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昨夜、このブログを書きながらケーブルTVで「スカイA」を見ていた。元阪神の湯舟敏郎氏(大阪・興国高-奈良産業大-本田技研鈴鹿)が司会を務め、阪神の新人選手らを招いてトークをする番組だった。そして、湯舟氏とともにソファに深く腰掛ける、ホスト役の「頭の禿げ上がった」オジサンが、ゲストの選手にモノを申していた。わりとハッキリとした物言いをする人物。いったい誰だ、このオジサンは?しばらく考えていた。すると「ね、キドさん」と、湯舟がそのオジサンに語りかけた。キド・・・木戸・・・木戸克彦??? えっ~? 学生時代、神宮で大学野球をよく見た。その学生の頃の、木戸と法政大野球部のことを思い出した。当時は、ちょうど法政が全盛の頃。たしか打順はこんな感じだった。1番 銚子利夫 (市立銚子高。卒業後、横浜)3番 西田真二 (PL学園高。卒業後、広島)4番 小早川毅彦 (PL学園高。卒業後、広島)5番 木戸克彦 (PL学園高。卒業後、阪神)このオーダーはとてつもなく強力であり、とりわけ木戸はシュアな打撃と、並み居る投手陣をリードする女房役としても活躍。なんとベストナインを5度も獲得していた。 おもな投手陣。田中富生(愛媛・南宇和高。卒業後、日本ハム)川端順 (徳島・鳴門高。卒業後、東芝-広島)池田親興(宮崎・高鍋高。卒業後、日産自動車-阪神)卒業後にプロへ進んだ投手は多いが、当時の実質的なエースは和田護(日大藤沢高)という、童顔で小柄な投手だった。たしか背番号は「17」を着けていた。和田と木戸のバッテリーが当時お決まりで、テレビで木戸の顔を見て、和田のことを思い出してしまった。和田のこと、さっそく調べてみた。和田護。大学時代、通算30勝をマークするなど4回のリーグ優勝に貢献。ベストナインにも2度輝いている。卒業後は日産自動車に進み、都市対抗や日本選手権に幾度も出場していたらしい。31歳の時に現役を引退、翌年の99年から04年まで法政大野球部の助監督。04年からは日本文理大付高・野球部の監督に就任している。和田投手の消息、20数年ぶりに知った。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.30
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前回に続き「江夏の21球」のこと。■NHK『江夏の21球』(1983年制作)から、無死満塁のチャンスの場面で三振を喫した佐々木恭介の声を拾った。■日本シリーズ「近鉄vs広島」第7戦(1979年11月4日)の9回裏、1点差を追う近鉄は無死満塁の願ってもないチャンス。打順は9番、投手の山口哲治だったが、代打に佐々木恭介が送られた。広島の投手は「優勝請負人」江夏豊。※( )内は、江夏が9回裏に投げた全球数のカウント。佐々木が打席に立った。<初球(12球目)>カーブ、ボール。<2球目(13球目)>速球、ストライク。<3球目(14球目)>三塁線にファール。<4球目(15球目)>カーブ、ファール。<5球目(16球目)>速球、ボール。<6球目(17球目)>カーブ、空振り三振。佐々木の打席では、ボクが書きたいことは2つある。ひとつは2球目のストライクを見送ったこと。2つ目は3球目のファール。■まず3球目のファールのことから。佐々木の打球は大きなバウンドで三塁線に飛んだ。フェアか、ファールか。微妙な当たりだったが、球は三村敏之三塁手のグラブの上を越え、ラインのわずか左に落ちてファールグラウンドを転がった。佐々木「抜けた! いやゲッツーや、2つの気持ちがわずかな時間の中で交錯しました」もしフェアなら二塁走者も生還し、逆転サヨナラ勝ちの場面だった。近鉄・西本幸雄監督はベンチを飛び出し、打球を見つめたが判定はファール。悲願の日本一が叶った瞬間に見えたのも束の間、夢は一瞬にして萎み、ボクの頭の中はすぐに現実に引き戻された。スタンドで近鉄の応援を続けていた人たちも同じだった。「やったぁ! ワーッと歓声を上げる応援団、そして観衆。次々と塁を回る走者。思わず万歳をする。しかしファールの判定。歓声が一転ため息に変わる大阪球場。そんなバカな!へなへなと気が抜けるのが分かった。(『もうひとつの江夏の21球』佐野正幸著、主婦の友社刊より引用)■そして2球目のストライクを簡単に見逃したこと。佐々木自身が言う。「あの場面、いかに江夏さんと言えども絶対にストライクが欲しいはず。なんで自分は待つ気になったんかな。自分に腹立たしさを感じる。もしあそこで打っていたら、あの2球目の悔いが野球生活のすべてではないですかね。もう1回何がしたいと言うたら、あの場面がしたいです」この場面を振り返って西本さんは言う。以下『パ・リーグを生きた男 悲運の闘将 西本幸雄』(ぴあ刊)より引用。「佐々木の打席で三塁線に切れるファールがあったんだけど、問題なのはその前の球よ。それを佐々木は振らなかった。ランナーが三塁にいる時や満塁の場面では、バッターには『引っ張らずにピッチャーに向かって打ち返せ』と、常々言うてた。実際にバットを振ってもヒットになったかどうかは知らんけど、そういう気持ちだったら、バットに当たって、強い打球が飛んだはずや。あの日の江夏の決め球は右バッターの膝元に落ちるカーブやった。追い込まれてその球が来る前に打てと言うたんやけどな」 結局、追い込まれて6球目、佐々木はその膝元に落ちるカーブを空振りして三振した。NHKの番組では、野村克也さんがこう解説した。「5球目の速球と同じ軌道で来る6球目のカーブはなかなか打てません。あの球を打てるのは長嶋と王ぐらいではないでしょうか」 1日1クリックお願いします
2011.07.09
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前回の続き。■「バカヤロー」。大毎オリオンズの西本幸雄監督は、受話器の向こうから怒鳴り声を聞いた。相手の忌々しい声が続いた。「ミサイルと言われている打線なのに、どうしてスクイズをやるのだ。中沢会長も鶴岡君も、あんなスクイズ、と言っていたぞ」と追い打ちをかけた。この電話の主は、中沢不二雄パ・リーグ会長、南海・鶴岡一人監督と並んで、西本の試合を観戦していたらしい。西本は「そのお2人より、私の方が大毎の状態をよく知っています」と言い返した。すると「バカヤロー」である。「バカヤローだけは取消してください。その言葉は撤回してください」と言うと、電話の主はガチャンと電話を切った。それは、1960年(昭和35年)日本シリーズ第2戦で、大毎がスクイズを失敗して敗れた直後の電話だった。電話の主は、大毎のオーナー・永田雅一である。この一件がキッカケになり、その後、西本は監督就任一年目にしてリーグ優勝したにも関わらず、大毎の監督を辞した。■ボクが永田雅一の名を聞いて思い出すのは、この件である。「金も出すが、口も出す」、そして大言壮語な語り口から「永田ラッパ」とも呼ばれた。永田は、映画会社・大映のオーナーにして、プロ野球・大毎オリオンズのオーナーでもあった。1940年代後半からはプロ野球界に君臨し、「永田ラッパ」を高らかに吹き鳴らし続けた。アンチ巨人にして、オリオンズ、そしてパ・リーグを愛し、チーム発展のためには金に糸目をつけず、私財を投じて東京スタジアムを建設したほどだ。そして70年、ついに永田の夢が叶う。大毎球団の経営難によりロッテをスポンサーに付けたロッテオリオンズがパ・リーグ優勝を決めたのだ。この時、永田はグラウンドに乱入した観客達の手により、「永田オーナー万歳」「パ・リーグ万歳」の喝采と共に優勝監督よりも先に胴上げされ、永田は号泣しながら宙を舞った。大言壮語なラッパが、この時、ついに夢と現実の旋律を合致させたのである。しかし、その喜びもつかの間、翌71年、大映の経営再建に専念するため、球団を正式にロッテへ譲渡し、同時にオーナーを中村長芳に譲ることになった。その記者会見では、永田は無念の号泣をした。そして「必ず巨人を倒して日本一になってくれっ!」と泣き崩れながらコメントし、その言葉を最後に、20年以上にわたり君臨を続けたプロ野球界を去った。 ■ただ上記のロッテ優勝の一件は、大言壮語とは言わない。有言実行のほうが正しい。これも永田らしいと言えば、永田らしいが、大言壮語ぶりを表す事例を知りたかった。すると、それを端的に表すエピソードを『最弱球団 高橋ユニオンズ青春期』(長谷川晶一著、白夜書房)に見つけた。