勝手にソ連に送りつけたのだ!」事実、米軍機の大編隊をレーダーで捉えたキューバは、「アメリカの攻撃!」と緊張し、フィデル・カストロ首相はソ連大使館に赴き、前回のブログで触れました親書をニキータ・フルシチョフ書記長に送っています。ジャックの言うとおり、最悪のメッセージだったのです。「大統領閣下、B52に核爆弾は搭載しておりません。それに部隊に命令を下す権限は私にあります」ルメイの言葉は、一層ジャックに逆鱗に触れました。「合衆国軍の総司令官は大統領の私だ! もういい下がれ! 後で覚えてろよ!」ルメイが退出したあと、ロバート・F・ケネディ司法長官が兄に声をかけました。「兄さん、ルメイを解任するかい?」ジャックは弟の顔をじろりと睨んだ後、「今は出来ない」と苦々しく吐き捨てました(もちろん、ロバートは承知した上で発言しており、わざと過激な発言をして兄を落ち着かせようとしたのです) 。ルメイは自他共に認める対ソ強硬派です。このタイミングで彼を解任すれば、今度は「侵攻計画は中止になった」「アメリカは譲歩するだろう」という誤ったメッセージをソ連に送りかねないのです。フルシチョフがキューバ駐留軍司令官イッサ・ブリーエフ大将を解任しなかったのと同じ種類の理由です。政治というのは本当に厄介です・・・。午後18時、モスクワのアメリカ大使館から、「フルシチョフ書記長から親書届く」の報告がきて、ホワイトハウスは緊張に包まれました。親書はテレックスでワシントンに送信されましたが、量が膨大で受信になんと3時間もかかっています(当時はアナログ回線だけでで、今のような光回線や高速モバイル通信はありませんでしたからねぇ)。「親愛なる大統領閣下あなたが、本当に平和と貴国の人々の福利に関心がおありなら、私は同様にソ連邦首相として我が国の人々の福利に関心が有ります。さらに、普遍的な平和の維持は両国の共通の関心事であるはずです。もし戦争が現代の状況下で勃発したら、それは単に両国間の戦争ではなく、悲惨で破壊的な世界規模の戦争となるからです。(中略)私の提案はこうです。我々はキューバにこれ以上の兵器は送らないし、キューバにある(攻撃的)兵器は撤収するか破棄する。その代わりに、アメリカはキューバに侵攻しないと約束し、海賊のような臨検行為を中止する。我々は戦争と我々を結びつけるロープを互いに引き合っているようなものだ。引けば引くほど結び目に固くなり、やがて結んだ当人すら解けなるなるだろう、そうなれば、結び目を断ち切る必要が出るが、それが何を意味するかよくおわかりだろう」かなり回りくどい表現ですが、アメリカが今後キューバに侵攻しない、カストロ議長の暗殺や政権転覆を画策しないことを約束するなら、キューバの核ミサイルを撤去してもよいという内容でした。「本当にフルシチョフ本人が書いたものか?」ロバートが質問をしました。「CIA(アメリカ中央情報局)の分析官が言うには、フルシチョフ本人が書いたのは間違いないそうだ。感傷的で回りくどい文章なのは、本人が非常に強いストレスの中で書いて、政治局などの手直しを受けていないからだとね。恐らく、フルシチョフは何日もまともに寝ていないのだろう」と、ジョン・マコーンCIA長官が答えました。ロバートは顔をほころばせると、毒舌家の彼らしい冗談を飛ばしました。「よかった。寝てないのは僕たちだけじゃなかったんだ」その言葉にエクスコム(最高執行評議会)のメンバーたちは笑い合いました。こうして26日夜は、キューバ危機は平和的な解決の兆しがみえはじめました。それがたった半日の夢になるとは知らずに。27日午前9時、エクスコムのメンバーに招集がかかりました。フルシチョフから第2の親書が届いたからです。「暗黒の土曜日」の始まりです。親書を読んだメンバーは、全員が凍り付き、言葉を失いました。「我が国がキューバからミサイルを撤去する条件として、貴国もトルコ国内に配備しているミサイルを撤去しなくてはならない。キューバはアメリカから90マイルの距離であり、トルコからソ連もまさに90マイルである」エクスコムは騒然となりました。ある者は、「第1の書簡はフルシチョフ本人が書いたものだが、第2の書簡は別人が書いたものだ。フルシチョフは失脚したか、殺されのではないか」と主張し、別の者は、「我々は一杯くわされたのだソ連は最初からミサイルを撤去する気などなかったのだ。ミサイル基地完成の時間稼ぎをされてしまった!」と考え、紛糾しました。もしアメリカがソ連の「提案」を受け入れた場合、ソ連の核の恫喝に屈したことになってしまいます。アメリカとNATO諸国との間で関係が悪化するのは確実でした。絶対に飲めないものでした。この時、フルシチョフの「変節」の理由を正確に洞察できた者はアメリカ側にいませんでした。2通の親書は、間違いなくフルシチョフ本人が書いたものでした。第1の親書にあったように、フルシチョフはアメリカがキューバを侵攻しないことを確約するなら、ミサイル撤去に応じる決心を固めつつありました。しかしソ連の保守派や強硬派は、それに反発しました。自分たちになんの相談もないまま(決定はフルシチョフと一部の側近だけでした)キューバに核ミサイルを配備し、あまつさえアメリカの「恫喝」に怯えて、ミサイルを引っ込めようというわけですから、ソ連のメンツは丸つぶれです。強硬派と保守派の中にはフルシチョフの失脚を謀る動きも起きはじめていました。自業自得とはいえ、この動きに焦ったフルシチョフは、「トルコのアメリカのミサイルを撤去させる」という成果をなんとか手に入れることで彼らをなだめ、権力維持をはかろうとしていたのです。こういう言い方をすると、自己保身かと思われるかも知れませんが、フルシチョフは自分を失脚させた後に出る人物は、恐らく対米強硬派となり、キューバにある核ミサイルの使用を躊躇わないと危惧したのです。それは世界を巻き込んだ全面核戦争の道でした。少なくとも彼は、キューバからミサイルが撤去完了するまでは、書記長の座を守らねばならなかったのです(フルシチョフは、第2の親書をわざと素っ気なくすることで、アメリカ側に気がついて欲しいというサインは出しています)。第2の親書を巡ってアメリカが疑心暗鬼に陥る中、最悪の凶報が届きました。27日15時30分頃、キューバを偵察飛行中のルドルフ・アンダーソン少佐が操縦するU2偵察機が、キューバ駐留ソ連軍の地対空ミサイル部隊の攻撃によって撃墜され、アンダーソン少佐が戦死しました。キューバ危機で初めて(そして唯一の)犠牲者が出たのです。これにより事態は急転、核戦争の危機が一気に現実味をおびることになります。次はさらに緊迫する「暗黒の土曜日」、その後半です。
2012.12.08
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繰り返しになってしまいますが、キューバ危機は1962年10月14日から10月28日までの2週間の出来事です。時間軸では、前回のブログ国際連合安全保障理事会の緊急会議でのアドレー・スティーブンソン米国連大使とソ連のワレリアン・ゾリン国連大使の対決が10月25日でしたから、危機も残り3日間となります(まぁ後日の視点でけどね。当時の人達にとっては、いつ危機が戦争になってしまうかと戦々恐々だったと思います)。そしてキューバ危機が本当の意味で危機に陥るのは、次の10月26日から(特に次のに27日は「暗黒の土曜日」と言われる事になります)でした。このまま26日の話に入っていってもいいのですが、それだと何故事態が悪い方向に激変してしまったかが分かり難いと思いますので、ここでソ連・キューバ側の動きに触れてみたいと思います。次のブログと多少前後してしまう点がありますが、ご容赦ください(汗)。ただ、アメリカ側の資料が豊富であるのに対して、こちらの資料はとても少なく、中々描くのが難しい所があります(汗)。危機の発覚以来、もっとも緊張状態に置かれていたのは、キューバのフィデル・カストロ首相であり、キューバ国民、そして駐留ソ連軍部隊でした。彼らはアメリカ軍の侵攻が開始されれば、真っ先に矢面に立たされる立場にあります。キューバはソ連本国からあまりに遠く、さらにアメリカ海軍の海上臨検によって、連絡線を遮断されており、脱出も援軍も期待出来ません。カストロは、フルシチョフが断固たる姿勢をとることで、海上臨検を打破してくれることを期待していましたが、それも失敗し、国際世論もアメリカに味方し焦燥を募らせていました。そんな中、キューバ駐留ソ連軍を失望させる命令が届いたのは、米ソの国連大使が激しい戦いを繰り広げていた10月25日でした。「キューバ軍と協力して、侵攻してくるアメリカ軍の迎撃準備に全力を挙げよ。ただし核ミサイル部隊・核弾頭管理部隊は、本国の指令あるまで現状待機せよ」この命令は事実上、核兵器を使用することを禁じるものでした。キューバ駐留ソ連軍司令官イッサ・ブリーエフ大将は反発しました。モスクワの命令は、現地の危機的な実情を知らない無責任な意見に思えたのです。せっかく核兵器があるのに使用出来ない、武器弾薬の補給も援軍も期待できず、退却も出来ない(大西洋を泳いでソ連まで帰ることは出来ませんし・・・)では、4万の将兵を預かるブリーエフとしては、本国の反応に、不満と反感を抱くのも無理ありません。ブリーエフはせめて戦術核兵器(戦略核が都市1個を消滅させて何百万人もの人々を殺傷する力を持つなら、戦術兵器は戦場で使用して数万人の敵を全滅させる程度の、「威力の小さい兵器」ということになります)の使用許可を、モスクワのマリノフスキー国防相に打診しました。再三のアメリカ軍の航空偵察によって、ソ連軍とキューバ軍の基地の所在は、ほとんど米軍に把握されてしまっており、核兵器の使用以外に劣勢を挽回する手だてがなかったのです。しかし当然ながら、モスクワはブリーエフを聞き入れるわけにはいきません。例え戦術核とはいえ使用してしまったら、ソ連とアメリカは全面核戦争に突入し、ソ連本土も核の業火に包まれる最悪の事態になるかもしれないからです。「(核兵器の使用を禁じた)命令を、同志ブリーエフは受領済みのはずである。諸君の勇気と反撃準備態勢を信頼している。追伸、核を許可なく使用することは絶対的に禁止である。全部隊への命令遵守を徹底せよ」と、キューバにいるブリーエフから見れば、非情な命令が繰り返されるだけでした。一方、マリノフスキーの方は、現地の情勢切迫を理解すると同時に、キューバ駐留ソ連軍に暴走の気配を感じたようです。ニキータ・フルシチョフ書記長に、司令官更迭を進言しています。しかしこの時点での司令官更迭は、指揮系統の混乱やむしろ暴走を後押ししてしまうなどのマイナス面が大きい判断され、進言は却下されました。翌26日、フルシチョフはケネディ宛に長い親書を送りますが(その話は次回のブログで書きます)、彼自身もカストロ議長から悲痛な親書を受け取っています。「同志フルシチョフ、現在の情勢ならびに我が国が知り得る限りの情報を総合すると、アメリカ帝国主義の攻撃は、24時間から72時間以内に起りうるとの結論に達した。攻撃の形には二つの可能性がある。まず第一に、特定の目標を破壊するための限定的な攻撃である。今一つは侵略である。米軍にとって後者の実行には多大な戦力を必要とし、我々にとっては、最も忌まわしい形態だ。しかし、我々は断固として、いかなる侵略にも決然として戦う。キューバ国民の志気はますます高まっており、侵略者に対して英雄的に戦うであろう」カストロの分析は、的外れというわけではありません。この頃、アメリカのキューバ侵攻軍の陣容は整いつつありました。