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昨年10月の更新以来です。12月に内定をいただき、今年2月に再就職しました。1月末に引越しました。鹿児島市を離れ、薩摩川内市へ。奇跡的に1月末にマンションが売却できて、無駄なく引っ越しとなりました。新天地での生活も4ヶ月目。新しい仕事も無我夢中でやりながら、ようやく慣れてきたところです。毎日楽しいです。あるときから突然流れが変わったのを感じました。そういうことを少しずつ書いていこうと思います。自分自身のために。連休関係なしの生活です。それでも楽しいです。失業者になってみて、仕事があるということの素晴らしさを知りました。ひとりになって、家族の有り難さも知りましたが。それでも楽しいです。今日は休みで、入来町に出かけました。君が代発祥の神社、大宮神社に行ってみました。この辺の地名は入来町日の丸です。すごいでしょ?(笑)そのあと、武家屋敷にも行きました。薩摩川内は、地方の良さで自然に恵まれ、その分、パワー(波動)スポットも多いです。そっちでも楽しめそうです。今日はひさしぶりに氣(波動)全開で楽しみました。ワンドを持ってくればよかったと思いましたが、リハビリにはちょうど良かったかも。画像などはまた。
2013年05月09日
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自宅を売却することとなり、初めて内覧を迎えた。仲介業者とは何度か会っており、信頼関係も構築し、会うたびにいろんな話をしてきた。午前中に迎えた初めての客は、お母さんと小学生ぐらいの兄妹だった。子供は無邪気で正直だから、自分たちの新しい家?と思っているようだった。「とてもいいところだ」という感じで反応してるので、なんか嬉しくなった。手放す側としては気持ち良く迎えているわけじゃないが、「ここはいいね」と評価をいただくと、世話になった我が家なんで自分がほめられたようだ。気分良く接してお帰りになった後、業者が言った。「抹茶さん、不動産もいけますよ。」実は午後も内覧があったので、早めに来た彼に聞いた。「午前中の発言ですけど・・・」と尋ね始めると、怪訝そうな彼。私は元の会社に営業で入社し、東京支社を経由したが、3年で別部門へ移動した。その後も営業時代の先輩の引きがあったりしたが、全てつぶされたようだ。別に私は営業をしたかったわけでもないし、不満はなかったが。要するに私は会社からは「営業不適格」と烙印を押されていたのだ。まぁ、自分でも向いてるとは思っていなかった。現在失業中なのでハローワークにも行く。求職活動をしないと失業保険も給付されないから。待機期間というやつで、退職後3カ月以上経過しているが、まだ支給開始されていない。受給した方が得というアドバイスもあり、無職のままであったし、ぎりぎりまで受給予定。しかし、求職活動はしたことはした。営業に向いてないと思っていたし、元の会社でもそんな評価だったので、求職活動もバリバリ営業とか、ましてや接客業は無意識に避けていたように思う。話を戻すと、業者の彼に自分の略歴を語ったら、逆に意外だったようだ。「営業経験をたっぷり積んだ人かと思っていました。」と。であればさらに聞かねばならん。「ほんとにそう思います?なんで?」と言い、会社の評価や自分で思うことを述べた。そして「あなたの評価?がそうなら、私は変ったということになるし、可能性を制限していては損だと思うのだ」と語ったら、真面目に答えてくれた。評価は面映ゆかったが、実は私にはひとつ仮説があったのだ。家族を失い、会社も辞め、すっかり環境が激変した私は・・・人と会うこと、人と話をすること、に喜びを感じている!ということに気がついた。彼の評価がまさにそうだった。過去の私?は、とっつきにくいが親しくなると面白い、とかそんな感じだった。営業的な場面でも、相手によって、気分によって違う?みたいなところもあった。しかし、多分今は違うのだと思う。「今の抹茶さんなら営業やれますよ。不動産業界でもじゅうぶんいけます。」「それに私があなたにお世辞を言うメリットはありませんよ。(笑)」ということで有り難く評価はそのままいただき、自らの可能性を感じることとした。仕事を探すのは難しい状況だ。鹿児島に限ったことでもないと思うが、厳しい方かも。しかも私は年齢的にも歳くってるし、経歴も特殊で生かせるキャリアもなく。資格もない。相当厳しいと思う。とはいえ働かないわけにはいかない。だから「どんな仕事でもやる」と思わないといけないだろう。それでも本気で探していなかったなとわかった。でも逆に今日のことで「自らの可能性はひろがっている」という意味で「どんな仕事もやる」と思えた。同じことでも種が違えば咲く花は違うのではないかと思う。いろいろあってスイッチ入った感じはあったのだが、動き始めると何かが起きるものだと改めて思う。今は積極的に動いてみるときなのかもしれない。少し前まで半年前の自分と今の自分は、社会的立場の違いは天地の開きがあっても、まったく同じ人間だ、という認識だった。身体が締まったことだけが違うんだとか。(苦笑)しかし、そうじゃないことを知った。理由はさびしいことにあろうが、面白いと思えた。
2012年10月20日
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随分前に友人に誘われていたのですが、環境が変わってようやく入門となりました。自顕流・・・野太刀のほうです。下級武士はこっちなので、幕末の薩摩の剣はこっちです。東郷家の示現流はいわゆる御家流なのですね。蜻蛉と呼ばれる構えから、猿叫と呼ばれる気合いとともに大地を叩き割るぐらいに振り下ろすというイメージは、野太刀のほうなんだろうと思います。初日は、足さばきを教わり、ひたすらやってました。稽古を観ましたが、これができないと話にならないのはわかりました。来週は蜻蛉を教わるかもしれませんが、木刀が・・・丸太のようなもんで・・・振れるのかい?と自分でも思います。(苦笑)この足さばき、いわゆるスプリットスクワットみたいなもんですので・・・休み休みでも2時間やりましたら、大腿が悲鳴。スポーツクラブで多少鍛えたところで、野太刀には通用しませんわ。私の友人はもう7年だとかで、結構なもんでした。しかし道場主は若いのですが30年選手(幼少時からずっとやってる)なんでさすがに素晴らしいと感じました。一撃必殺な感じがしました。ちゃんと横木を打つまでは続けたいと思います。ってかそうなると辞められないとは思いますが。そういえば、その友人に電話しようとして、スマホを誤操作したらしくマオジェニーさんに電話してたようです。日記では面白い出来事を記しておられました。稽古が終って、電話したのですが、これは偶然ではないと観じました。メールしたら弾かれましたが、また電話するなりしてみたいと思います。どうもコンタクトすることを私の本質が望んでいるのではないかと。今日は超回復日としますが、明日からスクワットしながら次に備えたいと思います。
2012年09月09日
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大河ドラマ「平清盛」は低視聴率で苦しんでいるようですが、あたしは視聴してます。http://www.youtube.com/watch?v=MzXjTDanPVo&feature=related「梁塵秘抄」の 遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ が劇中歌で効果的に使われています。いろんな解釈があるようですが、そのまんま詠むのがよろしいような。後白河上皇って、天才だったんでしょうね。清盛ぐらいでやっと対等にやれたと。のちに源義経なんか利用されて身を滅ぼすわけで。源頼朝ぐらいの苦労人でないと相手にならん感じです。何のために生まれてきたか?にこれほどシンプルに、かつあの時代に回答してるのが凄いと思います。それも哲学とかではなく、歌に詠みこんでるのがすごいなと。自分の人生の劇中歌にしようと思っているところです。
2012年08月20日
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最小限主義者・・・なんだそうな。「断捨離」あたりから、整理整頓を通じて、不要なものを捨て、執着から離れるという思考が注目されてきた。昔はシンプルライフとか言っていたが、そんな流れで今はミニマリズムと言うらしい。セドナメソッドなんか、「手放す」ということを徹底するという意味では、頭(心)の中のミニマリズムと言えるのだろうか。英語を使った説明で、今の自分にはしっくりくるのがあった。「have」「do」「be」「have」何を持っているかそういう意味では、今の私は、ほとんど何も持ってない。これが『その人の価値』ならば、私は完全に屑だ。(苦笑)「do」何をするか過去形、過去完了形のこれについては全否定されているのが今の自分。ゆえに、今何をしようと言おうと、まったく相手にされないのが現状。場合によっては過去を引きずって、今していることまでとやかく言われたり。これが『その人の価値』ならば、やっぱり私は完全に屑だなぁ。(苦笑)「be」日本語に訳しにくい・・・私は思っていた。別れた妻に対し「君が一緒にいてくれるだけで僕は幸せだ」と。今私は思う。「一緒に居なくても、君がどこかで笑っていると思えば幸せだ」と。そんな風に自分のことを眺めることができるかには自信はないけど・・・これが『その人の価値』ならば、私は少なくとも屑ではない。ミニマリストになりたいわけでもないが、ものなどの価値を自分の価値と勘違いしていたり(haveの世界)本来どうにでもなる価値判断に頼っていたり(doの世界)という意味では、余計なものがすっかりなくなった今、大きなチャンスと言えるのかも。たったひとつの「愉快」を望む、という意味では、ミニマリストもいいなと思える。とはいえ「do」の世界は、きちんと構築したいとは思いますけどね。その前に、まずは「be」の世界に幸福を感じられる自分でありたいです。
2012年08月13日
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スポーツクラブのおかげで生活が一変した7月でした。そろそろ書こうかと思っていたときに、ちょっとひと悶着あって・・・詳細は、こんな場末のブログでも一応書かずにおきますけど。いえ、スポーツクラブともめたのではないです。それでも書いておきたいことがあって書きます。スタジオレッスンをいろいろ試すうちに、生涯初のヨガに挑戦したのです。これがまた、何とも自分にしっくりくるわけです。ほんと瞑想です。すると、終了後にインストラクターがまっすぐ来て、「経験者でしょ?」から始まって、ほめること。(笑)「いえ、生涯初です。とても気持ち良かったです。」と言えば、もう・・・「えっ!?」から始まって、褒め殺し。(爆笑)「はじめて」の会員にはこうなのかなと思ってました。しかし「ヨガ」とつくレッスンに全部参加して、インストラクターは全部違うのに・・・デジャブなんですよ。「はじめて」も一人じゃないので、男性が少ないからかな?と思ってました。ヨガと名のつくレッスンの最後にラスボスというか、もっともベテラン、大御所な感じのインストラクターのパワーヨガに参加。さすが大御所、同じようにほめるのですが、ツボが違う。(笑)最後の最後に「プラナが素人じゃない」ときた。(爆笑)そりゃ、さすがのあたしもその気になりますわ。太極拳で絶賛された時は、「かれこれ9年になります」で終了でしたけど、エアロ系、ダンス系では、ほめられはしなかったもんなぁ。「参加してくれてありがとう。ぜひ続けてくださいね。」だけでしたから。(苦笑)本人も、やればやるほどヨガが好きになってきまして、ついにDVD買いました。家でもマットしいてやってます。氣や波動とか言いつつ、いろいろ手を出し、神秘行も師匠のところでやりましたが、「どうしてヨガとは縁がなかったかなぁ」と思ってます。それぐらい、自分にはしっくりきます。年齢重ねてもできますし、ずっと続けられそうなので、真面目にやってみようと思ってます。もっと早く出会ってたら人生違ったかも・・・と思いつつ今からで十分だと思えます。いろんなことが片付いたら、インドにでも行きますかね。(爆笑)まぁ、鹿児島に帰ってきたこと自体、ある種のカルマならば、今の自分は出ていくのもいいかなと思えています。ちょっと前には考えたこともなかったですが。ヨガと出会ってからは、完全に海外もイメージできますし。具体性はなにもないけど、あたしにとってはすごい変化です。しばらくは三昧してみます。
2012年08月06日
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前回の更新から1カ月以上経過してますね。(^^;退職後のことで言うと、離職票が届きハローワークへ。説明会が20日で、第一回失業認定が8月6日と決定。説明会まで消化しました。離婚関係は、年金分割の手続きを終了。サラリーマン生活で支給される厚生年金は、半分は妻のものだと自分も思いますので気持ちよく手続きできました。前回の日記に書きましたが、スポーツクラブに入会し、通い始めました。無職になりましたが、逆に出勤するかわりに行く場所ができた?という感じ。前半は毎日ぐったりしてました。しかし、後半になると、筋力も体力もついたようで、疲れなくなりました。ようやく卒煙して、息が切れないという実感もあり手ごたえ感じました。後半はそういう意味で余裕もできたので、図書館通いもできるようになりました。肉体改造は、体重は1キロ減量してるか?程度ですが、サイズダウンはしました。筋肉量が増えているならば、基礎代謝が上がってきてるはずなので、8月は減量するかもしれません。(食事との兼ね合いもある)勝負の月と言うほど気合の入った1カ月を過ごせたとは思いませんが、実に無難に順調に1カ月過ごせたかなと思います。楽しいとは言いませんが、快適ではありました。後半になって、退職した会社からスポーツクラブ入会を批判する声がありました。正直、かなりがっかりしましたけど、元・妻も「そういう感情もわからんでもない」と堪えるように言うので、飲み込むことにしました。円満退社でもないので、鹿児島で暮らしていると覚悟しないといかんのでしょう。腹も立ちましたが、自分の中で非常に整理されたので、逆に感謝しています。人生は決断と選択の連続であると思います。いちいち決断してない、選択している意識もない、ことがほとんどですが。私の人生における大きな決断と選択は、学生生活を過ごした東京から鹿児島へ帰って就職することそして結果的に先月退職した会社への就職その会社で出会った妻との結婚(たまたま同級生でしたので別の縁もありましたが)だと思います。それが退職、離婚という結果になりました。会社は28年、結婚は26年で結果が出たと言いますか・・・ある意味、ここへきて人生を全否定された感じです。(苦笑)選択の連続、失敗したら「選び直せばよい」と申しますが、実際そうなってみると、そんな簡単なもんでもないなと実感。とはいえ、「しがらみがない」という意味での小さな?『自由』はいろんなものを失った結果得た唯一のものではないかと思います。そんな小さな自由であっても、得てみれば意外と困惑するものです。体験に勝るものはないなと痛感している2012年7月末です。私はどうしたいのか、自分でもわからん・・・というのが、実感です。(苦笑)それも含めて味わい尽くし、楽しむ8月としたいです。
