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森田理論は不安は自然現象であって人間の意思の自由はないという。では絶えず私たちを悩ます不安に対してどう対応していけばよいのか。湧きあがってくる不安はどうすることもできないが、その不安を精神交互作用によって増悪させることを避けることは可能だと思われます。今日はその方法を考えてみました。・「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という話があります。夜道を一人で歩いているとき、ざわざわと音がすると幽霊が出たような気持になる。先入観、思い込み、決めつけ、早合点などで、事実を見誤ってしまうのである。不安を増悪させないためのコツの一つは不快な事実にきちんと向き合うことです。ここで肝心なことは向かい合うだけで、後はなにも付け加えないということです。・第2のコツは、幽霊ではなく、ススキの穂が揺れていたのだという事実が分かれば、注意や意識を次の不安に向けていくことです。自転車で砂利道を走行しているのであれば、でこぼこ道で転倒しないように注意する必要があります。また猪や鹿などの動物にも注意する必要があります。・完全主義、理想主義、完璧主義の強い人は不安に振り回されてしまいます。森田でいう「かくあるべし」の強い人です。私の場合、人から無視される。軽視される。非難される。否定されるような人間になってはいけないというものでした。しかし現実は理想とはかけ離れたことばかり起こりました。その結果、「予期不安」「予期恐怖」などで積極的な行動ができなくなってしまいました。消極的な行動でお荷物社員となり周りの人から益々非難されるようになりました。「かくあるべし」によって、コントロール不可能な自然な感情を忌避していると、真綿で首を詰めつけられるような状態になります。ではどうするか。私の場合、上記のような「かくあるべし」が出てきたとき、それを客観的な目でながめてみるようにすることでした。「かくあるべし」と格闘しない。「かくあるべし」を否定しない。「かくあるべし」をそのまま価値判断しないで認めるということです。自分は観念中心でそのように考える癖があるということを自覚する。水谷啓二先生は自覚を深めることを強調されています。・「新しい行動は新しい感情を作り出す」という言葉があります。不安で押しつぶされそうになったとき、この言葉を思い出すようにする。行動の基本は、規則正しい生活習慣を作り上げることです。すると「この次に何をしようか」などとは考えなくなります。自然に身体が動き出す習慣作りは3ヶ月くらいで出来上がります。内相はそのままにして、外相を整えることに注力したいものです。・不安でうつ状態に陥りやすい人は、ストレス発散のアイテムを持っておくことをお勧めします。たとえば、私の場合、収集したユーモア小話や川柳見る。マーラーの「巨人」を聴く。藤沢周平の小説を読む。プロジェクトXで瀬戸大橋建設の現場監督杉田秀夫氏のDVDを視聴する。You Tubeで漫才やコントを見る。
2024.11.19
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森田は不安や恐怖を取り去る・軽減するという考え方ではありません。不安は親しい友達のようなものです。適切に付き合っていると危険なこと、やってはいけないことをいろいろと教えてくれます。安全に生きていくためにも良好な人間関係を築くためにも必要なものです。敵対していると不安や恐怖のほうが自分にしつこく付きまとい攻撃を仕掛けてきます。強迫観念と言われるものです。不安が沸き起こってきたら、価値判断しないで、まずはきちんと受け止めることです。そのためには不安にきちんと向き合い、不安の正体を知ることが大切です。森田には「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という有名な話があります。夜道を歩いている時、ざわざわと音がしたのを幽霊が出てきたと早合点してしまうと、前後不覚になり精神的に混乱し、慌てて行動するために大けがをする可能性が高まります。この場合、音のする原因を調べてみようという気になれば大事には至りません。次にすることは、不安を増悪させないことです。森田では精神交互作用で注意と感覚の悪循環が神経症に陥る原因の一つだと説明されています。ボヤに油を注いて、火の勢いを強めることを何としても阻止することが肝心です。不安を誰もが感じる不安の状態でやり過ごすことが肝心です。たとえば戸締りが気になることは、防犯上とても大切なことです。そのために戸締りに注意を集中して確認作業をきちんと行う。他のことを考えながら、うわの空で確認作業をしてしまうと疑心暗鬼になります。音で確認する。隙間があれば施錠されているか目視する。ドアノブを2~3回程度回してみる。あるいは呼称確認をするようにする。確認恐怖の人は、それでも戸締りのことが気になり、引き返して確認作業をしてしまうのです。前頭前野ですっきりと納得したいのですが、前頭前野はむしろ不安を増悪するように働いてしまうのです。ここでは側頭葉や運動野に全幅の信頼を置くことです。その間、前頭葉にはお休みしていただくことが肝心です。森田理論は不安や恐怖は生活のなかで自然に湧き上がってくるものであり、不安や恐怖をなくすることはできない。人間ができることは不安や恐怖を大きく増悪しないようにすることだと教えてくれています。ではどうすれば、不安や恐怖を沸き起こったままの状態でやり過ごすことができるのか。これにはいろんな手法があります。森田理論では、「新たな行動に取り組むと、新しい感情が生まれる」といいます。どうにもならない不安はそのままにして、目の前のなすべきことにイヤイヤ仕方なく手を出していると、気になっていた不安は新しい不安にとって代わっているというものです。どうすることもできない不安を抱えたまま、目の前のなすべきことに手を付けることが重要になります。
2024.11.10
