昨日、 「続きは、またいずれ」
と書いたけど、さっそく今日もその続きを。
日米大学野球の歴史について(2)。
1905年(明治38年)、日本から初めて「野球」をやるために米国に遠征した
早稲田大・野球部。全米各地を転戦し、7勝19敗という惨敗に終わったが、
野球の本場・米国に渡ったからこそ得たものも少なくなかった。一言で言うと
得たもの、それは「野球の真髄」だった。
wikipediaでは次のように記されている。
この遠征で投手のワインドアップモーションやスクイズなどバントの活用、スライ
ディングなどのプレーや戦術・練習法、グローブや野球靴などを持ち帰るなど、
大きな収穫を得た。安部、橋戸らはこの収穫を独り占めすることなく著書や
他校への指導などで普及に努めた。このことが夜明けから間もない日本の
野球に革命をもたらした。
昨日も紹介した『日本野球史』(国民新聞運動部編、ミュージアム図書編集部)
では「洋行土産、最新野球術」と見出しをつけてもっと詳しく紹介していた。
要約すると以下のようになる。
■ 安部磯雄
部長はこう言った。
米国の大学チームくらいになるのはここ2、3年の中です、と語ったものの、
「が、現在のようではとても駄目だ。根本的にかえねばならないでしょう。
器具がまるで違う。練習方法も違えば技術などは格段の相違である」
例えば・・・、
・スパイクのついた野球靴を使用している
・捕手、一塁以外はグラブを用いてなるべく軽快にせねばならない
・バントを練習し、バントエンドランやスクイズを行って野球の玄妙に触れねば ならない
・二塁-遊撃手の連絡等は当然改善しなければならない
・投手はスローボールを研究してペースを代えることも必要である
・スライディングも練習せねばならない (以上、『日本野球史』)
前述した 安部磯雄
部長とは、早稲田大野球部の初代部長であり、
後に 「日本野球の父」「学生野球の父」
と呼ばれた人物。なぜなら米国遠征
に尽力し、米国から持ち帰った最新野球術を早稲田部内の秘伝とせず、
著書や指導などによって日本全国に伝え、日本の野球技術発展の基礎を
もたらしたから。早稲田の練習場や寮が「安部球場」「安部寮」と呼ばれて
いたのは、この安部氏に由来している。
また米国遠征時、早稲田の主将は 橋戸信
。この橋戸も安部同様、書物など
を通じて最新野球術の伝播につとめた一人。また「都市対抗野球大会」を
発案し開催まで取り仕切る功績ももつ。都市対抗の最優秀選手に贈られる
「橋戸賞」
は、この橋戸氏に由来している。
【東京六大学2025秋】小早川毅彦氏の始球… 2025.09.28
【東京六大学2025秋】開幕カード。慶應、7… 2025.09.14
【東京六大学2025春】東京大学vs.横浜高校… 2025.03.08
PR
Keyword Search
Calendar
Comments