作戦行動可能な航空機は約1千機、海上戦力は海上臨検中の第2艦隊、空母エンタープライズ、インデペンデンスを中心とした128隻の艦艇をそのまま転用して、いつでも作戦行動が可能な状態でした。また上陸部隊の第一陣は、第2海兵師団と陸軍第1機甲師団が輸送船団に乗船済みで、第82,101の2個空挺師団も出撃準備が完了し、後続部隊を併せて総兵力34万名が、命令一下キューバへ侵攻することが可能な状態になっていましたブリーエフ大将が平静を失っていたのも道理で、もし戦闘となれば、アメリカ軍は圧倒的な空軍と海軍兵力でキューバ駐留ソ連軍をキューバに押し込め、鉄と火の奔流をもって押し寄せてくるでしょう。戦術核兵器を使用しなければ、全滅は時間の問題でした。とここで、もしかしたら「アメリカは外交交渉でといいながら、戦争準備しているじゃないか」と思われる方もいらっしゃるかも知れませんから、簡単に説明します。平和的に解決したいのは、アメリカの本心なのは間違いありません。しかし交渉が決裂してから戦争の準備をしたので間に合いません。外交は常に実力行使(戦争や経済封鎖など)と交渉の二本立てなのです。実力行使を伴わない交渉は、相手にいいようにはぐらかされて利用され、かえって事態を複雑にしてしまう場合があることは、知っておいて損はありません。・・・まぁ、その辺はどことは言いませんが、とある国と隣国との外交交渉を見ているとよーくわかるかなと思います(苦笑)。カストロからの親書を読んだフルシチョフは、側近たちにひと言も感想を述べなかったと言います。しかしそれは何も感じていなかったからではなく、むしろ逆に重圧に押しつぶされそうになって苦しんでいたからでしょう。いつもは陽気でよくしゃべる彼が、は別荘に引きこもり、気難しく無口でイライラしているように見えたとは側近の証言ですが、22日のケネディ大統領の演説以来、ほとんど不眠不休状態のフルシチョフの体力と精神力は限界に近づきつつあったのです。そしてフルシチョフ以上に追い詰められていたのはキューバ駐留ソ連軍司令官ブリーエフ大将でした。26日の深夜、ブリーエフは幕僚たちを集め、重大な命令を下しました。「これ以上、アメリカの偵察機の偵察行動を黙認していれば、我々の戦闘準備は敵に対して完全に筒抜けになり、戦争は完全に我が方の不利になる。したがって、我々は敵機に対する通常兵器によるあらゆる軍事行動を決定しなくてはならない」キューバ軍は、すでに飛来する米軍偵察機に対して攻撃を実施していましたが(ただし1機も撃墜できませんでした)、ソ連軍は本国の命令により1発も発砲していません。この点もキューバ兵とソ連兵の間に、微妙な雰囲気を作っていました。キューバ兵からすれば、戦おうとしないソ連兵はソ連の安全のみを考え、キューバを守る気がないのではないかと不信感を抱きはじめていたのです。遠き異国の地で孤立しているソ連兵からすれば、キューバ軍との連携や、キューバ人たちの支援がなければ、彼らはアメリカ軍と戦う前に自滅してしまいます。ブリーエフはこの点でも追い詰められていたのです。このような中、翌27日、「暗黒の土曜日」を迎えることになります。
2012.12.06
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10月25日、国際連合安全保障理事会の緊急会議が、ニューヨーク本部で開催されました。おりしも議長国はソ連で、ワレリアン・ゾリン国連大使が会議を取り仕切っていました。エクスコム(最高執行評議会)のメンバーでもあるアメリカの国連大使アドレー・スティーブンソンは、まだ議場に姿を見せておらず遅刻していました。常任理事国大使は本部に常駐が定められており、アドレーの遅刻はアメリカ側のマイナス点なのですが、会議での運命を制するであろう切り札(事実そうなりました)の準備に、時間がかかっていたのです。その間に会議は、ソ連側のペースで始まりました。ゾリンは「アメリカの行為は、キューバへの不当な侵略行為である」と批判し、キューバ大使も、「アメリカは海上封鎖によってキューバの通商を破壊し、(キューバ)国民を飢えに追い込もうとしている」と訴え、東側諸国も同調して、アメリカへの非難動議を提案するなど、ソ連に都合のよい展開になっていました。アメリカ海軍の海上臨検によって、キューバとの連絡線を絶たれたソ連は、形勢逆転のためにアメリカの「非道」を世界に訴え、国際世論を味方につけようとはかっていたのです。対するアメリカも、国連安保が勝負所であると正しく認識していました。ここで国際世論の流れが、「アメリカの方が悪い、間違っている」となってしまったら、海上臨検は続行不可能になり、ソ連の核をキューバから撤去することが出来なくなります。アメリカ大使不在のまま始まった緊急会議に、テレビで見守るジャック(ジョン・F・ケネディ大統領)やエクスコムのメンバーも、不安げにテレビを注視していました。ここでいつものように脱線ですが、日本では無名なアドレー・スティーブンソン国連大使について、簡単に解説したいと思います。この時アドレーは62歳、若い閣僚が多いケネディ政権の中で、一番の年長でした。演説が巧みで性格も温厚な彼は、民主党の代表として、2回大統領選に出馬していますが、共和党のアイゼンハワーに2回とも敗れています。1960年の民主党代表選ではジャックと候補を争いますが早々に敗れ、以降ケネディ支持に回って各地を遊説しています。彼が2度も民主党の代表に選出されたのは、演説の巧みさと温厚な性格、飾らない知性といった部分が支持されたからでしょう。しかし大統領になれなかったのも、皮肉にも彼の長所が原因だったと思われます。現在もその傾向がありますが、アメリカ人が求める大統領像は、優しい父親ではなく、力強い父親なのです。彼は皆から好かれましたが(代表戦で競ったにもかかわらず、ケネディの評価が非常に高い点からもそれをうかがわせます)、それだけでは大統領になれなかったのです。話を元に戻します。遅れること1時間、アドレーが議場に姿を見せました。それをみたゾリンは、早速強烈な先制パンチを浴びせました。「よく来てくださいましたスティーブンソン大使。欠席されるのかと心配しておりました。時にスティーブンソン大使、世界はこの数日間、貴国の一連の行動に頭を悩ませています。世界はまだアメリカの主張する証拠を見せていただいておりません。秘密の偵察機が撮影した写真だから公表できないと仰るのでしょうか? たいした偵察機です。しかし公表できないのは、そのようなもの(ミサイルのこと)は存在しないからではありませんか? 我が国もキューバも世界の平和を強く願っています。アメリカが言う兵器は存在しないのです。世界を危機に陥れた以上、勘違いですまされる話ではありません。この責任をアメリカはどう感じていますか?」対するアドレーはいきなりの論戦に応じず、「議長、発言の許可を」と返しました。このままゾリンの発言に引きずられて論戦になったら、ソ連側のペースになると自制したのです。この時ゾリンが強気だった理由は、実はキューバに自国の核ミサイルが配備されていることを知らされていなかったとも(軍の高官でも知らなかった者もいました)、証拠の写真などは軍事機密ですから、公表しないだろうと考えていたとも言われていますが、本人が回想を残さず世を去っているので、詳しい事情はわかりません。発言の許可を得て、アドレーが口を開きます。ここから彼の火を噴くような反撃が始まります。「ゾリン大使、お尋ねの件ですが、証拠は確かにあります。誰の目にも明らかな証拠です」アドレーとゾリンの視線がぶつかりました。議場やテレビで中継で見ていた人達には、2人の間に、火花が散っている様が見えていたかも知れません。「キューバにあるあなた方のミサイルは、すべて撤去願います。今回の危機を招いたのはあなた方ソ連です。我々ではない。では各国大使の皆様、ソ連がキューバで何をしているか、その証拠をお目にかけましょう」アドレーが合図をすると、国連のスタッフが何枚ものボードをもって、列席の各国代表に見えるよう展示しました。それはキューバのミサイル基地の写真でした。U2偵察機が高々度から撮影した画像に、戦闘機が低空で撮影した最新のミサイル基地の写真(海上臨検開始後、高々度からでは分かり難い基地の構造や守備隊の位置を把握するため、戦闘機による低空での写真撮影も開始されました)まであったため、議場はどよめきました。ゾリンですら、愕然とした顔で写真を食い入るように見つめました。「ゾリン大使、私の記憶違いでなければ、先ほどあなたはミサイルの存在を否定なさっていた」「・・・・・」「あなたに簡単な質問をさせていただきたいと思います。ゾリン大使、ここに写っているものはミサイルではないですか? 通訳の必要はありません、イエスかノーで答えてください」先ほどまでの流れと一転して、アメリカがソ連を圧倒する劇的な展開に、各国大使はショーを見ているように対決を見守りました。恐らくテレビの生中継でこれを見ているアメリカ国民と世界(衛星中継で、世界でも放送されていました)も同じ気持ちだったかも知れません。ホワイトハウスでも、マクジョージ・バンディとロバート・ケネディが「いいぞ、アドレー! ゾリンを叩きのめせ!」とテレビに向かって叫んでいたと言われています。ゾリンは沈黙しました。もしここで「ミサイルです」と答えれば、自分だけでなくソ連という国家が嘘をついていたことを認めることになってしまいます。逆に「ミサイルではない」と発言しても、どこまでも嘘を突き通すソ連という印象を世界に与えてしまうことになります。いつまでも黙っているわけにいきません。「ここはあなたの国の裁判所ではありません。私はあなたの国の検察が、あたかも被告人にするような質問に、答える必要を認めません」それがゾリンの返答でした。恐らく気の利いた反撃が思いつかなかったのかもしれませんが、この発言は失敗でした。ゾリンの言葉にスペインとチリの大使が、思わず失笑した場面までが、テレビで世界中に放映されてしまったからです。「ここは世界中の代表が集まった"法廷"です。それでご返答は?」「・・・どうぞお話を進めてください。真実は会議が進むにつれ明らかになるでしょう」ここで会議の勝敗を決定づける名言を、アドレーが口にします。「I am prepared to wait for my answer until Hell freezes over (私は、地獄が凍りつくまで回答をお待ちする所存です)」この台詞(前半の「地獄が凍りつくまで」と言うところなど)を、海外ドラマや小説なりで、聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。原典はアドレー・スティーブンソンの発言でした。彼の名前を知らなくても、彼の言葉は、これからもドラマや小説の中で、生き続けていくことになるのでしょう。議場に大きな拍手が巻き起こりました。西側諸国だけでなく、インドやエジプトなどの非同盟諸国の大使からも、アドレーに惜しみない賛辞が贈られたのです。さすがに百戦錬磨の外交官ゾリンが、慌てふためくことはありませんでしたが、険しい表情になるのは避けられませんでした。この後彼は一切の返答を拒否して黙秘を貫き、ミサイルについて言質を与えることはありませんでしたが、「ソ連が嘘をついている。アメリカの主張が正しい」という国際世論が形成されるのを阻止出来ませんでした。第2ラウンドもアメリカ側の勝利で幕を下ろしました。こうしてみていると、アメリカが優位に進んでいるように見えますが、しかし実際はそうでもありません。確かに海上臨検の成功、国連での勝利で、国際社会のソ連への圧力、アメリカへの支持は大きくなりました。しかしそれでキューバにある核ミサイルが、消えてなくなるわけではないからです。ソ連がミサイルの撤去を拒否し続けるなら、核戦争の危機はこれから先も消えないのです。海上臨検の提案者であるロバート・S・マクナマラ国防長官が最初に断言したように、海上臨検自体にミサイルを撤去させる力はないのです。事実、この時キューバでは、近日中に開始されるであろうアメリカ軍の侵攻に備えて、キューバ駐留ソ連軍4万名、キューバ軍20万名は臨戦態勢を整え、戦術核搭載の短距離ミサイルの発射基地を完成させるなど、急ピッチで戦争準備を整えつつありました。危機はまだ解決の糸口すら見いだしていなかったのです。
