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いろいろなことがあった4年間。厳しい4年間でした。でも、ここに来て楽になり、これから新しい時期にはいります。夫とは離婚しました。法廷での手続きがとんでもなく長く、辛いこともありました。でも私自身は、ずいぶん変わりました。法廷で戦った時期が長かったせいか、人に物を伝えるのが鍛えられました。その結果、問題対処の仕方がうまくなった気がします。また、いろいろが気にならなくなりました。前よりストレスがたまらなくなりました。でも、一番かわいそうだったのは息子でした。「一時的」に出来た同意書に基づいて二つの家を一日ごとに行ったり来たり。その「一時的」が3年間も続き、幼い子供にとっては長い修行となりました。そして、一番悲しかったのは、4年間も日本に帰らせてもらえなかったこと。その間に、息子に会うのを首を長くして待ち続けた祖母と、そうして、次の年父方のもう一人の祖母も亡くなりました。それでも、息子がお葬式にも帰ることを同意しない夫。ところが実はそれが法廷に「真実が伝わる機会」となり、好機がこちらにめぐってきました。今まで信じてもらいにくい厳しい状況に居た私の立場を、弁護士と法廷が理解してくれるようになりました。祖母が命をかけて守ってくれたのだと思えました。長い訴訟となったものの、こちらにスムーズな形となりました。そして、今年(2014年)2月に長い間待って待った判決がようやくでました。一番意味があったのは母親と息子が平日のほとんど毎日を過ごすというもの。もう一つは、日本に行くことが出来るという事。長い戦いが終りかけたこの夏、そしてようやく久しぶりに息子と日本へ行くことができました。息子にとって、しばらくぶりの日本。長い間会っていなかった家族親戚との再会!そして、待ち焦がれていた色々なこと。美味しいものも食べました。行ってみたいところにも行きました。やってみたいことやってみました。2年前に取るはずだった七五三の写真も、着てみたかった着物姿に刀を持って、練習した立ち姿で張り切ってポーズをとりました。一方で、なつかしい唯一の幼い友人にも会ったものの、お互い覚えていないという残念もありました。大好きな日本のお風呂の入り方を忘れてしまって、石鹸たっぷりのタオルを湯船に投げ入れてしまったり。けれど、あっというまに日本語も上達し、親戚と親抜きで思い切り楽しむこともできました。楽しみだった「キッザニア」に行き、思う存分色々な職業を体験しました。例えば救急隊員になってみて、車のオペレーターを任された時はがんばりました。「車が通ります。ご注意ください。」の全部は言えなかったけれど、「車が通ります。車が通ります。」を一生懸命言って、お仕事を果たしました。祖母のお墓参りも行きました。もう一人の祖母の一周忌にも行くことができました。もうすぐなくなる古い日本家屋で、沢山の従兄弟達と遊ぶこともできました。日本から帰ってきて、しょっちゅう泣いて怒っていた息子が、安定してきました。毎日の生活の中でも、息子に安堵の笑顔の表情が増えました。学校から呼び出されることも減りました。何より、子供と私の充実した時間が増えて私自身が幸せです。そして、私ですが。。。2年前に卒業し、その後のPost Doctoral インターンで四苦八苦していたのですが、それも最近終わりました。国家試験を受ける許可が最近下りたばかり。正直、嬉しいです。これから試験勉強に本格的に取り組みます。この試験がもし通ったら、長かった本当に長かった勉強生活もこれで終わり。これを更に長引かせないように、私には責任があります。そして、本格的に自分の仕事を始める為に今の私には目標があります。それが通ったら、新たな人生の始まりです。色んなことがあっても、最後は笑って過ごしている。その事に今、心から有り難いと思っています。
2014.09.21
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父が病床に居て、生涯を遂げようとしている頃その最期に居合わせることもなく飛行機に乗った理由は、自分の大学院が始まるから、ということでした。祖父にも、「勉強が終わったら、すぐに帰ってきます」と言い続けてずっと待たせながらも、思った以上の時間がかかり結局は帰ってこなかった私。祖父のお葬式にも、父のお葬式にも出られなかった、出ないことを選択してしまったその理由は、自分のキャリアと勉強にあったからであります。そして、子供が生まれました。その子にも、随分の無理と我慢をさせました。その息子が、ここで5歳になります。日本に居る年老いた祖母たちにも、随分会えないで居ます。他にも大きな理由はあるものの、ここに居る一番の理由はやはり、ここでの勉強を終えたかったから、というもの。その学業が、ここで終わりました。まだまだやることはあるものの、ひと段落つきました。目の前のことに追われ、気づいたら終わっていた。終わってみると長い間目標にしていたものは、これだったのか、と再確認をしなくてはいけないほどに、あっけないものでしたが、考えてみたら、これを手にするまで本当に多くのものを犠牲にしてきました。今改めて、支えてきてくれた祖父、祖母、父、母、息子、そして周りの多くの人に、感謝したいと思います。
2012.06.16
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楽天を離れて何年。ここで日記を書くことはもうないと思っていたけれど、戻ってきたら、やっぱり自分がかつて居た場所だと思えます。皆さんに読んでいただき、沢山の元気をいただいてから、5-7年近くが経つのでしょうか。あれからいろんなことがありました。まず、大学院の論文を今月終わらせました。長かった学生生活も、6月には卒業です。そして、家庭も変わりました。息子のことを書く前に、今度で5歳になります。ここで少しずつ、また今まであったことなどについて、お話できたら嬉しいです。
2012.04.24
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Mリン、突然現れるなって?ずっと雲隠れしていたくせに。ほんとうだ、前に書いたのは去年の夏の事なのね。↓しかも姉御と会った時の話だし。って、子供もあと一週間近くで一歳になってしまうというのに、なにやってんの。いやはや、ご無沙汰しております。この一年は学生と初の子育てで怒涛のごとく過ぎました。セメスターが終わったのもつかの間、夏のコースが始まっておりますが、大きな課題をいくつか終わらせて数日前にやっと最後のペーパーを提出した今は、なんだかすっきりしちゃった気分♪であります。というわけで、超お久しぶりにブログにやってまいりました。前置きが長くなっちゃったけれど、そう。最近姉ごが来たのである。ついに!1993年の6月6日にマサチューセッツに住み始めてこの6月でちょうど15年!それを記念するというわけではないけれど、あの姉御がマサチューセッツに初登場!であります。そう期待して待ちに待ったその日はメモリアルデーの週末。ご主人&娘っ子ちゃんと、他の都市の観光もせずに、こんなド田舎までわざわざ来てくれました。「住んでいたところ、想像していたのと違った。 こんな所から電話をくれていたんだねー。」そういってくれた姉ご。しかしね。子供のいる生活って、思ったように動けないんだな、としみじみ。試験が終わったばかりで申し訳ないことにあまり準備ができなかったというのもあるけれど、色々考えていた割には、色々ハプニングありで、思うようにご接待ができなかったなぁ。Mリンは接待にどちらかと言うと「凝りたいタイプ」なんだけれどね。一人暮らしの頃は楽しかったなぁ。学生時代、町田市鶴川のアパートは、全部家具はモノトーンで揃えて、人が来る時は手作りのモノトーンの陶器にお料理を作って、お花を飾ったりしていたっけ。結婚する前の私の城、あの大好きな夕日の見える部屋では、やはり食器から料理から、アクティビティーまで凝りました。ちょっと逃避。でも、今回、楽しかったっす。私の湖も見てもらえたし。娘っ子ちゃんが赤ちゃんだった頃の逸話とか、学校のお友達やお友達のお母さんのお話とか、姉御の習い事のお話。ご主人も温かくて協力的な方で、とてもいい家族だなぁと彼女たちの生活の一部を垣間見た感じがしました。姉御もアメリカでの生活&子育てを経て逞しくなりましたぜ。
2008.06.01
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CAに住むRさんは私の中学生の時からの友達。ブラスバンドで打楽器を教えてくれた先輩であり、高校生の一番楽しい時間を思い切り過ごした親友。最高にうれしい時も、やばい時も近くで遠くで見つめてくれていた姉ごでもあります。私がボストンに行ってから、Rさんの大切なイベントに出席することができなかったり、度々ご無沙汰無礼をしてしまうことが多々ある私でした。一方で、あのころは私が里帰りをすると、Rさんと一緒に横浜へ思い出探しに行ったり、お嬢さんの生まれたお宅にお邪魔したりすることができました。そして、RさんがCAに住むようになってから、私たちの地理的距離も精神的距離ももっとぐっと近くなりました。ところが同じ国でも西の端と東の端。従って大陸横断しない限り会う機会がなかなか難しくなってしまったのも事実。けれど、この夏はめったにないことに、Rさんも私もちょうど同じ時期に日本の家に帰ってきていたのでした。うそ!市外局番が同じ歩いていける距離にRさんが居るなんて!毎日でも行っておしゃべりしたい!喫茶店でお茶したい!昔過した沢山の場所を訪れて、「なつかしーね」とやってみたい。帰国する頃の私は、Rさんにメールする時にドキドキしてしまいました。けれど、そうだ、私には赤ん坊がいたのだ。つい去年までは土壇場で山登りに行ったり泊まりがけの旅行にふらりと出たり、夕方毎日湖に泳ぎに行ったりした私。でもそうか、今のこの身は私だけのものではないのでありました。(とくに母乳をやるということは、私の体=赤ん坊のご飯なのだなぁ。)二ヶ月経ってもまだ慣れない私が居たのです。Rさんは7歳のお譲ちゃんを連れて実家の家に来てくれました。お譲ちゃんは、ぐっとおねえさんになって、会話もとても大人っぽくなりました。早いなぁ(驚)。まず最初に父のところにお参りをしてくれると言ってくれたRさん。ありがと。昔のようにおしゃべりしながら、久しぶりー!ねぇ最近どんな?旦那はどうよ?どんなことが楽しい?日本のこんなところ、いいね。驚いちゃうね。アメリカのこんなの、やっぱ笑っちゃうよね。昔こんなことあったね。これからこんな風に過ごしたいな。...といろいろ話に花が咲く状況を想像していました。ところが。赤ん坊がこの日に限ってなんだかぐずります。来てくれて早々に、Rさんとお譲ちゃんにテーブルに座っていただく前からおむつ替え。それでも泣くので、こんどはお腹すいているのかも、と母乳を与えながら、あやし続けます。あれれ。いつもの愛嬌はどこへいっちゃったんだい?そんな事ばかり考えていたら、あっという間に時間が。でも嬉しかった。Rさんがこの目の前で、私のお腹から生まれた子を、この時期に抱いてくれたんだもの。妊娠発覚したことを母よりも先に告げたのもRさん。Rさんに送って頂いた初めての妊娠出産に関する本や妊婦服、沢山の赤ちゃんグッズには本当に助けられました。おぃ、坊。Rさんのおかげだぞぉ。今日こんな風に健やかにいられるのも。Rさん、お譲ちゃん、ありがとぉ!!またこれからのCAでの充実した毎日を楽しんでくださいねー!いつか会って、こんなことがあったとおしゃべりしたい。そう思っていながら今回は出来なかった、ここ数ヶ月前の出産のことを含めていろいろなこと。楽天でお会いした、ごぶさたしている皆さんにもぜひ読んでいただきたいので、これからぽつぽつまた書き始めたいと思います。よろしく。
2007.08.09
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話が前後してしまったものの、肝心の出産のお話はこれからです。あれは6月9日 土曜日のこと。前日の夜から打った誘発剤。当日の夕方になっても、痛みはあまり感じられませんでした。点滴に縛られて動けなかった為に、予定していた「早いうちに食べておく」「部屋を歩き回る」「シャワーを何回も浴びてリラックスする」が出来ませんでした。というか、翌週月曜日に先生が戻ってきて、その時に出産、というお話だったので、まだまだ...と思っていたのです。そうしたら。夕方4時20分。中年の女医のM先生が入ってきました。M先生:「いまから破水させますからね~!」え?まって、そんな話聞いていない。デカイ尖った棒を持ちあげる先生。ぐさ。ばーっ!!「でたでた。」と母の顔を見てにっこりするM先生。このシーン、実は私の中でトラウマになってます。あぁ、あのデッカイ棒。少し心の準備が欲しかった。で、その後どんどんやってきました。波のような陣痛。痛み止めのエピドラルは、自然分娩を望んだので断りました。でも、「後から頼まれても困る」と言われ、カテーテルを背中に突き刺されました。この作業の方が、仰々しかった、というか。このときだけなぜか、髪の毛を覆われ、動くなと言われ、両手を握られ、「ご家族の方は外でお待ちください」、と。なんで?これからしばらく生まれるまで時間がかかります。そう言われたにもかかわらず。その後吐いてしまった。それは、「もうすぐ生まれる」のサインだとか。看護婦さん。母に「もうすぐ生まれるので、御主人に連絡してください。」という。そう。Jは、この時もまだ、家の床の張り替えの為に、「週明けの出産」に控えて、一生懸命、家の片づけをしていたのだ。え?もう生まれちゃうの?そう一番焦ったのは、他でもなくJ君でした。母がかけた電話の向こうでパニックになったJ。急いで家を飛び出し、車を飛ばして焦っていたJ。そうとは知らず、そんな彼に、私は自分の携帯から電話をかけます。私:「J君、頼みがあるんだけれど。」J:「もう生まれちゃうの?間に合うかな?なんで君が電話にでてるの?」私:「今晩長くなるかもしれないから、君とお母さんの夕飯、買って持ってきて。」J:「でも、間に合わなかったらどうしよう!!」私:「いや、まだ何時間かはある。お願いだからね。」そういって電話を切った後、どうやらJはNYの両親に電話をして「こんな時僕はどうすればいいの?」と相談をしたそうです。そうしたら、J母は、彼に言った。「Mリンの言うとおりにしなさい。」と。J母。感謝。たまにはいいことを言ってくださるではないか。で、その後の陣痛...。今セメスターに、学校の宿題として修行した瞑想。鼻のてっぺんを見つめながら、風船を膨らますようにゆっくりと息を吐く。そんなのを繰り返していたら、なんとか最初の頃は切り抜けられました。陣痛と陣痛の間は、案外冷静に居られるものです。自分で点滴とともにトイレに歩いていって、紙がなかったから、手洗いの下の棚から紙を出してトイレットペーパーをセットする。そんな余裕もありました。でも、陣痛の最中。ちょっと呼吸をあいまいにしたり、油断をすると、超痛い!きぇー!と心の中で叫びます。そこへあらわれたJ君。ナースやドクターに一通り自己紹介をした後、私に向かって「ねぇ、こんなものを買ってきたよ!大エビのグリル!すごいでしょ!」「庭のハーブ、取ってきた。この香りでリラックスできるよ!」私の鼻にハーブの束を突き付けるJ。陣痛の最中やっちゅうねん。空気が読めんのかぃ、君は。とは言わず、「ごめん、その匂い、きつ過ぎ。」とハーブを突き返す私。「かわいそうだったじゃないの。」と後から母に言われました。でも、だって。これがこの時、精一杯丁寧にしゃべれる言葉だったんですもの。で、手を握っていたのが母だと思っていたら、いつの間にかJに代わっていました。隣でナースと同じように掛け声をかける途中で、ナースといくらでもおしゃべりをするJ君。「ねぇ、Mリン、そうだよね!?」と私にも語りかける彼。「ちょっとまった、今からまた陣痛が来る。」そう言って、大きく深呼吸をして、静かに長ーく息を吐く私。J:「わーぉ。こんなに静かな妊婦見たの初めて。 僕がレジデントとしてトレーニングした時も みんな叫んでばっかりだったよ!すごいね!Mリン!」ちょっと、J君、うるさい。で、やっぱりつらい、つらいわ。深呼吸しながら体が震えちゃうほど痛いわ。やっぱ、もうここまで頑張ったし、痛み止めもらおうかな。そう思ってナースにその旨を告げた私。そうしたら、このナース。「ここまでがんばったんだ。こっからはいきむ時。 もう、エピドラル打つときじゃ、ないわね。」言われてしまった。そうか。遅かったか。で、この後は、いきみいきみの時間が始まったのです。陣痛が始まる数時間前、Jの友達の友人の女性ジュディさんが電話をくださいました。彼女は現代医学に対抗する自然派のホメオセラピーなんちゃらを重きとする医学を現在勉強している真っ最中。自然分娩に痛み止めを使わないメリットを色々教えてくれた後、座って分娩を行うのがよい、この方法は、重力がかかって子供が出やすいから病院に座娩させてもらうように、専用の椅子を出してもらうように頼めばよい、などとアドバイスをくれました。座っていきむというやり方は、友人のRさんからも聞いていました。この電話の後、ナースにそのような椅子があるかをお尋ねします。「ないのよ、ウチは。」の一言。でも、このナース、その後気を利かせてくれて、なんと、トイレで行きませてくれたのでありました。トイレで分娩。いやはや。しかしいきんでいる最中は、そんなことよりなにより。とにかく、少しでも早く子供に出てきてもらおうと、妊娠中にも鍛えた腹筋でもって、とにかく押し出すことのみ考えます。しかしこの子。Jに似て、頭が巨大。私は和の国の人間。当然、産道を通るのに、赤ん坊は苦労するのであります。「もうすこし!」「あとちょっと!」で、2時間。この子は2時間も頭を締め付けられていたのか。最後の最後になって、先生が「ちょきん」とハサミを入れた途端、この子は、どば!っとでてきました。先生はフットボールを受け止めるような格好をしていた。そして、出てきた途端、私は「あ、人間の形をしている!」と叫んでいたのを覚えています。らーらー、と泣く子。「猫みたい。」そんなことも言いました。生まれた。生まれちゃったのだ。
