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2006年11月29日
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カテゴリ: ひとりごと
さて皆さんが使う「常識」とは、一体どのような事柄の事なのだろうか?
似たような言葉に「一般的」「一般論」「普通は」など色々とあると思うが、これは果たして多数決で決まるものだろうか?
そんな疑問を持つと解決策がみあたらないので厄介である。

Googleで「常識とは」と検索しただけでも168,000件のヒット数である。
いくつかのサイトを拝見しただけでも、「常識=普遍的」と解釈している人と「常識=時代によって変わる」と解釈している人がいる。
確かに「人を殺す事=悪」は「普遍的」であるかもしれない。
しかし、そんな事さえ「戦時中」は違ったのである。
敵国の国民を拷問にかけた上殺害してしまったり、現場では「普通に」殺人が行われていたのである。
と言う事は「常識は=時代によって変わる」もまんざら間違いではない。

敵は殺しても、身内を殺す事はしない。
そもそも、「家族を守る為に戦う」のだと思い込んでいた若者が大半ではなかったろうかと想像する。
戦い敵を倒す(殺す)事の前提は「家族・身内を守る(生かす)」事であったのである。
言葉では「愛国心」「お国のため」などと言っていたらしいが、心の中では「自分が守りたい人の為」に戦ったのだろう。
そうなると「人を殺す事=悪」の精神は持ちつつも、自分や家族・恋人を守る為に相手(人)を倒す(殺す)事を選択する状況下に置かれた場合の「人を殺す」は自分から見れば「善」と捉えられそうである。
いや、広い視野に立ち、その殺された人も家族や恋人などの守るべき「人」の為にこちらを倒そう(殺そうと)として来たと理解すると、その相手も「善」の為に戦っているのであって、「善」VS「善」が戦っている事にはならないか?
敵同士が「人を殺す=悪」を背をいながら「生命を守る=善」の為に戦っていたのだと思うと悲しさを隠しえない。

人間は事あるごとに対立してしまう生き物なのですね。
「生命を守る」「よりよい(欲)生活を送りたい」「自我を認めてもらいたい」など、その理由はさまざまではあるが、戦いなくしては「人間」は先に進めない生き物らしい。

話を「常識とは」に戻します。
「人を殺す=悪」は、現代の日本に置いて「常識である」で間違いは無い。

それでは「生命を守る」為には何をしても良いのか?
と聞かれると困った問題も発生してしまう。
例えば医療現場での問題である。
生命を守る為に行う医療が過度になり過ぎ、生命力ではなく機械技術力にて生命が維持される事に対する問題である。
「生命を守る=善」を限度無く肯定してしまうと脳だけが生身の機械人間が生まれてきそうである。

ここまで追い込まれると、いったい常識とはいったい何様なんだと怒りたくもなる。

民主主義とは極論的には多数決ではあるけれど、100:0でもない限り多数が勝ち取った事で「善」となった事柄でも少数の「悪」である、若しくはもっと最良な方法があるはずと考えた民意があった事実は変わらなし、少しでもその少数の民意を汲み取る努力をしなければ、健全な民主主義とは言えない気もする。
だからこそ、いろいろな「法律」でも例外規定があるのである。
しかるに、それらはあくまでも例外であって主流ではない。
先記の「人を殺す」の話での戦時中などは、その例外にあたるのでないのだろうか。
そもそも「例外」であるので、法律が変わらない限り、例えその数が増えても「例外」である。
例外を主流にする為には、数の論理だけでは不可能なのである。
また、例外を主張する事自体、自ら例外を認めた事であり、主流ではない事を宣言しているのと同じである。

「例外」は「常識」の中にも隠れている。
いくらバリアフリーだ福祉の社会だと声高に叫んでみても、街中を見渡せば「健常者の常識」で溢れている。
点字ブロックの上に平気で自転車が駐輪されている駅前。
車椅子マークのついている駐車スペースに平気で駐車するドライバー。
まるで「障害を持った人間」は例外だ!とも言わんばかりの光景があちらこちらに見受けられる。
これらは、健常者から見ても「非常識」であるが、現実にその「非常識」がまかり通っているのである。
以前、偶然ですが知り合いが、その放置自転車の列に止めようとしていたので、やんわりと駐輪場への案内をしたことがある。
「お金がかかるからねぇ~」「場所もも離れているし・・・」と言いながらも移動してくれた。
しかし、ウルサイヤツだと思われたことだろう。

逆に、自身が障害を持っているいる事を声高にふれまわり、周囲の気持ちを引き付け「楽に」生活をしようとする人もいるのも困ったものである。
多くの健常者がそうであるように、譲り合い・認め合う事でストレスの少ない生活を営もうとしているのに、「自分が悪いわけではない」との意識が強く働いてしまっているのか、強烈に自己をアピールしている人もいる。
先日、駅前で見かけたのは、電動車椅子のご老人が、点字ブロックの上に駐輪されていた自転車をことごとく倒していく光景であった。
見かねた駅員がご老人を止めたのですが、ご老人は「ここに止めてある自転車がいけないんだよ。私はただ歩道を通行しているだけだよ。」と大きな声で話していた。
内容はごもっともである。
そもそも駐輪してはいけない場所に止めた自転車の持ち主がいけない。
中には極まれに、どうしてもそこに止めなければならない理由をもった人がいるのかもしれないが、その人は駐輪のルールからすれば「例外」であって主流ではない。
しかし、困った事にこの放置自転車と言うものも他人のものであり、みだりに毀損を与えてはいけないのである。
「あそこまでやらなくても良いのにねぇ~」っと周りにいたご婦人達が話していた。
そうである、例え道理であっても「やりすぎ」は非難されるのである。
私はと言えば、そのご老人や目の不自由な方からすれば、自転車を点字ブロック上に止める事は「暴力」と同じな事なのだと考えながら、倒された自転車を点字ブロックを避けて止めなおす事のお手伝い位しか出来ませんでしたが。

