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今日行われた埼玉大会4回戦。夏3年連続甲子園出場を目指す花咲徳栄(Aシード)と、武蔵越生の戦い。中盤まで4-2の接戦、武蔵越生が大いに健闘しましたが、終盤に花咲徳栄が8-2で突き放しました。実は花咲徳栄・岩井隆監督と武蔵越生・泉名智紀監督は東北福祉大の先輩・後輩でした。どちらが先輩か分かりませんでしたが、サイトで調べたところ岩井さんは91年卒、泉名さんは92年卒。岩井さんの同期に浜名千広(のちにダイエーほか)や現阪神監督の金本知憲らがおり、泉名さんはその一学年下だったようです。泉名さん、大学卒業後は98年から東京成徳大深谷の監督に就きましたが、野球部のグラウンドがなく、練習場を転々とする苦労を経験、それでいて埼玉大会ベスト4入りを果たすなどの苦労人だったようで。今年夏は終わりましたが、来年につながる今日の善戦でした。(写真)花咲徳栄・岩井隆監督。(テレビ埼玉より。以下も同じ)(写真)武蔵越生・泉名智紀監督。
2017.07.17
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東京六大学野球、早稲田大・斎藤佑樹(1年・早稲田実)だけを書いている場合じゃなさそうだ。慶應義塾大-明治大戦が大変なことになっている。第1戦 9月22日(土)慶應大 001 000 003 =4明治大 002 200 000 =4第2戦 9月23日(日)明治大 000 000 000 =0 慶應大 001 000 00X =1第3戦 9月24日(月)※延長12回慶應大 002 000 000 000 =2 明治大 000 000 200 000 =2 3試合を消化して慶應の1勝2分け。------------------------------------------------------今日の試合、先制点を叩きだしたのは慶應大の9番打者・漆畑哲也(2年・慶應高)。走者を二塁に置き、明治大・久米勇紀(4年・桐生一高)がカウント2-2から投げた直球。捕手は内角に構えていたが、逆球で外角に行ったボールを漆畑は右中間に弾き返し、二塁走者が生還した。一気に三塁ベースに駆け込んだ漆畑。二度三度と、遠慮がちに三塁側ベンチに右手にコブシをつくり、小さなガッツポーズを作って見せた。漆畑哲也。05年、慶應高の主将としてセンバツで甲子園に出場している。チームのエースは、いうまでもなく中林伸陽(現・慶應義塾大2年)。慶應旋風を巻き起こしたのは記憶に新しい。----------------------------------------------------------漆畑選手の出身は埼玉。2歳年上の兄・雅彦氏の影響を受けて野球を始めた。中学時代は兄のいる越谷シニアに所属していた。今から遡ること8年前、99年のシニアリーグ全国大会。漆畑本人はバット引きの役回りだったが、兄は越谷シニアの投手としてマウンドに立っていた。そして相手チームのエースとして、相対していたのは現・慶應大の青池悠五(4年・静岡高)。漆畑と青池、不思議な縁で慶應大でチームメイトになった。(「慶大野球部ブログ」内、漆畑哲也選手の日記より引用)-----------------------------------------------------------最後に。兄の漆畑雅彦氏のこと。現在、中央大学準硬式野球部に所属しているらしいが、浦和学院高時代は2度、甲子園に出場している。03年のセンバツ。三回戦に勝ち進んだが、智弁和歌山高に延長12回の末、6-7で敗退した。この時、先発投手でありサヨナラ打を放ったのは、智弁和歌山・本田将章。現在、早稲田大の遊撃手を務めている。ちなみに、当時の浦和学院高エースは、現・日本ハムの須永英輝だった。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.09.24
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今日、日本ハムがパ・リーグのシーズン1位を決めた。優勝といえないところにルールの複雑さを感じる。そして同じ日、オリックスの中村監督が辞任した。---以上、今日の出来事。久しぶりに日刊ゲンダイの「プロ野球を動かす、この球団の学閥事情」より。これまでヤクルト、横浜、読売を読んだ。ヤクルト→すでに早稲田閥の様子をこのブログに書いた。横浜→元・法政大監督・山中正竹氏を招聘した時点で法政閥に。読売→過去には早慶閥の争いがあったが、今では原監督の東海閥。次いでフロント・末次民夫氏の中大閥。そして今日は阪神。元・法政大監督・田丸仁氏がスカウトに就任した時点で法政閥に。下記の法政大選手たちを次々と獲得した。77年 2位 植松精一78年 1位 江川卓※その後、コミッショナーの強い要望事件が勃発82年 1位 木戸克彦83年 2位 池田親興86年 1位 猪俣隆89年 1位 葛西稔しかし、星野仙一氏の監督就任後は明大閥に変わった。平田勝男、広沢克美、平塚克洋などの重用がその証拠らしい。平田勝男(長崎・海星高-明治大)。神宮で明大時代の平田の姿は何度も見た。軽快なフットワークの守備に定評があり、早いうちからプロに進むことが当たり前のように見られていた。現役引退後、神宮のネット裏で何度か見かけたことがある。あの「童顔」が憎めないキャラクターになっている。平田と81年・同期入団の主な選手たち(大卒編)【ヤクルト】1位 宮本賢治(東洋大姫路高-亜細亜大)【西武】2位 金森栄治(PL学園高-早稲田大-プリンスホテル)※ちなみにこの年、1位で伊東勤(熊本工高-所沢高)、6位で工藤公康(愛工大名電高)が入団した。 いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.09.27