2007.07.09
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ずっと待ち望んでいたこの日。でも長かったようで短かった。誘発出産というのは、何時生まれるか破水するか、という不安を抱えずに済むので心と物理的な準備がしやすいのです。しかし。私には時間がなかった。家を出るぎりぎりまで、床張替え工事の中を、家具の移動やモノの整理、なくしたコンピューターケーブルの注文などに追われてしまいました。夜6時の入院予定。J:「これからお祝いに僕のお気に入りの中華料理のお店でご飯食べようよ!」当然間に合わない時間に、こんなことを言い出すJ。すでに慣れていても、相変わらずあきれて言葉が出ない私と、まだ慣れずにとってもびっくりしている母。J:「米の国はさ、時間通りじゃなくたっていいんだよ別に。」言うか!そんなことをぬけぬけと!...とかなんとかいいながら、結局病院には7時に着きました。ご飯をしっかり食べた私たちも、かなりJに感化されているのでしょうか。でも、受付のおばさんも、入院病棟の人も、何一つ変わりない応対で迎えてくれたどころか、入院の病室に通されたきり、ずっと放って置かれたのも事実であります。で。ここは陣痛室と分娩室が一緒になったお部屋です。シャワーがついていて、テレビもありました。誘発剤を打たれるのも、出産前の検査も全部同じところで行われます。そんな中で、母は「その時」がきたら、「家族の方は外で」と言われて外で待つのだと思っていたようです。ところが、どうやら廊下のロビー以外は、待合室もなさそう。そんな中で、あれよあれよという間に、出産が始まった。端っこで「先生達の邪魔にならないように」と遠慮がちに座っていた母は、米の国の「あっけらかん」とした「あけっぴろげ」なお産に、唖然としたようでした。どう「あけっぴろげ」かというと。廊下と部屋の間のドアは開けっ放し。色んな先生が出入りするために、その間にあるカーテンは、しょっちゅう開いてしまって、廊下から中が見えるのでは、と母には気になってしょうがなかった、とか。そして、どう「あっけらかん」かというと。子供が出てきた途端、子供の手当てをしてくれるのはいいけれど、産後の処理がほとんどない...。確かに、お腹を押して中を出す作業もなければ、今までかかっていた掛け声が突然切れて、なんと、私は胎盤を一人で踏ん張って出しました。誰も見ていない後産...。さらに、その胎盤やへその緒を見ながら、仲良くなったJと医者は、「見て見て!これだ!S字に見えたへその緒の実態!」「子の胎盤、石灰化し始めている。やっぱり早めに産んで正解だったわ!」と、楽しそうにやっている。取り残された私、「あのー、私にも見せてください。」なんて、言っていました。それよりなにより。そんなゲテモノを、目の前でおおっぴらに家族に見せて笑いを飛ばすおばさん先生。母:「違うわね、なんだかいろいろ。私のときのお産と。」だとさ。
2007.07.09
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2007年4月と5月。あの頃の私は一日一日がんばって生きていた気がする。とりわけ、風邪を引いてもでかいお腹で授業を休まずに出席したり、かったるいのを押して、学校とインターンを行ったりきたり。やたらと眠いのにがんばって夜の授業に出たり、休みの間中、お腹をかばいながら夜遅くまで図書館に行ったりもした。いくつもの課題を学期末に一気に仕上げたりもしました。なにがなんでも日本で産みたかったから。38週前に飛行機に乗りたかったから。学期末を人より早く済ませても、落ち度がないようにしたかったから。でも、なんだかさまざまな理由から、結局マサチューセッツで産むことになりました。それが決まってから、寂しさを紛らわすために、そしてここで夏を迎える楽しみを作るために、花と野菜の種を買い込みました。勉強の合間の苗作りは、楽しかった。しかし。難関はそれだけではなかった。なんと。私が日本に行っている間に家の床の張り替え工事を予定していたJ。私が居る、となっても、予定通り行ってくれました。床の張り替え工事。それも、出産の間際になって。一階だけじゃなく、二階も。あのね、それって引越し作業と同じで、家具を動かさなくちゃいけないんでしょ。どうするの?J:「床屋にまかせるよ。」え?床屋は家具は動かしてくれないでしょ。とくに米の国は。で、J君、あなたは仕事を休むんでしょ、その間。J:「いや、僕は締め切りのあれとこれがあるから、仕事に行く。」これで髪の毛が総立ちになるくらい焦ったのは私。しかも学期末の一番忙しいときになって「来週、床屋が来る。」なんて。で、J君、それって、母が来る日まで間に合うの?J:「まにあう。」と、言い切ったが信用しませんぜ、君の言葉、米の国の人の口約束。...。そして案の定。6月に入ってしまった。工事は、母が来ても続き、家具は臨月ギリギリになっても山積み。母を空港に迎えに行って、その足でホテルに向かい、母子水入らずのホテル暮らしが3日間。ホテルのフロントのお姉さん。電話に座って幾らでも待たせてくれます。私が妊婦であることに気づいて、あわてて電話を切って荷物を部屋まで運んでくれました。母の方が時差で疲れているにもかかわらず...。ホテルのネェちゃん:「何時生まれるの?」私: 「今週の土曜に誘発で産みます。」それって明後日じゃないか。なにをやっているんだね、私たちは一体?
2007.07.01
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Jが居ない二週間。とっても静かです。あと一週間したら帰ってきます。そして、授業がお休みだったWinter Vacation Week。この間の日曜日で、天国の気分になれた一週間は終わってしまいました。やっとつわりもなくなってきて、風邪も治りました。お腹が張ったり、鼻水がまだ出続けるけれど、以前に比べたらなんのその。あぁ、こんな幸せって。部屋もずいぶん片付いたし。色々事務的なことが出来ました。静かな家で過ごすと瞑想も出来ます。家にずっと居ると毎日の生活のリズムが正しくなってきて、朝も早起きになりました。そして昨日からまたインターンと授業の復活。早朝から夜まで続くトレーニングの毎日が待っています。また、この日記にもご無沙汰していまうかもしれません。 ***昨日、冷蔵庫に沢山あった、さやインゲンをさっと塩茹でして、スナック代わりに食べました。簡単だし、なにより美味しかった。口が寂しいときは、いいな、これ。体にとっても良いし。こんどからやろう。 ***ナスのカラシ揚げも作りました。ただナスを輪切りにして、浅めの油で揚げるだけ。それをかつおだしとしょうゆとお水で煮た出汁にポンポン入れていきます。お好みでカラシを混ぜるだけ。ご飯にぴったり。油のきいたお醤油がご飯に乗った感じは、どんぶりモノの味を思い出させます。 ***こんなちょっとした幸せ。一人の時間もあと少しです。...それにしても、なんで「一人」がこんなに嬉しいんだろうって?
2007.02.27
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24週目に入りました(初公開!)私のプレグナント写真。Jが居なくて休み。暇だといろいろやってしまう。
2007.02.23
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けれど、すぐに晴れました。
2007.02.23
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Jがこれから2週間の出張です。出張前はいつもあわてて荷造りをし、忘れ物をとりにキャーキャー言いながら戻ってきて、出かけた後にほっとする私。そして、今週は一週間スプリングバケーション。インターンの仕事はあるけれど、学校の授業は一週間休みです。子供が生まれる前の最後の一人暮らし!部屋の書類の整理、お人様への手紙の数々、たまっている学校の課題、など、やることは多いのですが。♪なんか、嬉しい。さぁーって、なにしよっかな。
2007.02.19
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この日は前の日から、学校や施設が閉鎖になるという噂がありました。でも、万が一学校が開いていたら、私は授業を休むことが出来ない身なのであります。なぜなら、学期末に出産の為に何度か授業を休むことになっているので。これ以上休めないのだ。朝7時に出る予定で支度をしつつ、朝5時半からインターネットで、どの学校が閉鎖になっているかを調べます。北西の町ではすでに閉鎖。でもボストンダウンタウン近辺はまだ閉鎖になっていない様子。Jはまだベッドに寝ています。J:「僕は今日はいかないよ。 バレンタイン・デーだし。」それが理由?私:「私、行ってくるね。」J:「外、あんまり降っていないの? 君が行くんなら、僕も仕事行く。」私:「朝の授業だけ。インターン先はもう すべての患者さんキャンセルだって。」J:「じゃ、はやく帰っておいでー。」まだ、のんきなJ君。車に乗り込みます。寒いけれど、朝の積雪量はまだ大丈夫。 ***ハイウェイも、超のろのろ運転。結構滑りやすいです。...間に合うかな。早めに出たけれど、ギリギリで間に合いました。案の定、授業に来ている人は少なかったです。ジョディ先生。まず授業の最初に、皆に向かってお礼を言われました。「先週はカードをありがとう。」ちょっと涙ぐんでおられます。そして、その後はまともに授業。後から遅れてくる生徒も何人か居ました。 ***この日は、事務員で来ていない人も大勢居たとか。その代わり、仕事がたまっているから、誰か暇な生徒でボランティアしてくれる人があったら助かる、などと、ジョディ先生を介して事務室から連絡がありました。私、こういうときにお手伝いするの大好き。なんだか、皆が「一体」になるっていうか。授業が終わって、Jダーリンに電話。私:「あ、もしもしー? 今授業終わったんだけどー。」J:「Mリン!外見てごらんよ! すごい積雪量だよ。どこの学校も 閉鎖だ!」私:「あ、じゃぁ今すぐ帰ったほうがいい?」J:「こんなんで、Mリンが今日 事故を起こしてお腹の子に何かあったら、 僕、君の学校を訴えてやる!」私:「おいおい。」J:「早く帰ってこーぃ!」電話を切ります。丁度その時、ジョディ先生も、別の生徒と話している。ジョディ:「学校のプレッシャーの為に 無理してきたんなら、学校長に 話してもいいのよ。これは無理な 計画だって。」と。他の生徒も、帰りの道を心配しています。ジョディ先生は、どうやら、夜8時半まで続く本日の授業を終えた後の道路状況が心配のご様子。そこへ、別の生徒が完璧に遅刻して入ってきました。「だめだ、ワイパーも凍っちゃって、前も後ろも 見えやしない。先生、今日のプリントありますか?」こんな会話をしながら、ジョディ先生はその生徒とオフィスへ消えていきました。こんな中でも、これからインターンや仕事に行く、という生徒も居る。私はとりあえず帰ることにしました。どうやらこの後、午後の授業はすべてキャンセルになったと後から聞きました。 ***さーて、慎重に帰らなくちゃ。これで車スリップしてぶつけたら、Jが学校に訴えちゃうから。そうしたら。学校を出て、まだハイウェイに乗る前。前方向からすれ違いざまにやってきた車。突然私の前でスリップして、私の車の真正面から、こちらに向かって突進してきた!キィー!!ビビー!!!こちらはスバルの4輪駆動。それがよかったのか、あわててハンドルを右に切って、壁すれすれのところを通り抜け、なんとか車とぶつからずにすれ違うことが出来ました。...!!バックミラーを見たら、相手の車がまだスリップしながらゆらゆらと別の車の方へと突進しています。私の後方の車は、今のやり取りを見て恐れたのか、かなり端っこに止めて待機しています。ふー。なんか。神様に守られてた、そんな感じ?? ***帰りのハイウェイ。さらに滑りやすい上に、除雪機が通っていない区間も結構あります。車の数も朝に比べてグンと減りました。ハイウェイ脇で止まってなにやらやらかしている車も。凍った粉雪は、窓ガラスに降っても、凍らずに、さらさらと風で舞い上がります。星屑のような砂雪というのでしょうか。木に積もることもないくらいサラサラ。そして風が吹くと、目の前が真っ白の世界に包まれます。郊外に来て、窓を思い切って開けます。真っ白い世界を突き抜ける私。ぼーっと眺めて居たいくらい綺麗な風景です。でも、油断してはならない。気合を入れないと、すぐにハンドルが取られます。 ***家に帰りました。私:「Jちゃんただいまー。」J:「あー、無事に帰ってきたぁー!」庭には、ひざ上の雪。星屑の砂雪が、木に積もらずに風に乗って宙を舞っていました。サラサラの雪は、雪だるまを作ろうとしてお団子にしようとしてもサラサラと崩れてしまいます。暖かいときに降るボタン雪とはまた赴きが違います。おかげで、お休みが出来ちゃった。なんか、昼間雪に閉じ込められて、家で暖炉っていうのも、悪くないな...。この日はJの買ってきた大きなバラのクッキーで、バレンタインをしました。でも、何事もなくてよかった。ホッ。
2007.02.14
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そして、カードを渡す当日の水曜日。今日はジョディ先生の家族セラピーの授業の日です。昨日と同じく、一学年が3セクションに分かれて、この先生の授業を聞くことになっています。私の授業は朝8時半はじまり。そんな朝早くに、カードを渡してもご本人もご迷惑でしょう。従って、寄せ書きのカードは夕方最後のセクションに出席する別の生徒に、「授業の最後に」つまり、一日の終わりに渡してもらうように昨日手配しました。 ***そして。トイレで先生と会ったので、お話をする機会を得ました。私は母と携帯で話していたのですが、「先生がいらしたからまた後でね。」と電話を切ります。先生:「体の具合、どんな?」私:「つわりも随分なくなりました。」そう言って、トイレを出る。先生が歩く方向にすかさず一緒に歩きながら、聴いてみます。私:「今月はメモリアルの月ですよね。 今週でしたか?」とさりげなく聞いてみました。先生:「息子のメモリアル?そうね、実は 2日あるの。ユダヤ教で数えると、本当は 今日で昨日からロウソクに火をつけているの。 けれど日にちでは2月の17日なの」との答えでした。 命日がなぜか9日だと私は思っていたけれど、 それが後から不確かだと気づいたので、 これは聞いてよかった。 ということは今日渡すのがやはり良いのだと 確信しました。私;「そんな大切な日に授業に教えに 来てくださるなんて驚きます。 夜までおられるのですか?」とも 聞いてみました。先生:「1講義目が済んだら、夕方以降の 授業まで時間があるので家にもどるけれど、 17日は前の日から仕事は休んで シナゴグ(ユダヤ寺院)でセレモニーを する予定」とお話しながら、 ずっと涙ぐんでおられました。けれど、息子さんが励んでおられた活動団体で今なにかされていて忙しいから、気がまぎれてよいのだとか。授業前だったのですが、クラスに入った途端その話を打ち切り、先生の顔に戻られました。その後は、まさに家族心理学のプロ。次々と豊富な知識と鋭い分析、為になる助言でもって独特の魅力ある講義をしてくださいました。 ***この後も、夕方のクラスメートのメールボックスにカードを入れたにも関わらず、沢山のクラスメートが「僕、まだ書いていない。」「ねぇ。カード、まだある?」などと言って、サインしていました。これは前の日に撮った写真。当日は、隙間が全くなくなるほどにメッセージでビッシリ埋まりました。 ***夕方のクラスメートはどうやら無事にカードを渡してくれただけでなく、私がまとめ役をしたことを言ってくれたらしい。もしくは、私が生徒宛に「夕方までに書いてね。 Mリン」と書いたメモを貼り付けたままカードを渡してくれたのかも。その証拠に、その日の夜、先生からさっそくお礼のメールが入っていました。息子さんの命日が、本当は今日。授業で一日がつぶれる、と先生は思ってたけれど、一日の最後に皆からのあふれるメッセージをもらって「感激しました。」と。ご主人もひとつひとつを丁寧に読みながら、涙を浮かべておられたのだそうです。そうですか。よかった、よかった。
