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先に行なわれた高校生ドラフトで、西武から1巡目の指名を受けた。埼玉県の高校野球界を代表する投手の双璧、増渕竜義(鷲宮高-ヤクルト)の外れ1位ではあったが。この2人は常にライバルであり、お互い相当に意識もしていたようだ。両者が直接対決したのは、昨年の秋季埼玉県大会。準決勝で対戦し2人とも完投したが、最後は木村の埼玉栄高が1-0でサヨナラ勝ちをした。ただ木村のことを書くとき、昨夏の甲子園切符をかけた春日部共栄高との決勝戦を触れないわけにはいかない。---------------------------<決勝>2005年7月29日(金)大宮県営球場春共栄 001 000 004 = 5 埼玉栄 001 100 200 = 4 【投手】春共栄 難波-今井埼玉栄 木村■9回表二死満塁、スコアは4-1で埼玉栄高がリード。打者を2ストライクまで追い込んだ木村。甲子園出場まで、「あと1球」に迫っていた。が、その時、木村にとって悪夢が起きた。打席に立つ4番・鶴岡賢二郎(現・日体大1年)が2ストライクから、右越えに適時三塁打を放ち一挙同点。続く5番・射手矢大輔(現・共栄大1年)も適時二塁打を放ち、あっ!という間の逆転劇。「天国から地獄」とは、こういうことを言うのだろう。地獄に落ちるまでに要した時間は、たったの数分だった。---------------------------木村文和。最速148キロの直球と切れ味のいいスライダーが特徴。ただ投手としてだけでなく、打者としての能力も高い。ボクとしては、打者としてのほうが面白そうに思うけど。埼玉県大会では、木村が打席に立つと、外野手3人がフェンスに張り付いて守る姿をよく見かけた。埼玉栄高出身のプロ野球選手には、大島裕行(99年D3位)がいる。昨年、9試合だけの出場だったが、高校本塁打記録(86本)の保持者。※ちなみに清原和博(PL学園高)が64本、松井秀喜(星稜高)が60本。 いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.11.28
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読売監督にしてWBC日本代表の監督でもある原辰徳氏(東海大相模高-東海大)、そしてその父・貢氏(現・東海大系列高野球部総監督)のことが「父子鷹」と呼ばれるようになって久しい。原親子がそう呼ばれ始めた頃、2人が出場していた1976年夏の甲子園で、まったく無名校の無名投手だった男が優勝をさらって行った。その男が今、あらたに「父子鷹」と呼ばれるようになったのだから、「巡る時代」は面白い。その優勝をさらった無名投手が桜美林高の松本吉啓。そして、その息子が啓二朗。松本吉啓氏(桜美林高-明治大-明治生命-埼玉栄高監督-千葉経大付高監督)。<桜美林高時代>まだ夏の甲子園3度目の出場だった桜美林高。当時は「オウビリン」とまともに読める人がいなかった1976年夏の甲子園で全国制覇を果たした。2回戦 日大山形高に4-0 3回戦 市神港高に3-2 準々決勝 銚子商高に4-2準決勝 星稜高に4-1そして、決勝でPL学園高をスコア延長11回の熱戦の末、4-3でサヨナラ勝ちし、優勝を決めた。桜美林が勝利するたび校歌が甲子園に流れた。その時、ボクは「イエス、イエス、イエス」という歌詞を憶えた。そして、「校歌にカタカナ」があるなんて不思議なもんだ、とも思ったものだ。■東京都内のライバル■一学年下に日大二高・五十嵐信一(現・日本ハムスコアラー)、二学年上に城西高の高橋慶彦(現・ロッテコーチ)がいた。■甲子園のライバル■準々決勝で対戦した銚子商高のショートは宇野勝(元・中日)。また準決勝で対戦した星稜高のエースは小松辰雄(元・中日)だった。直接対戦はしなかったが、柳川商高の久保康生(現・阪神チーフコーチ)、「サッシー」こと海星高・酒井圭一(現・ヤクルト九州担当チーフスカウト)らがいた。また、息子・啓二朗がいた早稲田大監督の應武篤良氏も、広島・崇徳高の捕手としてこの大会に出場していた。2回戦で東海大四高に勝利したものの、3回戦で酒井のいる海星高にスコア0-1で惜敗した。※應武さん、同年秋のドラフトで近鉄バファローズから3位指名を受けたが、これを蹴って早稲田大に進学した。(⇒あま野球日記「近鉄を蹴った男たち」収録)松本吉啓氏、高校を卒業し明治大に進学、そして明治生命に進むが、高校・大学・社会人のすべてで「日本一」を経験した。現役の選手として「日本一」を経験していないのは「プロ野球」だけ。明治大入学以降のことは次回に。※<松本啓二朗の小中高時代>はこちら。 <松本啓二朗の大学時代>はこちら。 <松本啓二朗の父・吉啓氏の高校時代>はこちら。 <松本啓二朗の父・吉啓氏の大学時代?>はこちら。 <松本啓二朗の父・吉啓氏の高校監督時代>はこちら。ぜひ1クリックをお願いします
2009.03.01
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■昨日(6月12日)、全日本大学野球選手権の大会5日目は準決勝の2試合が行われた。第2試合のカードは優勝候補の筆頭・東洋大と、最近メキメキと力をつけてきた北東北の優勝チーム・八戸大の対戦。※昨年の同大会では同じ北東北リーグの富士大が準優勝を果たした。八 010 000 000 =1東 100 002 02X =5 (八)●塩見-小林、(東)○乾-鹿沼■ボクは過去の埼玉高校球児たちの活躍ぶりを見ることで、この試合を十分に楽しめた。リーグ戦を通じて調子の上がらなかった東洋大の乾真大(4年、東洋大姫路高)がこの試合は好投(5回2/3、奪三振9、被安打3)。東洋大が優位に試合を進める中、勝利を決定づけたのは8回に代打で登場した鮫島勇人(3年、浦和学院高)の一発だった。二死二・三塁のチャンスで、小林寛(1年、光星学院高)の変化球(118km)に上手くタイミングを合わせて放った打球は左中間を超える二塁打になり、走者2人が生還し5点目を挙げた。鮫島は高校時代、赤坂和幸(現・中日)とともに浦和学院の中軸を務めていた打者。ボクにとって、高校時代に見てきた選手の(大学での)活躍ぶりを見るのは嬉しいことだ。一方、八戸大の主将・久保一等(4年)も元は埼玉高校球児。こちらは聖望学園高出身。■鮫島勇人と久保一等。お互いに(埼玉県内の)強豪高出身だから何度も対戦しているはずだけど、ボクが憶えているのは2006年4月29日に行われた春季県大会3回戦、浦和学院高vs聖望学園高戦のこと。浦和学院 000 010 202 =5聖望学園 000 004 102X=7最終的には聖望がサヨナラ勝ちしたこの試合、主役を演じた(演じてしまった?)のは久保だった。9回表、スコア3-5で、2点差を追う浦和学院が攻撃の時にドラマが起きた。一死二・三塁でチャンスを掴んだ浦和学院、次打者の当たりはレフトを守る久保に飛んだ平凡なフライ。だがタッチアップを焦った久保が後逸。ボールは久保のグラブの上を行き、転がってフェンスまで達した。走者2人が生還し、浦和学院は労せず5対5の同点に追いついた。レフトのポジションでうつむき、そして呆然と立ちつくす久保。実はその打球を放ったのが浦和学院の3番・鮫島だった。聖望学園、勝利をほぼ手中していたが、するりと手から滑り落ちるかのように見えた。ゲームは振り出しに。その裏、聖望の攻撃。一死一塁で久保に打順がまわった。汚名返上のチャンス。浦和学院の金井投手が投じた2球目、久保は狙いすましたようにバットを振り切ると、打球はレフトスタンドに飛びこんだ。サ・ヨ・ナ・ラ・ホ・ー・ム・ラ・ン。打った瞬間、それとわかる豪快な当たりだった。久保は袖で涙を拭いながらダイヤモンドをまわった。そしてホームベース付近で待ち構えるチームメイトたちの歓喜の輪の中に入り、べースを踏んだ。楽勝のはずが、鮫島の平凡なフライを後逸し同点にしてしまい、その直後に自分でホームランを打って勝負を決めた。終わってみれば、まるで久保の「自作自演」のようなサヨナラ劇だった。 今日も1クリックお願いします