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レッドソックス松坂大輔投手(28)の視線を感じながら、西武岸孝之投手(24)は同じWBC代表候補の片岡と"真剣勝負"した。ブルペンでキャンプ最多の124球。途中、生きたボールを見ようと片岡が打席に入ると、岸の顔つきが一変した。捕手にサインを出させる本番さながらの雰囲気のなか、全球種を交えて対抗。片岡は「全部つまらされるイメージだった。特にカーブは腕を振ってから、なかなか手元までこない。あれは打てないはずだよ」。絶賛したのは松坂だけでなかった。 岸は「松坂さんがブルペンにいたのは分かったけど、僕のことを見てるとは思いませんでした。内角を投げるときチビりました」と笑ったが、内角を投げきれるかどうかを1つの指標としているだけに収穫だった。(日刊スポーツ) 岸孝之(名取北高-東北学院大)。<名取北高時代>名取北高時代のこと。名取北高という無名校にいた岸、東北学院大に入学した経緯にはちょっとしたエピソードがある。以下、『アマチュア野球 Vol9』(日刊スポーツ出版社刊)より。それは高校3年の夏、宮城県大会1回戦。相手は多賀城高。実はこの多賀城高の選手に東北学院大・菅井徳雄監督の息子さんが出場していた。せめて息子の最後の試合は応援に行こうと考えた菅井監督。球場に足を運んだところ目に映ったのは、息子のチームを5回までノーヒット・ノーランに抑える名取北高の岸という投手。菅井さん、この時初めて岸を知り素早い行動を起こした。試合終了後、躊躇なくその足で名取北高を訪ねて岸に言った。「スポーツ推薦でぜひ東北学院大へ!」と頼み込んだのだ。もし、菅井さんが偶然球場に来なかったら、そしてもし強引に岸を訪ねなかったら、プロ野球選手・岸孝之は生まれていなかったかもしれない。ちなみに多賀城高戦。岸は死球を1つ与えたため完全試合にはならなかった。その唯一の死球、与えた相手は偶然にも菅井さんの息子さんだった。(以上、『アマチュア野球 Vol9』)■チームメイト■後にプロに進んだ選手はいない。■宮城県内のライバル■同じ学年でプロに進んだ選手に東北高の高井雄平(現・ヤクルト)がいる。また同じ東北高の2学年下には、ダルビッシュ有(現・日本ハム)がいた。■甲子園のライバル■甲子園に出場していない。<東北学院大時代>大学4年だった2006年春、東北学院大4年の時に仙台六大学リーグで34連覇中の東北福祉大を下し、18年ぶりのリーグ優勝に貢献。最優秀選手、ベストナイン(投手)に選ばれた。 全日本大学選手権は初戦で九州東海大に敗れたものの、そのピッチングが評価され日米大学選手権、世界大学選手権の日本代表にも選ばれた。大学通算成績23勝11敗。■チームメイト■後にプロに進んだ選手はいない。■仙台六大学リーグのライバル■強豪・東北福祉大の1学年上に現・ロッテの根元俊一(花咲徳栄高)や、現・読売の福田聡志(和歌山・伊都高)がいた。■日米大学野球、代表チームのチームメイト■【投手】・近畿大 大隣憲司(現・ホークス、京都学園高)・早稲田大 宮本賢(現・日本ハム、関西高)・東洋大 永井怜(現・楽天、東農大二高)・武蔵大 上園啓史(現・阪神、東福岡高) ほか【捕手】・東洋大 田中大輔(現・中日、如水館高) ほか【内野手】・法政大 大引啓次(現・オリックス、浪速高)・早稲田大 上本博紀(2年、現・阪神、広陵高)・青山学院大 円谷英俊(現・読売、横浜高) ほか【外野手】・日本大 長野久義(現・ホンダ、筑陽学園高) ほか ぜひ今日も1クリックをお願いします
2009.02.11
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センバツが開幕しました。 (写真)スコア~NHKより。以下も同じ。「春は投手力で決まる!」なんて言葉が生まれたのは何時の頃だったでしょうか。それがため開幕前の下馬評でも、本格派左腕に注目が集まりました。が、しかし、今日の第三試合、滋賀学園ー桐生第一を見ていて、いえいえそうじゃありませんぞ! なんて叫びたくなりました!(^^)!まず滋賀学園の右腕・神村月光(170cm、65キロ)の投球が素晴らしかった。特に落ちる系のボール、あれはカーブなんでしょうか。がんがんに落ちて、打者のバットがクルクルと空を斬っておりました。後半は疲れが見えましたが、今後が楽しみです。 そして桐生第一の3番手で登板した右腕・金田海都(174cm、75キロ)も良かった。せいぜい直球の球速が130キロ台半ばにもかかわらず、その球速以上のスピード、重さを感じました。物怖じする様子もなく、ズバッと投げ込む直球に惚れ惚れしました。昨年秋以降は公式戦の登板がゼロなのに、度胸だってなかなかのもの。 だいぶ以前、東海大浦安に背番号「4」をつけつつも投手として大活躍した小柄な右腕がいました。名前を忘れましたが(笑)。プロのスカウト好みでないでしょうが、高校野球はこういう投手がチームに勝利をもたらし勝ち進むのです。明日からも小柄右腕に注目しましょ(^^♪
2016.03.20
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1980年、大学入学の直後、初めて神宮へ行くと法政大の4番は私と同じ1年生の小早川(PL学園)だったのには驚きました。1年生で4番とは??? この時、3番は西田(のちに広島)、5番は木戸(のちに阪神)とPL学園トリオがクリーンアップを構成する強力打線。たしか武藤一(秋田商、のちにロッテ)がライトを守っていました。 先日の始球式の一コマだけで、様々なことが昨日のことのように思い起こされました。でも…、彼が右利きだったことはすっかり忘れていたなぁ(笑)
2025.09.28