2007.02.07
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大きいカード。それがない。昔、働いていたとき、よく職場を去る人や赤ちゃんが生まれる人に、大きいカードを買って寄せ書きしたのに...。カードの専門店や、ドラッグストアなど、ハシゴすること6件。どのお店も「昔はあったけれどねぇ。」「もう置いていないよ、そういうの。」とおっしゃる。なんで? ***こんどはネットで探して見ます。大きいカード。あった!オーストラリア、だって。あった!フランス。...。せめて、カナダくらいにないかしら。あった。でも、一週間以上もかかるって。ええい!この際、作っちゃる! ***でも、作るといっても、どうつくってよいやら。ラミネート式に気の利いた大きな画用紙なんて売っているかしら。折り曲げたりしてへましそう。メッセージも入れなきゃ。それも、手書きじゃなくて一箇所だけでも印刷された気の利いたメッセージ。メッセージは何にしよう...。たまたま家にあった雪の模様の入った、無地の紙がある。これ使えないかな。最初は便箋に皆で寄せ書きしたのをアルバムみたいにしようか、どうしようかと考えていました。そして、近くの雑貨屋さんへ。あ、大きな画用紙がある。何色にしよう。カードの表紙になる写真、ないかな。 ***そんなこんなで作りました。硬い紙で封筒も作って、白いリボンをつけました。表紙にはタンポポの綿が空へと飛んでいくイメージの写真。超手作りっぽいけれど。ま、いいか。 ***クラスの皆にメールします。「ジョディ先生の息子さんが去年亡くなった という話は、各自授業で聞いていると 思いますが、メモリアルが今週にあるらしい ので、今週の水曜日に、寄せ書きのカードを 皆で贈りたいと思います。 当日先生の居る場で書くよりも、 前の日までに寄せ書きを済ませておきたいので、 明日それぞれのセクションにカードを配布しますね。」こんなメールを前日の夜遅くにしたら、翌朝までにクラスの何人かから返事がありました。「いい思い付きだね。喜ぶと思うよ。」「まとめ役買ってくれてありがとう。」「すごく良い考えだと思うけど、僕今 ひどい風邪をひいているから、僕の分も サインしておいて。」などなど。あ、みなさんわりと協力してくれそうな雰囲気。 ***その日は私、超思い切り風邪をこじらせていました。朝は痰が喉に詰まって声がでないし、しゃべるとカエルっぽい、とJに言われるし。鼻水が滝のごとく流れて、くしゃみがでるから周りに超迷惑。そんな状態で学校に行っては、まわりにも迷惑だろうと思いつつ、行ってしまいました。だって、この日しか機会がないんだもの。一学年50人弱。全員が必須の授業に一度に出ることは出来ないので、クラスが3回に分かれます。朝10時半からのクラス。午後1時半からのクラス。午後4時からのクラス。これを同じ御年を召した先生が教えられています。まず最初のクラス。休憩の時間にカードを持って入り、「ちょっとアナウンスメントしてもいいですか?」とお邪魔します。メールをすでに読んでいる人は私がクラスに入っていった理由をすぐに察知した様子。でもそれを知らない人や先生は、真剣にこちらの話を聴いています。「メールが届いた人はご存知でしょうが、 ジョディ先生の息子さんが去年亡くなって 一周忌のメモリアルの今週に、寄せ書きの カードを贈ろうと思います。 ここにカードを置いていくので、授業の後 急いで去る人などは、今のうちにサインして ください。 私は今日は夕方6時まで 学校にいますので。」ある生徒:「どこにいる?」私:「カフェテリアあたりとか。」さっそく、先生、腕を伸ばしてカードを皆さんの座っている席へとまわしてくださいました。 ***2セクション目。これは私自身も出る授業です。授業が始まる前から、メールを見ている人の間で、寄せ書きが始まります。授業が進められる最中、クラスメートが順番に寄せ書きをしています。私のところにカードが回ってきた時点で授業が終わるまでカードを留め置き、先生の授業に集中。すると、先生が休み時間におっしゃいました。「これから休み時間だけれど、 今日はMリンから大事なアナウンスメントが あるから、みんなちゃんと聴いて!」などと、先生、気を回してくださる。そこで私は、まだ寄せ書きをしていない皆さんに、同じアナウンスメントをしました。 ***休み時間。先生曰く:「どう?あと何人書いていない? もうひとつのセクションも必要だね! 次の授業の合間も来れる?」このベテランの年老いた先生。とても優しいし、こんなに協力してくださるなんて!それに、気づいたら、この先生まで寄せ書きに参加されている!(生徒から、と思ったけれど、 まぁ、ジョディ先生も喜ばれるでしょう。)そんなこんなで、あっという間に40人ほどの寄せ書きが集まりました。(つづく)
2007.02.07
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それは1月最初のこと。まだ時差とつわりがひどかった時、朝6時おきをして一番にはじまる家族セラピーのクラスに、15分ほど遅刻してしまったことがありました。初めての先生。以前別のイベントでお見かけ&お話をしたことはあったけれど、この人の授業は始めて。遅れてしまった私に先生は資料をくださいました。一年の予定表や授業の方針が書いてあるシラバス。各週に読むべき資料や中間期末の課題。そして大きな講義でないのと、休むときには事前に連絡が欲しいという先生らしいことが先生の連絡先とともに、そこにもかかれてあります。とても言葉遣いに気を配った、プリントも見やすく整理された、教えるのがすばらしく上手な先生。なにしろ、女性や違う文化の人に対する意識を高めることに力を入れている、私が尊敬したくなるような人だという印象を最初から得ました。そして、休み時間。まず、遅刻してきたことについて、「すみませんでした。」と言おうと思いました。皆が廊下に出たとき、先生に歩み寄ります。先生は、すぐさまその話について、事情があって遅れてしまう人と、毎週遅れて授業に敬意を払わない人と居ることについておっしゃいました。私のなかで少々緊張がはしります。そして、この4月に日本に帰って日本で出産することを考えている私は、各授業の先生にそのことも相談に乗っていただくことが必須です。私が、「今妊娠しているのですが。」と話した途端、先生は顔の表情を変えられました。「それなら、特別。」と私が何も言う前からおっしゃる先生。妊娠して吐き気などでなかなか朝家をでることが出来ないことがあるのであれば、連絡せずとも来れる時間に来ればよい、とおっしゃるではありませんか。妊娠について告げた理由が別のところにあったので、少々戸惑っていたら、「体を一番大切にするのがよい」と先生は続けます。私が4月の予定についてどう思われるか先生に伺ってみたところ、先生はさっそくシラバスを開きながら、何回欠席をすることになるかを確認した後、「最後の2回だったらなんとでもなる」し、それ以上休みが必要であっても、途中で補ってくださるとのことでした。家族セラピーの専門家のこの先生にとって、私が家族の傍でお産をすることは、とても自然なことどころか、他の家族にとってもとても意味のあることであると思ってくださったそうです。そしてその後。先生は、さりげなくおっしゃいました。「自分の子供は大切にすると良い。私は18歳の息子を亡くしたから。」とおっしゃった途端、涙ぐみ始めました。そしてイキナリ教室を走り去る。気になった私ですが、先生を追いかけることを敢えてせず、けれどどうしてよいかわからずにそこにとどまっていました。しばらくして、やっぱりどうなったか気になる私はトイレに行ってみました。そうしたら、そこで別の生徒と先生は話しておられる。その生徒との会話が済んだところを見計らって、「お話してくださってありがとうございます。大丈夫ですか? 」と聞きました。そうしたら、「大丈夫。皆のサポートがあるから。」とおっしゃる。私が何も言わずに頷いていると、「11ヶ月前のことなんだけれど。」とおっしゃいました。そんな最近...。何も言えずに黙って聞いているしかありませんでした。先生は涙を拭きながらクラスルームに入り、授業をなさいました。来月、くらいかな。一周忌。でも一周忌なんてやらないのかな。でも、家族を亡くした人にとって、何の宗教であったとしても、一年後の同じ日というのは大事な時期であるはず。カードをおくろうかな。でも何日頃だろう?***その後、何回かの授業は、そのことをわざわざ聞き出すのも申し訳ないので、なんとなく授業に集中して過ごしました。廊下でお会いしても、なんとなく挨拶する程度。そして、3回目くらいの授業の時だったでしょうか。個人個人のステータスが時期によってどのように変るか、というダイアグラムを書く、という授業をしているときでした。先生はご自分を例に、ご自分が結婚される前、結婚したあと、子供が生まれた後、子供が死んだ後、という感じで、4つのダイアグラム書いたプリントを配られました。なんともオープンにご自分のお子さんの死を授業の中で話してくださっている。そのプリントには、亡くなった月と年が書いてあります。あ、やっぱり去年の2月だったんだ。そのとき「9日」と先生が授業で言ったような気がしたので、私は早速それを自分のカレンダーに書き残します。「そうだ。皆に公表したのであるから、 みんなからカードを贈ろう。そうしよう。」そして。カード探しが始まります。(つづく)
2007.02.07
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寒いぞー、マサチューセッツ!ダースベーダーの剣じゃなくて、つらら。NYから帰ってきて早速雪かきするJ。お気に入りのレモンジュースを飲みながら。
2007.02.03
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今日はJがNYへお出かけ。Jの父とE姉の誕生日のため。私は気分が悪いのと、たまっている学校の課題をこなす、という理由で行きませんでした。(でも、その間、風邪ひいてしまったぁ。)で、前の日。NYから持ち帰るものはない?と聞かれ、ためしにJにお遣いを頼んでみることにしました。それもNYの日本食料品店に。日本に何度か行って以来、日本の製品に興味を持ってしまったらしいことは、先月一緒に買い物をした時わかったのですが。彼の家から車で10分くらい。私一人だけで行ったことはあるけれど、彼や彼の家族はその存在すら知らないのであります。Cook-Doの箱の一面を切り抜いて、その裏側にお店の住所と買い物リストを書いて渡します。 ***@ Gum XYLITOL (LOTTE) Lime Mint XYLISH (MEIJI) Crystal MintMore than 3(最近ガムを噛んで吐き気止めをしている私)@ Senbei for your momAny deep fried senbei with beans on it(Jの母、豆がついて揚げたセンベイが好き)@ Pocky for W(E姉の息子Wクン、日本人学校に行って ポッキーの味を覚えたので)@ Mabo-Dofu "Cook-do"(AJINOMOTO or HOUSE)It is written as 麻婆豆腐(これはJがやたら好きで、忙しい時便利なので)@ Ask for "Ochazuke no moto"I like Wasabi Taste.(これは私用。 食欲ないときに、梅干や昆布を入れたお茶漬けで しのぎたかったりしたので。)@ Ask for "Mentaiko" (spicy egg roe) or look for 明太子(これも私用。和の国で母に最後の日に 買ってもらった明太子を食べきってしまったので。)これ全部買ってくるかどうかは別として、とりあえず頼んでみました。私一人ではなく、彼にも日本食料品の買い物を一人でしてもらうこともこれから増えるかもしれないし。練習だ、練習。 ***で、J。これは結構楽しかったらしいです。出かける前に「父親を連れて一緒に行く」と言っていたのを聞いて、J父珍しがるかな、と思っていました。そうしたら、現地の携帯から電話。J:「ねぇ、明太子って、オレンジ?」という私:「それ、たぶんタラコ。お店の人に聞いたら?」J:「あそこにあるって指差されたんだよ。ねぇ、 fling fish rowってそうだよね?」私:「おなじrowでも明太子は辛子に漬けてあるんだってば。」J:「...。あ、Mentai-ko! あった!」やれやれ。その向こうで、E姉の声が聞こえます。やたらとMリンにこれを聞け、Mリンはこれは欲しいか、と言っているらしい。好奇心旺盛の彼女。いつも、的外れ&興味旺盛に日本語やら料理やら道具やらの説明を聞いてきます。このE姉。ちょっと学んだら、他の人に自慢します。ウチの母に向かって両手を合わせてお辞儀をするようW君に教えたり、他の人にEyeは「メメ!」であると教えていたこともあります。(それは、「耳」の間違いでは...。)和の国では、職人さん用の黒い足袋を「素敵!」と言いながら買って、店員さんが驚いていたことも。この彼女。JとJの父が行くエスニックな食料品店に自分も行かないわけには行かなかったのでありましょう。で、何買ったんだろう?(あ、話がそれました...。)その際、J他に食べたいものを聞かれ、「パンのコーナーにある、カレーの入ったパンが食べたい」と言ったら、お店に残っていた分2つも買ってきてくれました。J:「Mリンの為に、抹茶の蒸あんパンも買ったよ!」ちなみに彼は、わさび茶漬けの素、6パック入りをなんと4袋も買ってきてくれました。キシリトールのガムはそれぞれ5本ずつで、10本!麻婆豆腐は、彼が好きらしく、熱心に「辛口」を探した後頼まれていない別のメーカーのものも含めて4箱も買ってきてくれました。それを全部、Jの父が払ってくれたんだとか。「Mリンとベービーのためなら。」と。Jの父が選んでくれたマロン味の薄いクッキーのお菓子も入っていました。 そして彼Jは自分の為に、日本で味わったあの酸っぱいレモン飲料も探していたようです。これについてはレモン飲料事情をご参照。これは念願のポッカはなかったけれど、それに近いものを見つけ2本買ってきて、超ご満悦だったのであります。「アメリカで手に入るにしてはいいほうだよね。」と。一本開けた後、残りの一本を二人してガラスの盃に少しずつ分けて乾杯しながら飲むありさま。 日本で買い物をするたび、両手を使ってお金を出して、「ありがとうございました」という店員さんに向かって両手でレシートを受け取りながら、「ありがとぉ。」と一緒にお辞儀をする彼J。(↑これって変だけれど、普段の態度が大きいので 敢えて訂正しない私です。)この時も、この食料品店という「小日本」で、片言の英語をしゃべるおじさんおばさんたちと、ちょっとだけ覚えた日本語を交えながら、「楽しく」会話をしてきたんだとか。 自分の日本人のワイフのこと 和の国のお正月のこと、 自分の好きな和食の中身(いなごも含めて) 日本に住んでいる日本語がしゃべれるブラザーのこと...だそうな。(いつも同じ。)付き合ってくださる店員さん、ありがとう。私も助かったけれど、J、こういうの、好きなんだね。こんどからもっと日本食の買い物、一杯たのもうっと。
2007.02.03