それはロッテ優勝から20年ほど前のできごと。見出しには「永田雅一、一世一代の大風呂敷」とあった。1953年12月にパ・リーグ総裁に就任した永田は、それまで7球団だったパ・リーグをセと同じ8球団にしようと画策する。そして、さっそく当時「日本のビール王」の異名をとった高橋龍太郎に新球団(8球団目)の所有を持ちかけた。暮れも押し迫ったある日、すでに78歳の高齢で隠居状態にあった龍太郎の自宅を訪ね、永田は仰々しく切り出した。「今日は、高橋さんのお力でこの永田を男にしてもらうために参上しました」この頃、40代の後半にあった永田は独特の口調で勢いよくまくしたてた。得意の弁舌で高橋翁を口説きにかかった。「私はパ・リーグの総裁になるにあたって、8球団制を敷くことを提唱しました。私はこの自分の案が、理想的であり、必要なことだと信じています。・・・そこでお話があります。高橋さんは戦前、イーグルスという球団を援助されていたこともあります。そして野球に対して深い理解と立派な見解をお持ちだと承っています。この際、ぜひともプロ野球百年の計のためにご出馬を願いたい。高橋さんが引き受けてくださるのであれば、決してご迷惑をおかけしません。あらゆる援助を惜しまない決議をしています」。永田の言う「あらゆる援助」とは、新球団設立のために既存の7チームから一流選手を供出すること、そして、資金面でも永田を中心として支援することだった。黙って話を聞いていた龍太郎は、加えていたパイプを手に取りながら、ゆっくりと口を開いた。「わかりました。そこまで言うのであれば、お引き受けしましょう」。百年の大計の役に立つのであれば・・・そんな思いが龍太郎の胸中に去来していた。■こうして、高橋ユニオンズが新設されることになった。しかし、永田がこの時言った2つの約束は、その後守られることはなかった。高橋自身は物心ともに球団を支え続けたが、その3年後、球団を手放さざるを得ないほどの苦境に陥ったのである。もちろん、永田は初めからウソをつこうとしたのではないが、大風呂敷を広げて口説いた結果、高橋を騙す格好になったことは否めない。大言壮語「永田ラッパ」と呼ばれる所以であり、そしてそれは「永田ラッパ」の面目躍如でもあった。
2014.01.04
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読売監督にしてWBC日本代表の監督でもある原辰徳氏(東海大相模高-東海大)、そしてその父・貢氏(現・東海大系列高野球部総監督)のことが「父子鷹」と呼ばれるようになって久しい。原親子がそう呼ばれ始めた頃、2人が出場していた1976年夏の甲子園で、まったく無名校の無名投手だった男が優勝をさらって行った。その男が今、あらたに「父子鷹」と呼ばれるようになったのだから、「巡る時代」は面白い。その優勝をさらった無名投手が桜美林高の松本吉啓。そして、その息子が啓二朗。松本吉啓氏(桜美林高-明治大-明治生命-埼玉栄高監督-千葉経大付高監督)。<桜美林高時代>まだ夏の甲子園3度目の出場だった桜美林高。当時は「オウビリン」とまともに読める人がいなかった1976年夏の甲子園で全国制覇を果たした。2回戦 日大山形高に4-0 3回戦 市神港高に3-2 準々決勝 銚子商高に4-2準決勝 星稜高に4-1そして、決勝でPL学園高をスコア延長11回の熱戦の末、4-3でサヨナラ勝ちし、優勝を決めた。桜美林が勝利するたび校歌が甲子園に流れた。その時、ボクは「イエス、イエス、イエス」という歌詞を憶えた。そして、「校歌にカタカナ」があるなんて不思議なもんだ、とも思ったものだ。■東京都内のライバル■一学年下に日大二高・五十嵐信一(現・日本ハムスコアラー)、二学年上に城西高の高橋慶彦(現・ロッテコーチ)がいた。■甲子園のライバル■準々決勝で対戦した銚子商高のショートは宇野勝(元・中日)。また準決勝で対戦した星稜高のエースは小松辰雄(元・中日)だった。直接対戦はしなかったが、柳川商高の久保康生(現・阪神チーフコーチ)、「サッシー」こと海星高・酒井圭一(現・ヤクルト九州担当チーフスカウト)らがいた。また、息子・啓二朗がいた早稲田大監督の應武篤良氏も、広島・崇徳高の捕手としてこの大会に出場していた。2回戦で東海大四高に勝利したものの、3回戦で酒井のいる海星高にスコア0-1で惜敗した。※應武さん、同年秋のドラフトで近鉄バファローズから3位指名を受けたが、これを蹴って早稲田大に進学した。(⇒あま野球日記「近鉄を蹴った男たち」収録)松本吉啓氏、高校を卒業し明治大に進学、そして明治生命に進むが、高校・大学・社会人のすべてで「日本一」を経験した。現役の選手として「日本一」を経験していないのは「プロ野球」だけ。明治大入学以降のことは次回に。※<松本啓二朗の小中高時代>はこちら。 <松本啓二朗の大学時代>はこちら。 <松本啓二朗の父・吉啓氏の高校時代>はこちら。 <松本啓二朗の父・吉啓氏の大学時代?>はこちら。 <松本啓二朗の父・吉啓氏の高校監督時代>はこちら。ぜひ1クリックをお願いします
2009.03.01
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前回の続き。 ■1974年のプロ野球界は、長嶋茂雄の引退で他のすべてのことが消し去られた。金田正一率いるロッテが日本一になったことも、ウォーリー与那嶺が川上哲治に14年越しのリベンジを果たしたことも。そして王貞治が二年連続三冠王を獲ったことも。また、この年は「セーブ記録」が初めて採用された年でもある。初代セーブ王は、セが現・楽天監督の星野仙一(中日)。このたび、楽天を日本シリーズ初出場に導いた。パは南海の佐藤道郎。この佐藤は好人物だったらしく、この後1977年、野村克也監督が江夏豊に抑え転向を承諾させた際、江夏が真っ先に野村に聞いたのは、それまで抑えだった佐藤の処遇だったという。ドラフトでは、夏の甲子園の優勝投手、銚子商・土屋正勝、鹿児島実・定岡正二、横浜高・永川英植、土浦日大高・工藤一彦の4投手が「高校ビッグ4」と呼ばれ注目を浴びた。そして、それ以上に話題を集めたのは松下電器・山口高志の去就だった。■なぜか一番クジだった近鉄は山口を指名せず、二番クジの阪急に奪われた。この山口が1年目から快投を見せつけ、翌75年に阪急を初優勝に導いたのだから皮肉なものである。しかし、それでも近鉄にはドラフトの成果があった。まず2位で村田辰美(三菱自動車川崎)を獲得したこと。「江夏の21球」も「10・19」も主戦で経験する息の長いサウスポーだった。4位に吹石徳一(日本新薬)。「10・19」第2試合で本塁打を放った。以前、吹石がスカウトしている頃、神宮(東京六大学リーグ)のネット裏でよく見かけた。そして5位で谷宏明(熊本一工高)を指名した。同年の近鉄は、阪急を5度リーグ優勝に導いた西本幸雄を監督に迎えて1年目だったが、残念ながら前期5位、後期4位でシーズンを終えた。体質の甘さを痛感した西本は、そのオフ、不動の4番・土井正博を放出し、選手たちに危機感を芽生えさせた。なおこの年、羽田耕一が4打席連続本塁打、鈴木啓示が150勝を記録。そして土井が300本塁打をマークするも、このシーズンを最後に近鉄を去った。■東京六大学リーグは、法政大に大きな動きがあった。有力な高校球児がこぞって入学したのである。いわゆる「花の昭和49年組」である。江川卓(作新学院高)、中林千年(松江商高)、佃正樹(広島商高)、袴田英利(静岡自動車工高)、金光興二(広島商高)、島本啓次郎(箕島高)、植松精一(静岡高)等。秋季リーグ戦では、江川が6勝、中林が4勝して、法政があっさりと優勝した。最後の明治大2回戦は出場12選手中、1年生がなんと6名も出場していた。江川の女房役・袴田は大学卒業後、ロッテに入団した。先日放送されたTVでは、村田兆治の剛速球と鋭く落ちるフォークを「ノーサインで捕球した捕手」として紹介されていた。また、この当時の江川のことが『東京六大学野球80年史』(ベースボール・マガジン社)に、こう記されている。慶大を熱望したが不合格でやむなく法大へ。このコースをたどった選手が何人かいて当時の法大には微妙な空気が流れていた。しかし、江川はその右腕で強い法大を作り上げ、その空気を吹き飛ばした。※ちなみに同年春季リーグ戦でベストナイン<外野手部門>には、後に「10・19」で活躍した近鉄・新井宏昌がいる。■甲子園は、センバツを制したのは報徳学園高。池田高を3-1で破った。