2010.06.13
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■今日(11月24日)、明治学院創立150周年を記念し、明治学院大(首都大学リーグ2部)―東京大(東京六大学リーグ)の対抗戦が神宮球場で行われた。なぜ今日、明治学院と東大が対戦したのか? 少し説明が必要だ。当時華々しい活躍をしていた白金クラブ(以下、白金。明治学院の前身)と、ライバルの第一高等中学校(以下、一高。東京大の前身)が対戦したのは、今から123年前、1890年(明治23年)5月のこと。今日行われた試合は、この時の再現試合だった。実はこの1か月ほど前、白金は駒場農学校(以下、駒場。後に併合し東京大に)との試合に敗れていたため、駒場に報復を計るべく画策していたのだが、「もし再度敗北したら、更に恥の上塗りである」と考え、まずは一高に勝利した後に、駒場へ雪辱戦を挑むという段取りだった。前哨戦ともいうべき対一高戦は、前述のとおり1890年5月2日、本郷向ヶ丘にある一高のグラウンドで行われた。■試合の模様は『日本野球史』(国民新聞運動部編、昭和4年7月18日刊)に詳しいので、以下に引用。一高の選手たちは、体操部の所蔵にかかる青小倉の古洋服を着ているのに反して、白金は白シャツに天鵞絨(ビロード)でM字を型取ったマークを胸に付け、フランネルの半ズボンの膝頭には赤糸で桜花を刺繍してあったのが、殊更目に立って威風四辺を払うの概があった。しかもその指導者が白面巨大のマグネヤとて、一高の方は戦わざるに呑まれた概がある。・・・学制の変更から一高に編入された正岡子規が捕手を承り、蛮勇をもってこのハイカラ軍を一蹴せんとし、白金は白洲兄弟がこれに当たった。■ただ、このまま試合が終わっていれば、歴史に残ることはなかったし、今日再現試合を行うこともなかった。6回終了時点で白金が6-0とリードしているところで、遅れて教え子たちの応援に駆け付けたのが明治学院の教師ウイリアム・インブリ―だった。インブリ―は入口が分からず、たまたま垣根を飛び越えてグラウンドに入ったため、礼節を重んじ正門主義を唱える一高は無礼と受け取り、インブリ―を暴行し、重傷を負わせた(=インブリ―事件)。原因は、正門主義のほかに、この時代の西洋人排斥の風潮、そしてバンカラ官学対ハイカラ私学の構図が根底にあったと見ることもできる。国際問題に発展しかねない事件だったが、被害者のインブリ―が矛先を収め、どうにか穏便に解決した。書籍『白球太平洋を渡る』(版元?)には、こう書かれている。この事件(インブリ―事件)は一高の野球を『校技』に位置付け、全寮あげて名誉挽回のために従来の弄球快戯的なものを捨て、悲壮な覚悟を持って猛練習に励んだ。彼らのエリート意識は寮生にあてた檄文で『第一高等中学が全てのものに優位にたたねばならぬ』と論じるほどであった。つまりこの事件こそが精神野球の始まるきっかけとなったのである。明治23年11月にはついに白金を破り、更に12月には溜池にも大勝し、翌年、白金・溜池連合軍を破ると一高精神野球は国内に敵なしという状態になった。このインブリ-事件を発端に、日本国内に「精神野球」が波及したのである。※余談だが、11月に両チームが再戦し一高が勝利するのだが、一高の5番・二塁手で出場したのが、ベースボールを野球と訳した、中馬庚である。(写真)再現試合にふさわしいユニフォーム(胸のマーク)、帽子。上が明治学院、下が東京大。
2013.11.24
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楽天から戦力外通告を受けた藤崎紘範(宮崎一高-近鉄)、来季から打撃投手で再出発するという。普通、投手といえば「打者に打たれないように」投球するものだけど、打撃投手は真逆で「テンポよく打者に打ってもらう」のが仕事だ。彼の27歳という若さを考えれば、早いうちにサラリーマンになるという選択もあったはずだし、そう考えるほうが合理的とも思う。でも藤崎、あえて打撃投手という道を選んだ。「打撃投手で再出発します。家族(妻、娘)のために気持ちよく打ってもらおうと思っています。打者との距離も短いし、いやあ、難しいですがね」迂闊だったけど、楽天の藤崎が打撃投手になったことを、つい最近になって知った。ルーキーだった1999年、先発登板したことがある。これは、近鉄バファローズにおいては画期的なことであり、赤堀元之(静岡高)以来の快挙だったが・・・。通算成績(現役生活は8年間)49試合、1勝7敗、防御率5.94。-------------------------------------------------------打撃投手と聞いて、先日読んだばかりの『スローカーブを、もう一度』(山際淳司著・角川文庫)に登場する黒田真治という打撃投手を思い出した。黒田についての詳細は、ここでは省略するけど、打撃投手という職業を知る上で、ボクにとって興味深い点が3点書かれていた。(1)打撃投手のタイムテーブル試合がナイターなら、2時に球場入り。2時半頃にはグラウンドに出て、軽くウォーミング・アップすると、すぐにマウンドに立つ。バッティング練習は4時頃までで、それが終わるとさっさとシャワーを浴びて帰ってしまう。球場で試合を見ることは、ほとんどない。(2)一日当たりの投球数実働時間は、上記のとおり2時間程度のもの。時間だけを見ると簡単な仕事に見えるけど、正味30-40分程度の間に最低120球を続けざまに投げる。つまり、最低でも通常の投手の一試合あたりの投球数を、休みなしで毎日投げるということになる。(3)打撃投手が抱える故障何年も続けていると、当然肩がガタガタになる。肩のうしろが痛い分には大事に至らない。ただ肩が張っているだけだから。でも、肩の前の筋肉が痛くなると危険信号。所属する球団の事情にもよるが、実際には自費で鍼やマッサージでの治療を受ける必要が出てくる。「肩を壊しちゃって・・・」なんてことをコーチに言ったら最後、「なに、打撃投手でも一人前に肩を壊すのか」と皮肉を言われることになる。-------------------------------------------------------ことほどさように、打撃投手といえば「負け組」のイメージが付きまとう。厳しい競争社会であるプロの世界ゆえ、実際にも負け組なのかもしれない。でも、その与えられたポジション内での勝利とは何か。それをぜひ藤崎に具現化してほしいと、ボクは思っている。先日ブログに書いた故・稲尾和久氏や西本聖氏のスタートは打撃投手のようなものだったし、野村克也氏はそもそも「壁」と呼ばれるブルペン捕手だった・・・。<追記>現在の主な打撃投手たち中日・平沼定晴(千葉商大付属高-中日-ロッテ-西武)42歳阪神・嘉勢敏弘(北陽高-オリックス)31歳横浜・関口伊織(大宮工高-東洋大-横浜-近鉄)36歳ホークス・門奈哲寛(常葉菊川高-日本大-読売)37歳オリックス・古溝克之(福島商-オリックス-阪神-日本ハム)44歳ロッテ・榎康弘(東海大甲府高-ロッテ-読売-ロッテ)35歳1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2007.11.22