2012.12.02
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さて前回のブログは、まるで小説の「次回に続く」みたいな終わりになってまいました(単に書き切らなくなっただけなのです・汗)。と言うわけで続きです。ソ連潜水艦発見の報に、エクスコム(最高執行評議会)の緊張は頂点に達しました。その場にいたエクスコム・メンバー全員が、ジャック(ジョン・F・ケネディ大統領)の顔に無言で視線を向けました。もしここで、2隻のソ連船(キモフスク号とユーリ・ガガーリン号)と、海中のソ連潜水艦と向き合っている米駆逐艦ジョン・R・ピアースに撤収命令を出せば、戦闘は回避できるかも知れませんが、海上臨検は失敗、今回の騒動はアメリカ側の敗北、ソ連が国際社会で優位に立つことになります。そしてキューバにソ連の核ミサイルがあり続ける限り、いつ戦争になってもおかしくありません。逆にソ連潜水艦が撃沈されることになれば、ソ連は全面戦争に踏み切るでしょうし、アメリカもピアースが沈められれば、やはり戦争と言うことになるでしょう。どちらにしても最悪の展開が待っているのです。「大統領」この時スピーカーから、ペンタゴンの海軍作戦室にいるロバート・S・マクナマラ国防長官の声でした。「アンダーソン提督(アメリカ海軍トップの、作戦部長ジョージ・アンダーソン・Jr海軍大将のこと)は、今臨検するのは危険だと言っています。間違いなく攻撃されると・・・」臆病からはほど遠いマクナマラの声がうわずっています。さらに第2の凶報がピアースから届きました。「ソ連潜水艦は、潜望鏡深度まで浮上」潜水艦が潜望鏡深度まで浮上したという事は、攻撃するという意思表示に他なりません。潜望鏡深度は艦によって潜望鏡の長さに違いがありますから一概に言えませんが水深15~20m位になります。今のような電子機器の無かった第2次世界大戦時までの潜水艦は、潜望鏡で敵艦の位置を確認して、魚雷を発射していました(まぁ、その位の深度でないと水圧で魚雷発射口のハッチが開かない、魚雷が水圧で発射できないと言った欠点があったのも理由です)。もちろんキューバ危機の頃は、電子機器も魚雷も発展しており、潜望鏡深度より深い位置からでも攻撃可能ですが、ソ連潜水艦が探知されているのをみこして、あえて潜望鏡深度まで浮上してきたのは、ピアースに邪魔するなら攻撃すると警告しているのです。「フルシチョフは気でも狂ったのか」とは、大統領の実弟ロバート・F・ケネディ司法長官の言葉ですが、エクスコムの誰もが彼と同意見で、戦争は決定的と考えたのは、想像に難くありません。その時、大統領はおもむろに口を開きました。「ボブ(マクナマラの愛称)、ピアースの艦長に伝えてくれ。"任務を遂行せよ"と」恐らく様々な葛藤はあったと思いますが、臨検続行と決断しました。大統領の命令を受けたピアースも決断しました。「対潜水艦戦用意! アスロック発射準備!」「アスロック発射準備、アイサー! (「アイサー(Aye sir!)」「アイアイサー(Aye aye sir!)」というのは、海軍で兵士が上官の命令に対し、「はい、承知しました」という意味の返事です。陸軍の場合は「イエッサー(Yes, Sir!)」というのが通例です)」アスロックとは、キューバ危機の前年、1961年から水上艦艇に配備が進められた対潜水艦用の新兵器です。アスロックはロケット弾として発射され(速度は音速を超えます)、目標近くまで来ると弾体(短魚雷)は分離し、パラシュートで海面に落下します。着水すると衝撃でパラシュートは切り離され、目標に向かって自動追尾(追尾方式は磁気探知式、スクリュー音を追いかける音響式などがあります)して相手を攻撃するというものです。従来の対潜水艦兵器が、近距離攻撃しかできなかったのに、アスロックは11km先の遠距離目標も攻撃できるため、画期的な対潜兵器でした。完成から50年たった現在でも、西側諸国の艦艇にアスロックを装備しており(日本の自衛艦も積んでいます)、この兵器の性能の高さを物語っています(またどうでもいい余談ですが、日本のイージス艦は、アスロックの発展強化型で、射程距離も倍の22kmあるVLAを搭載しています)。ソ連潜水艦発見の報に、周囲の海域の僚艦がピアース支援のために進路を変え、さらに空母からは攻撃機が発艦して向かってきていましたが、間に合いそうもありません。ピアースは1隻で3隻を相手しなくてはならなくなりました。余裕のないピアースは、海上臨検成功のため、速やかにノイズ(妨害)の排除、つまりソ連潜水艦の撃沈を決断したのです。もちろん、攻撃をすれば世界大戦の引き金になってしまうという気持ちは、艦長にもあったでしょうが、彼にはピアースの300名の乗員を守る責任があるのです。1億数千万の国民の命を預かる大統領、数百名の乗員の命を預かる艦長、人数に違いはあれど、責任の重さは変わりません。ホワイトハウスも海上も、固唾をのんで推移を見守っていました。状況が劇的に変化したのは10時20分頃、臨検ラインまであと5分、ピアースが今まさに、ソ連潜水艦への攻撃を命令しようとしたその時でした。「艦長! キモフスクとガガーリンが減速中、停船します!」甲板員の声が飛びました。さらに、「艦長! こちらCIC(戦闘指揮所)、ソ連潜水艦が変針しています! 進路、北東!」「攻撃中止! 撃つな!」冷や汗をかきながら、ピアースの艦長は攻撃命令を撤回しました。そして彼らの見ている前でキモフスク号とユーリ・ガガーリン号は、ゆっくりと進路を変え、東へと向かいはじめました。彼らは停船したのではなく、臨検を拒否してソ連に引き返しはじめたのです。この光景は他の20隻のソ連船も同じでした。追尾してくるアメリカ艦を避けるように次々と進路を変え引き返しはじめました。この事態に、ホワイトハウスとペンタゴンでは情報が錯綜し(「停船しつつある」という第1報と「引き返しはじめた」と言う第2報が、同時進行的に伝わったため)、大混乱に陥りました。「いったい何がどうなっているんだ?」と、ジャックが叫んだ時、部下から報告を受けて事態を把握したジョン・マコーンCIA長官が、大統領とエクスコムのメンバーに事情を説明しました。「大統領、間違いなくソ連船は引き返しはじめました。フルシチョフが帰国命令を出したようです」海軍が海上臨検をしている頃、CIA(アメリカ中央情報局)はソ連船とソ連本国との通信をモニターして、情報収集に専念していました。そして、ソ連本国からの通信を受信したソ連船が、にわかに変針を開始したことを把握したのです。マコーンの判断は正しいものでした。フルシチョフは、「可能であれば臨検ラインを突破せよ」という命令を下しましたが、同時に、「米軍との戦闘、(臨検ラインの)強行突破を固く禁ず。突破不能と判断した時は、(臨検を受ける前に)退避せよ」とも命じていたのです。そしてソ連潜水艦が潜望鏡深度まで浮上しても(アメリカ側が知るよしもありませんでしたが、ソ連潜水艦も実は「先制攻撃禁止、攻撃を受けた場合のみ反撃を許す」という厳命が下っていました)、道を空けようとしないアメリカ艦の報告を聞き、これ以上のキューバ接近は本当に世界大戦になると、フルシチョフは全面撤退を命じたのです。こうして10月24日10時30分過ぎ、全てのソ連船はキューバへ向かうのを止め、引き返しはじめました。後から見てみると、非常にきわどいタイミングですが、ジャックが臨検続行を命じたことが、ソ連側の譲歩、1度目の(この後も何度か戦争になりかけますので1度目です)戦争回避へ繋がったとのは、とても興味深い話です。もし、衝突を恐れてピアースを下がらせていたら、フルシチョフの命令どおりソ連船は臨検ラインを無かったように突破し続け、後日核戦争への道へと繋がっていたでしょう。この辺に政治と外交の難しさがあります。こうして第1ラウンドはアメリカ側の勝利に終わりました。しかし休む間もなく、第2ラウンドの戦いが始まりました。次の戦場は、ニューヨークの国際連合本部ビル、海上臨検開始の翌25日に開催された国際連合安全保障理事会の緊急会議の席でした。外交の場で、米ソの国連大使による激しい戦いが繰り広げられることになります。
2012.11.29
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24日の臨検ラインの攻防に触れる前に少し前、ソ連のニキータ・フルシチョフ書記長が、アメリカの海上臨検に挑戦を宣言した前日の23日のアメリカ政府と国務省(日本で言うところの外務省に当たります。ただ国務長官の地位は、日本や諸外国の外務大臣よりも遙かに権限は強いものです)の動きについて触れてみたいと思います。両者ともフルシチョフの声明に、直ちに反撃をする余裕がないほど忙しく、諸外国への対応に追われていました。ミサイルの存在が発覚したのが16日、エクスコム(最高執行評議会)の結論が出たのが20日、公表が22日でしたから、根回しなどする余裕は全くなく、西側同盟国ですら寝耳に水でした。発表後に事情説明と支持を取り付けるために奔走していたのです。そんな中、ジャック(ジョン・F・ケネディ大統領)が国務省に重要視したのは、キューバ危機の発生で、急遽緊急会議が行われることになった米州機構(OAS)の支持でした。米州機構とは、1951年に発足した南北アメリカ諸国の共同体でした。主目的は平和と安全保障・紛争の平和解決や加盟諸国の相互躍進をうたっていますが、アメリカを嫌う人達の言葉を借りれば、アメリカによる中南米支配の道具ということになります。もちろん米州機構で一番の資金力を持ち、最も発言力を持っていたのはアメリカですし、設立当初は反共色の強いものでしたから(キューバは1962年、キューバ危機の前に除名されています)、そういう一面があったのは事実と言うところでしょう。ただアメリカの影響力は強いものでしたが、ラテンアメリカ諸国も独立国としての自負があります。アメリカの主張をいつも受け入れていたわけではなく、自分の国に望ましくないと思う議題については激しく抵抗し、決して一筋縄ではいきませんでした。発足から11年、満場一致で議決が決まったことが一度もないと言う事実が、それを表しています。ジャックはディーン・ラクス国務長官と国務省に、米州機構で満場一致の支持を取り付ける事を求めました。というのも、アメリカが選択した海上臨検という手法は、ソ連が反論するように国際法的に反撃の余地を与えてしまうものだったからです。しかし、キューバと隣国で交流も深いラテンアメリカ諸国がアメリカを支持するなら、「臨検は国際的な支持を受けている」という大義名分が成り立つからです。しかし国務省側としては、時間的な余裕が無く、今から多数派工作など出来ませんから、ぶっちゃけ「無茶言うなよ」と頭を抱えてしまったのです。