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日本の友人たちとのパーティーがこの日ありました。RyちゃんとK君のカップルです。彼らは私の家で知り合ったのだ。この夏に。まぁ、その話は別の機会にするとして。今一緒に住んでいる彼らの家でのポトラック・パーティー。寿司を手巻きにするから、ご飯、のりと魚だけ用意しておく、と彼らが言うので、私がきゅうりやごま、甘エビや、たくわんなどを用意して行くことにしました。 ***大学街に比較的近い賑やかな大通り。昔私が一人暮らしをしていた頃はよく来ていたけれど、Jと知り合い、さらに結婚して田舎に住むようになってから、めったに来なかったエリアです。ここに日本食屋や日本食料品店、パン屋などがならぶこじんまりとしたビルがあります。「Pビルに寄ってから、パーティーに行くからね。」この日は珍しく、Jも一緒に参加です。普段は日本人の集まりにはJを連れて行かない私。私も日本語で思いっきり喋りたいし、Jは相手が英語が話せると分かると、自分の話でグループを独占してしまう傾向が...。けれど、この日、以前職場が一緒だったK君が同僚のアメリカ人のY君と奥さんを連れてくるから、ぜひJも一緒に来てくれ、というのでJも堂々と連れてくることにしました。 ***Pビルに着いて早速、中に入ります。アメリカに来て依頼、しょっちゅう両親とも来ていたおなじみ、というか最近懐かしいPビル。日本のお店が集まっているだけあって、日本人がたわむるところであります。私が必要な買い物をする間、Jには適当にその辺りを見てもらうことにしました。いつも待たされている私。たまに待たせるくらい、よいだろう、と。で、買い物買い物。私が個人的に欲しいお豆腐や油揚げ、とそれから...。色々探している間、Jは放っておきます。どうやら本人も商品を眺めて、飽きては居ない様子。「Mリン、コロッケがあるよ!」振り返るとJが冷凍食品の前で指差して立っています。私:「コロッケなんて良く覚えていたね。」コロッケを籠の中に入れます。私がまた別のものを探していると、また後ろから声が。J:「有機大豆のしょうゆは?」私:「あぁ、よく気づいてくれたね、ありがとう。」結構買い物を楽しんでいるらしい彼。私が別のコーナーに行って、甘エビを探していると、J:「蕎麦!Mリン、蕎麦がある!」私:「わかったわかった。どれがいい?」J:「どれでも、Mリンが好きなのでいいよ。」(ここで↑「読めなくて分からないから選んで」、 とは意地でも絶対に言わない彼。)私:「ほら、J君の好きな戸隠そばがあるよ。」J:「キャーォ♪」退屈するとすぐに痺れが切れる彼の性格を知っている私は、もう少し他にも時間をかけて見たかったのですが、短く切り上げてレジにならびます。そこで、「あっ!」と思い出した私。そうだ、洗濯あみがなかった。私:「ねぇ、Jちゃん、悪いけど、この荷物持って 一緒にもう一度億のコーナーに来てくれる?」大抵ここで、ええーっという顔をする彼は、このときも案の定、「なんで?」という顔をしました。けれど、そんな顔をした割には、Jもひょこひょこさっさとついてきます。そしてJが突然立ち止まる。飲料水のコーナーで。冷蔵庫の中を真剣に見つめて、微動だにしない彼。あぁ...何かにとらわれちゃった。こりゃ、時間かかるなぁ。と思っている私。そんな彼を放っておいて、洗濯製品のコーナーに行く私。気づいたら真後ろで声がします。J;「洗濯網は僕が持っているよ!」私:(ビク!)びっくりするじゃないよ。代わりに別のものを見つけた彼。J:「ねぇ、調理用バサミ、Mリン欲しがってたじゃん。 買ってあげるよ。」あら、やさしいじゃないの。どうしたの?他にも色々な商品を見ながらフンフンと鼻歌を歌う彼。そして、用を済ませたので、レジに向かおうとしたら、再び。飲料水のコーナーで立ち止まる彼。冷蔵庫の中を真剣に見つめて、ひとつひとつの商品を手にとってジッと眺めています。で、最後に手にしたのがレモン飲料水。J:「僕が欲しいのとは違うけれど。」(このレモン飲料水に対する彼の執念はこちらをご覧ください。) ***駐車場でお金を払って、出発するとき。レモン飲料を飲みながら、彼J一言。J:「このお店、いつ頃からあるの?」私:「...。え? 私がアメリカに来た 14年前にもあったけど。」J;(沈黙)私:(沈黙)ひょっとして、私、彼をここに連れてくるの、初めて?(完璧に忘れてる。)でも、プライドが高い彼には、「初めて」と言う言い方が出来なかった様子。あまり大きな日本食料店ではないけれど、日本のものが揃えてあるこんな良い所がマサチューセッツにもあった、なんて事を日本人をワイフに持つ夫が、こんなにも長い間知らなかった、とは、彼には大声では言えないのかな。それにしても、そうかぁ。ごめんね、べつにいままで君を排除してきたわけではないんだけれど。それにしても。日本の品物、実は好きなんだね、君。
2007.01.27
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朝ご飯を食べてJが出かける頃。とつぜん大きな声をあげるJ。「庭にカヨーティがいる!!」なに?あ、コヨーテ?え!!うそ!見てみると、そこにはキタキツネともいえなくもない生き物がたたずんでいました。いそいでカメラをつかむJと私。すぐに逃げてしまった。けれど、寒い冬、えさを探しに来たのかしら。コヨーテをネットで調べてみると、どうやら、狼と犬の種類に近いらしい。オオカミ...そんなものが庭に。「えー、でもあれ昔映画でみた キタキツネに似てた! オオカミにしては顔も短いし、 色だって...。」と私が言うと、Jは意地を張ってキツネとコヨーテの写真をネットで探る。母に電話。「こわいじゃない。そんなものがいるの? 赤ちゃん教われないかしら。」学校の先生。「君の家で猫や犬飼っていたら、 外に出さないほうがいいよ。」だと。自慢好きの彼Jは、いろんな人にこの写真をメールで送りまくります。私の東京の兄に送ったとき。普段は静かで穏やかな兄がメールの返事をよこしてきた。「これ、近所の犬じゃないの?」ずっ。これにはJも大真面目。さっそく、専門家に写真を送って聞いてみることに。専門家のお返事。「この写真じゃ決定的なことはわかりにくい けれど、尻尾の長さと体の形から、だいたい コヨーテでしょう。」だと。ふーん。この田舎。フクロウにしろ、ハゲタカにしろ、イヌワシにしろ、コヨーテにしろ、まぁ、好きなようにやってちょうだい。
2007.01.26
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1月16日の妊娠18週の頃の超音波の写真を送ります。この時はナースが「お仕事熱心」な方だったので、同じ角度からの写真を少ししか撮ってもらえませんでしたが。指なんか、しゃぶってます。前回のピーナッツの写真に比べて太ってるし。
2007.01.16
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この町のデイ・ケアは、とても評判が良い分、混んでいてなかなか入れないことがあるとか。知り合いの友人が、「9月からの入園、今申し込み開始しているよ。 今はぐれると、1年待つことになっちゃうよ。」と教えてくれました。Jにとっては、家政婦さんの方が好ましいらしい。まだ、デイ・ケアにしたとは決めていないけれど。でも、家政婦さんが見つからなかったら...。そう思って、先日行きました。そっけないスタッフと話したとき。スタッフ:「お子さん何歳?」私:「いま妊娠中なので。」スタッフ:「じゃ、こっちのパッケージに記入して。」持って帰ってきたパッケージの中身。性別どころか、名前さえも決まっていないなにも記入することのない「わが子」の入園申し込み書。成長記録、病気の経歴、アレルギー、食べ物の好物、いっさいなにも書くことがない。ほとんど白紙のまま。申し込みに行こうと思ったこの日、なんだか不安なので、電話をしてみます。私:「まだ、空きはありますか?」スタッフ:「フルタイムはないけれど、パートタイム なら一人空きがあるわ。あ、一人の子が 誕生日によって別の部屋に移動するかも。」重いからだを持ち上げて、この日、なんとか出かけて申し込みしてきました。このスタッフの人は感じがよい。スタッフ:「見学しなくて良いの?」私:「えぇ、評判は聞いていますから。」だいたい、ここしかないのだ。Jの職場にもあるけれど、私がそこで働いていたとき、なんか印象がいまいちだったし。スタッフ:「フルタイムがあいていなかったら、 $100のデポジット返すから。」そうですか、それはご親切に。スタッフ:「じゃ、子供が生まれたら夏ごろ また電話して。」以上。なんとも、不思議な感じ。いいんだろうか、こんなんで。
2007.01.12
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Jが前回の滞在で見つけた、ポッカのレモン飲料。瓶入りでビタミンがやたらと沢山入っている、絞りたてのレモンみたいな味のするあれです。長野県がどこかに行った時に、何の気なしに自動販売機で買ったら美味しかったらしい。けれど、それ以来、一度として同じものを目にしない、というJ。その後、コンビ二には勿論、自動販売機を見るたびに探すのだけれど、「ない」という。その目で一緒に探してみると、日本の自動販売機ってこんなにも沢山の会社が出しているのね、と驚いてしまいます。サッポロ、アサヒ、サントリー、コカコーラ・ボトラーズ、キリン・ビバレッジ、伊藤園、UCC、ポッカ、ダイドー、タケダ、大塚製薬、カルピス、小岩井乳業、などなど、どれひとつ並んでいるので同じのはないわけです。コンビ二にタケダC1000があった。でも何かが違う。箱根に行った時に、似たのを見つけた。サントリーのCCレモンだった。けれど、瓶が似ていただけで、味が違った、と。見つからなければ、見つけたくなる衝動に駆られるのも自然でありましょう。 ***ある時。お正月明け、米の国へのお土産を一緒にデパートに買いに行きました。ものすごい雨。お昼近くてお腹がすいた。何とか買い物を済ませ、デパ地下で餃子やおいなりさんも買い込んで、車の中で昼食を済ませます。なんせ、この日の夜は、「お寿司屋」に行く予定が入っていたから。お昼は、なるべく軽く、かつ食べたいものを二人で買い込んで食べました。のどが乾いたね。***帰り道。雨がざあざあ降りしきります。ワイパーを幾ら動かしても前が見えない程の大雨。そうしたら。Jが叫びます。「あった!ポッカだ、ポッカ!」住宅地や病院などの施設が並ぶ中にある駐車場にある自動販売機。一方通行が多い道を、あわてて曲がって車を端に寄せて止めます。「行ってくる!」「気をつけて!」「お金!」あわてて、高速費などに払う為に車の中に貯めておいたコインをいくつか渡します。びちゃびちゃ音を立てて走るJ。無事にレモンジュースを二本買ったらしい彼は、大雨の中、急いでドアを開けてびしょびしょになって入ってきました。ハァハァ。念願のポッカレモンジュース!雨の車の中で乾杯!「すっぱー!冷えててオイシい!」 ***めでたしめでたし。でもこれでお話は終わらないのです。夜、大好物のお寿司を食べ、お酒を飲みいい気分になったJは、その御寿司屋さんの外にポッカの自動販売機があったことを知りました。あれ?なんだ。ここにあったのか。嬉しいじゃないの。酔いながら、有頂天のJでした。それにしても、ここまでひとつの味にこだわるとは。おかげで私まで、日本の飲料水事情に少し詳しくなってしまいました。
2007.01.05
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最近、実はズボンの前ボタンはずして、上からセーターで隠している私がおりました。(苦笑)まだ妊婦服、買っていなかったんで。でも、なんか、お腹が寒いっていうか。で、買っちゃったぁ。母と出かけたこの日。専門店で、色々見て欲しくなりました。和の国のものって、やっぱすごいなぁ。お腹の上まで来る下着やストッキング。いや、これ気持ちよさそう!ブラも最近息するのが苦しい、と言ったら、「2カップはあがるので、変えるのが当然です」と言われ、買いました。そして、極めつけ!お腹の部分が延びる、Gパン!私が下着を試着している間に母が見つけてくれたもの。「紺と黒、どっちがいい?二ついるんじゃない?」いや、それは幾らなんでも...。ひとつで結構です。母:「Gパンはプレゼントしてあげる。」ありがとぉ!私が試着中、外で待っていた母と店員さん。店員:「初めてのお孫さんですか?」母:「? そうですけど。」店員:「おーめーでとうっございますーーー!!!」母:「はぁ、あは、ありがとう。」とクールな母。ガードル、腹帯、時期に合わせた色んなもの。母:「カタログもらっていけばいいじゃない、 必要なら送るわよ。」(実は米の国に帰って一週間後、もうひとつ Gパン、おねだりしちゃいました。) ***その後。もらいに行きました。母子手帳。なつかしい市役所。役人:「住民票は、ここですか?」私:「帰ってきたら移します。」役人:「病院は?」私:「まだ決まっていません。」でも、「米国の医者にいろいろ記入してもらう必要がある」と言ったら、「特別に」ということで、くれました。そんなに特別なものなんだ、母子手帳って。でも、なんか、不思議。
2007.01.04
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前回夏に和の国に来たときは、Jは一人でバスに乗って、町田駅のデパートでお買い物をすることを覚えました。えぇ。なにせ元から一人で冒険旅行が出来ない性格なので...。で、その夏、夜私の従兄弟Tを連れて家の近くの団地の野球場やスーパーのある商店街を散歩することも出来ました。(迷って、迎えに来てくれと電話があったけど。)今回は、私鉄に乗って新宿まで一人で出かける、というのが彼の課題です。私の従兄弟TがどうしてもJに会いたいというので。でも、私は気分が優れないので、「いっておいで。」と送り出すことに。従兄弟Tとの電話で。「うん、新宿で待ち合わせよう。もちろんさ。 新宿なんて簡単だよ。しょっちゅう通ってるし!」兄と母と私、その電話の脇で目を合わせて笑う。切符は360円。切符売り場で余計なボタン、押さないでね。Shinjukuは終点だからね。各駅、準急、急行、特別快速ってあるけれど、早いのに乗っても乗り過ごすことはないから大丈夫。方向だけは気をつけて、小田原・箱根方面には行かないように、ホームで確認してね。で、結局。兄の予定が変更し、兄も加わって3人で映画「硫黄島の戦い」を見ることになったとかで、Jの一人の学習は、今回はオジャンに...。...と思いきや、その後、兄は中野のアパートへ。夜終電ギリギリに、なんとJは一人で家に帰ってきたのでした。しかもタクシーに乗って。タクシーに乗る前に携帯から電話。(こんな夜中に!)ねぇ、降りるところ、なんて言えばいいか、教えて。・・・。そうだな。タクシーで住宅街の中に入って、「そこを左折、で、すぐに右折した後、またすぐに左折してください。坂道上がっていただいて左側の上から2番目の家です」なんて、Jの日本語では無理。「僕、大通りの7イレブンで降りて歩いて帰るから。」そうか、そうだね。では、と町の名前と大通りの名前だけ教えて電話を切りました。遅いな。何やってるんだろう...。どうやらコンビ二で、色々買い込んでいたらしく(買い物に時間をかけたい性格)予定時間の30分くらい経ってから夜一人で鍵を開け、Jは嬉々として入ってきました。そーっと歩いて、そーっと襖をあけて、小声で話しているつもりの彼。でも、君の行動も声も、デカいんだな、やっぱり。その後、もう一人の兄と母は、かわるがわるトイレに行った様子。起きちゃうよね、うるさいから。「ねぇ!Mリン。コンビ二の竜田揚げ、食べる? 夕飯は、皆で新宿の駅のガードレールの傍の小さい 焼き鳥屋に行ったんだ!美味しかった。でも 砂肝とかいろいろ僕の食べれないものもあった。 お酒も飲んだ!美味しかったよ。 映画はね、英語の字幕がなかったけど、 雰囲気はつかめたよ。今のMリンにはちょっと バイオレントすぎるかも。その後また三人で 飲んだんだ。楽しかったよ!!!」んー。眠いんだ、こっちは。そうかそうか、よかったね。よく出来ました、Jちゃん。と、頭なでなで。眠い私は寝たいときにこれをやる。でもこんな事されて...普通、素直に少年のような顔をするか!?「いいんじゃない?ま、子供が出来たら変わるでしょ。」と母は言うけれど。...かわんなかったりして。でも、取り合えず、初めてのお使いならぬ、初めての電車&タクシー、無事完了。
2007.01.04
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着いた...。すでに予約制の食事を取っている兄と母は、ダイニングにいるので、フロントに「娘が着きましたとお伝えください。」と言って、別のダイニングに出かける。カレー、食べちゃおぅ。Jはステーキだとか。和の国の牛にすっかりメタ惚れなのは、わかる。でも、疲れたJ。機嫌悪。(うるさい、静かにせぃっ。)食事が運ばれて、二人ともやや機嫌よし。カレーとサラダは美味しくいただきました。そこに登場した兄と母。歓迎されたJはさっきの機嫌はどこへやら、満面の笑みを浮かべて沢山しゃべり始めておりました。 ***部屋に入って、涙がでちゃった。なんだか、ほっとしたんだと思う。気のせいか、ずっとがんばってきたみたい。この日の旅もだけれど、いろんなこと。短い滞在だけど、いる間は家族に甘えちゃおう。 ***そしてその後の二日間。旅館に移動しての温泉や和食三昧、昔からの友人のようにどこへでも二人で出かける兄とJ。兄にお任せして、母とのんびりと過ごす私。年末の仕事を終わらせて出かけてきた母のホッとした様子。芦ノ湖へのドライブ。乙女峠から見た姿の良い富士山。大晦日で一日早い箱根神社でのお参り。旅館で出た和食と年越しそば。4人で川の字+αで布団並べて寝た夕べ。(爆)時差で超朝早くから温泉へスタンバイの私。珍しく旅館で迎える新年の朝。連れて行ってもらった寄木細工の創作風景。Jと兄が登山電車へ強羅へ行く間、母と過ごした不思議な雰囲気の喫茶店と、繊細な日本の中華料理。帰りに...。小田原のお魚の干物、買っちゃいました。それから、小田原の梅干ももちろん、美味しかった♪
2007.01.01
