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今から10年ほど前になりますが、ウチの親鳥たちに聞いたことがあります。
「キューバ危機の時どうだった?」
父鳥は当時の状況を覚えており、「核戦争になるかと思った」と言っていました。
母鳥はと言うと、 「キューバ? それアフリカの国?」
とのたまわり、聞いた私が馬鹿だったと諦めました (たぶん間違えるのはウチの母鳥ぐらいでしょうが、キューバは南北アメリカ大陸の中央、カリブ海にある島国です)
。
私が親鳥にキューバ危機の事を聞いてみたのは、 『13ディズ』 という映画を友人と見たて、核戦争になりかねなかったこの危機が、日本でどう報道されていたか興味を持ったからです。
一緒に映画を見た友人も両親に尋ねたようですが、反応は同じ (父親は危機感を持っていたのに、母親は「戦争にならなかったんだから、たいした問題じゃないんでしょ」と関心すらなかったそうです) のようで、核戦争の危機をものとしない日本のお母さん方の強さがよくわかりました(笑)。
と、冗談はさておき、今年は米ソが全面核戦争に陥りかけたキューバ危機から50年を迎えます。
日本ではウチの母鳥 (と友人のお母さん) のように、いまいちピンときていない方も多いようですが、キューバ危機は人類の存亡になりかねない危険な状態でした。東西冷戦が、第3次世界大戦へとかわりかけた瞬間だったのです。
ではキューバ危機とはどんなものだったのか、そしてどのような経緯で戦争を回避して解決に至ったかを、書いてみたいと思います。
まず全ての始まりは、1959年1月に起きた キューバ革命 でした。前置きが長くなりますが、触れてみたいと思います。
革命が起きる前のキューバは、独裁者 フルヘンシオ・バティスタ による支配を受けていました。
バティスタはよくドラマで出てくるステレオタイプな独裁者そのままで、国民から搾取し、私腹を肥やす人物でした。
さらにバティスタはアメリカの企業から多額の献金を受けて懐柔されており、アメリカ資本によってキューバの農産物は独占的に支配される状況となっていたため、キューバ国民は貧しく塗炭の苦しみの中にありました。
そんなバティスタ政権を、 フィデル・カストロ 率いる革命勢力が打倒したのがキューバ革命です。
カストロ議長というと、反米闘争家として日本でも知られていますが、この頃の彼はそのようなことはありません。共産主義者でもなく、むしろアメリカとの関係を重視し、友好関係を維持することに腐心していました。
彼はあくまで独裁者バティスタの政権を倒すことを目的としており、バティスタが独占していた利益を国民に分配し、民主化することを目標としていました。
しかしここでドジを踏んだのは、アメリカ側でした。
時のアメリカ大統領 ドワイト・D・アイゼンハワー や政府閣僚の多くは、「親米政権を倒した以上、カストロは共産主義者に違いない」とみなし (確かにカストロの同志だった チェ・ゲバラ などは共産主義者でした) 、敵対する姿勢を示したため、次第にアメリカとキューバの関係は悪化していきました。
特にカストロのみならず、キューバ国民を憤慨させたのは、革命の3ヶ月後、ホワイトハウスを表敬訪問した際、アイゼンハワー大統領がおらず (あらかじめカストロの訪問を知っていながら、ゴルフで外出していた) 、応対した副大統領の リチャード・ニクソン も冷ややかな対応に終始し、アメリカは露骨にキューバ軽視の姿勢をとりました。
さらにキューバ革命によって、アメリカ企業に莫大な損失が出た点、また企業の一部が国有化されたことへの報復として、経済制裁が科せられるとキューバ経済は困窮しました。
対立する国に経済制裁をして屈服を狙うというのは、アメリカ外交の常套手段ですが、現在までこの方法で成功した例はほとんどありません。
日本もアメリカからの経済制裁を機に、太平洋戦争へと追い込まれることになってしまいます。そしてキューバでもアメリカの思惑と、反対の方向に話が進んでいくことになります。
キューバを巡る一連の動きに関して、ソ連ではカストロが共産主義から距離を置く姿勢を表明していた点もあって、当初静観していました。
この時のソ連の最高指導者 ニキータ・フルシチョフ は、彼は前任のヨシフ・スターリンとは異なり、露骨な覇権主義をとりませんでしたが、ソ連の政治的な優位を確立するための、勢力拡大の機会は逃しませんでした。
ソ連はアメリカの経済制裁で、行き場のなくなったキューバ産の砂糖やタバコを、国際価格で買い取り、キューバが欲していた工業製品を提供して経済的な支援しました。
またフルシチョフは、アメリカの喉元にあるキューバの地政学的な位置に着目していました。
西ヨーロッパやトルコに配備されたアメリカの核兵器に、モスクワを初めとするソ連主要都市を一方的に脅かされているソ連としては、もしキューバに核兵器を配備することが出来るなら、アメリカにも核の脅威をもたらすことが可能とにります。これは強力な外交カードとなります。
ゆくゆくはキューバをワルシャワ条約機構に加盟させて、軍事同盟へと発展させる事を目論んだのです。
アメリカは経済性制裁でカストロが失脚すると思ったのですが、キューバは逆に、「窮地を脱するにはアメリカと敵対するソ連への接近しかない」と本当は親米的であったカストロをソ連側陣営に走らせる結果になったのです。
こうして1960年2月、ソ連とキューバは通商関係を樹立し、同年12月には正式に共産主義陣営の一員となりました。
「カリブ海に浮かぶ赤い島」 は、アメリカの失策により誕生したのです。
キューバの共産主義化に激怒したアイゼンハワー大統領は、キューバと国交を断絶し (1961年1月3日。次のジョン・F・ケネディ大統領の就任17日前) 、 CIA (アメリカ中央情報局) を中心として、カストロ政権転覆を意図した数々の秘密作戦を準備します。 ただ彼の大統領任期は終わりを迎えていたため、数々の計画はケネディ政権に引き継がれることになります。
このアイゼンハワーの置き土産が、キューバ危機の導火線の役割を果たしていくことになります。
そして21世紀を迎えた今日まで続く、アメリカとキューバ対立の関係を決定づける重大事件が発生します。それは ピッグズ湾事件 (1961年4月15~19日)です。
革命後、アメリカに亡命していた親米キューバ人で構成された「反革命傭兵軍」が、カストロ政権打倒を目指して侵攻させました。
しかし作戦は、事前に KGB (ソ連国家保安委員会) に察知されていたのと、CIAがキューバ軍を過小評価 (根拠もないまま、反革命軍が上陸すれば、キューバ軍は瓦解すると考えていたこと) もあって失敗に終わりました。
この事件は、キューバの対米感情を決定的にしました。
大統領が代わったことで、アメリカとの関係改善が出来るのではと期待していたカストロは、完全にそれを諦めました。そして一層ソ連側との関係強化に踏み切ることになります。
また、それまで革命政府に協力的でなかったキューバ人も、アメリカの「侵略」に対して、カストロのもと団結する姿勢を示すようになります。
アメリカ側も、就任間もなく事態を理解しないまま作戦を許可したケネディ大統領は、政権に黒星をつけたキューバに立腹し、その後も政権の転覆やカストロ暗殺の工作を続けることになります。
と、長くなりましたがこれがキューバ危機に至るまでの序章です。次はキューバ危機の詳細に入っていきたいと思います。
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