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全日本大学野球選手権大会・準決勝、法政大vs対関西国際大戦(6月13日)。国際大 001 000 100 =2法政大 101 010 20X =5(国)田島、益田、松永、北嶋、(法)二神この試合は、先日このブログにも書いたとおり、完投勝利したエース・二神一人(4年、高知高)や4打数4安打3打点のルーキー・多木裕史(1年、坂出高)の活躍で、法政大が勝利し決勝進出を決めた。関西国際大は、1番・田中聡祐(4年、西脇工高)の2打点の活躍で懸命に追いかけたが、試合の主導権をつかむことなく敗れ去った。法政大は常にリードし、試合の「流れ」を相手に渡さなかったことが勝因だ。ただ4回表の守備では、危うく「流れ」を関西国際大に奪われかけたシーンがあった。そしてそれを見事に防いだのが、ライトを守る成田恭佑(3年、東北高)のプレーだった。--------------------------------------------------------------1点差を追う関西国際大、4回表の攻撃がその場面。一死後、4番・廣井亮介(3年、智弁和歌山高)が四球で出塁する。続く5番・金丸俊(1年、国士舘高)は高いバウンドでライトに抜ける安打を放つと、一塁走者の廣井は二塁を蹴って一気に三塁へ駆ける。法政大のライト・成田は懸命に前進し、打球をつかむやすぐさま三塁へ好送球。間一髪でアウトに仕留めた。もし三塁進塁を許していたら、一死一・三塁になっていたところ。ひょっとしたら、「流れ」が変わって関西国際大に行っていたかもしれない・・・。---------------------------------------------------------------成田恭佑。選手層の厚い法政大にあって、リーグ戦の出番は多くない。特にライトはシーズン中、選手がコロコロ変わるポジション。そんな事情もあって、成田の今春の成績は全12試合中、半分の6試合に出場。打席数は9、8打数1安打2打点1四球、打率は1割2分5厘だった。この日のプレーをキッカケに、ぜひ秋季は定位置を奪取してほしいものだ。また、東北高時代を調べてみたところ、甲子園に2度出場していたことがわかった。■1度目は2004年夏。いまでは日本のエースとなったダルビッシュ有(現・日本ハム)とともに、成田は1年生ながらレフトとして試合に出場していた。3回戦までコマを進めたものの、エース・松本啓二朗(現・横浜、早稲田大)を擁する千葉経大付高に、延長の末惜敗した。■2度目は翌05年夏。2年生ながら成田は主軸を打ち、準々決勝まで勝ち進んだが、エース・辻内崇伸(現・読売)を擁する大阪桐蔭高に4-6で敗退した。この時、大阪桐蔭はスター揃い。辻内のほかに平田良介(現・中日)、 中田翔(現・日本ハム)や謝敷正吾(現・明治大3年)もいた。 今日も1クリックお願いします
2009.06.21
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◇今日の時事ニュース◇・自民党の古賀誠選挙対策委員長が公明党との選挙協力の見直しに言及、与党内に波紋広がる・原油価格の下落に伴い、ガソリンの小売価格も急降下。1リットル105-110円まで値下げ・帝国データバンク、月刊誌「男の隠れ家」の出版社「あいであ・らいふH」が自己破産を申請 とても憤慨している人がいる昨日発表されたWBCの一次候補選手に漏れた松井稼頭央(アストロズ、PL学園高)と所属する事務所の社長は大怒りだ。今季3度、故障者リストに入った松井稼は、WBC出場に必要な所属球団の許可を求め、アストロズから快諾を得るなど、すっかりその気になったところで、はしごを外された格好だ。松井稼は「すごく悔しいです」とだけコメントした。(夕刊フジ)松井の所属事務所「クロス・ビー」の代表取締役、神崎実氏はもっと凄い。声を荒らげてこう言ったという。 「落選理由も選考の説明も何もない。手紙で(15日に発表された)34人に入っていない、と書かれていただけ。あまりに冷たいやり方です」(同) 同様にロッテ・西岡剛(大阪桐蔭高)も落選した。「この大会を目標にしてきたし自分の中では出るつもりでいたので本当にショックです。気持ちを切り替えて09年のシーズンにこの悔しさをぶつけたい」(日刊スポーツ)--------------------------------------------------------------------面白かったのは日刊ゲンダイ。原辰徳監督が選手を選考したと巷(ちまた)では言われているが、実はイチロー(マリナーズ、愛工大名電高)の意を汲んだ選手選考ではないか?という憶測記事があった。例えば前回のWBCに出場していた宮本慎也(PL学園高-同志社大)が外れたのはイチローの意向が働いているのでは?と書いていた。主将としてのリーダーシップは最大限の称賛を受けた宮本だったが、イチローにとって宮本は「目の上のタンコブ」的な存在であり、もともと二人の間には大きな溝があったという。西岡や、今回の選考から外れた里崎智也(鳴門工高-帝京大)らロッテの選手たちにも似た理由がある。彼らの奔放な言動がイチローから嫌われたため代表から漏れたのでは?と書いていた。 どの選手が選ばれ、どの選手が落選するか。その基準が明確でないから、余計に怒る人が出ることになる。北京五輪の総括がまるでなく、またどういったコンセプトでWBCに臨むか、そのビジョンが明示されないままだったため、どうしても「場当たり」的な印象が拭えない。星野仙一監督へのバッシングだけで終わらせてはいけなかったのだ。(あまりに真っ当なことしか書けなくてごめんなさい) ------------------------------------------------------------------昨日(15日)、このブログのアクセス数が60万件を超えました。これまでアクセスしてくださった皆さまに感謝します。ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします。 1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング
2008.12.16
