《櫻井ジャーナル》

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2020.11.06
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カテゴリ: カテゴリ未分類

 イスラエルを後ろ盾と手するトニー・ブレアは1997年5月から2007年6月までイギリスの総理大臣を務めているが、その間にアメリカは国内におけるファシズム化と国外における侵略戦争を本格化させた。強大な私的権力が地球を支配する「新世界」の実現に向かって進み始めたのである。

 歴史の流れを見ると、世界制覇のプランは19世紀にイギリスで考えられ、社会の収容所化は第2次世界大戦の直後からアメリカで始められているのだが、そうした計画がジョージ・W・ブッシュがアメリカ大統領に就任した直後から加速度的に進み始めたのだ。

 そうした動きの背景には1991年12月のソ連消滅があり、2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとバージニア州アーリントンの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃された出来事が引き金になったと言える。

 ブッシュ政権は2001年に攻撃したのは「アル・カイダ」だと調査もせずに断定したが、この主張に疑問を持つ人は少なくない。旅客機の突入で強靱な高層ビルが爆破解体のように崩壊したという説明に説得力がなく、状況証拠は爆発物が仕掛けられたことを示している。攻撃を受けていない7号館(ソロモン・ブラザース・ビル)の崩壊は南北タワーの崩壊より奇妙だ。

 その出来事の直後、公式的な説明に疑問を表明した建造物の専門家がいた。ABCのジョージ・ステファノポラスからインタビューで、「​ イラクは世界貿易センターを崩壊させなかった。イラクではなかった。ほかの連中だ。その連中が誰なのかを私はわかっていると思っている。あなたもそうかもしれない。 ​」と語っている。その専門家とは、当時はデベロッパーだったドナルド・トランプである。

 その際、トランプは1993年2月にノース・タワーの地下2階にあった駐車場が爆破された出来事を引き合いに出している。その爆破でコンクリートの床が破壊され、4階層に渡って幅30mの穴が空いているが、それでもビルはびくともしなかったと指摘、軽量化のために脆弱な構造の旅客機が突入しても崩壊しないと主張したのだ。燃料が燃えても鉄骨が溶けるようなこともない。

 爆破説が出た直後、爆弾を仕掛けるためには工事が必要であり、気づかれるはずだと反論する人もいたが、実際、大規模な工事が行われている。1994年から2000年にかけて世界貿易センターではエレベーター・システムを改修、96年から2000年にかけては新しい治安システムを導入するための工事が実施されているのだ。

 また、サウス・タワーにオフィスがあったフィデュシアリー・トラストのスコット・フォーブスによると、攻撃直前の9月8日から9日にかけて動力が落ち、50階から上は電力の供給がなくなるということがあったという。その影響で監視カメラやドアのセキュリティ・ロックも機能しなくなり、修理するために多くの技術者がタワーに出入りしていたという。ビルを倒壊させるために何らかの工作をするチャンスは十分にあったということだ。

 しかも、ブッシュ政権が犯人だとした「アル・カイダ」なる武装集団は存在しない。これは本ブログでも繰り返し書いてきた。2001年6月から04年6月までイギリス外相を務めたロビン・クックが05年7月にガーディアン紙で書いたように、​ アル・カイダはCIAの訓練を受けたムジャヒディンの登録リスト、つまりジハード傭兵の名簿 ​。そのリストに登録する戦闘員をリクルートすることがオサマ・ビン・ラディンの仕事だったのである。

 オサマ・ビン・ラディン は自分たちが攻撃したのではないと語っていたが、ビン・ラディンは腎臓病を患い、人工透析が必要だったのだが、 フランスのル・フィガロ紙によると、2001年7月4日から14日にかけて彼はドバイの アメリカン病院に入院している。ジャーナリストのティエリー・メッソンによると、彼は2001年12月15日に死亡したという。

 2001年の終わりにビン・ラディンは死亡している可能性が高いのだが、バラク・オバマ政権は2011年5月2日にパキスタンのアボッタバードでアメリカ海軍の特殊部隊NSWDGが彼を殺害、 死体は空母カールビンソンから海に葬られたと 主張している。殺害や埋葬の目撃者は見当たらず、勿論、死体もない。

