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横浜ベイスターズの来季監督は、大矢明彦氏の就任が確実らしい。96年、97年には同じ横浜の監督として指揮した。2年目の97年、成績は2位。決して悪くはなかったがオフにフロントと対立。直後に退団している。横浜監督就任は、これで2度目となる。ボクは大矢が嫌いだった。理由はたったひとつ。プロ野球ニュースの解説をしている頃、近鉄と西武がデットヒートを繰り広げていることが多かった。その時、必ず大矢は西武を持ち上げた、近鉄のことを決してよく言うことはなかった。テレビを見ていて、いつも腹が立った。ま、今となってはどうでもいいことだけど。大矢明彦氏。早稲田実高を卒業後、なぜか駒沢大に進む。以前からそれが不思議だったけど、ボクのこのブログに書き込んでくれた「デジ1工担者」さんのコメントで初めて知った。「早稲田に進むと試合に出る機会が少ない」と判断したのがその理由らしい。早稲田実高時代のチームメイト。王貞治氏を本塁打王に育てた荒川博氏(早稲田実高-早稲田大)の息子・荒川尭(早稲田大-横浜-ヤクルト)がいた。また一学年下には、伝説の「江夏の21球」で、近鉄のチャンスにスクイズを失敗したことで有名になった石渡茂がいる。駒沢大時代のチームメイト。現読売コーチの内田順三氏(東海大一高)。’69年、大矢氏はドラフト7位でヤクルトアトムズに入団する。7位? 入団した当時、球団の期待はそれほどでもなかったようだ。ちなみに、同じ年のドラフト同期は、1位 八重樫幸雄(仙台商高)、2位 西井哲夫(宮崎商高)、5位 井原慎一郎(丸亀商高)。そして8位が大学時代のチームメイト内田順三だった。ドラフトの主な同期選手(大卒組)【中日】1位 谷沢健一(習志野高-早稲田大)【大洋】1位 荒川堯(早稲田実高-早稲田大)※入団時はプロ野球界全体を巻き込んだ大騒動となった。 結果、1年後に三角トレードで希望していたヤクルトに入団した。【読売】1位 小坂敏彦(高松商高-早稲田大) 2位 阿野鉱二(明星高-早稲田大)【南海】1位 佐藤道郎(日大三高-日本大)【阪急】1位 三輪田勝利(中京商高-早稲田大) ※三輪田勝利氏。67年、早稲田卒業時に近鉄から1位指名を受けたが拒否。大昭和製紙に入り、2年後のこの年に阪急から指名を受け入団した。現役を引退後にスカウトに転向、イチローなどを見出したことはあまりに有名。そして新垣渚(沖縄水産高-九州共立大-ダイエー)獲得を巡って、98年沖縄で投身自殺した。上位指名に、なんと早稲田卒の多いことか。大矢が駒澤大に進学したのがわかる気もする。余談だけど、三沢高・太田幸司が近鉄にドラ1で入団したのもこの年だった。 いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.09.22
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■マーリンズと再契約したイチロー外野手(42)が引退までの「終身雇用」を保障されていたことが分かった。代理人のジョン・ボグズ氏が9日、イチローの契約をまとめた際の秘話を明かした。同氏は「球団は、イチローがいたいだけいてほしいとのことだった。彼らはイチローを非常にリスペクトしている」と明かした。終身保障の考えを聞かされた同氏も感激し「イチローもチームメートにも球団にも満足している。願わくば、この先何年もマ軍でプレーを続けてほしいね」と笑顔で話した。(以上、日刊スポーツより)イチローを終身雇用、「いたいだけいてほしい」という言葉がいいですね。そもそも野球選手は雇用契約なのか、なんてくだらないことはおいといて、一般のサラリーマン社会でもあまり聞かなくなった「終身雇用」、昭和の響きがあって実にいい。■さて、「いたいだけいてほしい」と聞いて、思い出したのが「やりたければどうぞ」発言です。正確には「監督をおやりになりたければどうぞおやりなさい」。発言の主は西武ライオンズの堤義明オーナー、一方、言われたのは西武ライオンズの森祇晶監督(いずれも当時)。それは1989年のシーズンオフのことでした。常勝を誇った西武が惜しくも近鉄バファローズにリーグ優勝をさらわれ、その負け惜しみと観客数が増えない苛立ちを森監督に向けて発した言葉です。これは「いたいだけいてほしい」と言葉は似ていますが、その意味するところは180度違います。「森なんかに監督を続けてほしくないけれど、やりたいなら勝手にやればぁ。ほんとにイヤになっちゃうなぁ。もっとまわりの空気を読んでくれないかな、あ~ぁ(ため息)」といったところでしょう。「やりたければどうぞ」。森監督はそんな皮肉にもめげずに西武の指揮を執り続けますが、ことはこれだけで収まりませんでした。その5年後に、森監督を「悲劇」第二幕目が襲います。1994年の日本シリーズ、西武ー巨人第4戦の試合前のこと、会場となった東京ドームの電光掲示板にニュース速報が大々的に流れました。「西武・森監督、シリーズ後に辞任」今まさに日本一目指して戦おうという時、森監督の目の前でこのニュースが流れたのです。もちろん、西武球団と森監督の間では「そのシーズン限りで辞任する」という合意はありましたが、このことは日本シリーズ終了後にしかるべき段取りを踏んで公表されるはずでした。当時密月の関係にあった西武・堤オーナーと、森監督にとっての古巣・巨人(読売グループ)が仕組んだ罠とでもいいましょうか。この2度にわたる仕打ちを経て(本当はもっとあったでしょうが)、森監督は球界の表舞台から身を引くことになったのでした。(写真)西武、全盛のころ。胴上げされる森監督、左手前は工藤公康。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より。
2015.12.14
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昨日の東京六大学・法政大vs慶應義塾大2回戦、詳細を知るためネットで録画中継を見た。法政大 000 000 021 =3 慶應大 100 000 000 =1 結局、スコア3-1で法政大が勝利し勝ち点を収めるこの試合、それまで好投を続けていた先発・相澤宏輔(4年、熊本高)が8回に逆転打を浴び、マウンドを引き摺り下ろされてしまう。ベンチに戻った相澤、思い切りグラブを投げつけ、頭を抱えていた。この試合は勝たなければならなかった慶應、チームの思いを象徴的に表すシーンに見えた。---------------------------------------------------------【勝利の理由(1)】その8回、法政大は松原史典(4年、明徳義塾高)と伊藤暢啓(4年、中京大中京高)の適時打で逆転したのだけど、その逆転劇を呼び込んだのは、その直前(7回裏)の亀谷信吾(3年、中京大中京高)のファインプレーだった。一死一・二塁のピンチに慶應の8番・坂本直寛(4年、岡山城東高)がライト手前にヒット性のライナーを放つ。普通なら安打になるはずの打球を、亀谷はグラブを懸命に差し出して地面スレスレで捕球してみせたのだ。とにかく、このプレーが効いた。適時打を放った伊藤とファインプレーの亀谷は、中京大中京高の先輩・後輩にあたり、当時の美談もある。詳しくは、こちら。---------------------------------------------------------【勝利の理由(2)】 先発した加賀美希昇(2年、桐蔭学園高)が、 1回戦の二神一人(3年、高知高)に続き公式戦初勝利を挙げた。最速148kmと変化球を駆使して慶應打線をキリキリ舞いさせる。全体の6割がたは直球でグイグイ押して、計9三振を奪った。特に6回、慶應の4番・今福哲也(4年、甲府一高)に投げ込んだ低めに決まった146kmの直球は素晴らしかった。あの球は、誰も打てない!(と思うぞ)この試合の殊勲賞は、間違いなく加賀美だ。そして8回から救援した武内久士(3年、徳島城東高)。こちらも加賀美とほぼ同じタイプで、直球で押しまくる投手。この試合でも最速152kmを投げていたが、相変わらず荒削りな印象もある。それがこの投手の魅力でもあるけれど・・・。先ごろ行われた世界大学選手権では、河原井正雄監督(青山学院大監督)に「武内が誤算」と言われたが、ぜひ見返すだけの活躍をしてほしいものだ。---------------------------------------------------------------今日は昨日歩いた40kmをMTBで走る。昨日と打って変って「なんと、ラクなことよ!」1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング
2008.09.15
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■この1961年(昭和36年)において、大和球士さんが特筆すべき選手として、3人の名前を挙げています。ひとりは、この年に42勝を挙げた西鉄・稲尾和久。そして、南海・野村克也と中日・権藤博。(稲尾については次回以降に譲るとして)野村と権藤についても手放しの誉めよう。まず野村。この年は、本塁打29本、打点89、打率.295で最高殊勲選手に推された。以下、『野球百年』(時事通信社)より。「監督鶴岡が、『体格がええから採っておけば何か使いものになるかも分からん』と採用した程度だったが、めきめき頭角を現し、この36年、ついに長距離打者としての才能が開花し、以後40年に至るまで5年間連続してホームラン王の座を占めた。プロ野球立志伝を綴じれば、ナンバーワンは野村であろう」。さらに、ご丁寧にも、大和さんは鶴岡一人監督のこんなコメントまで加えていますが、いかにも鶴岡さんが言いそうな話です。「心掛けのええ者は大成する、その見本が野村です。自分の才能を伸ばす機会を与えてくれているプロ野球に、野村は感謝しとります。この心掛けが尊いじゃないですか。努力もせんと、プロ野球に不平不満ばかり言うやつらにノム(野村)の爪の垢でもせんじて飲ましてやりたいですわ」。(写真)南海・野村克也のバッティング。~『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より~■一方の権藤。ルーキーイヤーのこの年には35勝を挙げ(防御率1.70)、新人王を獲得しましたた。大和さん曰く、「惜しいことに権藤の快刀乱麻の快速球の切れ味は一年限りで、2年目から早くも衰えを見せ始めたが、36年度リーグ戦における1年間の投球にのみ限定して批評すれば、プロ野球を飾る大投手、沢村、スタルヒン、野口二、藤本、別所、杉下、金田、稲尾、杉浦らの最盛期と互角のピッチングであったと断言できる」。さらに、「なぜ、大投手として球史に名を残すべき豊かな素質に恵まれた権藤が短期間に没落したであろうか。残念でならぬ」とまでおっしゃっています。ま、後に権藤の名前は、監督としてもちゃんと球史に刻まれましたけど・・・。(写真)中日・権藤博のピッチング。~『スポーツ20世紀 プロ野球スーパーヒーロー伝説』(ベースボール・マガジン社)より~■さて、大和さんの記事はここまでにして、野村と権藤のその後に目を転じましょう。現役時代はリーグが違い、この2人に直接の接点はなかったと思います。が、後に各々監督になってから、血が燃え滾るほどの舌戦を繰り広げることになります。いつのことか分かりますか?はい、その通り。さすが、管理人よりも読者のほうが賢明な『あま野球日記』ならでは。皆さん簡単にお判りだったでしょう(笑)。それは1998年(平成10年)のことです。「奔放野球」を標榜する横浜監督の権藤と、「野球は監督の采配如何で勝敗が決する」という持論を展開するヤクルト野村監督の場外乱闘?が勃発しました。これはつとに有名ですね。「何よりも野球は選手がやるもの。監督は、選手個々の考え方や才能を自由に発揮できる環境を作るだけ」と言う権藤に対して、野村は黙っていませんでした。 「権藤の采配スタイルやマシンガン打線を、勝手無礼な行儀の悪い野球」と評し、権藤や横浜選手の人格に至るような部分まで公然と批判を展開しました。権藤も負けていません。「ID野球なんてクソくらえ」と選手にハッパをかけ、「グラウンド上で詰め将棋など見たくもないでしょう」とマスコミやファンに呼びかけ、暗に野村への挑発もしました。そして気になる結果ですが、ー言わずとも知れたー、この年に限って言えば、横浜がセ・リーグを制し、権藤に軍配が上がったのです~~~(^^)/(以上、参考はwikipedia)。
2016.01.26