2012年07月31日
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の前に、昨日の余韻。久々のフィットネスクラブは、やはり睡眠薬だった。かなりぐっすりと長時間の睡眠をとった。(とれた)起きると、全身あちこち軽く悲鳴。心地よい疲労感がまだあるわけだ。とはいえ、あの程度でここまで、というのもどうかと思う。年齢とこれまでの生活習慣を考えると仕方ないし、焦りもしないが時間をかけて鍛え上げていこうと想った。どんな仕事にでも就ける体力と肉体を持つのが目標なのである。副産物として本人も納得する肉体改造。かなり計算などして入会金ゼロ円の今月中に入会することにした。最低半年継続するつもり。ほぼ毎日通います。示現流は土曜の夕方とのことだったので問題ない。自宅でできる鍛錬もきっちりやります。その上で資格取得を目指して勉強を始めます。図書館通いをする予定です。本日は、そういう構想・計画を練る一日であった。さて儀式?であるが・・・25日に退職し、夜は(旧)家族3人で食事をした。これまで食ったことない予算で中華を食べた。生涯で一番うまかった。もちろん私の退職の記念である。このときに二人に渡そうとネームスタンプを発注したが、妻の旧姓は珍しく間に合わなかった。本日、出来上がり渡しに行った。儀式?と言っているのは同じ姓を名乗っていた三人人のうち私を除く二人(私の戸籍に入っていた二人)すなわち現在、(元)妻の旧姓を名乗っている二人に対し、私がその新しい姓のネームスタンプ(印鑑)を贈呈するこのことは結構「決別」の儀式と言えるのではないかと待っている間に想ったのだ。アイディアは、「暮らしで必要だけど、きっと買ってないだろうもの」で純粋に思いついたのだが。先ほど、妙に改まって渡してきた。二人が家を出て1カ月。ようやく最後の晩餐も儀式も済んだってとこか。人間関係、絆は切れないが、私が天涯孤独の素浪人であることは間違いない。7月はいろんな意味で勝負、再起へのスタートダッシュだから。とはいえ、孤独な素浪人生活も楽しまなきゃと思ってはおります。愉快を生きる、これは私が決めたことなので。
2012年06月28日
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鹿児島地方は大雨。本日は別居した息子と久しぶりにフィットネスクラブへ行こうかと言っていた。退職時に「身体を鍛えたいから」と法人会員のチケットをもらっていたのだ。ここは6年前、息子が浪人した時に連れて行った。その頃、息子は普段は鹿児島アリーナのトレーニング室に通っていたが、フィットネスクラブの良いところはプールもあることだ。たまのフィットネスクラブを彼は喜んでいた。ということで私も彼も5年ぶりだ。大雨だったので逆に良かった。家に居てもすることないし、外出する気にもならないから。身体を鍛えるのは実に有意義な時間だった。6年前、彼が身体を鍛えたのは師匠に「体育がないのは成長期だし、何か考えないと」とアドバイスをもらったことで、私が誘因したのである。しかし、彼はものすごく身体を鍛えることに没頭した。のちに彼はこう言った。「肉体疲労が一番の睡眠薬だった・・・」孤独感、不安や恐怖、いろんな気持ちで眠れない夜をいくつも数えていた彼が思いっきり身体を虐めることで、ぐっすり眠れたのである。副産物として彼はとってもいい身体と結構な筋力を手に入れて高校に入学した。今、無職、いわば浪人となった父は、その頃の彼をトレースしようとしている。昨日触れたが>来年の今頃、自分はどうしているだろうということで言えば、そりゃ何もわからんさ、ということなんだけど実にわかりやすい変化、ある意味「生まれ変わり」として『肉体改造』がある。少なくとも来年の今頃、自分はこんな感じになってるとイメージもできよう。努力し続ければ、だけど(苦笑)今日、行ってみて思った。ほんとうに心地よい疲れである。この数カ月、心ばかりが疲れていた。身体はそれを抱えて疲れていた。今日の疲れは実にシンプルな疲れで、とっても気持ちがいい。フィットネスクラブ通いも時間割として検討しようと思う。もちろん入会含めである。体育系はいくつかやるつもりだ。前から友人に誘われていた示現流にも参加表明しておいた。いよいよ薩摩の男として残りの人生を生きることとする。(笑)ま、ぼつぼつ書いていきます。
2012年06月27日
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随分放置しました。時間はあったのですが、書けませんでした。前回の日記の少し後から52年の人生でも最大の激変を体験しておりました。昨日で会社を辞めました。4月には宇宙一の妻と離婚。先月から独り暮らしです一身上の都合で、としか書きませんが・・・しばらく無職でしょう。いずれ引っ越すでしょう。先の見通しとか全く立っていません。見切り発車でそうしたのではなく、単に追い込まれただけです。退職は昨日でしたが、有給休暇を消化しきっての退職となったので、5月からは会社に行ってませんでした。今月は独り暮らしの訓練期間でした。学生時代も自炊とかしなかったし、社会人の独身時代も同様でした。しかも早くに結婚しましたし。サバイバル生活ですので、自炊は必須です。しかしまだ「黄金伝説」レベルの節約生活はできないです。腕が伴わないし、知恵もない。来年の春には、いろんなことが片付き、再就職できればと思っています。再就職ではなく資格で生きる道も模索します。友人も協力してくれますし。正直、不安と恐怖しかない・・・はずなのですが、「来年の今頃、自分はどうしてるかな?」と思うと楽しみだったりします。妻と息子とも、役所の紙切れでは他人になりましたが(息子は完全に他人にはならんのですね)ここからが本当の人間関係の構築のように思っています。一番縁のある人たちなので、絆がそう簡単に切れないでしょうし、生まれ変わるのは私だけでもないのではないかと思ってます。巻き込んでおいて傲慢な感じもしますが、実際そうなのだとしか思えないし、同士としてつながっていくだろうと思っています。そんなに書くこともないのですが、生きている、という証で今日からはポツポツと書いていこうと思います。
2012年06月26日
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なんとまぁ今年2件目の日記です。この2ヶ月は意識の世界で激変の体験中なので、自分のために書いておきたいと思いつつ、ちょうど異動も重なり放置となりました。さて、昨日のゴルフのことを書きます。まったくやる予定はなかったのですが、急に社内コンペが決まりまして。社内コンペでも寒いし出る気はなかったのですが、東京支社の女性がわざわざ参戦ということもあり、「じゃあ出るか」と直前に決めました。前回のゴルフそのとき思ったこと3ヶ月弱、まったくクラブも握らず参加したわけです。やる気満々で結果が出せなかった前回と違い、「久しぶり」「寒い」という条件ですので、欲もありません。さすがにマズイかと前夜に練習場に行きました。異変?はそのときにも感じてました。妙に調子がいいのです。調子がいい、というより、「できてる」わけです。そのときは「これぐらいできれば明日はなんとか回れそうだ」で終わりましたが、実際は「これぐらいできればいいだろう」のレベルではなく、もっと上の手ごたえでした。あまり気にしてなかったのですね。当日、出だしからその状態でした。もちろん久しぶりですので、距離や風、ライの判断は精度が低いです。よく知ってるゴルフ場でしたが、勘も鈍ってはいます。しかしながらとにもかくにもショットが良い?のですね。同伴者が褒めます。(社長も一緒でしたw)「お前実は冬に練習してただろ」とか(苦笑)ホールが進行し、スコアもまとまり、なんだかベストスコアでも出しそうな勢いです。そうなると「を!なんだか調子いいな」では終わらなくなります。別に結果に対する欲はありませんでした。どうなったかがタイトルです。疑いはじめるわけです。「なんだか調子いいけど、これは変だ・・・」当然意識してませんでしたがセットで思っていたはず。「このままで進行するはずが無い」面白いもので、そうなると、弱点から崩れ始めます。そつなくこなしていたグリーンまわり、パターという久しぶりだと弱い部分から。前半が終了すると、「久しぶりにしては上出来だった」ぐらいで終わりました。明らかに近年最も良いパフォーマンスでしたけどね。昼食時も「昼からはもっと」みたいなことを周囲が言うわけです。もちろん本人もそうありたいのですが、疑いと同時にほっとしてるわけです。「やっぱりグリーン周りは回数だな」とか、久しぶりであるに相応しい状態にほっとする。(そのときは全くわかってません)疑い効果?がややショットに影はさしたけど、それでも午前中より少し落ちる程度で、やはり近年最も良い部類のパフォーマンスをショットでは表現していました。スコアのほうは、疑い効果で見事に崩れました。終わってみれば、「久しぶりにしては上出来だった」という結果でした。悔しかったわけでもなく、反省する気も全くありませんでしたが、自宅に戻って座ったら、内部との意識交流(自問自答)が始まって、愕然としたと。一応、つじつまあわせをするわけです。昨年秋には結果は出さなかったが、やったことは無駄ではなく実は成果はあったのだ、とか。しかし、そんな分析は無意味であると内側は答えます。それだと、「対価」を払ったものを今受け取ったというだけの理解であると。そうじゃないのだと。条件が悪かったので欲が無く、制限が外れていた・・・いやそれも違うよ。全くの間違いじゃないけどね、と。私が調子いいと感じていた現象は、単純に「自分ができることを素直に表現(パフォーマンス)していた」だけのことだと。私は私がやりたいスイングを知っているし、それは既にある、ということだと。それが目の前に現れた・・・それを疑った!それだけのことなんだよと。目の前の現象、すなわち創造されたものを否定したんだよと。前回書いたことの逆をやったわけです。すなわち、「対価」を支払っていないのに受け取るわけにはいかない、みたいな。いいスコアを望んでいたわけではないけど、いいスコアが出たって構わない。当たり前のことですが、それじゃ困る私がいたということです。いいスコアを望んでいたのに、それを受け取ることができなかった自分にしたら、そういうひねくれたことを思うのでしょうかね。(苦笑)せっかくいいものを表現していたのに、わざわざ自分でそれを壊すとは。(苦笑)自分の邪魔をしているのは自分だと改めて思うわけです。前回とセットにすると、よーく観えてきますね。たかがゴルフなのですが、自分が人生上でやらかしている(やらかしてきた)ことを、よく現しているなと感心した次第です。自分の創造物(現象含め)を否定しないということを最近自分のテーマでやっているのですけど、怖ろしいほどやってるなと思います。これでは愉快じゃないし、損しちゃってるなと思います。またラウンドしよう、練習しようとも思いませんが、自分が既に知っている、持っているものはしっかり見たいなとは思っています。自分は「楽しむ」ってことが下手だなと思った昨日でした。そんな自分を実に愛おしく思うのが、これまでとの最大の違いです。
2012年02月13日
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放置しておりましたが、意識面で大きな収獲のあった12月でした。今年もさらに素晴らしい年になると思いますが、そのためにも整理すべく、少しずつ自分のために書いてみようと思います。ごあいさつがわりに、新年早々の引き寄せについて。元日は近所のアミュプラザへ行きましたが、目当ての福袋は秒殺されてました。結局手ぶらで帰宅。午後からイオンに家族で出かけました。バッグの店の福袋を買いました。「財布が入ってる」と言うので運だめしを兼ねて。財布を替えようと、アミュプラザでも眺めていたのです。帰宅して袋を開けました。なんと!入っていた財布は自分がアミュプラザで欲しいと思っていた財布でした。いきなり運だめし大成功!今年も素晴らしい年になると実感した元日でした。年末はこの10年で1番といっていいほど掃除しました。「断捨離」で運気上げ・・・ではありません。単純に意識の問題で。自分が見ているものが、すなわち自分であると、素直に思えたのですが・・・となると、自分の部屋の環境(会社の机周りも同様ですが)は、最悪だなと。「これが自分だとしたら、大問題だ!」と。見ているもの=自分だとすれば、自然にそういう結論に達します。(苦笑)ものすごくすっきりしました。結果的に福袋の財布につながるのですが、そんなの当たり前のように感じます。自分が見ているもの=自分→すっかり無駄なものがなく、整然としているなので、現象もそうなるのが必然かと。部屋の整理はまだまだ続きます。なぜなら観えなかったものまで観えてきて、「本来はこうある」状態も観えるから。そこまでやるの当然です。欲もなければ義務感もなく、別に楽しいわけでもありません。顔を洗い、歯を磨き、ということと同じように普通のことを普通にやる感じ?すっきりするということは、愉快の基本のように感じます。愉快は愉快を集めます。と、福袋に欲しかった財布が入ってたというだけで掃除したらツイてきた的なことを長々と書いてしまいましたがこんな感じで相変わらずですが、今年もよろしくお願いします。
2012年01月03日
