第2次世界大戦は1939年9月に始まった。領土問題の交渉が進展しないことに業を煮やしたドイツがポーランドに軍事侵攻、それを見たイギリスとフランスがドイツに宣戦布告したのだが、それから半年ほど戦闘らしい戦闘は行われていない。いわゆる奇妙な戦争だ。
戦闘が始まるとイギリス軍やフランス軍は簡単に総崩れの状態になるのだが、アドルフ・ヒトラーは機甲部隊に前進をやめるように命令している。少なくとも結果としてヒトラーはイギリス軍が撤退する余裕を与えたわけだ。
1941年5月にはドイツのルドルフ・ヘス副総統が単身、飛行機でスコットランドへ飛ぶ。イギリス側の要人と何らかの話し合いがもたれたはずだが、詳細は今でも不明だ。
その翌月、ドイツ軍はバルバロッサ作戦を開始する。西部戦線へ90万名を残し、300万名以上をソ連に向かわせたのである。常識的に考えると西を守るために半数は残しておくべきなのだが、ヒトラーの命令でこの非常識な作戦は実行された。イギリスはそれを傍観する。
ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード(現在のボルゴグラード)市内へ突入するのだが、11月に入ってからソ連軍が反撃を開始、ドイツ軍は壊滅し、翌年の1月に降伏する。
それまで傍観していたアメリカやイギリスがワシントンDCで緊急会議を開いたのは1943年5月。そして米英両軍はその年の7月にシチリア島へ上陸する。ハリウッド映画で有名になったオーバーロード作戦は1944年6月、ドイツの敗北が決定的になってから1年半後のことだ。
サンライズ作戦が実施された直後、ドイツが降伏する直前の1945年4月にルーズベルト大統領は執務中に急死、ホワイトハウスはファシズムを信奉するウォール街の住人に奪還された。
ドイツが降伏するとウィンストン・チャーチル英首相はJPS(合同作戦本部)に対してソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令。5月22日にはアンシンカブル作戦が提出されている。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が実行されなかったのは参謀本部が拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
チャーチルは7月26日に退陣するが、その10日前にアメリカのニューメキシコ州で原子爆弾の爆破実験が実施され、成功した。翌1946年3月に彼はアメリカのミズーリ州フルトンで「バルト海のステッティンからアドリア海のトリエステにいたるまで鉄のカーテンが大陸を横切って降ろされている」と演説、「冷戦」の幕開けを告げている。 その翌年、 1947年にはアメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員と会い、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んでいた
その後、アメリカ支配層はソ連に対する先制核攻撃の準備を本格化させるのだが、佐藤栄作首相の密使を務めた若泉敬によると、「重大な緊急事態が生じた際には、米国政府は、日本国政府と事前協議を行った上で、核兵器を沖縄に持ち込むこと、及び沖縄を通過する権利が認められることを必要とする」というアメリカ側の事情に対し、日本政府は「かかる事前協議が行われた場合には、遅滞なくそれらの必要をみたす」ということになっていたという。(若泉敬著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』文藝春秋、1994年)(つづく)