 アメリカは2011年春からイギリスやフランスなどと共同でリビアやシリアへの戦争を始めていた。その時に地上軍として使ったのがムスリム同胞団やサラフィー主義者(ワッハーブ主義者やタクフィール主義者と渾然一体)を主力とするジハード傭兵の戦闘部隊。アル・カイダ系の戦闘集団とも言える。

 リビアではアル・カイダ系武装集団の地上軍とNATOの航空兵力の連携が機能し、2011年10月にリビアのムアンマル・アル・カダフィ体制が倒されたが、 その際にNATO軍とアル・カイダ系武装集団LIFGの連携が明らかになってしまう。カダフィ体制が倒された直後、反カダフィ勢力の拠点だったベンガジの裁判所にアル・カイダの旗が掲げられたのは象徴的な出来事だった。(​ ココ ​や​ ココ ​)もしオサマ・ビン・ラディンが生きていることになっていたら、話題になっただろうが、その時点で象徴は消されていた。

 トランプに限らず、2001年9月11日の攻撃にイラクが関与していないと考える人は少なくなかった。そこでブッシュ政権は「大量破壊兵器」の宣伝を繰り返したが、これも嘘だった。

 その嘘を裏づける証拠だとされる「イラク大量破壊兵器、イギリス政府の評価」というタイトルの報告書をブレア政権は2002年9月に作成、メディアに流された。それをサン紙は「破滅から45分のイギリス人」というタイトルの記事にしている。その半年前、​ ブレア首相はアメリカのコリン・パウエル国務長官に対し、アメリカの軍事行動に加わると書き送っている ​が、この段階では統合参謀本部の内部にも反対者がいて、戦争を始められなかった。そこで開戦を後押しする何かが必要だったのである。

 この報告書をパウエル国務長官は絶賛したが、大学院生の論文を無断引用した代物で、信頼できるものではなかった。しかもイギリス政府はイラクの脅威を強調するため、イギリス政府は改竄する。その改竄をBBCのアンドリュー・ギリガン記者は2003年5月にラジオ番組で明らかにし、サンデー・オン・メール紙でアラステアー・キャンベル首席補佐官が情報機関の反対を押し切って「45分話」を挿入したと主張した。

 ギリガンの情報源がイギリス国防省で生物兵器を担当しているデイビッド・ケリーだということが7月9日にリークされるが、実際、2003年5月にギリガンはケリーとロンドンのホテルで会っていた。

 ケリーは7月15日に外務特別委員会へ呼び出され、17日に死亡する。公式発表では「自殺」ということになっているが、疑問は多く、今でも他殺説は消えていない。公式発表では手首の傷からの大量出血や鎮痛剤の注入が原因で、自殺だとされているが、手首の傷は小さく、死に至るほど出血したとは考えにくいのだ。

 しかもケリーは右肘に障害があり、右手でブリーフケースを持ったりドアを開けたりすることができなかった。1991年12月に落馬、骨折したことが原因で、携帯していた折りたたみ式ナイフの刃を研ぐことも難しかったと言われている。手首を切ったとされるナイフからも、死体の横に転がっていた錠剤が入った瓶からもケリーの指紋は検出されていない。また救急救命士によると、ケリーの左の手首には乾いた血がこびりついているだけで傷は見えなかったという。死体を発見した捜査官のグラハム・コーも大量の出血はなかったと証言している。自殺説への疑問を列挙していくときりがない。(Miles Goslett, “An Inconvenient Death,” Head of Zeus, 2018)

 しかし、ブレア首相から調査委員会の委員長に指名されたブライアン・ハットンは検死報告を無視、大量の出血があったと主張している。そのハットン委員会の結論には疑問があるのだが、その検証をするために必要な検死解剖の報告書や現場の写真を含む事件に関する全てのファイルを70年間秘密にすると委員会は秘密裏に決めている。(Miles Goslett, “An Inconvenient Death,” Head of Zeus, 2018)

 ブレアの協力もあり、ネオコンが1980年代から主張していたイラクのサダム・フセイン体制を破壊するという計画に向かって米英は動き始めることができた。イラクに親イスラエル派を樹立させることには成功していないが、シリアとイランを殲滅するというプランは実行しつつある。そのプランの実現を妨害しているロシアをネオコンは憎み、核戦争で脅してきた。






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最終更新日  2020.11.06 19:02:06


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