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望んでもいない現実を、実は「望んで」創造している・・・理由のひとつが「制限」だと思います。いろんなパターンがありますが、無数の条件を自身が提示しているにも関わらず、そのことに気づいていない、なんてのが多いのではないでしょうか。ゴルフに限らず、上達するには・・・ということに「練習あるのみ」ということに異論はないと思います。しかし、そう思っているだけのつもりが、ものすごく外的要因に条件付けしていないかと。前の日記で>この3ヶ月、毎日素振りなどして、最低でも週末にはレンジへ行き・・・実戦不足なのでラウンドし・・・練習器具のみならず、クラブまで買い換えて・・・と書いておりますが、これ全部「外的要因」です。要するに、それなりに「時間」も「金」もかけて、「汗」もかいたぜ、と。結果、失敗に終わった・・・とまでは言えずとも、結果は出せていない。自身は気づいていませんが、自らの思考パターンが↑に現れているなら、同じように外的要因に原因を求めているはずです。もっと「時間」と「金」をかければ何とかなったかもしれんけど、自分にはそれがなかった。なんてね。(苦笑)たまたま打撲でクラブが振れなくなりました。しかし、仮に振れていて、継続して同じように毎日素振りしたり、毎週レンジ、そのうちラウンドを3ヶ月経過しても、今とそんなに変わらない気がします。多少は何とかなってるかもしれませんが。根本的に何か違う感じなんですよ。制限だらけの思考形態に邪魔されて、本来働くべき力、別の領域で発動するもの?が、動けないままであるというか。結局、「取引」しようとしてるというか、だから受け取れないというか。上手く説明できませんが。亅さんには、いろんな形でご指摘受けてたと思います。なんかようやくわかってきた感じ。わかってくると、結構大変で。自己責任を認めると、責任回避したくなる。(苦笑)これと正反対なのが木刀居合です。そもそも居合をやろうと思ったわけでなく、上手くなろうとか、この道をもっと・・・なんて何もないのですが、それがいいのか、一切余計なことを考えないし、そのせいか制限がありません。(というように観える)師匠と一緒に練習すると、非常にいい汗をかき、身体から何かが抜けたようになります。打撲でクラブが振れないのに、練習できましたし。(不思議ですな)理なんて口にするのもおこがましいので単純にコツとしましょう。動きが正解に近づくほどに、鞘から抜けないという事象と出会う。テキトーにやるとそんなことは起きません。しかし正解に近づいて、そんな事象をコツをつかんで抜けると・・・単に鞘から刀を抜くだけのことが、全く違ってます。全身に広がる何かがあるんですな。素晴らしいです。上手くなりたいと思ってるわけでもなく、しかし目の前の練習を無心に精一杯やる。それも面白い、心地よい、「愉快!」と感じながらです。そうすると、受け取るべきものは受け取っていることに気づきます。やっぱり上手く説明できません。しかしながら、自分のための備忘録をしばらく続けてみようと思います。
2011年11月21日
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ここ3カ月、休んでいたゴルフを急に熱心にやってました。なかなかUPしない日記も、そのことを少し書いたのみ。少し整理すると、8月末に岳父からの誘いで久しぶりのラウンド。それをきっかけに秋に予定されているゴルフへの参加も決心し、あまりの練習不足、実戦不足に、2回のプライベートラウンドを入れて本番2回。その間、毎日欠かさず素振りなど。週末は必ずレンジ、多ければ週3回とか。前の日記にUPした新聞社との対抗戦でようやく100を切り、広告会社Dとの対抗戦で結果を出そうと意気込んでいたところでした。先週実施されたラウンドですが・・・再び100たたき。それだけなら「自分がへた」で済むのですけどね。広告会社Dとの対抗戦は、先方の支社長の送別ゴルフ会という副題?つきで・・・ゴルフとは名ばかりの懇親会(要するに飲み会)となりました。朝集合していきなりジョッキ生で乾杯。朝の7時から飲む展開に戸惑いつつ、そういう集まりなのだと諦めるしかなく。もちろん配車して帰りは代行、私は送り迎えつきではありましたが。酔拳じゃあるまいし、とてもまともにはできませんでした。表彰式は弊社の食堂で。帰りは前日に置いていた自転車に乗って帰ったのですが、降灰の影響で転倒しました。酔いのせいでもないけど、まったくないとも言い切れず、自己責任。結局、またクラブを握らない生活に逆戻りです。スイングで身体を壊す前に、打撲で振れなくなりました。(涙)別にこれがゴールでもないのですが、何のためにこの3カ月真面目にゴルフの練習をしてきたのか?練習器具のみならず、クラブまで買い換えてこれかよと。打撲のおまけつき、しかもクラブはしばらく振れそうもないし。事実はここまで。ここからが本当の顛末というか。要するにこの踏んだり蹴ったりの現実は、3か月前の復帰からまじめな練習の日々、そして全く報われない1日というオチまで、「私が望んで創造したものである」という真実を受け入れるのか否か。それを突き付けられているにすぎません。頭では理解しても、「あたしゃこんなもん望んでない!」という声も聞こえてくるわけで。しかしながら、ここを超えないと、今まで勉強したこと、やってきたこと、自分が持ってるはずの可能性・・・全部無駄になります。というか、今までそうでしたから。(苦笑)目の前の現実がどんなもんであれ、それは自分が創造したのだと認めること。それこそが、自らが(人生の)創造主である、ということなのだと思ってます。そうそう、最近、そんなことを思っているので、そう思えないことばかり起きます。(笑)マゾか?と思うぐらいです。最後の壁は「望んでない」はずのことを「望んで」いたという矛盾です。納得しない内面の声に対して、説明しきれない自分なのですが、これまたマゾか?と思うぐらい、いえバカか?と思うぐらい、そのうち説明できそうな予感がしております。ヒントは、久しぶりに師匠とやってる木刀居合。やはりここに戻ってきます。長くなったので、また。
2011年11月20日
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前回の日記から1ヶ月ちょっと放置になってしまいました。ゴルフのほうですが、8月末に超久しぶりのゴルフをすることになり、7月末から毎日の素振り、ゴルフの竪琴、ストレッチなどなど最低週一回、土日は基本レンジで打つという生活を続けてきました。ここまでラウンド4回で10月頭までに3回消化して、連続で100たたき。こりゃ復活しないかもと思いつつも、故障もしていないし、メインイベントまで頑張ろうと、めげずにやってたら・・・なんとなく身体に変化を感じました。ようやくクラブを振れるようになったと申しますか。実のところ身体が戻るのに3ヶ月以上かかった、と言うことです。歳はとりたくないなと思いました。ようやくスイング作り?できる身体になったと。故障多発であまりやらなくなり、たまにやってもまたクラブを握らなくなるという生活を続けていたら、自分の身体の衰え、ブランクに気づかなくなってました。先日、ようやく100は切りました。そのときの画像が幹事から届いたので眺めました。故障はしてないと言いつつ、ややゴルフ肘なので右ひじにサポーターしてるのが痛いです。ただ、パットは思ったとおりの構え、フォームで売ってる模様。今は打ち終わっても下向いてる(顔を動かさない)だけを気をつけてます。問題はこれドラだけがどうにもおかしかったのですが、この画像で納得。こんなにフラットに振ってるつもりはなかったのですから。実はアイアンとドラをピンのG20に買い換えたばかり。アイアンは易しくて好感触、結果も出てますけど、ドラがさっぱりで。しかしクラブのせいでもなかったなと。メインイベントは今週末。広告代理店Dと弊社の対決です。修正できるか?間に合わないでしょうね。ゴルフの竪琴で修正に努めますが。なんとか頑張りたい。いろいろ気づいたこととかあったのですけど、ブログも放置癖がつくと、すぐ書かないものです。これもまたリハビリのつもりで書くようにしたいと思います。自分のためなので。メインイベントが済んでもしばらくゴルフクラブは握り続けたいと思います。身体作りをさらに進めるのと、やはり動きの実戦はゴルフしかないと悟ったので。下手でもやり続けたいと思ってます。
2011年11月10日
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【レビューを書いて送料無料!】マーク金井氏絶賛! オンプレーンスイングの秘密兵器!ゴルフ...価格:12,600円(税込、送料別)これの良いところ。商品リンクしてますが、別にアフィリしようと思ってるわけでなくましてやマーク金井さまの手先でもなく(手先になれたらうれしいぐらいで 苦笑)「ゴルフの竪琴」って?という商品なので。戻って良いところ。いわゆる「全習」「分習」というところの「分習」をやりやすい。もちろんクラブでもできなくはないけど、これは非常にやりやすい。付属のDVDでマーク金井さんがチェックポイントを挙げておられるけどそのとおりに注意してやると、最近のオンプレーンがよくわかるというか。以前書いた佐久間馨さんのスイング理論も、これでよくわかりました。あれ?腕ってほとんど振らないのね・・・みたいなこととか。で、その意識でクラブを振ってると、当然「腕振らない」をやりすぎるし「分習」でやってると、突然腕を動かすとか、パーツでギクシャクする。そのうち、体幹の動きと腕の振り(動き)がシンクロするように連動するとある軌道では、表現しがたい動きでクラブが動く(もちろん身体がそう動いている)あれ?この感覚は何かに似ているな・・・と思ったら・・・木刀居合いで師匠に〇をもらった動きとそっくり、てか同じカテゴリーというか。ゴルフを覚えて25年・・・頭でっかちで、理論好きな下手でしたが、こんな世界があったとは!みたいな感じです。連休中、レンジで「今までと違うスイング」をする自分に戸惑いつつその「今までと違うスイング」から放たれる打球に???(いいショットなのですが)思わず打ちすぎてしまったぐらいです。筋肉痛になるほどに。その筋肉痛も、今までありえなかった腹筋関係、そして臀筋とか、面白い場所です。だからストレッチなどやりたくなるわけです。そうすると、ますます動けるのです。「毎日これだけはやってます」といううちに、25年でどうにもならなかったスイングが、すっかり変わってしまったら愉快だろうなと思います。結果も欲しいのですが、身体がこう動きたい、あるいはこう鍛えたいとメッセージを発信している感じですし、それに応えることは実に愉快なことです。「観ているもの」「観られているもの」が自分の中にあるのも面白いですし。しばらくは「ゴルフの竪琴」を続けていこうと思っています。
2011年09月21日
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4ヶ月ほど放置してしまいました。書かなくなると書かないもので・・・8月末に、かなり久しぶりにゴルフをしました。そのために7月から練習も開始し、暑さ対策、身体づくりもやりました。で、怪我なく無事終了このとき師匠から言われたのが「結局『片付けなきゃならないこと』で終わるかどうか」ということでした。久しぶりにゴルフをやらなきゃならない(断れない)→片付けなきゃならない厄介ごとしかしゴルフはもともと嫌いではない、むしろ好きだから、せっかくならと準備もするその過程も楽しみつつ当日を待つこの時点で、ゴルフをやることは楽しみになっていたはず・・・でしたが最初の意識が書き換えられていなかったことは、終了後に思い知る。いろんな反省点とか見つかって、練習しようと思う反面、モチベーションは下がる一方。師匠の指摘?で気づき、『敢えて練習』をしてみた。ゴルフは面白いからやるのであって、ラウンドは片付けなければならない出来事ではないという意識にあっという間に変換し、今月はすっかり練習が楽しくてしょうがない。気がつくと来月は3回のラウンド予定が立っている。モチベを維持している要因がこれ。【レビューを書いて送料無料!】マーク金井氏絶賛! オンプレーンスイングの秘密兵器!ゴルフ...価格:12,600円(税込、送料別)「ゴルフの竪琴」ってなんじゃい?と思われたかもしれませんが、この練習器具のこと。なんと1週間でスイングが激変しつつあります。レンジに行くのが面白くてしょうがないです。この連休なんか打ちすぎて筋肉痛です。師匠から言われたもうひとつ。「結局のところ『毎日これだけはやってます』ってことなんだよね」なるほどなと。あたしは今、毎日ゴルフの竪琴を振ってます。これだけはやってます。そうするうちにトレーニングまで楽しくなってきました。これを振ってると、鍛えたくなるのです。面白いものです。ということで、しばらく自分用備忘録として、この日記を利用します。twitterもfacebookも、どうも自分には合いません。(苦笑)ちまちまこれを書くのが一番合ってるようです。
2011年09月20日
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氣エネルギーの可能性というブログを拝読して思ったこと。昨日の日記で、久しぶりに氣で遊び始めたことを少し書きました。本日で3日目ですが、熱っぽい状態にも慣れてきました。氣エネルギーの可能性すなわち、「良い」「悪い」は単なる価値判断で、真実は単に変化しているに過ぎないという指摘は、たしかにそうだなと感じます。熱っぽくなるということは伝導性に難があって、溢れるまでには至りきれておらず、その伝導性を低下させているのがエゴ・・・すなわち価値判断などであるという自分の直観というか仮説と一致するよう内容を目にしたことに、自らのメッセージ性を感じます。また、現実に「価値判断」が散見される自身の現状でもあり、これらを手放すことで、さらに快適な状態になるという確信もまた愉快であります。階層的組織社会であるリーマン生活は、人間関係において上下・左右、さまざな力関係や利害関係があり、評価というものもついてまわります。価値判断そのものが仕事だったりするという側面もあります。価値判断そのものがゲームプレイのようなものであれば、単なる遊びになる。そのような感覚が自らの内から出てきました。価値判断から逃げられなければ、それを否定するのではなく、それで遊ぼう、楽しもうと。誰かを評価しなければならないのであれば、単にゲーム内のキャラクターの属性や能力を把握するのと同じ程度で眺めることができればと思います。単にそれだけのことであって、それ以上でも以下でもなく、ましてやその評価がその人そのものではない。というような気楽な見方ができれば楽だなと。自分の価値判断に振り回されるというのも滑稽な話。価値判断は過去のデータによるもので、実に制限された内容でそれをやってる限り、可能性も同時に制限されると感じます。無限で無尽蔵なものと繋がるほうがいいなと。しばらくは温泉状態でしょうが、溢れ出すまでは、パンパンで過ごしてみようと思います。結局、上手く書けませんでしたが、心境はかなり変化しております。
2011年05月17日