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歳をとると、目が見えなくなってくる。老眼鏡が手放せなくなる。髪が抜け落ち、歯が抜けてくる。筋肉が落ちて痩せてくる。さまざまな持病を抱えて医者通いをするようになる。シミやシワだらけになる。肌の艶がなくなり、若者のようにさっそうと歩けなくなる。深酒をすると回復に時間がかかるようになる。重いものが持てなくなる。階段を上ると動悸息切れが起きる。興味や関心が持てなくなり、意欲の減退が始まる。記憶力が悪くなる。認知症になる。同じことを何度も口走るようになる。寝たきりになる人も出てくる。このように歳をとると若いときに持っていたものがどんどん失われてくる。若いときに難なくできていたことが次第にできなくなってくる。これは成長が止まり、退化が始まってきたともとらえられます。未来に向かって輝かしい成長発展を熱望しているにもかかわらず現実は逆になる。岸見一郎氏は、人間が生きることは「進化」することではないと言われる。それでは生きるとは何なのか。それは「進化」ではなく、「変化」するということだ。前に進めなくても、あるいはむしろ後退することになったとしても、その時のその人の在り方の全てが生きるということなのです。どのあり方にも優劣はない。目標を持って生きている人や前向きに生きている人が特別優れているわけではない。生まれてときには何もできなかった子どもができることが増えていくことも、健康な人が病気になることも、歳を重ね、若い時には難なくできていたことが思うようにできなくなることも、どれも単なる変化なのであって、以前の状態と今の状態とを比べて進化したとか退化したとか見なくてもいい。(人生は苦である、でも死んではいけない 岸見一郎 講談社現代新書 59ページ)目標を見据えて是か非でも達成しないと考えるとしんどい。それよりは目の前の変化を注意深く観察する。また将来の起こりうる変化を予測する。対策を立てられるものや改善・改良できるものには対応していく。自分一人でできないことは応援してもらう。どうすることもできないものは、白旗をあげてあるがままに受け入れる。「かくあるべし」を封印して、目の前の変化に全力で対応していく。変化に身をゆだねて、「今、ここ」の瞬間を精一杯生きていきたいものです。
2024.11.03
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三重野悌次郎氏のお話です。我々は、自分が考えたり話したりすることは、事実そのままだと信じていますが、実際は事実の一部分か、あるいはありもしないことを、あると信じて、考えたり話したりしているのです。その例が神経質の苦しみです。ある人は専門病院の医師が否定するのに、心臓に疾患があると信じて、発作を恐れて電車にも乗れない。ある人は胃癌になったと思って勤務を休む、ある人は人前で緊張するのは自分の精神が弱いからだと考えて、精神強化のために坐禅をしたりする。これらはいずれも自分の考えたこと(観念・思想=言葉)を事実として、対応しているのです。つまり間違った地図によって現地を旅行しているのです。迷ったり生きづまったりするのは当然です。だがこのような誤りは神経質者に限らず、一般の人も同様な誤りを犯します。たとえば「近ごろの若い者はなってない」とか「女だから駄目だ」というのは、いずれも自分の考えを事実と混同しています。このような誤りを犯さないためには、常に事実をあるがままに見ることと、できるだけ具体的に話すことが大切です。(森田理論という人間学 三重野悌次郎 白揚社 126ページ)この話から「不安」を考えてみたいと思います。不安には2通りあります。まず現実的な不安があります。たとえば2024年8月8日日向灘地震が起きました。震源地は南海地震の震源域に含まれており、南海地震を誘発する可能性があると気象庁から注意喚起がなされました。これは事実に基づく現実的な不安です。現実的な不安に対しては危険回避のために積極的な対応が必要です。家具の固定、非常食の用意、水の確保、ヘルメットの用意、避難場所の確認をされた人が多いのではないでしょうか。これに対して、観念的な不安というものがあります。人間は言葉を使い記憶力を働かせて、過去のことを悔やみ、将来のことに取り越し苦労し、人の思惑を忖度します。危険がほとんどないことにも悩みます。例えば危害を加えるとは思えないような犬でも、犬を見るとすぐに逃げてしまう人がいます。あるいは危険かどうかわからないようなことまで悩みます。車のあおり運転のテレビ映像を見て、運転することを躊躇する人がいます。たしかめようがない未来のことに対しても、根拠のないことを想像して思い悩んでしまいます。訪問営業の仕事をしている人が、自尊心が傷付くことを恐れて仕事ができなくなる人もいます。神経症的な不安というものは、事実に基づかない観念的な不安です。非現実的な不安は、現実的な不安と違い曖昧模糊としたものです。したがって解決方法が見つからない。観念の世界で作り出した不安は、すぐにどんどん膨れ上がってしまいます。誰にでも起こりえるような失敗を自分が会社の中で居場所を失ったかのように膨らませてしまう。自分の一生が終わったかのように思い込んでしまう。
2024.10.04