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「そんな状態で日本にいくの?」「機内で水分を充分取ること。」そんな風に医者から言われつつ、いや、アタシはなにがなんでも行ってやる。と思って決心した和の国への渡航。旅路は...もちろん長かったです。でも、Jが妊娠しているワイフを気遣って荷物を持ってくれたり(驚、ウチのも変ったもんだ)貯めたマイレージを使って初めてのビジネスクラス♪妊婦も悪くないな。ふふ。寝ましたよ。えぇ。沢山。横になってずいぶん寝ました。でも、成田についてつらいのは、「寝ていないから」ではなく、「成田に着く3時半ごろがボストンの夜中」だからであることを、この時再確認しました。...。まったり。そして、今回は旅路が長いのである。なんせ、箱根に直行だから。なんで?だって。和の国に着いた本日は12月30日。そして、父の居ない母が、おせちをつくらずにゆっくり年越しが出来るようにと考えた私の案のために、年が開けてしまう前に旅館に着かなくてはいけないから。大きな荷物を3つ空港から自宅へ郵送します。でも。祖母と母と、和の国に帰ったら必ずいくお鮨屋さんのマスターに、なぜか「ギースの卵」をお土産に持ってきたJ。「冷蔵庫に入れないと。」と言う彼の要望に従って、小型のダンボールの中に厳重にくるまれたその卵達を抱えながら、スーツケースを引っ張って、駅の構内を走ります。...着いた。。夜8時過ぎに箱根湯本に行く人はさすがに居ないらしく、ロマンスカーの中も、駅の構内もがらがらでした。繁華街もしまっていたので、タクシーのおじさんにコンビ二によってもらって、お弁当を買い込みます。ふふ♪さっそく、焼きそばパン、かっちゃった。暖めてもらったJのから揚げの匂いが漂う袋を抱えながら、ホテルにチェックイン。「お待ちしておりました。」つづく。
2007.01.01
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つわり、結構きびしかったっす。いやはや、ごぶさたしてました。水も受け付けないんで、死ぬかと思った。和の国でいうポカリスエットのようなイオン電解質を飲んで、しのいでました。けれど、ストレスや睡眠時間とも関係あるのかな、と思ったのは、クリスマス以降に出かけた和の国の友人たちとの小旅行。Jを家に置いて、2泊3日ニューパンプシャーのロッジで6人の友人とゆったり。この時は不思議と、ものも食べれたし気持ちがまぎれていたようです。話題の絶えない友人たちとの大笑いで食べて寝て過ごした毎日。気が知れた友人の前ではトレーナー姿で一日過ごし、「気分が悪いから寝てくる」も堂々と許され、そんなリラックスした環境と適度な刺激がよかったのかもしれません。そしてその翌日、戻り日本へ行く荷造り。翌々日、Jと私は和の国へと旅立ったのでした。
2007.01.01
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お互いに色々なことをしゃべりながら、親になる自覚を少しずつ芽生えさせようとしつつ、なかなか進歩しない私たち。けれど、私が体調をしょっちゅう崩すようになってから、ヒルみながらも色々試してくれているJ。ついこの間までは、災害があろうと事故があろうと、私のことを「鉄の女のようにタフなMリン」、と勝手に思っていたらしい甘ったれのJは、私がマジで伏せっているのを見て「これはただ事ではない」と彼なりに自覚をし始めたようです。 ***それでも。実情はといえば。Jの生活パターンは以前とは「あまり」変わらず。突然「明日から一週間出張だから。 あれ?言ってなかったっけ?」とか、夜8時に電話してきて、「今からR氏のところに書類のサインをもらいに行く。 30分で終わってすぐ帰るから。」と言った後、夜11時頃、「ごめん、とっても大事な話をしていたんだ。 すごく有意義なミーティングだったんだよ。」と謝りの電話を入れてきたり。こんな会話が続くある時、私が言います。「J君。ベビーが生まれたらね、どんなことが あってもベビーが優先になるんだよ。 デイケアに迎えに行く時間に仕事が入って、 デイケアが閉まっちゃったとか、 子供が病気しているけれど、一人で寝ている とか、許されないでしょ。」こういう話をすると、彼はいつも決まって「大丈夫、ベビーが生まれたら、僕は何があっても ベビー第一にするから。」 と言ふ。こんな時、すかさず。私:「その時に出来て、今出来ないのは何で? ベビーは大事だけど、奥さんは大事じゃないの?」J:「...。」私:「米の国なんだし、 『妻が具合が悪いので今日は早く帰ります』って 言っても、怒る人って少ないんじゃない?」なぁーんて、この際だから言いたいことを言ってみる私。J:「だからごめんってばぁ。今日は大事な話でさぁ...。」私:「うんうん。じゃぁ、明日以降、 一週間ごとに、一ヵ月ごとに、徐々に 『証明』してくれるの、楽しみにしてるから。 一緒にがんばろうね。」 ***こういう会話があっても、まぁ、パターンはすぐには変わらないでしょう。ただ。今、目の前には白と黄緑で出来た、アジサイと菊の花が活けてあります。「ごめんなさい」の意味も含めてJが買ってきてくれた花束。ここでのポイントは、「白と黄緑」系の花という彼にしては珍しいチョイス。以前は赤に黄色に紫にオレンジ、という組み合わせの花を生けていた彼も、私が「ほどよい色の組み合わせ」の方を好むことを段々に認識してくれたみたいです。(私。内心、驚き。)形もまん丸い、かわいい花束。しかし。ひとつだけこだわれば。彼の最初のアレンジは、細く尖がったカラーリリーが後ろから二本出っ張っていました。かわいい花束なんだけれど、その部分だけが、和の国の私としては、どうしても「鬼の角」が出ているイメージを連想してしまうのです。でも彼が一生懸命作ってくれたフラワーアレンジメント。でも。ある日、私の頭の中をどうやって読んだのか、そのうちの一本のカラーリリーが、別の一輪挿しに移っていました。そう言うわけで、今では花束の形は頭が一箇所だけ尖がった「三角」のイメージです。 ***米の国のスーパーで「チャイニーズサラダ麺」というのを私の為に買ってきてくれてありました。でも、なかなか手が伸びなくて、冷蔵庫におきっぱなし。ごめんなさい、J君。で、今日。J:「これ、食べないの?Mリンのために買ってきたのに。」私:「ありがとう...。 でもごめん。今、なんだか色んな食べ物が怖くて。」J:「そうだよね。うん。わかった。僕が食べる。」あ、物分り、良いじゃん。そして、そのパッケージを開けて食べるJ。J:「うわーっ。マズイ!」私:(それを見て、瞬間身震い。)いやいや、君の気持ちだけでも嬉しかったよ。 ***酸っぱいものなら大丈夫、ということを知ってレモンを沢山絞ってレモネードをつくってくれたJ。彼も一緒に飲むということで、砂糖をたぁくさん入れて甘くしてくれました。「あまっ。」でも、がんばってくれています。
2006.12.15
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和の国に一時帰国した友人にも、母にも「酸っぱいもの」を送って欲しいとせがむ私。 ***そんなリクエストに答えてやさしい贈り物をしてくれる友人、姉御は色んなバラエティーの「レモングミ」を送ってくれました。寒天系も、外側と内側の硬さが違うふんわり系も。オレンジやグレープフルーツや他の種類まで。グミ好きの私。もったいないので少しずつ食べていたつもりながらも、あっという間にどんどん減っていってしまいます。 ***一方で母。素麺やうどん、揚げセンベイなどの食材を箱一杯にほとんど、隙間なくピッシリと真空状態で送ってくれました。(これは、3D得意&キチンとした母の性格も現れた いつも見る、母特有の郵送物。)その時、自分が妊娠していた時には「仁丹」ばかり食べていたとかで、梅仁丹やグリーン仁丹も荷物に入れてくれました。(いまだにあったんだ!ジンタンなんて。) ***両方の祖母が昔「梅干」が効いたと言う話からコンビニの「干し梅」も入っていました。ただ。田舎の祖母が手作りの「本物のとっても酸っぱい梅」を送ってくれるという話もあったそうですが、生ものゆえ、米の国の税関を通ることが出来ない危険性もあると母が懸念し、その話は却下されたとか。 ***ちなみに。サンクス・ギビングの際にNYに行った時、自分で日本食屋で買ったレモン系の飴色々。ずっと忘れていて、車のトランクに置きっぱなしでした。中には、砂糖でないキシリトール系の味がイヤで開けてまもなく放ってあったものも。その袋の中に「Super Lemon」があるのをずっと忘れていました。酸っぱいんですよね~、これ。 ***あるとき、授業中にこれを舐めていたら。白人のクラスメート、カーリー・ブロンドのTちゃんが、飴が個別に入れてある黄色い小型のパッケージを目にした途端、「なつかしい!」と言ってきました。なんでも彼女がNYの中学に言っていた頃、友人の日本人達が、Super Lemonやポッキーをしょっちゅう持ってきて、自分も好きになって、NYのお店で度々買っては食べていたのだとか。 「マサチューセッツでどこにあるの?」と聞いてくる彼女。それは、私も知りたい。実はこの辺りの日本食品店にも大手の中華系「超級市場」(←スーパーマーケットのこと)にもないのです。へぇ、でもアメリカ人で和の国の飴に「なつかしい」なんて反応する人が居るとは思わなかった。さすがNY出身だわ。 ***この日の授業の後。図書館で、友人のC君と勉強しながら、その話をしました。MIT出身、インターネット好きの彼C君。中華系「超級市場」にあるんじゃないの?と言ってネットで調べてくれています。いやいや、甘いんだな。そんな簡単にみつかるんだったら、私も友人の姉御や母に頼んだりはしないのだ。そんな話をしながら冗談でGoogleで「Super Lemon」とやってみる。そうしたら。なんと!あった。しかもAmazon.comで。Nostalgic Super Lemon Candy冗談かと思いましたよ。しかも、米の国の人が「ノスタルジック」と言いつつ買う飴だったとは。早速、オーダーする私。(笑)2日後に予定。しかし。 ***昼間、家に人が居ない我が家。「本人のサインがないと品物は置いていかない。」という、ある郵送会社。ただの飴だから、居ない間に外に置いて行ってくれても良いんだけれど。(先月和の国から送ってもらった新品のコンピュータは 外に放ってあったのに。)そういうわけで配達が3日遅れました。そして、Jが受け取ってくれた日の夜。開けてみたら。「6パック」入っているはずが、ひとつしか入っていない。あれ?レシートを見る。確かにこれは、「6パック」のお値段だよね。J:「一袋の中に飴が6つある、ってこと じゃぁないの?」いやいやいや。ってことは、やはり手配ミス?随分「お高い飴」になっちゃったってことね。こんな時、俄然張り切ってくれるJ。ネットでクレームする番号をすばやく見つけ、「メールでクレーム」ではなく「電話でクレーム」を選んで、直ちにダイアルして、さっそく私の変わりにやり取りに取り掛かってくれました。長い電話でのやりとりの結果。相手の会社は、「Over Night」で、「5袋追加」ではなく、「6袋1セット」を改めて送ってくれることになったそうな。やるじゃん。さすがY教系の人。 ***レモン系が効く、と把握した彼は、私の『つわりの雄叫び』を軽減してくれるらしい「レモン様々」にどうにかがんばってもらおう、と思ったところもあった様子です。電話を切った次の瞬間から、台所でレモンを大量に絞ってくれている彼がいました。で。彼J自身は酸味のあるもの好き?いや。「キャー!」って叫んじゃうほどダメ、のようです。
2006.12.14
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8月の終わりの週から始まったセメスターも今日で今期の授業が終わってしまいました。今期は去年のように「精魂こめて」勉強することが出来なかった感が残ります。それも。家と学校とインターン先を結ぶ三角形は1時間、45分、50分のドライブ。今期は何かを学んだかしら?ううん、ずっとドライブしていた感じ。本を読んでいるよりも運転している時間の方が長かったかなぁ。(笑)(↑って笑い事じゃないんですが。)プラス、妊娠してから続く微熱とけだるさ、そして拭っても拭えない気分の悪さ。こいつぁ予想以上のものでした。いやー、皆さん、お母さんやっている人偉いっすね!で、今期が終わって今日の正直な感想。「とりあえずは授業だけでも終わって よかった...。」 ***とはいえ。外に居て悪いことばかりではありませんでした。患者さんに会って真剣に考えたり、人と会ったり一所懸命考えて発言したり、モノを書いたりしている時は、良い意味で気が張っていた気もします。一方で、退屈なミーティングなどで、他人の発言をずっと聞いていたり、講義式の授業を聞いたりする「受身」の仕事は、不思議と体のつらさがよみがえってきて忍耐力も落ちるようです。(気持ちに正直になりすぎてましょうか?)そして。以前ほど長い間座ることが出来なくなっていることにも気づきました。患者さんとのセッションや授業がたて続いた時などは、たまに自分の車に行って暖房をつけ、目にマフラーを乗せて5分間だけ横になって休みます。「のびのびー!」っと。学校の図書館にはソファーがいくつもあるので、人があまり居ない夕方以降になると、仲の良い友人たちと勉強しつつ、「5分間だけ寝ていい?」と、度々体を伸ばしたりもしていました。そんなことが許される環境があったのもありがたかったかな。 ***けれど、朝からぶっ続けの仕事と授業がつづく水曜日。こんな日の終わりは体が「もう耐えられない!」と言っているのか、夜、帰りの車に乗ったとたんめまいがします。家に帰った瞬間から始まる嘔吐による嗚咽などは、水曜日の夜が一番激しい!まるで、お腹の子供が「こんな思いをさせやがって!」と叫んでいるかのようです。(描写がこまかくてごめんなすって。)雄叫びが響く夜。こんな時、Jも傍でヒルんでます。おし!リラックスだ!急いでお風呂にお湯をためて、とりあえずは体をほぐします。血行が回ってくると、なんか良いみたい。そんなわけで、一日に3-4回お風呂に入る今日この頃です。 ***そんな最後の水曜日。夜9時以降の帰り道。私は車の中で「誰かに電話したい」思いで、携帯を片手にすがるように話し相手を探していました。長いドライブ。車の中は私にとって唯一思いっきり電話でおしゃべりする時間でもあります。でも、東京の母は今日は出かけてて居ないし。オレゴンに居る、同じ分野の学生のEちゃんとこの間のインターンの悩みの続きをお互いにする予定だったけれど、彼女も今日本に帰っちゃっているし。(そういえば。 後から考えたら、韓国人の看護婦のEちゃんとか 居たけれど、最近結婚したばかりで同居し始めた ばかりの夫にブーたれていて人の話を聞く余裕ないし、 ご無沙汰しているGさんや、年配のSさんもVさんも なんとなく今は甘えたい存在じゃないというか。)大体日本語でしゃべりたい。そんな時。「どんな電話でも良いからね。かけたい時かけて。 思いっきり甘えていいんだよ。」そう言ってくれた、姉御。(涙)私の中学生のときから近しい存在の姉御。彼女がご家族とアメリカに赴任されてから、さらに「共通チャンネル」が増えて、話が通じやすい姉御。それに妊婦になってからは、お世話になりっぱなしです。「アネゴォ!今聞いてもらっちゃっていいですか?」 Mリン、これもう辞めたいっ。」さんざん甘えてしゃべって励ましてもらった後、最後には高校時代の思い出話になって、大笑いして元気をいただきました。姉御、感謝です。 ***ヒルみながらも色々試してくれているJ。これについては又書きます。さぁて、残りの一週間。インターンも後2日。なんとか課題を終わらせるぞぉ。
2006.12.14