こんな経緯から、ラスクは緊張して会議に臨んだのですが、結果は拍子抜けするものでした。米州機構の緊急会議はわずか1時間で終了し、機構初の「満場一致でアメリカを支持する」という決議で終了しました。この結果に、無茶を承知でけしかけていたジャックですら目を丸くし、「米州機構は安易にアメリカ支持の結論を出さないだろう」とタカをくくっていたソ連とキューバは驚愕しました。この決議の裏には、彼らが見落としていた失策がありました。両国とも、核ミサイルはアメリカへの牽制、抑止力であると見ていました(もちろんソ連内の強硬派は、ゆくゆくは「アメリカの裏庭」であるラテンアメリカ諸国を切り崩そうという思惑もありましたが)。しかし、ラテンアメリカ諸国から見れば、自国もソ連の核の脅威にさらされることを意味します。さらにもしアメリカがミサイルを容認してしまったら、これらの国々はキューバの下風に立たされることになります。ラテンアメリカ諸国からすれば、キューバはいずれソ連の核ミサイルという「虎の威」を借りて、自分たちを恫喝してくる狐に見えたのです。そのため一議に及ばずアメリカを支持するという選択を選んだのです。これは、アメリカしか見ていなかったソ連とキューバの失敗でした。こうして海上臨検開始前に国際的な支持を受けられたため、「米州機構の同意に基づき、これより海上臨検を開始する」と、翌24日午前10時、ジャックは臨検開始を堂々と宣言出来る願ってもない展開になりました。臨検が開始されると同時にそれまでレーダーや偵察機、それにソ連船が発信する無線をモニターして、遠巻きに監視しているだけだったアメリ海軍第2艦隊の各艦は、一斉に行動を開始しました。この時キューバを目指していたソ連船は22隻、その所在の大半は入念な準備をして待ちかまえていたアメリカ軍に把握されていたのです。ソ連船の中で最もキューバ近海に近い位置にいたのは、キモフスク号とユーリ・ガガーリン号の2隻で、併走しながら臨検ラインまで1時間を切る距離にいました。この2隻の前に立ちはだかるように接近していたのは、米駆逐艦ジョン・R・ピアース(アレン・M・サムナー級駆逐艦、艦番号は「DD-753」です)でした。「こちらは合衆国海軍駆逐艦ジョン・R・ピアース。貴船はアメリカ合衆国と米州機構の定めた臨検ラインを越えようとしている。停船せよ、これより臨検要員を送る」と、ロシア語と英語で交互に通信を送りました。しかし、キモフスクもガガーリンも停船する気配をみせず、通信も応じようとはしませんでした。この時ケネディ大統領は、ホワイトハウスの一室に設けられたエクスコムの指揮所に入り、メンバーと共に、ペンタゴン(国防総省)を通じて送られてくる海上の様子を固唾をのんで見守っていました(余談ながらエクスコムのメンバーの内、唯一この場にいないのはロバート・S・マクナマラ国防長官でした。彼は近くのペンタゴンの海軍作戦本部に陣取って直接指揮を執っています。さらに余談を言うと、彼は22日以来ペンタゴンのソファーをベット代わりに泊まり込んでいます。マクナマラが自宅のベットで眠ることが出来るのは、一週間後の29日になります)。もしソ連船が臨検を拒否し、強行突破をはかった場合の手順は、舳先に警告射撃、それでも止まらない場合は操舵室を砲撃で破壊して拿捕、曳航することと定められていましたが、そこまでした場合、戦争になるのは避けられません。しかし、躊躇してソ連船の臨検ライン突破を許せば、ソ連は何事も無かったようにキューバに核兵器配備を続け、やっぱり遠くないうちに戦争となるでしょう。進むも地獄、引くも地獄と言う言葉がありますが、まさにその状態でした。そして臨検開始から約10分後の24日午前10時10分頃、「こちらCIC(艦艇のレーダーやソナー、通信設備が置かれている戦闘指揮所の事です)、艦長!」艦橋で双眼鏡をのぞきながら、ソ連船を監視していた艦長のもとに、うわずった声で報告が届きました。「こちら艦長、どうした?」「ソナーに感あり! ソ連潜水艦発見! 位置はキモフスクもガガーリンの間(の海中)です!」ソ連にとっても貴重な核ミサイルです。ソ連海軍は貨物船の護衛に、何隻もの潜水艦をカリブ海方面に派遣していたのです。このままピアースがソ連船の進路を遮ると、ソ連潜水艦の絶好の攻撃ポイントに自分から飛び込むことになってしまいます。「! 総員戦闘配備! 総員戦闘配備!」戦闘配備とは、乗組員全員に持ち場につくよう命じたものです(全員が配置につくため「全直」と言う事もあります。通常勤務のときは2直(1日2交替勤務)から3直(1日3交替勤務)です)。艦内通路は防水隔壁が閉められ、食事も部署でとり(平時は食堂でとります)、全員がカポック(救命胴衣)とヘルメットの着用が義務づけられます。戦闘態勢をとった米艦ピアース、停船しないソ連船、そして海中から窺うソ連潜水艦・・・。臨検ラインまであと15分、それは世界大戦へのカウントダウンの様相を呈しはじめていました。
2012.11.25
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10月21日、この日民主党と共和党を問わず、議会の重鎮たちが密かに緊急招集されました。ただ予備選挙が近かったため、自分の選挙区に戻っている議員も多く、集まった数は多くはなかったようです。ジャックことジョン・F・ケネディ大統領やロバート・S・マクナマラ国防長官は、議員たちにミサイル発見の経緯、この後の政府の方針と対策の説明がおこなわれました。しかし会議場で大統領が浴びせられたのは罵声と非難の声だけでした。「ピッグズ湾の失態がこの危機を招いたのだ! この責任をどうつけるのだ!」「あの時(ピッグズ湾事件)躊躇わずに正規軍を投入してカストロを始末していれば、こんな事にはならなかったのだ!」と過去の失敗を声高に叫ぶ議員や、「(核ミサイルが配備されたのがわかったなら)なぜさっさと空爆しないのか!」「海上封鎖など生ぬるい! 政府はそんな弱腰で問題を解決できると思うのか!」と、政府の対応策を批判する者が多く、支持する議員はほとんどいなかったと言われています。議会の反応にジャックは相当立腹したらしく、大統領執務室に戻ると「大統領の地位が欲しいならくれてやる!」「自由にものを言える連中(言うまでもないと思いますが、議員たちのことです)が羨ましい。彼らは自分の発言に責任をとる必要がないのだ。全て大統領の私がとらなくてはならないのだからな」と、実弟ロバート・F・ケネディ司法長官とケネス・オドネル大統領補佐官に愚痴っています。「兄さん、今重要なのは議員たちを納得させる事じゃない。明日のテレビ演説の方だよ」ロバートは努めて冷静に兄をなだめました。「・・・そうだな、国民は支持してくれるかもしれない。彼らが選んだ議員たちと違ってね」この辺りに、決断を迫られるトップの苦悩というのが見えてきそうな気がしますね。大統領と議員たちが激しい言葉をたたきつけあっている頃、ホワイトハウスでは大統領報道官ピエール・サリンジャーが、集まったマスコミ関係者に緊急声明を発表していました。「明日夜7時に、全国民に向けた政府からの極めて重要な発表があります。3大ネットワーク(NBC、CBS、ABCの3社)はその時間をあけてください」これでもう後戻りは出来ません。一方、海上では海上臨検の主役、アメリカ海軍第2艦隊(大西洋艦隊)の各艦艇が、慌ただしくそれぞれの担当海域を目指して移動を開始しています。中には港に帰投前に担当海域に向かった艦も多くあり、それらの艦艇には空母を仲介してヘリコプターで海兵隊の臨検要員が輸送されるなど、慌ただしいものだったようです。実質的に海上臨検は開始されたのです。そして10月22日午後7時、テレビ演説が開始されました。少し長くなりますが、触れてみたいと思います(一字一句演説そのままではないのでご了承ください)。「こんばんは国民の皆さん。政府は公約どおり、キューバにおけるソ連の軍備増強の動きを、注意深く、厳しい目で監視してきました。そして先週、我々の得た資料によってキューバにソ連の核ミサイルが配備されていることを確認しました。このような基地の建設は明らかに、西半球をソ連の核攻撃圏内に収めることにあります。そこで我が国の国土と国民の安全を守るため、憲法によって与えられた大統領の権限に基づき、私は早急に以下の処置を命じました。1つ、ミサイルの設置を阻止するため、キューバに搬入される軍事物資の臨検を開始すること、そしてキューバに向かうあらゆる国の船舶について、兵器の搭載を確認された船は、直ちに引き返しを命じること。2つ、キューバに対する監視を強化し、ミサイルの設置が中止されない場合、しかるべき手段を講じられるよう、アメリカ軍は必要な準備にはいること。3つ、今後キューバから西半球に位置するいずれかの国に対してミサイルが発射された場合、ソ連のアメリカに対する攻撃と見なし、直ちに報復を実行することとする」そこで一端言葉を句切ったジャックは、ここで異例とも思える言葉を述べます。「私は一人の人間としてフルシチョフ書記長に呼びかける。こんな無謀な挑発行為はやめにして、すぐにミサイルを撤去していただきたい。世界を破滅の縁から救えるのは貴方だけなのです」大統領の演説により、キューバ危機はこうして白日の下にさらされました。その衝撃はアメリカ国民だけでなく、全世界を震撼させる(ウチの母鳥や友人のお母さんは除く)大事件へとなっていったのです。一方、クレムリンでケネディ大統領の演説を冷や汗をかきつつ聴いていたのは、ニキータ・フルシチョフ書記長でした。今回KGB(ソ連国家保安委員会)は、アメリカ陸軍の大部隊が南部に向かっているのを察知していたのですが、演習と考えて気にとめていなかったのです。これは大きな失態、失敗でした。あと半月隠しとおせることが出来れば、ソ連とキューバは核ミサイル配備を堂々と公表して、南北アメリカ大陸のパワーバランスを大きく切り崩すことが出来るはずだったのに、言うなれば秘密を告白する前に暴露されてしまった訳ですから、後手に回った分、ソ連・キューバ側が不利になってしまったのです。ケネディ大統領の演説の翌23日、フルシチョフは声明を発表しました。「公海上の自由航行は、国際法と国連憲章によって保障されている正当な権利であり、ケネディ大統領の発言は、ソ連とキューバに対する明確な内政干渉である。私はアメリカ政府が分別を示し、世界を破滅的な結果に導きかねない政策(海上臨検のこと)を直ちに放棄されることを希望する」この時点で、フルシチョフはミサイル撤去に素直に応じる意志はありませんでした。前日のテレビ演説を聞いて動揺した彼ですが、一方でジャックの演説に「攻撃」や「侵攻」と言う文言が無いことに安堵し、まだ粘って交渉するチャンスはあると見たのです。もちろんフルシチョフに、第三次世界大戦も核戦争も起こす気はありませんでしたが、莫大な国費と貴重な核ミサイルを投じた以上、戦争が怖いから素直に相手の言い分を聞きましたでは、彼の政治生命は終わりになってしまいます。そして脅しに屈して同盟国を見捨てるようでは、東側共産主義陣営の盟主としてのソ連の地位も失墜してしまいます。なんとしても、労力に見合う対価は得なくてはならないと考えていたのです。言うなれば意地の張り合いとも言える行為ですが、政治にはこのような体面が重視される場合が多々あります。双方の思惑が交錯する中、翌24日、いよいよ臨検ラインにソ連船が接近し、それを阻止しようとするアメリカ海軍艦艇との間で、衝突が起きようとしていました。第三次世界大戦への危険をはらみつつ、世界が固唾をのむ中(ウチの母鳥や友人のお母さんは除く←しつこい・笑)、臨検ラインの攻防が始まろうとしていました。