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■今日(11月24日)、明治学院創立150周年を記念し、明治学院大(首都大学リーグ2部)―東京大(東京六大学リーグ)の対抗戦が神宮球場で行われた。なぜ今日、明治学院と東大が対戦したのか? 少し説明が必要だ。当時華々しい活躍をしていた白金クラブ(以下、白金。明治学院の前身)と、ライバルの第一高等中学校(以下、一高。東京大の前身)が対戦したのは、今から123年前、1890年(明治23年)5月のこと。今日行われた試合は、この時の再現試合だった。実はこの1か月ほど前、白金は駒場農学校(以下、駒場。後に併合し東京大に)との試合に敗れていたため、駒場に報復を計るべく画策していたのだが、「もし再度敗北したら、更に恥の上塗りである」と考え、まずは一高に勝利した後に、駒場へ雪辱戦を挑むという段取りだった。前哨戦ともいうべき対一高戦は、前述のとおり1890年5月2日、本郷向ヶ丘にある一高のグラウンドで行われた。■試合の模様は『日本野球史』(国民新聞運動部編、昭和4年7月18日刊)に詳しいので、以下に引用。一高の選手たちは、体操部の所蔵にかかる青小倉の古洋服を着ているのに反して、白金は白シャツに天鵞絨(ビロード)でM字を型取ったマークを胸に付け、フランネルの半ズボンの膝頭には赤糸で桜花を刺繍してあったのが、殊更目に立って威風四辺を払うの概があった。しかもその指導者が白面巨大のマグネヤとて、一高の方は戦わざるに呑まれた概がある。・・・学制の変更から一高に編入された正岡子規が捕手を承り、蛮勇をもってこのハイカラ軍を一蹴せんとし、白金は白洲兄弟がこれに当たった。■ただ、このまま試合が終わっていれば、歴史に残ることはなかったし、今日再現試合を行うこともなかった。6回終了時点で白金が6-0とリードしているところで、遅れて教え子たちの応援に駆け付けたのが明治学院の教師ウイリアム・インブリ―だった。インブリ―は入口が分からず、たまたま垣根を飛び越えてグラウンドに入ったため、礼節を重んじ正門主義を唱える一高は無礼と受け取り、インブリ―を暴行し、重傷を負わせた(=インブリ―事件)。原因は、正門主義のほかに、この時代の西洋人排斥の風潮、そしてバンカラ官学対ハイカラ私学の構図が根底にあったと見ることもできる。国際問題に発展しかねない事件だったが、被害者のインブリ―が矛先を収め、どうにか穏便に解決した。書籍『白球太平洋を渡る』(版元?)には、こう書かれている。この事件(インブリ―事件)は一高の野球を『校技』に位置付け、全寮あげて名誉挽回のために従来の弄球快戯的なものを捨て、悲壮な覚悟を持って猛練習に励んだ。彼らのエリート意識は寮生にあてた檄文で『第一高等中学が全てのものに優位にたたねばならぬ』と論じるほどであった。つまりこの事件こそが精神野球の始まるきっかけとなったのである。明治23年11月にはついに白金を破り、更に12月には溜池にも大勝し、翌年、白金・溜池連合軍を破ると一高精神野球は国内に敵なしという状態になった。このインブリ-事件を発端に、日本国内に「精神野球」が波及したのである。※余談だが、11月に両チームが再戦し一高が勝利するのだが、一高の5番・二塁手で出場したのが、ベースボールを野球と訳した、中馬庚である。(写真)再現試合にふさわしいユニフォーム(胸のマーク)、帽子。上が明治学院、下が東京大。
2013.11.24
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読売監督にしてWBC日本代表の監督でもある原辰徳氏(東海大相模高-東海大)、そしてその父・貢氏(現・東海大系列高野球部総監督)のことが「父子鷹」と呼ばれるようになって久しい。原親子がそう呼ばれ始めた頃、2人が出場していた1976年夏の甲子園で、まったく無名校の無名投手だった男が優勝をさらって行った。その男が今、あらたに「父子鷹」と呼ばれるようになったのだから、「巡る時代」は面白い。その優勝をさらった無名投手が桜美林高の松本吉啓。そして、その息子が啓二朗。松本吉啓氏(桜美林高-明治大-明治生命-埼玉栄高監督-千葉経大付高監督)。<桜美林高時代>まだ夏の甲子園3度目の出場だった桜美林高。当時は「オウビリン」とまともに読める人がいなかった1976年夏の甲子園で全国制覇を果たした。2回戦 日大山形高に4-0 3回戦 市神港高に3-2 準々決勝 銚子商高に4-2準決勝 星稜高に4-1そして、決勝でPL学園高をスコア延長11回の熱戦の末、4-3でサヨナラ勝ちし、優勝を決めた。桜美林が勝利するたび校歌が甲子園に流れた。その時、ボクは「イエス、イエス、イエス」という歌詞を憶えた。そして、「校歌にカタカナ」があるなんて不思議なもんだ、とも思ったものだ。■東京都内のライバル■一学年下に日大二高・五十嵐信一(現・日本ハムスコアラー)、二学年上に城西高の高橋慶彦(現・ロッテコーチ)がいた。■甲子園のライバル■準々決勝で対戦した銚子商高のショートは宇野勝(元・中日)。また準決勝で対戦した星稜高のエースは小松辰雄(元・中日)だった。直接対戦はしなかったが、柳川商高の久保康生(現・阪神チーフコーチ)、「サッシー」こと海星高・酒井圭一(現・ヤクルト九州担当チーフスカウト)らがいた。また、息子・啓二朗がいた早稲田大監督の應武篤良氏も、広島・崇徳高の捕手としてこの大会に出場していた。2回戦で東海大四高に勝利したものの、3回戦で酒井のいる海星高にスコア0-1で惜敗した。※應武さん、同年秋のドラフトで近鉄バファローズから3位指名を受けたが、これを蹴って早稲田大に進学した。(⇒あま野球日記「近鉄を蹴った男たち」収録)松本吉啓氏、高校を卒業し明治大に進学、そして明治生命に進むが、高校・大学・社会人のすべてで「日本一」を経験した。現役の選手として「日本一」を経験していないのは「プロ野球」だけ。明治大入学以降のことは次回に。※<松本啓二朗の小中高時代>はこちら。 <松本啓二朗の大学時代>はこちら。 <松本啓二朗の父・吉啓氏の高校時代>はこちら。 <松本啓二朗の父・吉啓氏の大学時代?>はこちら。 <松本啓二朗の父・吉啓氏の高校監督時代>はこちら。ぜひ1クリックをお願いします
