イギリスの支配者が中東政策の一環としてイスラエルとサウジアラビアを作り上げたことは本ブログでも繰り返し書いてきたが、アラブ民族を軽蔑し、シオニズムを強く支持していたチャーチルもイギリスのそうした政策に賛成、パレスチナにおける「ユダヤ人国家」の建設に賛成していたイブン・サウドを支持している。
日本でも語られることは少ないようだが、チャーチルはベンガル(現在のバングラデシュ周辺)に住む人びとを餓死に追い込んだことでも知られている。
イギリスの資金と技術で明治維新を実現した日本がその後、イギリスの影響から逃れることはできなかった。イギリスがアヘン戦争で勝利しても支配できなかった中国(清)へ日本が軍事侵攻、さらにロシア/ソ連を攻めようとするのは必然だったと言えるだろう。
琉球併合、台湾派兵、江華島事件、日清戦争、日露戦争、満州国の建国という流れの先にはロシア/ソ連があった。そして1939年5月に満州国警備隊と外モンゴル軍が交戦、日本側は関東軍が陸軍省と参謀本部の方針を無視して戦闘を拡大させるが、8月にソ連軍の機械化部隊が攻勢に出て関東軍は敗北した。
ドイツ軍がソ連へ攻め込んだ直後の1941年7月に日本軍はソ連へ軍事侵攻する目的で関東軍特種演習(関特演)を計画したが、8月に中止、ターゲットを東南アジアへ切り替えた。中国への兵站を叩き、石油を確保することが目的だったと言われている。
イギリスの首相だったチャーチルは日本の動きを見て1941年11月にベンガルで焦土作戦を実行した。日本軍の食糧にしないということでサイロや倉庫から種籾を含む全ての米を押収、また輸送手段を奪うということで漁民の船や自転車を取り上げたのだ。その作戦を遂行中の1942年10月にベンガル地方はサイクロンに襲われている。
ベンガルからインドにかけての地域における食糧の不足は不可避で、飢餓が見通された。1943年10月には現地の提督からチャーチル首相へ政策の継続は大惨事を招くという警告の電報が打たれ、イギリス下院では満場一致で食糧を送ると議決しているが、それを首相は無視、それだけでなく食糧を送るというフランクリン・ルーズベルト米大統領の提案も拒否した。実際、懸念されたようにベンガルでは1943年から44年にかけて大規模な飢饉が引き起こされ、餓死者の数はベンガル周辺だけで100万人から300万人に達したと推計されている。