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ミスや失敗をするとすぐに挑戦する意欲をなくしてしまう人がいます。小さな挫折を自分の一生を左右するかのように受け取る人もいます。うつ状態になる。そして再起不能に陥ってしまう人もいます。やる気をなくするだけではなく、予期不安に振り回されてすぐに逃げてしまう。逃げてばかりの自分に嫌気がさしてしまう。自己嫌悪、自己否定感で苦しむようになります。生きていくことがむなしくなり、投げやりになってしまう。実はこれは過去の私の姿です。私とは反対にミスや失敗を反面教師として活かし、どんどん成長し続ける人もいます。うらやましい限りです。こういう人はミスや失敗や挫折の経験を否定しない。むしろ貴重な宝物のように考えている。だから私のように隠す、ごまかす、言い訳、責任転嫁をしない。ミスや失敗なしに成功するほど世の中甘くないと考えている。それならどんどんミスや失敗の経験を増やそうと考えている。たとえば飛び込み営業の場合、ほとんど断られる。でも腐らずに営業活動をしていると、自動車の飛び込み営業の人の話では、100件に1回くらい成功することがある。断られる経験の中から問題点を洗い出して対策を考えるようにすれば、どんどん営業スキルがアップしていく。そのうち成約を獲得するためには、断られる数を増やしていくローラー作戦が有効だということに気づいてくる。この段階に到達すると、ミスや失敗や挫折で再起不能になることはない。目の前にブルーオーシャンの輝かしい未来が広がってくる。確かにミスや失敗は時間や労力の無駄になります。他人から信頼感を失うこともあります。経済的な打撃を招くこともあります。筋肉注射を打たれるときのような心の痛みが発生します。それでも、ミスや失敗を積極的に引き受け、その数を積み重ねるということは、成功を勝ち取るためにはとても大切なことだと思います。すんなりと目標を達成することは、ある意味とても危険なことです。失敗の経験がないので、成功のコツがわからないのです。数多くのミスや失敗を経験していると、それが強力にサポートをしてくれることになります。将棋でいえば相手から奪った駒が自分の味方となって、勝利に大きく経験してくれることになるようなものです。また、ミスや失敗を喜んで受け入れている人は他人にも優しい。それは自分が苦しんだ経験を持っているからです。心の痛みが分かるので、他人の失敗に共感し、理解することができます。信頼関係を築くためには、ミスや失敗、挫折の経験が大いに役立っているのです。ミスや失敗から逃げるのではなく、想定されるミスや失敗の経験を経たのち、初めて成功にたどり着くという気持ちの持ち方が必要になります。どうすれば、ミスや失敗を受け入れられるようになるのか、明日の投稿課題とします。
2024.09.17
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長谷川洋三氏のお話です。私たち人間は、動物が外部からの刺激に応じて、反射的に、本能的に反応するというものとはだいぶ違います。私たちは、外部からの刺激を受け止めて、その刺激の持っている意味をよく考えて、自分としてはどういう対応をしたらいいのかということを考えて、行動に出ていく。これが人間性の共通の特徴だろうと思うのです。動物や昆虫のように、刺激に対して短絡的な反応はしない。(生活の発見誌 7月号 4ページ)この指摘に対して、私の体験からするとにわかに賛同できない。自分のことを非難、否定されると、力関係が同等か弱い人と判断すると、売り言葉に買い言葉的な対応をしてきた。また叶わない相手と判断したときは、すぐに逃げ出した。つまり反射的に、本能的に対応してきたのである。長谷川先生の指摘されるように、感情と行動、気分と行動をきちんと切り分けて、その時、その場で適切な対応をしてきたかと問われれば心もとない。そのような対応のつけは大きかった。相手が逆襲してきたのである。相手は賛同者を集めて逆襲してくるので、多勢に無勢となって窮地に追い込まれた。その反省の上に立って、私と同じような傾向の人にこれだけは伝えたい。腹が立ったとき6秒間だけはがまんする。脳はがまんして耐えること、つまりじっと待つということは大きなストレスになることが分かっている。ただじっとして怒りが収まるまで待つというのが無理ならば、別のことをする。つまり、腹が立ってきたときは、1、2、3、4、5、6と数を数えるようにする。これは感情の法則の学習の時、怒りの感情は6秒で一山駆け上ると聞いたからだ。その後は下降してくる。たとえ下降しなくても、間が取れることが大きい。6秒たったら、できるだけ相手から離れる。怒りをすぐに爆発させてしまう人は、近づいてはいけないときに敢えて近づき、近づいたほうがよいときに相手を無視している。その他、2023年6月21日に投稿した「意識して眼を動かすようにする」、さらに山富浩司氏の「マインドフルネスタッピング」などの技法を取り入れるようにする。次に気分に流されてしまう人へ。危険なこと、気がすすまないことを避けるのは人間の特性です。楽なこと、気持ちのよいことを求めてしまうのも人間の特性です。あなたの人間性に問題があって、楽な方、本能的な気分に流されているのではありません。しかし気分本位の行動は弊害が多すぎます。気分本位の人の単独行動は極めて危険です。酒を飲んだ時などは単独行動してはいけない。配偶者や制御能力のある人といっしょに行動した方がよい。人の力を借りて、気分本位の態度をコントロールすることを考えるのです。訪問営業でさぼり癖のある人は自分では治すことはできません。これを同行営業に切り替えればすぐに修正することができます。
2024.08.27
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曽野綾子さんのお話です。動物園のライオンていうのは、いつもエサがあるからだらけきっちゃうんですって。動物園のライオンを長生きさせるにはどうするか。人間が移動する車の通り道にエサをとる必要もなくて、ライオンがでれーっと寝てる。それをわざと轢こうとするんです。もちろんライオンのほうがすばやいから、絶対轢かれたりしないんですよ。どうしてそんなことをするかと言えば、それが唯一の健康を保つためのストレスなんですって。そうでないと飼われているライオンには何ひとつストレスがない。敵がいなくて、いつでもエサがある。なんにもストレスがないっていうのは困ったことなんですね。何か少しはストレスがあった方が身のためということでしょう。(善人はなぜまわりの人を不幸にするのか 曽野綾子 祥伝社黄金文庫 191ページ)森田では「不安は安心の為の用心である」と言います。不安の存在は我々の生活になくてはならないものです。不安が不必要なものならば、人類の進化の過程で淘汰されていたと思われます。