2009.03.01
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◇今日の時事ニュース◇・今年の上場企業倒産件数は30件にのぼり、戦後最多の記録となる・松井秀喜のWBC参加はない。ヤンキース・キャッシュマンGMが断言・若槻千夏、アメブロ『マーボー豆腐は飲み物です。』を再開。出身地:グラビア界の東武東上線! 中日新聞(11月10日付)より。中日のエース・川上憲伸投手の目指す先は、米国・大リーグ。ドラゴンズを支えてきたエースのメジャー流出が濃厚だ。大リーグへのあこがれは強く、思いは8年以上も胸に秘めてきた。川上の評価について、ある大リーグ球団のスカウトは「去年の黒田ほどの契約(3年総額約38億円)は望めないだろう。中4日で投げることへの不安が大きい。ただ、先発4、5番手なら中4日とは限らず、中5日、中6日で投げることもある。お金があり、先発の4、5番手を探してるチームならある程度の年俸を払うのではないか」と、推測する。超ビッグまではいかなくても、大型契約を用意する球団は出てきそうだ。----------------------------------------------------------------------------ま、親会社の中日新聞が書いているのだから、間違いなくメジャーに行くのだろうなぁ。話は変わるけど・・・そもそも川上憲伸(徳島商高-明治大)という男は読売ファンだったことを恥ずかしながら、ボクは初めて知った。そのことを記事にした今日付けの日刊ゲンダイには、次のような裏話が紹介されていた。「川上、明治大時代には読売に入団したい希望が強かったが、明治大のOBたちがそれを許さなかった。当時、中日監督は明治大OBの星野仙一氏。ウルサ方のOBたちは、川上に中日逆指名を熱心に薦めた。もし従わない場合には、野球部のOB会から川上を除名することも辞さず、と迫った」らしい。そんな過去をもつ川上。今回のFA宣言を機に、念願の読売への移籍を考えたかもしれないが、今季の読売にFA宣言の選手を獲得する意思はない。川上、来春は泣く泣く海を渡ることになるのだろうか?----------------------------------------------------------------------------川上憲伸のエピソード。 (1)明治大時代のこと 4年時には主将兼エースとして活躍、大学通算28勝をあげた。大学3年時の1996年秋季リーグでは、明治大の全勝優勝に貢献し、東京六大学リーグの奪三振に関連する個人記録も残している。■通算奪三振 311個(歴代11位) ※1位は現・ホークスの和田毅(早稲田大)の476402個■シーズン奪三振 84個(歴代7位)また、96年秋と97年春には2季連続でベストナイン【投手部門】にも選出された。ただ川上にとって苦い思い出もあるこのブログ(2007年9月4日付)より下記に引用。大学野球の「退場」というか「乱闘」で思い出すのは、97年10月14日。東京六大学リーグの明治大-立教大4回戦。たかがタッチプレーがきっかけになり、アマ史上最悪といわれる大乱闘に発展した。明治の選手5人が立教の選手に集団で暴行を加え、終いにはパトカーまで出動する事件になってしまった。このことにより、明治大の野球部部長と総監督が引責辞任。暴行した5選手は、そのシーズンの謹慎処分を受けた。その当時の明治大・主将は川上憲伸(現・中日)。ベンチには、下級生の現横浜・木塚敦志(浦和学院高)もいた。(2)徳島商高時代のこと93年夏の甲子園に4番・エースとして出場し、準々決勝までコマを進めたものの、土肥義弘のいた春日部共栄高にスコア4-11で大敗した。※土肥義弘。つい先日、横浜から戦力外通告を受けた。現在は西武が獲得を検討中とか。 1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング
2008.11.26
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前回の記事の続き。 大下弘。西鉄ライオンズの黄金時代(1950年代後半)には「不動の4番打者」。『打撃の神様』と呼ばれた川上哲治氏が『赤バット』、その好敵手として大下は『青バットの大下』と尊敬の念をもって呼ばれていた。豪放な性格の持ち主で「二日酔いながら7打席連続安打の記録を作った」という逸話もある。小学生時代は神戸小学校に所属し、同じ神戸にあった楠小学校の別所明(のち毅彦)と対戦したことがある。そして中学生時代(1936年)、母親の仕事の関係で生まれ育った神戸を離れ台湾に渡る。入学した学校はこの年に新設されたばかりの高雄商高。当時台湾の野球の名門は嘉義農林(かぎのうりん)であり、甲子園のファンを沸かせていたから、大下の存在は誰にも知られていない地味な存在だった。※嘉義農林のOBには、後の東西対抗戦(1945年11月23日)で西軍の1番を打った呉昌征(1942年までの名前は呉 波)がいる。但し、呉は大下の6歳上であり、直接対戦したことはない。そんな無名の大下を明治大に誘ったのは、明治大OBであり当時の都市対抗チーム「オール台北」の監督だった渡辺大陸。それは大下の「剛球」に目を奪われたことがキッカケだった。ただ1941年、わざわざ台湾から明治大にやってきても、大下のやることは球拾いばかり。リーグ戦に一度も出場することもなく、航空隊に志願して戦場に向かった。※この頃、神宮にはお互いの小学生時代を知る別所(当時・日本大)がいた。甲子園で活躍してすでに名を馳せていた別所。その頃、2人の置かれた立場には大きな開きがあった。大下は別所にこんな言葉をかけている。「別にオレは大選手じゃないし、飛行機乗りが一番てっとり早く死ねるから、飛行機乗りになるよ」(『昭和20年11月23日のプレイボール』鈴木明著、光人社刊より)■大下、公式戦に出場したことはないが、一度だけ立教大との対抗戦(非公式戦)に出場したことがある。