夏はエース・土屋正勝を擁する銚子商高が、防府商高を7-0で零封して優勝した。夏の大会で忘れられないのは、定岡正二のいた鹿児島実業高。準々決勝で原辰徳のいる東海大相模高と対戦、延長15回の激闘の末に勝利。定岡は18三振を奪った。そして迎えた準決勝(防府商高戦)も定岡が先発したが、3回に負傷し降板。9回裏に外野手のエラーでサヨナラ負けを喫し、泣きじゃくるその外野手の肩に腕をまわして懸命に慰めていた。■同年の社会・世相。田中角栄首相が退陣を表明し、三木武夫内閣が誕生した。月刊文藝春秋の「田中角栄研究--その金脈と人脈」(立花隆)によって金権実像を暴露されたことが田中首相退陣のきっかけになった。また、小野田寛郎がフィリピン・ルパング島で30年ぶりに救出されたのも、この年。『カモメのジョナサン』『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになり、『GORO』が創刊された。昨日、セブンイレブンでは『週刊プレイボーイ』が成人誌の棚に置かれていると聞いて驚いたが、今も『GORO』があったなら、間違いなく成人誌扱いなんだろうなぁ。芸能界では、ドリフターズの荒井注が脱退し、代わりに志村けんがメンバー入りした。歌謡曲・フォークは、『赤ちょうちん』『精霊流し』『結婚するって本当ですか』等が流行った。同年、生まれた野球選手には松井秀喜がいる。長嶋茂雄が現役引退した年に松井が生まれたのは、別趣の興味をそそる。今年、2人揃って国民栄誉賞を受賞した。写真は5月5日、東京ドームの風景。打者は長嶋、捕手は原辰徳、主審は安倍晋三。この写真に写っていないが、投手は松井。~『長嶋茂雄・松井秀喜の絆』展にて撮影~
2013.10.23
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楽天監督に就任した梨田昌孝さんのことを。■現役時代に最も記憶に残るのは、1988年10月19日の「伝説の10・19」です。ダブルヘッダーの第一試合、3-3の同点で迎えた9回表。同点引き分けでは優勝可能性が消滅する近鉄は、代打・梨田が中前に適時打を放ったことで勝ち越しに成功しました。この時点で、優勝の可能性を残す貴重な一打となりました。直前には走塁ミスがあったり、阿波野の緊急登板があったりで、三塁側応援席で観ていたボクの感情はジェットコースターの如くに天国と地獄を慌ただしく行き来していましたが、結果的にこの一打が試合のピリオドを打ってくれました。■実はこの直前、不思議なシーンがありました。仰木彬監督はなかなか「代打、梨田」と主審に伝えなかったのです。梨田自身は「自分の出番」とばかりにネクストで待機していましたが、仰木さんはずっと突っ立ったまま空(くう)を見つめていて・・・。ん、代打はだれ? 梨田じゃないの? なんて想像を巡らすことができるほど長い時間があって、その後にやっと梨田と告げました。あの間(ま)はいったい何だったのでしょうか? 後日、仰木さんは「梨田もこれが現役最後の打席かぁと、感慨に耽っていた」と述懐していましたが、それは違うと思うのですよ。次に第二試合が控えていたから、そこで梨田が打席に立つ可能性もあるわけだし。梨田自身も「なぜあの時、すぐに代打・梨田と言ってくれなかった?」と訝っていましたから。そんな中で、梨田は決勝打を放ちました。「なぜすぐに代打を告げない?」「なんとか優勝の可能性を残せるように適時打を打ちたい」「ひょっとしたら現役最後の打席になるかもしれない」。この写真の人生初のガッツポーズは、慣れない、ぎこちないものだったけれど、そんな複雑な感情が入り混じった中での快打だっただけに、とても輝いて見えるのです、きっと。 (写真)NHK『ヒーローたちの名勝負』より。 以下も同じ。(写真)本文と関係ありませんが、佐藤の走塁ミス、梨田の適時打とガッツポーズ、そして生還した鈴木貴と中西の抱き合って転げまわるシーンは、すべてセットになって記憶しています。<関連記事>「伝説の10・19」から25年後の述懐~中西太、高沢秀昭http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201310190000/
2015.10.14
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【ソフトバンク】シート打撃があり、WBC代表候補の3投手が登板。杉内と和田はともに打者8人に投げ、それぞれ5安打、3安打。馬原も松田に本塁打を浴びるなどぴりっとしなかった。キャンプもまだ半分の段階で、杉内は「あまり結果は関係ない。雨が気になっていたので、投げられてよかった」と話したが、目立ったのが松中のバット。両左腕から二塁打を放ち、「うちのエース2人ですから。調整段階とはいえ、いい練習になりました」と気をよくしていた。(時事通信) 松中信彦、現役選手唯一の三冠王経験者ながら、「短期決戦に弱い」とか様々な風評が広まったこともある。ボクが松中のことを一番記憶しているのは、残念ながらプレーではない。ある時、彼が発したコメントだった。とても的確な内容で、ボクにはとてもインパクトがあった。それは今からちょうど2年前、2007年1月のことだった。翌08年に行われる北京五輪に向け、当時の星野仙一氏は「金メダル以外いらない」と盛んにデモンストレーションを繰り広げていた。マスコミは星野人気を煽る一方だった最中、松中は冷静に星野ジャパンにクレームをつけた。「勝ち負けよりも、アマの選手にもぜひ国際大会の経験をさせてほしい。実際に出場してみないとわからない貴重な体験ができ、今後プロやWBCに進むときの肥やしになる」。松中が言っていたことは「五輪はアマチュアのもの」であり、「勝った負けたは二の次」、「アマチュアの選手にとって数少ない国際大会の経験の場」であり、「アマチュアの選手に出場させてほしい」という真っ当な願いだった。新日鉄君津で社会人野球を経験した、松中ならではの的を射た発言だったし、ボクは非常に賛同できたものだった。※エピソード松中、2007年の有馬記念で1着「マツリダゴッホ」を含む3連単を当てて話題になった。実はボクも3連単ではないけれど、同じ有馬記念で「マツリダゴッホ」を当てていた。松中信彦(八代一高-新日鉄君津)<八代一高時代>※現在は秀岳館に校名を改称している。■チームメイト■後にプロに進んだ選手はいない。■熊本県内のライバル■甲子園に出場した熊本工高・塩崎真(現・オリックス、東洋大中退-新日鉄広畑)。また、同じく熊本工高の高波文一(現・オリックス)が2学年下にいた。■甲子園のライバル■甲子園には出場していない。<余談・・・新日鉄君津時代>※現在は市民球団「かずさマジック」に改称している。松中が在籍した当時の監督は、「短所を修正するより長所を伸ばす」指導方針の應武篤良氏(現・早稲田大監督)。松中をはじめ渡辺俊介(現・ロッテ、國學院栃木高-國學院大)ら計6人の選手がプロ入りを果たした。松中の見識に賛同できる方、ぜひ1クリックをお願いします
2009.02.14
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■朝日新聞では、過去にあった甲子園名勝負を『あの夏』と題して連載している。いま掲載されているのは、「1961年準決勝、浪商vs.法政二」。浪商と法政二、言い換えれば浪商・尾崎行雄と法政二・柴田勲の3度目の直接対決の試合である。今日の記事には、当時法政二のエースだった柴田さんのコメントがあった。この記事とまったく同じ話を、柴田さんから(とある講演会で)聞いたことがある。それは、柴田さんの浪商エース・尾崎評とでも言おうか。曰く、「尾崎くんの一番凄いところは、登板前はいつも27人の打者全員から三振を奪おうと考えていたこと。そしてそれが果たせなければ、次に完全試合を狙う。さらにそれも叶わなければ、次にノーヒットノーランを狙うなど、常に高い目標をもって相手打線に立ち向かう投手だった」。そして、「彼は真っ直ぐだけで勝負を挑んできた凄い投手だった。3度目の対戦(1961年夏)は延長戦になったが、延長になってから一層スピードが速くなったのには驚いた」と。一方の柴田さん自身はどうだったかと言えば、「私は、そんなこと考えちゃいない。1球で打者1人を終わりたい。つまり1試合27球で終わるのがベストだった。まぁ、そんなだったから、高校時代に投球練習をした記憶もあまりない。投手で巨人に入団したものの、川上監督は野手で使いたかったようだ。そのために私はどんな使われ方をしたか? 入団後すぐオープン戦の頃からバンバン投げさせられたんです。そして、いつも打たれて自信喪失になった頃を見計らって、監督が『どうだ、そろそろ打者に転向しないか?』 と。(笑)」 ■ボクは、常にヒーローでいた柴田さんよりも、尾崎さんに肩入れしてしまう。華々しい甲子園での活躍、浪商を中退して東映に入団し、一気にプロの頂に駆け上がるも、その後は肩の酷使が響いて、白星のない毎日。そして5年後に、やっとつかんだ1勝。しかし、時すでに遅し。その1勝は現役引退と引替えに得た勝利だったように思える。ー 栄光と挫折。プロ野球選手ならだれでも経験するものかもしれないが、その振幅があまりにも大きかった。■1年前、浪商・東映を通じて先輩の張本勲さんが、「尾崎もね、あんなにチヤホヤされなければ、もっとよい投手になれたのに・・・」とテレビで話していたことを覚えている。この言葉の意味は何だったんだろうか?そして誕生日が同じというだけで、尾崎さんと話が盛り上がったあの日のことを思いだす。先月13日は、尾崎さんの一周忌だった。