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セミナーのクラスに男の人が一人だけ居ます。奥さんと8歳のお子さんが一人居て、「大勢の大学生上がりの若いもん」と少し違って私と同じく、すでに何年も成人を過ごした人。白人社会出身で、自分は「東洋のことは何も知らない」とおっしゃる。本人曰く、家族にアルコール中毒症の人が多い、ご本人も、雰囲気としてはどちらかと言うとハードコアで、土方もしくはマフィアの役を演じさせたら似合う人。(ここだけの話。)去年も一緒のディスカッショングループに居ました。けれど全く接点がなかったこの人。ある時、「東洋と西洋の文化の差異」について私が先生にせがまれて、沢山コメントをした日。授業の後、あとから駆け寄ってきて満面の笑顔で「ありがとう。」と言ったのです。?となる私に、「僕は無知だったし、無知だったことを今まで気づかなかった。」とおっしゃる。はぁ、そうですか。まぁ、お役に立てたんならよかった。その程度の気分でお礼をいいました。 ***で、今年に入ってから。同じセミナーで顔を合わせるこの人。セミナーの前の25人の授業でも近くに座っておられる。接点がなかなかないながらも、ある時「日本の文化」や「座禅」そして「茶道」における精神的作用について聞いてきたので、わかる範囲でお話をしたりしました。で、この人。白人にはめずらしく、わりと目に見えないものを信じる人らしいのです。普段「白人に話してもまじめに聞いてくれない話」を私にぽつりぽつりとしてきます。時々「天にお祈り」をすると願いがかなうこととか、「過去や未来でなく今」に集中する座禅のおかげで色々なことがうまくいくとか。目に見えるものにとらわれずに天にお任せすると、事もうまく運ぶとか。お祈りをするお爺さん御婆さんが健康で居られる心理的秘訣も、「西洋の文化ではなかなか受け入れられない思想」である、と話します。それでも、東洋のことを何も知らないというこの人。読んだこともないけれど、何か自分の興味深い分野の秘密が東洋にありそうな気がするのだ、といいます。 ***その人に先日、私が妊娠したことを話しました。顔を真っ赤にして笑って「おめでとう」と言ってくれました。そして、今日。私が廊下を歩いていたとき。入り口から入ってきたばかりのその人から、白いうす紙に包まれた何かを手渡されました。「?」なんだろう?ありがと、と言ったまますれ違い、早速開けて中身を見てみます。なんと中身は。小さなこま犬と、安産の御守り。「!」嬉しい以前に驚きました。すごい。どこでこんなもの手に入れたんだろう!? ***犬が安産のお守りであるということを和の国の若い人でも知らない人が多いのではと推測する今日このごろ。東洋のことを良く知らないというこの人。しかもとりわけ仲が良く、一緒に出かけたり電話を掛け合う連中というわけではなかったのに。こんな心遣いって!「何を選んでよいか判らなかったけれど、 天にお願いしたら導いてくれた。」とだけおっしゃる。先週。ケンブリッジにある東洋のものを売っているお店で、Teaが好きな自分の奥さんに、土瓶らしいものをクリスマスプレゼントに探していたのだとか。「正直言って、ワイフにも何を選んで良いか 判らなかったし、やたら沢山のものがあって めまいがしそうで...」そのお店が日本のグッズのお店だったからまず私のことを思い出し、心をオープンにして「天」にお任せしたら、すぐに奥さんに「ベスト」の品物が見つかったのだとか。その後は、祈った相手である「Mリン」に「お礼」と「祝福」の意味も込めて、何かを探していたら、どうやらそこには「良いものがない」と気づいたとか。(↑どうやって気づくんだろう?)お店の人に「妊娠している友人に」何か贈り物したい、とアドバイスを受けてみたら...最初は「マタニティー」商品のお店を勧められたけれど、「もっとスピリチュアルなもの」とリクエストしたら、「奥からしまってあるひとつだけ残っていたお守り」を出してきてくれたのだそうです。世の中には、こんな風にしてお守りを買って人に送る人、というのも存在するのだということを、この日初めて知りました。だいたい、東洋グッズのお店にお守りがある、なんていうのも、日本人がお客だったら気づかないであろうお話じゃぁないですか。 ***最後に。そのお店では、ご自分にも「天」とのつながりを思い出すための「何か良いもの」が欲しいと思ったそうです。しかしそう思いつつ、何を買ってよいかわからなかったのだとか。数多ある商品に目がくれそうになったので、目をつむって手の動く方向に行ってみた。そうしたら。そこには「七福神」の布袋様があったのだとか。ホテイさんだ。幸せの神様の布袋様。良いのをまた選んだね。これがまた商売の神様でも、縁起の神様でもなくて、「幸せの神様」であるこれを選んだところが、この人らしくて、なんだかとっても話がまとまりやすいじゃないの!...と一人で嬉々として喜ぶ私。それを何とか伝えたかった私。けれど、きっとご本人には、どう説明しても、これが「和の国の人もびっくりするようなお話」ということは、通じなかったような気がします。そして、しきりにお礼を言う私。そうしたら。「僕一人じゃ、選べなかった。 マインド・フルになってお祈りしたら、 天に居る、きっと君のお爺さんやお父さんが 助けてくれたんだよ。 お礼は僕にじゃなくて、天にして。」だって。 ***この人が私に近づいてきてくれる理由は、私が東洋の人間だから?期待に添えなくて申し訳ないです。あなたの方がよっぽど、神様仏様に忠実。でも。私の手の中には今、懐かしい雰囲気をかもし出す神社に売っているような赤いお守りと、犬のお守りがあります。うん。嬉しかった。ありがとう。
2006.12.12
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この課題は、色々な角度から検討することを求められます。遺伝や医学的観点から。精神成長の観点から。 それもフロイトの性的発達段階、 エリクソンの発展理論、 ボルビーの愛着理論、を含めて精神分析的観点から。 それもフロイトの自我、超自我、葛藤 コフートの自己心理学の理論 又、対象心理学の理論を含めて家族的観点から。認知心理的観点から。 (主に親のしつけなど)トラウマ観点から。なんだい、これは一体?ですよね。すみません。いや、私が最近注目しているのは、実はこの中の「遺伝&医学的観点」なのであります。 ***性格などは、ほぼ育ち方や環境に左右されるのですが(おおらか、ねたみやすい、等)もともと持って生まれる気質、そしていくつかの精神病理は遺伝、母親の妊娠中の色々、出産時の状況、などがかなり影響するということらしいのです。これが、私を最近悩ませていたことのひとつ。悩んでもしょうがないんですけどね。続き、又書きます。
2006.12.05
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米の国での超音波の検査は、2回のみ。和の国とはずいぶん違います。まぁ、2回とは言っても、首の太さから、ダウン症の可能性を調べたり何なりと、一回分にずいぶん細かい「調べ」をするようですが。で、本日12月5日。12週4日目、初めて超音波でこのようなものを見ました。うつぶせ。右側が頭で、下に手があって、左に足があります。これは右手の写真。胴体は頭のむこうに隠れているのでしょう。これは左手の写真。指が見えますか?(Jが"hi five!" と言って 反応した一枚...)頭と胴体をあわせた長さが6.5cmくらいだとか。ときどきピクピク動いたり、腕を伸ばしたりして心臓もしっかり動いているのが見えました。へぇー。ちゃんとした形のものが、お腹の中にいたのね。でも、画面をみながらも、なんだかよそ様のお腹の中をのぞかせてもらったような興味深さと、認識の浅さをもって反応していた私。 ***母に「ピーナッツが見えた!」と報告。半日経った今、これを書きながら、そうか。この中に居るのか。と改めて思いました。
2006.12.05
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それは忘れもしないこの間の週末のこと。いぶらさんのサイトを訪れて、彼女のフリーページに書かれてある体験談を読ませてもらった時に、一緒にそこに書かれてあるベジタリアンレシピをいくつか見せていただきました。(ご本人、このことは未だ知らないかも知れないけれど。)そこに書かれてある一つ一つのレシピの書き方や、食べた後の感想の表現法がこれまた、人の食欲をそそる、うまい書き方しているんだ、これが。と読みながらつくづくはまっていく私。この所、あまり食べる気のしなかった私が、ある特定の食べ物にはまっていく瞬間。まずは「味噌ラーメン」。沢山のお野菜からお出汁を取って、贅沢にお味噌を使いつつ、ベジタリアン用に工夫されつつ結構コクのありそうなラーメン。読みながら、あぁ!こんな味噌ラーメンをつくって、じゅるじゅるとやってみたい!と思ったら、その事が頭から離れなくなりました。で、次は「和風パスタ」。昆布で出汁をとってゆでたり、しょうゆベースにバターやごま油が入った風味豊かそうなパスタ。昔大学生のときにバイトしていたパスタ&ピザのお店で出していた、「大根おろしとツナの和風スパ」を思い出してしまったぁ。「おいしかった」というご自身の感想から、そうだろうなぁ、とつくづく思いつつ、その味を想像し、昆布だしと醤油とバターの絶妙な組み合わせを考えめぐらしたら、よだれが出てその事ばかり考えるようになりやした。お次は、「コーンクリームシチュー」。昔「学校給食でよく出ていた」と書く彼女と、ほぼ同年代と推測する私は、私も大好きだったあの給食のメニューを思い出しながら、あの中に入っていたやわらかいジャガイモやにんじんの触感などを思い出して夢心地になりました。そして、「翌日」食べるように工夫された「シチューをパスタにかけて、 パン粉をのせてオーブンで焼く」バージョンのメニューを見ちゃった時は、「パン粉のカリカリ感」が頭にこびりついて、夢に出てきてしまひました。また、いぶらさんがこだわる「ミネラルたっぷりの塩」と「おいしい胡椒」にも、いつの間にかとりつかれている私がいました。それから、私のネットでのレシピめぐりが始まる。 ***そんな夢の翌日、Jがご飯を作ってくれる、というので、私は「味噌ラーメンか和風パスタ...」と、Jに言ってもとうてい叶わない願いをつぶやいていました。「パスタ?」うん。パスタ。あの、和風パスタ。一生懸命のJは、この日、シェルパスタにトマトソースの「パスタ」を作ってくれました。(ちがうんだぁ!とどこまでもわがままな妊婦。)でも食べました。Jくんのパスタ。ありがと。ダーリン。 ***その翌日、Jが、つわりの私を気遣って「買い物して帰る、何がいい?」と電話してきました。「大根と、ツナ缶、それから、じゃがいもはあるよね、えーと、昆布もあるか。えーと。」昼寝の目覚めからウツラウツラと答えていたら、Jは「八百屋に行くから」という理由で、大根だけを買ってきてくれた。ち、大根だけかぁ...。目が覚めたばかりの私は、そんなかわいくない文句を言いながら、家にある材料で出来るもの、を思い、気づいたらコロッケのサイトのページを大きく開いていました。「パン粉のカリカリ感」に取り憑かれた私。 ***つわりで気分が優れなかったので、ジャガイモを皮むきもせず丸ごと小鍋に入れて火にかけてしばらく休みました。半分くらい湯だったところで起き上がって、皮をむいてみたら、硬かったので、今度はそれを8等分にしました。そして、電子レンジで5分。(最近電子レンジをONすると、 ささっと別の部屋に逃げる私。 電磁波から逃げるため、レンジが ピーと鳴るのが聞こえるまで、 隣の部屋で息を潜めているのであります。)帰ってきたJ。J:「何つくってんの?」私:「コロッケ。知ってるよね。東京のデパートで味見した。」J:「うん。」私:「ジャガイモつぶして、これとこれと...。」J:「へぇ、Mリンがすすんで食べたいモノが あるなんて珍しいね。」そういいつつ、この日はジャガイモをつぶしたところで挫折。その夜は、ジャガイモコロッケの夢を見ました。 ***翌日の今日。よーし、今日は必ず「大根おろし&ツナ和風スパ」とコロッケつくってやるぞぉ。インターンから帰ってきて「ツナ缶がない!」といつもより元気にスーパーに再び出かける私。隣でJは、明後日からの出張前に材料を使いきって、ずっと食べたかったものを食べたい、と自分の大好物のタイ料理、ビーフカプラウをつくっています。庭で大量に取れた芽キャベツの茹でバター仕上げも。ふだんだったら、にんにくと唐辛子が沢山入ったひき肉のこのタイ料理をご飯にかけて食べるのは大好きなんだけど。(私、実はいま芽キャベツのにおいも、 にんにくの匂いもだめだめだめ、なのです。)夫婦二人が台所に立って、別々のものを食べるのことは、初めてかも。スパゲティもつくる勢いで居る私は、お湯を沸かし、大根もすり下ろします。(いつもにない、元気さ。↑)冷蔵庫で眠っていた「硬い部分が残る」マッシュポテトを再びレンジでチンして、(私はその間、隣の部屋へダッシュ!)それから玉ねぎやベーコンを刻んだものを炒めたものを混ぜます。バターもモツァレラチーズも入ります。嬉々として、粉と卵とパン粉を振り振り、「じゅわーっ」と、小団子サイズのコロッケ、いっきに出来上がり!夢の「カリカリのパン粉」と「ホカホカのジャガイモ」をかじる瞬間!中のバターやチーズの風味がポワーと出てきて、ジャガイモの風味が最高潮に達しています。「Mリンがずっと食べたかったもの、これ?」案外油っこいものを食べるので、Jが驚いていました。私も、コロッケなんて濃厚なもの、普段は口にしないのに、不思議フシギ。でも母もそういえば言ってた。「私のときは、鳥も牛も油っぽいものも ぜんぜん駄目だったのに、なぜか不思議と カツ丼が食べたくて しょうがなかったのよねー。」「パン粉のカリカリ感」に目がない親子か? ***味見程度に次々とコロッケをほおばって堪能して、お腹一杯になってしまった。(最近、食卓でのけじめがないぞ、自分。)おろした大根は冷蔵庫へ。スパゲティ用に沸騰させたお湯は、Jが芽キャベツゆでるのに使っていました。あぁ。おいしかった。明日は、和風スパゲティ、いけるかな。んで、週末は念願のラーメンができますように。この食欲のない時期に、脳を刺激してくだすったいぶらしゃん、ありがと。
2006.12.04
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今日、スーパーバイザーに言いました。妊娠していること。同時に、6月に終わるはずのインターンを(6月中旬予定なので)来期から週に多めにトレーニング通う代わりに繰り上げて5月初旬か4月終わりに終わらせてもらうことが可能かどうかを聞くために。普段カウンセリングの世界では、自分のプライベートの話をしない「能力」というというか「忍耐力」というのも期待されます。他人がしゃべっているときはセラピストは自分の話をしない、自分の感情は出さない、自分のプライベートの話は勿論しない。本当にプライベートな「問題」を話す必要がある人は、自分でセラピーにかかるべし。とかなり厳しいのであります。同時に、スーパーバイザーもインターン生がどれだけ「言ってよいこと」と「ここでは言わないでおいたほうがよいこと」をすばやく判断できるか、もしっかり見ている。したがって、この人に言うのには、正直、少し緊張しちゃいました。でも、同時に学校のカリキュラムの相談をする上では、話しておかなくてはいけない相手ではあります。「どう」話すか。「ニュースでーす♪私、妊娠しちゃったんですぅ!」(ブー!)「あの、プライベートな事でありつつ、カリキュラムに 関係あることなのですが、少し時間をいただけますか?」(ピンポン!) ***面白いところもあるけれど、仕事の話になると、かなりまじめな、どちらかと言うと厳しいタイプ。そんなわけで、息を吸って慎重に話してみた。そうしたら意外や意外。スーパーバイザーは喜んでくれた!と同時に、自分がセラピストとして働いて妊娠し始めた時のことを思い出して、スーパーバイザーご自身のプライベートな話をタンとお話してくださりましたでございます。(驚)妊娠したとたんに患者さんの中に、ぐっとお近づきになってくださる人や、まったく気づかない人、自分の子供の頃の話や、自分の妊娠したときの話をする人、お腹を触ってくる子供、太ってきたと思う子供。。。セラピーをやっていても、おかげで話が思わぬ方向に展開して、それが功を奏すこともあるのだとか。「精神分析には、かなり興味深い現象よ。」と言っても、「妊娠」が「精神分析」にどこでどうつながって興味深いのかについては、聞き損ねたのですが。(なにせ、とっても勢い良く次々と おしゃべってくださるんですもの。このお方。)同時に、セラピストであることは、子供を育てていくのに、このスーパーバイザーにとって、「よいこと」だったとおっしゃる。ご自分の娘さんは、危険をあえて冒すタイプだったけれど、苦労した甲斐があって、今では沢山の難しい大学を受けたり、スピードスキーヤーを真剣に目指して特訓したり、その「特性」をうまく生かしておられる、とか。もう一人の娘さんは「シャイで不安症」の子だったけれど、今ではとっても人の心がわかるスウィートな、きめの細かいお嬢さんだとか。「あぁ!そういう話が聞きたかったんです。」ととっさにぶちまける私。だって、だって。今みている患者さん達、どの子もシビアな状況に居る子が多いし、だいたい、「子供の精神病理」なんていう授業を受けていると、「こういう場合、将来我が子がこうなったら」って考えざるを得なくて...。そうしたら、それはセラピストにとって、とっても「自然な現象だ」とも教えてくれました。そして、「がんばって、それにさからって、『自分の子供はキチンとやってみせる』とポジティブに考えながら自分に約束すること」が大事なのだと教えてくれました。又、「妊娠したセラピストを支えるグループ」が必要よね。とも、おっしゃる。いろんな不安をもつ妊婦さん+精神病理に対する知識ばかりがはいってくるセラピストやインターンのこの状況。実は私がひそかに不安を抱いていた、「将来のこと」を慮って、「理解」をしめしてくだすった、このスーパーバイザー。ほ。よかった。話して。それに。なんか勇気付けられちゃっいました。感謝。
2006.12.04
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私、最近勉強する気があまりしないんですぅ。なんて、えへらえへら、と罪悪感さっぱりなしで言ってのける今日この頃。(というか、10月からずっと。)去年の今頃ではありえなかった。緊張の毎日。あの頃はまだ飲んでいたコーヒーで景気づけして、朝から晩まで勉強していた。「今日は早く寝るんだあ。」などと言って寝てしまった日の週末。そんな時は月曜の朝、決まってブルーになりつつ、あわてて宿題に取り掛かったりしていた。やればやるほど、終わりが見えなかった。緊張からほぐれる時なんて、卒業するまでないと思っていた。そんな一年間だった。で、今はファイナルまで2週間足らず。どうした!Mリン。いくらつわりでも、それじゃいかんぞ。学期末が終わらんぞ。クリスマスも、ペーパー書くか?日本に正月帰るんじゃなかったのかい?母:「体が必要としてるのよ。休むこと。」確かにそうなのかもしれない。でも、なんだろう。「眠い」とか「だるい」だけならわかる。それと同時に、この罪悪感と緊張感のなさ。なんだろう、これって。不思議。と言いながら、他の人の日記読みながらヘラヘラして、気づいたらソリティアやってる私。おーい、Mリン、大丈夫かー?