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「全部お願いします」という日記をUPしたのは2008年9月・・・約3年前なんですね。紹介しているサイトの管理人さんが鹿児島を通過中と知り、土曜に連絡を取ってみました。日曜午前に空いた時間で会えそうだとのことで、出向きました。会ってみてよかった、いやすごく良かったと思います。実にシンプルな気功?なんですけど、書いてあることがよくわかってなかったり何よりも、下手に氣の感覚があったり、いろんな体験もしてるものですから・・・自分自身が邪魔をしていた部分が非常にあることがすぐわかりました。何を教わったわけでなく、ただ会って話をしただけです。長尾さんの氣の状態が素晴らしいので、こちらも笑顔にならざるを得ません。自分で勝手にいろんなことがわかってきて、おかしかったです。氣が溢れるときに起きる不快?な現象は、様々な解釈があり、体験的知識として知っていることと、自分が今回直観で観じたことは違うこととか要するにエネルギーの伝導性がまだ低いので、そんなことが起きるのだと。(今の解釈)その伝導性を下げている原因?は、自我であるとか。(ほんとか?)まぁ、自分の直観を信じないことにはどうにもなりませんので。数稽古・・・師匠がよく使う言葉ですが、自分の場合氣に関することは得意な部類なのに、それをやらずに昔とあんまり変わっていない。「すぐできちゃうと思いますから、どんどんやってみてください」長尾さんに言われて「そうだよなぁ」と改めて思いました。要するに・・・やってないんだと。貪欲であることに対する間違った考え、その制限?そんなことも観じました。幼子は、邪心なく「もっともっと」と要求します。遊び相手すると、相手が飽きるまでやってあげないといけません。美味しいものはおなか一杯食べます。そうやって次の愉しいこと、美味しいもの、あるいはやりたいことへうつります。この童心こそがスカイパワーのブログで言う「欲」なんだと観じました。「ありがとうございます。もっとお願いします。」実は3年も抵抗のあったこの文言が、全く気にならなくなりました。無尽蔵でタダのエネルギーに何の遠慮がいりましょうや(笑)とにかく愉快になって、帰りの車は、ひとりで異常な爆笑しながら運転しました。夜には早速、家族にシェアし「をを!できてるね。もっとやっていこう。」と。「タダなんだからやりましょう!」と。面白い体験でした。本日は早速、氣に氣が溢れて、熱っぽいぐらいで過ごしています。抵抗がなくなる、伝導性が高まれば、もっと気持ちよくなるでしょう。気分的に愉快なので「もっともっと」でいこうと思います。良き出会いに感謝と祝福を贈ります。
2011年05月16日
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結婚記念日は毎年更新・・・と昨日書きましたが・・・嘘でした。(爆)昨年も何を贈るとて予算もなく、花を贈ったのです。とてもセンスの良い花屋があって、そこで買いました。「予算〇千円で花束を」「お誕生日か何か?」「いえ、結婚記念日で」「まぁ、あなた!いいダンナさんですこと!サービスしますよ。」昨年も同じトークだったかと。(笑)だから今年もそうしたのですが。「ピンクにします?」「いや、別にそうじゃなくていいですよ。」「じゃあ、いいユリが入ったからそれでやってみますね。」画像は花束ではないけど、こんな感じです。随分蒸し暑い毎日になってますが、とても涼しげな感じになりました。これが彼女のイメージにも合ってるような気がします。「お父ちゃん」「何?」「消えものにお金を使うって、考えようによっては贅沢よ。 食べるものは口に入るけど、花は愛でるだけだし・・・ 一番贅沢かもよ。」愛を込めた花束を、まるっと受け取ってくれたという彼女なりの気遣いありがたくいただきました。「いいこといっぱいあるといいね・・・」「そうだね」伊集院からの帰りの言葉を繰り返しました。いいこといっぱいあると思います。
2011年05月11日
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本日は結婚記念日です。この日は日記を更新してきました。世界に向けて妻への感謝を述べたいからです。特に祝いもできません。贈り物も買うお金がありません。ただただ感謝のみ。先日、プレイベント?をしましたので、そのことを少し。鹿児島には妙円寺参りという行事があります。その妙円寺があるのが伊集院という町です。妻の父は伊集院出身。私の父方の祖母が伊集院出身。夫婦の縁を考えたとき、この土地が一番かなと。しかし、私たちは妙円寺参りの徳重神社にすら行った事がなく25年の感謝にお参りをしようと出かけたのでした。妙円寺この由来にある石屋真梁(せきおくしんりょう)さんは、鹿児島市の福昌寺の開山禅師でもあります。私の父の実家はすぐ近く。祖母は妙円寺の伊集院から福昌寺の鹿児島市へ・・・どちらも廃仏毀釈で、妙円寺は徳重神社となり、近くに復興。福昌寺は跡のみで、玉龍高校になっております。福昌寺跡は、故・きこうしさんとの交流の中で浄化した場所でもあります。さすがに今回、そんなことはしませんでしたが。詳細は書けませんが、石屋真梁という文字からして・・・伊集院忠国の息子なんだろうか?と。天狗のにおいがする(苦笑)ということもあって個人的な興味もありました。伊集院はよい街で、有名なレストランでランチバイキングを楽しみ妙円寺詣り、徳重神社参拝、を済ませ、これまた有名な洋菓子店に寄りました。私たちだけだった店が5分で車5台が立ち寄り、千客万来に・・・怪しいことは言わない妻が・・・「なんか喜んでもらったみたいね」と。「いいこといっぱいあるといいね」そんな一日を過ごしました。25年も一緒に居てくれてありがとう。ほんと、いいこといっぱいあるといいね。(^^これからもよろしく。
2011年05月10日
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東日本大震災の影響、それに追い討ちをかけるように自宅PCの故障・・・でまた放置しておりました。皆様のところも覗かせていただいたりしつつもコメントもできておりませんでした。昨日、自宅PCは帰ってきました。マザーボードまでいかれていたとは、ハズレを購入したと諦めるほかないです。とはいえ、PCはよく壊します。超能力者なのでしょうか(苦笑)さて、3月27日に20歳になった息子。その頃、神奈川の妹家族が帰省していて(疎開していたというか)、その日は祖父の仕切りで大勢で祝いました。全く飲めない息子に飲兵衛の祖父は「1杯だけ付き合え」と言いました。一応、形だけそうしようとした息子でしたが、とても頑ななところもあるため、どうしても飲めません。いえ、飲めなきゃ飲めないでいいのですけどね。祖父のために1杯だけ付き合ってやろうという男気みたいのが感じられなかったと。それも別にいいのですが。そんな彼に「烏龍茶でいいから1軒付き合え」と言い、二人で出かけました。いわゆるミュージックバーで、LIVEを聴かせようと思ったのです。かなりご無沙汰な店でしたが、「息子が本日20歳で」と言うと、ステージで紹介され、お客さんに拍手され、と思わぬ展開でした。次の日の朝、妻に息子は「凄く嬉しかった」と言っていたようで。「なんか、大人になるって・・・こういうことか」と思ったそうです。父から息子への伝授のような感じがしたんだそうな。で2週間ほど経過した昨日。日本は統一地方選挙でした。鹿児島県も県議会議員選挙がありました。はい、彼の初選挙・初投票でした。1週間前、友人が電話してきました。「桜が見ごろだから来ませんか?」この日記に何度か書きました美術館をやってる友人です。その日は都合が悪かったので、昨日妻と行くと連絡していました。すると息子が自分も行きたいと言うので、結局家族三人で行きました。桜は盛りを過ぎていましたが、青葉、若葉のエネルギーを楽しめました。ここを初めて訪れたのは1年ほど前です。そのとき見た絵を再会しました。彼女にも伝えたのですが「目が肥えたせいか、また違って見えます」屈指の波動スポットと言い切ってますこの美術館も、そういえば1年前とは違う気がします。ますます素晴らしくなっているというか。そうなると展示物と空間の融合したものは1年前とは同じようで違うのかもしれません。単純に「見飽きない絵」なのでしょうけどね。(^^息子が初選挙だと言うと、秘蔵の刀剣を出してくれて、息子に鑑賞させてくれました。そして彼女は言いました。「大人になるってことは、こういうことだ。」と。親も感激しましたが、息子はひたすら感じ入っておりました。余韻を残しつつ帰宅途中、投票。史上最低の投票率でしたが、我が家は全員参加。(笑)開票特番のため深夜まで出社だったのですが、息子が生涯初の選挙で投票した候補者は、無事当選されました。なんかよかったなと意味もなく思うことでした。子供は大人になろうとしておりますが、親の方がまだまだで・・・いい大人になりたいと、この歳でも思ってます。
2011年04月11日
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プロトタイプを送って(贈って)いただいたことを前回の日記に書きました。メールでお伝えした「賢者の種」がそのまま名前になったようで、あたしが名付け親になった嬉しい種でもあります。東日本大震災発生以降、まともに家に帰れず・・・被災地からは最も遠い類の地域で暮らしておりますが、民間放送はご承知のとおりの状態で。そのうちと思っていたら、できずにいました。やっと本日装着できるようにしました。相変わらずですが中央のUSB、波動的にきつい方はごめんなさい。左の白く光って見えるのが賢者の種。右の大きめの黒いのが御使いの玉(簡易版)です。いろいろ思うところもあって早く装着しなきゃと思ったところでした。これ実に素晴らしいです。御使いの玉とはまた役割というかSPEC?が違うのがわかります。面白いほどに違うし、どっちも素晴らしいです。御喜楽使さま改めて御礼申し上げます。感謝と祝福を贈ります。ありがとうございます!早く身につけたくなった・・・いろいろ思うことはまた改めて。
2011年03月19日
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突然の贈り物がとどきました。これでした。びっくり。日記にレスさせていただきました。御喜楽使さん、ありがとうございます!引き寄せの観点では、これを望んだということになります。素晴らしいものですが、私は御使いの玉を常に身につけています。ワンドも持っています。だから「青竹」という素材に興味はあったけど、欲しいとまでは思いませんでした。創造の種が素晴らしいものであることは観じていましたが、入手していませんし。ところが引き寄せました。実物に触れて納得です。たしかに私(の本質)は、これを望みました。この仕組み、深すぎて、面白すぎます。引き寄せの法則は、たしかにあります。本に書かれていることが全てではない、というだけかと思います。御喜楽使さんへのメールで、この創造の玉(青竹)に「賢者の種(玉)」というイメージが浮かんだとお伝えしました。ほんとうに「竹林の七賢人」の風情がある素晴らしいものなんですね。この種には、素晴らしい智慧を観じます。あたしの主観でしかないですが。(笑)今は非売品ですが、きっといつか入手可能になるでしょう。オススメします。やっぱり良いものは良いなと。グッズ族だったので、何でも欲しくなるのを自省してたんですが、モノによるなと思います。超愉快!でした。良い春になりそうです。
2011年03月04日
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久しぶりに書いたので、もうひとつぐらい書いておこうと思います。「引き寄せ」について思うことを。喩えとしておかしいかもしれませんが、塾では「さわり」だけでもウケましたので。あなたは唐揚を食べたいと思いました。どうします?冷蔵庫を見て、材料があれば、そのままつくる。なければ買いに行く。あるいは、惣菜としての唐揚を買いに行く。または弁当の唐揚を買いに行く。ケンタに行く。(笑)もしくは食堂へ行く。こんなところでしょうか。実はこれらすべて「願望実現」であると。でも「引き寄せ」とは言いませんね。「引き寄せ」と言うときはたまたま夕食が唐揚だった。誰かが唐揚を持ってきた。誘われて出かけたら、そこはケンタだった・・・こうなると「引き寄せ」って言うかな。あたしの場合、住まいの目の前がコンビニですし。唐揚を食べたいという願望を実現するのに、阻害要因はほとんどありません。しかし、食糧事情の悪い国、もしくは広大な土地の一軒家とかだとどうでしょう。充分願望実現になりますよね。話を戻すと、願望に対して、それが実現したプロセスで「引き寄せ」になるのではなくどうやって実現しようが、それが実現した(手に入った)のであれば「引き寄せ」だろうと。>すべての原因は自分にあると昨日書きました。唐揚食いたいという願望に対して、どういう選択肢があって、どれを選択したか・・・あるいは何も選択しなかったが実現はした、とかいろいろプロセス・結果はあれど望んだから実現したということは間違いないわけです。唐揚を食べたいと思ったが、忙しくて忘れていた。結果、食べられなかった・・・この場合、そもそも「唐揚を食べたい」ということは望みだったのか?とも言えるかと。あたしたちは・・・少なくともあたしは・・・唐揚を食べたいと思ってなぜかバーガーショップへ行き、バーガーを食べる。そして思う。「ほんとうは唐揚を食べたかったのだが・・・なぜバーガーなのだ」と。かなりくだらないロジックになってしまったけど・・・願望が実現しないってのは、この程度のことなのかもしれません。人間とは、ことほどさように愚かで傲慢なのかも。(苦笑)相対性をやってみれば、例えば「探す」と言う言葉を使ってしまうと「今、手にしていない(ここにない)」ことを宣言してしまっているとか、いろんなことがわかってきます。思考の中に、このようなトラップが多数あるのではないかと思うのです。そして、本人が気づかないうちに、相当変なことを思い込んでいる可能性が高いと。願望が実現しない、「引き寄せ」が起こらないのもすべての原因は自分にあると思います。こんなあたしでも、「引き寄せ」はたくさん経験しているし、願望も実現しっぱなしなんで。実現しない願望は、自分に原因がある。すなわち何を望んで、選択したか、です。再設定、再選択した上で、再度創造してみるほかありません。わかったようなことを書きましたが、ほんとうに知っていれば、できるはず。自分の傲慢性というか、愚かさ、無知にただただ呆れ絶望しつつ降参しているというのが、ここんとこの状況です。あまりに今までと違う精神世界なので、混乱もしています。誰から学んだわけでなく、どこかの知識でもなく(過去に接した考えかたであっても)どこまでも主観としてそう思うと。そうなると、ますます諦め、降参するほかなくなるのです。また意味不明ですが、今月はこんなところで。
2011年02月28日