それは1943年4月7日に文部省から「六大学リーグ戦」解散命令が出た後、各校が細々と続けていた(公式戦ではない)いわば練習試合のような試合での出場だった。その試合は1943年(昭和18年)5月23日に行われた。8回表、代打で登場した大下は右越えの二塁打を放ち、走者2人が生還。同点に追いつく貴重な殊勲打となった。だがその後、立教大が1点を挙げて勝利。そしてこの試合を最後に明治大野球部は解散、明大にとって戦前最後の試合となった。※『真説・日本野球史』(大和球士著、ベースボールマガジン社刊)を見たら、その試合のメンバー表が記載されていた。そして立教大の5番打者には、主将で一塁を守る西本幸雄の名前があった。西本さんはその後繰り上げで卒業し、中国の戦場に向かったはずだから、西本さんにとっても学生最後の試合になったのかもしれない。◇西本幸雄の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。「西本幸雄の立教大時代」 (2009.3.22) → こちらへ。--------------------------------------------------------------この記事は「ボクにとっての日本野球史」の中で、次の期に属します。→ (第4期) 1925年(大正14年)、東京六大学リーグが成立し、早慶戦が復活した時以降 ◇ 「ボクにとっての日本野球史」 (2009.7.1)、 INDEXはこちらへ。今日も1クリックお願いします
2009.08.02
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2か月ぶりで見た富士見高・太田弾(3年)投手、その時よりもだいぶ大きく見えて、風格さえ漂って見えた。いい意味で、相手チームを見おろす感じがあった。大宮県営球場で行われた埼玉大会の4回戦、富士見高-秩父農工科学高。富士見 310 302 0 =9秩父農 000 000 0 =0(7回コールド)富士見高の太田。先発して6回まで投げ、秩父打線を無安打無失点に抑えた。先日の関東大会、対銚子商高戦で見た時はコースを丹念につくピッチングと書いたが、今日見てそれは違っているように思った。変則的に横から右腕が出てくるため、打者からは球が見ずらい。なおかつ、緩急をつけた配球は絶妙。打者にとっては相当に打ちずらいだろうなと、そんな印象を受けた。太田投手、今日の成績は完璧だった。6イニング、打者数18、被安打0、奪三振7、与四球1、失点0。7回も投げれば、参考記録ながらノーヒットノーランになるな!そう思って試合を見ていたが、残念ながら7回には背番号「10」をつけた内田綾祐(2年)投手が登板。野手の好守もあり、難なく1イニングを投げ抜き、ベスト16入りを決めた。 いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.07.21
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「東海大相模、厳しい試合でしたっ、逆転勝ちです~。5年ぶりのベスト4を決めましたっ。敗れた花咲徳栄も見事なゲームでした。見ている我々の気持ちを揺さぶるようなゲームでした!!!」今日の第3試合、東海大相模がサヨナラ勝ちを決めると、NHKの実況・松野靖彦アナはこう叫んだ。いや叫んだ!という表現は正確でない。それは民放アナの安っぽい絶叫とは違い、「~見ている我々の気持ちを揺さぶるような~」という箇所で声が完全に裏返っていて、本当にこの実況アナは気持ちを揺さぶられたんだろうなと、ボクは試合だけでなく、実況にも感動してしまったのだ。そしてもうひとつ、この松野アナには面白いやりとりがあった。5回、花咲徳栄アルプス応援席からのレポートで、花咲徳栄の校歌には春夏秋冬4つのバージョンがあると知らされ、直後にレポーターから歌詞の違いが分かるかを問われた。相当な無茶ぶりをするもんだと思っていたが、あにはからんや、すぐさま松野アナは正解を言い当ててみせた。解説の大矢正成さんから「なぜすぐに違いが分かったか」と聞かれると、「はい、私事で恐縮ですが、実は私の出身高校も校歌が4種類あったのです」と答え、大矢さんから「さすがに目の付け所が違いますね」と冷やかされると、「恐縮です・・・」と恥ずかしさMAXの体で、頭を掻いた。なんと純朴なアナだろうか。こういう人が高校野球の実況に欠かせないと、そう思いますます好感度がUPした次第。調べてみると、松野アナの出身は静岡・浜松北高。高校時代はハンマー投げの選手だったらしく、あの室伏広治選手と同じ大会に出たこともあるんだそうな。さてさて、これからは松野靖彦アナに注目ですぞ(^_-)-☆ もう今大会の登板はないかもしれないけれど・・・<関連記事>東海大相模、三池工を優勝に導いた原貢さんhttp://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201503070000/告! 「野球ブログ瓦版」に当ブログも参加しました。もしよろしければ、こちらのサイトもご覧ください。あなたのお気に入りの野球ブログに出合えるかもしれません。こちら→ http://kawaraban.blog.jp/
2015.08.17