2006.12.04
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18歳のBill君が書いた文章、 “僕のペット”は、自分の家族内のドラマがなかなか巧みに書かれています。同時に、自分の仕事に気をとられ、子供のことに全く関わろうとしない父親の姿やBill君の強い欲求やしつこいイタズラに屈してしまう母親の姿が、かなり皮肉めいて描かれています。Englishの学部に客員教授として招かれていた父親。それをカバーするかのように、もう一人教授ではありながらも、地道に教える、沢山の仕事をこなす、などの仕事を引き受けながら、子育てもほとんど一人でやってきた母親。しかし。この母親が、温かい人だったのか、冷たい人だったのか、しつけをしっかりするタイプだったのか、なんでも子供のいいなりだったのか、条件付けで子供をコントロールするタイプだったのか、気分によって接し方も変わるタイプだったのか、どのくらいの時間と気持ちを子供に注いだのか、などに関しては、全く情報がありません。従って、Primary Care Giverである母親が子供にとって安心して頼れる存在だったか、怖い存在だったか、理解してくれる存在だったか、それとも必要なときにそこに存在していたか否か、という基本的な情報がないのがイタイところです。明らかなのは、子供が「孤独」であったこと。家で開かれるパーティーとは、教授陣が集まる大人の集まりばかり。お友達も兄弟もいない彼は、ずっとペットを欲しがっていたそうです。しかし。大学の中にあるマンションでは、なかなかそれも叶わなかったとか。それと同時に、親御さんの無関心などの理由でペットを飼うことはずっと許されていませんでした。ところが。反抗期に入ったBill君。父親と母親がまだ離婚する前のこと。毎日のように「犬が欲しい。」と訴えます。親がその言葉を聞きたくないのを知った上で。クリスマス、なにが欲しい? と聞かれれば「犬」。誕生日、なにが欲しい? と聞かれれば「犬」。サンドウィッチになにはさむ? と聞かれれば「犬」。ってな感じで。親はあきれ果てたものの、時がたてばBillも飽きてそんなことを言わなくなるだろう、と思っていたようです。ところが。あまりにしつこいので、母親がとうとう「条件」と引き換えに、犬を買っても良いというアイディアを出したそうです。この時の父親の母親に対する軽蔑の目。同時に、かかわりたくない父親は聞く耳持たず、席を立っていってしまいます。Bill君の文章によると、「こんな『条件』ごときで僕が簡単に 変わると本気で思っているのであるとしたら、 世の中には親になってはいけない親が 沢山いて、家の母親はその一人である ということである。」と生意気っぽい発言をしたためています。母親がこの条件を出したことで一端安心していたのとは反対に、Bill君は今まで以上に激しく「犬ゲット計画」を家の中で展開していきます。朝から晩まで犬の話。親が話しの内容を逸らすと、Bill君が元の犬の話に戻す。「今そんな話していないよ。」と父親が言うと、「いいじゃん、これからすれば。」と言い返すとか。図書館に行って、2週間ごとに違う犬の本を何冊も借りてきては、家のあちこちに広げておくとか。だんだん疲れてきた母親。そこをあえて追い討ちをかけるように、Bill君、ありったけのお小遣いをはたいて、一番高い犬の首輪と鎖を買ってくるとか。『条件』のお話はあっという間にどこかへ去り、Billの言動は酷くなるばかり。父親が家に帰る時間も次第に遅くなり、「犬」の話をするときは一人で対応せずに済むディナータイムだけ、家族と一緒にすごすようになったとか。けれど、犬の話になると、父親は「本を書く仕事が残っているから」と席を立つ。母親は父親の立って行った席を恨めしそうに眺めながらも、次第に、この勝ち目のないゲームに一人で立ちあっていることに疲れてしまったのだそうです。結局、Bill君の言動が良くなる以前に犬を買ってくるように父親に頼んだ母親。父親もこれで、ようやくウルサイことから開放されるといった様子で。ただ。Bill君の父親の買ってきた犬は、Bill君が欲しがっていた種類とはまったく違い、ものすごく年老いていたとか。犬を触ったこともない父親。犬の種類の説明をお店の人から聞いてきたそのまんまの言葉で、息子に説明する父親。「名前は何?」と母親に言われ、首輪についている札をみたりしながら、会話が進まない父親。「何かつけましょうよ。あなたの最近の 本のタイトルとか。」しらけるBill。「彼になんて名前付けたい?Bill。」と母親が言った時、Billはすかさず「メスだよ、この犬。」とボソっと言う。しらけムードがやっと解けた安心感かそれとも親の会話に参加したことに喜んだか、父親がそこではじめて嬉しそうに「何だって?」と言ってから、「彼になんて名前をつけたい?」と言った、とか。どこまでも話が通じない親に対する嫌気がさしたBillはそこで「外に行ってくる」と言って、ドアを開けてバシーン!と閉める。その瞬間、年老いた犬は、その音にびっくりしてか、その瞬間に眠ってしまった。つまり死んでしまったのである。死んだばかりの犬でも死体を触りたくない父親は、その後庭に穴を掘って、シーツごと穴に犬を落として埋めたのだとか。こんなワンシーンでも、家族全員が一緒に何かをしたのは、これが最初で最後ではないか、というお話。さて。このBill君の言動が、年齢相応のものか否か。そして、この家族の何がどうなって、今のBill君の状況に至ったか、など、あらゆる場合を想定して、絞り込んでいかなくてはいけません、のです。はー。(つづく)
2006.12.03
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Bill君は、中学校の課外授業中、マリファナ所持で、学校から停学が言い渡され、それをきっかけに、母親の希望でセラピストに情報が送られてきました。Bill君のご両親は一年前に離婚。父親に女性が居たことが発覚して以来。このお父さんは、Bill君が若い頃からも酒飲みで、お母さんとのコミュニケーションもほとんどなかったといいます。今は母親と二人暮らし。父親も母親も大学教授で、それまで親子三人でずっと大学の中にあるマンションで暮らしていました。2年毎に引っ越しを繰り返していたそうです。共働きのやりくりについての情報はありません。一人っ子のBill君。この環境では周りにお友達も居なかった様子。近くに親戚が居るというわけでもなさそうです。同じグループの友人達と長続きはしないそうです。ただ先生などには反抗するこのごろ、付き合っているグループ仲間は学校から罰を食らう生徒ばかりだとか。青年になった今、ガールフレンドが出来たことが一度だけあったそうです。でも半年もつづかないまま別々になってしまったとか。その理由は不明です。Bill君が赤ん坊の頃。Bill君は両親が「計画して」産んだ子供で、「期待された子」だったようです。母体は健康であったものの、つわりもあり、また難産でもありました。14時間苦しんだあと、器具で取り出したとか。この時の酸素の状態や、へその緒の状態に関する情報はありません。生まれてきてからは、なかなか泣き止まない子でした。ミルクもうまく飲めず、寝つきも難しい子でした。一方でハイハイや歩く、話すレベルは普通の子と同じ速さだったそうです。Bill君は3歳頃、何度も中耳炎とヘルニアを繰り返し、たびたび入院しました。5歳のときは何かの理由で腕を骨折して入院しました。この頃の親御さんとの関わり方については不明。学校は度々欠席していたようです。それ以外は、健康児としてやってきました。カウンセリングは、過去に小学生のとき一度、また、両親が離婚してからプライベートのセラピストに6回だけ会った経験があります。ただ、Bill君はその都度セラピーに抵抗し、セラピストと「つながり」をもたなかったとか。母親いわくBill君は「頭の良い」子であったものの、授業に集中したり、課題を終わらせることがなかなかできず、成績はいまひとつ成果がでなかったとか。これが一時的なものではなく、昔から「常に」集中できない状態が続いたそうです。最近「自分のペット」に関する文章に関する宿題が出たものの、母親はBill君の先生に「彼はまだ提出していない」と言われたそうな。母親はBill君が、欲しがっていたペットを昔飼わせてもらえなかったことについて巧みな文章を最近書いていたことを知っていたので、なぜ提出しなかったのかと聞いたところ、Bill君曰く、先生が「どうせやってきてないだろう」と言ったから出さなかった、と言ったそうです。この時Bill君は先生を罵ってしまった為、学校から自宅謹慎を言い渡されました。セラピストに会いに行くように母親に促されたものの、Bill君は嫌がり、代わりにその文章をセラピストに見せるように母親に言いました。 ***これは、私の担当のケースではなく、あるクラスのファイナルセメスターの課題のひとつ。今週中に、ペーパーを書かなくてはいけません。(大丈夫かぃ?)この限られた情報から、可能な限り近い査定をしなくてはいけないらしい。勝手な主観的推測は許されず、もしこうであったら、こういう可能性がある、と言った形で、いくつも推定をすべし。という宿題なのであります。こんな...こんな限られた情報で本人を見ずにどう判断しろっていうんだい! (つづく)
2006.12.03
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12週目に今日から突入!と思った週末の今日。この日を待ち望んでいた私は、早速コートを着てスニーカーを履いて外へとウォーキングに出かけます。9週目の憂鬱を書いた頃はまだ、かわいいものでした。10週、11週、にはお店の匂いに耐えられなくて出てきてしまうトイレにかけこんでしまう、が多くなってました。運動不足もある。ぜぇーったいそうだ。そう勝手に思っている私。和の国のサイトや本では、最初の不安定期でも「無理しない程度」なら歩いたり軽い運動もよい、と書いてありました。むしろ、軽い運動は女性の色んな問題(生理痛やつわり)を解決してくれる、という心強いサイトまで。ただ、米の国の本もサイトは、流産して訴えられるのがこわいのかなんなのか、最初のトライメスター(3ヶ月)は絶対運動しては駄目!と書いてあるところが多いようです。婦人科の先生にも「最初のうちは絶対駄目!」と言われて凹みそうになっていた私。いまに、いまに体を動かしてやるぞー。アタシの子だ。体に無理がかかるかどうかは、やっている私が一番わかっている。とはいいつつも、ちょっとは気が引けていたので、「胎盤が出来る12週」までは仕方なし、待つことにしました。妊娠すると新陳代謝が落ちるって言うけど。ズボンが苦しい。これって、お腹が張ってきているんじゃなくて単にデブって来てる気がする。合うズボンが減ってきているのも、足の部分がキツイから!(爆)どうすんのよ、いまからこんなんで。そう思っていたこの頃。今朝は早速、嬉々として歩きに行きました。ゆっくりと。近くのゴルフ場へ。ステップを踏むごとに、頭の中のモヤモヤもスーッとしてきた気がします。うん。気分がいい。私が「お父さんの木」と呼んでいる、ゴルフ場の中の、背の高い痩せた木のところまで行きました。木を見上げながら報告。「お久しぶりです。お父さん。 Mリン、お腹に赤ちゃんいるんだぁ。」お日様が雲の間から漏れる、さわやかな景色。こんなに気持ちの良いこと、しないわけにいかない。子供にもいいような気がする。で。この日は、ムカムカは気のせいか少なかった感じがしました。同時に。昼寝も超爆睡してしまいました。
2006.12.02
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R君の心の中。この一部を垣間見たときは、私自身めまいがしそうでした。 ***この日は、「ママ抜き」の私とR君だけのセッションでした。色んな種類の人形とお家を持って、R君をお部屋から呼び出します。「きょうはMリン姉ちゃんと一緒に遊ぼうねぇ。」すでに私と何度か会ったR君。小さな体でおしゃべりしながら、セラピー室に入ってきました。おもちゃを見るなり、目をキラキラさせています。 ***前回のセッションのこと。大人の女性を拾い上げるR君。私:「これ誰?」R:「ママ」次に大人の男性を拾い上げるR君。私:「これ誰?」R:「僕」私:(え?)その後ガラガラとおもちゃを探りながら、犬と猫と赤ん坊を選び、ベッドにそれぞれ寝かせます。このように、前回は、R君、「これママと僕!」と言いながら、父親不在の家の中でホクホクと犬や赤ん坊と生活を繰り広げてくれたのでした。それを参加していたママが見たときは大喜び。憎い自分のパートナーを、わが子は「居ないも同然」として生きている。嬉しいわ!ってな感じで。しかし、このセラピーの場に、もしママが居なかったら、同じようにR君は「ママ&R」の生活を展開させたかな?だいたい、この「ママ&R」の夫婦的組み合わせは、親子の愛情?それとも?そう思った私は、次のセッションをR君とだけ行うことにしました。 ***今回のセッション。ママは居ません。私:「ママとパパの人形選んで!」パパ不在の今、あえてパパの人形を選んでもらいます。そのもうひとつ理由は、ママが「Rが実は私が奴(パートナー)に乱暴された時のことを Rの従兄弟にしゃべっていた。この子、見てたのかも。」という理由があります。実の父親が母親をレイプしている姿。こんな現実を目撃した3歳の子はどのように認識しているのでしょう?あまりにショックが大きいときは、たいていの子は黙り、しゃべろうとしないでしょう。ところが。私:「パパはいつもママとどんな風にしゃべってるの? 聞かせて。」と言ったその瞬間から、R君、説明してくれました。R:「パパがこうやって、ママのパンツを引きちぎって、 ママをバシバシ叩いてた。」(この時の私の心情、かなり重いです。)私:「で、ママはその時、どう思っていたのかな?」R:「...。」私:「R君、どんな気がしたの?」この子にはちょっと早すぎた質問でした。その瞬間から、R君は別の話をし始めました。R君の気持ちにプレッシャーをかけてしまったかと気になりつつ、気楽におもちゃで一人で遊ぶR君をしばらく眺めます。すると、今度はR君、「モンスター」の話をし始めました。私:「どんな時にでてくるの?そのモンスター。」R:「夜。」私:「どこに出てくるの?」R:「ベッド。」これは、子供によくあることです。ただ、Rちゃんの場合は違った。R:「僕、モンスターが怖い ...。」と、つぶやいたかと思ったら、次の瞬間から、その「お父さん」の形をした人形をバシバシと勢い良く机に叩きつけ始めました。R:「死ねっ!死ねー!」バシバシ、ガンガン!R:「...やっと死んだ。もうモンスター、死んだ。」そこに落ちているのはさっきまで父親、としていた人形です。(唖然とした私) 聞いてみることにしました。私:「これ、だれ?」R:「僕のパパ。」普通の顔をして言うR君。私:「いま、R君、どんな気持ち?」R:「結構、スッキリ!」そう言って、彼はニヤリと笑いました。 ***自分の親というのは、絶対的な味方の存在であって欲しい年頃。そして、暗闇を自然に怖がる3歳くらいの年頃の子供が、自分でそのモンスターを退治し、その相手が自分の親であるという事実。(私の頭では想像無理。)普通の子の場合だと、この恐怖は無意識に押し込められてしまうらしいのですが、この子の場合はわりと簡単に表面化されました。普段から見慣れているテレビのおかげでショックが少なかった?いやいや、そんな簡単なものではないはず。ただ、この子の場合、バイオレンスがテレビの世界だけではなく、自分を守る機能としてしまう危険性も。やはり「外側」だけではない、この子の場合、非常に深い内面的な問題がありました。うーん。これだけならよいけれど。父親がこの子にどう接したかも、いまだに未知の部分。3歳でセラピーに来なくてはいけないことに憂いはありますが、でも3歳の時点で来たことは、とりあえずはよかった。この子の心の負担を少しでも和らげることができれば、そして社会でスムーズに生きることができれば。そう願う私。セラピーは始まったばかりです。
2006.11.27
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R君のママが緊急で一人でセラピーに来ました。これはほんの一週間前。セラピーが開始から1ヶ月のこと。「息子が私の友人の家で、台所からナイフを持ち出して、 友人を刺そうとした。」その時のR君の顔は笑っていたそうです。その時まで、R君の将来を軽く見ていたママ。「デイケアに言われたから仕方なく息子をセラピーに連れてきている。」それくらいに考えていたママですが、この事件以来、ママも「しつけ」にはちょっとマジにならなくてはと思ったそうです。 ***というわけで、この子の「心の中身」についてお話する前に、まずは「外側」の、R君に対するママのしつけから書きます。R君のママが南米の家で育ったとき、父親によく叩かれた、という経験から、「自分の子供は叩かない」と心に決めたそうです。それと同時に、R君が欲しがるものはすべてやる。R君が泣いたら抱きしめてあげる。R君が嫌だということは全てやらない。という方針も立てたそうです。このように、自分自身の生い立ちと「まったく逆」の育て方をする親御さんは、ずいぶんおられるようです。(実は、私も最近までは、そういう考えでした。)ただ、度合いというものも大事かもしれない、というのを改めて学んで思いました。子供の行動にまったくリミットの設定しない、というのと暖かく育てる、というのはどうやら意味合いが違うようです。R君の場合を見てみると。夜はママやおじいちゃんおばあちゃんと一緒に映画やテレビを見て11時半頃に寝る。週末の遅いときは12時をまわるとか。テレビの内容は、アニメではなく、親とまったく同じだとか。MTVや映画。セックスシーンあり、乱闘シーンあり。乱暴な言動のモデルは、テレビにもありそうです。 ***自由が唄われているアメリカ。ここでも、大人に対するセラピーと子供に対するセラピーはずいぶんアプローチが違います。本人の意思、欲求、自由などが尊重されるのは、大人のセラピーの場合。モラルバランスや情緒コントロールが安定していない子供には、「自由」以前にもっと大事なことがありそうです。コンテインメント、という言葉があるように、子供はある程度のストラクチャーというか、守られた制限のようなものの中で生きる安心感というものもあるらしいです。それなしで育つ子供には、制限がない環境で生きることの無意識の不安、また抑えきれない自分の情緒をだれも抑えてくれない焦燥感、というものがあるようです。そして、社会の現実にぶつかった時の、自分の思惑通りに行かない怒りと無力感。ハードルは最初から高いほうが後がやりやすい、という考え方はアジアのものだけではなく、どこも同じようです。Holding Environmentという言葉があるように、母親の腕の中で、ある程度の守りと制限のなかで、暖かく育つ。それが理想の育ち方である、というのが今のところ私が理解している理論です。(でも、個人的に。 私がこれができるようになるには10年じゃ足りない、きっと。) ***R君のママは、R君の父親、つまりパートナーからずっと暴行を加えられ、つい最近パートナーは牢獄に入れられたそうです。「私は大丈夫。」というR君のママ。でも彼女の表情は平らで、声のトーンも平らです。体罰を与えないのは良いけれど、ひょっとして褒めることもしていないかも、このママ。「おいで。」「だめ。」という声のトーンはまったくもって平ら。(これも私、人のこと言えない。)ただでさえ、「悪いこと」ばかりしているR君。デイケアでも褒められる機会はほとんどなさそう。それでいて、おもちゃの片付けも何もかもママがしてしまうと、R君が褒められる機会もなし。何かしら別の理由で心に傷を負っているR君。とりあえず、毎日の生活の中で、「すごいねー!」「ありがとう!」「君と居ると楽しいな!」と言ってくれる人が居るか居ないかだけでも、R君の行動パターンは変わるかも。という、まずは「外側」の部分について書きました。そして、R君の心の中は。(つづく)