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2月も終わろうとしているのに、前回からずいぶん間もあいてしまいました。もしかするとまた次まで間があくかもしれません。皆さまのところへの訪問、あるいはコメントをつけることもあまりできませんでした。ほんと、ご無沙汰してしまいました。今までと似たような生活をしております。昨日は久々に居合の練習もしました。午前中のクラスで勉強した後、師匠が「久しぶりに夕方から居合をやりませんか?」と。「もしかして・・・なまってます?」と聞くと、笑顔で「そうです」と。師匠は結構忙しい日々だったかも。でも自分を鍛えるのに、ついでに誘ってもらえるのはラッキーです。久しぶりの練習はきつかったけど、非常に気持ち良かったです。「道場っていいなぁ」としみじみ思いました。本日は筋肉痛です。でも、心地よい痛みです。言葉が出なくなったのは・・・「相対性の彼方」のせいでしょうか。すなわち絶対。相対性をやってるうちに、その彼方である絶対が本人的に観えてきました。そのうち「知っている」などのラムサ用語?を、よくわからんままに使ってきたなとか、いろいろ思い始めると、簡単に言葉が出なくなりました。日常過ごすのが精いっぱいで。そのうち、リーマンとして普通の生活をしているだけで・・・まぁずいぶんと波動というか振動数を落とすもんだということも知りました。また、自分の考えのように書いたこと(言うこと)が、実はほとんど知識にすぎないことを知りました。時を同じくして師が、塾生みんながそうであることに気付きました。自分がほんとうに知っていることと、知識を持っている、あるいは理論立てているにすぎないことは、まったく違います。そのうちわかってしまいました。自分の現実を創造したのは自分であることが。あたりまえなのですが、これを認めてこなかったんですね。すべての原因は自分にある、いや、自分にしかない、ということを。しかもです。自分にとって不都合な、好ましくない現実もすべて、自分が望んだから創造されたということも。なぜ自分がそれを望んだかなんてことはわかりません。でも、自分が望んだから創造されたということだけはわかります。そして、現実を変えることは絶対にできない、ということもわかってしまいました。もちろん、新たに現実を創造することはできますが。そこなんです。自分がすべての原因であることを認めない限り、新たな創造をすることは難しい。目の前の現実を否定し、変えようとすると仮にうまくいったら・・・新たな似たような問題が発生するでしょう。むしろ悪化することも多々あるでしょう。これは経験しすぎて痛すぎます。わかってしまえば。敵を作って戦うと、敵にエネルギーを与える一方である・・・と空仙さんに何度も教わりました。現実も同じなんですね。わからないうちは、わかりません。わかってしまうと、そうだとしか思えません。不思議でたまりません。(苦笑)もはや、ほんとに降参するしかないと。絶対を知れば、相対性の世界の存在である自分にとっては絶望的。(意味不明?)とはいえ、その絶望の中で、降参しきったとき・・・ほんとうの遊びが始まる気がしています。「それを生きるとき、それ以外のことは起きようがない」私たちが何もないところから生まれたように、「愉快」もまた何もない闇の中からやってくるのを観ました。創造の意識と言えば難しいけど、これ以上の遊びはないように思います。まだ無理やり出してる感はありますが、今、こんな感じで過ごしていることろです。
2011年02月27日
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ご無沙汰しています。昨日、嬉しい報告がありました。「おかげさまで無事選ばれました」息子からのCメールでした。彼の通う大学の学科は、2年からコースが分かれます。彼は心理の勉強をしたくてここを目指し、昨年無事合格しました。しかし、心理の勉強ができるかどうかは確定していなかったわけです。心理は人気コースのため、非常に不安な1年でした。しかし、彼は選ばれた=合格した・・・1年越しでほんとうの?合格と言えるかと。なぜなら学びたいコースで学べることになったからです。昨年度まで選抜は事務的に(前期の)成績だったそうです。しかし大学も改革が進んでいて、今年度からレポート勝負。「なぜやりたいか」「やりたいことは何なのか」素人ですから自分の全てで勝負するしかないです。相手はプロ。ましてや人間相手のプロですから。実際、周囲は全滅したそうですが、彼は成績では明らかに劣っていたそうです。「大学は嘘をつかなかった。なぜなら他ならぬ僕が選ばれたから(笑)」高校入試に失敗し、1年遅れたことが、こんな形で追い風になるとは。彼を見ていると「引き寄せの法則」のエイブラハムの教えがよくわかります。息子は私の偉大な教師です。(^^SEのジャケットにあった古い聖剣、2本目を抜いたかもしれません。祝符の顕現、そのとき空仙さんにいただいたメッセージを彼は表現してると思います。素晴らしい報告に、感謝と祝福を贈ります。
2011年01月19日
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なんてことない光景なのですが、鹿児島となると別です。ご無沙汰しています。この「外は白い雪の・・・大みそか」ぐらいは日記で締めておきたいと思います。1年のいろんなものを洗い流すような雪です。浄化イメージを持って眺めています。ここしばらくは、ラムサに戻っていました。やっといろんなことが自分の中で腑に落ちたと申しますか・・・「ラムサの教え」でこんな感じのことを言ってます。かなり意訳してますが(苦笑)「あなたの思考が現実を創造する」ということをあなたは受け入れない。あなたは私の言うことが好きではないからだ。なぜならあなたがそれを受け入れると、あなたの目の前の現実は、すべてあなたが創造したことになり、あなたは被害者ではいられなくなるからだ。あなたは、目の前の(不都合な)現実は、いつだって誰かのせいであって欲しいのだ。だが、私は「すべてあなたの責任である」と言う・・・はい、まさにあたしがそうです。みたいな。受け入れる力に応じて、入ってくる、とラムサは言います。その制限の最たるものがこれだと。けんたまさん風に言うと「幸福」=「降伏」人間の傲慢さはすべて捨てて、100%自己責任を認めることです。降参してしまう、降伏する、のが一番かと。傲慢さ・・・だって、目の前の不都合な現実は誰かのせい、すなわち自分が創造したのではないとしつつ、現実を創造するのは自分だと都合のいいことだけを創造しようとするのは、そう言わざるをえないかと思います。100%自己責任を認めることが、受容力を大きくしますし、創造力をほんとうに認めることになるのだと観じています。降伏・・・白旗大みそかに鹿児島が「白い世界」になるとは。まさに降伏の象徴かと、ひとり喜んでます。ちと意味不明ですが(苦笑)私の中の神、存在の主、空・・・が、たったひとつ私に望んでいることを知りました。それが愉快でした。私が愉快に幸福であること、それだけを望んでいると。無尽蔵の愛というものを感じました。無尽蔵というか果てなく大きく深いというか・・・圧倒的でした。さっさと降伏したほうがいいと思いました。私にとっての愉快は絶対的な指標であることも知りましたから。鹿児島には珍しい、白い世界が自由な創造を描けるまっさらなキャンバスのように観えます。(^^愉快な絵を描きます!皆様、よいお年を。愉快な絵を描く2011でありますように。
2010年12月31日
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自分を見るには鏡が必要です。自分で自分を見ることは不可能ではないけど、自分の顔は見ることが出来ません。美容室で経験するのが合わせ鏡後ろがどうなったかチェックするとき、鏡を鏡で見ます。目では前方しか見ることが出来ないので、鏡がもう一枚必要になると。自分を知るには自分ではないものが必要。他人は自分の鏡のようなもので、第三者は合わせ鏡のようなもの。とイメージしてみれば配偶者は鏡、子供(第三者)は合わせ鏡のような感じでしょうか。相対性・・・表しかない紙はありません。必ず裏があります。これが相対性だとイメージすると表と裏で1枚の紙という視点が存在することに気づきます。表と裏は・・・紙幣のように全く違うデザインでも、それが1枚の紙幣であるようにセットで同じものであるとイメージできます。というかその視点ではそうなると観じます。合わせ鏡全く違うものが映っているようで、実は同じものである。鏡を見ることは大事なことだとしても、時には合わせ鏡も使ってみるべき。もっと言えば、さらに俯瞰的な視点が欲しい。なんてなことをふっと思いました。不愉快なこと(に見えること)の裏には愉快が隠れていると考えると愉快ですが愉快なこと(に見えること)の裏には不愉快が隠れていると考えれば不安です。(笑)でもセットでひとつなのだと知れば、愉快でも不愉快でもないです。どっちを見るのも自由ならば究極の愉快かもしれません。まだまだ体験が必要なようです。自由自在と愉快はセットのようですので、それを体験したいと望みます。
2010年12月01日
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何度か書きました同級生の美術館。昨日行ってきました。「紅葉が美しくなったら案内するから来てね」と言われてましたし。同窓会のMLでご案内がありました。昨日は祝日ですが開館してはおりません。常連さんのみの開放という気楽な状態で。閉まってるのに入るというのも変な感じですけど。庭から撮影してみました。(和服美人が館長さん=親愛なる同級生)もみじは空に向かって紅葉も庭も素敵でしたが、展示物も秋バージョンで癒されました。東郷平八郎さんの書には正座しちゃいましたが。(笑)夫婦で行ったのですが、途中で同級生とばったり。その後も同級生がやってきます。すっかりくつろぎ、気がつけば2時間以上でしたか、滞在時間は。妻は両親を呼んだので、あたしは友人と一緒に帰り、途中で母校近くの懐かしいお好み焼き屋さんで昼食。300円でおなか一杯なんで幸せです。屈指のパワースポットと絶賛しましたが、間違いありません。デトックスが凄くて・・・肩甲骨よこが痛い、あるいは右腰が痛くなったので昨日は自分で手入れしましたが・・・本日気づきました。マイナスの大噴火久しぶりやなぁと苦笑いです。小難しい能書きたれてる場合じゃありません。「小賢しい!」と言われたような気分です。気候もよいので出かけてみようと思います。パワスポはあちこちありますから(^^それにしても紅葉を愛でる・・・日本人でよかったと思います。また、鹿児島とは思えない風景に出会えたことに感謝です。すぐ近くにあんな場所があることに感謝。そして、心から感じたこと。妻や友人の笑顔を特等席で眺めることが出来る自分の価値です。自分は充分に価値のある人間だと思えました。祝福と感謝を心から贈りたいと思います。
2010年11月24日
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塾での話、塾での話2、のまとめ。塾では【創造】を学んでいます。(不都合な)現実を変えることは創造とは言いがたい。また、(好ましい)現実を引き寄せることも創造とは言いがたい。ということがようやく腑に落ちたところです。現実との相対性があるからです。相対性があれば、その影響から逃れられません。純粋な創造は、何もないところに成されるものです。前回はこんな失敗したし・・・いや前にこうやって成功したぞ・・・という体験とは一切関係ないと思います。あたしたちが創造できるのは、体験をするためです。しかし、その体験は、あくまでも体験するためのもの。体験が次の体験に影響を与えるとしたら、あくまでも人間の世界の知恵です。あちらの世界では、絶対的な智恵があるので、その必要がありません。創造の源泉を想像すればそうなります。昨今「捨てる技術」的な理論が静かなブームです。そこにスペースがなければ、新しいものは入って来れないと。たしかにそうかもしれません。空(くう)は空(から)に通じます。真気塾の故・きこうしさんがおっしゃいました。「余計なものは何もいらないんです。からっぽになりたい。」と。からっぽであれば、自由な創造が可能ですもんね。だから過去のデータは失敗だけでなく、成功も不要。潜在意識はクリーンであるほど良い。潜在意識に刷り込もうにも、古い考えや想いがぎっちりあれば、矛盾するので入れない。とはいえ「ホ・オポノ・ポノ」的にクリーニングをやり続けることも?なぜなら、生きている限り、クリーニングしきれるものでもないからです。あたしたちが体験の受け皿であるのが存在意義であるならば、些細なことも含め、生きている限り体験し、その都度、いろんな思考や感情を蓄積しますから。過去のデータには縛られないという姿勢・態度が身につけば、いちいちクリーニングしなくてもいいのだろうと。もちろん、そうなるまでにやるべきことはあると思いますけど。望んでもいないことや、不愉快なこと・・・そんなつもりはなくても、それを創造したのは自分であると。(自己責任)それを認めつつ、その体験を受け入れ、嫌なことだったら「ごめん」と自分に言い、さっさと許し、「もう体験したのだから、同じことは繰り返す必要がない」と宣言するのがいいかなと。過去のデータからの影響が最小限になるようなクリーニングは、日常的にやっといたほうがいいのだろうと思うわけです。師も、それは有効だと。これが意外とできないわけで。(苦笑)さっさとやってしまいたいと思ってるところです。妻の神経痛が消えたのですから・・・なんでも出来ると思います。それを疑い、信じていないのは、他ならぬ自分なんだと知っています。(苦笑)せっかくいい体験をしても、それじゃあね。それぐらい、過去のデータとは根深いもので、自分は自分が信用ならないのでしょう。このままでは自分がかわいそうなので、信頼関係を構築したいと思います。
2010年11月22日
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前回のつづき。ある塾生の話。契約関係のトラブルに頭にきて、先方に怒鳴り込んだという話。その方は自分の正当性を確認しようとし一方で、自分がやったこと(取った態度、行為)は、いいものではないと知っている。故に自分の非を認められないのに、自分を責めるという矛盾したグルグルに・・・面白かったこと。すぐ結論に逃げようとする。ちゃんと向き合おうとせず、自分の非も認めず、その上での処理もせず・・・言いました。「そのうち、『たいしたことじゃなかった』とおっしゃるはずですよ」と。でも困ってるその人もいるわけで。絶対(断言します)『たいしたことじゃなかった』ということにはならないはず。しかし、便利なもので、そのうち忘れます。だから『たいしたことじゃなかった』と錯覚します。でも潜在意識に行ってしまえば、その想いは大きな発言権を持ちます。「想いは実現する」と言いながら実現しないのは、これです。Aを望んでいる。Aを望んでいるのは事実なのですが、それ以上の力でBを信じている。それが潜在意識にある想いです。あっちの世界から見たら、どっちを望んでいるかわからないわけです。結局、発言(権)の大きなほうが、その人の思考だと認定するほかない。だからAを望んでも、結果が出るのはBになるか、ソレに近いところになる。潜在意識の法則は正しいのだろうと思います。どっちもAを望めば、Aしか起こりえない。余談が長くなりました。この塾生さんのおっしゃることは実によくわかります。師の指示で対話しましたが、実に理解が深まりました。はい・・・自分自身のね。(笑)まさに鏡でした。あたしは経験でどんなことが考えられるか、どうすべきだろうかまで知ってますが・・・著しく実践が不足していることも、この鏡の体験で知りました。さっさとやってしまわないといかんです。締めはまた次の日記で。