2012.11.21
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ソ連のアンドレイ・A・グロムイコ外務大臣らとの会見を終えたジョン・F・ケネディ大統領は、その翌19日、中間選挙の遊説のためシカゴ入りしています。え? このタイミングで? と驚かれる方もいらっしゃると思いますが、これはエクスコム(最高執行評議会)の方針で、議論が確定するまでの間は、大統領には通常業務をこなしてもらうというという事が決められていたからです(さすがにこの時は「ソ連がシラをきる以上、遊説などしていられない、ホワイトハウスに留まる」とジャック(ケネディ大統領)は言っていましたが、「何かあったら戻ってきてもらうから、シカゴに行ってくれ」と実弟ロバート・F・ケネディ司法長官に説得されたためです)。シカゴに着いたジャックは、内心はどうであれ、表面的には何もないように笑顔で観衆の声にこたえています。そして大統領がワシントンD.Cを離れたこのタイミングで、事態はいよいよ切迫していきます。まずミサイル発見後も続けられているU2偵察機の活動によって、ミサイル基地の建設状況が、思ったより進んでいることが新たにわかりました。それまでは基地の完成は約1ヶ月後と見られていましたが、実際には半月後には完成しそうでした。また基地の建設は途中でも、ミサイルは発射可能状態にすることは出来るため(そのかわり精度の高い攻撃目標を設定することは無理ですが)、早ければ最初の1発は、数日以内に発射可能になるかもしれないことも予測されました。やはり高度2万mからの撮影では、細かい部分の精度までは分かり難かったのです。同時にもう一つ厄介なものも発見されました。中距離弾道ミサイル(IRBM)用と思われる建設中の新たなミサイル基地も見つかったのです。それまで発見されていた準中距離ミサイル(MRBM)の方は射程2千kmで、キューバからだとワシントンD.Cまでが射程距離でしたが、中距離弾道ミサイルの方は射程4千km、アラスカとハワイを除くアメリカ本土の大都市は、シアトルを除いて全てがソ連の核の射程内になりました(もっともこの時点では、中距離弾道ミサイル(IRBM)「R14」の胴体部分は、貨物船でキューバへ向かっている途中でした)。もし中距離弾道ミサイルも発射可能となれば、ソ連はワシントンD.Cだけでなく、ニューヨークでもロサンゼルスでも、好きな場所を攻撃出来ます。またCIA(アメリカ中央情報局)の情報収集の結果、キューバへ向かうソ連船の数は28隻(情報が錯綜しており、実際は22隻でした)あることも確認されました。もしかしたらこの中の何隻かは、新たに配備される予定の核兵器を積んでいるかも知れません(事実そうでした)。以上新たに判明した事実から、エクスコムのメンバーは議論の時が終わったことを悟りました。「兄さん、ワシントンに戻ってきてくれ」ロバートはシカゴにいる兄に、電話で連絡を取りました。「わかった。話はホワイトハウスで聞く。ボビィ、(エクスコムで採決をとって)結論を出させろ。たとえ不本意であっても1つの合意を出させるんだ。いいな?」盗聴されている可能性はないでしょうが、2人の会話は必要最低限の簡潔なものでした。またケネディは、この時初めて採決をとるよう指示しています。これはなんでもないようですが、政策決定で軽視してはいけないことの1つです。日本の政治などを見ていると、例えば首相が方針を決めて発表後、すぐに閣僚なり与党の幹部が反対を表明する、もしくは反対を受け決定を撤回すると言ったことをよく見かけます。本来これはあってはならない事なのです。例え首相の考えに同意できなくても、決定が下された以上は、閣僚も与党も従うことが原則なのです。また首相サイドも我を通すのではなく、あらかじめ反対側としっかり対話して納得させる。もしくは軌道修正して、双方が同意して決定を表明するというプロセスを経なくてはなりません。その辺のコミュニケーションを疎かにすると、方針発表後に造反が多発して与党が割れたり、方針を撤回したりという、決められない政治になってしまうのです。「大統領は風邪をひかれました。医師の薦めで急遽ホワイトハウスに戻ることになりました」大統領報道官ピエール・サリンジャーは、20日早朝記者団に困惑した表情で、そう語りました。サリンジャーはエクスコムのメンバーてだはないため、先刻までピンピンしていた大統領が、急に風邪をひいたからワシントンに戻ると言われて事態が飲み込めなかったのです。ホワイトハウスに戻ったジャックは、エクスコムの会議場に直行しました。この場に大統領が来るのは、第一回の会議以来です。「兄さん、海上封鎖で合意がとれた」出迎えたロバートがそっと耳打ちしました。攻撃賛成派が海上封鎖に同意したのは、上記の新情報に加え、まだ軍の展開に時間がかかる事を憂慮したからです。このままでは陸軍が作戦行動可能前に、ソ連に先手をとられてしまうかも知れません。そのため海上封鎖をおこない、必要に応じて軍事行動も検討すると言うことで双方が妥協したのです。「キューバ周辺の海域に、アメリカ海軍艦艇で封鎖線を敷く。キューバに向かうソ連船は封鎖線で停船・臨検し、兵器が見つかれば拿捕・拘留する。その上で核ミサイル撤去をフルシチョフに強く要求する。また封鎖開始と同時に全アメリカ軍はデフコン3に移行する」ジャックはエクスコムの結果を受け、以上の決定を下しました。デフコンという聞き慣れない単語が出てきたので、簡単に解説したいと思います。これはアメリカ国防省(ペンタゴン)が定めた5段階の戦争への準備態勢の規定をさします。デフコン5は、完全な平時(平和状態)であり、軍は通常勤務状態ですが、最高レベルのデフコン1の場合は、核兵器の使用も含めた戦時臨戦態勢を指します。デフコンの動きをアメリカ空軍戦略航空団を例に見てみると、デフコン5の時は、核兵器を搭載した爆撃機は地上待機ですが、デフコン1の時は24時間空中待機し(冷戦時はソ連が敵だったと言うこともあり、アラスカ・北極圏上空が待機空域に指定されています)、命令があり次第戦闘任務に移行します。そしてこの時指示されたデフコン3は、高度な準備態勢を意味し、アメリカ軍の使用する無線は全て戦時用の暗号に変更されます。ちなみに、2001年9月11日の同時多発テロに時に発令されたのも、このデフコン3でした。海上封鎖決定を受け、国防長官ロバート・S・マクナマラは1つ助言をしました。「ソ連は「同盟国(もちろんキューバのことです)への海上封鎖は、ソ連への宣戦布告と見なす」と前々から主張しています。ここは海上臨検という言葉を使うのがベストと考えます」細かい言い回しですが、これによってソ連やキューバが抗議してきても、「海上封鎖はしていない、臨検しているだけだ」と言い訳できます(まぁ、封鎖も臨検もやることは同じなので、詭弁なんですけどね・苦笑)。「海上臨検か、ロシア語でも上手く訳してほしいね」とは、このやり取りを聞いていた毒舌家ロバートのとばした冗談です。他には翌21日に議会への説明、22日月曜日午後7時に国民に向けたテレビ演説、海上臨検開始は24日午前10時(いずれも時間はアメリカ東部時間です)というタイムスケジュールも決定しました。一端結論が出ると行動はとても素早い。それがアメリカという国家の強みでしょう。アメリカ政府の対応策が決定した同日、キューバ中部サグア・ラ・グランデに建設中のミサイル基地では、準中距離ミサイル(MRBM)8発が発射準備を完了していました。アメリカの予想より早く、準備が終わっていたのです(ただし核弾頭は搭載されていません)。いよいよキューバ危機は、緊迫の第2幕を迎えることになります。
2012.11.18
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マクナマラ国防長官の主張した海上封鎖案は、エクスコム(最高執行評議会)の議論を一層激しいものにしました。攻撃賛成派からすれば、封鎖はミサイル撤去に直接結びつかない上に、ソ連・キューバ側に、アメリカ軍の侵攻が間近であることを教えてやるようなものだったからです。むしろ封鎖に怒ったソ連が、核ミサイルの先制使用に打って出る可能性も捨てきれないと考えました。一方海上封鎖派からすれば、キューバを空爆すれば、同盟国を攻撃されたソ連が黙ってみているわけがありません。間近いなく世界大戦へと繋がってしまいます。ですが封鎖という圧力をかけることで、交渉によりミサイル撤去が成功するかもしれません。そうすなれば一滴の血も流れることなく平和的な解決に繋がることになります。どちらの主張も一理あるわけですが、両者の見解の違いは、ソ連がどういう意図でキューバに核ミサイルを配備したかという事に対する認識の違いであったのだと思います。攻撃賛成派は、ソ連がアメリカへの核攻撃を辞さない、覇権主義への転換と見ていました。対して海上封鎖派は、アメリカのキューバへの侵攻を阻止することを目的にしたもので(フルシチョフ書記長の回想が事実を語っているとすれば、ソ連の思惑はこちらでした)、ソ連も核戦争を望んでいないはずだという見解を持っていました。第3回目のエクスコム以降、双方は激しい議論を交わし合い、まとまりがつかない状態になりました。議論が紛糾する中、ジョン・F・ケネディ大統領は通常どおりの職務を淡々とこなしていました。これは大統領がいつもどおりの仕事をしていないと、周囲に怪しまれて、キューバのことが気取られてしまう恐れがあったからです。しかしエクスコムの詳細は、大統領補佐官ケネス・オドネル(映画『13ディズ』は、ケビン・コスナー演じるオドネルの視点で語られていますが、事実の彼は、ケネディ大統領の補佐とエクスコムの会議運営の裏方に徹して、映画のような活躍はしていません)を通じて頻繁な報告を受けており、会議の全容はほぼ把握していました。10月17日の夜、ジャック(ケネディ大統領)はマクナマラ国防長官とマクスウェル・D・テイラー大将(統合参謀本部議長)、空軍参謀総長カーチス・ルメイ空軍大将らと会見し、軍事侵攻となった場合の、軍の対応能力について質疑を交わしています。テイラーは、「第2艦隊(大西洋艦隊)主力は、数日中にメキシコ湾に集結予定です(元々演習のために集結中でした)。しかし陸軍は動員をはじめたばかりですので、数週間はかかります」と報告しました。一方空軍のルメイは、「空軍はすぐにでも作戦行動可能です。空軍が行動を起こせば、陸軍も海軍も尻に火がつくでしょう。赤い野良犬が裏庭を徘徊しているのです。これを撃ち殺すのは正当な権利です」と、過激な即時空爆論を主張し、ジャックとマクナマラを辟易させています。ここでまたまた脱線ですが、カーチス・ルメイ大将について触れたいと思います。彼は有能で異彩を放つ人物です。功績をあげればルメイの力量が、世界最強と言うべきアメリカ空軍を作り上げたと言っても過言ではありません。しかし彼は傲慢で才能(彼は努力家で苦学して秀才になったタイプです)をひけらかして他者を見下す悪癖があり、友人はほとんどいません。ルメイが今の地位にあるのは文字通り自分の力量でしたが、それ故に自らの才能に頼むところが大きい、そういう人でした。彼の名は日本人にとって複雑な響きを持ちます。東京大空襲など日本の主要都市を焼き払い、数十万人の民間人を死に追いやったB29による空襲は、ルメイの主導でおこなわれたものです。さらに余談ですが、国防長官のマクナマラは、当時米陸軍航空隊に属してルメイの部下でした。