不安を毛嫌いしないで味方に引き入れることが大事になると思います。不安と同様に適度なストレスもなくてはならないものです。こんな逸話があります。デンマークに毎年秋大きな集団を作って南方に飛び去る渡り鳥の野鴨がいた。シーランド海岸に住む人たちが野鴨に親切心でエサを与えていた。しばらくすると、野鴨のうちの幾羽かは南方へ飛び去ろうとしなくなった。この人たちのエサをたよりにして、デンマークで越冬するようになったのだ。だんだんこの野鴨たちは飛ぶことが少なくなってきた。3~4年ののちには、この野鴨たちはすっかりだらしなくなり、飛ぶことさえむずかしいほど太ってしまった。野鴨はもはや野鴨とは言えなくなってしまった。アヒル(家鴨)のように人から餌をもらうことで生き延びるしかなくなった。鳥は1日の65%は餌捕りに費やすそうだ。必死でエサを求めているから、より野鴨らしくなっていたのです。人間もストレスから解放されて、自由を謳歌していると、最後には身体が弱り、脳が廃用性萎縮現象を起こしてしまいます。適度なストレスを抱えながら、課題や問題解決のために、絶えず心身を動かし続けるということが大事になります。(人間力をフリーズさせているものの正体 藤田英夫 シンポジオン 93ページ参照)
2024.08.21
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不安や心配事を抱えたときの対応方法を考えてみました。これは自動車の運転を思い浮かべると分かりやすい。車の運転で左カーブに差し掛かると、道路の左端の白線に視線を合わせています。その白線に沿って運転しています。右にカーブしてところでは、中央車線に視線を合わせています。どの方向にカーブしているかによって、視線を合わせる場所が変わります。カーブが続く道路では、注意の集中場所は次々に切り替わります。この注意の切り替えは無意識ですが実に的確に行われています。ここで重要なことは、カーブしている道路では、誰でも注意や意識を特定の場所に集中させているということです。集中させるポイントを逆にしている人はいません。そんなことをすればよそ見をしているのと同じことです。危険運転となります。試に意識して逆にしてみましたが、まともに運転できませんでした。交差点に入って右折する時は、青信号の交差点に人がいないかどうか細心の注意を向けています。同時に対向車線からの直進車の有無も確認しています。問題がある場合は、いくら急いでいても動くことは許されません。別の心配事などを考えて心がうわの空になると注意散漫になり重大事故を起こす場合があります。高速道路で追い越しをかけるときも細心の注意を払っています。右のウィンカーで追い越し車線に走行車がいないかどうかを確認しています。注意や意識は、後続車の有無にあります。いないことを確認して車線変更して追い越しをかけます。追い越しが終わると、今度は左のウィンカーで後続車との車間距離が十分にあることを確認して走行車線に戻ります。不安や心配事を抱えている場合、車の運転から学ぶべきことがあるようです。それは不安や心配ことがある場合、一旦はきちんと注意を向けることが必要になります。例えば戸締りが気になる人は、戸締りがきちんとできているか目で確認する。動作確認を行う、呼称点検を行う。このとき、うわの空で心ここにあらず状態で確認をしていると、あとで戸締りをしたのかどうか不安が沸き起こってきます。強迫行為をしない人でも疑心暗鬼になります。今ここに注意や意識を集中させることが必要です。問題がないことが確認出来たら、注意や意識をすぐに他のものに向けることが必要になります。そうしないと天気の良い日に拡大鏡で太陽の光を一点に集めるようなことになります。太陽の光を一点に集めると燃えやすいものはすぐに炎上してしまいます。規則正しい生活や凡事徹底を心がけていると、次々に不安や心配は湧き上がってきます。普通はそちらの方の不安や心配事に関わることになります。神経症に陥った時は、気になる一点にいつまでも注意や意識を集中させています。この方向は精神交互作用により不安や心配事を化け物のように大きくしてしまいます。不安や心配ごとへの対応は、一旦きちんと意識や注意を向けて確認する。問題がないと判断した場合は別の不安や心配ごとに注意を移していくことが肝心です。
2024.07.13
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心配や不安への対応方法①心配や不安は注意喚起の黄色信号を発してくれています。こういう心配や不安が湧き起こらないと最悪命にかかわります。例えば戸締りやガスの元栓の締め忘れが気になる人は、盗難やガス爆発を未然に予防するために大いに役に立っています。自動車の運転をする人は、交差点で右折する場合はとても緊張します。そのおかげで慎重に運転して事故防止に役立っています。心配や不安を無視して自分勝手な運転をすると重大事故につながります。心配や不安は忌み嫌うものではなく、私たちの生活になくてはならないものだという認識を新たにする必要があります。常に私たちに寄り添ってサポートしてくれているのです。心配や不安への対応方法②不安が発生すると、まずそこに注意や意識を真剣に集中させなければなりません。他のことを考えながら、安易な気持ちで注意を向けるのは問題です。他のことを考えながら、適当に確認している場合は、迷いが生じます。この場合、強迫性障害を持たない人でも、再確認のために引き返すことがあります。心配や不安を丁寧に取り扱う必要があります。森田を学習すると心配や不安とあまり深く関わってはいけないと誤解している人がいます。ここは勘違いしやすいところだと思います。集談会で声をあげて呼称確認をするという話を聞いたことがあります。これは注意や意識を「今、ここ」に集中するために有効だと思っております。心配や不安への対応方法③心配や不安に注意や意識を集中させて安全確認を終えたならば、その不安はお役御免になります。その不安からはすぐに離れる必要があります。時間の経過とともに私たちを取り巻く環境や状況は刻々と変化しています。