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■巨人軍をV9に導いた川上哲治・元監督と「禅」の関係は深い。読売新聞社社主だった正力松太郎氏の勧めがきっかけだったらしいが、著書には『禅と日本野球』(サンガ刊)というものまである。読んでみると川上さんの野球は「すべて禅に通じている」と自身が書いていた。「報恩感謝」「不二の妙道」など聞き慣れない難しい言葉が溢れ、「凡夫」の私にはいったい何のことやら・・・。■禅の話はさておき、その著書『禅と日本野球』には川上さんと金田正一さんの興味深い話が紹介されていた。それは昭和40年、国鉄スワローズ時代には「金田天皇」と呼ばれるほどの存在だった金田さんが巨人に移籍した時のエピソード。当時、巨人には長嶋茂雄、王貞治といった当代一流の選手が2人もいた。そこに「金田天皇」を迎えることは、下手をすれば、川上さんが最も大切にする「チームの和」を乱しかねないリスクを孕んでいた。金田さんを迎えるにあたり、川上さんは金田さんに何と言ったか? 川上さんの人となりから推測すれば、「金田君、君も大投手だが、長嶋君や王君も大選手だ。彼らとひとつになって、チームワークを崩さないよう注意しながら頑張ってほしい」などと想像するが、実際はまるで逆だった。「金田君、君はジャイアンツで400勝するんだ。誰も達成できなかった大目標に挑戦してもらいたい。君のような大投手が同じチームにいれば、他の選手のお手本になるはずだ。なんでも君の好きなよう、いいようにやってくれ。君がやることに悪いはずはない」と言い切った。金田さんは意外そうな表情を浮かべたが、本人にゲタを預けたことでトラブルが未然に防止され、反対に、金田さんのいい面を引き出すことに成功したそうだ。ふ~む、これも「禅」効果だろうか。■前出の『禅と・・・』には、「昭和44年、V5の優勝祝賀会で金田正一選手と」というキャプションとともに、川上さんと金田さんが祝杯をあげる写真が掲載されていた。写真をよく見ると、この2人の他にもう一人、巨人選手の笑顔があった。若き日の末次民夫さんだ。現役を引退後も巨人一筋、つい先頃までスカウト部長を務めていた。以前は神宮球場で大学野球を見ていると、ネット裏にいる姿をよく見かけたものだった。また数日前には中央大・澤村拓一に清武英利代表とともに挨拶に出向いた末次さんの姿を新聞で見つけた。巨人側が清武さんと末次さん。その2人に向き合うように中央大・高橋善正監督と澤村本人。説明するまでもなく、末次さんは中央大と巨人をつなぐ「超」がつくほどの重要人物だ。本人が中央大OBであるだけでなく、義父は中央大野球部・総監督の宮井勝成氏。さらに高橋監督も巨人OB(日本ハムから移籍)なわけで、ドラフト前、澤村は巨人熱望と言ったのも何だか出来レースって感じで・・・■いかんいかん、下衆の勘繰りは止めとこう。そんなことを書いていたら、禅でいう「根本煩悩」、「慢」「疑」「有身見」・・・なのだ。 今日も1クリックお願いします
2010.11.23
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■今日(7月20日)は、埼玉県大会4回戦、本庄第一高対鷲宮高戦を観戦した。(写真)スコアエラーは本当に怖いものだ。先ほど見た浦和学院対春日部もそうだったけれど、この試合でもつくづくそう思った。それは2回裏だった。本庄一は二死三塁のチャンスをつかみ、8番・日賀野彰磨が打席に立った。そして日賀野が放った打球はゴロで二塁キャンバス付近に飛んだ。ふつうならセンターに抜けている当たりである。ところがセカンドの戸草内洋平が逆シングルでこれを好捕。振り向きざまに一塁へ送球した。アウト! そう思ったが、送球が低くなり一塁手が落球してしまった。嗚呼・・・! その間に三塁走者が悠々と生還し、本庄一が先制、そしてこれが決勝点になった。鷲宮にとっては悔やんでも悔やみきれないプレーになった。高校野球は「流れ」がコロコロと変わるのが常。特にエラーは「流れ」を変える最大の要因だ。この試合、小柄なエース・大塚敏行が本庄一打線を抑えていただけに悔いが残った。(写真)再三にわたり好プレーを見せた戸草内洋平 (写真)鷲宮・大塚敏行は本庄一打線を5安打に抑えた■一方の本庄一は、浦和学院、花咲徳栄などとともにベスト16に勝ち上がった。エースの平良チアゴ(ブラジル出身)は最少得点を守り抜いた。また、本庄一の選手を見ていて平良のほかに2人の選手に注目した。(写真)本庄一・平良チアゴ。鷲宮打線を3安打に抑えたひとりは4番を打つ町田椋(2年)。身長192cm、体重96kgの巨漢で、バットに当たればどこまで打球が飛んでいくかわからないほどのパワーを感じた。今日の試合は4タコ(1三振)だったけれど、今後の成長を期待したい選手だった。この町田を見ていて、ボクは流通経済大時代の神戸拓光(こうべたくみ、現・ロッテ)を思い出した。(写真)本庄一・町田椋。計り知れないパワーを感じる打者だそしてもう一人はショートを守る伊藤ヴィットル(ブラジル出身)。捕球から送球への一連の動きが格好いい。特に捕球後に全身のバネを使い、さらにスナップスローで一塁へ送球するプレーは日本人では真似できない。(写真)埼玉の「牛若丸」、本庄一の伊藤ヴィットル。今日も1クリックお願いします
2013.07.20
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【東京新大学リーグ】第3週 杏林大vs創価大創価大 7-0 杏林大(7回コールド)杏林大 000 000 0 =0創価大 001 003 3 =71-0と創価大のリードで迎えた6回表、創価大の攻撃。これまでも再三チャンスを得ながら追加点を挙げられない。しかし、この回先頭の8番・布目和義(岩倉高)が右中間に二塁打で出塁。二死後、2番・花山貴志(愛工大名電高)が四球を選ぶ。そして3番・佐伯裕次郎(関西創価高)が左中間を抜ける三塁打を放ち3-0。続く4番小早川伸仁(創価高)が右前打を放ち4-0とし勝負を決めた。一方の杏林大、こちらにもチャンスはあったが、適時打が出ず残塁の山を築いた。投手陣も与死四球が「9」ではやはり勝てない。プロ注目の小早川伸仁。3打席目(5回)にはカウント2-0と追い込まれてから、外角球にうまく合わせて右前打を放ち、決してパワーだけの打者でない巧打者ぶりも見せた。【杏林大】 1(7)諏佐 卓(2年・駒大高)2(4)田村晋也(4年・浦和実業高)3(8)梅原紀明(2年・甲府工高)4(5)藤野公宏(3年・日大鶴ケ丘高)5(3)大松一貴(4年・立花学園高)6(D)本田史典(4年・日大鶴ケ丘高)7(2)藤原 脩(4年・佐野日大高)8(9)山口真司(3年・八王子実践高)9(6)P 高橋竜史(3年・土浦日大高)-前川賢大(4年・土浦日大高)-佐藤(年・横浜高)【創価大】1(5)遠藤 徹(3年・岩倉高)2(7)花山貴志(2年・愛工大名電高)3(8)佐伯裕次郎(4年・関西創価高)4(2)小早川伸仁(4年・創価高)5(6)田中隆彦(4年・光星学院高)6(3)楠本大樹(4年・関西創価高)7(9)田上健一(2年・創価高)8(D)布目和義(4年・岩倉高)9(4)古茂田芳光(4年・愛工大名電高)P 大塚 豊(2年・創価高) 「あま野球日記」はテーマ「大学野球を応援しています」を運営しています。どうぞ、こちらもご覧ください。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.04.21
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今日(9月5日)の都市対抗・準々決勝、東京ガスvs三菱重工横浜戦。東 020 000 000 =2三 022 001 00X =5(東)岩佐-小高-美馬、(三)亀川-門西-鶴田■勝敗を分けたのは、東京ガス・佐々木大輔(日大三高-明治大)の守備のミスと、そのミスを嘲笑うかのような三菱重工横浜・五十嵐大典(新潟明訓高-立教大)の快打だった。そのシーンは3回裏に起きた。走者を一塁において、三菱重工の4番・田城智博の打球は平凡なサードゴロ。ゲッツーを狙うはずが、なぜか東京ガス・佐々木大輔三塁手のスタート(一歩目)が遅れた。ほぼ定位置で捕球後、慌てて二塁へ送球したもののセーフ。ゲッツーで二死走者なしになるはずが、佐々木のミスで一転、無死一・二塁になった。申し訳なさそうに投手に声をかける佐々木。そして打席に入ったのが三菱重工の5番・五十嵐大典。テレビ(GAORA)の実況アナは「三菱重工横浜に新しい風を呼び込んだルーキー」と五十嵐を称した。当然この場面、ベンチのサインは送りバント。ところが五十嵐は2球続けてバントを失敗する。苦渋に満ちた五十嵐の表情・・・。さすがにスリーバントスクイズのサインはなく、次の球をえいやっ!とばかりにバットを振り切ると、打球は大飛球となって右中間を破る二塁打に。2人の走者が生還し貴重な追加点となった。送りバントを2度も失敗した後だったため、五十嵐は二塁上で苦笑いをしていた。でも守備でミスをした佐々木を嘲笑うような、また佐々木の傷口に、無理やり塩を塗り込むような快打でもあった。■佐々木大輔(ささき・だいすけ)と五十嵐大典(いからし・だいすけ※)。この2人は一昨年(2008年)まで、お互いに主軸打者として東京六大学リーグで何度も顔を合わせた。まず東京ガスの4番に据わった佐々木大輔のこと。今日の試合では、2度もレフトを守る五十嵐の頭上を越える大飛球を放った。わずかにポールの左に逸れて本塁打にはならなったが、そのスラッガーぶりは今も健在だ。日大三高を卒業後、鳴り物入りで明治大に入学、1年生の頃からスタメンに名を連ねた。当時、佐々木の打撃には「花」があって、彼の一発が試合の流れを自在に変えてしまう魅力があった。ただ上級生になるに従い故障がちになって、本来の実力を発揮できないまま卒業(2008年)。プロ球界から指名を受けることはなかった。さて今秋のドラフト、佐々木大輔に指名はあるか?■そして五十嵐大典のこと。立教大時代は、岡崎啓介(現・3年、PL学園高)や田中宗一郎(現・4年、佐賀西高)とともに常に主軸を張った。なにせチーム自体の打撃力が乏しかったため、五十嵐らにかかる負担は大きかった。打順は基本1番だったが、チーム事情に応じて3番も打っていた(まるでマリナーズのイチローのように)。勝負強さも持ち合わせている。新潟明訓高時代は県大会決勝で、延長14回に優勝を決める決勝打を放ったのは、この五十嵐だった(対中越高戦)。また東京6大学リーグで「通算3000本塁打」を放った、歴史に名を刻む選手でもある(2008年10月12日、対東京大戦)。今日の勝利で準決勝にコマを進めた三菱重工横浜。準決勝はNTT東日本とJR九州の勝者と対戦する。(※)五十嵐は「いがらし」ではなく「いからし」と読む。新潟地方では一般的な呼び方らしい。今日も1クリックお願いします
2010.09.05
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今年のセンバツ決勝は、東邦が習志野を6-0で下し、30年ぶりに5度目の優勝を決めた。春5度目の優勝、そして通算勝利数は56に。ともに並んでいた中京大中京に差をつけ、単独1位に立った。ちなみにセンバツ勝利数のベスト5は以下のとおり。1位 東邦 56勝25敗2位 中京大中京 55勝26敗3位 PL学園 48勝17敗同 県岐阜商 48勝25敗5位 龍谷大平安 42勝40敗 東邦のセンバツ初優勝は昭和9年、エース・立谷順一(のちに専修大ー東邦ガス)らが活躍、決勝で浪華商にサヨナラ勝ちし初出場初優勝を決めた。 2度目は昭和14年。圧倒的な強さを誇り、5試合で奪った安打数は73本、59得点で失点はたったの5点。完璧な優勝だった。 3度目は昭和16年。海草中、海南中と和歌山県勢を次々に撃破すると、準決勝は後藤次男(のちに阪神監督)のいる熊本工に接戦の末勝利し、決勝は同じ愛知の一宮中を下し優勝を決めた。 そして4度目は平成元年。山田喜久夫(のちに中日)と原浩高(のちに青山学院大ー日本石油)のバッテリーで勝ち進み、戦後初優勝した。 5度もセンバツに優勝した東邦だけど、ボクにとって最も印象深かった東邦の試合は、「バンビ坂本」で人気を博した昭和52年夏。坂本佳一(にちに法政大)と大矢正成(のちに法政大‐JR東海監督)のバッテリーで勝ち進んだ東洋大姫路との決勝は、延長10回裏にサヨナラ3点本塁打を浴びて準優勝に終わった。 坂本は、その後甲子園に出場することはなかった。そして法政大に進んだものの、公式戦に登板することは一度もなく、いつもスタンドから試合を見つめるしかなかった。これは後日談だが、坂本は大学に入学して初めて控え選手の思いを知ったという。「もし高校時代にその思いを知っていたら、甲子園で不用意な一球を投げてサヨナラ本塁打を浴びることはなかったろう。一球の大事さを知った」としみじみ語っていたっけ。(写真上)東邦がセンバツ5度目の優勝を決める!(写真下)5回、東邦の石川昂弥がこの試合2本目の本塁打を放つ。1試合2本塁打は個人1試合最多本塁打タイ、史上25人目。※いずれもNHKより。
2019.04.07