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福留「アホか!これで人生終わり」(デイリースポーツ)昨日に引き続き、前川勝彦のこと。今後、処分については明らかになるようだが、最悪球界追放だってありうるという報道もある。前川に苦言を呈した福留孝介(現・中日)は、PL学園高で前川の一年先輩。95年センバツで一緒に甲子園のグラウンドに立っている。福留は3年生、4番打者で遊撃手だった。前川は2年生で控え投手。--------------------------------一回戦は銚子商高との対戦。福留のバックスクリーンに飛び込む3ランなどで7-7の同点に。延長10回表、PLのエース・前田忠節(現・阪神)を6回途中から救援した前川が、銚子商の山本啓樹に2ランを浴びて初戦で姿を消した。最後は福留がマウンドに上がった。銚子 100 202 200 03 =10 PL 004 003 000 00 = 7 PL投手:前田忠節(3年)5回2/3、被安打8、奪三振0、与四死球1、失点5前川勝彦(2年)4回2/3、被安打6、奪三振7、与四死球2、失点5 福留孝介(3年) 2/3、被安打0、奪三振1、与四死球0、失点0---------------------------------近鉄ファンだったボクからすれば、近鉄の指名(95年)を蹴って日本生命→中日に入団した福留よりも素直に入団してくれた前川(96年)のほうがずっと好きだった。でも、こんな事件が起きると前川を擁護する言葉などない。いくつかのブログでも書かれていたけれど、復帰できるかどうかを考えると、どうしても中山裕章氏を思い出してしまう。91年末に引き起こした女児強制わいせつ事件。解雇後に勤務した運送会社の方たちの署名運動などが実って94年に中日に復帰し、マウンドに立った。復帰後の姿をテレビで何度か見たことがある。実況のアナも、マウンドに立つ中山をどういう投手か説明をあえて避けている風で、スタンドにも妙な固まった空気が漂っているように思えた。いったい自分はどこの誰なのかを隠すように、黙々と投球を続ける中山。誰からも無視され、透明人間のような存在になって、中継ぎとしてマウンドに立ち続けていた。そんな彼を見るにつけ、「彼は復帰したことを喜んでいるのだろうか?」とボクは思っていた。前川、復帰の道は用意されるのだろうか。そして復帰できたときにどんな姿をファンにみせるのだろう。いつもご協力をありがとうございます。さて今は何位でしょう?人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.01.08
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■今日行われた決勝戦は、花咲徳栄が白岡を下して優勝、甲子園出場を決めた。8回を終わってスコア5-1。花咲徳栄の楽勝と思われたが、白岡は9回に粘った。1点を返しなおも2死満塁。本塁打が出れば逆転の場面を作った。ここで3年生エースの鎌倉から2年生の左腕・高橋に継投し、辛くも花咲徳栄が逃げ切った。(写真)優勝を決めた花咲徳栄ナイン。~テレビ埼玉より。■そして優勝決定後のインタビュー、花咲徳栄・岩井隆監督のコメントが面白かった。いきなり「昨夏は開会式直後の試合で敗退して、一番短い夏でしたが」と聞かれ、「はい、今年は一番長い夏になったので、昨夏のことはどうかチャラにしてほしいと・・・」と言って頭を掻いた。いったい誰にチャラにほしいと懇願しているのか(笑) きっと学校関係者やらOBやらに言っているのだろうけど、いきなりこんな質問がくると思っていなかったろうから、つい本音が出ちゃったんでしょう。きっと昨夏の敗戦後にはいろんなことがあったに違いない!(写真)優勝決定後、インタビューに答える岩井隆監督。~テレビ埼玉より。■岩井隆監督(桐光学園ー東北福祉大)。思い出すのは2003年のセンバツ、東洋大姫路との延長引き分け再試合だ。この時、徳栄のエースは福本真史(現・花咲徳栄高コーチ、明治大)、東洋大姫路高のエースはグエン・トラン・フォク・アン(元東芝野球部)だった。NHK『高校野球100年のものがたり~埼玉編』には取り上げられていなかったけれど、これも名勝負だったと思う。ちなみに岩井さんの東北福祉大時代の同期には、金本知憲、斎藤隆、浜名千広らがいた。 (写真)2003年、花咲徳栄と名勝負を演じた東洋大姫路・アン投手。~『忘れじの甲子園』(ベースボール・マガジン社より。 <関連記事>東洋大姫路・アン投手 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/200612170000/ 告!当ブログは「野球ブログ瓦版」に参加しています。もしよろしければ、下記のサイトもご覧ください。こちら→ http://kawaraban.blog.jp/
2015.07.28
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きっかけは、昨日「全日本クラブ野球選手権大会」を西武ドームで観戦したことだった。欽ちゃんが率いる「茨城ゴールデンゴールズ」が出場するので見に行った。何気なくパンフを買い求め、「山崎慎太郎」が投手コーチでこのチームに居ることを初めて知った。元々近鉄ファンだった私にとって、忘れられない選手の一人だ。1989年、近鉄はパリーグを制した。前年の10.19川崎球場はあまりに有名だが、この年は10月12日の対西武ダブルヘッダーでのブライアントのホームラン攻勢で優勝を確定的なものにしたことで、印象に残るゲームだった。でも本当にすごかったのは、その前のゲーム。10月10日。西武との三連戦の初戦。西武の先発は渡辺久信、近鉄が山崎慎太郎。山崎は相当にこのころ状態が悪く、もしこのゲームで敗れれば西武が圧倒的優位に立つはずだった。近鉄ファンの多くは「先発・山崎」と聞き、不安を抱いたはずだ。が、彼は見事にファンの不安を吹き飛ばす快投を演じ、崖っぷちに立った近鉄を、まだ優勝圏内に踏みとどまらせた。翌日は雨で順延、そして12日に伝説のダブルヘッダーを迎え、ブライアントの活躍を呼び、優勝を確定的なものにした。いま、ケーブルTVで楽天のゲームを観戦中。解説は、元近鉄の佐々木修。この佐々木と山崎慎太郎はドラフト同期。佐々木が1位、山崎が3位。ちなみに2位は吉田剛(取手二)、4位は現楽天コーチの山下、そして5位が故鈴木貴久だった。
2005.09.04