もたもたしていると次の不安への対応が遅れてしまいます。神経症に陥ると、自分が一番気になる不安や恐怖、不快感といつまでも関わっています。森田では神経症的な不安は欲望の反面として湧き起こってくるものと言われています。神経症的な不安自体は取り除くことはできないものです。にもかかわらずいつまでも不安を相手に格闘しているということは、ミイラ取りがミイラになるようなものです。不安には現実的な不安もあります。現実的な不安は積極的に取り除くと、問題がこじれる前に未然に予防することができます。現実的な不安はその都度取り除いていく。片づいたら直ちに次の不安に向かう。神経症的な不安はそのまま持ち抱えて、欲求や欲望の方に目を向けていく。ここでのポイントは、一つの不安に一旦集中することは必要ですが、いつまでも関わり続けてはいけないということです。お役御免になれば直ちに待ち構えている次の不安に対応していくことが肝心です。次の不安が湧き上がらないというのは、生活が停滞していることが考えられます。
2024.07.11
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私は老人ホームや地域のイベントで仲間と一緒にアルトサックスの演奏をします。過去の失敗がトラウマとなって、予期不安が湧いてきます。特に私がソロで演奏するときが怖くなるのです。頭が真っ白になり、手が金縛りにあったようになり、間違えることが多くなります。間違えても命までとらえることはないと思っても何の効き目もありません。ではどうしているのか、ご紹介しましょう。精神科の医師は「パフォーマンス限定社交不安障害」と診断して、デパスを処方してくれました。これを本番の3時間前に1錠飲んでおく。ノルアドリナリンの働きを抑制してくれるということです。デパスを飲んでいるから大丈夫という気になります。次にイベントで演奏する曲が決まると1週間くらい猛練習します。120%の出来に仕上げます。楽譜がなくても暗譜で演奏できるようになります。出かける前には忘備録を見ながら持っていく手荷物を準備します。15項目くらいあります。忘備録を見て準備することが不安を和らげます。本番前の楽器の手入れ、服装、仲間との打ち合わせを念入りに行います。ここでも忘備録を見て着々と準備をしていきます。安心感が生まれます。いよいよ本番が始まります。120%仕上げても、ここでネガティブになってはどうしようもありません。否定語は使わないで、肯定語を使うようにしています。そのときに「私の信条」というメモを読み上げています。脳は最後にインプットしたことを記憶するというのを信じています。形を整えることに専念しています。具体的には弱気は最大の敵練習はウソをつかないピンチの時は神様が助けてくれる胸を張って深呼吸を3回繰り返す4秒で吸いこみ、3秒間止める 7秒間で吐ききる口角を上げて笑顔を10秒間作るソロで始まる曲はいきなり演奏するのではなく、「イチニイのサン」と口にしてから演奏に入る。これは会社でどもって電話に出られなくなった時に集談会の仲間から教えてもらいました。いきなり会社の名前を名乗りにくかったら、会社名の前に「お電話ありがとうございます」を付ければどもらなくなるというアドバイスでした。今年は森田実践として、アジサイを挿し木から育てています。挿し木苗はメルカリで格安で手に入れました。鹿沼土にさしています。1か月後何本根づいているか楽しみです。
2024.07.09
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大勢の人の前で講演をする。自己紹介をする。自分の見解を述べる。スポーツで勝ち負けをかけて勝負をする。人前でカラオケを歌う。観客の前で楽器演奏をする。模範演技をする。あがり症の人は、過緊張して頭が真っ白になってしまいます。ミスや失敗をして人前で恥をかくことになります。過去の失敗がトラウマになると、予期不安で次からは手も足も出せなくなります。これは脳がノルアドレナリン主導の防衛系神経回路で支配されている状態です。でもすべての人がそうなるわけではありません。大勢の人が見ているときでも練習以上の成果をあげる人もいます。脳内をドパミン主導の報酬系神経回路が駆け巡っているのです。そういう人は子ども頃に小さなミスや失敗を数多く経験してきた人です。そして失敗を失敗のままに終わらせないで何とか乗り越えてきている。たとえ失敗しても、最終的には成功体験につながっている。過去の失敗の積み重ねが大人になって活きているのです。過去の失敗経験を成功のための糧として役立てている。やっとリベンジの機会がやってきた。この前の借りを返すぞ。今度は対策を立てたので絶対うまくやれる。などとまるで反対の気持ちが湧き上がってくるのです。小さい頃にミスや失敗から逃げ回ってきた人は、大人になってからすぐに悲観的になり、逃げだすことばかり考えるようになります。さらに神経質性格の人は、完全欲が強くて、ミスや失敗を許すことができない。「かくあるべし」で現実を否定することが多くなります。さらにかけがいのない自分自身を否定してしまう。このパターンにはまっていることが自分ではよく分からなくなっている。なすすべがないのでしょうか。そういう人は以上のことを自覚することが肝心です。そして対策を立てればある程度立て直すことができます。今日はその一つをご紹介します。杉山崇氏は、眼は脳の一部で、眼を意識的に動かすと、脳に刺激を与えて脳の状態を切り替えることができます。不快な感情、怒りの感情、本能的な欲望が暴走している時、眼は「遠くの一点を見つめて、ほとんどまばたきをしない」など特有な動きをします。これはネガティブな感情や欲望に心を奪われて、脳が意識を切り替えられなくなっている状態を示しています。逆に考えられれば、感情に心を奪われそうなときは、眼の動きを変えて脳に刺激を与えることで感情をクールダウンさせることができます。そこで次のようなエクササイズをすると効果があります。①顔の向きを固定したまま、眼だけを左右に動かす。②見えているものが変わるので、その変化に注目する。③眼を2~3往復させたら一息つく。たったこれだけです。たったこれだけなのですが、やる前とは気分や意識が変わっているのを実感できないでしょうか。眼は脳の一部であるため、これだけのことで脳に「気持ちを切り替えろ」という合図を出すことができるのです。ただし、このエクササイズを行うのは、ネガティブな気持ちにとらわれているときだけにしておきましょう。あまりやりすぎると、脳が疲れてしまうこともあるからです。マイナス感情、ネガティブ感情に振り回されそうになった時に、検証してみてください。(なんだかうまくいきそうに変わる本 杉山崇 永岡書店 160ページ参照)私は老人ホームの慰問や地域のイベントでアルトサックスを演奏しています。そのときに頭が真っ白にならない方法を考え出して実行しています。これは明日の投稿でご紹介します。
