全2件 (2件中 1-2件目)
1

親友と町で出会う20歳代の頃、友達と待ち合わせもなく町で偶然に会う。偶然に会う人は、ほとんどいない。それが親友とは何回も会う。学生時代、アルバイトをしてたら偶然に親友に会った。親友は、アルバイトがなくて探していたのだ。自分のアルバイトを紹介しようしたら、主任は「空きが無い」と言われた。どうしようもないな。土曜日、地下街でバッタリと出会った。自分は、映画を見る為に歩いていたのだ。71年7月10日に、「いっしょに映画を見に行かないか」と、いっしょに2番館の日活館に行った。「昭和残侠伝」を見、その後札幌劇場で「荒野の七人」を見た。よく、いっしょに見たものだよ。当時、映画館に入った日時、映画の題名、誰と見たかという事を10年近く書いていた。(結構、いっしょに映画を見に行った)その頃、ファンであった加山雄三を市民会館で見た。前から3列目のあたりで、前の奧さんといっしょに手を振っていた。自分は、6列目でいたよ。高校野球で、自分の母校じゃなくNo1の北海高校を見に行った。麻生球場で、また前の奧さんといっしょに手を振っていた。自分は、内野の大分後ろの席にいたんだ。後は、自分は彼女と喫茶店でデートをしていた時、奥にいたんだね。彼女は、焼き鳥屋でアルバイトをしていた。こっちは他に目もくれないで、後で言われてそうかなとなった。50歳代に、上野駅で日曜日朝8時頃向こうは改札口の中に入っていた。自分は、改札口の外から見ていて声を掛けようと思った。しかし、声を掛けないうちに行ってしまった。後で、その事を話すとそんな事はないと言う。日曜日だから人があまりいなくて、10mぐらい離れていたけどな。後は、20歳頃昼間に亡くなったTと会い、三平ラーメンを食べた。夜、うちの近くの風呂屋で、これもまた亡くなったKと会い、近くの酒屋で1杯飲んだ。それと、大通り公園で佐々木譲と会った。いずれも、高校時代の者である。他には、誰とも会わないな。栗山町の谷田製菓の大嘗飴、きびだんご
2025年09月21日
コメント(0)

北海道新聞に載る初めて、北海道新聞で高校の入試で受かった事だ。昔は、高校、大学の入試で受かった名前を発表する。自分は、学校の前に発表するのだが、行かないで新聞の発表を待たずに、ラジオの発表を聞いた。(ラジオでも放送された)ラジオを聞いてたら、「ました ただし」と呼ばれて頭に来た。大学の時は、学校の前には行かないで、次の日の朝刊で見た。どうでも良かった。そして次は、道新の懸賞で特等(ヨーロッパ旅行)に当たった。その時は、うちのすぐ上の姉が行った。自分は18歳の時、アルバイトをしていて、発表の前の日に道新の親父の部下がうちに来て(親父は定年退職)、急遽姉に決まった。肝心の本人は何も知らず、親父は「お前は男だから、行く機会があるだろう」と言う。次の朝、コラムに載り「本人は忙しいから」と新聞に載った。(全然忙しくないのに)ヨーロッパ旅行に行ったのは、47歳の時家族旅行で行って来たよ。後は、札幌市大通りのビアガーデンだ。(名前は載らず)アサヒビールの最初の日で、亡くなった相棒と飲んでいる時、横で飲んでいる女2人といっしょに飲んでいる所をデカデカと撮られた。その彼女達といっしょに飲みに行った、というのは言うまでもない。何処の新聞かは、次の日に毎日新聞であった。北海道マラソンの時、4丁目で1人でボーと立っている姿を写された。それは、どういうのだろうな。それらは、皆切り取っていたのだが、懸賞のコーピーだけが残っている。あまり新聞に載るのが嫌であった。その後、”読者の声”で応募したが、それは落ちた。応募したのは3回で、松本清張、黒澤明、渥美清が亡くなった時出した。何だか、落とされても当然の事だと思った。(文章がメタメタだ)親父は、自分の新聞によく載っている。昭和29年、青函連絡船洞爺丸が台風15号で座礁転覆、死者・行方不明1155人(最大の海難事故)の記事を書いた。定年退職の時、コラムに「次の社員に申す」という事を書いた。その頃自分は、小さな反抗期だった為よく見なかった。そういう訳で残念だった、親父の事は何にも知らない。グーグー ゆりとはな
2025年09月07日
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1
![]()