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■NHK『ヒーローたちの名勝負-代打男優勝弾』を見た。(写真も同番組より)2001年9月26日、北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁本塁打で近鉄バファローズがリーグ優勝を決めた試合を、北川の視点から振り返った番組だ。上の写真は、北川が生還する場面。正面でタフィ・ローズが迎えている。右端、大泣きしているのは大塚晶文。少し左側に目を移すと大村直之が見える。さらに左には吉岡雄二、礒部公一、山村宏樹、水口栄二、中村紀洋がいる。この時、ボクはもちろん嬉しかったが、2,3日後のロッテ-近鉄戦(千葉)のチケットを持っていたから、「今日決めなくなくてもよかったのになぁ」なんて不遜なことも考えていた。また、相手オリックスの監督が仰木彬さんだったことも、ボクの気持ちを複雑にさせた。 ■そして同番組には、たまたま故・小林繁投手コーチも映っていた(写真左)。小林さんと番組の趣旨は特に関係ないけれど、ボクは先日、日刊ゲンダイで読んだ小林さんについての一文を思い出した。その一文は、若菜嘉晴氏が連載している『サスライ野球道』(10月18日付)にあった。「(江川卓の交換相手になり、阪神へ移籍後)小林さんは絶大な人気に加え、巨人戦では大きなプレッシャーを背負った。心に鬱積した感情を酒で洗い流しているようだった」と書かれていて、ボクにはとても印象深いものだった。さらに若菜氏は続ける。「小林さんとは一時、毎日のように朝まで飲んだ。小林さんはブランデーを一気に流し込む。決して酒は強くないのに強いフリをして、ボトルはすぐに空になった。・・・2人で飲んでいると、巨人への未練が垣間見えた。それがグチになる。巨人を愛し、戦ってきた。それなのに江川との交換相手になった。『なんでオレなのか・・・』まるで、愛する女性を失ったような・・・」。そしてまた、小林さんは若菜氏相手にグチを肴にして、心に鬱積した感情を酒で洗い流していた、のだ。■この時期はおそらく江川卓が引き起こした、いわゆる「江川事件」後、小林さんが阪神へ移籍した1年目、1979年頃だと思う。ただ夜は浴びるように酒を飲んでいたものの、肝心の仕事は順調だった。巨人と当たるようなローテーションを監督に直訴し、対巨人戦8連勝を飾った。そして、通期は22勝を挙げて沢村賞、ベストナインを獲得した。その後も毎年二けた勝利を挙げ、1983年に現役を引退。スポーツニュースのキャスターなどの活動をして、いかにも小林さんらしく派手な、そして、順風満帆な人生を送っているように見えた。■驚いたのは1997年、近鉄の一軍投手コーチに就任した時だ。少なくとも小林さんは、コーチとかいった指導者に向いていないと思えた。一匹狼でテレビの世界などで活躍するタイプに見えた。なぜ、小林さんはコーチをやっているのだろう? ボクにはとても不思議な出来事だった。2001年、冒頭に書いた北川の本塁打で優勝を決めた後、近鉄の監督・コーチ・選手たちはチャンピオンフラッグをもってグラウンドを一周した。みんなが歓喜し、はしゃぎまわって歩く中、ひとりだけ浮かない表情で歩く人がいた。それが小林コーチだった。この時の小林さんの表情をボクははっきり憶えている。優勝したものの投手成績は最悪、この年を最後に辞任が決まっていたが、それだけが理由だったろうか。江川事件をきっかけに、それまで小林さんが考えていた人生設計とのギャップが広がり、その溝が埋まらないことに、ただただ一人でもがいていたようにも思える。■若菜氏は最後にこう書いて、コラムを締めくくった。「苦労をひとりで背負い、なんでも自分の力でやろうとした小林さん。・・・江川は孤独だったという人がいる。でも本当に孤独だったのは小林さんだったんじゃないか。私はそう思っている」。You Tube 「黄桜」CM (by博報堂)
2013.11.09
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■昨日、花巻東高・千葉翔太で話題になった「カット打法」が高校野球特別規則に制定された発端が、1972年夏の甲子園に出場した東洋大姫路高の9番打者・前原正弘選手にあったという話を聞いた。この前原が1回戦の対習志野高戦で「カット打法」をすると、それを見た郷司裕主審が「フォロースルーをするように。次に同じことをやればバントファウルにする」と警告した。この一件は大変な反響を呼んだという。そして巨人軍の選手・監督を歴任した「班長さん」こと中島治康が翌日の読売新聞に「カット打法はけしからん!」とするコラムを書き(1972年8月14日付)、その一言が高野連に影響を与え、後に特別規則が制定されたらしい。■面白い話だなぁ!と思い、中島班長がコラムに書いた内容を読みたくなった。残念ながら読売新聞のDBにはアクセスできなかったが、『職業野球! 実況中継』というサイトが、中島班長の書いた内容について触れていることがわかった。その内容は「バッティングとは、フェアグラウンドに打つものである。ファウルで逃げるのは邪道である」と。どうやら、この一言が高野連に相当なインパクトを与えたようだ。また、朝日新聞「聞蔵2 ビジュアル」にはアクセスできたので、同じ8月14日付の朝日新聞を読んでみた(下の写真)。もちろん中島班長のコラムはなかったが、『ネット裏~カット打法はダメ』と題した記事で前原の「カット打法」について触れていた(写真の左端、中段あたり)。それはこんな記事だった。ファウル打ちの名手として、兵庫大会で話題を振りまいた東洋大姫路の前原が、甲子園第1戦ではその特技を「禁じ手」にされた。前原は好球をカットして四球であるこのが得意。一回二死一・二塁。前原は2-1と追い込まれた後、外角球をカットした。習志野の捕手阿部が「きたないことをせず、打ってみろ」とクレームをつけたが、前原は「いつも言われているので気にならなかった」と平気な顔。1球ボールの後、5球目をまたカットした。ところが今度は郷司主審から「もっとフォローススイングしないとバントと見なす」の注意。これにはショックを受けたらしい。ベンチの指示も「打て」と変わって、この打席は結局空振りの三振。「カット打法」を禁じられて、前原はこの試合、とうとう四球を選べずじまいだった。「話に聞いていたので様子を見たが、あれでは打つ意思が認められず、スイングとは言えない」というのが郷司主審の解釈。■郷司主審が問題視した「フォロースイングの有無」でいえば、花巻東の千葉は明らかにフォロースイングをしているように見えた。前原のスイングを動画を見ていないため安易に比較できないものの、千葉のスイングがバントと指摘されるのはいかがなものか? ボクはいまだに腑に落ちないのだ。余談だが、習志野の阿部捕手とは、現在巨人の阿部慎之助捕手の父・東司さんのこと。また、写真中段のメンバー表には、習志野の4番・ショート、掛布雅之の名前が見える。(写真)朝日新聞(1972年8月14日付)、東洋大姫路・山川が逆転満塁本塁打を放ち、習志野を破ったことを伝えている今日も1クリックお願いします
2013.08.29
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「男・村田」はサムライジャパンでも「4番三塁」を奪う。宜野湾キャンプ第2クール3日目の8日、村田修一内野手(28)が3月のWBCでも4番三塁の定位置を狙うことを宣言。日本代表の篠塚打撃コーチと高代内野守備走塁コーチが視察に訪れる中、フリー打撃や特守に汗を流し、準備に抜かりはなかった。2年連続本塁打王の打撃はだれもが認める。だが守備に不安の声に「下手だとは思ってない。普通にやれる」と語気を強めた。日本代表での4番三塁には、「理想はそうですね。(守備でリズムをつくることも)シーズン中はしてますから。どうしても守らせない、というなら別ですけど」と、ホットコーナーへのこだわりをにじませた。打撃では国際試合の、外に広いストライクゾーンにも自信を持つ。「(目付けは)変えない。外は好きなんで広がる分、投手も投げてくる。そこを狙って打ちたい」と大好物に網を仕掛ける。(日刊スポーツ) 村田修一、昨年(2008年)も国際大会(北京五輪)に出場した。だが大不振に陥り、23打数2安打、打率は1割に満たない8分7厘。先ほど放送されたスポーツニュースでは「北京五輪では、国際大会のプレッシャーに負けた」と述懐していた。そして、「未熟児で生まれ生死の淵をさ迷いながら生き抜いた、3歳になる息子のためにも頑張って金メダルを持ち帰りたい」と抱負を語っていた。村田修一(東福岡高時代-日本大)<東福岡高時代>1998年、高校3年春・夏の2回、甲子園に出場している。春は1回戦出雲北陵高に5-0で圧勝したものの、2回戦で松坂大輔(現・レッドソックス)を擁する横浜高にスコア0-3で完封負けを喫した。村田、意外にも高校時代のポジションは投手。後藤武敏(現・西武)にはダメ押しの本塁打を打たれた。同年夏は1回戦で古木克明(現・オリックス)のいた豊田大谷高に4-6で敗退した。この試合では、村田が牽制で2回刺されるミスを犯したのもチームにとって痛かった。■チームメイト■一学年下には田中賢介(現・日本ハム)。2学年下には吉村裕基(現・横浜)や上園啓史(現・阪神、武蔵大)がいた。■福岡県内のライバル■柳川高に林威助(現・阪神、近畿大)、九州国際大付高には加藤大輔(現・オリックス、神奈川大)らがいた。■甲子園のライバル■上記のとおり。<日本大時代> 本人いわく「打者にならなければ松坂(大輔)に勝てない」と考え、大学入学後は野手に転向(wikipedia)、歴代2位タイとなる20本塁打を放ち、ベストナインには4回も選ばれる長距離砲だった。たしか2002年の秋季リーグ。ボクは何の予備知識もなく、日本大にいた村田修一の打撃を見たことがある。大きな弧を描いてレフトスタンドに突き刺さる村田の本塁打はもちろん、ガッシリした身体で堂々とダイヤモンドを走る姿は、村田修一という名前を記憶するのに十分な迫力があった。■大学時代のチームメイト■館山昌平(現・ヤクルト、日大藤沢高)や高校時代もチームメイトだった大野隆治(元・ホークス、東福岡高)。そして現在も横浜のチームメイトである那須野巧(駒場学園高)もいた。■東都リーグのライバル■亜細亜大 : 永川勝浩(現・広島、新庄高)、木佐貫洋(現・読売、川内高)、 小山良男(元・中日、横浜高)専修大 : 江草仁貴(現・阪神、盈進高)中央大 : 亀井義行(現・読売、上宮太子高)東洋大 : 岩舘学(現・読売、成田高) ほか ぜひ1クリックをお願いします
2009.02.16
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大阪桐蔭の2度目の春夏連覇で幕を閉じた、第100回夏の甲子園。この大会でも様々な記録が生まれました。今回からしばらくは、その中からいくつかの記録拾っていきます。 1回目の今回は「中越の出場3大会連続サヨナラ負け」 。 平成6年夏に坂出商、浦和学院を立て続けに破って以来、甲子園で勝ち星のない新潟・中越。今夏、24年ぶりの勝利を期して慶應高と対戦しました。先発の右腕・山本雅樹と左腕・山田叶夢が小刻みに継投して相手打線を幻惑、なんとか2失点に抑え試合を作りました。しかし2-2で迎えた9回裏、二死一・二塁の場面で1番・宮尾将にサヨナラ適時打を浴びて万事休す。初戦で姿を消してしまいました。がっくりと肩を落とす山田、本塁近くでうなだれていました。 この光景を見て、3年前(平成27年)の夏の甲子園、中越対滝川二戦を思い出しました。追いつ追われつの好ゲーム。中越は先発の高井涼(現・東京農大3年)を中盤で交代させると、後半は上村将太、雪野敏和らで小刻みな継投をはかります。しかし3-3の同点で迎えた9回裏、一死一・三塁の場面で滝川二の6番・結城宝が右前に適時打を放ち、中越のサヨナラ負けが決まりました。 その翌年(平成28年)夏は対富山第一と対戦、この時もサヨナラ負けをしましたが、とても印象深い試合でした。中越の先発・今村豪(現・大東文化大2年)は9回一死まで無安打の快投(奪三振4、与四死球5)を見せるも、中越打線は富山第一の中津原元輝、森圭名の継投の前に沈黙。散発5安打、双方無得点のまま迎えた9回裏一死後、ついに今村は4番・狭間悠希に右へ二塁打を打たれて「ノーヒットノーラン」の夢が消えると、気落ちしたのか、続く5番・河原大成に左へサヨナラとなる適時打を浴び、目前に迫った大記録「ノーヒットノーラン」は、一転して初戦敗退の「敗戦投手」に突き落とされたのでした。 近年、新潟明訓や日本文理などの強豪がひしめく新潟にあって、甲子園出場は決して簡単ではないはず。それゆえ平成27年、28年、30年と続く「出場3大会連続初戦サヨナラ負け」という記録は意外でもあります。いや、それだけに物語性を感じずにはいられないチームと言えるでしょう。<写真>すべてNHK。(写真)中越・山田叶夢。(写真)うなだれる中越・雪野敏和。(写真)ノーヒットノーラン直前でサヨナラ負けを喫した中越・今村豪。
2018.08.26
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今日、1部では國學院大が中央大を下し、優勝を決めた。一方、2部との入替戦に出場するのは東洋大(6位)と立正大(7位)の2校が確定、今春から1部に復帰した青山学院大は2部との入替戦出場を免れた。 そして2部の戦況。5月12日現在、日本大と専修大が勝率0.750で首位に並び、それを拓殖大が追っている(3位、0.667)。以下に4位・国士館大、5位・東京農大、6位・大正大と続く。接戦に次ぐ接戦、今後の展開はまったく予断を許さない状況だ。 さて12日、ボクは東京農大ー日本大2回戦を観戦した。前日の1回戦は東京農大・稲垣豪人(4年、日本文理)と日本大・赤星優志(4年、日大鶴ヶ丘)の両エース対決で引き分けた同カード。この日は東京農大・鶴田克樹(3年、下関国際)、日本大・市川睦(4年、二松学舎大附)が先発。この試合に勝利して優勝を確かなものにしたい日本大に、Aクラス入りへ足がかりを掴みたい東農大が挑んだ。(上尾市民球場)東農大 000 010 000 =1日本大 000 100 001X =2(東)鶴田ー宮崎、(日)市川ー赤星 スコア0-0のまま迎えた4回裏、試合が動いた。日本大の3番・林拓馬(2年、大垣日大)が左安打を放つとすかさず二盗に成功。そして二死後、6番・高垣広大(2年、山梨学院)が左越えの二塁打を放ち、日本大が先制した。すると直後の5回表、東農大はこの回先頭の6番・和田泰征(2年、習志野)が本塁打を放ち、すぐに同点に追いつく。 その後は0行進。昨日と同じ引き分けかと思った9回裏、日本大は一死後、7番・友田佑卓(2年、九州学院)が四球で出塁し、すぐに二盗。そして二死後、9番・中尾勇介(3年、山梨学院)が右中間越えの安打を放ち、日本大がサヨナラ勝ちした。 ベンチから全選手が飛び出し歓喜する日本大とは対照的に、7回途中から登板した東京農大・宮崎颯(3年、埼玉栄)と捕手の伴野司(3年、春日部共栄)は揃ってガックリと肩を落としていた。 首位日本大から勝ち星を挙げてAクラス入りを狙う東農大だったが、最後の最後に足元をすくわれた格好。開幕カードの拓殖大戦を1勝1敗、続く専修大戦を1敗1分と、いまひとつ勝ち切れずにいる。今後は国士館大、大正大といった下位チームとの対戦が残されており、取りこぼしなく確実に白星を重ねてほしいものだ。※東農大の宮崎と伴野は、かつて大宮リトルシニアのチームメイトでもあったようだ。(写真)鶴田克樹。(写真)宮崎颯。(写真)市川睦。