2024.07.08
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まず「現在になりきる」という面があります。目の前のことや他人から依頼されたことに対して、一心不乱に取り組むということです。そうすればあっという間に時間が経ちます。森田先生はお使い根性の取り組み方は厳しく指摘されています。「ものそのものになってみよ。天地万物全て我が物」と言われています。指示されたからイヤイヤ仕方なくするというのは、最初の段階では仕方ない面があります。でもいつまでもそのような気持ちで取り組んでいると、いつまで経っても意欲的になれません。依頼された人から感謝されるようなことにはならないと思います。「現在になりきる」ための取り組み方あります。何か問題点や課題はないか、改善点や改良するところはないかという視点を持って取り組むようにすることです。どんな小さなことでも構わない。気づきや発見が見つかったら多少面倒でもすぐにメモしましょう。そうしないとせっかくの宝物が忘却の彼方へと飛んで行ってしまうからです。「現在になりきる」というのは、森田が目指していることです。もうひとつの側面は、「苦痛になりきる・弱くなりきる」ということです。苦痛や恐怖になりきるとは、その苦痛をそのまま忍受することです。取り除いたり、逃げたりしないで、苦痛や恐怖と一体になるということです。反抗しないで受け入れると、不安や恐怖は張り合いをなくして急速に遠ざかっていきます。苦痛や恐怖は台風と同じような自然現象なので手出し無用です。しかし、不安や恐怖を受け入れられないから、神経症になったのに、それを受け入れなさいというのは無茶なことだと反発したくなります。この点について森田理論は、神経症的な不安や恐怖の裏側には、欲望が隠れていますよ教えてくれています。「苦痛になりきる・弱くなりきる」ためには、自分の「生の欲望」を見極めて、そちらの方に注力するようにすればよいのです。神経症の人は、どうすることもできないことに時間と精力をつぎ込み、手掛けなければいけないことを軽視、無視する傾向があります。これを逆転させれば万事うまく収まります。
2024.06.19
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国民栄誉賞を授与された松井秀喜さんが、巨人からニューヨーク・ヤンキースに移籍したばかりの頃の話です。当時の松井選手は、極度のスランプに陥っていました。ホームランを期待されてヤンキースに入団したのに、試合ではいつもボテボテのゴロばかり。手厳しいことで知られるニューヨークのマスメディアは、そんな松井選手を「ゴロキング」と呼んで連日酷評しました。ある記者から「ゴロキングなどと叩かれて気にならないか」と聞かれた際に、松井選手は平然として次のように答えたのです。「まったく気になりません。記者さんたちが書くことは僕にはコントロールできません。僕は自分でコントロールできないことには興味を持たないようにしているのです」松井選手は「自分がコントロールできないこと」を気にしていると、自分のパフォーマンスを落とすだけだと熟知していたのでしょう。そして、練習で打撃技術を高める。筋トレで体を鍛えるといった「自分がコントロールできること」に注力して結果を出そうとしていたのではないでしょうか。(脳の老化を99%遅らせる方法 奥村歩 幻冬舎 155ページ)松井秀喜氏がこのような認識を持っていたことに驚きました。森田理論を学習している私たちもぜひ見習いたいところです。森田では不安などの感情は自然現象であり、人間の意思の自由は効かないと学びました。神経症的な不安は、強い欲望を持っているから生まれてくるのだというとらえ方をしています。逆に現実的な不安はコントロール可能です。これには積極的に取り組む必要があります。例えば、地震が来たらどうしようというような不安です。こういう不安を感じたら、家具などを固定する。非常食やミネラルウォーターや防災グッズを用意しておく。避難経路を確保して、地震訓練に参加してみる。地震保険を検討してみる。手をつけることはいくらでもあります。これ以外にも、現実的な不安は次々と待ち構えています。そちらの方に注意や意識を向けて、対策を立てて実行することが肝心です。特に日常茶飯事に手を抜かないで、真剣に向き合うことが大切です。「凡事徹底」は森田的な行動のポイントです。神経症に陥ると、現実的な不安に手を抜いて、コントロールできない不安と格闘しているのです。やることなすことが逆になっているのが大きな問題です。
2024.06.14