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■東京国際大が杏林大から勝ち点を奪い、東京新大学リーグを初めて制した。そして岩槻川通り球場に古葉竹識監督が宙に舞った。東京新大学野球春季リーグ戦で31日、元プロ野球広島監督の古葉竹識氏(75)が率いる東京国際大がリーグ加盟27年目で初優勝を果たした。就任4年目の古葉監督は、かつて広島を3度日本一に導いた名将。大学球界でも大きな花を咲かせた。勝ち点を取れば優勝が決まる最終カードの杏林大戦。前日に王手をかけ、この日は11-2で七回コールド勝ちした。勝ち点5の完全優勝に、古葉監督は「チームが一つになった結果。いい子たちに恵まれた」と孫のような選手をねぎらった。古葉監督は選手たちに「耐えて勝つ」と言い聞かせ、野球の厳しさを通じての人間形成を目指してきたという。山田亮太主将は「野球以外に、社会に出ても通じるあいさつや礼儀、身だしなみにも厳しい」と話した。就任して初めて指導した選手たちが最上級生となり、悲願を達成。胴上げで宙に舞った古葉監督は、ナインに対し「何十年ぶりの胴上げは、本当にうれしい。(全日本大学選手権に向け)神宮でも一つになって頑張るぞ」と言葉を掛けた。 (時事ドットコム)■いかに古葉監督が率いたチームであっても、東京新大学リーグは創価大の独壇場、他のチームが優勝するなど思いもよらないリーグだった。それなのに就任4年目で制覇するなんて「さすが!」というしかない。ボクは以前、東京新大学リーグを観戦するため、岩槻川通り球場や県営大宮球場に向けてMTBを走らせたものだった。その第1の理由は、埼玉の高校出身の選手たちが多い東京国際大のゲームを見るため。第2に古葉監督が就任した東京国際大のゲームを見るため。第3に流通経済大の選手だった神戸拓光(現・ロッテ)の長打を見るため。そして第4に創価大の脇山渉(現4年、愛工大名電高)の巧打を見るため。最近は観戦する機会がなくなったけど、東京国際大が優勝するなんて隔世の感がある。■古葉さんは就任当初、「斎藤君のいる早稲田と神宮球場で戦いたい」と抱負を語っていたが、1年だけ遅れてしまった。せっかく神宮出場(全日本大学野球選手権)を果たしたものの、すでに早稲田に斎藤佑樹(現・日本ハム)はいない。ただ古葉さんにとって、東京六大学リーグの代表・慶應義塾大にも浅からぬ縁がある。古葉さんがプロ入り前はノンプロ・日鉄二瀬でプレーしていたが、その時チームメイトだったのが現慶應監督・江藤省三さんの兄・江藤慎一さんだった。さらに東京国際大のコーチを務める息子・古葉隆明さんは慶應OB。隆明さんは広島城北高卒業後、二浪して慶應義塾大に進学し野球部に入部した。当時は、ほかの2人の選手とあわせ「二浪三羽烏」の異名を取った。92年秋季リーグ戦には、外野手として東京6大学リーグのベスト9に選ばれるほどの実績の持ち主だ。ちなみに、その当時ライバルの早稲田大には仁志敏久がいた。1日1クリックお願いします
2011.05.31
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遅まきながら、本年もよろしくお願いいたします。私は年末年始に故郷の花巻に帰省し、恒例により花巻東グラウンドへ詣でました。前夜に雪が降り、土が最悪の状態で残念でしたが。さて新聞報道によれば、花巻東OBで、3年前にカット打法で話題を集めた千葉翔太(現・日本大)が、今秋のドラフトでプロ入りを目指すとか。卓越した打法でぜひ実現してほしいのですが、気になるのは157cmの低い身長。調べると、かつて150cm台のプロ選手は、高橋ユニオンズや国鉄スワローズの監督を歴任した浜崎真二氏だけのもよう。このかたは平和台事件の主審としても有名ですが、数々の最高齢記録の保持者でもあったし、殿堂表彰者でもあります。千葉選手にも、浜崎氏を目指してプロで末永く活躍してほしいものです(^_-)-☆[訂正]平和台事件の主審は、浜崎真二の実弟・忠治でした。訂正してお詫びします。<関連記事> イヤらしさ増量! 日本大・千葉翔太(写真)花巻東時代の千葉翔太。2013年夏の甲子園準決勝(対延岡学園)~NHK~(写真)花巻東野球部グラウンド。
2017.01.09
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6月28日付の朝日新聞埼玉版に、中野春樹さんが「東京学芸大監督」の肩書とともに紹介されていました。中野さんと言えば、1995年夏に激戦区埼玉を制し公立の越谷西を甲子園に導いた名将として知られています。この当時は埼玉の勢力分布が公立から私立へ重点を移す端境期でした。越谷西以降は記念大会を除き公立校の甲子園出場はありません。思い出すのは2006年のこと。越谷西から春日部東へ異動した中野さんは息子・雄太投手とともに甲子園を目指す、まさに「春日部東の父子鷹」でした。たしか春は県大会を順調に勝ち進み、決勝はエース・増渕竜義(のちにヤクルトほか)を擁する鷲宮と息詰まる熱戦を演じました、結局惜敗しましたが。途中から救援した増渕は春日部東打線に攻め立てられて、マウンド上で仁王立ちして「行くぞー」と気合を入れていた姿がとても印象的でした。さて、中野さんは昨年から氏の母校・東京学芸大の監督をされていたのですね。ボクは新聞を読むまで知りませんでした。実は新聞掲載の数日前、国公立大戦・東京工大ー東京学芸大の試合(一橋大G)を観戦していました。その際、たまたま東京学芸大のベンチを写真撮影したのですが、ここに映っていたのが中野さんだったようで、たぶん。秋季リーグ戦は東京工大の東都4部優勝を願うとともに、東京学芸大の東京新大学2部優勝をお祈りします。
2017.07.12