2021.05.15
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一週間前、イースタンリーグのヤクルトvsロッテ戦を観戦したとき、ベンチとブルペンを往復する八木沢壮六二軍投手コーチ(作新学院高)を見かけた。これまで8球団をわたり歩いた八木沢さん。ボクはもっと恰幅のいい姿を想像していたけれど、実際に見たら意外に華奢な身体つきだったので、ちょいと驚いてしまった。その八木沢さん、いま頭を悩ませているという。日刊ゲンダイが伝えている。昨日のイースタンの試合、佐藤由規(仙台育英高)は1イニングだけ投げた。キレ味の鋭いスライダーで三振を奪った一方、制球難は相変わらずで、ストレートの四球も与えてしまった。実は、八木沢さんの頭痛のタネはここにある。過去に指導した投手には、たとえば井川慶(水戸商高)がいる。由規ほどのスピードはなかったが、井川のフォームには改善すべきポイントがあり、遠慮なくその点を指導できた。だが、佐藤由規。制球が悪いということは、フォームのどこかに欠点があるはずだが、それをヘタにいじって、最大の魅力であるスピードを殺してしまってはいけないというジレンマとの戦いなのだ。もし、最悪の事態になったら「A級戦犯」ものだ。だから、八木沢さんの苦悩はまだまだ続く・・・(のかな?)----------------------------------------------------------つぎも日刊ゲンダイから。昨日行われたホークスvs西武戦。プロ入り後、初めて経験するサヨナラ適時打を放ち、一躍ヒーローになったのは8年目のホークス・仲沢忠厚(敦賀気比高)。 「チャンスで自分の打順に回ってきたから、代打を送られるかと思った。初めての経験、サイコーです」この仲沢、高校時代には苦い経験がある。1999年の明治神宮大会で準優勝した敦賀気比高、翌年(2000年)のセンバツ出場を確実なものにしていた。ところが、その敦賀気比の選手だった仲沢、バカなことをやってしまう。高校生ながら無免許で飲酒運転の上、事故まで起こしてしまいセンバツ出場を辞退するハメになったのだ。当時のチームメイトは、現・読売の内海哲也。話題が中沢のことになると、今でも内海は機嫌が悪くなるほどただ当の仲沢、今となってはまるで気にしていない様子。新人の時から平気で練習に遅刻するなど、神経のずぶとさは折り紙つきだという。ま、そのくらいの方がプロの世界で通用するのかも・・・。最後に日刊ゲンダイの見出しを借用したい。「図太い神経、武勇伝はとっくにスター級」 1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング
2008.04.14
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1960年最後の記事は、11月6日~11月12日まで行われた「早慶6連戦」のこと。この秋のリーグ戦は慶應大が勝ち点4で8勝2敗、早稲田大が7勝3敗の勝ち点3で早慶戦へ。ここで早大が2勝1敗で4つ目の勝ち点を挙げると両校9勝4敗勝ち点4で並び、一日も空けることなく優勝決定戦へ。この優勝決定戦は1試合限り、勝者が優勝校となります。が、この時は延長11回日没再試合が2度続き、優勝決定戦3戦目(早慶戦3戦から数えて6戦目)にして早大が3-1で勝利、ようやく決着がつき早大が優勝を決めました。この早慶6連戦、大和球士さんが注目したのは早大のアンダースロー・安藤元博投手(坂出商)でした。以下、著書『野球百年』(時事通信社)より。「驚くべき記録が生まれた。早大の投手安藤元博(のちに東映ー巨人)が、ー5試合登板、4連投の荒業を完成した。第一戦に完投して勝利投手になり、第二戦こそ登板しなかったが、第三戦から決勝戦になった第六戦にいたるまで四連投の勇投をした。六試合に五試合登板、四連投の記録は、引き分け試合を含まない限り、今後も容易に破れない記録であろう」調べてみると、この時、安藤の投球数は5試合、49イニング、564球でした。今では考えられない酷使ぶりです。これは「精神野球」を掲げる早稲田野球、飛田穂洲イズムの影響もあったでしょう。でも、この伏線には意外な逸話がありました。実は早慶戦に先立つ対明治大戦で安藤は救援に失敗、大炎上して勝ち点を失う大失態を演じ、「安藤がたるんでいる」と声が上がったほど。困った石井連蔵監督は、当時顧問の飛田にお伺いを立てます。すると飛田から予想しなかった言葉が。「うーん、休ませたらどうだ。休むのも練習のうちだ」と。さぞ石井監督は驚いたことでしょうが、その結果ノースロー調整を続けたことで体調が戻り、安藤は早慶6連戦を投げ切ることができたのです。(記事参考および写真:『早慶戦110年史』ベースボール・マガジン社)この1960年、6月に安保条約をめぐり、全学連が国会突入をはかり警察官と衝突、東大生・樺美智子さんが死亡する事件が起きました。その後も浅沼社会党委員長刺殺事件、三井三池闘争など暗いニュースが続く一方で、池田首相が「所得倍増計画」をぶち上げるなど、まさに混とんとした年。洋画「チャップリンの独裁者」邦画「霧笛が俺を呼んでいる」が封切りし、映画館には多くの人が詰めかけました。普及を始めたカラーテレビからは「このまま死んでしまいたい~♪」のフレーズが印象的な、西田佐知子「アカシヤの雨が止むとき」が流れていたことでしょう。ちなみに、その前年から東京六大学にも背番号制が導入され、安藤が背負った「11」は早慶6連戦の活躍を称えられ、以降早大・右腕エースの背番号として受け継がれています。左腕エースは「18」。今季の選手を調べると、「11」は・・・「18」は・・・あらら、該当者はいませんでした。(写真)早大・安藤元博。敗れた慶大選手のコメント「安藤のフォームは型破り。しかもボールの回転も少なかったので打ちづらかった」。(写真)早慶6連戦の決着直後。のべ38万人の観客が神宮球場を訪れた。6連戦中は試合終了後すぐに切符売り場に行列ができ、多くのファンが夜を徹して並んだ。中には近くの青山墓地で薪木を集め、焚き火して暖をとった猛者もいたとか。
2017.05.04
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今日(4月9日)行われた東都2部リーグ戦の開幕カード、東京農大(昨季6位)ー青山学院大(昨季3位)の2回戦は青山学院大が連勝し、勝ち点1を挙げた。 東農大の先発は、なんと! まだ入学したばかりの鶴田克樹(1年、下関国際)。昨夏の甲子園で活躍しチームをベスト8に牽引した投手ゆえ、俄然スタンドにいる観客の注目を集めた。開幕カードでの初登板はボクの想像以上に速かった。青学大は松本龍堯(4年、聖望学園)。東農大 000 000 201 =3青学大 010 220 00X =5(東)●鶴田-近久-宮崎-高井-関口、(青)〇松本-北村 鶴田は、テレビを通して観た昨夏よりもほっそりして見えた。そして3イニングを投げ、1点を献上したものの落ち着いた投球を見せた。3回、打者13、被安打4、与四死球0、奪三振1、自責点1。 東農大にとって誤算は、その後に登板した救援投手陣。 2番手で登板した近久輝(3年、東邦)は、青学大6番・山本皓大(4年、敦賀気比)に本塁打を被弾するなど1回1/3、打者9、被安打5、与四死球0、奪三振2、自責点4。続く3番手・若生門下生の宮崎颯(1年、埼玉栄)も制球が乱れ被安打1、与四死球2とほろ苦いデビューとなった。この時点でスコア0-5。そして4番手は高井涼(4年、中越)だったが、本来このような場面の登板はないだろう高井に救援を仰ぐしか、青学大の攻撃を食い止める術はなかった。 一方、青学大の松本は余裕の投球、疲れが見えた7回に4安打を浴びて2点を失うもチームを勝利に導いた。(写真上)東農大・鶴田克樹(1年、下関国際)。(写真中)東農大・高井涼(4年、中越)。現在、甲子園出場3大会連続サヨナラ負けの記録を更新中の新潟・中越。記録の最初は平成27年夏、この試合の先発は高井だった。そして28年夏、昨年の30年夏と続くけれども、30年夏に敗れた試合の投手・山田叶夢は現在、青学大の1年生。(写真下)青学大・松本龍堯(4年、聖望学園)。聖望出身の右変則投手で思い出すのは、法政大で活躍した長谷川裕也(現JR東日本)のこと。
2019.04.09
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東京新大学リーグ新人戦を、大宮県営球場で観戦。共栄大、東京国際大は埼玉出身者たちの宝庫だ。《第一試合》■共栄大 12-8 杏林大(延長12回)■共栄大 001 002 001 008 =12 杏林大 010 020 001 004 =8 ※延長12回ではタイブレイクの特別ルールで、無死満塁からイニングがスタートした。春日部共栄出身の射手矢大輔選手を、今日見るとは思わなかった。昨年甲子園出場を含め常に主軸を打っていた打者だ。一緒にクリーンアップを打っていた鶴岡選手は日体大に進んだのは知っていたけど共栄大にいることはまったく知らなかった。【共栄大】1(D)工藤-(H)山口(越谷西高)2(8)高橋賢(大井高)3(9)藤澤(日体荏原高)4(3)射手矢(春日部共栄高)5(6)小川(越谷西高)-(R)加藤(浦和実高)-(5)長谷川(越谷西高)6(7)市村(春日部共栄高)-(H)菅野(春日部東高)-(7)中村(浦和学院高)7(4)-(6)奥(花咲徳栄高)8(2)林(日体荏原高)9(5)-(4)根本(春日部工高)投 ?-畠山(東京実業高)-服部(春日部共栄高)-原(春日部共栄高)【杏林大】1(8)梅原2(4)木村(寒川高)-(4)谷口(駒場学園高)-(H)藤井(拓大紅陵高)3(5)藤野(日大鶴ヶ丘高)4(3)橋本(佐野日大高)5(D)小宮山6(6)細井(駒沢大高)-(6)斉藤-(R)岩山(拓大紅陵高)-(6)吉田(日大東北高)7(7)西本(日大東北高)-(H)(7)前島(拓大紅陵高)8(2)清野(大宮東高)-延安9(9)?佐投 高橋(土浦日大高)-中川(昭和第一高)-鈴木(茅ヶ崎高)-神山《第二試合》■東京国際大 4-1 東京学芸大■埼玉栄高・待井選手が東京国際大に進学していること、初めて知った。一度だけ高校時代の待井選手をみたことがある。夏の予選で打球を顔に受けて病院に運ばれる試合をたまたま見ていたことがあった。先発メンバー【東京国際大】1(8)前川(鷲宮高)2(6)待井(埼玉栄高)3(7)中野(西武台高)4(9)神田(鷲宮高)5(D)鈴木(桐生一高)6(3)金子(埼玉栄高)7(5)倉浪(滑川高)8(2)藤澤(高崎商)9(4)清水投 蛯名(武蔵越生高)【東京学芸大】1(6)金子(山形・羽黒高)2(8)蓑(福井・藤島高)3(9)渡辺(秋田高)4(7)中泉(牛久栄進高)5(2)飯田(岡山城東高)6(D)伊東(市立浦和高)7(3)横山(兵庫・長田高)8(5)橋本(盛岡一高)9(4)辻(米沢興譲館高)投 加藤(安積高)いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2006.07.01
