初めて早慶戦が行われたのは、1903年(明治36年)11月21日、土曜日。
場所は慶應綱町球場と言われている。このことは、どの書籍を見ても同じことが
書かれている。
ただ、なぜ早慶戦が始まったのか、そのキッカケには2つの説がある。
(1)『日本野球史』(国民新聞運動部編)より。
慶應のグラウンドが稲荷山から綱町に移転した当時のこと。
「その頃、早大の橋戸は始終慶應のグラウンドに遊びに行っていた。そして
時とするとノックを打ったり選手のコーチまでしたりしていた。その中に
『どうだ、早稲田と慶應と試合をしないか』ということになった。慶應の主将・
宮原も至極軽い意味で『戦ってみようか』と内輪同志が練習試合でもするように
承諾した。」
(2)『早慶戦百年 激闘と熱闘の記憶』(富永俊治著、講談社刊)より。
1903年(明治36年)10月下旬頃、慶應綱町球場の左翼ファウルグラウンド
にある木立の陰で、身を潜めるようにして慶應の練習を凝視する2人の男
がいた。
11月5日、早稲田野球委員を差出人とする一通の手紙が慶應野球部に舞い
込んだ。そのことで2人が早稲田の 橋戸信
と 押川清
であり、練習を凝視していた
彼らの意図が判明した。
「これは、早稲田からの挑戦状にほかならなかった。(中略)2人組は、紛れも
なく敵情を探る偵察隊。その結果、早稲田側は『慶應、恐るるに足らず』の結論
に達し、挑戦状送付という強気の行動に結びついたのだった」
◇ 橋戸信
の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「野球術を普及した安部磯雄と橋戸信」
(2009.6.24) →
こちら
へ。
さて、どちらが正しいのか?
◇ 「ボクにとっての日本野球史」
(2009.7.1)、 INDEXは こちら
へ。
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