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前回の続き。今日は横浜・松本啓二朗(千葉経大付高-早稲田大)の父・吉啓氏の大学時代のこと。1976年夏の甲子園、桜美林高を優勝に導いた松本吉啓は、東京六大学リーグの明治大に進学した。その明治大では3度のリーグ優勝を経験したのだが、松本自身がどんな成績を残したのか、ボクにはまるでわからなかった。ただ、一つだけわかったことは、1980年に開催された「第9回日米大学野球」に投手として選出されていたこと。代表選手になるのは、それなりに実績があるからだろうが、不思議と実績を示す情報が見つからないのが残念。ちなみに、この日米大学野球の他のメンバーたちがスゴイ。明治大・平田勝男(現・阪神二軍監督、長崎海星高)亜細亜大・大石大二郎(現・オリックス監督、静岡商高)中央大・高木豊(元・横浜、多々良学園高)東海大・原辰徳(現・読売監督、東海大相模高)法政大・西田真二(現・四国九州IL/香川監督、PL学園高)法政大・武藤一邦(現・成城大野球部コーチ、秋田商高) ほかまた、その当時、東京六大学リーグでは次の選手たちが活躍していた。法政大・・・江川卓(元・読売、作新学院高)、袴田英利(現・ロッテコーチ、静岡自動車工高)、高代延博(現・WBC日本代表コーチ、智弁学園高)、金光興二(現・法政大監督、広島商高) ほか早稲田大・・・山倉和博(元・読売、東邦高)、岡田彰布(元・阪神監督、北陽高)ほか慶應義塾大・・・玉川寿(土佐のサイクル男、土佐高)ほか立教大・・・野口裕美(元・西武、米子東高)ほか ぜひ1クリックをお願いします
2009.03.04
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Number webに「NHK甲子園・人気解説者が語る”忘れられない試合”」という記事を見つけた。 人気解説者とは、元・米子東監督の杉本真吾さんのこと。そして、杉本さんの”忘れられない試合”のひとつに2006年夏の光星学院ー関西戦で見た光星・坂本勇人の一振りがあったという。 当時話題をさらった関西のエース、ダース・ローマシュ匡(のちに日本ハム)の直球を鋭いスイングでバックネットに突き刺さるようなファウルを打ったが、杉本さんは打球の凄さに衝撃を受け、将来の活躍を確信したという。たったその1シーンだけで選手の将来性を判断できる眼力は大したもの。事実、テレビ解説でも結果論を言うのではなく、都度はさむコメントは洞察力に優れて定評があるという。 独特のくぐもったような声、そして喋る言葉数が多いものの煩く感じないのは、コメントに卓越した説得力があるからだろう。NHKの解説者にはアマ野球界において長年指導者として経験を積んでこられた方が多いけれど、この人は米子東高の監督して活動したのはたった2年間だけ。wikipediaによれば1999年にNHK米子放送局にて高校野球を解説したことが契機となって、2006年に全国放送に昇格したと。プレーや指導者としてではなく「独特の洞察力とコメント力」でこのポジションまでのし上がってきた異色の人物のようだ。※米子東時代には1度だけ捕手として甲子園に出場した。昭和58年夏、野村浩巳とバッテリーを組み初戦を学法石川と対戦したが、延長10回表に添田貴司(当時2年)の本塁打を打たれスコア1-2で惜敗した。ちなみにこの大会で優勝したのは桑田・清原らを擁したPL学園だった。高校卒業後は一浪して慶應義塾大に進学。公式戦に出場した記録はないようだが、同期には”幻のドラフト1位”志村亮がいた。(写真)NHKより。
2022.08.16
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前回書いた「松本啓二朗の父・吉啓氏の大学時代?」の続き。松本吉啓氏の明治大時代のことはあまり分からなかったのが残念だったけど、卒業後に明治生命に進み全国制覇、その後、1992年頃(?)に岩手・盛岡大学野球部の監督に就任した。盛岡大では4年間監督を務め、北東北大学リーグの2部に低迷していたチームを95年春に2部で優勝させ、入替戦にも勝利し1部昇格に導いたようだ。※当時、長男・啓二朗(現・横浜、千葉経大付高-早稲田大)は盛岡市にある少年軟式野球チーム「青山スワローズ」で活躍していたようだ(小学校1年~4年まで)。そして97年8月に埼玉栄高の監督に転身、98年夏と00年センバツの2度、チームを甲子園に導いた。忘れられないのは98年夏。主砲の大島裕行(当時2年、現・西武)が、初戦の対沖縄水産高戦で新垣渚(現・ホークス、九州共立大)から、逆転勝利を決める特大本塁打を右中間に放ったシーン。実力的にも、そして栽弘義監督(故人)のネームバリューからも、埼玉栄高が不利と思われていたが、大島の本塁打がその前評判を見事に覆してみせたのだから。01年秋、県大会で8強の壁を破れないでいた千葉経大付高の理事長・佐久間勝彦氏から「日本一の野球部を作ろう」と声をかけられ、同校の監督に就任した。朝日新聞に、当時のことを紹介した記事があった。当時の千葉経大付の野球部は総勢18人。千葉市若葉区にある同校グラウンドの草むしりから始めた。「練習量より心が大事」として、練習時間は2時間までとした。松本は現役の時、桜美林は朝から晩まで厳しい練習をしていたため、多くの部員が退部した。「練習時間が長くなると力のない子はどこでさぼろうかと考えて、練習に来るのが嫌になって、いずれ辞めてしまう」限られた時間の中、「長所を伸ばす練習」をする。打撃に自信がある部員には徹底的に打つ練習をさせる。代打で試合に出場できるかもしれないからだ。一つの長所からレギュラーを獲得する選手も数多く出てきた。「選手が希望を持って練習できるようにする。結果として甲子園につながる」その指導法が効を奏してか、就任後、チームは4度も甲子園に出場。そのうち2度はベスト4入りを果たした。特に04年夏の3回戦で、長男・啓次朗をエースにダルビッシュ有のいる東北高を延長10回の末に破った試合は名勝負だった。その後、次男・歩己(現・早稲田大2年)とも甲子園出場を果たし、原貢・辰徳親子を凌ぐほどの「父子鷹」ぶりを見せている。 今日も1クリックお願いします
2009.03.08
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あまりにあっけない得点シーンだった土曜朝、ボーッとした頭でテレビを見ていたボクにとって、いったい何があったか理解するのに多少時間がかかった。それほどに、ほんの一瞬の出来事だった。■常葉菊川高 6-5 福知山成美高■ 常葉菊川 000 000 020 = 2 福知成美 000 000 100 = 1ヤンキース風のユニフォームを身にまとい、いまや甲子園の常連高となった常葉菊川高。1点を追う8回表の攻撃でドラマは起きた。一死一・三塁で、打者は1番・酒井嵩裕。福知山成美高・植田秀志投手が4球目に選んだのはスライダー。その時、一塁に代走で出場していた松本拓也がスタートを切った。松本の試合後のコメントでは、どうやら「ノーサインで走った」らしいが。福本匠捕手は迷わず二塁に送球をする。たぶんこの場面、ショートがカットに入るはずだった。ところがショート、セカンドともに見合う形でベースカバーに入らず、捕手からの送球はセンターに転々・・・。三塁走者が生還、一塁走者だった松本は一気に三塁に向かう。さらに三塁ベース手前で「外野からの返球が緩く見えた」ため、一気に三塁ベースも蹴って本塁に突っ込んだ。 本塁への返球は、福本捕手の頭上を大きく越えて悠々のホームイン。あっという間の逆転、しかもこのワンプレーが常葉菊川高に勝利を呼び込んだ。先ごろ部長から監督に就任した常葉菊川高・佐野心氏のコメント。「次の塁を狙う走塁は、いつも練習でやっていること」と淡々。福知山成美高・植田投手のコメント。「負けた気がしない・・・」-------------------------------------------------福知山成美高、このプレーには不運な伏線があった。本来のショート・杉本聖和が6回に死球を顔面に受けて負傷退場。7回からは別の選手が代わって守備についていたこと。常葉菊川が「(好走塁は)走塁の練習はいつもやっていたから」と言うのと同様に、福知山成美の内野陣だって、いつも練習でやっていた連携プレーに違いない。 ほんのわずかの「間」の違いが勝敗を分けた。1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング
2008.08.09
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1948年(昭和23年)は、3組の強打コンビが誕生した。新人別当薫が藤村富美男と並ぶ阪神、合併で大下弘と小鶴誠が組む急映、川上哲治と阪急から復帰した青田昇が揃う巨人である。 とりわけ話題が集まったのは、慶大出の別当薫だった。(この名前を聞くとボクは「HOYAバリラックス2」という眼鏡のCMを思い出すけれども・・・)。この別当は、阪神監督の若林忠志に自ら志願して入団した変わりダネだった。そもそも別当は少年時代、阪神の長距離打者・景浦将の豪快なバッティングに魅せられたひとり。阪神に志願したのは、景浦への思慕でもあった。 景浦同様、別当の打撃も豪快だった。さっそく春のオープン戦9試合で6本塁打、46打数22安打の活躍を見せた。ファンも別当が打席に入るとホームランを期待する歓声が球場に溢れ、ヒットでは嘆息が漏れた。慶應ボーイらしいスマートで知的な印象、当時のスラッガーとして名を馳せた大下とは違うタイプで人気を二分した。 また、ボクは知らなかったけれど、投手もやる”二刀流”でもあった。慶應大卒業後に社会人野球「全大阪」に入団、47年の都市対抗に出場すると、投手としてチームをベスト4にけん引した。しかし準決勝では別当が温存され、その結果チームは敗れた。この敗戦の悔しさがプロに進むキッカケになったと言われる。(写真)社会人チーム「全大阪」時代の別当薫投手 ~『激動の昭和スポーツ史 社会人野球』(ベースボール・マガジン社) 木塚忠助も、48年に南海に入団し大いに注目された遊撃手。のちに当時南海自慢の”百万ドルの内野陣”を形成した。大和球士さんは木塚を”バカ肩”と評した。そして曰く「従来の遊撃手の守備範囲の常識をやぶり、左翼手の守備範囲とさえ思われる地点まで打球を追って拾い上げるや、バカ肩一センすると投球は一塁手のグローブにノーバウンドで達した」と。 さらに、「わがプロ野球が昭和11年に開始されて以来、これだけの超強肩遊撃手は出たことがなかった。比肩する選手さえいなかった」と言い、大和さんは最大級の賛辞を送った。wikipediaには、こんな記述があった。「三塁手の定位置を守っていた鶴岡一人の股間を抜けた打球を一塁に遠投して刺した」と。どれだけ凄い遊撃手だったか、この一文だけで分かろうと言うもの。ボクは個人的に思う、野球の花は遊撃手のプレーだと。そして遊撃手の花は、三遊間深くに飛んだゴロを一塁で刺すプレーなのだと。(写真)南海・木塚忠助 ~『激動の昭和スポーツ史 プロ野球』(ベースボールマガジン社)より。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー今から75年前、1945年(昭和20年)11月23日、終戦から3か月後、神宮球場でプロ野球が復活しました(東西対抗戦)。まだ、生きていくことや食べることさえままならない時であっても、やっと開幕した野球に触れたいと願う多くの人たちが集まりました。今は新型コロナウイルス禍で野球を見ることが出来ませんが、いつか75年前と同様、晴れ晴れとした表情で球場に足を運ぶ日が来るでしょう。その日を夢見て、今は辛抱ですね。 「この試合(終戦から3か月後に行われた東西対抗戦)、終戦直後の大混乱期に開催されたにもかかわらず、4万5千人の大観衆が詰め掛けた。神宮球場で行われるのは1942年(昭和17年)以来5年ぶりではあったが、内野席を超満員にし、外野席も7割がたが埋まったという」 「一体どこから4万5千人もが集まってきたのであろうか。(中略)単純な野球愛というよりは、敗戦から立ち上がろうとする日本人の活力の発露と見る。野球人に強靭な精神力があったことは頼母しく、日本人に祖国再建の活力がみなぎっていたことはいよいよ頼母しい限りである。野球人、野球ファンが『ニ位一体』となって野球復活は快速調に進むことになる」 (『真説・日本野球史』(大和球士著、ベースボール・マガジン社刊より) 激動の昭和スポーツ史 1 プロ野球 上【中古】在宅勤務など家で過ごすことの多い今だから、ゆっくりと靴でも磨いてみてはいかがでしょう。 ストレスを解放して心を落ち着かせ、あらたな活力が湧く効果が期待できます。
2020.04.21
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いまNHKのテレビを見ていた。番組では、読売・高橋由伸(桐蔭学園高-慶応義塾大)のここ3か月を追いかけた特集が組まれていた。これまで、軸足の左足に体重を残した打撃をしていたが、右足を踏み込んだときに、その右足に体重が乗る打法を心掛けその練習を繰り返していた。そして、その成果がさっそく開幕戦で現れる。対横浜1回戦。1番打者の高橋は、相手エース・三浦大輔(高田商高)が放った初球を叩き、右翼スタンドに「初球本塁打」を放った。スタジオでそのVTRを見ていた大野豊(出雲商高-出雲市信金)さん。自身がプロ野球を引退する契機となったのは、「当時ルーキーだった高橋由伸に本塁打を打たれたことだった」と、そう語っていた。そんな世代交代のキッカケとなるシーンは、プロ野球にままあることのようだ。「怪物」江川卓(作新学院高-法政大)。今でこそタレント業に勤しんでいるが、選手時代は「怪物」と評された。そして87年、対広島戦で大学の後輩でもある広島・小早川毅彦(PL学園高-法政大)に右翼スタンドに本塁打されたことを機に引退を決意した。世代交代が厳しいプロ野球の世界。引退を決意する瞬間。そんなヒトコマが、これまで引退した選手一人ひとりの記憶に必ずあるのだろう。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.04.01