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前回の続き。■1968年(昭和43年)から近鉄の指揮を執った三原脩は、初めて優勝を狙えるチームに導くように見えた。それまで万年最下位だった近鉄が、その年は4位に躍進。そして翌69年は阪急と最後まで優勝争いを展開するまでになった。しかし、三原の3年目、最終年の70年は打撃陣の不振が響き、結局3位に終わった。70年は、前年に発覚した「黒い霧」が球界を覆った。同年3位だった近鉄も例外でなかった。球団広報課長が八百長事件に仕組んだ疑いで永久追放処分になり、主力打者の土井正博も(黒い霧事件とは無関係だが)常習賭博の容疑で大阪府警に取調べを受けるなど、近鉄も不祥事が続いていた。本気で初優勝を賭けて臨んだシーズンは不本意な成績で終わり、シーズン終了とともに、三原は近鉄の監督を辞した。しかし、三原は退団の理由を誰にも語らなかった。東京の自宅に帰り、家族には「もう二度と、東京を離れるつもりはない」とだけ話し、自叙伝『風雲の軌跡』には、「私としては、不本意なやめ方であり、その理由については、いいたくない」とだけ書かれていた。■三原が退団した理由について、作家・立石泰則さんは著書『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』(小学館文庫)にこう書いている。「契約更改の度に生じた(三原の)退団騒動、トラブル等々。近鉄本社・球団首脳と三原との軋轢は深まりこそすれ、解消へ向かうようなことはなかった。そこには、西鉄および大洋時代と違って監督業だけに専念してきた3年の間に、三原が近鉄を見限る深刻な問題があったはずである。それは同時に、三原が西鉄でも大洋でも経験してきた親会社と球団の関係に象徴される古い体質とも無関係ではなかっただろう」。それは、常にビジネスライクな考え方をする三原と、所詮球団は本社の広告塔に過ぎないと考える経営者層との、埋めようもない溝とでも言おうか。実績に見合った収入を要求する三原に対し、「近鉄の天皇」と呼ばれた佐伯勇球団オーナーは頑として首を縦に振らなかった。お互いの溝は深まるばかりだった。■後に近鉄の監督を経験した関口清治が近鉄の「タニマチ体質」を述懐し、三原が近鉄を見限った理由を推測する。以下も『魔術師‐‐‐』より。「近鉄には月1回、朝飯会というのがあって、傍系会社の社長や重役が集まるんです。佐伯会長のあいさつがありますから。近鉄の監督も大阪におるときは、そこに出ていくんですよ。重役たちは鶴岡さんや川上さんの解説を聞いて、私に『なんで、あのときにあの選手を使わなかったんや』と詰問されることが度々でした。いろいろ事情があるのですが、そんなことは解説者は知りませんわな。だから、全然違うんですよ。ところが、お偉いさんたちは、解説者の話を聞いて、もう目茶苦茶言うとりますわ。近鉄は、本当に周囲がうるさかったですよ」。ある日、関口は佐伯に試合中の作戦について質問されたことがあった。「エンドランやバント、あるいは盗塁をさせるでしょう。あるとき、佐伯会長が『それは監督の独断でやるのか』と聞かれるので、『えぇ、独断です』と答えたんです。すると、『それは駄目だ。コーチとかみんな集めて、相談してやりなさい』と言われるんですよ。それでは試合がどんどん流れていきよるし、間に合わないと説明すると、『独断でやるのも結構だが、それは間違えがあるぞ』といわれる。こんなんばっかりですよ」。■三原の監督在任中も同様だったことは想像に難くない。お金の問題と球団の体質と。ただ、それが退任の本当の理由だったかは分からないが・・・。そしてもうひとつ、当時の三原を悩ませていたことがある。前年1969年(昭和44年)秋に発覚した「黒い霧」が古巣西鉄ライオンズを直撃したことだ。「なぜ、西鉄がこんなことになってしまったのか・・・」三原の嘆きの声である。そして、この時、西鉄の監督が娘婿の中西太だったことが、一層に三原の悩みを深くした。※続きは、いずれ。
2014.01.04
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今日(11月1日)行われた早稲田大-慶応義塾大の2回戦は、慶応大がスコア7-4で早稲田を破り連勝、3つ目の勝ち点を挙げた。また早稲田が勝ち点を失ったことで、明治大の3季ぶり33回目の優勝が決まった。(2回戦、11月1日)慶 040 200 001 =7早 000 000 013 =4(慶)小室-松尾拓、(早)大石-福井-松下-斎藤佑■まさか奇策はないだろうと思っていたが、早稲田の先発は大石達也(3年、福岡大大濠高)。まさに奇策!(ホントかよ?)ただ、この奇策は見事に外れた。大石という投手は先発に向かないようだ。2回、慶応は無死一・三塁のチャンスを作ると、山本良祐(4年、岡崎高)、漆畑哲也(4年、慶応高)、山口尚記(3年、慶応高)の適時打で一気に4点を挙げ、序盤で勝負を決めた。■慶応のワンサイドゲームに見えたこの試合。だが終盤に早稲田が粘りを見せる。まず8回、代打で登場した藤原誠人(4年、観音寺一高)がライトフェンス直撃の3塁打を放つ。三塁ベース上で雄叫びを上げる藤原、出場機会に恵まれなかった鬱憤を晴らす一打となり、他の4年生たちの心に火を点けた。9回は一死一塁で、4年の大前佑輔(社高)が代打で登場。迷うことなく初球を叩いて、右前に安打を放ちチャンスを広げる。塁上の大前も目から大粒の涙がこぼれていた。そして一人置いて次の代打は、主将の山川陽祐(中京高)。カウント2-3と追い込まれたものの、その後にファールで4球粘り10球目を左前に運んだ。山川も塁上ではベンチに向かって左手を突き上げていた。いつも冷静そうな山川の表情が、少しだけ紅潮して見えた。この試合が最後になった4年生。特に藤原、大前、山川らは下級生にポジションを奪われ、出場機会に恵まれない選手たちだった。なのに、この試合で与えられたわずかなチャンスに自身の最高のパフォーマンスを示して見せた。数えてみると、早稲田の4年生部員の内、背番号さえつけていない部員が24名いる。藤原たちの安打は、スタンドにいた同級生たちの悔しさや期待を背負った一打でもあった。■4年生の気持ちは慶応も同じ。特に、相場勤監督は今シーズンを最後に引退が決まっている。勝利インタビューでは「最後の早慶戦でしたが・・・」と聞かれ、言葉を詰まらせた相場さんの姿が印象的だった 1日1クリックお願いします
2009.11.01
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たいへん恐縮ですが、前々回使った写真を再び使わせていただきます。ご容赦ください。■その理由は、左端にいる法政大の安慶名舜主将(4年、興南)の異常な頭の下げ具合がとても気になったからなんです。開幕以来7連敗を続けた法政は、やっとこの日に初勝利を挙げました(対明治大2回戦)。写真は、試合終了後、応援団に挨拶した時の一コマです。安慶名は「応援ありがとうございました」と言いつつも、「こんなチーム成績ですいません・・・」と謝っているようにも見えます。現在、主将という大役を担っていますが、スタメンで名を連ねることはまずなく、途中に代打出場というのが定番です。残念なことに、快打を打つシーンはあまり記憶にありません。しかし、彼が打席に立つたび、そして粘った末に四球を選んで出塁するたびに、グラウンドの空気が妙に引き締まる不思議な空気を持った選手だと思っていました。そんな折、下の写真を見て、ますます安慶名という選手に興味を持ちました。(写真)今季初勝利を決めた後、応援席に挨拶する安慶名舜主将。進んで全責任をひとりで負っているようにも見えます・・・(対明治大2回戦)(写真)代打で途中出場した安慶名。この試合は2打席2四球。■たまたま手元にDVD「2010年センバツ決勝、興南vs日大三」があったので、それを見てみました。下の写真はこの決勝戦のスタメンです。ここにも安慶名の名前はなく、高校時代も代打要員だったことを知りました。背番号は「16」。この試合、安慶名の出番(代打)は試合終盤にやってきました。しかし残念ながら凡打。そして試合は延長戦に入り12回表、一死満塁の場面で再び安慶名に打順がまわります。すると4球目を必死の思いで叩きつけた打球が三塁へ。平凡な当たりでしたが、三塁手の横尾俊建(現・慶応義塾大)が捕球後に本塁へ悪送球。走者2人が生還して、結局この一打が優勝を決める決勝打になりました。グラウンドに立つ時間は他選手より短い安慶名ですが、しっかりと存在感を示したひとコマでした。まるで現在と同じ。さらにレフトに飛んだ(甲子園優勝の)ウイニングボールをグラブに収めたのも、この安慶名でした。■不思議な魅力をもった安慶名。その秘密が雑誌『大学野球2014春季リーグ戦展望号』(ベースボールマガジン社)に書かれていて、思わず納得してしまいました。不思議な魅力は、彼のこれまで味わった苦い経験を、彼なりに「強み」に醸成しているのだと知ったから。記事には、こんなことが書かれていました。以下、前述の『大学野球ー』より引用。(興南高時代)我喜屋監督が言ったこの言葉が、特に心に響いた。「今レギュラーでない者は、大学、社会人になる中で、レギュラーだった者を部下で使うくらいになると思っている」。その言葉が、主将になった安慶名を支えている。高校時代を振り返って思うことがある。「春夏連覇を達成し、チームとしては良かったけれど、僕の中では悔しさが上回っていました」。なぜなら、4度出場した甲子園では先発出場ゼロ。今でも野球を続ける原動力は、その苦みにある。「やはり優勝したのはレギュラー9人。控えの僕が同じ気持ちではいけないと思う。ほかのメンバーより回り道しました。でも、そこが僕の強みでもあるんです」。控えの背番号「16」にしてこの意識の高さ。興南野球部の象徴は、もしかしたらこの男なのかもしれない。(写真)スタメンに安慶名の名前はない。(NHKより。以下も同じ)(写真)延長12回、相手のエラーを誘う決勝打を放つ。ネット裏には法政カラーのラガーシャツを着たラガーさんの姿が。(写真)甲子園優勝のウイニングボールをしっかりとグラブに収めた安慶名。
2014.10.15
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今日行われた立教大ー法政大の1回戦は、立教が3-2で先勝し開幕以来3連勝。春連覇に向けて快調な滑り出しを見せました。一方の法政は、開幕戦に白星を挙げることはできませんでした。今日も大阪桐蔭OBたちが躍動しました。まずは立教、2回裏の攻撃。この回先頭の4番・三井健右(大阪桐蔭)が1ボールの後の2球目をフルスイングすると、打球は高く高く舞い上がってライトスタンドへ。滞空時間のとても長い本塁打、この豪快な一発がチームに勢いをもたらしました。2試合連続の2号本塁打。187cm、87kgの巨漢、左打席の立ち姿には「雰囲気」が漂います。まだ2年生、これからが楽しみです。投げてはエース・田中誠也(3年、大阪桐蔭)が相変わらず小気味よい投球で法政打線を翻弄、7回を無得点に抑えました。一方の法政は、9回、代打で登場した福田光輝(3年、大阪桐蔭)が2点本塁打を放って一矢報いましたが、時すでに遅し。開幕戦を白星で飾ることはできませんでした。悔やまれるのは4回、無死二塁の場面、中途半端な攻めで好機を逸したこと。打者は送りバントの構えで初球のボール球をファール、2球目も送りバントの構えだったがストライクにもかかわらずバットを引き、あっという間に0-2に追い込まれ、結局その後は策なく三振に倒れました。また主砲・中山翔太(4年、履正社)に2本の長打が出たものの、いずれも走者なしの場面では得点力が半減します。1番から3番までのテコ入れが必要なんでしょう、きっと。(写真1)立教大・三井健右(写真2)立教大・田中誠也(写真3)法政大・福田光輝が9回、2点本塁打を放つ(写真4)スコア(写真5)大阪桐蔭時代の三井健右。2016年夏の甲子園2回戦、対八戸学院光星(NHK)
2018.04.22
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◇今日の時事ニュース◇・新車国内販売27%減、39年ぶりの低水準を記録・「麻生首相では戦えない」自民党内懸念。政権2か月で内閣支持率が失速状態・<流行語大賞>「アラフォー」「グ~!」「蟹工船」「後期高齢者」「上野の413球」ほか 今日の日刊ゲンダイ。先のドラフトで広島から2位指名を受けた中田廉(広陵高)のことを紹介していた。中田のプロフィールは、次のように記されていた。「1990年7月21日、大阪生まれの18歳。小4の時、叔父と行った西武キャンプでで松坂大輔(現・レッドソックス、横浜高-西武)を見て野球に開眼した。今夏の甲子園で大会最速148kmをマークし注目を浴びた」この叔父とは、近鉄や西武に在籍した村上隆行氏(現・関西独立リーグの大阪ゴールドビリケーンズ監督)のこと。中田廉の母・恵子さんの妹が村上氏と結婚したため、廉と村上氏は甥と叔父の関係にあたる廉の「野球つながり」は村上氏との関係だけではない。父親は野林大樹氏。近鉄ファンだった方なら記憶にある名前かもしれない。87年、大型内野手として期待され3位指名を受けて、近鉄に入団した選手だった。ただプロではさしたる実績を残せず広島-近鉄-ヤクルトを渡り歩き、引退後は生命保険会社の営業マンとして第2の人生をスタートさせた・・・はずだった。だが廉が小5の時、父である野林氏はいきなり音信不通になる。そんなことがあって離婚を決意した母・恵子さん、野球好きだった廉に言った。「野球選手になるなら、お父ちゃんを超えないかんで。父ちゃんみたいに逃げたらあかん」中田廉。今年夏の甲子園にエース格の投手として出場している。1回戦は高知高をスコア8-5で降したものの、2回戦で左腕・土屋健二(日本ハム・4位指名)を擁する横浜高に4-7で敗退した。チームメイトには、明治大進学予定の上本崇司がいた。※上本崇司・・・今秋のドラフトで阪神から3位指名を受けた早稲田大・上本博紀(広陵高)の実弟。-------------------------------------------------------------中田廉の母親の妹が村上隆行氏と結婚した、そう聞いて気づいたことがある。それは、村上氏の妹は中村紀洋(近鉄-オリックス-中日-楽天)と結婚していたはずで、中田廉と中村ノリは遠縁にあたるということだ。(なんだか頭が混乱してきた・・・) いずれにせよ、中田廉は野林大樹、村上隆行、中村紀洋ら近鉄バファローズのOBたちと縁のある選手といえる。これは応援するしかないと思うのだ。1日1クリックお願いします>>人気ブログランキング
2008.12.02