2006.11.27
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いままで書いていなかった、私が携わっている「セラピー」という専門分野について、これから少しずつ書いてみようかと思います。仕事している時は、お年寄りが専門でした。去年は、ハイスクールでインターンを受けました。そして今年は...なんと、私にとっても新しい対象、「子供」です。 ***R君は3歳になったばかりです。その3歳が、言動が激しく情緒が不安定いう理由で、デイケア先からクリニックに連絡がありました。その担当を引き受けた私。さっそくR君のいるデイケアのクラスに「見学」に行きます。どの子、と聞かなくてもすぐわかりました。先生のま隣に座らせられている、目を赤く腫らして指をくわえている子。でも次の瞬間。他の子が床に寝転がっているところへ行って、笑いながら何度もその寝ている子を蹴飛ばす。むかつくことがあると、ひどい言葉で相手を罵倒する。オムツを引きおろして、人にお尻を見せて馬鹿にしたりする。先生に向かって中指を立て、ラップ調に歌って踊って相手を挑発する。3歳なのに...。どこでおぼえたの?けれど、デイケアの先生に注意されると、泣く。泣いて泣いて泣き止まない。モノを投げる。かなり激しく暴れる。 ***男の子の年相応の騒ぎ方、というのを念頭に置いた上で、どの程度が健康優良児のイタズラで、どの程度がきかん坊でどのあたりから、情緒不安定となるのか、と境目をつけるのは難しいものです。あくまでもその子その子の成長度に沿って判断していかなくてはいけないというのは、プロが忘れてはいけない点の一つのようです。ところで。セラピーというものは、誰が受けても良いものであります。別に病状などの症状がなくても、自分を見つめることは誰がしても良いのだから。ただ、この子の場合のように。保育園などの教育機関がセラピーを「必要」する時というのは、1)社会的な機能が難しい、2)本人がつらそう、という理由がありましょうか。あくまでも「社会」が「基準」になっているので場所が変わればノーマルじゃない子もノーマルと判断される、その逆もしかり、という話は、極端ではあっても忘れてはいけない事実ではあります。で、2番目の「本人がつらいかどうか」というのは、本人が社会で生きていく上で、「他人に迷惑かどうか」よりも先に重要視する、というのは、ある意味でアメリカ的とも言えましょうか。(度合いによってはこれがいきなり逆転するのもアメリカらしいと言えましょう。) ***見た目にとらわれると、まず子供の生い立ちやしつけが気になってしまいます。しかしながら、この情緒不安定さ。本人R君は、どう感じているのでしょう?幼い子が、環境に関わらず激しい怒りや、不適切な笑いを示すということは、トラウマ的経験がある可能性もあります。小さなR君。君はどんな体験をしたの?(続く)
2006.11.27
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学校から、「生徒の作品募集」とのメールが来ました。なんでも、学校にお金を寄付した人々へのお礼に来年のカレンダーを送るとかで、それに載せる写真を募集しているのだとか。何の気なしに、私個人の写真サイトのURLをメールしてみました。これは、9月の最初の出来事。 ***今週、感謝祭の週末明け。今日はインターン先はまだお休み中の人も。私自身、休み中にろくに勉強もしなかったし、この日は早めにインターンを引き上げて学校で勉強することにしましょう。この学校は心理学のドクターしかいないとても小さな学校。建物も一階建てとこじんまりとしていて、図書館も食べるラウンジも、すべてこじんまりと収まってます。私がめったに学校に来ることのない月曜日。ラウンジや図書館に座っていたら、いろんな人が声をかけてくれました。よく見るけれど、普段は接点のない教授。見かけたことあるけれど話す機会のなかった教授。去年授業を取って以来、お久しぶりの教授。などが、親しげに近寄ってきてくれるじゃないの。どうかしましたか?というのが、私の最初の反応。先生たち。「あなたの撮った写真、ものすごく綺麗ね。」「君が写真家だったとは、知らなかったよ。」「学校に貢献してくれてありがとう。」「展示会とかもしているの?」教授だけに配られたらしいカレンダーの内容の話だった、ということを知らなかった私は、その話の内容を把握するのに、その度に一瞬「?」な顔をしていたようです。(ふぅーん。それにしても接点のない生徒の名前まで 覚えてくれているなんて、教授もすごいわ。 まぁ、日本人が他にいない、っていうのはあるのかな。 一方で、私、あのセンセーの名前、知らないぞ。)話の内容とぜんぜん関係ないことを考えている私。でも、その後、黒人の女性の教授が隣に座ってきたので、そのとき持っていたワイアレスのコンピュータで私のサイトの他の写真もを見てもらっちゃいました。Dr.A:「ふーん!いい感じ!これ撮ったの何時ごろ?」私:「もうかれこれ5年前です。学生になる前。 私が働いていて、しかも結婚していなかった頃。 もちろん、主人と知り合う前です。」教授、ニヤリと笑う。Dr.A:「お金と時間があったころ、か。」女同士しか判らないものがあるのよ、という含み笑いで意気投合するDr.Aと私。Dr.A:「でも、ずっと写真は撮り続けて欲しいな。」私: 「...そうですねー。 確かに今でも撮りたいショットをたまに見つることがあっても、 カメラを持っていないことが多くて。 でも大事なことを思い出させていただきました。」 ***日記も同じ。自分ひとりの時間にできる、自分の世界。連れ添う人が増えても、これだけは失いたくないな、そういうとっても基本的だけれど忘れていたことを思い出させてもらった気がしました。 ***翌日。事務員のMHさん。MH:「カレンダーできたのよ!知ってる? Mリンの写真の色、ちゃんと出てるわよ。 これから生徒のメールボックスに入れるの、 Mリンいくつ欲しい?」私: 「先生達から聞きました。あ、でも生徒ももらえるの?」MH:「もちろん。それにMリン、欲しい数だけ言って。 5つ?」ええ?そんなにもらってどうするの?それでも、数分後、メールボックスにカレンダーの束が入っていました。両方の祖母にでもおくってみるかな。しばらく電話してないし。NYの両親にも送ってみようか。結構、喜んでくれそう。また私の知らんところで自慢しまくってたりしそうだけど。 ***中を開いてみると。10月のページ。真っ赤な日本のもみじが地面を覆っている写真。その上の端に私の名前、そして「○○校生徒」と書いてある。2001年の自分の誕生日。仕事がバースデー休暇で、一人ニューハンプシャーに車飛ばして写真の旅に出かけたっけ?あんな一人の時間もなつかしい。そんなことを思った日でした。
2006.11.27
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いやはや。この人達の元気さには脱帽です。なんたって。誰が先に言ったの言わないの、と着いた途端大喧嘩!それも、これだけ大声でやりあっても、当のご本人達喧嘩しているつもりはサラサラないらしい。 ***で、隣近所のおばさんに挨拶に行った時。無理して知らない振りをしてくれるいいおばさん。その事実を知らないJが無邪気に「Mリンは妊娠してるんだよ。」と言った途端、持っていた新聞を手から落とすというお芝居まで繰り広げて、抱きついてくれました。(私が「おばさんはすでに知っている」という 事実を知らない、いたいけなおばさん。) ***さらに。子供はどこで生むんだ、NYの病院か。だの男か女か皆でかけよう。いや、ぜったい男だ。だの名前は何がいい。Mリンのお父さんの名前はどうだ。Mリンのお爺さんの名前はどうだ。だの(祖父の古い名前を子供に向かって呼び捨てに するなんて、私にはできない...。)Jの父の名前エイブ(Abe)は日本の首相と同じ名前だからいいかも知れない。だの(いや、日本の安部さん(Abe)はエイブじゃないし、 あれ、苗字ですってば。)だのだの。まぁ、ここまでは邪気のない感があっていい。次は、やれ、これはやっちゃいけない。つわりはもうすぐ終わると思うな、子供が生まれてからも数ヶ月続くだの、吐きそうになったら生姜の砂糖漬けをかじるのが宜しいだの日本で産んだら、子供がビザなしでアメリカに戻って来られなくなるから、アメリカの地で産めだのどこまで信じてよいのやら。(私、インターネットで調べてますってば。)まぁ、これも親切心かな。で、お次は学生は休むな、続けろだの子供をデイケアに預けるな。雇うなら個人を雇って家で面倒を見させろだの里帰りするなら、その後はNYにしばらく子供と滞在しろ。だの。ぶあぁぁぁー!4泊5日した後の車の中。Jと別々の車で来て、帰り一人車を飛ばす私はNYの日本食屋で買ったセンベイを端からかじりまくりながら、叫んでおりました。いやはや。それにしてもこんなに周りが盛り上がるとは。子供のパワーって偉大なんですね。知らなかったわ。
2006.11.23
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感謝祭の前の日。NYに行く前の電話で。J:「Mom, dad, 聞こえる?この電話、 Mリンの電話にもつながってるよ。」J母:「あぁ、Mリン?あなた達、何時になったら 来るの?もう、ずっと料理のしっぱなしで クタクタ。手伝いが欲しいわ。」私:「今病院が済んだのでこれから行きます。」J:「あのね。ニュースがあるんだ。 Mリン、実は妊娠しているんだよ!」 ***本当はもうしばらくずっと黙っていたかった。少なくとも、安定期に入るまで、もしくは自分たちがこの新しい現実をしっかりと受け止めて認識するまで。でも。東京の実家の母に助言された。母:「私の時は鶏肉や油が駄目だったのよ。 どうするの?ターキー作るお手伝いの時気分 悪くなっちゃったり、お料理が食べられなかったら? やっぱり言っておいた方があちらも納得なさるし 理解してくださるんじゃない?」...さすが母。ごもっとも。確かに、去年みたいに生の七面鳥の毛を指で抜く作業なんかさせられたら、ばい菌もらっちゃうかも知れないし、それに、ディナーの時席をはずして気分害されたりするのは良くないし。 ***J母J父:「最高のサンクスギビングのニュースだ!」J:「Mリンは今、強いにおいが駄目だから。」J母:「私もそうだったわ。あなた達4人産んだとき。」J父:「みんなに言いたい。」J母:「駄目よ。言いふらすのは一番楽しい部分なんだから、 Jが家に着くまで言っちゃ駄目!」J: 「そうだよ、僕が言いたいんだから、僕が言うまで 皆に言わないでよ。」そう。この家族は自慢話やニュースや噂話に非常にドッシリとバリューを置く人達なのであります。 ***一方で。すでに先月ハロウィンの頃。私の妊娠を悟ってしまったJのE姉。それも、彼女の家に呼ばれたとき、ワインを飲まなかった私を見て、悟ったらしい。そのE姉。Jが台所に行った時、あえてワインの入ったグラスをJに渡して「Mリンにあげて!」と言ったらしい。そこでたいてい、Jは私に「Mリン、ワイン飲む?どうする?」と聞くところを、まったく聞かずに「Mリンは今回は飲まないから。」と言ったので、JのE姉、「これは。」と思ったらしい。Jがトイレに行っている間、私に歩み寄るE姉。E姉:「うわさで聞いたんだけど...。 あ、言いたくなかったら言わなくていいのよ! でも、あなた妊娠してるらしいって噂、聞いたんだけど。」そこでとっさに「Jがばらしちゃったの?」と勘違いした私。嘘をつくわけにもいかないので、私:「え?ひょっとして...Jが?」そういう反応をしたら。E姉:「あー!あったったー!アタシのカン!」だって。はっ...はめられたー!トイレから出てくるJ。「えー?Mリン言っちゃったの?」お互い恨めしい顔をする私達。 ***言いふらしたくて仕方がないJのE姉。口止めしたところ、それを又「私だけが知っている秘密」にするのがうれしくて仕方ない様子。NYに向かう車の中で彼女に電話します。私:「あー、元気?」E姉:「ハイ!Mリン!気分はどう?何回吐いた? 何時頃来るの? 私、誰にも言ってないからね! 私も主人や息子にも!」私: 「...。」 (私、まだ何も言ってないのに。)E姉:「ママたちに言ったのね!電話の反応ですぐ わかったわ!私たちに『今は言えない!』って 言ってたけれど。 だから、私も知らないことになってるの!」私:「そう。ありがとう。」E姉:「でも、近所のおばさんたちには すでに言いふらしているわよ!」私:(え?それをなんで知らないはずのあなたも知ってるの?)E姉:「私や私のダーリンや息子には ママもまだ言わないようにしてるけど、 声が大きいから皆わかってるわよ。」私:「...。 あのー。それはともかく、 Jの希望で、両親に一番最初に知らせたかったらしい から、E姉さんが今まで知っていたこと、 言わないで欲しいんだって。 でもー、それって不自然にならない?どう? (↑懸念する私)。」E姉:「もちろん大丈夫よ!私は口が堅いから!」私:「...無理しないでいいけど、(←信用してない) ま、ありがと。」E姉:「もうすぐ来れるの!?楽しみ!早く来てね!じゃあね!」 ***で、NYに到着。J母J父:「良く来たね!運転なんかしちゃ駄目だよ!」J母:「荷物全部ちょうだい。あなたは運んじゃ駄目。」そう言って、J父に荷物を二階に運ばせるJ母。いい人達ではある。しかし。J母:「私たち、誰にも言っていないわよ。 あなた達が来るの待ってたから。」私:「...。」(近所のおばさん達は?みたいな。)J母:「でも、E姉はずっと前から知っていたんだってね。 さっき言ってたわ。 Mリンは自分だけに言ってくれたって。」だぁぁ...!やっぱし。そんなこったろーと思ってました。
2006.11.23
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一体ぜんたいどうなっているのだろう?私のお腹の中?前回の初めての検診では、触診のみ。心音を試したけれど、何も聞こえず。先生と会った後に取られた尿と血液の検査の結果はずっと知らされず。育っているの?人間らしい形に。で、サンクスギビングの前の日。NYのJの両親の家に発つ前。行ってきました。病院に。「もうすぐ11週目ね!」と言われて聞かされた心音。「トクトクトクトクトクトク...」居たんだ。生き物。この中に。「健康な音よ!」そうかぁ...。こんなわけで、やっと妊娠を認識できた私。それにも増して、いままで気づかなかった「つわり」というものが、日に日に増していくのでした。
2006.11.22
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妊娠初期からずっと、微熱とだるさが続いています。あるときから、8時ごろ「おやすみなさぁい♪」かなんかいって寝るようになりました。幾らでも眠れてしまうから怖い。勉強?はかどりませんよ、勿論。そんなもの。図書館に行くと寒い。カフェテリアに行くと匂いが...。などと我がままばかり言って場所を移動します。スタバに行ってもなんだかボーっとしてソファーにもたれかかって目をつぶって休むことしばしば。でも、それまでは吐き気はなかった。っていうか、後から考えると、自分で気づかずに居たような。新しいブランドのお米を買ってきて炊いた日、釜を空けたら、いつもよりトウモロコシのような匂いが強いようなした気がした。Jに向かって「このお米、今度からやめよう」なんて言って、お米のせいにしたりして。以前よりリンゴが好きになっていた。「あのお店のリンゴ、おいしいね。 今度から、あそこで買おう。」好き嫌いの変化も人のせいになっているし。つわりがある、とはっきり自覚したのは11月中旬頃の、9週目。ある日突然。家に帰ってきたら、部屋の匂いが我慢できなくて寒い中窓を開けて掃除をし始めた。地下室は窓がないので、外に通じる通路のドアを開放して掃除した。彼の帽子やコートの匂いが嫌で、クリーニングにいっきに出した。枕カバーやシーツの匂いがたまらなくて、しょっちゅう洗濯した。普段、A型でありながらも、超アバウトなアタシ。手抜きな家事しかして来なかったくせに、こんなこと書いたら、よっぽどいつも「お部屋がきれい」な人みたいで、ケッ、なに言ってんだ、と自分でも思ひつつ。で。う。もうすぐJが出張から帰ってくる。という時期があった。感謝祭前のこの頃。...ひょっとして、「Jがイヤ!」になっている気がする。朝シャワーを浴びるタイプの彼。夜、そんなんで、アタシのベッドに入ってこないでよ!クサイわね、あっちいってよ!なんてやったら、毎日喧嘩しそう。...という懸念もあったけれど、帰ってきた時ちゃんと話したら話は案外スムーズに通じました。それにしても好き嫌いもハッキリするようになる?「レモネードならいい!」「リンゴは酸味と歯ごたえのあるのが好き!」「あの本の内容がイヤ!」「あそこで勉強するのは暗いからイヤ!」「この部屋くさいからイヤ!」んなフザけたことを、恥も罪悪感も感じないでほざいている今日この頃です。
2006.11.20
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母にもしばらくは言わないで置こうと思っていた。父が亡くなって一年少し。これから母に孫ができるかもしれないという思想は、一度始まると止めるのが難しいような気がする。6月に知らず間に切迫流産をしていた私。まだ落ち着くまでは、だまっておこう。そう思ったものの。母:「来年私のお友達がボストンに一緒に 行こうって言うのよ。だいたい五月くらい。 あなた授業が終わるの何日頃だったかしら? チケットを早めに取ったほうが良いわねって 言っているの。」私: 「あー。そう。」母: 「何か、都合悪い?予定でもあるの?」私: 「いやぁ、うん。っていうか。」 6月に予定の出産。里帰りするなら4月か。などと一人で調べつつ黙認していた私は、詰まってしまった。母: 「まぁ、あなたの予定がいろいろあるんだろうから。」 ***この時、奥歯にモノが挟まったような話し方をしていたために、母や悟ったのでしょう。別の日の電話で、正面から聞かれました。「あなた、私に言っていないことない?」「え?」「体のこと、何かある?」...。この時、流産の危険性があるから安定するまで待っていようと思った、ということと、12月に日本に帰るから、そのときにお知らせしようと思っていた、ということを告げました。そうしたら。「あなたの心積もりを覆すつもりはなかったんだけど。」「私の気持ちのことなんかを懸念してもらうより なんでも言ってもらったほうが嬉しい。」と言われました。いやー。参った。母にはやっぱり隠しきれない。
2006.11.17
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長年付き合う友人が、誕生日プレゼントとして、マタニティの本を郵送してくれた。ひとつ年上の彼女には小学生になった娘さんがいる。ずっと「先輩」だった、ねぇさん。妊娠のことを告げたのも母より先に彼女。それにしても、心配りがうれしい。それに、この本の内容の行き届いていること!写真つき、挿絵つき!聞きたい質問の答えすべてが書いてある感じ。姉御ぉ!感謝だぁ!それが贈られてきてからというもの、私は毎晩気分が悪いのを理由にベッドに寝転がり、勉強をするかわりにそれを読みふけっている。アメリカンのJの家族にも自慢。どうだ、すごいだしょう、和の国の本。さすがだしょう!この行き届き方。私が自慢してどうする。でも、この本のおかげで、すべての「新しい」出来事に対して不安がずいぶん解消されて、毎日近い将来にポジティブに考えられるようになった私です。あーりーがとぉ~!ねぇさん!
2006.11.15
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