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不安の立場に立って、神経症で苦しんでいる人を観察してみました。そうすることで双方の関係性がよく見えてきます。不安は不安から逃げ回っている人を見つけると嬉しくなります。自分の居場所や活躍の場を見つけることができるからです。アフリカのサバンナで獲物を見つけた肉食獣のようなものです。思わず不敵な笑みがでてしまう。不安から逃げまくり、取り除こうと必死になって努力している人を見ると、俄然力がみなぎってきます。相手を身体的、精神的に二度と立ち直れないほど叩き潰してしまいたいと考えているのです。最後に息の根を止めることが目的なのです。勢いづくとますます戦力を増強して立ち向かってきます。一旦アリ地獄の底に落ちてしまうと脱出することは容易ではありません。太平洋戦争を戦った日本とアメリカのようなものです。日本はうかつにもアメリカが仕掛けた挑発に乗ってしまったのです。戦争を開始する前、日本軍の上層部はアメリカに勝てるのではないかと思っていました。しかしガダルカナルで敗北してしまうと後退を余儀なくされました。最後には原爆まで落とされて惨敗しました。さて、不安にとって挑発に全く乗ってこない人は厄介な人です。不安は欲望があるから湧き上がってくるものだ。不安や症状を持ちこたえたまま、生の欲望にのって「なすべきをなす」方向に舵を切っている人は「のれんに腕押し」状態となります。張り合いがない。居場所がない。活躍の場がない、手持ち無沙汰で時間ばかりが過ぎていく。こういう人は見るだけで嫌気がさしてしまう。こんな人と付き合うのはイヤだ。逃げたほうが得策だ。武力の増強はもってのほかで、むしろ戦力の縮小を考えざるを得なくなるのです。そうだ、不安から逃げ回っている人や取り除こうとしている別の人に乗り移ってしまえばいいのだ。森田理論学習で不安の特徴や役割を理解している人は厄介です。そして不安と欲望の関係をよく分かっている人もどうすることもできない。不安の方は相手を痛めつけようとしているのに、相手は不安を自分の味方に取り込み、欲望が暴走しないための抑止力として活用している。昨日の敵は今日の味方という関係を築いているのです。不安の方も自分の本来の役割を与えられて、別の意味で存在価値を発揮している。居場所や活躍の場を与えられているので反撃するよりも居心地がよい。むしろ相手の役に立っていることがうれしいと思えるようになってきた。不安の特徴や役割を身に着けている人は、不安を大事な仲間として付き合っていることになります。さらに不安を大いに活用しているのです。昨日の敵は今日の味方になっています。取り入れた相手と共存共栄の関係に入ってしまっています。当初の目論見とは全く違う関係が出来上がってしまうのです。この関係は不安と敵対していた時には考えられないことです。不安の方としても、自分の存在価値を認めてもらい、働き場所を提供してもらっているので異存はありません。こういう関係が出来上がれば、双方とも友好的で、安全、安心、平和な幸せの時を享受できるようになるのです。こういう方向性をみんなでめざしていこうとしているのが森田理論学習なのです。素晴らしい世界が広がるように思えませんか。
2024.05.27
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斎藤茂太氏のお話です。ストレス学説を打ち立てたカナダの故ハンス・セリエ自身が「適度なストレスがないと人類は滅びる」といっている。世界の長寿村を調べると共通する要素が見つかる。長寿の地域の人々はかなり厳しい労働をしていることと、もうひとつは適度のストレスがあるということである。例えば、暑さ、寒さがはっきりしているところでは長生きする人が多い。有名な旧ソ連のコーカサスの長寿村も寒暖の差が激しいところで、夏は暑く冬は寒い。気候が温暖なところ、花が咲き乱れるようなところではかえってあまり長生きしていないのである。緊張を強いる「ストレス」がないと人間は、ちょっとしたことでも壊れやすい存在になる。人生もこれと同じであって、多少の揺れはむしろ必要だといってもいいのである。(逆境がプラスに変わる考え方 斎藤茂太 PHP文庫 20ページ)ストレス研究の筑波大学の田神助教授は次のような実験を行った。ネズミを2つのグループに分けて3週間実験を行った。1つのグループは、毎日餌を好きなだけ食べさせて、温泉に入れた。もう一つグループは、餌を少ししか与えなかった。さらに毎日水泳をさせた。その後、両方のグループを寒さにさらした。風邪をひいたのは、餌を腹いっぱい食べさせて温泉に入れたグループであった。空腹と水泳をさせたストレスいっぱいのように思えるグループは風邪を引かなかった。しかもキラー細胞(ガンを攻撃する細胞)という免疫機能の働きを調べると、空腹と水泳をさせたグループのほうか強かった。この結果から、適度の運動を実行して、適度のストレスを受ける方が免疫力が高まることがわかった。動物行動学のケーニッヒという人が、青サギを使って次のような実験を行った。食べ物を十分に与えて飼ってみると、最初はどんどん増えていくそうです。ところが、あるところまで増えていくと、そのうちだんだんと減ってきて、そして最後には絶滅したという。卵を産んでも返さないとか、子どもができても餌をやらないなどのことが起きてくる。環境が整いストレスがなくなると、子育ての意欲が骨抜きにされるということです。それよりも自分の生活をより豊かにすることに関心が向いてくる。一般的にストレスや悩みを抱える事はよくないことであると受けとめられている。しかし、実際にはストレスや悩みがまったくない順風満帆な生活を送っていると、心身の健康を損なうケースが多くなる。反対に適度なストレスや悩みを抱えながら、日々の生活に立ち向かっているほうが心身ともに健康体となる。心身の健康を保つためには、仕事や家事に取り組むときに、意識して問題点や課題、改善点や改良点を見つけ出すように心がけることが理にかなっている。それらはすべて宝の山になる。発見したときは忘れないようにすぐメモしておく。課題や目標に意欲的に取り組むと心身の健康に役立つことを発見した。
2024.05.23