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前回の続き。■1973年の東京六大学リーグは、前年秋まで慶應義塾大が3連覇したものの、エース左腕・荻野友康が卒業。慶應の戦力はダウンし低迷期に入った。代わって、春は鍛治舎巧、中村勝広らがいる早稲田大が、そして秋は明治大が優勝した。当時の東京六大学春季リーグのベストナインは以下のとおり。(主な選手のみ記載)<捕手>楠城徹(早)<一塁手>山本功児(法)<遊撃手>山下大輔(慶)<外野手>鍛治舎巧(早)ボクは、なぜか鍛治舎さんのことをよく憶えている。当時はしょっちゅうNHKで東京六大学や早慶戦を放送していたから、変わった苗字だったことや堂々とした打席の姿が強く印象に残ったのだと思う。その後、しばらく鍛治舎さんの名前を忘れていたが、高校野球の解説者をされている時、再び鍛治舎さんの名前を思い出した。打席の雰囲気と違い、鍛治舎さんの語り口はソフト。そしてとても分かりやすかった。ボクにとって高校野球解説者のNo1は、この鍛治舎さん。アナウンサーは島村俊治さんだった。今後この2人が組む実況を聞くことはないはずだ。残念。■鍛治舎巧さんのこと。(wikipediaより)県岐阜商高の3年時、センバツ準々決勝で間柴茂有(比叡山高)から本塁打を放ち、これが大会通算100号本塁打となった。その後、早稲田大に進学。5季連続打率3割を超える成績で活躍し、1973年春季リーグ戦の優勝に貢献した。また、日米大学野球で日本代表の4番打者を務めた。早大卒業後は松下電器産業(現・パナソニック)に入社。2年目にプロ野球・阪神からドラフト2位指名を受けるが入団を拒否し、以降も松下でプレーを続け1980年に引退した。引退後は社業に専念し1987年~1991年まで松下電器野球部の監督をした。また少年野球ではボーイズリーグのチーム「オール枚方ボーイズ」の監督も務めており、3度優勝に導いている。■同年、全日本大学野球選手権を制したのは中央大。準優勝が愛知学院大だった。そして日米大学野球には、以下の選手が出場した。<投手>小林 秀一 (愛知学院大)田尾 安志 ※当時は二刀流だった。(同志社大)<捕手>楠城 徹(早稲田大)<内野手>山本 功児(法政大)中畑 清(駒沢大)佐野 仙好(中央大)山下 大輔(慶応大)<外野手>鍛治舎 巧(早稲田大)藤波 行雄(中央大)■田尾安志、楠城徹、山下大輔。この3人は、楽天イーグルス初優勝への貢献でも共通点がある。田尾は初代監督(2005年)、楠城はスカウト部長・編成部長等(2005年~2012年)、そして山下は一軍ヘッドコーチ・二軍監督・編成本部長等(2005年~2007年)を歴任した。(写真)早稲田大時代の鍛治舎巧さん ~ 『東京六大学野球80年史』(ベースボール・マガジン社)より ~
2013.11.17
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今日の日本シリーズ第5戦。9回裏、二死満塁の場面で西川遥輝がサヨナラ満塁本塁打を放ち、日本ハムが日本シリーズの成績を3勝2敗としました。この本塁打が飛び出す直前、岡大海が死球を受け、両チームの選手たちがベンチを飛び出す騒然とした空気に包まれるシーンがありましたが、岡が死球を喰らうと、その後に何かが起きるのです。それは今から3年前のことーーー。■以下、2013年7月12日の当ブログより。昨日(7月11日)、日米大学野球第5戦を観戦した。2勝2敗で迎えたこの試合が最終戦。、思わぬ伏兵が日本代表チームを優勝に導いた。 それは岡大海(明治大4年、倉敷商高)である。でも岡が本塁打を打ったわけではない。貴重な適時打を放ったわけでもない。打撃成績は3タコと1つの死球である。 その死球こそがチームを救った。追いつ追われつの好ゲーム。そして4回裏、ドラマが起きた。一死後、7番・岡が打席に立った。初球、なぜか岡はセイフティバントの構えをみせ、身体が前方に傾いた。すると投球は岡の足に当たってしまった。倒れこみ、苦悶してのけぞる岡。そして立ち上がりかけた瞬間、被っていたヘルメットをはぎ取ると、思い切りグラウンドに投げつけた。グラウンドでは両軍ベンチから監督・コーチ・選手たちが飛出し、一触即発のムードに。審判団が必死に両軍をなだめて事なきを得たが、この岡の戦闘姿勢が日本代表ナインの心に火を点けた。その後、四球、盗塁、ワイルドピッチでチャンスを作ると、9番・嶺井博希(亜細亜大4年、沖縄尚学高)の適時打と1番・大城戸匠理(法政大4年、藤井学園寒川高)の内野ゴロで2点を追加した。 さらに5回裏には4番・梅野隆太郎(福岡大4年、福岡工大城東高)、5番・中村奨吾(3年、天理高)が連続本塁打を放ち、勝利を決定づけた。以前のブログで、ボクは岡を「脱力系」の選手と書いたが、それは完全な誤りで、岡は実に熱い闘志を秘めた頼もしい選手だった。
2016.10.27
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1-1の同点で迎えた8回裏、一死二塁、カウント1-0の場面。東海大四のエース・大沢志意也が投げた球はスライダーだった。・・・この写真の直後、敦賀気比の松本哲幣がフルスイングすると、打球はポールを巻いてレフトスタンドに飛び込んだ。第87回選抜高校野球大会は1日、阪神甲子園球場で決勝があり、2年ぶり6回目出場の敦賀気比(福井)が、14年ぶり6回目出場の東海大四(北海道)を降し、初優勝を果たした。敦賀気比は春夏を通じて福井県勢初の優勝で、北陸勢としても春夏を通じて初めて甲子園の頂点に立った。北海道勢初の選抜優勝を目指した東海大四はあと一歩及ばなかった。(毎日新聞)東海大四 100 000 000 =1敦賀気比 100 000 02X =3■初回に1点ずつ取り合い、その後追加点を奪えないまま迎えた8回表、「流れ」は東海大四のものに見えた。この回先頭の5番・ソウカンギが二塁打で出塁する。続く6番・塩田元が三塁線に絶妙の送りバントをするが、敦賀の平沼翔太投手は捕球後振り向きざまに三塁へ送球した。タイミングは完全にアウト。三塁手は余裕をもって走者の足にタッチをした。が、走者の足が差し出したグラブに当たり、ボールはファールグラウンドに転がった。決して悪質な走塁ではなかった。が、無死二・三塁の好機を得たことが、逆に東海大四に影を落としたように思える。思いがけないチャンスは、あにはからんや必ずしも得点に結びつくものではない。それはプロアマ問わず、これまでの数々の試合が証明している。■はたして次打者の7番・大沢志意也がスクイズを敢行するも、相手バッテリーはスクイズを読んで大きく外し空振りを奪われると(写真中)、走者は三本間に挟まれてアウトに。さらにスタンドの興奮が覚めやらぬ間に平沼の投げ込んだ138kmの速球は、内角ギリギリに決まり見逃しの三振(写真下)。まさに平沼の渾身の一球、圧巻だった。続く次打者の猛烈な当たりも一塁手の好守に阻まれて、思いがけぬチャンスは一瞬にして潰えた。これで「流れ」は完全に敦賀気比に傾いた。その裏、敦賀の先頭4番・平沼が四球で出塁すると、次打者の送りバントで二進後、6番・「満塁男」松本が2点本塁打を放ち、敦賀の優勝が確定した。 ■ 「思いがけないチャンスースクイズ失敗ー三振」。思い出すのは1979年、伝説の「江夏の21球」・・・いやいや、これ以上書くのはやめておこう。何でも近鉄バファローズに結びつけるのは、ボクの悪い癖だ。<関連記事>「江夏の21球」 http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201305030001/ (写真中)(写真下) 告!当ブログは「野球ブログ瓦版」に参加しています。もしよろしければ、下記のサイトもご覧ください。こちら→ http://kawaraban.blog.jp/
2015.04.01
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(前回の続き)■狭い店内の厨房に、元・東映フライヤーズの尾崎行雄さんはいた。一見、どこにでもいる普通のおじさんだけど、忙しそうに料理を作る両腕は、まるで丸太のようにぶっと(太)かった。元豪腕投手の名残なんだろうか?手の動きが止まるのを見計らって、テーブル席から声をかけた。ボク「マスター、誕生日は9月11日でしょ」尾崎さん「えっ、何で知ってんの? テロのあった日だよ」ボク「そうそう、リメンバー9・11...」こんな突拍子もない話題から始まった会話だったけど、掴みとしてはOKだった。その後、しばらく話は続き、ボクの興奮はなかなか収まらなかった・・・。内容は書かない。今後はこのお店に通い、じっくり話を聞いて、承諾を得た上でこのブログに書けたらうれしい。(写真)サイン色紙「耐えて勝つ 東映フライヤーズ 尾崎行雄 19」ボクは尾崎行雄さん(浪商高中退-東映)の現役時代をリアルタイムで見るほど年をとっていない。ただかつて豪腕と呼ばれるほど有名な投手だったことや、甲子園では法政二高と三度にわたる激戦を演じたことは日本野球史の名勝負であると知っている。また子供の頃「プロ野球選手名鑑」という本を読んで、尾崎さんの誕生日が9月11日だと知り、いまだにそのことを覚えている。理由は簡単、ボクも同じ誕生日だから。そんなどうでもいいことが会話の掴みになったのだから嬉しい限り。■いま手元に雑誌『高校野球 忘れじのヒーロー』(ベースボール・マガジン社、2007年刊)がある。この中に「スーパーライバル対決」という特集があって、見出しには「快腕と豪腕の追憶。1960年夏、1961年春夏―三たび激突した。史上最強の好敵手同士が語り尽くす、わが青春の甲子園」と書かれている。尾崎さんを語るとき、エース・柴田勲さん(後に読売)を擁した法政二高との三度にわたる対決は外せない。このふたりの対決を振り返る。(写真)『高校野球 忘れじのヒーロー』(ベースボール・マガジン社刊)≪アーカイブ≫「豪腕」浪商高・尾崎行雄と「快腕」柴田勲の最初の対決は1960年夏、甲子園2回戦だった。(1)1960年夏 2回戦(8月15日)法政二高 4-0 浪商高法政二 000 000 040 =4浪商高 000 000 000 =0(法)○柴田、(浪)●尾崎この時、尾崎は1年生、柴田は2年生だった。柴田「あの年、慶應高校に渡辺泰輔(慶應大‐南海)さんという剛速球投手がいてね。僕らはその渡辺さんを打てないと甲子園に行けないというんで、速いボールを打つ練習はかなり積んでいたんだよ。でも尾崎君の球は速かったよ。手元でピュッと伸びてたもの」尾崎「たしかに速かったかもしれないけど、僕の場合は速いだけ。その点、柴田さんのピッチングは、制球力といい配球といい、ほぼ完成されていましたものね」 (以上、前出の『忘れじのヒーロー』より引用)。補足のため、別の書籍から以下に引用。「スコア0-0で迎えた8回、カーブを多投し疲れの見えた尾崎を攻略するため、法政二高の田丸仁監督は打者に外角のストレートとカーブに的を絞らせ、一挙4点を奪い勝利を決めた。その後も勝ち進んだ法政二高がこの大会を制した」 (『甲子園-名投手物語』 鈴木俊彦著、心交社刊)(2)1961年センバツ 準々決勝(4月3日)法政二高 3-1 浪商高法政二 000 020 100 =3浪商高 010 000 000 =1(法)○柴田、(浪)●尾崎柴田「尾崎投手は前年の夏よりもさらに速球に磨きがかかっていた」尾崎「打倒・法政二高で燃えていましたからね(笑)。自分で言うのもなんですが、1回戦の日大二戦は17奪三振、2回戦の明星戦は14奪三振でともにシャットアウト。ほぼ完ぺきの状態で法政二戦を迎えたんですよ」柴田「うちとの試合でも最初から飛ばしていたんだよね」尾崎「たしか4回までノーヒットで毎回の7奪三振。味方も2回に1点取ってくれたんで、今度は行けると思ってたんですがね~」 (『忘れじのヒーロー』)「事実上の決勝戦とも言われたが、イレギュラー打球の不運などもあり、浪商高は再び法政二高の軍門に降った。その後、法政二高はこの大会でも優勝した」 (『甲子園―名投手物語』)(3)1961年夏 準決勝(8月19日)浪商高 4-2 法政二高浪商高 000 000 002 02 =4法政二 100 100 000 00 =2(浪)○尾崎、(法)●柴田尾崎「8回を終えて0対2と2点ビハインド。でも不思議と負ける気はしなかった。それは柴田さんが肩か肘を故障しているという情報が入っていたから」柴田「あの時はもう腕が上がらない状態。なんとかだましだまし投げていたんだけれど、9回表に一死からデッドボールを与えてしまって・・・。その後連打を喰らって二死満塁。迎えたバッターは5番・ピッチャー尾崎」尾崎「たぶん、あの打席まで柴田さんから一本もヒットを打ってなかった。でもあの打席は不思議と落ち着いていた。そしてカウント2-2からの5球目、ションベンカーブが肩口からスーッと入ってきた。変化球は苦手でしたが、さすがにアレは打てました」 (『忘れじのヒーロー』)「打倒・法政二、打倒・柴田が浪商ナインの合言葉だった。燃えに燃えて臨んだこの試合は延長11回の末、三度目の対決でやっと初勝利。そして浪商は決勝も勝利し、この大会の優勝を決めた」 (甲子園―名投手物語)「延長11回表、無死一・二塁から、併殺を狙った二塁手のエラーで1点を勝ち越し、さらに尾崎の犠飛で2点を奪い、法政二を4-2で破った。決勝戦では、森川勝年(慶應大‐松下電器)がエースの桐蔭高を3安打で完封して優勝した。2年生の尾崎投手は5試合で54奪三振をマーク、翌年の活躍が期待されたが、11月に高校を中退してプロ入りした」 (『高校野球 甲子園全出場校大事典』、森岡浩編、東京堂出版刊)次回に続く。今日も1クリックお願いします
2012.12.01