2010年11月22日
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ラジオに来てから更新できません。(TT)しかし土曜の体験は自分のために書き残そうと思います。いろいろ体験してるんですけどね・・・土曜の体験の前に少し。今年の体験で自分の寝違えを自分で治したというのがあります。その後妻の寝違えを(あたしが)治した?という体験を応用編で。つくづく塾で学んだこととか、自分が体験して知っていることって・・・結構凄いなと。で、自分もやれるな、と。このとき、治療家の早死理論?も聞きました。「悪いところは触れていると伝染る」と思うというあたしに師はひとこと「伝染りますよ」だから「治療家は早死したりするんです」ただし、目の前の悪いところにフォーカスしていたら、なんですけど。「悪いところを治す」のではなく、「いい状態をあらわす」言葉にすれば簡単ですが、人生全般なかなかできるもんじゃないですね。で、先日、妻の神経痛を消してしまいました。結構凄い体験でした。「こりゃ無理だろう」という状態だったんですけど。しかも伝染りませんでした。で、土曜日。ある塾生の話。契約関係のトラブルに頭にきて、先方に怒鳴り込んだという話。これが聞いてると面白いのです。まず、他人の意見を求めます。つまり、自分が怒鳴り込んだことの正当性を求めます。しかし、本人は「やっちゃった」と思ってるので「そりゃ怒って当然」といくら他人が言ってくれてもすっきりしません。そうこうするうち・・・「自分は塾で勉強しているのに、こんな態度や行為はおかしい」と自分を責め始めます。しかし、一方で本人は「自分の正当性」を否定されたくないので自分を責めている自分に困りつつ、さらに妙な怒りを蓄積します。師が話をしろと指示されたので、対話しました。「もし、あなたがそのときに戻ったら、どうですか?」これは以前、ホメオパスに受けた質問なのです。「やっぱり怒鳴り込みます。ええ、何回戻っても同じです。」もうひとりが「それはおかしい」というような介入をしようとしたので「OKです」「そのときのあたなにはそれが精一杯だと認められますね?」「はい!間違いありません」「ならば、そのことは間違いなく【どうしようもないこと】です。」次に聞きました。「でも、あなたは、やっちゃったことをいいことだとは思っていませんよね?」「はい。こんな勉強をしているのに【あるまじき】行為だったと・・・」「それはおかしくないですか?それじゃこの勉強は宗教と同じですよ。(笑)」「それもそうですねぇ・・・」総括して「あなたは、自分でもいいことだと思わないことをやってしまいました。 でも、そのことは何度同じ場面に遭遇してもやってしまうことです。 もちろん、今後も同じとは限りませんよね。 でも、そのときは間違いなくそれしかなかったのも事実です。」「わかります」「だから、あなたは困ってますよね?」「そうです」「どうしたらいいでしょう?」「困ってるあなたはどうして欲しいですか? それがあなたがすべきことだと私は思います。 そして、それはあなたにしかわかりません。」ここで時間が押してたので打ち切り。さあ、あの方はどう考えたかなぁ。長くなったので、続きは次回。
2010年11月22日
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ご無沙汰しております。>本日から他部門の兼務となり、10月は今までほど更新できないかと思います。今までほど更新できないどころか、1回もできませんでした。(苦笑)兼務になったから大変だったというよりは・・・テレビとラジオでは全く違うので勝手が違ったのとテレビの世界は長かったので自分としては楽勝だったのとテレビの世界は、ひとことで言えば平和だったと。対してラジオは問題山積で、ひとことで言えば乱世みたいなもん。なので個人的には実に毎日充実してて、「やった」感のあった1ヶ月でした。実際、結構なことをやったつもりでおりますし、存在感も示せたかと自己評価しています。道場での練習も急な都合で参加できなかったりしました。昨日、師から時間があるのでどうぞとメールがあり、久しぶりに練習しました。その折に師と雑談したことを。9月までは経験値も豊富で、新しい肩書きもまだ未知数の領域でとにかく自分のペースで仕事が出来ました。あまり考えなくても答えは出せるし、いわゆる「自動操縦」でもスイスイいけました。(と今はよくわかります)10月になると、違う世界ですので、これまでの応用は効くものの、とりあえず考えないと答えは出ないし、わからんこともあります。ルーティーンそのものも違いましたし。また>問題山積で、乱世と表現したとおり、いろいろ考えなくちゃいかんことも日々多い。師が言うには「どういう思考をした結果、どのようなことになったか」をきちんと把握する必要があると。9月までだとその辺よくわからんわけです。自動操縦でOKなので。「しまった」と思いました。忙しい日々でしたが、毎日その辺を整理しておけばよかったと。今月は、その辺をきちんと整理してみたいと思います。少なくとも会社では結果を出せているので、自分の人生劇場に大きく展開すべき何かがきっとあった一ヶ月だったと思うのです。サラリーマンであることのメリットを最大限生かせるチャンスなんだと自覚しました。ちょっとヒントもありましたし。その辺はまた追々書いていこうと思います。今月は少しですが更新してみたいと思います。やはり書くことで整理されることも多いからです。
2010年11月04日
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昨夜は練習。木刀居合いをたっぷりやりました。これでほんとうに故障しなくなったことなどを語っていたら、師の同級生が治療に来たけど、これがゴルフ好きの方でスイングしてみろと動きを観たら・・・「絶対腰痛になりそうなスイングでした」と大笑い。練習の最後に「これをやるように」と単純な運動を指示されました。腹筋と背筋を鍛えるものでしたが、「腹筋も背筋も鍛えてないとゴルフはできないよ」と。同級生の治療を通じて、何か観えたんでしょう。素直に毎日やることにします。さて、練習の合間に対話したのですけど、師が反応したのが昨日の3つめの日記。「現在進行形」ってやつです。「例えば素晴らしい体験を皆さんされるんだけど・・・ それを語れといえば、いちいち過去を引っ張り出す。『今まではこうだったんですけど、それからはこうなりました。』 そうでなければ、上手く語れない。 そんなんばっかりなんですよねぇ・・・」「過去形の思考の源は 過去のデータとリンクした言葉のカタチを生みます。 抹茶さんは、それを知ったのなら、徹底的に洗い出して消去したらいいですよ。 前に進むチカラが全然違ってきます。」たしかに現在形、もしくは進行形での思考は、ゴルフでも体験してるが顕現力?が全く違う気がする。顕現するのは現在(今)しかないので、当然なんですが。言葉のカタチが思考を示すとするならば・・・過去形表現を使用している場合は要注意です。もちろん、意図的に過去の話をしているのならば問題はないのですが。「体験を語れ」と言われれば、既にその体験のとき(過去)に遡って事実を語るしかないではないかと思いますが、思考パターンでカタチは違うのは納得してます。Aという体験を例にすると過去形パターンは「自分はそれまで~な人間でした。だから〇〇なことを言ったり、△△のようなことをしたりでした。でもAという体験をしてから、そんなことを言ったりしたりしなくなり、逆に▽▽のようなことを表現するようになりました。(おわり)」現在形パターンは「Aという体験をしました。実に愉快で、だから今も愉快です。」おそらく常識的に表現そのものは、過去形パターンのほうがはるかにわかりやすいのです。時系列に沿って、変化を事実に即して語っていますので。いわゆる報告形式ってやつですからね。この常識が落とし穴なんです。現在形パターンは、体験は過去でも、それで感じた、得たものは今もここに在ると表現しますので、ややもするとわかりにくい。天然といわれる人の話し方はこんな感じ?師は言います。過去形思考に気づいたら「ごめんなさい」を使えばいいかも、と。さっとリセットする目的で、かつ自分自身に言う。「ゴメンナサイ」のいいとこと?は即座に使えることだと。使えるものは使って、早く用がなくなれば使わなくなるからと。久しぶりに、熱く指導されたので、ここがポイントだと思います。美術館を縁が出来た人が現在伸び盛りで。土曜教室のあたしの相手(かつて「盛り上がらない人」と表現した人)も伸び盛り。その縁で抹茶さんもきっと、みたいな感じなのかも。(笑)ゴルフで実感して、その感覚が残ってるうちにさっさとやってしまいたいと思います。本日から他部門の兼務となり、10月は今までほど更新できないかと思います。
2010年10月01日
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ゴルフの続きです。LOVEカイロさんの日記以前も紹介しました言葉の不思議について。過去形の言葉を使うと(今の)絆が切れてしまう。このことを違う形で経験しました。土曜日のゴルフでした。前半も後半も共通項がありました。最終ホールで大たたき。さらにスタートホールも・・・2ホールでハーフのオーバーの半分以上2/3未満これが自分の思考にあったと気づきました。最終ホールまだ終わってません。しかし、思考は既に終わっているかのような状態の言語体系で動いていました。「今日はいい感じだった」みたいな。まさに過去形に近い。現在完了形か?するとイメージに溶け込む遊びが全く上手くいかなくなります。へんだなぁと思ってたんですよ、そのときは。師がツイッターでつぶやいてました。「幸せを確認したその瞬間、幸せではなくなりますよ」これで「!」でした。最終ホールにやってたなぁって。そして思考の言語体系が違ってたなと。ならばスタートホールは未来形ですか。「まだ始まっていない」「始まろうとしている」現在形、現在進行形のホールと違うわけです。結果はたまたまですが現在形>未来形>過去形でした。つながり度合いに応じてるのでしょうか。前回の日記の80点⇔マイナス20点を観た瞬間と同じように人生もそうだよなと思えることでした。そうそう。前回の日記は80点で書きましたが、0点でも感謝できます。挑戦できている今に感謝できますから。いつだって感謝&祝福を贈ることが出来るし、繋がるのは常に今なんだと思い知らされた先日のゴルフでした。ゴルフそのものは、ゴルフそのものを練習しないといかんです。それも思い知らされました。もっと楽しもうと思えば、練習も楽しまないと。季節も良くなりますし、故障の不安も解消したし、いろんな愉しみも知ったので練習します。同級生とのゴルフそのものも愉快でした。夜の飲み会含め。(笑)愉快な誕生月も今日まで。心から感謝と祝福を贈ります。
2010年09月30日
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その昔、トヨタはこの考えかたでカローラを世界一の車にしました。あたしら世代にとって80点=カローラのイメージ。これが息子たちになるとマリオ(ルイージ)です。全てが平均点以上主義。ワリオのようなパワー100点、スピード平均以下、ではなく。さてゴルフです。9月23日(木・祝)同級生とゴルフ 44・46=909月25日(土)同級生+1とゴルフ 50・48=98まったくたいしたスコアではないですけど。前回が8月1日(日)で52・51=103その前は、5月1日(土)で45・43=88故障発生を防ぐ目的の木刀居合いは、故障を発生させなくなっただけでなく、スコアにも変化を与えています。春に書いた「70点のショットを70%の再現性」は、ひとつの気づきだったと思います。今、塾でやっているのは、動きの中で知ること、繋がること。自分には木刀居合いが一番なので、復活してます。改めて師に教わったのが、「いちいち分析しない」でした。自分が知っている動き=一番良い動き、のイメージに溶け込む感じ。知っていること、できることに感謝&祝福。練習以上にラウンドならば、まさに実戦訓練です。実に面白かったです。ゴルフ以上に、その訓練が。まさに遊び(^^自分(の身体)を使った遊びです。自分が知っている動きのイメージに溶け込むことでスイングは違ってきました。土曜日にスコアが悪化してるのは、スイングが良くなったからです。(苦笑)アイアンの距離が合わない上に、下手にオンするので3パット連発で逆にストレスと。やっとタイトルです。70点を70%が、80点になりました。面白いもので。練習してないのに。だったらもっといいスコアになりそうなものですが(苦笑)これが面白い。簡単に壊すんですね、自分で。80点のショットなら、結果は見た目100点ですし。ところが、マイナス20点を観てしまう瞬間がある。これでもう一発破壊です。イメージが消えてるので溶け込めません。もちろん、ラウンド終了時に知ったことですが(笑)できている80点に祝福&感謝していればいいんです。それをやっぱりできていないマイナス20点に意識を向けてしまう。(それは練習のときにやればよいことかと)パットになると顕著です。そもそも、そんなに難しい動きではないのでイメージが希薄。それこそ美術館で見た繊細な線を描くぐらいのストロークを身につけたいものです。人生も同じことのように観じました。贈るべき感謝&祝福が全然足りてないんだろうなと。愉快に生きるって?ということを観じたゴルフでした。もう一個書きます。
2010年09月30日
