先ほどの続き。
米国にあったもの。そもそもは1905年(明治38年)に早稲田大が初めて
米国に遠征した際に学んできたに過ぎない。
それまで、「武士道」の一環として野球というスポーツを考えていた日本に
とって、「バント」とは正々堂々としない卑怯な戦法としてとらえられていた。
例えば、 安部磯雄
(当時、早稲田大野球部部長)の「バント」に関する発言に
こういったものがある。
※以下は早稲田大入学前、神戸中在学時に外人のアマチュア選手たち
(主に神戸に寄港する米艦の船員)がバントを多用するのを見て、それを
真似してバントを試みた 泉谷祐勝
に対してのもの。
「泉谷君、そんな卑怯な真似(バントを指す)をしちゃいかん。打つなら打つ。
避けるなら避けるでどっちかはっきりし給え。打つのか打たないのか分からない。
まるでいやいやバットを振っているようだ。そんなことをしてはいかん」
(『日本野球史』国民新聞運動部編、昭和4年発行)
ところが---。
米国遠征の第1戦(1905年4月29日)、相手のスタンフォード大はランナー
が出るごとに(送り)バントをした。また三塁にいる時も同様、打者と走者が
息を合わせたようにバント(スクイズ)を繰り返した。
卑怯な戦法と考えていたためか、「バント」の際の守り方がまるでわからない
早大の内野陣。なす術なく茫然と立ち尽くすしかなかった。結局スコア1-9で
敗退してしまった。
帰国後、安部はバントについての考え方をあらためた。そして最新の野球術
を様々な方法で日本国内に広めることに努めた。もちろん、その中に「バント」
に関することもあった。
「バントを練習し、それによってバントエンドランとかスクイズプレーを行って、
野球の玄妙に触れねばならぬ」
(同上)
「玄妙」とは、道理や技芸などが、奥深く微妙なこと。趣が深くすぐれている
という意味(大辞泉)。米国遠征を通じ、初めてバントは「趣が深くすぐれている」
戦法として認められたのだった。
(※本文中、すべて敬称略)
◇ 安部磯雄
の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「野球術を普及した安部磯雄と橋戸信」
(2009.6.24) →
こちら
へ。
「米国遠征の夢と財布の中身」
(2009.7.9) →
こちら
へ。
この記事は『ボクにとっての日本野球史』の中で、次の期に属します。
→ (第3期)「1905年(明治38年)早稲田大がアメリカに遠征した時」に属します。
(第3期)に属する他の記事は以下のとおり。
◇ 「ボクにとっての日本野球史」
(2009.7.1) → こちら
へ。
「日米大学対決は104年前に始まった」
(2009.6.23) → こちら
へ。
「野球術を普及した安部磯雄と橋戸信」 (2009.6.24)
→ こちら
へ。
「米国遠征の夢と財布の中身」
(2009.7.9) → こちら
へ。
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