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■今日(7月27日)、準決勝の第1試合・浦和学院高対聖望学園高戦を観戦した。(写真)スコア■「事実上の決勝戦」といわれたこの試合は、前評判どおりの熱戦が繰り広げられた。初回、浦和学院は1番・竹村春樹が右前に安打を放って出塁した。早々にチャンスをつかんだかに見えたが、2番・服部将光は送りバントを失敗。そしてカウントを追い込まれた後にヒットエンドランに作戦を変更するも、服部は空振り三振、さらに一塁走者の竹村までもが二塁で憤死してしまった。送りバントをできずにチャンスをつぶす・・・、初回の集中力が群を抜く浦和学院にとっては、「らしくない、チグハグな攻撃」だったといえる。続く3番・山根佑太が安打で出塁したため、よけいに浦和学院の攻撃がチグハグに見えた。そして、この初回のチャンスを逃したことが、浦和学院のその後の試合運びを窮屈なものにした。チャンスはそれなりにあったものの、またも送りバント失敗や併殺打などが続き、得点できない。 ■一方の聖望学園も初回、浦和学院のエース・小島和哉(2年)を攻めたてる。一死後、2番・笠原伸吾が右前安打で出塁し、3番・寺田和史が四球を選んで一死一・二塁のチャンスをつかんだが、小島に後続を断たれ、こちらもチャンスを活かせない。聖望学園は、その後もスコアリングポジションに走者を送るものの、持ち味の制球力を活かす小島に要所を締められ、無得点が続いた。(写真)浦和学院・小島和哉。9回を投げ、被安打5、奪三振6、与四死球3、自責点0。■どちらが勝ってもおかしくない - いや、もっと言えば、浦和学院が敗れてしまう可能性も十分にあった - この試合は、緊迫した空気の中、両チームともに0(ゼロ)行進のまま、9回まで進んだ。そして先に得点に成功したのは、やはり、浦和学院だった。9回表、この回先頭の3番・山根が左前安打で出塁する。そして、4番・高田涼太がきっちり送りバントを決め、次打者の凡退後、6番・斎藤良介が右中間越えの適時三塁打を放ち、山根が生還。浦和学院はやっと1点を挙げ、これが決勝点になった。斎藤は準々決勝(7月25日、対埼玉平成高戦)で最後の打者をライトゴロに仕留め、小島の完全試合を好アシストした選手。今日も決勝打を放ち、背番号「11」は浦和学院になくてはならないラッキーボーイとして、その存在感をさらに大きなものにした。(写真)浦和学院・斎藤良介。9回表、右中間越えの適時三塁打を放つ■一方の聖望学園。今日の試合を名勝負にした立役者は、エースの川畑諒太だろう。2回途中から登板し、強力な浦和学院打線を7回2/3、被安打3、奪三振2、与四死球4、自責点1に抑えた。最速は120km台半ばだったものの、巧みな投球術で相手打線を翻弄した。(写真)聖望学園・川畑諒太。 ■さて、明日の決勝戦は浦和学院と川越東が戦う。川越東は中軸を打ち、ショートを守る高梨公輔が中心のチーム。ボクは2回戦(7月12日、対武蔵越生高戦)しか見ていないので、詳しいことはわからない。ただ、その時の印象では、まさか川越東が決勝まで勝ち上がるチームとは思えなかった。きっと一戦ずつ戦ううちに力をつけてきたのだろう。ちなみに、昨年まで川越東の監督を務めた阿井英二郎氏は現在、日本ハムのヘッドコーチに就任している。また、現在早稲田大学で「二刀流」に挑戦し、春季リーグ戦で東京六大学史上3人目の完全試合(対東京大戦)を達成した高梨雄平も川越東の出身。高梨公輔は雄平の弟。決勝戦は明日(7月28日)10時~。(写真)川越東・高梨公輔。~対武蔵越生戦より~今日も1クリックお願いします
2013.07.27
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前回の続き。■1973年、近鉄の土井正博が1500本安打、清俊彦が1000奪三振を各々記録した。また、岩本尭監督が休養のため、嶋田光二コーチが代理監督として指揮をとったのもこの年だった(8月~)。結局、岩本はそのまま監督を辞し、11月、代わって西本幸雄が監督に就任した。この年、近鉄にとって頭の痛い出来事があった。藤井寺球場を巡る騒動である。2月、藤井寺にホームグラウンドを移すことを決定し、7月にナイター工事を着工したものの、地域住民に反対の声が上がり、10月、大阪地裁が条件付きながらナイター工事続行中止処分を下された。■この顛末について、『近鉄球団、かく戦えり。』(浜田昭八著、日経ビジネス人文庫)に詳しいので、以下に引用する。高い家賃を払うぐらいなら、多少無理してでもマイホームを建てる。まして使っていない古い家があるなら、手入れして使いたいと思うだろう。近鉄球団の思いは、まさにこれだった。近鉄は1958年、「家賃」値上げのため、それまでナイターで借りていた大阪球場を去り、新たにナイター設備をつけた日生球場に「転居」した。ところが、移った先の「家主(日生)」も年々、「家賃」の値上げを要求してきた。72年の年間使用料は3290万円。1試合当たりだと約70万円。これに各種興行経費を加えると、1試合あたりの経費は約115万円になった。しかも球場のフェンスなどへの広告収入は、すべて日生側が受け取る契約だった。その上、73年度からは1試合の使用料を100万円とする申し入れがあったため、もはや、日生に固執するメリットは近鉄にはなかった。 ■そこで浮上したのが、「古い家」の藤井寺球場への回帰プラン。それは、この藤井寺に照明をつけてナイターも興行しようというものだった(それまではデーゲームと練習だけに使用していた)。自前の球場を有効利用することで、余計な出費を抑えることができる。当然と言えば、当然のプランだ。ところが地域住民への説明が後手にまわり、思いがけない事態が起きた。 そもそもこの地は、閑静を売り文句にして、近鉄自身が開発した住宅地。その住民がナイターによる騒音、光、自動車の行き来などによる公害を恐れるのは当たり前だった。したがい、73年7月、見切り発車で着工するも、住民から「ナンセンス!」と問答無用で退けられた。結局裁判に持ち込まれ、紆余曲折の末、工事着工が認められたのは、10年後の83年9月である。■その後も藤井寺球場は、悲運に見舞われた。近鉄のホームグラウンドとして再スタートするも、97年に大阪ドームが完成し、再び準フランチャイズに降格。さらにオリックスとの合併により、2005年1月をもって球場を閉鎖し、ついに翌06年、解体された。しかし、球場の看板だけは現存するらしい。近くでスナックを経営する70年代の主砲・栗橋茂さんが抱きかかえるようにして持ち帰ったという。近鉄が藤井寺球場をホームグラウンドとして再スタートを決めたのは1973年、同年ドラフト1位で近鉄に入団したのが栗橋さんだから、これも不思議な縁ではある。 (写真)藤井寺球場 ~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)~
2013.11.23
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前回の続き。 ■1969年、夏の甲子園では三沢・太田幸司が国民的ヒーローになり空前の盛り上がりを見せたものの、プロ野球界は暗い事件に度々見舞われた。10月7日、読売、報知の両紙が「西鉄・永易投手が八百長」と衝撃的なスクープ。当初永易はそれを否定していたものの、コミッショナー委員会は11月28日、同投手の永久追放処分を発表した。いわゆる「黒い霧事件」である。これは、永易だけにとどまらなかった。以降、次々に関与した選手や球団職員の名前が明らかにされ、国会を巻き込んだ大事件に発展した。※「黒い霧事件」については後日、記述します。そして「黒い霧事件」に世間が動揺する中、10月9日にはこれまでプロ野球界を牽引した正力松太郎氏が死去。さらに10月30日(日本シリーズ)第4戦に日本シリーズ史上初の退場事件が発生。また同じころ、金田正一が現役引退を表明した。今になって考えると、この年は、プロ野球界が大きく変わる節目になった1年だったと思える。■そんな時、もうひとつ別の事件が起きた。荒川尭をめぐる三角トレードと荒川殴打事件である。きっかけは、「巨人とヤクルト以外はプロに行かない」と宣言していた早稲田大・荒川尭を大洋が強行指名したこと。詳細は以下のとおり。11月20日に行われたドラフトの指名順位は、1番目が中日、2番目が阪神、3番目が大洋。そして、荒川が希望するヤクルトは9番目、巨人は11番目だった。この時、目玉の選手は荒川のほか、同じ早稲田大の谷沢健一と、三沢高の太田幸司の3人。大洋は当初、荒川を指名する予定はなかったという。なのに、なぜ荒川を強行指名するに至ったのか。その事情は、『ドラフト1位 九人の光と影』(澤宮優著、河出書房新社)に詳しい。「大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)のオーナー・中部謙吉は、当初は荒川を指名する気持ちはなかった。ドラフト当日、予備抽選で大洋はくじの順番は3番目と決まった。この段階でスカウト陣の予想は1番目の中日は谷沢、2番目の阪神は太田を指名するだろうと読んだ。すると大洋は東海大学のエース上田次朗でゆこうと判断していた」ところが、中日は谷沢を指名するも、阪神は予想に反して上田を指名した。大洋の予想が外れたのである。当時のドラフトは重複指名が出来なかったたため、上田以外の誰かを指名する必要に迫られた。「太田を指名するか。中部は迷ったが、大洋の本拠地川崎球場は工場の町であるから、太田が入団しても女性ファンが来ないと考えた。それで実力派の荒川で行こうと決心した。なぜなら、大洋の森代表、スカウト陣はこぞって『荒川では獲得する自信がない』と訝ったが、中部には勝算があった。球団代表の森茂雄は早稲田OBで、元野球部の監督。荒川の恩師でもある石井藤吉郎監督は、森の教え子だった。この早稲田ラインで押してゆけば、荒川も入団に傾くかもしれない」。■しかし、中部の当ては外れた。荒川は大洋入団を頑なに拒否、一年の浪人生活を覚悟し、一方大洋は12月15日に一時交渉の打ち切りを宣言する。そして間もなく、事件が起きた。巷では、まだ正月気分の残る翌70年1月5日夜のことである。荒川が自宅付近を犬と散歩中、暴漢に襲われた。こん棒のようなもので後頭部を殴られ、後頭部や手のほかに右目付近も負傷した。この右目の負傷が後に、荒川の視力を低下させ、プロ野球選手として大成できない影響を残した。(写真)荒川尭。右は早稲田大時代、左はヤクルトアトムズ時代。~『プロ野球ドラフト史1999年版』(ベースボール・マガジン社)より~
2014.01.12
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前回の続き。■近鉄が奇跡的な勝利を収めた第一試合、要した時間は3時間半に及びました。試合終了時刻は18時21分。その後、ボクはスタンド下にあるラーメン屋に駆け込み、急いでラーメンを流し込みました。なにせ第2試合の開始は18時44分、つまり試合間の休み時間はたったの23分間でしたから。そしてスタンドに戻り、あたりを見まわして感じたのは、第一試合に勝利した余韻というか、「これで優勝は決まったようなものだ」というホッとした、フワフワした空気でした。それは心地よい疲労感でもありました。■佐野正幸さんは、著書にこう記しました。「第二試合が始まると、横から中年男性ファンが話しかけてきた。『第一試合より気が楽だね』。この言葉を聞いてまずいと思った。第一試合があまりにも波乱に富んだものだっただけにスタンドは微妙な風に、何かこのゲームは楽に勝てるのではという雰囲気に変わってきていた。そう、あんな感動のゲームを勝ち抜いてもう近鉄が負けるわけがないという、錯覚にも似た気持ちである」。ーーー 「第一試合より気楽だね」。その中年男性の気持ちは、ボクの気持ちと同じです(もちろん、この中年男性はボクではありません。28年前は、まだ若かった(^^)/)佐野さんが感じた危機は、残念ながらボクにはありませんでした。数時間後には目の前で近鉄の胴上げを見ることができる! そんなことを夢想し、若干の眠気を感じつつ、第二試合は静かに進行しました。すると2回裏、突然にこのシーズン限りで解雇が決まっていたロッテの4番・マドロックに先制の特大本塁打が飛び出します(いま考えると、クビになった打者がなぜ4番なのか意味不明ですが・笑)。ロッテ1-0近鉄。あれれ、近鉄が勝利するシナリオなのに、余計なことをする奴がいるもんだ。旧い表現で恐縮ですが、マドロックはまったく「K・Y」な男に映りましたが、まぁ、いいか、これで試合がまた面白くなる、そう思いなおすことにしました。でもファンと同様に選手たちも、第一試合の興奮から醒めていない様子で、近鉄の攻撃がとにかく「重かった」。スコアボードは、近鉄の「0行進」が続きます。そんな中、力づくで目を覚まさせてくれたのは、ヘッドコーチの中西太さんでした。■佐野さんは書きます。「6回表、先頭バッターは真喜志康永・・・沖縄出身のルーキーである。だが見逃しの三振・・・しかし最後のコースが微妙だった。中西コーチが、その巨体を揺らして、怒鳴りながら抗議に出てくる。物凄い迫力である。今にも主審につかみかからんばかりばかりの勢いであった。(でも判定が覆るわけもなく)怒りながらもベンチに無念の表情を浮かべながら下がる中西コーチ。だが、近鉄ナインは、コーチの身体を張った抗議を無駄にしなかった」。ーーーそう、そうでした。あの中西さんがグラウンドに飛び出した瞬間、やっとボクは目を覚ましました。選手も同じだったようです。直後、大石のレフト前安打が反撃ののろしとなって、オグリビーの適時打が生まれ、あっという間に同点に追いつきました。そして続く7回には吹石と真喜志に本塁打が飛び出し、この時点では、近鉄優勝が間近に迫ったのだと信じることができました。あくまで、この時点では。やはりきっかけは、中西さん。審判への抗議を道具に使って、と書くと審判に対してたいへん失礼ですが、「いい加減に目を覚ませ!」と選手たちを鼓舞する、中西さん一流の演出だったと思います。またさきほど「グラウンドに飛び出した」と書きましたが、正確に言うと、少し違います。ベンチから二歩、三歩と歩くといったん足を止め、まずティッシュで鼻をかんでいるようでした。そしてそれを終えると、遠くホームベース方向に向かって何やら言葉を発し、その後に、のっそのっそと巨体を揺すりながら、主審の山川さんに近づていったのです。その様子は、ユニフォームを着ていなければ、ただの酔っぱらいのおっさんがグラウンドに闖入したのと変わらない、とても滑稽なもの。でも、それがいかにも近鉄っぽい風景でした。次回に続く。(写真)6回表、前川主審に対し執拗に抗議する中西太さん。~『近鉄バファローズ大全』(洋泉社)より~