2014.07.02
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序盤から中盤にかけては、さながら川越東高のセンター・森建人(3年)の「ショータイム」だった。センターを守る森の、左・右、そして後ろの難しいところに何度もフライやライナーが飛ぶ。それをいとも簡単に捕球する森。スタンドは「ほほう!」といった感嘆の声とともに、拍手が起きた。「こりゃ、センターに打ったら最後、絶対に抜けないよ」という、ネット裏から見守る観客たちの称賛のタメ息であり、拍手だった。足が速いことは間違いないのだろうけど、それだけじゃなく高い野球センスを持っているんだろうな、この選手は。------------------------------------------------------------今日の大宮県営球場、第2試合。伝統校・上尾高と私立の進学校・川越東高のカード。上尾高といえば、元・中日の仁村徹(通称:仁村弟、東洋大)を輩出するなど、埼玉県内においては屈指の伝統校として有名だ。一方の川越東高。女子ソフトの日本代表チーム・宇津木妙子監督の出身校「星野女子高(現在は星野高)」と同じ系列の高校。とはいっても川越東高、ことに野球部はこれまで強くはなかった。ところが一昨年、元ヤクルトの投手・阿井英二郎氏が監督に就任して以来、着実に力をつけてきた。今年のチーム、小柄な選手が多く打撃で目立つ選手はいなかったが、とにかく守備が固い。きっと「ディフェンス中心」のチームに育てられているんだろう。エース・有馬康文投手(2年)も、上尾打線を散発3安打に抑えた。----------------------------------------------------------------この試合、2回裏にスクイズで得点した1点を、川越東が守り切り1-0で勝利した。安打はたったの4本、ほかにチャンスらしいチャンスはなかった。勝利が決まった瞬間、川越東ナインは小躍りして優勝でもしたかのように抱き合って、上尾に勝利できたことを喜んでいた。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.07.16
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■野茂英雄の近鉄退団劇。それは、1994年契約更改時のことでした。野茂は複数年契約を望むも、近鉄球団は拒否。数度にわたる両者の交渉も決裂し、最後は球団が「野茂よ、もう辞めてくれ!」と匙を投げて、野茂は退団を決意しました。そして海をわたってメジャーに挑戦した、その後の活躍ぶりは説明するまでもありません。メジャーの勝利数123(勝)は日本人投手として最多記録、そしてノーヒットノーランを2度も達成。さらに日本人選手のメジャー挑戦の先駆けとなったこと、それこそが最大の功績と云えるでしょう。■テレビ東京『アスリート波乱万丈 崖っぷちからの大逆転』~激白!野茂英雄 禁断メジャー移籍裏側~を見ました。残念ながら、内容はタイトルほど野茂の激白もなかったし、裏側を深く掘り下げたものでもなかったけれど、1995年頃のことを思い出すには十分でした。面白かったのは、野茂が近鉄退団・メジャー挑戦を決意した頃、マスコミが野茂に対して数々のバッシングを浴びせ様子を紹介したこと。『なにが大リーグや、野茂よ、なめたらあかん!』、『野茂英雄は米国で絶対に成功しない』『野茂よ、ワガママはいかん』などなど。各新聞はこういった見出しをつけて、野茂=ヒール役に仕立てました。思い出しますね、当時のことを。たしか野茂の出国時、見送りのファンはわずか数人だったとか。多くのファンは、マスコミの論調と同様に野茂に対して批判的だったはずです。では、近鉄ファンだったボク自身はどうだったか。実は、ボクも野茂を批判したい一人でした。「辞めたいなら、勝手に辞めればいい!」ただそれだけ。野茂の近鉄退団劇には、(番組は伝えていなかったけれど)彼のメジャー志向や鈴木監督との確執などが背景にあって、当時は非常識といわれた「複数年契約の要求」は、いわば球団との交渉決裂、近鉄退団、メジャー挑戦を狙った取引材料に過ぎないーーーと、そんな認識でしたから。また、近鉄球団に対してわずかながらも信頼を寄せていたことも理由の一つでした。■しかし、この番組で腑に落ちないこともありました。それは当時を振り返る古田敦也氏のコメントです。「日本の野球を守るためには、日本で育った人材を海外に出してなるものか!という、日本のプロ野球界だけを見た、世界を見ていない、いわゆる『鎖国』状態でしたね」と、日本球界を痛烈に批判していました。『日本の野球を守るため』『世界を見ていない』『鎖国』。それのいったい何が悪いのだ? 発言を聞きながら、そんなことを思いました。今年は広島カープの躍進や大谷翔平の活躍で日本球界(NPB)に注目が集まりました。一方でメジャー人気も高まり、当たり前のようにメジャーに挑戦する日本人選手が増加し、数々の話題が日本国内でも報道されるようになりました。でも、NPBとメジャーは、現在たまたま絶妙なバランスで両者の均衡が保たれているだけと思うのです。この絶妙なバランスは永遠に続くことはないはずです。NPB=メジャーからNPB<メジャーへ。いずれNPBは廃れるとしか思えません。そうならないために、現在であっても『鎖国』は必要ではないでしょうか。かつて古田氏は「ファンのため」と云って、涙を流してまで前代未聞のストライキを仕掛け、『拍手はいらない』という名の書籍を著しましたが、この番組ではそれをすっかり忘れた「選手のため」発言に聞こえ、そこに矛盾を感じました。東京五輪を巡っては「都民ファースト」か「アスリート・ファースト」かと論議を呼んでいますが、どちらも並び立つことはあり得ません。NPBは「ファン・ファースト」をべースに物事を発想しないといかんのでは? 野茂の一件、古田氏の発言を通じて、そんなことを思った次第。旧い考え方だとか、張さんに似ているなどといった批判もあると思いますが、そう思った方はどうぞスルーしてください。お願いします(^^)/(写真)近鉄時代の野茂英雄。~『近鉄バファローズ球団史』(ベースボール・マガジン社)より~(写真)古田敦也氏。~テレビ東京より~
2016.11.03
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7月25日、高校野球・東東京大会の準々決勝が行われた。注目の帝京高は駒場学園高に6-1で勝利、また二松学舎大付高は都総合工科高にスコア4-3でサヨナラ勝ちした。その結果、準決勝は帝京高と二松学舎大付高が対戦することになった。(この試合が事実上の決勝戦でなかろうか? そうボクは思っている)実は今年(2009年)の春季大会・準々決勝でも、この両高の対戦(4月18日、神宮第2球場)があり、たまたまボクはこの試合を観戦していたことを思い出した。(7回コールド)帝京 006 000 1 =7二松 000 000 0 =0(帝)武内、(二)小野田、鈴木大この試合、二松学舎にとってはあまりに悲惨な負け方だった。帝京の3番・平原庸多に2本塁打を浴び、打撃では、背番号「13」をつけた武内就生に(7回ながら)ノーヒットノーランに抑えられた。平原の打球は速く、その点において他の選手を圧倒していたのが印象的だった。この時は三塁を守っていたが、この夏の大会では新エースでもあるらしい。どうやら平原、「投打」にずば抜けたセンスをもつ選手のようだ。ただ「投打」にずば抜けた選手なら二松学舎にもいる。それは京屋陽(きょうや・あたる)。少年時代から常に4番でチームのエースだった。もちろん長打力は抜群。また今春からショートを守っているが、本職は投手。最速は145kmとか。明後日(7月27日)の準決勝、京屋陽と平原庸多の「投打の対決」にぜひ注目したい。そして京屋の勝利をボクは期待する!今日も1クリックお願いします