マクナマラは「勝つためには何をしても許されるのか」と日本への焦土作戦を反対して、ルメイと激しく対立しています。ルメイにとって敵は徹底的に叩き潰せばよいだけでした。妥協や譲歩など、弱者の戯言に過ぎないという思想の持ち主でした(影でケネディ大統領のことを、「核ミサイルのボタンを押す勇気のない腰抜け」と呼んでいました。一方ロバート・ケネディはルメイを「赤い布を振ったら、見境無く突っ込んでくる狂牛」と評しています)。こういう性格ですから、敵だけでなく味方からも恐れられました。さらに脱線しますが、ルメイは創成期の航空自衛隊の顧問となっています。当時の航空自衛隊のパイロットたちの多くは、大戦中B29と熾烈な戦いを繰り広げた者が多く、ルメイに険悪な感情を持つ者が多かったといいます。しかしその知識と合理的な指導には不承不承納得したといいます。なにせ日本を焦土にした男ですから、弱点は知り抜いています。日本の防空システムを作り上げるのに適任だったのです。・・・凄い皮肉ですが。航空自衛隊での功績から、勲一等旭日大綬章の受勲が決められますが、昭和天皇は親授を拒否し(勲一等旭日大綬章は天皇の親授が通例です。しかしルメイに関しては「無辜の国民を焼き払った者に、授与せねばならぬのか」と述べられたと言われています)、やむなく浦茂航空幕僚長が授与しました。ルメイはキューバ危機の後も空軍参謀総長に地位にあり、ベトナム戦争では、「(北)ベトナムを石器時代に戻してやる」と北爆を推し進めたことでも知られています。と、彼の話はここまでにして、話を戻したいと思います。軍首脳部との話し合いも終わった翌18日、ジャックはソ連のアンドレイ・A・グロムイコ外務大臣とアナトリー・F・ドブルイニン駐米ソ連大使の2人と会見しています。この会見はミサイルのこととは無関係で、前々から予定されていたものでした。ソ連側はミサイルがアメリカ側に発見されていることをまだ知りません。アメリカ側も外交交渉の都合ミサイルのことは伏せて会見に臨んでおり、外交というものの半分が、駆け引き・欺し合いであることを伺わせます。会見は、米ソ両国の関係、欧州情勢について、お互いの立場を意見し合うというもので淡々と進みました。しかし会議の終了間際、ジャックはさりげなさを装いつつ、グロムイコ外相にこう言いました。「外務大臣、我が国は貴国のキューバに対する軍事援助を憂慮しています」「大統領閣下、我が国のキューバに対する援助は防衛のためのものです。我が国は今後ともアメリカとの友好的な関係を望んでいます」「それではキューバに攻撃用の兵器、例えばミサイルは、配備されることはないと考えてよろしいのですね?」ミサイルという単語に、一瞬グロムイコは驚いた顔をしたものの、すぐに微笑を浮かべてこう答えました。「もちろんです大統領閣下」その表情をジャックはじっと見つめながら、「それを聞き安心しました」と応じました。一方、会見場の外では、国家安全保障担当大統領特別補佐官マクジョージ・バンディが記者の一人に捕まって、メキシコ湾でおこなわれるという軍の演習(もちろん演習を名目にした軍の動員だったわけですが)について、質問攻めにあっていました。「(軍の移動で)南部の鉄道網は大混乱だとか。空挺師団(パラシュート部隊のことです。空挺師団は敵地に夜間降下するのが一般的ですから、精神力も技量も優れていないと務まらず、軍の中でも必然的に精鋭部隊となります)まで動員とは穏やかじゃありませんね」「僕は演習をするとしか聞いていないよ。詳しい話ならペンタゴン(国防総省)に聞いてくれ」バンディは逃げようとしましたが、相手は中々放してくれません。「演習名はオートサックだそうですが、名前からすると本当はキューバに侵攻するんじゃないですか?」記者の言葉に驚愕したものの、バンディは苦笑して誤魔化しました。「過激な想像だね。・・・ところで君は、何故オートサックという演習名が、キューバへの侵攻だと思ったんだい?」「何故って」今度は記者が苦笑して答えました。「カストロの綴りを逆さにしたものだからですよ」バンディは今度こそ衝撃のあまり顔を引きつらせました。しかし幸いにも、この時大統領とソ連外相の会談が終わり部屋から出てきたために、記者たちはそちらに飛んで行ってしまったため、彼の蒼白の顔を見咎められずにすみました。その隙に自分の執務室に飛び込むと、バンディはペンと紙をつかんで「Castro」と綴りを書き、次いで逆さまに書いて、浮かび上がった言葉にうめき声を漏らしました。「畜生、ペンタゴンの間抜け共め!」記者の言うとおり、オートサック(Ortsac)はカストロの綴りを正反対にしたものだったのです。徐々にアメリカ政府・軍の動きはマスコミに知られはじめ、隠し通せなくなってきました。方針をいよい決定しなくてはならない局面が近づいてきました。・・・今回もあんまり進まなかったなぁ。
2012.11.16
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今回、エクスコム(最高執行評議会)の結論が出るまで書く予定でしたが、脱線が多くてたどり着きませんでした(汗)。第2回のエクスコムは、ミサイル発見の同日である16日午後18時に始まりました。2回目の会議からジョン・F・ケネディ大統領は出席していません。「大統領が同席していると、皆が闊達な議論が出来ない」と、大統領の実弟、司法長官ロバート・F・ケネディが主張したためです。もちろんそれはロバートの気遣いで、会議の結論が大統領の異に沿わな内容になっても、出席していれば最終決断を強要されかねないのを危惧したからでした。2回目の会議でも、閣僚の多くはキューバ侵攻を主流する者が多く占めており、議論の内容もキューバへの軍事攻撃を、どうすれば正当化できるかという議論に終始していました。しかし、「キューバに配備されたソ連の核ミサイルは、アメリカの安全を脅かしている」という主張だけでは、攻撃の大義名分になりません。なぜなら、キューバにただ(核)ミサイルを運んだだけで攻撃が正当化できるなら、アメリカの核ミサイルが配備されている西ドイツやトルコに、ソ連が軍事侵攻することも正当化できることになってしまうからです。エクスコムの議事録には、ロバート・ケネディの過激な発言が残っています。「グァンタモ湾に、メイン号のような船はいないのか?」アメリカ史に詳しい方でないとピンと来ない方も多いと思いますので、ここで脱線して解説します。メイン号はアメリカの戦艦で、1898年2月15日、キューバのハバナ湾で爆発、沈没しました。当時キューバはスペイン領で、キューバはスペインからの独立闘争が続いていました。キューバの独立派をスペインは苛烈な弾圧を強いていて、アメリカはそれを批判していました。そんな中での事件でした。メイン号の災難は、現在では火薬の自然発火説(軍艦は動く火薬庫ですから、何らかの原因で発火して爆発するという事故は、珍しくありません)が有力ですが、当時のアメリカの世論は、スペインの破壊工作と決めつけて、激しい非難が起きました。メディアはスペイン討つべしで沸騰し、それに煽られる(もしくは利用する)形で、アメリカ政府はスペインに宣戦布告、米西戦争(1898年4月~8月)が起きました。この戦争で勝利したアメリカはスペインからキューバとフィリピンを植民地として手に入れました。つまりロバートは、キューバ攻撃の口実を得るため、大義名分を自作自演できないか? と言っているのです(この発言には、毒舌家の彼らしい皮肉も多分に含まれていたにではないかと思いますが)。この時アメリカは、そんな自作自演を検討しなくてはいけないほど、攻撃を正当性出来ない状況にあったのです。結局第2回のエクスコムでも結論は出ず、ソ連・キューバ側の先制攻撃に備えて、演習を名目にした軍の動員を開始するという点だけ合意して終了しました。第3回目のエクスコムは、翌17日午前中に開始されました。そしてこの第3回目から会議は大荒れになっていきます。前日まで空爆を熱烈に支持していたロバート・ケネディが、「空爆以外に手はないのか?」と言いだしたのが発端でした。一晩たって落ち着いたロバートは、今更ながら、侵攻一点張りになっているエクスコムの空気に危機感を持ったのです。他の選択肢も慎重に検討した上で、武力侵攻やむなしに結論が至るならかまわないが、最初から侵攻の話しかしていないのでは、議論になっていないと彼は気がついたのです。また、国防長官ロバート・S・マクナマラの発言が、さらに波乱を巻き起こします。「国防総省で検討したが、キューバにどれだけの核兵器が持ち込まれたかわからない以上、爆撃でミサイル施設の全てを破壊することは不可能という結論に達した。そうなると陸上部隊をキューバに侵攻させるしかない。だが陸上部隊の侵攻前に、1発でもミサイルが無傷で残れば、報復の核攻撃を受けることになる」マクナマラの発言は、爆撃を主張する閣僚の大半が、(無意識であったとしても)見て見ぬふりをしていた最悪の展開を、目の前に突きつけるものでした。ロバートとマクナマラの「造反」に対して攻撃賛成派(厳密な色分けは難しいですがこの時は、ジョン・A・マコーンCIA長官、マクスウェル・D・テイラー大将(統合参謀本部議長)らが攻撃賛成派の筆頭でした)は、「外交交渉でミサイルを撤去させるのは難しい。空爆で建設中のミサイル基地を潰し、しかる後に陸上部隊を侵攻させるのが最善だ」と主張しました。さらにロバートは、攻撃賛成派のメンバーから「ボビィ(ロバート・ケネディの愛称)、ミュンヘン会談の結果を知らぬ君ではあるまい。あの安易な妥協がナチスを勢いづかせた。今回もその轍を踏むつもりか」と詰られたと回想しています。ミュンヘン会談の話は、ロバート(というよりはケネディ家にとって)、二重の意味で耳の痛い話になります。ここでまた脱線しますが(今回も脱線多いなぁ)、その事情について触れたいと思います。ミュンヘン会談は1938年9月に英仏独伊4カ国でおこなわれた会談です。当時、ドイツ系住民が大半を占めていたチェコスロヴァキア領スデーテン地方を、アドルフ・ヒトラー総統が「スデーテンはドイツのものである」と主張して、ドイツとチェコスロヴァキアは一触即発の状態になっていました(スデーテン危機)。この事態にイギリスとフランス、イタリアなどが介入し、ミュンヘンで会議がおこなわれました。チェコスロヴァキアは英仏がヒトラーの野心を挫いてくれることを期待しましたが、戦争を避けたい英仏は、ドイツが今後他国に領土を要求しないことを条件に、ヒトラーの要求をほぼ全部飲む形で会談は終了しました。会談の結果に、チェコスロヴァキアが絶望したのは言うまでもありません。当事者なのに会談に出席させてもらえなかったあげくに、自国の領土スデーテン地方をドイツに奪われました。その後ドイツに抵抗する力を失ったチェコスロヴァキアは、チェコとスロヴァキアに分裂し、チェコはドイツの保護領、スロヴァキアはドイツの属国へと転落していくことになりました。そしてヒトラーは、どのような無理難題を他国に要求しても、英仏は戦争を恐れてドイツを妨害しない考え、ミュンヘン会談の約束を反故にして、ポーランドにも領土割譲要求を突きつけます。そしてポーランド侵攻、第二次世界大戦へと、ミュンヘン会談から僅か1年で突き進んでいくことになったのです。つまり、ミュンヘン会談の妥協、宥和政策は、戦争を回避するどころか、世界大戦の導火線となっただけに終わったのです。今回のキューバの問題も、一歩間違えば同じ事になると言う批判は、その可能性を地震でも否定しきれていないロバートにとって、反論できない話でした。