2016.10.29
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昨日の第三試合は、盛岡大付が接戦の末に九州国際大付を破り、2回戦にコマを進めました。花巻東の菊池雄星や大谷翔平らが登場するまで、岩手の学校が福岡の強豪に勝つことなど予想も期待もしていませんでしたが、まったく隔世の感があります。そして、いまこの試合の録画を見つつ、思い出したのは4年前の甲子園閉会式にあった奥島高野連会長(当時)の発言です。この時、奥島さんは「とりわけ残念なのは、花巻東(岩手)の大谷投手をこの甲子園で見られなかったこと」と云い物議を醸したものでした。実はこの大会に出場していた岩手代表校は、決勝で花巻東を破った盛岡大付だったんです。閉会式でそんなことを云うのか、盛岡大付に失礼だろう!なんて声があがりました。あれから4年。以来、盛岡大付は相手校以外に、目に見えない敵(甲子園の空気というかオトナの思惑というか)とも戦っているのかな? そんなことを想像しました。ま、4年前のことなので、今の選手にとっては遠い過去のことなのかもしれませんが。 (写真)同点に追いつかれた直後の8回表、盛岡大付は二死一塁の場面で8番・比嘉賢伸が右翼線に二塁打を放ち追加点を挙げる。捕手のタッチをかいくぐって生還したのは、一走・小原大河。~NHKより。以下も同じ。(写真)さらに同点に追いつかれた9回表、盛岡大付の2番・菅原優輝が左翼越えのダメ押し本塁打を放 つ。(写真)結果スコア
2016.08.08
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東京六大学リーグの開幕戦は、法政大が7-0で東京大を下して順当勝ちした。法政の采配を振るったのは元法政大監督の金光興二さん。昨年から副部長としてベンチ入りしていたけれど、今季は青木久典監督が謹慎中とあって、監督代行として指揮した(背番号は30でなく「40」)。気になるスタメンや投手継投は、青木監督がたぶんそうしたであろうものとほぼ同様の起用法だった。 さて、金光さんが追われるように法政大野球部を去ったのは2013年4月のこと。当時の選手たちが結託して当局に、監督排斥を目的にした嘆願書を提出したことがきっかけだった。思い出すのは2009年の全日本選手権で法政が優勝した時のこと。感涙にむせぶ金光さんの表情がとても印象的で、選手の主張に則って下した大学の判断が不可解だった。ちなみに2009年、決勝戦の相手は富士大、率いていたのは現・法政監督の青木さん。 金光さんの退任後、まわりまわって青木さんが監督に就任、それからまた時を経て金光さんが代行として現場復帰・・・結局、あの一連の出来事は何だったのでしょうか??? ※写真上から(1)采配を振るう金光興二監督。サインは隣の内田郁也学生コーチが選手へ出していた模様。(2)安定した投球を見せた法政大のエース・三浦銀二。(3)4回、法政大・福田光輝が三塁線に二塁打を放つ。この試合3安打の固め打ち。(4)同じ4回、法政大・安本竜二が適時打を放つ。(5)当てろ、親父の看板に! 「洋服の青山」御曹司・青山海が5回にチーム初安打を放つ。
2019.04.13
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Number webに「NHK甲子園・人気解説者が語る”忘れられない試合”」という記事を見つけた。 人気解説者とは、元・米子東監督の杉本真吾さんのこと。そして、杉本さんの”忘れられない試合”のひとつに2006年夏の光星学院ー関西戦で見た光星・坂本勇人の一振りがあったという。 当時話題をさらった関西のエース、ダース・ローマシュ匡(のちに日本ハム)の直球を鋭いスイングでバックネットに突き刺さるようなファウルを打ったが、杉本さんは打球の凄さに衝撃を受け、将来の活躍を確信したという。たったその1シーンだけで選手の将来性を判断できる眼力は大したもの。事実、テレビ解説でも結果論を言うのではなく、都度はさむコメントは洞察力に優れて定評があるという。 独特のくぐもったような声、そして喋る言葉数が多いものの煩く感じないのは、コメントに卓越した説得力があるからだろう。NHKの解説者にはアマ野球界において長年指導者として経験を積んでこられた方が多いけれど、この人は米子東高の監督して活動したのはたった2年間だけ。wikipediaによれば1999年にNHK米子放送局にて高校野球を解説したことが契機となって、2006年に全国放送に昇格したと。プレーや指導者としてではなく「独特の洞察力とコメント力」でこのポジションまでのし上がってきた異色の人物のようだ。※米子東時代には1度だけ捕手として甲子園に出場した。昭和58年夏、野村浩巳とバッテリーを組み初戦を学法石川と対戦したが、延長10回表に添田貴司(当時2年)の本塁打を打たれスコア1-2で惜敗した。ちなみにこの大会で優勝したのは桑田・清原らを擁したPL学園だった。高校卒業後は一浪して慶應義塾大に進学。公式戦に出場した記録はないようだが、同期には”幻のドラフト1位”志村亮がいた。(写真)NHKより。
2022.08.16
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13回表、帝京高・垣ケ原達也のセンターへ放った大飛球。佐賀北高・センターの馬場崎俊也がバック、バック・・・、そしてフェンスに激突しながら好捕する大ファインプレー。馬場崎、身体を痛めてしばらく起ち上がれないでいた。この瞬間、「勝利の女神」が本当にいるのなら、きっと佐賀北高に微笑んだに違いない。直後の13回裏、あっさり二死となった佐賀北高。9番打者で、先ほど大ファインプレーで魅せた馬場崎が左前安打で出塁する。続く1番・辻尭人も中前打で出塁し走者一・二塁のチャンスを迎える。打者は2番・井手和馬。帝京高・垣ヶ原の球を中前にライナーの安打を放ち、二塁走者・馬場崎が生還。佐賀北高が4-3でサヨナラ勝ちを決めた。録画中継をしているスカイAのアナ氏は、「馬場崎が運んできた勝利!」と絶叫していた。-------------------------------------------------------佐賀北高、雑誌「甲子園」(週刊朝日増刊号)によると変ったルールがある。それは、「ベンチ入りメンバー投票制度」。大会前、部員全員でベンチ入りの登録選手を推薦し合い、百崎敏克監督の標榜する「全員野球」を徹底するのが目的だという。今日の準々決勝で強豪・帝京高に勝利しベスト4進出を決めた佐賀北高、「ただ出場するだけでなく、甲子園で勝つことを目的に今までやってきた」。大会前、そう話していた百崎監督の言葉に間違いはなかった。いつもご協力をありがとうございます。人気ブログランキングに参加中です。クリックをお願いします。
2007.08.19
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(前回の続き)■1979年11月4日(日曜日)、日本シリーズ第7戦。9回裏、1点差を追う近鉄バファローズは無死走者一塁のチャンスをつかんだ。打者・クリス・アーノルドのカウントは1-2。広島 101 002 000 =4近鉄 000 021 00 =【近鉄メンバー】1(6)石渡 茂2(3)小川 亨3(9)チャーリー・マニエル4(7)栗橋 茂 → (PH)(2)梨田 昌孝5(2)有田 修三 → (7)池辺 巌6(5)羽田 耕一 → (PR)藤瀬 史朗7(4)クリス・アーノルド → (PR)吹石 徳一8(8)平野 光泰9(1)鈴木 啓示 → (PH)阿部 成宏 → (1)柳田 豊 → (PH)永尾 泰憲 → (1)山口 哲治 → (PH)佐々木 恭介■江夏豊の右足が上がった時、一塁走者の藤瀬史朗は二塁に向けて走り出した。<5球目> 速球がわずかに外角へはずれてボール。カウント1-3。捕手の水沼四郎は藤瀬のスタートを見るや、すぐさま二塁へ送球した。藤瀬のスタートが遅れたため、タイミングは完全にアウト。ところが、高橋慶彦の少し手前で中途半端にショートバウンドしたため、高橋は捕球できない。ボールは跳ねてグラブの上を通過し、センターの山本浩二まで達した。藤瀬は頭から二塁ベースに滑り込んだ。その時、高橋が取り損ねたボールは、ちょうど藤瀬の目の前を通過した。二塁に達した藤瀬は体勢を立て直して、悠々と三塁を陥れた。一塁側近鉄の応援席から、また大きな歓声が上がった。応援旗が大きく振られ、紙テープが近鉄ベンチ前で舞った。有田修三がベンチ前で手を叩いて喜んでいる。それに応えるように関口清治コーチ、栗橋茂、村田辰美らが何度も何度も手を叩いて喜んでいた。近鉄ベンチはまるでお祭り騒ぎだ。西本幸雄監督が乱れ飛ぶ紙テープの奥から姿を現した。そして打席にいるアーノルドに向かい握りこぶしを作って見せた。「いいか、しっかりやれよ」と。1点差を追う9回裏、無死三塁。近鉄にとって願ってもいなかった大・大・大チャンスが訪れたのだ。「流れ」は完全に近鉄に傾いた。■実はこの場面、近鉄に重大なミスがあった。藤瀬の単独スチールに見えた走塁は、実はヒット・エンド・ランのサインによるもので、この大事なサインをアーノルドが見落としたのが真相だった。藤瀬「いやぁ、これはダメやと思いましたね。自分のスタートが遅れたし、アーノルドはも逃したし。走っている途中で、こりゃダメやと思いました」。水沼「藤瀬のスタートが遅れたのが見えました。これなら刺せる!そう思った瞬間、ボールを握り損ねたまま二塁に放ってしまった。家でもこの場面を何度も見ましたよ。なんで、こんな大事な場面でいい球を放れなかったんだろうと・・・」。高橋慶「難しいバウンドだったんですよ。でも最低でもボクは止めなければいけなかった。あれでアガるっていうんですか、完全にビビってしまいました。責任がぜんぶ自分に降りかかってきたような気がしました」 1日1クリックお願いします
2012.12.15
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■発表後すでに時間が経っていますが、来月始まるセンバツ大会について。ボクが一番気になる東北地区の代表校<2校枠>は、東北大会で優勝した光星学院八戸と、準優勝の東陵に決まりました。そして補欠校<2校枠>は、準決勝で東陵に敗退した青森山田(補欠1位)と、準々決勝で東陵に敗退した角館(同2位)が選出されました。あれっ? すでにお気づきの方もいらっしゃるでしょう。通常、補欠校は準決勝で敗れた(=ベスト4入りした)高校が選ばれるはずです。準決勝に進出し敗退したのは青森山田と花巻東でした。しかも花巻東は光星学院八戸に僅差の敗退だったため、試合結果からいえば、むしろ(補欠1位)花巻東、(同2位)青森山田が妥当だったと言えます。なのに、なぜ花巻東は補欠校に選出されなかったのか? ■その理由をいろいろ調べましたが、各スポーツ紙は「花巻東は、東北大会の準決勝(対光星学院八戸戦)でラフプレーがあったから」と記すのみ。もちろん、この「ラフプレー」と言われる一件は知っていましたが、それが理由と言われても、何が何だかよくわかりません。センバツといえども選考の基準は試合結果にあるはずです。にもかかわらず、たったひとつのプレーをわざわざ持ち出しすのか。そして思い出したのは、昨夏の甲子園であった「カット打法」や「サイン盗み疑惑」をめぐる高野連の一連の対応でした。昨夏以来、ボクは高野連の花巻東への対応に不信感を持っていたため、「またかよ!」との思いが一層募りました。■ボクの不満は増す一方でしたが、つい先日、高校野球ドットコムの記事を見つけたことで、少し不満を和らげることができました。「東北大会準決勝で八戸学院光星に惜敗した花巻東について報道陣から質問があり、(高野連)委員長は、準決勝で花巻東にラフプレーがあったことが理由であると明言した。また、一昨年の18Uであった米国チームのラフプレーを踏まえて、これは人命に関わることだと話した」そして高野連の発表だけでなく、記者氏は自身の考察も記事にしていました。以下に要約。「ラフプレーを受けた側もした側も、体の打ち所によっては、仮に命は助かったとしても、その後の生活が五体満足でできない危険もはらんでいる」「過去に起こってしまったラフプレーが今、悪いかどうかを問うのではなく、これからラフプレーでケガを引き起こさないためにはどうすれば良いかを選手も考えるきっかけにして、野球に取り組んでほしい』というメッセージが込められているように思えた」■かつてあった米国チームのラフプレーと同列で語るべきかは議論の分かれるところでしょうが、命・安全を第一義として「過去に起こってしまったラフプレーが今、悪いかどうかを問うのではない」という記事は、ボクの積もる不満を和らげてくれたのは確かです。高野連の真意も同様であると願いたいものです。さあ、過去のことは忘れて、ぜひ夏こそは花巻東に甲子園出場を勝ち取ってほしいものです。下の写真は昨夏、新花巻駅に掲げられた横断幕です。今年も同様の横断幕が掲げられることを祈ります!
2014.02.04
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