昨日書いた 「日本のバント事始め」
の続き。
1905年(明治38年)に早稲田大が初めて米国に遠征した際に学んできたこと。
早大野球部の 安部磯雄
部長は惜しげもなく日本国内に公開し、その普及に努めた。
これらの渡米土産が後に、日本野球を飛躍的に進歩させるキッカケとなった。
■以下、『ニッポン野球の青春』(菅野真二著、大修館書店刊)より引用。
<練習法の改善>
・従来キャッチボールを行う際、最初から力いっぱい投げていたが、少しずつ
肩を温めていく(ウォーミングアップ)方法になった。
<バントの有効性を認識>
・「卑怯な手段」ではなく「有効な手段」であると認識されるようになった。
そして用途に応じて使い分けるようになった。
セーフティバント、送りバント、スクイズ。
<二塁手と遊撃手の連携>
・けん制や盗塁の際、二塁手だけが送球を受け取っていたが、遊撃手と連携
して行うようになった。また従来、走者が二塁にいる時は二塁手が二塁ベース
についたままだったが、走者のリードが大きくないときは定位置に戻るように
なった。
<コーチャーの設置>
・攻撃側のチームは、走者の有無にかかわらず一塁・三塁にコーチャーを
ひとりずつ置くようになった。
<グラブとスパイクの採用>
・ 従来投手と遊撃手以外は内外野ともにミットを用いていたが、捕手、一塁手
以外はグラブを用いるようになった。
(※)
・「裸足か足袋はだし」からスパイク靴を使用するようになった。
<その他>
・ヒットエンドランの活用
・バットを大きく振りまわさず、確実にプッシュして打つ短打法
・ダブルスチールやけん制球などの諸種のトリック
・手から滑り込むスライディング
・シングルハンドキャッチ
・先攻選択の有利視
・先に2勝した方を勝利者とする三回戦制
・動作のある審判術と複数審判制
ほか
(※)ちなみに1896年(明治29年)5月23日、一高(現・東京大)が米国人
からなる横浜アマチュア倶楽部(以下、横浜)に初勝利を挙げた時、
横浜の選手は全員ベース大のミットを使用していたが、一高の選手は捕手
以外全員が 素手
で守っていたという。(痛そぉ~
)
この記事は『ボクにとっての日本野球史』の中で、次の期に属します。
→ (第3期)「1905年(明治38年)早稲田大がアメリカに遠征した時」に属します。
(第3期)に属する他の記事は以下のとおり。
◇ 「ボクにとっての日本野球史」
(2009.7.1) → こちら
へ。
「日米大学対決は104年前に始まった」
(2009.6.23) → こちら
へ。
「野球術を普及した安部磯雄と橋戸信」
(2009.6.24) → こちら
へ。
「米国遠征の夢と財布の中身」
(2009.7.9) → こちら
へ。
「日本のバント事始め」
(2009.7.12) → こちら
へ。
「野球を通じて「日本」を応援した人々」
(2009.7.12) → こちら
へ。
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