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ドラフトの目玉、新日本石油・田澤純一(横浜商大高)が都市対抗の準々決勝に登板、完璧な投球を見せ、チームを準決勝に導いた。スコア0-0で迎えた7回表、一死満塁のピンチに登場。最初の打者をフルカウントから、148kmの直球を高めに放り完全なボール球を振らせ、空振りに仕留めた。次打者も、球威に負けてボテボテの投ゴロ。結局、勝利を決めた9回まで投げ続けた田澤、140km台後半の直球と大きく曲がる変化球を駆使、打者8人、被安打0、与四死球0、奪三振4と完璧な投球を見せた。テイクバックの際、タイミングが独特なため、余計に打者にとって打ちずらいのかもしれない。JFE東日本打線のタイミングがあまりに合わないため、ボクはそう思うしかなかった。---------------------------------------------------この試合を見ていて、懐かしい顔を見かけた。新日本石油監督の大久保秀昭氏(桐蔭学園高-慶應義塾大-日本石油)。試合終盤、ベンチからしかめっ面で戦況を見つめる大久保。その姿を見て、近鉄バファローズ時代の彼の姿を思い出した。96年、ドラフト6位で近鉄に入団。同期入団の磯部公一(現・楽天)と正捕手を争ったが、2人ともその座につくことはなく、早々に「代打屋」に転身した大久保。 当然、活躍の場は試合の終盤だった。常に「やる気まんまん」のオーラを身体中から発散させ、巧みにヒザでリズムをとる姿を、いまでもボクは鮮明に憶えている。-------------------------------------------------------- 今日の試合、唯一の1点を挙げたのは新日本石油の平馬淳(東芝からの補強選手、横浜高-法政大-東芝府中-東芝)だ。田澤が無得点に抑えた直後の7回裏、走者を一・三塁においてキッチリとセンターに飛球を打ち上げ、決勝点となる1点を叩きだした。この平馬、大久保監督と同様、アマチュア野球界の王道を歩んだ。本職はショート。だれもがプロに行くと思っていたが、なぜか指名されず気がつけば年齢は33歳になっていた。とても野球センスも高い選手だったのに・・・。今後は、社会人チームの指導者を目指していくのだろうか?---------------------------------------------------------そういえば、JFE東日本の選手の中に、昨年の法政大主将・大澤裕介(作新学院高)を見つけた。この大澤も昨年のドラフトで指名を待っていたが、声がかかることはなかった。この時のことを、スポーツ法政(2007.11.29号)が伝えている。(今の心境はいかがですか)「こんなもんかなって感じっすね。でもまぁ、行けるとは思ってなかったんで、ここまで注目されて嬉しいです」(進路は)「JFE東日本です。あとは卒業しないと(笑)。卒論書けば大丈夫です」(今後の目標を教えてください)「まずは試合に出ることです。プロは意識しないようにして、チームとして都市対抗で優勝したいですね。レギュラーを目指します」(最後に法大野球部に残したい言葉はありますか)「やっぱり早稲田には勝ってくれってことですね。優勝してもらいたいです。」 1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング
2008.09.06
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神宮球場を本拠地にする両校の決勝。優勝は亜細亜大。さすが「戦国東都」を勝ち抜いたチームだ。《明治神宮大会》大学の部 決勝戦■亜細亜大 5-2 早稲田大■亜大 031 100 000 =5 早大 110 000 000 =2 早大・宮本賢(来季から日本ハム・4年・関西高)、亜大・糸数敬作(4年・中部商高)。両先発投手ともに、出足はよくなかった。そんな時、ゲームの流れを決めたのは2回表に3点本塁打を放った三澤慶幸(4年・日本航空高)。この流れを、糸数が完投で最後まで守り続けた。三澤慶幸。高校は山梨県の日本航空高。日本ハムの八木智哉(創価大)の一学年後輩。01年夏と02年夏の2回、甲子園に出場している。01年は八木とともに一塁手として出場。1回戦は鳴門工高を、2回戦は宜野座高をそれぞれ破り3回戦に出場したが、3回戦はこの大会で優勝した日大三高に1-7で敗れた。そして02年。好投手・西村健太朗(現・読売)と白濱裕太(現・広島)のバッテリーを擁する広陵高に1回戦、2-3で惜敗した。三澤は三塁手として出場していたようだ。話は変わるけど、亜大の3番・中田亮二(1年・明徳義塾高)は面白いキャラクターを持った選手だ。171cm、115kg。体格からして足が遅くて動きも緩慢そうだが、50m走は6秒5で見た目ほど遅くないし動きも俊敏。西武のおかわり君こと中村剛也(大阪桐蔭高)に雰囲気が似ている。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.11.15
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今日行われた準決勝、第1試合。日本文理高vs県岐阜商高戦。県岐阜商 000 000 001 =1日本文理 000 011 00X =2(県)山田、(日)伊藤 両投手、見事な投球だった。そしてほんのわずかな差で日本文理高が勝利を勝ち取り、新潟勢としては初の決勝進出となった。印象的だったのは9回表、二死一塁の場面に代打で登場した県岐阜商・古川隼也(3年)のこと。 彼の気持ちを込めた一打はレフトオーバーの二塁打に。チームにとって貴重な1点を奪うことができた。二塁ベースに立った古川、目から涙が溢れるシーンをテレビカメラがアップで捕らえていた。ヒットを打てた嬉しさはもちろん、それ以外にも、これまでの悔しいことやら苦労したことなど、様々な思いが脳裏に甦ったんだろうな、とボクにはそう思えた。--------------------------------------------------------------- さて、話は変わる。途中から見たこの試合だったけど、ボクは二塁塁審の顔を見て、「あれは、堅田さんじゃなかろうか」と思った。それは堅田外司昭さんのこと。先日見たNHKテレビ『にんげんドキュメント』~球児たちの延長戦25年目の星稜対箕島~』に出ていたので、よくその顔は憶えている。昨日(8月22日)のブログで書いた1979年夏の甲子園、星稜高のエースはこの堅田さんだった。延長18回、208球をひとりで投げ抜いたが、結局敗戦投手となった。そして今、パナソニックに勤務する傍ら、高校野球の審判も務めている。1979年、夏の甲子園3回戦。(延長18回)星稜 000 100 000 001 000 100 =3箕島 000 100 000 001 000 101X=4そしてその後、この試合で主審を務めた永野元玄さんと堅田の間にドラマがあった。試合終了後、永野さんは選手が退出する出口で堅田を待った。そして、堅田を見つけると、この試合で使っていたボールを一個手渡したのだ。主審が投手に記念ボールを渡すことなど滅多にない。でも、延長18回を投げ抜き、そして敗れた堅田に主審自身が感情移入したのには理由がある。それは(疲労で)堅田の球威が落ちてくるのを間近かで見ていた目撃者だったから。■『スローカーブを、もう一度』(山際淳司氏、角川文庫)に、永野さんのコメントがある。「私のベルトのところには、、ボールを入れる袋が下がっていまして、そこにはいつも4個のボールを入れているんです。ニューボールもあれば、一度使ったボールもある。ここぞという局面で、ボールを交換するときは、私は使い古したボールを渡すようにしている。新しいボールは滑るからです」「そして18回の表に星稜は得点機を逃して、その裏、つまり、18回の裏の堅田君の一球目を見て、私は点が入るかもしれないと思いました。予感がするんですね。私は投げやすいボールを渡したはずです。でも、球が死んでいた。17回までの堅田君の投球とは明らかに違うんですね。疲労がたまっていたのかもしれません。すべての球が死んでいました」 結局、箕島は延長18回に適時打が飛び出して勝利を決めた。甲子園、審判と選手にもいろいろなドラマがあるものだ。--------------------------------------------------------------◇ 「ボクにとっての日本野球史」 (2009.7.1)、 INDEXはこちらへ。今日も1クリックお願いします