そもそも、日本の文化の一つであると言われている「あいまい」さ。
デジタル処理社会の中で、この曖昧さが表現しにくい時代になっている。
一時期流行った言葉で「ファジー」と言うのがある。
電化製品なんかは、こぞってこの「ファジー制御」なる「あいまい制御」を謳い文句に新製品を発売したものだ。
しかし、現在の家電売り場で「ファジー制御」なる文言を見る機会はほとんど無い。
それは、ファジー制御が当たり前になったからであるのか、流行が終ったからであるのかは私には判らないが、パソコンやインターネットが子供の社会ですら当たり前になった現在は、本来の日本人の「あいまいさ」すらデジタルの 「Yes or No」 で制御される時代になったのかも知れない。

脱線話が多くなってしまいましたが、通常の生活の中で、私自身この「常識」と言う言葉の意味を深く噛み締めないままに使用している現状です。
最初にも書きましたが、「常識とは」・・・の回答が得られぬまま時間は過ぎていきます。
「深く突っ込まずに、あくまでも辞書的に理解しておけば・・・・」っとの声が聞こえてきそうですね。

この様なサイトが参考になります。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%be%ef%bc%b1?kid=24601#seeall





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最終更新日  2006年11月29日 12時38分49秒
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Re:常識の土壺にはまる  
^_^ さん
はじめまして
興味深く拝見させてもらいました
自分の考え述べさせてもらいますけど常識は変わるのではなく進化していってるんではないかと思う
常識を守りながらその常識に新しい常識を上積みする、それが始めは常識破りであってそのうち人に浸透し常識になり変わる
その証拠に家族や自分の命を守るために戦うのが普通だった戦時中の常識の名残が今の正当防衛として残ってたりするんだと思います
常識を理解せず守らないまま自分だけの常識をもてばそれは非常識なだけで人には浸透しない
これが自分の考えですがどうでしょ
文章下手で分かりにくいでしょう
ごめんなさい (2006年12月02日 06時44分50秒)

Re[1]:常識の土壺にはまる(11/29)  
^_^さん
はじめまして。
進化ですか。
そのような考え方もありですね。
「現在は常に進化の過程である」
どこかの哲学者の方が言いそうな言葉ですが、以前、私が何かの取材の時にたどり着いた結論です。
かなり前の話ですが、その当時、悩みぬいた事を思い出させて頂きました。

やはり、常識と非常識の境を見極める事は、難しいことではないのでしょうか。
「常識に疑問を持つことを良識と言う」これは、哲学者の方の言葉です。
常識が変化(進化)すると言う事は、すなわち「非常識」も変化(進化?)すると言う事になると思われ、事柄によっては、非常識が常識へと変化(進化)する場面も現れるのでしょうかね・・・・。

やはり、土壷にはまっているようです(笑)

(2006年12月03日 00時06分28秒)

Re:常識の土壺にはまる  
^_^ さん
おはようございます
常識を深く考え出すと頭が痛くなりますね(笑)
はい、常識と非常識の間は曖昧ですねえ
[常識に疑問をもつ事を良識と言う]
ホントそうです、疑問がある常識をどう変化(進化)させるか考えるのは良識だと自分も思います
非常識は進化じゃなくて変化するならエスカレートしていくだけかも(笑)
非常識って事は他人の迷惑度が高い場合に使われやすいから常識に変化(進化)はないかもです(汗
10代の人達には非常識な常識?が多そうだけど大人になるにつれて非常識はだいたい淘汰されて少なくなると思うんですよね
結局グレーゾーンにある常識は非常識とも言えなくて白黒(最低限のルール)はっきりしているところだけ常識非常識を分けられるのかもですね
あ~頭に浮かんできた言葉そのまま書いてたらまたわけのわからない乱文なっちゃいました
ごめんなさい (2006年12月03日 07時48分55秒)

Re[1]:常識の土壺にはまる(11/29)  
^_^さん
こんにちは。
>あ~頭に浮かんできた言葉そのまま書いてたらまたわけのわからない乱文なっちゃいました
その作業は重要なことですよ。
頭の中だけですべてを完結させるのは至難の業です。
今ではすっかりキーボードに変わってしまいましたが、書きとめる事は物事を整理し思考を更に働かせるためにも必要な事だと思います。
私なんか、一つの記事を完成させるまでに幾つの文章を書き連ねることか・・・。

非常識のエスカレートの件、「なるほど」と思わされましたよ。
非常識が常識に変化することは、まれなことかも知れませんね。
その変化の度合いが激しいので、際立って見えてしまうのかも知れませんね。
天動説と地動説などは、その際たるものですもんね。
(2006年12月03日 11時50分35秒)

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