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昨日(5月2日)行われた駒澤大(1敗)-東洋大(1勝)の2回戦は、駒澤・福山優希(1年、八戸学院光星)、東洋・渡邊友哉(1年、報徳学園)、両校とも1年生投手が先発した。東洋 001 011 100 =4駒澤 400 400 10X =9 駒澤打線が初回から爆発した。二死後、3番・山ノ井豪成(3年、青藍泰斗)の二塁打を皮切りに3本の長短打と四球を絡め、一挙に4点を奪った。その後東洋に1点を失うものの、4回には9番・緒方理貢(3年、京都外大西)の適時打で追加点を奪うと、さらに2番・林琢真(1年、東邦)の走者一掃の右中間越え三塁打が飛び出し、駒澤は中盤で勝利を決定づけた。 駒澤の先発・福山は初回こそ三者凡退に抑えるも、2回から7回まで毎回長打を浴びる苦しいピッチング。それでも粘り強く後続打者を打ち取り、初先発初勝利への道を切り開いた。6回1/3、103球、被安打7、与四死球3、奪三振2、自責点4。東洋大は4番・佐藤都志也(4年、聖光学院)が3打席連続二塁打で気を吐いたが、序盤に大量失点とあっては攻め手を欠いたようだ。 さて、駒澤・福山の名前を聞いて思い出すのは、昨年夏の甲子園。1回戦・明石商との対戦。八戸学院光星はエース福山が先発し、一時は6点差をつける大勝ムード。しかしじわじわと追い上げに遭い、福山降板後の7回、ついに同点に追いつかれた。そして延長10回にやっと決勝点を挙げたのだが、まさに薄氷の勝利だった。 ちなみにこの試合、明石商には、今年センバツで史上初の先頭打者本塁打とサヨナラ本塁打の離れ業(対智弁和歌山戦)を演じた来田涼斗がいた。(写真)初先発・初勝利の駒澤大・福山。(写真)福山の八戸学院光星時代。NHKより。(写真)4回、駒澤大・緒方が左前へ適時打を放つ。(写真)東洋の先発投手・渡邊。報徳学園時代の同級生には現広島カープの小園海斗がいる。3年時、2018年夏の甲子園に出場した。初戦は8月11日の第3試合(対聖光学院戦)だったが、同日第2試合は福山のいる八戸学院光星と明石商の一戦だった。(写真)東洋の4番・佐藤は3打席連続の二塁打を放つなど気を吐いた。
2019.05.03
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東京六大学秋季リーグの第2週、明治大ー立教2回戦。あまり元気のない両チームの対戦は、昨日に続き明治が勝利した。立教 020 000 010 =3明治 010 500 30X =9 2回表、立教は二死満塁の場面で2番・冨永魁(4年、桐蔭学園)が左中間に2点適時♨打を放ち先制するが、直後の2回裏、すかさず明治は7番・中村奎太(2年、日大三)の適時打で1点を返す。(写真)2回裏、明治・中村奎太が右中間に適時二塁打を放つ。 さらに明治は4回裏も打者10人を送る猛攻を見せた。2つの四球と野選で無死満塁のチャンスを作ると、まず内野ゴロで同点に。そして続く代打・村松開人(2年、静岡)が左中間の頭上を越える適時打で2点を加え、さらに四球や敵失を得、この回計5点を挙げて逆転に成功した。明治は7回裏も、この回から登板した中川颯(4年、桐光学園)を攻め立て、3点を追加して勝利を確実にした。(写真)4回裏、明治・村松開人が2点適時打を左中間へ放つ。 立教の敗因は、4回裏、立教の一塁手の野選と失策があり、余計な失点をしたこと。さらに5回と6回に無死で2人の走者を置いたものの、いずれも併殺でチャンスを潰したことに悔いが残る。また、救援で登板した中川の不調も深刻。今日の成績は0回2/3、打者5、被安打3、自責点3。まったく良いところなく降板した。昨日の開幕戦も、先発しながらも5回、被安打7、自責点4で敗戦投手になっている。何かあったのだろうか? 以前の精彩が見られない。中川の復調が待たれる。(写真)復調が待たれる立教・中川颯。 森下暢仁(現・広島)が卒業以来、眠りについたままの明治だったが、立教のアシストのお蔭でいよいよ目覚めたようだ。今後、明治が台風の目になるだろう。(写真)明治・西城愁太(3年、東北学院)。5回、ピンチの場面で急きょ登板して勝利投手になった。
2020.09.27
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Number webに「NHK甲子園・人気解説者が語る”忘れられない試合”」という記事を見つけた。 人気解説者とは、元・米子東監督の杉本真吾さんのこと。そして、杉本さんの”忘れられない試合”のひとつに2006年夏の光星学院ー関西戦で見た光星・坂本勇人の一振りがあったという。 当時話題をさらった関西のエース、ダース・ローマシュ匡(のちに日本ハム)の直球を鋭いスイングでバックネットに突き刺さるようなファウルを打ったが、杉本さんは打球の凄さに衝撃を受け、将来の活躍を確信したという。たったその1シーンだけで選手の将来性を判断できる眼力は大したもの。事実、テレビ解説でも結果論を言うのではなく、都度はさむコメントは洞察力に優れて定評があるという。 独特のくぐもったような声、そして喋る言葉数が多いものの煩く感じないのは、コメントに卓越した説得力があるからだろう。NHKの解説者にはアマ野球界において長年指導者として経験を積んでこられた方が多いけれど、この人は米子東高の監督して活動したのはたった2年間だけ。wikipediaによれば1999年にNHK米子放送局にて高校野球を解説したことが契機となって、2006年に全国放送に昇格したと。プレーや指導者としてではなく「独特の洞察力とコメント力」でこのポジションまでのし上がってきた異色の人物のようだ。※米子東時代には1度だけ捕手として甲子園に出場した。昭和58年夏、野村浩巳とバッテリーを組み初戦を学法石川と対戦したが、延長10回表に添田貴司(当時2年)の本塁打を打たれスコア1-2で惜敗した。ちなみにこの大会で優勝したのは桑田・清原らを擁したPL学園だった。高校卒業後は一浪して慶應義塾大に進学。公式戦に出場した記録はないようだが、同期には”幻のドラフト1位”志村亮がいた。(写真)NHKより。
2022.08.16
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