2009.07.25
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◇今日の時事ニュース◇・麻生内閣の支持率20%台前半に急落。自民議員、一斉に動く「反執行部勢力」倍増・総務省、生活保護120万世帯に地デジ受信機の現物支給策が固まる。09年から2年間 さる事情通氏がこう声を潜める。早大の應武監督がある会合で「日本球界ではハンカチ王子とマーくんの対決は実現しない」「斎藤はオレの言うことしか聞かない」などと口走ったというんだ。その言葉が意味するのは、斎藤が卒業後はいきなりメジャー挑戦することを示唆するもの。出席していた関係者は一様にギョッとした。(日刊ゲンダイ)早稲田大・斎藤佑樹(2年、早稲田実)が卒業する2010年シーズンまで(2011年3月)続投が決まったという應武篤良監督。斎藤の後見人を辞任する方の発言だけに、注目が集まったようだ。とても面白い記事だ。斎藤が田澤純一(横浜商大高-新日本ENEOS)と同様、NPBを経ずにメジャーに挑戦するなんて・・・。ただ、仮にこの記事が本当だとしても、疑問はある。「田中将大(現楽天・駒大苫小牧高)と日本球界での対戦がない=(イコール) メジャー挑戦」と考えるのは早計ではなかろうか。他にもあるように思う。それは田中と同じNPBのチームに入団する可能性が出てきたと読めないかということ。同じチームでも應武監督が言うとおり「対戦は実現しない」のだ以前、2007年6月7日のブログに、ボクは田中将大と同じチームに入団すると予想した記事を書いた。その予想に現実が近づいてきたのかもしれない。そのブログはこちら。1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング
2008.12.09
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「原監督決めた、ダルで開幕戦/WBC」<WBC:宮崎合宿>◇初日◇16日◇サンマリンスタジアムこれがサムライジャパンの必勝ローテだ! 3月5日に開幕するワールド・ベースボール・クラシック(WBC)第1ラウンドの先発ローテーションが、第1戦からダルビッシュ有投手(22=日本ハム)、松坂大輔投手(28=レッドソックス)、岩隈久志投手(27=楽天)の順番となることが16日、最有力になった。初戦の中国戦はダルビッシュで勢いづけ、韓国が有力な第2戦は松坂に託す。そして岩隈で1位通過を決めて、米国に乗り込む作戦だ。日本代表候補の強化合宿は、この日宮崎でスタートし22日まで続く。(日刊スポーツ) ダルビッシュ有。日本ハムに入団前はタバコやパチンコでやんちゃぶりを発揮、いったいこの先どうなるんだろう?なんてボクは思った時期もあった。また甲子園大会では、長打を放ち二塁へ駆け込みざま、息の上がっているダルビッシュの表情をテレビカメラが捉えたことがあって、それを見た評論家の中には、「ちゃんと基礎体力はできているのか?」と疑問を呈するムキもあった。ところが、今や日本代表の堂々たる「エース」格の投手に成長。後輩の選手たちを引っ張るリーダーシップも発揮しているから、不思議といえば不思議なものだ。---------------------------------------------------------------ボクが初めてダルビッシュをナマ観戦したのは、2004年10月に行われた埼玉国体だった。その2か月前(8月)の甲子園では3回戦でエース・松本啓二朗を擁する千葉経大付高に敗退したものの、ダルビッシュの人気は絶大。県営大宮球場には多くの女性ファンが詰めかけていた。県営大宮球場で多くの「追っかけ」軍団を見ることは稀。それに驚いたボクは、ブルペンで投げるダルビッシュの投げる球を見てさらに驚いた。腕を軽く振っているだけなのに、その球は地を這うような低さから捕手の手前で大きくホップしているように見えたから。人気だけでなく、ダルビッシュには十分な実力があることを、ボクはこの時初めて自分の目で確認できた。ダルビッシュ有。<東北高時代>2年時(2003年)の春・夏、3年時(04年)の春夏の計4回、甲子園に出場した。最も惜しかったのは03年夏。決勝に進出し「白河越え」にもう一歩まで迫ったが、坂克彦のいる常総学院高にスコア2-4で逆転負けを喫した。この試合、常総・木内幸男監督の引退試合でもあり、そのことでも記憶に残るになった。 ※尚、木内さんは07年、再び常総学院高の監督に復帰している。■チームメイト■サイドスロー投手の真壁賢守(ホンダ入社予定、東北福祉大)がいた。■宮城県内のライバル■2学年上には名取北高・岸孝之(現・西武、東北学院大)、3学年上には高井雄平(現・ヤクルト)がいた。また3学年下に仙台育英高の佐藤由規(現・ヤクルト)がいた。 ■甲子園のライバル■4度も甲子園に出場しているだけあって、ライバル選手は多い。(以下、ランダム)横浜高・涌井秀章(現・西武)、千葉経大付高・松本啓二朗(横浜入団、早稲田大)、同・井上雄介(楽天入団、青山学院大)。済美高・福井優也(早稲田大・新4年)、同・鵜久森敦志(現・日本ハム)。花咲徳栄高・福本真史(現・TDK千曲川、明治大)。熊本工高・岩見優輝(大阪ガス入社予定、亜細亜大) ほか ぜひ1クリックをお願いします
2009.02.17
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雨で中断していた決勝戦。結局再開され、浦和学院高が2年連続9回目の優勝を決めた。昨年は、もともと優勝候補じゃなかった気安さがあっての優勝だった。が、今年は優勝候補の本命として戦い、そのとおりに優勝を果たした。(当り前のようだけど、これが結構難しい!)浦和学 000 202 011 =6 本庄一 000 100 001 =2 この埼玉大会。浦和学院、準々決勝の埼玉栄戦と準決勝の富士見戦はちょいと危なかった。<準決勝>浦和学院高 3-2 富士見高(延長10回)<準々決勝>浦和学院高 8-7 埼玉栄高 が、それ以外は堂々とした戦いぶり。浦和学院の強さは、「投手」「打者」ともに埼玉県内では傑出してレベルが高いことにある。「投手」。鎌田優、赤坂和幸、内山拓哉の3枚看板がいる。準々決勝で戦った埼玉栄、準決勝の富士見、決勝の本庄一がいずれも一人の投手で戦ってきたのと比べて、投手のコマが充実していた。「打者」。鮫島勇人、赤坂和幸の2枚看板。そして準々決勝から突如トップバッターに指名された、背番号「20」の中原大地。今日の決勝戦では本塁打を放った。また、主に7番を打つ新井大樹も期待できる打者。身長186cm、振りも鋭く、なぜクリーンアップを打たないのか不思議な打者ではある。※浦和学院、7番にいい打者を据えることが多い。以前は前野達郎(現・明治大2年)もよく7番を打っていたように記憶している。さ、浦和学院が甲子園に行く。埼玉では盤石な戦い方をするものの、どうにも甲子園では「よそ行き」の戦い方が目立つ。それがどうしてなのかわからないが。ぜひ、昨年(対金沢高戦)のようなことはないように期待したい。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.07.29