2009.08.23
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◇今日の時事ニュース◇・新車国内販売27%減、39年ぶりの低水準を記録・「麻生首相では戦えない」自民党内懸念。政権2か月で内閣支持率が失速状態・<流行語大賞>「アラフォー」「グ~!」「蟹工船」「後期高齢者」「上野の413球」ほか 今日の日刊ゲンダイ。先のドラフトで広島から2位指名を受けた中田廉(広陵高)のことを紹介していた。中田のプロフィールは、次のように記されていた。「1990年7月21日、大阪生まれの18歳。小4の時、叔父と行った西武キャンプでで松坂大輔(現・レッドソックス、横浜高-西武)を見て野球に開眼した。今夏の甲子園で大会最速148kmをマークし注目を浴びた」この叔父とは、近鉄や西武に在籍した村上隆行氏(現・関西独立リーグの大阪ゴールドビリケーンズ監督)のこと。中田廉の母・恵子さんの妹が村上氏と結婚したため、廉と村上氏は甥と叔父の関係にあたる廉の「野球つながり」は村上氏との関係だけではない。父親は野林大樹氏。近鉄ファンだった方なら記憶にある名前かもしれない。87年、大型内野手として期待され3位指名を受けて、近鉄に入団した選手だった。ただプロではさしたる実績を残せず広島-近鉄-ヤクルトを渡り歩き、引退後は生命保険会社の営業マンとして第2の人生をスタートさせた・・・はずだった。だが廉が小5の時、父である野林氏はいきなり音信不通になる。そんなことがあって離婚を決意した母・恵子さん、野球好きだった廉に言った。「野球選手になるなら、お父ちゃんを超えないかんで。父ちゃんみたいに逃げたらあかん」中田廉。今年夏の甲子園にエース格の投手として出場している。1回戦は高知高をスコア8-5で降したものの、2回戦で左腕・土屋健二(日本ハム・4位指名)を擁する横浜高に4-7で敗退した。チームメイトには、明治大進学予定の上本崇司がいた。※上本崇司・・・今秋のドラフトで阪神から3位指名を受けた早稲田大・上本博紀(広陵高)の実弟。-------------------------------------------------------------中田廉の母親の妹が村上隆行氏と結婚した、そう聞いて気づいたことがある。それは、村上氏の妹は中村紀洋(近鉄-オリックス-中日-楽天)と結婚していたはずで、中田廉と中村ノリは遠縁にあたるということだ。(なんだか頭が混乱してきた・・・) いずれにせよ、中田廉は野林大樹、村上隆行、中村紀洋ら近鉄バファローズのOBたちと縁のある選手といえる。これは応援するしかないと思うのだ。1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング
2008.12.02
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そうですか?別の報道によると、読売は「早実の斎藤と駒苫の田中、両方が欲しい」と言っているらしい。加えて、「斎藤くんはアナウンサーも希望のひとつというから、野球がだめだったら系列TV局のアナになってもらってもいい。上重アナ(PL学園-立教大-読売グループ)もいるし」。相変わらず、わけのわからない球団だ。これでボクが知る限り、読売と横浜の2球団が「斎藤獲り」に手を挙げた格好。他の球団もリストアップしているかもしれないが、2球団とも親会社がメディアというのがいやらしい。勝ち負けもさることながら、視聴率が大事なお家の事情を抱えている。松坂がプロデビューしたときの喧騒を再現したいだけじゃないの?そう思ってしまう。斎藤の実力ではなく、「客寄せパンダ」的な人気が欲しいだけだと。もしそうだったら、斎藤は潰されてしまう。昨秋までの斎藤の印象が強いため、上出来だった今大会がフロックにも思える。プロを目指すなら早稲田に進学して、鍛え直してからでも遅くないと思うよ。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.08.24
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前回の続き。■1969年(昭和44年)10月26日、日本シリーズが開幕した。このカードは阪急-巨人。阪急の西本幸雄監督は開幕前、「今年は三度目の正直、是が非でも巨人を倒したい」と語っていた。しかし、その意気込みが裏目に出たか、阪急が1勝2敗で迎えた第4戦にとんでもない事件が起きた。日本シリ―ズ史上初の退場事件である。4回裏、巨人の攻撃中だった。無死一・三塁の場面で長嶋茂雄がフルカウントから空振り三振すると、その時、走者の土井と王がダブルスチールを敢行した。この時の模様は、大和球士さんが著した『野球百年』(時事通信社)に詳しい。「捕手岡村-二塁手山口-捕手岡村の転送球は正確に行われ、岡村は左足でホームベースをブロックしながら、土井にタッチした。岡田主審の判定は、-セーフしかし、スタンドからは、土井が岡村の体当たり的タッチでライン外に跳ね飛ばされたように見えた。アウトと信じ込んだらしい岡村は、セーフの判定をした岡田にとびかかり、左手でアゴへ一発。-退場!その瞬間、監督西本が岡村の身体を抱きかかえたところをみると、西本も随分早くダッグアウトをとび出したようであった。怒髪天をつく勢いで抗議する西本、セーフの判定について説明する岡田、退場命令にもかかわらず何度も岡田につっかかる岡村。スタンドは怒号のるつぼと化し、ただただ騒然となるばかりであった。 (以上、『野球百年』)■しかし、もちろん判定が覆ることはなかった。そして岡村浩二が退場したため、捕手は中沢伸二が起用されるも、阪急のリズムは狂い始め、この回だけで6点を失い第4戦を落とす。さらに先回りして言うと、阪急は次の第5戦に一矢報いるも第6戦に敗れ、結局、念願の日本一になることはできなかった。試合後、岡田功主審はこのように語った。「土井の足が、ブロックした岡村の間にはいったのをこの眼で見ました。私は自信をもって判定しました。岡村が私の身体をついたので退場を命じましたが、彼はその後、二発も私のアゴをなぐりました」。(10月30日、第4戦、後楽園球場)阪急 011 101 000 =4巨人 00 0 602 10X =9(版)●宮本幸-大石-戸田(巨) 高橋一-渡辺秀-城之内-金田―○堀内■巷では、退場を言い渡された岡村に同情し、岡田主審を批判する声が高まった。 きっとその夜の酒場では、岡田の判定を酒の肴に「あれはアウトだろ~」と無責任な会話があちこちに溢れていただろう。しかし翌朝、新聞を読んだ人は皆一気に目が覚めたに違いない。