《櫻井ジャーナル》

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2021.12.09
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 今から41年前、日本軍の真珠湾奇襲攻撃から39年後の1980年12月8日にジョン・レノンが殺された。言うまでもなく、レノンはビートルズの一員だった伝説的なミュージシャンであり、彼の作品を聞いてもわかるように、平和を訴えていた。

 レノンと同じ世代には平和を訴えるミュージシャンがほかにもいた。例えばローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズやミック・ジャガー、ジミー・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、あるいはドアーズのジム・モリソンなどだ。

 ベトナムでテト攻勢があった1968年当時、こうした人びとは戦争に反対する意思を示し、ジョーンズはレノンやヘンドリックスにグループを結成しようと持ちかけていたと言われている。戦争を推進していた私的権力にとって目障りな存在だったということだ。

 1969年7月にジョーンズはプールで死亡するが、彼は「イルカのように泳ぐ」と言われるほど水泳が得意だった。水死は不自然だと思う人は少なくないようだが、実際、ジョーンズがプールで殺されるところを目撃したと証言した人物がいる。彼の親友で、ビールで有名なギネス家のニコラス・フィッツジェラルドとその友人だ。この証言は無視された。

 1969年にはヘンドリックスがマフィアに誘拐され、マネージャーのマイク・ジェフリーが自身のマフィア人脈を使って救出したとされている。ジェフリーは元MI6(イギリスの対外情報局)のエージェントだ。

 しかし、この救出話を疑う人も少なくない。ヘンドリックスを麻薬漬けにしたのはジェフリーだと言われるなど問題の多い人物だったからだ。実際、ヘンドリックスは問題のマネージャーを解雇、その翌日にヘンドリックスは死亡。その2カ月前にはモリソンが変死していた。1970年には反戦コンサートへの参加を計画していたジョプリンがヘロインの過剰摂取で死亡している。

 1970年代に活動を休止していたレノンは1976年にビートルズの再結成に向けて動き始め、1980年10月にはシングル曲「スターティング・オーバー」をまた、11月には「ダブル・ファンタジー」というアルバムを発表して本格的に音楽活動を再開させた。

 1970年代にアメリカは中国を抱き込むことに成功、矛先をソ連に集中させているが、1983年にパーシング2ミサイルをNATO加盟国に配備するとNATOは1979年12月に決定する。そこで、核戦争を懸念する声が世界的に高まり、反戦/反核運動が盛り上がった。そのタイミングでレノンは復活しようとしたのだ。

 そのレノンをマーク・チャップマンなる人物が1980年12月に射殺したとされているが、異説もある。銃撃時に彼はレノンの右側にいたのだが、レノンは左から撃たれたというのだ。しかも銃撃後、チャップマンはその場から逃げようとせず、その場でJ・D・サリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』を読んでいたという。(Lisa Pease, “A Lie Too Big To Fail,” Feral House 2018)

 事件直後、チャップマンはレノンのファンだとされたが、実際は違った。イギリスの弁護士でジャーナリストとしても活動していたフェント・ブレスラーによると、彼はトッド・ラングレンのファンだったというのだ。チャップマンは福音主義(キリスト教原理主義)の信者だともいう。(ファントン・ブレスラー著、島田三蔵訳『誰がジョン・レノンを殺したのか?』音楽之友社、1990年)

 音楽やドラマは人びとの心理に影響を与える。レノンたちは私的権力にとって好ましくない影響を及ぼしたが、逆の目的で使うことも可能である。実際、音楽業界に対する締め付けが厳しくなり、「スター」は支配システムに作り上げられた「人形」と化した。イーグルスは1977年2月にリリースされた「ホテル・カリフォルニア」の中で「スピリッツ」がなくなったと歌っている。






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最終更新日  2021.12.09 11:14:35


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