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ご無沙汰してます。いろいろ書きたいことはあったのですが、バタバタで。明日から別の部署を兼務することになりますので、さらにバタバタするかもしれません。何とか自分のために気づいたことは書いておきたいと思います。まず日曜のこと。またまた友人の美術館へ行きました。師からのオーダーがあったのです。「ホンモノの線を見せたいので、連れて行きたいのですが 美容室勤務なので、少し開館時間を早めてもらえないだろうか?」ということで友人に打診すると即OK。自分は練習に参加できていなかったので、立ち会うことに。すると息子が「自分も連れて行け」と言います。前回の日記で、あたしの誕生日に夫婦で行ったと書きました。そのときの両親(あたしと妻)の反応とかを見ていて興味を持ったらしい。「そんなにいいところなら自分も行ってみたい」と。刀剣を見たいのもあったようで。絵画は前回とまだ同じ。自分は息子に語りかける。「この絵に『静けさ』を観なさい。 歌をやっているなら、それは知っているはずだ。」素直に頷いた息子がそれを観たことは、あたしにもわかりました。そうこうすると友人が来て「お師匠さん(あたしの師のことw)、この刀も見てください。」前回のことを覚えていてか、嬉しそうに語りかけました。師も絶賛していました。そしてせっかくだからと息子も念願のホンモノを持ってみた。感動してました。美容室勤務の塾生たちは、「ホンモノの線」が観えたようです。後で師へのメールで「ホンモノの線を描くには、それ相応の筆が必要なので探します。」と。いい勉強になったようで何よりでした。個人的には友人が、あたしに見せたいからと掛け軸を当日替えてくれました。勝海舟・・・相変わらず、なんでそんなもん持ってるの?というものが登場。これがまた素晴らしい。(書のことはよくわからんけど)「次にきてくれたときは、山岡鉄舟を見せるから」と。タイトルの導きですが、どうもこの【舟】の偉人(笑)との出会いを観じたもので。まだ意味はわかりませんが、自分が望んだものであろうことはわかりますし。「いい親子だね」と後日のメールで褒めてくれた友。息子は、とても感動してました。妻曰く、「この年齢で、あそこは少し重たいのではないか?」と言いましたが、息子は絵画以上に庭を眺めて、いい波動・振動数になってました。なので、「わかるやつにはわかるんだと思うが・・・」と言いました。事前のメールで「今、彼岸花がきれいよ」と友が書いてきたので、帰りに楽しみました。赤だけでなく、黄色や白もあって、見事なものでした。ここのことをパワースポットと申しましたが、息子にも導きがあったのかなと観じます。SE、御使いの玉、祝符、を各自持つことで、それぞれはもちろん、家族3名の共有する何かを知ることができたと思うのですけど、こことの縁も同様だったかなと。息子が足を運ぶことに意味があったのかもしれません。次の日記では、ゴルフのことなど。
2010年09月30日
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ご無沙汰してました。今日の一曲は「シンクロニシティ【素敵な偶然】」竹内まりやタイトル以外日記の内容とは全くシンクロしてませんけど。(笑)上期総括&下期対策の会議の事務局でしたので、会社が忙しく更新できませんでした。そんな中、日曜にはひとつ年齢を重ねました。イチローの背番号になってしまいました。妻からのプレゼントは刀?いえいえ、実は傘なんです(=`Д=) 【!!】気分は侍☆ 刀の形をしたユニーク傘 サムラ...価格:4,147円(税込、送料別)なんとまぁかっこいい傘でした。息子からのプレゼントはこんな感じ。◆2010.SUMMER-COLLECTION!◆戦国武将 前田慶次 刺繍金箔 和柄歴女Tシャツ 5701白-Mサイズ価格:2,625円(税込、送料別)いやこれは・・・・木刀居合から「神との対話」の勉強にシフトしたのですが、まだまだやれ!というメッセージに観じました。毎日少しでも続ければいいのですが、なかなかそうもいかなかったので。しっかり受け取りました。土曜日、師にその話をしたら、師も別の観点から「動きの中で」ということを考えていたらしく、「抹茶さんは練習を再開しましょう」と。(他の方には他のメソッドで)ダメ押し。大学入学後、身体を鍛え続けてきた息子は、さすがに【いい身体】になってきました。しかしもう少しマッチョな感じが欲しいらしく・・・「だったらこれを使えば?」と。【送料無料】BULLWORKER(ブルーワーカー) ブルワーカーX5 FB-2010価格:12,390円(税込、送料別)使っていなかったこれを引っ張り出し、掃除して渡しました。使い方を説明してやらせて「まぁ大胸筋なんかこれが最強だと思うぜ」と。やってみた息子も「これはすごい。すぐれものだ!」で・・・「あんた、なんで放置してたの?」ははは(苦笑)妻「お誕生日をきっかけに、お父ちゃんも鍛えなさい!」うはは(苦笑)ダメ押しですね。日曜日は妻と友人の美術館に行きました。ケーキを持って「俺の誕生日だから祝え」と(笑)「え!?誕生日だからということで来てくれたの?」と大喜びしてくれました。誰もいなかったので、また刀を見せてくれました。妻の日本刀初体験でしたが大喜び。2時間はいたでしょうか。余談ですが、2時間ってのが実に絶妙。一刻というのが方位取りの滞在目安と聞いています。妻曰く「なんか抜けて、元気になった」いろんな意味で、いい誕生日でした。昨夜、道場で久しぶりに木刀居合いを。やっぱりよいです。いろんなカタチで侍、刀、鍛錬?というメッセージが連続しました。家族の愛情、友人、師、を通じて受け取ったものがあります。これらはまさにシンクロニシティと言えるのではないかなと。自分自身の自分自身への愛情を感じました。実に愉快です。これでやらねば漢ではありません。(キッパリ)今月はきっちりやります。
2010年09月16日
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一つ前はこれ。紹介した書籍もそうですし、塾でやってる「神との対話」講読なんかもそう。かぶれると結局・・・と自分の体験でも思います。案外「変換」を読んだ人もいらっしゃるようで、ブログ見つけたりします。で、いろいろ思います。(苦笑)余談というか前置き長いですが、あたしは空仙さんの日記を拝読して、バランス取ってると自分で観じています。ありがたいことです。(^^さて「うばう」3次元的というか、この世的にまず考えると「所有」という概念からの展開になります。自分以外の誰かのものを、譲渡されずに自分の所有にしてしまうのが「うばう」です。譲渡・・・無理やりなら「うばう」に等しいです。戦国時代の領土なんかがまさにこれです。もう少し展開すると、「うばう」⇔「与える」と考えることも出来ます。また、譲渡から展開すると「支払うべき対価を支払わない」ということもあるでしょう。こう考えると、一般的に我々は、「うばう」行為はしないはずです。なぜならそれをやったら犯罪だから。(笑)ということで、ここで問題になるのは、「うばう」に等しい(と自分が感じる)行為です。「支払うべき対価を支払わない」をかなり掘り下げると観えてくるものもあるかと。何度も引用していますが、空仙さんの「こどものころにうえつけられた。。。」に書かれていることは、「うばう」行為の原因のヒントだと思います。受取に条件はない条件があると思っていれば、それを満たしていなければ、うばったことになります。受取は交換ではない交換だと思っていれば、交換が成立していなければ、うばったことになります。それを観ているのはすべて自分です。つまり、「うばう」行為をしたという判定は自分自身がしていると。結局、精神世界的になってしまいますが・・・自分のものは何もない全ては既に与えられているということを否定する思考が「うばう」に繋がるように思います。そして、その思考を支えているのは、やっぱり【不安】(不足)だと観じました。書いてみようと思ったのはいいけど、時期尚早だったか・・・少々骨が折れます。(苦笑)
2010年08月30日
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ある時期から「観じました」という表記が目立っています。違和感のある方もおられるかもしれません。実はこの表記、ある本の影響です。「変換」という書籍です。鹿児島市在住の方が著者ということもあって、購入してみました。観る、感じるを同時に表現した「観じる」は、なんか自分にはしっくりきたんです。「変換」という日記を書いたのもヒントがあった、あるいは影響されたのかもしれません。少々クセがありますので、読みにくいのも事実。(慣れればどうってことなくなります)合わない人も多いかも・・・ただ、自分の体験・気づきを自分の言葉で書いておられることは伝わります。届いてくる、あるいは刺さる、内容も多いです。と推薦してるようですが、別にそういうことじゃないです。「うばう」エゴの発想の象徴として、この言葉で括っておられるのですが、どうもわかりにくい。しかし、核心であるようです。だから気になります。もやっとします。すると、そのうち「その人の次元に応じてわかるようになる」と書かれているように、いろいろ観じられ始めたので不思議です。今週はそんなことを書いてみようと思います。「うばう」を整理してみても、著者が「うばう発想」と表現した思考にはたどり着きにくい。というオチなんですけど。(笑)まずは「うばう」そのものから展開してみようと思います。
2010年08月30日
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久々の普通の?日記(苦笑)土曜日「黄金の都シカン」がいよいよ始まるということで開場式に。ということで塾は休み。午後はマルヤガーデンズへ妻と。息子が所属する大学のアカペラサークルのライブ。いよいよデビュー。「やっぱりいいよね」「うん」夫婦の会話というか両親の会話。子供が楽しそうにしているのは嬉しいものです。いくつになっても(親ばか)骨折した妻が一応完治後、初のチャリでのお出かけ。大丈夫でした。それもよかった!帰りには友人の書を美術館に見に行きました。夜は義母にストレッチポールなどの使い方を指導・・・あっちが先生なのですが(苦笑)師から学んだことの応用とか、あたしのオリジナル?は有効だと妻も評価してるので。義母にも評価していただきました。日曜日一応完治したらイオンショッピングセンターに行きたいという妻との約束を果たす。ちょうど「24時間テレビ」ということで、鹿児島讀賣テレビの皆さんが頑張っておられました。カサリンチュのライブをやるようでした。リハだけちょこっと見たんですけど「やっぱメジャーデビューするのは違うね」「そうだなぁ」いえ、昨日の息子たち大学生(素人)と比較してね(苦笑)ヴォーカルの声が違うんだよね。いろんな意味で。さすがに昨日からの流れで妻も疲労していたようで、早めに帰宅。それはあたしも同じで・・・「龍馬伝」の薩長同盟を視聴した後はぐったりでした。それにしても8月も終わりだというのに暑いです。よく汗をかいてます。氣を動かしてるせいもあるかもしれませんが。そうそう、妻がプルーンを紅茶で煮ました。食べ方としては有名らしいのですが知らなくて。イタ飯屋の社長に勧められたんですね。旨いです。煮出した紅茶も。疲労回復には良かったかも。(^^
2010年08月30日
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予想外の3つめ(苦笑)その前は「紙一重」「紙一重2」「観察」「傍観」「満たす」「溢れる」という言葉のカタチに拘ってみた理由。LOVE Chiropracticさんの日記「病気を呼ぶことば 病気を呼ばないことば」 このシリーズ(まだ進行中)が面白かったので。(^^この「病気を呼ぶ言葉」=「絆を切る言葉」という観点は新鮮でした。そこで「観察」「傍観」に繋がったのです。関係性がある、ない、の違い。「満たす」「溢れる」には容量制限のある、ない、の違い。言葉にはそういう性格?があるなぁと。「傍観」も空仙さんがおっしゃるように、たしかにほんとに無関係ではないですね。出会いはあるわけなので。ふと思い出したこと。距離?です。何か起きたとします。その現場には、当事者、関係者(発見者、目撃者、その他諸々)が存在します。で、野次馬もいるかもしれませんし、たくさんの「ただの通りすがり」もいるでしょう。大きな話ならば、テレビを通じて視聴するとか、新聞で読むとか・・・要するにメディア経由で何らかのカタチで接することもあるでしょう。これら全て、その出来事と「出会った」と言えると思います。その違いは関係性であり、距離感ではないかと。概ね時空含めて距離が遠ければ遠いほど、関係性も遠くなります。もちろん関係が深いのに、距離が遠かったということもあるかとは思いますけど。ただ、その出会いの意味がどうだったかは、必ずしも距離と関係しないかもしれません。もちろん概ね距離に比例して意味合いも深さは違うと思いますが。空仙さんが「ただ。。。。。」で書かれたただ~するということは、まさに中今を生きるということだと思います。時空を超え(距離を超え)、関係性を超えたところで、と。(枠を外すとも言えるか)そういう観点では、「観察」より「傍観」が近いというのも納得です。あたしは「繋がる」ということを今、テーマとして観ていますので「観察」を選択しましたが、自身が非常に分析・解析癖の強い人間ですので、空仙さんの指摘された弊害?も非常にわかります。自分は、「無反応」を経験したので、「無関係」の言葉より関係性の強い?言葉をあえて選択してみました。それにしても「絆を切る言葉」・・・面白いです。あると思います!ですね。(旧いw)しばらくは、言葉を使うとき、こんな観点で遊んでみようと思っています。失敗しても遊びですから。どんどん学べるでしょう。(^^もちろん「ただ~する」で生きるが根本です。(基本ではない)愉快に宣言しときます。(^^b
2010年08月27日
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本日ふたつめ。ひとつめはこちら。空仙さんの日記「自ら輝く」でもコメントしましたが、「溢れる」を体験してみて、これは「持っている」とは違うなと。【源】と「繋がっている」と知ることだったと。空仙さんは色んなカタチで比喩されますけど、これは「自分という枠」と関係してるかなと。(境界線のこととか非常に参考になります)紙一重と言えるかわかりませんが・・・「溢れる」と「満たす」は全然違います。「満たす」だと満タン(FULL)で終わりです。「溢れる」のはそこから先です。「自分という枠」そこで満タンだと思えば、そこで終わりです。「満たす」とはそういうことになります。そこで満タンではないと思っていれば、終わりません。「溢れる」わけです。氣は遍満しているので、「自分という枠」そのものが無意味なのかもしれませんけど。ここで「制限とは・・・」という日記で書いた師の言葉を思い出します。>「中今」の説明で、「永遠の時間の中心点としての今」があるように>永遠の生命(せいめい)の中の「私の生命(いのち)」がある感じ。>ということを語り、その制限と、その制限があるからこそ、の話をしていると・・・>制限であるのは「たしかなこと」なんだけど、それを永遠の中に枠(フレーム)付けした、>と観てみたらどうか?と言われました。「自分という枠」は、ここで書いた生命における「永遠の中の枠(フレーム)」という観点に似ているなぁと観じます。「全て」から「個」を枠付けしたのは誰?それは「わたし」だと観じます。全ては繋がっている、全てはひとつである・・・と体験的に知るためには全てがバラバラの個である必要があるこの相対性が素晴らしいと思います。だから「自分という枠」は素晴らしいと思います。素晴らしいと思えるかどうかは、紙一重なのかもしれませんけど。素晴らしくないものを、わざわざ創造しないと思いますから。(^^