各スポーツ新聞が問題のクロスプレイの写真を掲載していた。それは、土井の左足が岡村にタッチされて跳ね飛ばされる前にホームベースに触れていた瞬間を捉えていたのだ。岡田主審の判定が正しかったことが証明されたのである。残念ながら、ボクはこのプレーをリアルタイムで見ていない。後になってアニメ『巨人の星』(だったか?)を見て知った。そのアニメに登場した岡田さんの、なんと格好よかったことか。自宅で新聞を見、「私は正しかった」とか言って、人知れず涙を流していたんだ・・・。 (写真)岡田主審の判定が正しかったことが証明された写真。走者は巨人・土井正三、捕手は阪急・岡村浩二。~『激動の昭和スポーツ史 プロ野球(下)』 (ベースボール・マガジン社)~■実は第4戦のトラブルには続きがあった。8回裏、退場した岡村に代わった中沢に代打が出されため、岡田幸喜が3人目の捕手として守備に就いた。そして、打者末次利光と堀内恒夫の時に計3回、サイン違いと称して投球をわざと捕球しない主審への嫌がらせをやったのだ。このシーンは後になって、何度もテレビで放送された。西本監督の指示だったとは思わないが、ならば岡田の単独行動だったか・・・?巨人・川上監督は、11月3日付読売新聞掲載の手記で岡田のプレーに触れていた。「岡村浩君の行為はわからないではない。しかし、あとで阪急がとった行為を私は責めたい。捕手が故意にボールを後逸して審判に当てつけるあの行為を見て、私は阪急にチャンピオン・フラッグを渡すことはできないと気負った」と述べた。■あ、そうそう。この第4戦にはもうひとつ逸話があった。「8-4と巨人がリードした7回表、この回からマウンドに上がった金田(正一)が、無死、石井に中前安打され、続くウィンディに右越え二塁打されると、一塁側ダッグアウトから川上監督が出てきて、『交代投手堀内』と主審に告げた。この時、マウンドにあった金田は、スコア―ボールド(スコアボード)右側、巨人メムバー(メンバー)、9番打者投手金田のランを遠望しながら、自分の名札に正対して、『・・・金田はこれで投手をやめます』と、心の中で宣言した。一代男金田の寂しい引退宣言であった」。(『野球百年』)
2014.01.14
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一昨日、「代打は初球から行け」という(ジンクス)は本当か?の検証を片手間に(?)試みた その後、みぢえさんからもヒントをもらい、調子に乗って、野球界のジンクスに挑み始めた「あま野球日記」。今日のお題は、「四死球で出塁したあとの初球を狙え!」は本当か?対象とする試合は、今日の「横浜vs日本ハム」「読売vsロッテ」の2試合を(無作為に)抽出した。下記選手は、前の打者が四死球で出塁した直後の打者たち。【横浜】小関竜也(國学院栃木高) 1球目:スイング 結果:ファールフライ【日本ハム】高口隆行(創価高-創価大) 1球目:見逃し(ボール) 結果:一ゴロ陽 仲壽(福岡第一高) 1球目:見逃し(ボール) 結果:投ゴロ高口隆行 1球目:見逃し(ストライク) 結果:右前ヒット※陽 仲壽は犠飛のため、調査サンプルから除外。小谷野栄一(創価高-創価大) 1球目:見逃し(ストライク) 結果:守備妨害【ロッテ】今江敏晃(PL学園高) 1球目:見逃し(ボール) 結果:二塁打※早川大輔(県・船橋高-立教大)は犠打のため、調査サンプルから除外。 根元俊一(花咲徳栄高-東北福祉大) 1球目:スイング(空振り) 結果:三ゴロオーティズ 1球目:見逃し(ボール) 結果:二塁打【読売】ゴンザレス 1球目:見逃し(ストライク) 結果:右前ヒット亀井義行(上宮太子高-中央大) 1球目:スイング(ファール) 結果:二塁打 ≪まとめ≫1)上記2試合において、 前の打者が四死球で出塁した後に打席に立った打者数 = (のべ)12人2)調査対象選手 = 11人(※ほか1人は犠打のため除外)3)初球を「振った」:「見送った」比率 = 3人:8人4)初球を振った打者の結果 = 3打数1安打、打率3割3分3厘 初球を振らなかった打者の結果 = 7打数4安打、打率5割7分1厘思ったより、初球を見逃す例が多かった。そして初球を見逃したケースの方が打率が高かったのも面白い。何より興味深いのは、前の打者が四死球で出塁した後の打者の成績。10打数5安打で、打率が5割と高打率であること。以下、「あま野球日記」の新(珍)説「前の打者が四死球で出塁した後は、ともかくバットに当てればヒットになる確率は高い!」≪選手ごとのデータは、ヤフースポーツ「一球速報」から引用≫ -------------------------------------------------------------昨日、早明戦の記事を書いたところ、タンチェンさんからコメントをもらった。「また上本率いるチームが岩田率いるチームに負けてしまいましたね...上本の甲子園連続打席出塁を止めた岩田だったが衝撃的で結構記憶に残ってて、再戦を楽しみにしてたんですが、また完敗でしたね...」?????広陵高・上本博紀(現・早稲田大4年)と東邦高・岩田慎司(現・明治大4年)が甲子園で対戦していたのか?ボクはまるで知らなかった。さっそく調べてみたところ、2004年のセンバツ・1回戦で対戦していたことがわかった。広陵 000 100 000 =1 東邦 300 051 00X =9【広陵】津田、大西、藤川-上本【東邦】岩田-南部、水野岩田慎司は9回を投げ、被安打6、奪三振8、与四死球3、失点1。チームメイトには末藤一樹(現・立教大3年)らがいた。一方、広陵高の上本博紀は3番・捕手で出場していた。ちなみに広陵高の先発は津田導(現・立正大4年)だった。1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング
2008.05.20
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戦場への出陣直前、選手たちに「最後」の野球(=早慶戦)をやらせてあげたい一心で、奔走する飛田穂州(すいしゅう、本名:忠順)。軍部の意向を受け、早慶戦の開催を断固として拒否する早稲田大・田中穂積総長との対立。映画『ラストゲーム 最後の早慶戦』を見た。映画を見て、ボクは初めて知ったことがあった。それは、慶應義塾大からの誘いに対し埒のあかない早大当局に業を煮やした飛田穂州(早稲田大野球部顧問、当時)が、独断で試合を決行したということ。俳優・柄本明が演じる飛田先生は「朴訥」な「熱血漢」。決して器用ではなさそうだけど、「野球の指導者」として、そして「教育者」としての信念を貫き続ける人に見えた。----------------------------------------------------------------試合終了後の早慶両校のエール交換で、映画のクライマックスを迎える。双方が一緒になって歌う校歌・応援歌に、ボクは大いに感動した1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング
2008.09.06
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