そしてもう一点、このミュンヘン会談には、実はジャック(ジョン・F・ケネディ大統領)とロバートの父ジョセフ・P・ケネディが関わっていたのです。ジョセフは当時駐英大使でしたが、大のナチスドイツとヒトラー贔屓で、会談前チェンバレン英首相にドイツの要求を飲むように圧力をかけていました(ジョセフの言動が、どの程度チェンバレンに影響があったかは定かではありません)。その後も親ドイツ的な言動や行動を、第二次世界大戦が始まってからもとり続けたためルーズベルト大統領の逆鱗に触れ、駐英大使を更迭されて政治生命を絶たれました。ジャックとロバートにとって、ミュンヘン会談は父の恥に繋がる出来れば聞きたくない話なのです。ミュンヘン会談を引き合いに出されて、ロバートは返答に窮しました。実際彼も、本震では戦争を避けられないと思っていたこともあって、答えようがなかったのです。「なぁ、ボブ(ロバート・S・マクナマラ国防長官の愛称)。何か攻撃以外の手はないか? どんなばかげた提案でも笑ったりしないから披露してくれよ」ロバートは盟友でもあるマクナマラに意見を求めました。かつてフォード社(言わずと知れたビック3で有名な自動車会社です)で経営戦略に携わり、徹底的なコスト管理で実績をあげて、フォード家以外で初めて社長に就任したという経歴を持つマクナマラです。彼がなにかしらの代案を考えているだろうと、ロバートは思ったのです。マクナマラはチラッとロバートを見て少し躊躇った後、意見を口にしました。「1つだけ考えたことがある。だが結論から言えば、キューバに運ばれたミサイルを撤去させることは出来ない。戦争が避けられなくなった場合、悪影響も考えられる。だがソ連に圧力をかけられるし、国際社会の助力も受けられる。・・・つまり、キューバ周辺を海上封鎖する案だ」前置きが長いのは、マクナマラも自分の意見に自信がないためです。しかしこれでようやく軍事侵攻以外の選択肢がようやく出ました。この後、空爆か海上封鎖かで、今しばらく激しい議論が続くことになります。
2012.11.13
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久々のキューバ危機の話のブログです。最初はキューバ危機(1962年10月14~28日)が終わる10月28日までに、ブログを書き上げようと思っていたのですが、全然間に合いませんでした(汗)。さてソ連がキューバに核ミサイルを配備しはじめた1962年8月、アメリカ側もキューバにソ連貨物船が大量に到着しはじめていることに気がつきました。時のCIA(アメリカ中央情報局)長官ジョン・マコーンは、ジョン・F・ケネディ大統領に「ソ連が核ミサイルをキューバに持ち込んでいるのでは?」と懸念を伝えています。しかしマコーンの意見は何かしらの具体的な証拠を持っていたわけではなく、憶測にすぎなかったため、ジャック(ケネディ大統領の愛称)は、真剣に耳を貸そうとしませんでした。これだけを見ると、ケネディ大統領の危機意識の欠如と思い方もいるかもしれませんが、ピッグズ湾事件の失態もあってケネディのCIAに対する目は厳しく、具体的な証拠を伴わない話に、取り合うつもりはなかったのです。また、ソ連という国はスターリン時代からの体質として、貴重な兵器や装備ほど隠して手元に置いておきたがる傾向がありました。その点からもアメリカと全面核戦争を引き起こしかねない位置にあるキューバに、ソ連にとって数も少なく、貴重な核ミサイルを配備するわけがないという先入観を強く持っていたのです。そのためケネディ政権は、別段キューバに対する監視を強化することはありませんでした。そして1962年10月14日、運命の日は人知れずやってきました。この日、キューバ上空をアメリカの戦略偵察機U2が偵察飛行し、キューバ側の妨害もなく基地に帰投しました。アメリカのキューバへの偵察飛行は定期的におこなわれていました。それは核兵器配備を警戒していたからではなく、通常兵器の援助をソ連から受けて、日々増強を続けているキューバの軍事力を監視するためでした。5時間のフライトを終えたパイロットは、整備員たちが撮影されたフィルムを下ろし、厳重に格納しているのを横目で見ながら待機所に戻り、仲間と談笑しながらコーヒーを飲んでいます。もちろん操縦していた彼は(カメラは最初の設定の後は自動撮影ですから、ファインダーをのぞいていたわけではありません。また上空2万メートルからの撮影ですから、見ていても気がつかなかったでしょう)、自分が撮影したものが世界を揺るがす大事件になるとは思いもしなかったのです。ペンタゴン(アメリカ合衆国国防総省)に運び込まれたフィルムは、普段どおり画像分析チームがフィルムを受け取り写真の分析を開始しました。繰り返しになりますが、この時点では危機感を持ってみている人はいません。パイロットも画像分析チームも、通常の任務、仕事を淡々としているだけでした。そんな中、画像分析チームの1人が、奇妙な物体を発見しました。それはキューバの首都ハバナの南西85kmに位置するサンクリストバルという地点の拡大写真に、巨大なコンテナが隠れるように写っているのに気がついたのです。さらに写真の他の部分の調査がおこなわれた結果、20基以上のコンテナ、輸送用の大型トレーラーや、護衛の兵員を乗せたトラック、装甲車両も確認されました。チームは不眠不休で分析にあたり、トラックとの大きさの比較から、コンテナはミサイルではないかと疑いました。ソ連側の資料を徹底的に調べられ、先年モスクワ赤の広場の軍事パレードで公開された、1メガトンの核兵器を搭載可能な準中距離ミサイル(MRBM)「R12」の大きさに合致するという結論に達し、16日早朝、国家安全保障担当大統領特別補佐官マクジョージ・バンディのもとに報告書が届けられました。報告書を読み蒼白となったバンディは、その足でケネディ大統領のもとに向かいました。バンディの話を聞き、事の重大さに驚愕したケネディは、ただちに閣僚を招集して緊急会議を招集しました(後に「最高執行評議会(エクスコム)」と命名されます)。ただこの時点では、ミサイル発見の報は厳重な情報管制がされており、また閣僚が集まっていることをマスコミ、ソ連側に悟られないよう内密に集まるよう指示されました。おかげで司法長官ロバート・F・ケネディ(ケネディ大統領の実弟)、国防長官ロバート・S・マクナマラ、国連大使アドレー・スティーブンソンらは一台のリムジンに押し込められて、ホワイトハウス入りしました(毒舌家でもあるロバート・ケネディはこの時の事を「今度こういう事がある時は、一緒に車に乗る人選を考えてほしい。隣に座った男(国防長官のマクナマラのこと)の尻がでかくてたまらなかった」と発言し、対するマクナマラは「本当は嬉しかったくせに」と言い返しています。もちろん、2人ともそういう趣味があるわけではなく、冗談言っているだけですけどね)。第1回目のエクスコムは、16日の11時57分に開催され、約1時間で終了しました。この時は情報が第一報だけだったこともあって、情報の共有と大まかな方針の方向性の検討だけでした。この時閣僚の多くは、キューバの核ミサイル基地への空爆、侵攻を主張しています。映画『13ディズ』では武力行使に終始反対していたように描かれているロバート・F・ケネディ司法長官も、この時点では空爆を支持しており、彼も戦争か、外交交渉による解決かに揺れていたことがうかがえます。会議が終わった後、ロバートは兄ジャックに、密かに走り書きのメモを渡しました。「兄さん、僕は今、真珠湾攻撃を決断した東條首相の気持ちが、よく理解できるよ」と書かれていました。話はずれますが、ロバートは親日家と言えるかどうかわかりませんが、かなりの知日派だった人です。第2次大戦集結から約15年、この頃アメリカでは、かつてアメリカが日本に突きつけた対日最後通牒「ハル・ノート」を初めとするアメリカの対日政策が知られるようになってきた時代でした。特に「ハル・ノート」は、内容が知られるようになると、知識人などから「これは実質的なアメリカからの宣戦布告ではないか」という意見も出始めていました(コーデル・ハル元国務長官は、「宣戦布告ではない。日本が誤った解釈をしたのだ」と釈明しています)。そんなこともあって、日米開戦時の首相だった東條英機に関しても、戦争を決断するよう追い込まれた一面があったのではないかという同情論が出始めたのもこの頃です。ロバートは当時の日本の状況と、今アメリカが置かれた状況が似てると、評したのです。このシュールな弟の助言が、キューバへの武力侵攻やむなしに傾きかけていたケネディ大統領に、「結論を出すのは早すぎる」と自制させることになりました(もちろん、ロバートの意図は、兄が誤った判断を下さないよう落ち着かせることにありました) 。キューバにソ連の核ミサイルが配備され続ける状況は、断固阻止しなくてはいけません。しかし安易な武力行使は、第3次世界大戦を引き起こしかねません。ソ連がどういう意図で核ミサイルを配備したか、さらに本当に核ミサイルなのか多くの人命がかかっている以上、確認しなくてはいけないことはまだたくさんあります。まだ危機を知るものは少数ですが、こうしてキューバ危機は静かに始まりました。次はアメリカ政府内での方針を巡る激論と、対応について触れてみたいと思います。
2012.10.27
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ピッグズ湾事件の失敗後、アメリカのキューバに対する工作は下火になります。この時期、米ソの間ではベルリン危機(ソ連は西側諸国に東ドイツの承認と、米英仏3国が管理する西ベルリンの放棄を要求し、アメリカはそれを拒否して対立していました。この後東ドイツ政府は、有名なベルリンの壁を建設することになります)が深刻化しており、両国の軍隊はベルリンで対峙していました。そのためキューバに関わる余裕がなかったのです。この事態は、ケネディ米大統領とフルシチョフソ連書記長が水面下での交渉し、戦争の危機がどうにか回避されましたが、そうなると再びアメリカの目は、喉元に突きつけられた匕首、キューバに向けられるようになりました。1962年1月、ケネディは「マングース作戦(Operation MONGOOSE)」と呼ばれる秘密作戦を承認します。マングース作戦とは、亡命キューバ人などをキューバに送り込んで破壊活動(道路や工場の破壊、サトウキビ畑への放火などで、1962年3月から8月までの間に約6千件がキューバ側で記録されています)をおこない、キューバの治安を不安定化し、さらにカストロ議長の暗殺、そして米軍をキューバ侵攻させ、キューバを力づくで体制変更を迫るという作戦でした。作戦名の由来ですが、カストロはアメリカでしばしば「毒蛇」に例えられていましたから、蛇の天敵であるマングースの名を冠したのではないかと思われます。しかしこの作戦が、KGB(ソ連国家保安委員会)に察知されたことで、アメリカが想定しなかった事態、キューバへの核兵器配備、キューバ危機へと繋がることになります。一方のキューバですが、共産主義陣営加入後の1961年1月以降、ソ連からの軍事援助が急ピッチで続き、武器の扱いを教える軍事顧問団も駐留するようになっていました(1962年10月のキューバ危機の時点で駐留ソ連兵は4万名にも及んでいます)。カストロは、駐留するソ連兵の存在が、アメリカに対する抑止力になると見ていましたが、実際には効果が薄いことに苛立ちを覚えていました。また1962年3月以降、治安が急速に悪化していることにも気を揉んでいました。