2010年08月27日
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「観察するとは傍観することではない」と師がおっしゃいました。「ただ観ている」という言葉には、一つ間違うと・・・という部分があります。「手を出さずに観ているだけ」という点では同じですが、決定的に違うのは、『傍観』は、【関係ない立場】で観ているということでしょう。『観察』は対象を知るために観ているし、そのために対象の変化を見逃さないように注意深く観ています。決して【関係ない立場】ではないのです。以前、「出会い」という日記で書きました。物事にはそもそも意味はないということに気づいたのはいいのですが、(ラベルを貼りたがらない、という意味で)関係性まで否定するような思考を選択すると、せっかくの「出会い」が「出会い」にならなくなってしまいます。なぜなら自分には無関係だという選択をしているから。つまり、「観察」ではなく「傍観」になってしまうわけです。昨日の日記で書いたことも、一つ間違うと、という危険があります。でも何かを観じたので、今こうして書くことが出来ました。お任せするこの言葉も関係性まで放棄してしまうと、投げやりと同じことになります。関係性とは信頼です。信頼しているから任せる、ということです。この信頼という言葉もまた「あやふや」系ではあるんですけど。一切意図せずこれもまた嘘といえば嘘です。「任せきる」という唯一の意図が透ってますから。>あくまでお任せ。懐かしい感覚たちも、ただ観ているだけです。意図はかけません。だから、この体験には、「紙一重」で全く違う方向性が内包されています。意図をかけないとは、余計な手出しをしないということ。ただ観ているだけだけど傍観しているわけでなく、出会いは大切に結んでいる。あくまでお任せしているのは、出会いの創造に感謝し、信頼しているから。と書けば、大層なことのように感じますが(苦笑)「態度」を示す、とはそんなことのように観じました。「紙一重」ではありますが、その紙は、まさに神かと。(笑)「神一厘」と同じことのように観じました。そりゃ分厚い紙ですね。同じことに見えて違うことその「紙一重」が面白い。愉快であると観じます。自分という枠それが、鍵のように観じています。
2010年08月27日
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昨日の日記を受けて氣を溢れさせるということをやり始めました。気功法とか、ましてや仙道なんか知らないので、完璧な自己流です。「知っていること」だけでやりましたが、一般的なやり方?も実は「知っていること」のように思えてきました。例えば、天地を繋ぐ、センタリング、等々の文言ですけど真気塾時代に経験してたと気づきます。似たようなこと、というのが正しいですけど。だから、やってみると、どうすればいいとか考えずにやれました。正しいやり方かどうかはわかりません。ただ、自分が思っている以上に(体験的に)「知っていること」は多いなと。言い換えれば、結構「持っている」なと。面白かったのは、ストレッチポールが実に使える道具であるということ。あれを使いながら、背骨に氣を透すと実に効率が良い。(^^背骨そのものが効率が良い。なぜなら全身の神経が氣を全身に拡げてくれるから。氣を溢れさせるのはいいですが、真気塾的だからでしょうか・・・なんか動き出します。(苦笑)となると抜く(排出する)しかありません。ここで意識の転換をしました。動いているのが「マイナス」だと思うと、真気塾の「流し」をやるしかなくなります。「邪気」だと思えば、また別の処置をしなくてはなりません。さてどうしたもんか・・・と。そのときです。妙な記憶が脳裏に。「ほぉ」「なるほど」いえ、別にたいした記憶じゃないのですが・・・自分自身の残留思念とでも申しますか、そのように観じました。残留思念=思考のエネルギーの残留物的もの残留した理由は、自分自身の引っかかり、こだわり、思い込み・・・などなど。あえて、そのようなもの、というラベルを貼って処置することにしました。川に流す、あるいは桜島に流す・・・みたいなことはしたくない。(これも拘りだが)結果・・・そんな拘りも含め「お任せ」しました。(笑)本日も、そんな状態が続いており、皮膚に違和感を感じたりなど懐かしい感覚がございます。でも「マイナス」を「流す」ということはやっておりません。あくまでお任せ。懐かしい感覚たちも、ただ観ているだけです。意図はかけません。よくわからんけど愉快!です。余談)師が、あたしの氣のこととか認めてくれるのは、普段の積み重ねもあるのでしょうが、昨日改めてやってみて観じたことは、マオジェニーさんが鹿児島に遊びに来てくれたときのことが大きいかもしれません。あたしが氣は波動に関して「知ってること」は、結局、真気塾を通じて(体験的に)知ったことがほとんどだと再確認しました。で、結構いろんなことを(体験的に)知っているなと。体験的に知る、ということってやはり大きいですね。あの頃の延長線で何かやろうとは全く思わないけど(こだわりではなく)あの頃の経験から知ったことを通じて、新たな体験を創造しようとは思っています。「知っている」「持っている」ということは、愉快なことです。それを使わないのは損ですし、使えばまた愉快です。どんな体験を創造するかは、また「お任せ」しようと思います。氣が溢れる、ということならOKですし。
2010年08月26日
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「生命(いのち)」=「本質」そのように観じたわけですが、そこから当然のことを改めて思ったのです。自分が「持っているもの」として唯一「たしかなもの」は「生命(いのち)」である。だから、当然、そのエネルギーを有している。氣とは遍満しているもので、宇宙エネルギーのようなものです。「わたし」という存在が、「全体」の一部であるように「わたし」という「生命(いのち)」のエネルギーもまた、「全体」の一部でありちゃんと繋がっています。また、その「写し」であることから、全ての性質を保有しているとも言えます。氣を操る?とき、重要なのがイメージであるのは、意識という見えない世界とリンクしているからです。というか、基本的に階層の違うところのものであるかと。氣が場所に関係ないのは有名?ですけど、時空すら超えるものでもあります。(空仙さんやマオジェニーさん関係で、時間設定した遠隔を受けた経験があります)見えない、と言いますが、氣やオーラは見える人には見えます。でもこれは霊が見えるのと同じかと。視覚にも階層があって、別の階層の視力で捉えている、もしくは意識で認識しているかと。(このあたりは素人なので、言い切ってよいものかと思いますが)かつてやったことでもありますが・・・あたしと桜島が繋がる、なんてことは、当然のこととしてできますし、あたしが桜島の氣を発する、みたいなことも当然ありえることです。かなりトンデモな発言をしてますが(苦笑)師がかつて言いました。「抹茶さんの一番良い持ちものは氣ですし、一番得意なのはそれを使うことのはず。 あなたが会社に最も貢献するのは、あなたがあなたの氣を溢れさせること。 単純なことだと思いますよ。」「意味わかんねぇし!」と思ってました。(苦笑)しかし今は「当然のこと」として理解できます。氣が溢れているとは、あたしの「生命(いのち」エネルギーが、最も表現されようとしている、状態と言い換えることが可能です。会社云々に限らず、あたしが、今、ここ、に居て、出来るベストとは何か?「自らの『生命(いのち)』エネルギーである氣を溢れさせること」すなわち、自ら持っているものを最大に表現するということだと思います。引き寄せとか、現象化とか、色々言いますが・・・それを創造しうるエネルギーなしに、それは創造し得ない。というのも「当然のこと」なのではないか?と今は観じています。いかにして氣を溢れさせるか・・・これもまたシンプルに捉えています。愉快であれば良い!結局ここに帰結するのもまた「当然のこと」なのかもしれません。(^^
2010年08月25日
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昨日の日記のつづき補足から>かなり乱暴な言い方をすると>潜在意識を活用して願望実現>ということと>龍を使役して願望を達成する>霊の力を借りて願望を達成する>は、ほとんど同じことをやってることになります。全部アストラル界ですので。アストラル界、つまり「見えない世界」に働きかけるという意味で同じ。そして【行為】も全て似たものです。例えば潜在意識の代表例としてのアファメーション。呪文を使った術を自分にかけていると言えませんかね?空仙さんの昨日の日記この境界線の記述で、書かれていることとは違うんだけど、自分にもあった(ある)と観じました。サイトが閉鎖された真気塾の思い出。空仙さんと出会ったのも、ここが縁でした。>ある一定の定義でマイナスと呼ばれる存在これと関わったわけで、いろんな体験もしましたが。正直、真気塾と出会うまで、これと関わる経験はしていないと思います。関わっていないということはないかもしれませんが、少なくともそういう認識がありません。そしておかしなことに、故・きこうしさんが倒れてから、関わることが少なくなりました。また、お亡くなりになってからは、関わっておりません。(認識していません)あれから7年ぐらい経過していますが、その間はどうだったかと言えばマイナスまみれになっているかといえば、たぶんそんなことはないと思います。ある時期、真気塾繋がりの人と再会するたびに言ってたように記憶しています。「あたしは、あの当時よりもむしろいい感じである」と。きこうしさんが亡くなった頃、師匠と出会いました。その影響は大きいと認識していました。しかし、昨日、空仙さんの日記を読ませていただいて観じました。頼れる最終兵器を失って、自己防衛した。という認識を持ちました。別に悪いことだとは思いません。結局のところ、やっぱりマイナスは悪いものというラベリングがあり、そんなもんと関わるもんじゃない、という認識があり神仏系では痛い目にあったので(苦笑)、そういう存在も関わりたくないしという意識が形成され、自分の中でラベルどおりに整理されていたと観じました。「不愉快」は「愉快」を知るための【相対性】であると最近知ったのですが、よく考えると、真気塾の体験は波動改善の過程において、「真気」の【相対性】である「マイナス」と(必然的に)出会うというものだったと観じました。思考とか言えば違って感じますけど、意識の世界の階梯が、目に見えない世界の階梯と見事にリンクしているという仮説を前提とすれば、同じことではないかと。つまり「目に見えない世界」が「目に見える世界」を創造している、あるいは投影であると。色即是空 空即是色 御喜楽使さんがコメントされていたように「ボーダーレス」なのが、この世界でしょう。マイナスと関わるのが愉快か?と問われれば、否と回答するかもしれませんが、あたしの愉快にマイナスが協力するということを拒否する理由も全くないと今は思います。次は「持っているもの」から考えてみます。
2010年08月25日
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書きたいことがあるんですが、またまたその前に。単純なことを見落としておりました。潜在意識=アストラル界こういう構図がありますけど・・・自分の頭の中では、どのように並んでいて、それぞれをどのように認識しているか。なんか笑えました。アストラル界=霊(的)世界・・・のようなものなわけですので霊、マイナス(的存在)はNGで龍、聖霊、みたいのは、グレーゾーンで潜在【意識】はマルだと、かなり矛盾してるわけです。かなり乱暴な言い方をすると潜在意識を活用して願望実現ということと龍を使役して願望を達成する霊の力を借りて願望を達成するは、ほとんど同じことをやってることになります。全部アストラル界ですので。自分の中で、ひとつ拘り?が消えたような。(苦笑)ちょっと愉快です。こうなりゃ「なんでもあり」でいくしかないと思います。そのほうが愉快だからです。
2010年08月24日
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書きたいことはいろいろあるのですが・・・まずはこれからスタートします。「情熱大陸」~ダンスパフォーマー上野隆博※上野隆博さんのダンスパフォーマンスマドンナのツアー?ケント・モリみたいなダンサーがいたんだなと。タイプは全然違いますけどね。番組内でTakahiroのウェーブの動きをスーパースローで撮影しましたが(上半身裸で)まぁ筋肉・関節が実に素晴らしく動くものですね。面白かったです。もうすぐ51歳のおっさんが刺激受けてもしょうがないのですが(笑)先週、水曜に寝違えました。かなり久しぶりでした。まったく左を向くことが出来ないので、他人に「どうかしました?」と言われるレベル。治療に行こうと思いましたが、会議を控え、時間がありませんでした。ということで自分で治療。ほぼ問題ないところまで・・・自分でも驚き。自分を観るとか、自分に関心を持つって大事だなぁという体験でした。自在に動くTakahiroは凄いですし、そのマネなんかはできませんが、自分を観るということはマネができるかなと思いました。それと、持っているものは表現できると。寝違えには苦労してきましたが、自分でここまでやれたのは初めてです。自分にもっているものがあると体験的に知りました。ノウハウ?とかそういう目に見えるものもそうなのですが、もっと深いところで。Takahiroは、自分が持っているものを徹底的に求めている人だと感じました。そこも真似できることではないかと。今週は「持っている」と「表現」、そして「自分を観る」をさらに観じる週になります。
2010年08月23日
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