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前回の続き。 ■1969年、夏の甲子園では三沢・太田幸司が国民的ヒーローになり空前の盛り上がりを見せたものの、プロ野球界は暗い事件に度々見舞われた。10月7日、読売、報知の両紙が「西鉄・永易投手が八百長」と衝撃的なスクープ。当初永易はそれを否定していたものの、コミッショナー委員会は11月28日、同投手の永久追放処分を発表した。いわゆる「黒い霧事件」である。これは、永易だけにとどまらなかった。以降、次々に関与した選手や球団職員の名前が明らかにされ、国会を巻き込んだ大事件に発展した。※「黒い霧事件」については後日、記述します。そして「黒い霧事件」に世間が動揺する中、10月9日にはこれまでプロ野球界を牽引した正力松太郎氏が死去。さらに10月30日(日本シリーズ)第4戦に日本シリーズ史上初の退場事件が発生。また同じころ、金田正一が現役引退を表明した。今になって考えると、この年は、プロ野球界が大きく変わる節目になった1年だったと思える。■そんな時、もうひとつ別の事件が起きた。荒川尭をめぐる三角トレードと荒川殴打事件である。きっかけは、「巨人とヤクルト以外はプロに行かない」と宣言していた早稲田大・荒川尭を大洋が強行指名したこと。詳細は以下のとおり。11月20日に行われたドラフトの指名順位は、1番目が中日、2番目が阪神、3番目が大洋。そして、荒川が希望するヤクルトは9番目、巨人は11番目だった。この時、目玉の選手は荒川のほか、同じ早稲田大の谷沢健一と、三沢高の太田幸司の3人。大洋は当初、荒川を指名する予定はなかったという。なのに、なぜ荒川を強行指名するに至ったのか。その事情は、『ドラフト1位 九人の光と影』(澤宮優著、河出書房新社)に詳しい。「大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)のオーナー・中部謙吉は、当初は荒川を指名する気持ちはなかった。ドラフト当日、予備抽選で大洋はくじの順番は3番目と決まった。この段階でスカウト陣の予想は1番目の中日は谷沢、2番目の阪神は太田を指名するだろうと読んだ。すると大洋は東海大学のエース上田次朗でゆこうと判断していた」ところが、中日は谷沢を指名するも、阪神は予想に反して上田を指名した。大洋の予想が外れたのである。当時のドラフトは重複指名が出来なかったたため、上田以外の誰かを指名する必要に迫られた。「太田を指名するか。中部は迷ったが、大洋の本拠地川崎球場は工場の町であるから、太田が入団しても女性ファンが来ないと考えた。それで実力派の荒川で行こうと決心した。なぜなら、大洋の森代表、スカウト陣はこぞって『荒川では獲得する自信がない』と訝ったが、中部には勝算があった。球団代表の森茂雄は早稲田OBで、元野球部の監督。荒川の恩師でもある石井藤吉郎監督は、森の教え子だった。この早稲田ラインで押してゆけば、荒川も入団に傾くかもしれない」。■しかし、中部の当ては外れた。荒川は大洋入団を頑なに拒否、一年の浪人生活を覚悟し、一方大洋は12月15日に一時交渉の打ち切りを宣言する。そして間もなく、事件が起きた。巷では、まだ正月気分の残る翌70年1月5日夜のことである。荒川が自宅付近を犬と散歩中、暴漢に襲われた。こん棒のようなもので後頭部を殴られ、後頭部や手のほかに右目付近も負傷した。この右目の負傷が後に、荒川の視力を低下させ、プロ野球選手として大成できない影響を残した。(写真)荒川尭。右は早稲田大時代、左はヤクルトアトムズ時代。~『プロ野球ドラフト史1999年版』(ベースボール・マガジン社)より~
2014.01.12
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いまネットで録画を見た。今日行われた高校野球の第三試合、長野・丸子修学館vs智弁和歌山高の試合。智弁和歌山 101 001 072 =12 丸子修学館 000 000 400 = 4 今日のこの試合、スコアを見てわかるように、大荒れに荒れた。勝負を分けたのは、スコア3-4の1点ビハインドで迎えた智弁和歌山高、8回表の攻撃のとき。先頭打者が放ったレフト前への打球。ふらふらっと上がった飛球を追ってショート・平林孝紀が全速力で背走。7回まで好投した後、この回からレフトに入った下村尚之も打球を目で追いながら前進。そして下村のグラブに打球が収まった瞬間、2人の顔面がまともにぶつかって、そのままグラウンドに倒れた。双方、立ちあがれないまま担架で運ばれて退場になってしまう前後してライト・西藤勇人は熱中症から足がけいれんし、これまた退場。いっぺんに3人の選手がいなくなり、秋季大会では試合に出場経験のない選手たちがと一斉に入れ替わることになった。この回から登板した竹内崇馬投手も、状況の急変に動揺したか、智弁和歌山の打線に猛攻を喰らい、大逆転劇を演出してしまった。ま、投手がどうのこうのというより、智弁和歌山の打者一人一人が強振せずに、素直に右方向に打ちかえした巧者ぶりが立派だったといえる。----------------------------------------------丸子修学館高、まるでボクには馴染みのない校名だ。だけど昨年校名を変更し、それまでは「丸子実」だったと聞いて、理解できた。ボクが幼いころ、長野代表校といえばいつも丸子実だった。今回のセンバツ出場は、なんと31年ぶりなんだとか。まさに古豪復活なのだ。昨日の日刊ゲンダイでは、丸子修学館高・竹内政晴監督に取材をしていた。実は以前、長野県の高校野球指導者向けに行われた研修会が行われ、竹内監督は聴衆のひとりとして参加した。そして講師として演壇に立ったのは、甲子園通算勝利数2位(51勝、当時)の智弁和歌山高・高嶋仁監督だったという縁があった。※1位は元PL学園高・中村順司監督で58勝。竹内監督が言っていた。「生徒と先生みたいな違いはありますが、すごい監督さんに胸を借りるつもりで戦います」その言葉どおり、一度は逆転するなど大健闘したものの、8回の守備で一挙に奈落の底に突き落とされてしまった。まさに「甲子園には魔物が棲んでいる」1日1クリックお願いします >>人気ブログランキング
2008.03.25
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全日本大学野球選手権の2回戦、関西国際大と明治大の一戦(6月8日)。■タイブレークになった延長10回裏、1点差を追う明治大はなおも二死一・三塁のチャンス。打席に4番・牛島将太(4年、門司学園)が打席に立ちます。そして、初球でした。真ん中に入った直球(140キロ)を豪快に叩くと、打球はぐんぐん伸びてレフトへ。背走して追いかけるのは、この回からレフトに入った関西国際大2年の藤原朋輝。そしてフェンスに達すると、身体を「く」の字に曲げてジャンプ一番、目いっぱい上にグラブを差し出して好捕しました。このファインプレーが飛び出したことで3アウト、関西国際大の勝利が決まりました。打球はフェンス上部まであと50センチ程度の高さだったでしょうか。もし捕球できなければ明治大の三塁走者はもちろん、一塁走者も生還して逆転サヨナラ負けのケース。紙一重のところで、藤原のプレーが関西国際大に勝利をもたらしました。■この藤原朋輝はPL学園の出身です。部員の不祥事(暴力事件)に端を発した監督の辞任、対外試合の禁止。さらに廃部問題にまで発展したPL学園野球部ですが、そのさまざまな問題が渦巻く最中、主力選手として奮闘していた選手のひとりが、この藤原でした。新監督のなり手がいない中で、野球未経験の正井一真校長がベンチで陣頭指揮を執る異常事態であるにもかかわらず、2014年夏の大阪府大会では大体大浪商や関西大北陽をなぎ倒して決勝進出したニュースは記憶に新しい。惜しくも決勝では、香月一也(現・ロッテ)や青柳昴樹(現・横浜)のいる大阪桐蔭に大敗しましたが、藤原は1番・センターでこの試合に出場していたようです。原因は部員にあったとしても、オトナの事情も絡まって問題が複雑化する中で、野球に集中することはとても難しいことだったと想像します。たしか田中将大が駒大苫小牧を卒業する際、甲子園で連覇記録を作る一方で不祥事、甲子園出場辞退などの経験を振り返り、「まるで天国と地獄をジェットコースターで往復しているようだった」と心情を吐露していたのを思い出します。天国と地獄。藤原にとっては高校時代の経験が仮りに「地獄」だったとすれば、全日本大学野球選手権という晴れ舞台で見せたファインプレーは、野球の神様が特別に用意してくれた「天国」だった、と言えるかもしれません。 藤原にとって天国がこれからも続くことを祈りたいと思います。 (写真)勝利決定直後の関西国際大ベンチ前。中央が藤原朋輝(だと思います。背番号が見えないため確信はありませんが)。~J-SPORTSより(以下も同じ) (写真)藤原のファインプレーを目の当たりにして、まだ敗戦を信じられない表情の明治大・柳裕也。
