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chiko619 @ Re:新参者(09/22) 「新参者」読みました。 東野圭吾さんは、…
kimiki0593 @ 相互リンク 初めまして、人気サイトランキングです。 …
Twist @ こんにちは! 遅ればせながらあけましておめでとうござ…
Twist @ こんにちは! 遅ればせながらあけましておめでとうござ…
Twist @ はじめまして^^ 先ほどこのロングインタビューを読み終え…
2016.05.28
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カテゴリ: 社会・政治・時事

 立場を変えてみれば、同じ出来事がこうも違って見えるものかと思い知らされる。
 著者は、吉田松陰や桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作らをテロリストと呼び、
 その人道に反する残虐行為や倫理観について、徹底的に糾弾する。

 そして、その長州閥の支配する帝国陸軍が、
 松陰の外交思想に従って、朝鮮半島から満州を侵略、
 カムチャッカから南方に至る広大なエリアへと軍事進出し、
 国を滅ぼしたとも指摘する。

会津戦争後に、長州藩兵が現地で行った残虐非道な蛮行の描写を読むと、

また、その地が尊敬する祖父や父の出身地である現首相についても、
その目指すものや本性に、不安を感じてしまうのは、心配しすぎだろうか。

   ***

さて、私が本著で「なるほどな」と再認識させられたのは、次の部分。

  徳川家は、外様大名に対して江戸期二百七十年の間、全く油断をしていない。
  常に連合の破綻を防ぐべく、さまざまな策を講じてきたのである。
  近江という要衝の地に譜代、井伊家彦根藩を置いたのも、
  山陽道の堰として姫路城に池田家を配したのも、
  大阪城に大阪城代を置いたのも、西を警戒してのことである。
  西とは、どこを指すか。
  毛利と島津である。

  即ち豊臣末期の勢力関係から見て、六十余州諸侯にとっても共通認識であった。
  特に、島津の豊臣期以前からの独立性というものは、
  豊臣秀吉にとっても徳川家康にとっても、
  これをどう扱うか、具体的にはどうのように寄らしめるかが、天下安泰の要諦であった。
  姫路・彦根の位置づけよりさらに重要であったのが、薩摩の真上、肥後である。

  島津を最西端の地に閉じ込め、肥後がその蓋の役割を果たすという意味である。
  このことから、薩摩人にとって肥後という隣接する国はただのお隣さんでなく、
  特殊な感情の対象となる。(p.303)

秀吉や家康にとっての、毛利と島津という二つの大大名の存在。
その大きな脅威に対し、警戒に警戒を重ね続けたにも拘らず、
二百数十年の時を経て、とうとうこの二つが手を握り、徳川家に牙をむく。
そして、そこに絡む薩摩と肥後との関係。

さらに、私が本著の中で、最も心に残ったのは次の部分。

  動乱の渦中に入った時、あるいは巻き込まれた時、
  人はパニックに陥ったり、狂気に走ったり、
  はたまた絶望の果てに正気を失ったり、いずれにしても平常な心を失うようである。
  誰もが「我を失う」ものだ。
  そういう時に、人の本性というものが顕れる。
  どれだけ勉学を積み知識を身につけても、
  その成果より生来の性格、気質といったものが表に出てしまうのだ。
  これは、人にとって自然なことであろう。
  困ったことに、武家の教育、要とは、
  この自然な現象を否定することが基本となっている。
  武家たる者、何事に遭遇しても「平常」を失ってはいけないのである。
  パニックに陥るなどはもってのほかであり、武家として修業不足ということになる。
  たった一度取り乱しただけで、それまでにどれほどのキャリアを積み重ねていようと
  取り乱した瞬間に全人格を否定されるのである。
  しかし、訓練、教育とは恐ろしいもので、
  武家の中には人として自然な感情の流れや動きを抑え込み、
  動乱の渦中に「平常」を失わなかった者も多い。
  これを、「本性の克服」とでもいおうか。(p.47)

まだまだ、修業が必要だ。





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Last updated  2016.05.28 11:23:31
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