そこへKGB経由でマングース作戦の概要が伝えられると、アメリカのキューバ侵攻は近いと判断して、今まで以上に強い支援をソ連に要請するようになりました。ソ連のフルシチョフが、いつキューバに核兵器の配備を発案したのかについては、公的な文書に残されていないため不明です。ただマングース作戦の詳細と、そこから導き出されるアメリカのキューバ侵攻の可能性を鑑み、カストロの要請に前向きに考えるようになったと思われています。そのため核兵器配備の計画が考え得られたのは、1962年4月から5月位にかけてではないかと考えられています。「キューバに我々の(核)ミサイルが据え付けられれば、アメリカはカストロ政権に対して、軽率な軍事行動をとるわけにいかなくなるだろう、そう考えたのだ」とは回想録にあるフルシチョフの言葉です。彼の思惑は、アメリカのキューバ侵攻阻止であって(それによる「同盟国を守る強いソ連」というプロパガンダも、ソ連にとっては有益でした)、アメリカと戦争をすることではなかったのです。しかし逆に、それはソ連とフルシチョフの誤算で、第3次世界大戦を引き起こす寸前の事態となっていくことになります。核兵器の配備の打診に、カストロも「それは面白い」と応じています。彼もフルシチョフと同じ見解に達したのです。「アメリカは、マングースを送り込んでキューバをひとのみにしようとしている。だから我々はハリネズミ(核ミサイルのこと)を送り込んで、奴らが飲み込めなうようにしてやるのだ」フルシチョフはそう言って、ソ連にとっても生産数が少なくて貴重な核ミサイルの(この時点で、アメリカが保有していた核ミサイルは約5千発、ソ連は300発程度だったと言われています。爆弾タイプの核兵器保有数もアメリカが圧倒的で、ソ連は押し負けていました)、キューバへの配備に踏み切ることになります。ソ連がキューバに持ち込んだのは、「R12」という射程距離2千kmの準中距離ミサイル(MRBM)と、それよりやや大型で射程距離4千kmの中距離弾道ミサイル(IRBM)「R14」でした。いずれも広島型原爆の60~70倍の威力を持つ、1メガトンの核弾頭を搭載可能でした。キューバに配備された場合、R12はアメリカの首都ワシントンD.Cまで5分で到達可能であり、R14はハワイとアラスカをのぞくアメリカ本土の内、シアトルを除く全ての都市に核ミサイルを撃ち込むことが可能でした。そして肝心の核弾頭は、R12用戦略核36発、R14用戦略核24発、小型の巡航ミサイル搭載用の14キロトンの戦術核80発、重爆撃機搭載用の12キロトンの核爆弾が6発、短距離ミサイル搭載用の戦術核(2キロトン)12発の計158発もの核兵器が、キューバに運びこまれました(関係者の証言により、持ち込まれた核兵器の数は多少違いがあります)。300発しか保有していない核ミサイルの半分を、キューバに配備しようというのですから、ソ連の力の入れようがわかります。そしてそれはアメリカから見れば、キューバの侵攻を阻止するための防衛措置と言うより、アメリカに対する侵攻、核兵器による先制攻撃のための配備と写ったのは当然だったでしょう。これら核兵器とミサイル部品はアメリカに察知されぬよう、一般貨物船に偽装されたソ連貨物船によって、順次輸送されました(作戦名「アナドィリ」です。アナドィリはシベリア最東部を流れる川の名です)。貨物船は途中、アメリカ海軍の臨検や接触は受けたものの、慎重に偽装されていたのと、核兵器の持ち込みは想定外で無警戒であったこともあって、露見することなくキューバの港に順次到着していきました(ただ本命と言うべきR14用のミサイル胴体部を乗せた貨物船は、一番最後に出発したため、キューバ危機が始まった時、まだ公海上をキューバに向かっているところでした)。もちろん、核兵器を昼間堂々と荷揚げできるはずもなく、夜人目を憚りながら降ろされ、順次核発射基地(建設中)へと運ばれていきました。こうして、アメリカとソ連双方の打算と誤算のもと、キューバ危機への舞台が整えられたのでした。次は、アメリカ側の核ミサイル発見から危機の機発生まで、・・・書けると良いなぁ
2012.10.06
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今から10年ほど前になりますが、ウチの親鳥たちに聞いたことがあります。「キューバ危機の時どうだった?」父鳥は当時の状況を覚えており、「核戦争になるかと思った」と言っていました。母鳥はと言うと、「キューバ? それアフリカの国?」とのたまわり、聞いた私が馬鹿だったと諦めました(たぶん間違えるのはウチの母鳥ぐらいでしょうが、キューバは南北アメリカ大陸の中央、カリブ海にある島国です)。私が親鳥にキューバ危機の事を聞いてみたのは、『13ディズ』という映画を友人と見たて、核戦争になりかねなかったこの危機が、日本でどう報道されていたか興味を持ったからです。一緒に映画を見た友人も両親に尋ねたようですが、反応は同じ(父親は危機感を持っていたのに、母親は「戦争にならなかったんだから、たいした問題じゃないんでしょ」と関心すらなかったそうです)のようで、核戦争の危機をものとしない日本のお母さん方の強さがよくわかりました(笑)。と、冗談はさておき、今年は米ソが全面核戦争に陥りかけたキューバ危機から50年を迎えます。日本ではウチの母鳥(と友人のお母さん)のように、いまいちピンときていない方も多いようですが、キューバ危機は人類の存亡になりかねない危険な状態でした。東西冷戦が、第3次世界大戦へとかわりかけた瞬間だったのです。ではキューバ危機とはどんなものだったのか、そしてどのような経緯で戦争を回避して解決に至ったかを、書いてみたいと思います。まず全ての始まりは、1959年1月に起きたキューバ革命でした。前置きが長くなりますが、触れてみたいと思います。革命が起きる前のキューバは、独裁者フルヘンシオ・バティスタによる支配を受けていました。バティスタはよくドラマで出てくるステレオタイプな独裁者そのままで、国民から搾取し、私腹を肥やす人物でした。さらにバティスタはアメリカの企業から多額の献金を受けて懐柔されており、アメリカ資本によってキューバの農産物は独占的に支配される状況となっていたため、キューバ国民は貧しく塗炭の苦しみの中にありました。そんなバティスタ政権を、フィデル・カストロ率いる革命勢力が打倒したのがキューバ革命です。カストロ議長というと、反米闘争家として日本でも知られていますが、この頃の彼はそのようなことはありません。共産主義者でもなく、むしろアメリカとの関係を重視し、友好関係を維持することに腐心していました。彼はあくまで独裁者バティスタの政権を倒すことを目的としており、バティスタが独占していた利益を国民に分配し、民主化することを目標としていました。しかしここでドジを踏んだのは、アメリカ側でした。時のアメリカ大統領ドワイト・D・アイゼンハワーや政府閣僚の多くは、「親米政権を倒した以上、カストロは共産主義者に違いない」とみなし(確かにカストロの同志だったチェ・ゲバラなどは共産主義者でした)、敵対する姿勢を示したため、次第にアメリカとキューバの関係は悪化していきました。特にカストロのみならず、キューバ国民を憤慨させたのは、革命の3ヶ月後、ホワイトハウスを表敬訪問した際、アイゼンハワー大統領がおらず(あらかじめカストロの訪問を知っていながら、ゴルフで外出していた)、応対した副大統領のリチャード・ニクソンも冷ややかな対応に終始し、アメリカは露骨にキューバ軽視の姿勢をとりました。さらにキューバ革命によって、アメリカ企業に莫大な損失が出た点、また企業の一部が国有化されたことへの報復として、経済制裁が科せられるとキューバ経済は困窮しました。対立する国に経済制裁をして屈服を狙うというのは、アメリカ外交の常套手段ですが、現在までこの方法で成功した例はほとんどありません。日本もアメリカからの経済制裁を機に、太平洋戦争へと追い込まれることになってしまいます。そしてキューバでもアメリカの思惑と、反対の方向に話が進んでいくことになります。キューバを巡る一連の動きに関して、ソ連ではカストロが共産主義から距離を置く姿勢を表明していた点もあって、当初静観していました。この時のソ連の最高指導者ニキータ・フルシチョフは、彼は前任のヨシフ・スターリンとは異なり、露骨な覇権主義をとりませんでしたが、ソ連の政治的な優位を確立するための、勢力拡大の機会は逃しませんでした。ソ連はアメリカの経済制裁で、行き場のなくなったキューバ産の砂糖やタバコを、国際価格で買い取り、キューバが欲していた工業製品を提供して経済的な支援しました。またフルシチョフは、アメリカの喉元にあるキューバの地政学的な位置に着目していました。西ヨーロッパやトルコに配備されたアメリカの核兵器に、モスクワを初めとするソ連主要都市を一方的に脅かされているソ連としては、もしキューバに核兵器を配備することが出来るなら、アメリカにも核の脅威をもたらすことが可能とにります。これは強力な外交カードとなります。ゆくゆくはキューバをワルシャワ条約機構に加盟させて、軍事同盟へと発展させる事を目論んだのです。アメリカは経済性制裁でカストロが失脚すると思ったのですが、キューバは逆に、「窮地を脱するにはアメリカと敵対するソ連への接近しかない」と本当は親米的であったカストロをソ連側陣営に走らせる結果になったのです。こうして1960年2月、ソ連とキューバは通商関係を樹立し、同年12月には正式に共産主義陣営の一員となりました。「カリブ海に浮かぶ赤い島」は、アメリカの失策により誕生したのです。キューバの共産主義化に激怒したアイゼンハワー大統領は、キューバと国交を断絶し(1961年1月3日。次のジョン・F・ケネディ大統領の就任17日前)、CIA(アメリカ中央情報局)を中心として、カストロ政権転覆を意図した数々の秘密作戦を準備します。ただ彼の大統領任期は終わりを迎えていたため、数々の計画はケネディ政権に引き継がれることになります。このアイゼンハワーの置き土産が、キューバ危機の導火線の役割を果たしていくことになります。そして21世紀を迎えた今日まで続く、アメリカとキューバ対立の関係を決定づける重大事件が発生します。それはピッグズ湾事件(1961年4月15~19日)です。革命後、アメリカに亡命していた親米キューバ人で構成された「反革命傭兵軍」が、カストロ政権打倒を目指して侵攻させました。しかし作戦は、事前にKGB(ソ連国家保安委員会)に察知されていたのと、CIAがキューバ軍を過小評価(根拠もないまま、反革命軍が上陸すれば、キューバ軍は瓦解すると考えていたこと)もあって失敗に終わりました。この事件は、キューバの対米感情を決定的にしました。大統領が代わったことで、アメリカとの関係改善が出来るのではと期待していたカストロは、完全にそれを諦めました。そして一層ソ連側との関係強化に踏み切ることになります。また、それまで革命政府に協力的でなかったキューバ人も、アメリカの「侵略」に対して、カストロのもと団結する姿勢を示すようになります。アメリカ側も、就任間もなく事態を理解しないまま作戦を許可したケネディ大統領は、政権に黒星をつけたキューバに立腹し、その後も政権の転覆やカストロ暗殺の工作を続けることになります。と、長くなりましたがこれがキューバ危機に至るまでの序章です。次はキューバ危機の詳細に入っていきたいと思います。
2012.09.30
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