2016.06.22
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2か月ぶりで見た富士見高・太田弾(3年)投手、その時よりもだいぶ大きく見えて、風格さえ漂って見えた。いい意味で、相手チームを見おろす感じがあった。大宮県営球場で行われた埼玉大会の4回戦、富士見高-秩父農工科学高。富士見 310 302 0 =9秩父農 000 000 0 =0(7回コールド)富士見高の太田。先発して6回まで投げ、秩父打線を無安打無失点に抑えた。先日の関東大会、対銚子商高戦で見た時はコースを丹念につくピッチングと書いたが、今日見てそれは違っているように思った。変則的に横から右腕が出てくるため、打者からは球が見ずらい。なおかつ、緩急をつけた配球は絶妙。打者にとっては相当に打ちずらいだろうなと、そんな印象を受けた。太田投手、今日の成績は完璧だった。6イニング、打者数18、被安打0、奪三振7、与四球1、失点0。7回も投げれば、参考記録ながらノーヒットノーランになるな!そう思って試合を見ていたが、残念ながら7回には背番号「10」をつけた内田綾祐(2年)投手が登板。野手の好守もあり、難なく1イニングを投げ抜き、ベスト16入りを決めた。 いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.07.21
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創価高・安部将平、昨日の大垣日大高戦で敗退、結局出番のないままに甲子園を終えた。お父さんは、西武ライオンズや近鉄バファローズで、おもに「代打屋」として活躍した安部理氏(東北高)。息子の将平クン、長打力は抜群なものの守備は苦手。お父さんと同じ「代打屋」に活躍の場を求めた。この試合でも、大垣日大高・森田貴之投手の直球をスタンドに運ぶイメージでバットを振り続けていた。が、残念ながら出番はまわってこなかった。将平クンはいう。「でも、ぼくもお父さんと同じ代打の切り札になったことは、お父さんは褒めてくれるかな」 (参考:朝日新聞)-------------------------------------------------安部理(あべ おさむ)。たしか97年か98年頃だったと思う。ボクは西武球場に近鉄-西武戦を観戦に行っていた。試合前の練習。西武から近鉄に移籍した安部が、試合前の練習でレフト側フェンスのポール近くにいて、必死にジャンプしながらボールを捕球する練習をしていた。「守備機会の少ない安部が、今さら『塀ぎわの魔術師』(※)でも目指すのか~?」なんて思いながら、大粒の汗をかく安部の姿を見ていたことがある。たしか一緒にレフトのポジションで練習をしていたのは、嬉々として練習に取り組む入団間もない磯部公一(現・楽天)だった。--------------------------------------------------------安部の東北高時代、なんと4度も甲子園に出場している。79年春・夏、80年春・夏。当時のポジションは一塁手。中では80年春が安部にとっては、甲子園ベスト8に進出が最高記録。だが準々決勝で丸亀商高に敗れた。この大会、優勝したのは箕島高。準優勝は、牛島和彦やドカベンこと香川伸行を擁した浪商高。そして80年夏、東北高は1回戦で敗退したが、この大会で優勝したのは愛甲猛のいる横浜高。準優勝は早稲田実で、投手は荒木大輔(現・西武コーチ)だった。※「塀ぎわの魔術師」読売・V9時代、レフトを守っていた高田繁(現・日本ハムGM)がフェンス際でジャンプ一番、本塁打になる打球を好捕する名手だったため、そう呼ばれていた。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.08.17
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この「スモールベースボール」を実現するため、一番打者にロッテから移籍した小坂を起用する案を浮上している。スモールベースボール? 小坂が小さいからスモールというわけではないようで...。×××××××××××××××××××××××××スポニチ紙本日付で、二宮清純氏が解説している。「98年以降、数々のテロ事件に巻き込まれた米国。01年9月11日には、東海岸同時多発テロにまでつながった。人種や階層を越えた団結を意図したホワイトハウスは、ボンズのロケットのようなホームランを超大国の覇権の象徴とした。偶然かもしれないがその結果、粉飾ホームラン疑惑やら薬物疑惑やらの弊害を生み、その象徴的存在だったマグワイア、ボンズ、ソーサらが揃って法廷に立たされることになった。いま、イラク戦争は終盤を迎え「超大国」を装う必要のなくなった米国内は、振り子の揺り返しのように「家族愛」とか人と人との絆に立ち返る空気が広まった。スモールベースボールとは、まさにいま米国内に広まる空気を野球に具現化したもので、「チーム愛」を根底に小技や機動性を絡めて打者と打者の絆・つながりに注目した野球を指す。昨年「世界一」になったホワイトソックスがその好例。×××××××××××××××××××××××××なるほど、深いですな。原監督がそこまで意図しているかどうかはわかりませんが。同じスポニチで予想オーダーが出ています。これは開幕戦をさしているのかは、定かでないのですが。1番 遊 小坂2番 中 亀井 「かめい」ってだれ?3番 右 高橋4番 三 小久保5番 一 李6番 捕 阿部7番 左 清水8番 二 仁志ロッテからの移籍組が2名入っている。一時(いっとき)の四番打者ばかりのオーダーからは、結構脱しているように見えます。
2006.02.08
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■今日(5月31日)行われた早慶戦3回戦、両校ともに「勝てば優勝!」の大一番だったが、慶應義塾大が早稲田大の斎藤佑樹(4年、早稲田実)を3回ノックアウト。早々に主導権を握り、勝負を決めた。慶應のリーグ優勝は11季ぶり。以下、日刊スポーツより。勝った方が優勝という早慶戦3回戦は、プロ野球出身の江藤省三監督(68)率いる慶大が自慢の打線で早大投手陣を打ち崩し、04年秋以来11季ぶりの優勝を飾った。2回に竹内一真外野手(4年=慶応)の右越え適時打と捕逸で2点を先制すると、5回には山口尚記外野手(4年=慶応)が左越え2ラン。6回にも敵失で2点を追加し、6点を奪った。早大は3回で降板したエース斎藤佑樹投手(4年=早実)に続いて福井優也(4年=済美)大石達也(4年=福岡大大濠)もそれぞれ2失点で、完敗だった。慶大の先発、竹内大助投手(2年=中京大中京)は今季6勝目で、ベストナインにも選出。胴上げされた江藤監督は「1人1人がよくやってくれました。大学野球は最高ですね、純粋です」と目頭を押さえた。■今季の慶應、打力がスゴイとも言われているが、優勝の原動力になったのは竹内大助(2年、中京大中京高)に違いない。9試合を投げて6勝2敗、防御率1.32(投手十傑の2位)は素晴らしいの一言。今にして思えば、初戦の東京大戦でノーヒットノーランを達成した時点で、慶應優勝のシナリオがすでに出来上がっていたのかもしれない。■慶應のリーグ優勝は11季ぶり。2004年秋に優勝して以来のことだ。この時の主要選手には加藤幹典(現・ヤクルト、当時1年、川和高)、岡崎 祥昊(現・JFE東日本、当時2年、智弁和歌山高)や中村太郎(現・?、当時4年、大宮高)らがいた。また春のリーグ優勝はいつだろう?と調べてみると、前回優勝したのが1997年だったことがわかった。実に13年ぶりのこと。ということは、前回、全日本大学野球選手権に出場したのも13年ぶりということになる。この時のメンバーには現・読売の高橋由伸(桐蔭学園高)がいた。■慶應が13年ぶりに全日本大学野球選手権に出場するが、東京六大学のチームが優勝を狙うのであれば、早稲田が勝ったほうがその確率が高かったな・・・ボクにはそう思えて仕方がない。例えば東洋大と対戦した時、早稲田ならある程度戦いぶりを予想できるが、慶應だと???なのだ。いや、決して慶應の優勝に水を差すつもりはないけれど。今日も1クリックお願いします
2010.05.31
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■マーリンズと再契約したイチロー外野手(42)が引退までの「終身雇用」を保障されていたことが分かった。代理人のジョン・ボグズ氏が9日、イチローの契約をまとめた際の秘話を明かした。同氏は「球団は、イチローがいたいだけいてほしいとのことだった。彼らはイチローを非常にリスペクトしている」と明かした。終身保障の考えを聞かされた同氏も感激し「イチローもチームメートにも球団にも満足している。願わくば、この先何年もマ軍でプレーを続けてほしいね」と笑顔で話した。(以上、日刊スポーツより)イチローを終身雇用、「いたいだけいてほしい」という言葉がいいですね。そもそも野球選手は雇用契約なのか、なんてくだらないことはおいといて、一般のサラリーマン社会でもあまり聞かなくなった「終身雇用」、昭和の響きがあって実にいい。■さて、「いたいだけいてほしい」と聞いて、思い出したのが「やりたければどうぞ」発言です。正確には「監督をおやりになりたければどうぞおやりなさい」。発言の主は西武ライオンズの堤義明オーナー、一方、言われたのは西武ライオンズの森祇晶監督(いずれも当時)。それは1989年のシーズンオフのことでした。常勝を誇った西武が惜しくも近鉄バファローズにリーグ優勝をさらわれ、その負け惜しみと観客数が増えない苛立ちを森監督に向けて発した言葉です。これは「いたいだけいてほしい」と言葉は似ていますが、その意味するところは180度違います。「森なんかに監督を続けてほしくないけれど、やりたいなら勝手にやればぁ。ほんとにイヤになっちゃうなぁ。もっとまわりの空気を読んでくれないかな、あ~ぁ(ため息)」といったところでしょう。「やりたければどうぞ」。森監督はそんな皮肉にもめげずに西武の指揮を執り続けますが、ことはこれだけで収まりませんでした。その5年後に、森監督を「悲劇」第二幕目が襲います。1994年の日本シリーズ、西武ー巨人第4戦の試合前のこと、会場となった東京ドームの電光掲示板にニュース速報が大々的に流れました。「西武・森監督、シリーズ後に辞任」今まさに日本一目指して戦おうという時、森監督の目の前でこのニュースが流れたのです。もちろん、西武球団と森監督の間では「そのシーズン限りで辞任する」という合意はありましたが、このことは日本シリーズ終了後にしかるべき段取りを踏んで公表されるはずでした。当時密月の関係にあった西武・堤オーナーと、森監督にとっての古巣・巨人(読売グループ)が仕組んだ罠とでもいいましょうか。この2度にわたる仕打ちを経て(本当はもっとあったでしょうが)、森監督は球界の表舞台から身を引くことになったのでした。(写真)西武、全盛のころ。胴上げされる森監督、左手前は工藤公康。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より。
2015.12.14
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■いよいよ今日、セ・パともにクライマックスシリーズが開幕する。セントラルは阪神(2位)と広島(3位)の組み合わせ、そして広島の先発予想は前田健太らしい。近鉄バファローズなき今、阪神ー広島戦の勝敗に興味はないけれど、ボクはスポーツニュース(TV)で前田の顔を見、2006年センバツの、あのシーンを思い出した。(2006年4月1日、準々決勝、PL学園vs秋田商)PL学 011 100 100 =4秋田 000 000 001 =1 ■それは、試合序盤の2回表、PL学園の攻撃中に起きた。この回先頭の前田健太が二塁打を放って出塁すると、すかさず次打者の送りバントで三進。そして二死後、投手がサインをのぞきこむ隙に、三塁にいた前田がホームスチールを敢行した(写真、朝日デジタル)。実は、このプレーはノーサイン。ファンだけでなくベンチで見ていた選手たちも驚いた。「前田は、なにやってんだ!?」と。一方の前田本人は、あっけらかんとしてこう応えた。「好奇心だけで走った、突然走りたくなったから」。???わかったような、わからないような・・・。ま、事情がどうであれ、前田の「思いつき」ホームスチールがチームに流れを呼び、秋田商に勝利した。■ちなみに、この大会で優勝したのは横浜。決勝で長崎・清峰を21-0で下した。なお、斎藤佑樹(現・日本ハム、早稲田大)を擁する早稲田実もこの大会に出場していたが、準々決勝で横浜に大敗し、ひっそりと姿を消していた。「ハンカチ旋風」が起きたのは、この時からおよそ4か月後のことだった。
2014.10.10
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1949年(昭和24年)、前年優勝した南海の切り札投手別所を巨人が奪ってしまう事件が起きた。これが世に言う「別所引き抜き事件」。 南海側は奪われたとし、巨人側は別所が入団を希望したから入団させたと称した。もともと7年前、別所は巨人入り希望していたと言えばそれまでだが、当時は未完成の大器に過ぎなかった。だが、いまや南海を背負って立つ大立て者であった・・・。「別所引き抜き事件」をもっと知りたい方は、こちらをどうぞ。魔術師 上 三原脩と西鉄ライオンズ(小学館文庫)【電子書籍】[ 立石泰則 ]魔術師 下 三原脩と西鉄ライオンズ(小学館文庫)【電子書籍】[ 立石泰則 ]靴磨きの教科書 プロの技術はどこが違うのか別冊2nd 革靴自慢。 エイムック 【ムック】【M.モゥブレィ】 M.モゥブレィ ステインリムーバー300 300ml 【靴:靴ケア用品・アクセサリ:汚れ落とし】【M.MOWBRAY】
2020.04.16
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1949年(昭和24年)春、日本のプロ野球の生みの親・正力松太郎は「日本にも2リーグ制を作りたい。そのために現在の8球団に4球団を加え、12球団にしたい」と高らかに宣言した。東京六大学野球こそが日本の野球の象徴的存在であり、プロ野球は蔑まれていた時代。しかしここにきて正力らの尽力により、プロ野球もやっと人気が沸騰するに至り、前述の正力発言が生まれた。 そしてこの49年は、巨人にとっても様々な事件が起きた年だった。そのひとつは「別府引き抜き事件」。この事件の背景には、当時巨人の監督だった三原脩の、打倒南海の執念があった。それは・・・、 ちなみに前年の順位を紹介すると、優勝は南海。そして5ゲーム差で2位巨人、大きく離されて3位阪神(17ゲーム差)、4位阪急(20ゲーム差)と続く。つまり戦後優勝のない巨人にとって、南海を倒すことが至上命題。 そのため三原が企てた策は南海のエース・別所毅彦の引き抜きだった。あまりにも短絡的、単刀直入すぎる感があるけれども(笑)。以下は、三原が当時選手だった青田昇に語った内容で、以後脈々と続く巨人のトレード戦略の基盤とも言えて興味深い。 「別所が今シーズン、巨人で1勝もできなかったとしても、彼の(昨年の勝ち星の)26勝が南海から消えるだけで、ウチが優勝できるのだから」。(※1) 結局、別所は49年開幕から2か月間の出場停止処分を受けるけれども、別所をはさんで巨人と南海の感情はこじれこじれた。当たり前である。南海にとっては自チームのエースを勝手に奪い取られたのだから面白いはずがない。そんな両者が4月12日から後楽園球場で3連戦を戦った。険悪な空気が漂う遺恨試合とでも言おうか。 そして1勝1敗で迎えた第三戦目にとんでもない事件が起きた。世に言う「三原ポカリ事件」である。 興味のある方は、こちらの「三原ポカリ事件」をどうぞ。 (※1)『三原脩と西鉄ライオンズ 魔術師』(立石泰則著、小学館)より。2か月間の出場停止処分を受けていた別所投手は、6月5日、巨人のユニフォーム姿で現れた。~『激動の昭和スポーツ史 プロ野球』(ベースボール・マガジン社)より~野球五十年(増補新版) / 大和球士 【中古】魔術師 上 三原脩と西鉄ライオンズ(小学館文庫)【電子書籍】[ 立石泰則 ]魔術師 下 三原脩と西鉄ライオンズ(小学館文庫)【電子書籍】[ 立石泰則 ]激動の昭和スポーツ史 1 プロ野球 上【中古】【エントリーでポイント10倍!(4月16日01:59まで!)】【中古】スポーツ雑誌 全18巻 激動の昭和スポーツ史(2) プロ野球下 昭和40年〜平成元年
2020.04.18
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