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「いい加減」という言葉があります。「いい加減な人」とは、思慮が浅く、信念がない。一貫性がない人のことをいいます。あるいは時間やお金にルーズで、約束を守らない人のことを意味します。何事に対しても、中途半端で、すぐに他人の意見に流される人もそうです。「いい加減なことを言うな」という発言は、事実に基づかないで、先入観、決めつけ、思い込み、早合点の発言は慎みましょうということです。これらは、「いい加減」という言葉がすべて否定的な意味合いで使われています。「いい加減な言動をとる」や「いい加減な人」という場合は、次のような特徴があります。まず事実を自分の目できちんと確かめたうえでの発言ではないということです。つぎに、この傾向のある人は、深い洞察力のあるものの見方・考え方をしていない。これらは単なる思いつきや他人の受け売りで「いいかげんな発言」になっています。しかしこの「いい加減」という言葉は全く違う使い方をされる場合があるのです。お母さんが兄弟げんかをしている子供に対して、「あんたたち、いい加減にしなさいよ」と叱ることがあります。兄弟げんかが激しさを増して、罵りあい、手足をだすようになった時に、程よいところでやめておきなさいよと注意喚起を促す言葉になっています。また、「お風呂のお湯加減はどうですか」という場合は、熱くもなく、冷たくもなく、ちょうどよいお湯加減になっていますかという意味です。この場合は、「ほどよい加減に調整する」という肯定的な意味合いで使われています。この言葉は森田理論の調和、バランスという考え方に近いものがあります。神経症に陥ると生の欲望の発揮が蚊帳の外になり不安と格闘を始めます。森田では欲望と不安はコインの裏と表の関係にあるといいます。欲望と不安は表裏一体です。森田では生の欲望を前面に押し出しながらも、不安を活用して調整する必要があるといいます。バランスや調和を意識する必要があるのです。神経症に陥った場合は、不安はとりあえず横において、欲望の方に焦点を当ててバランスを回復させる必要があります。このことを別の言葉でいうと、偏りを修正して、「ほどよい加減に調整する」ということになります。神経症に苦しんでいる時は、不安過多に偏っています。不安と欲望を調整して、いい加減に戻してバランスの回復を図ることがとても大事になるのです。
2024.05.17
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「雑念」にとらわれて、家事や仕事に集中できないという悩みを持っている人は、勉強や仕事に集中して能率を上げたいという気持ちが強いのだと思います。普通の人は「雑念」に対しては無意識ですが、「雑念」を問題視している人はことさらそこに注意を向けています。もともと「雑念」は台風などと同じ自然現象です。台風などの自然現象は人間の力ではどうすることもできないということがよく分かっています。台風をコントロールしたいと考える人はいません。しかし「雑念」に対してはそのようには考えていないのです。普通は目の前の出来事に対応して、様々な感情が湧き起こるようになっています。とらわれている人は、「雑念」を忌み嫌っていると同時に、「雑念」を意志の力で自由自在にコントロールしようとしています。時間とエネルギーを投入して不可能を可能にしようとしています。仮に「雑念」がなくなって、目の前の家事や仕事に集中するどうなるのか。神経が一つのことに固着されるということになります。人間は心臓が停止して血液が流れなくなると死んでしまいます。また、水の流れを止めてしまうと、水が淀んで藻が生え雑菌が増えて異臭を放つようになります。これと同じように、感情の流れが止まってしまうと、観念と行動の悪循環が始まります。これを精神活動の面から見ると、精神の緊張状態から、弛緩状態に陥ってしまうことを意味しています。精神が弛緩状態になると精神活動が停滞し、覇気がなくなります。ですから、精神衛生上、「雑念」はむしろどんどん発生させたほうがよいのです。そういう状態を森田理論では「無所住心」と言います。集中したいときに「雑念」が湧いてくるのはどんな時でしょうか。まず、目の前のことに興味や関心が持てないときです。例えば読書をしているとき、興味や関心がない部分では、様々な「雑念」が湧き上がってきます。ところがそのまま読み進めていると、急に興味や関心があるところに差し掛かると「雑念」は霧散霧消してしまいます。つぎに、他のことで注意を引くようなものが現れたときです。または気になる問題や課題を抱えているときです。これは昆虫が触覚を使って四方八方に神経を研ぎ澄まして生活しているような状態となります。一時的にきちんと注意を向けて問題確認をおこなう。別段問題がなければ、すぐに次の気になることに注意を移していくことが望ましいのです。車の運転をする人は無意識のうちに、次々と注意を向ける場所を切り替えているはずです。緊張状態の中で、一旦注意を向けて、問題がなければ次の気になることに注意を移していくことを繰り返しています。雑念にとらわれて本来の目標や目的を見失ってしまうことは本末転倒となります。雑念はつきものと考えて上手に付き合うことが大事になります。そして目標や目的から目を離さないようにしたいものです。
2024.05.11
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斎藤茂太氏のお話です。スランプとは一種のうつ状態である。そう考えたほうがなかなかこの状態から抜け出せない人にはいいかもしれない。スランプの脱出法を一言でいってしまえば「堪える」ことと「気分転換」を図ることである。季節と同じで変わり目を待つしかない。スランプはいくら焦っても駄目で、じっと堪えるうちに退散を願うという一見「消極的」な方法が、かえって一番近道だったりすることが多いのである。スランプに陥ると今の現状を何とかしなければという気持ちがとかく先に立って焦るものだ。かってのスランプの前のレベルに少しでも近づこうとあがく。しかし、少しも前に進まない。進まないどころか、前よりもわるくなっているような気がする。また焦るという繰り返しである。スランプに陥ると、周囲の雑音がどうしても気になるものだ。堂々巡りのうちに、本来の「プラス」が「ゼロ」になっただけなのに、自分がどんどん「マイナス」に陥って行くような気分に襲われる。スランプに耐えるということは、この気分に落ち込むことを防ぐことに他ならない。100%元の状態に復活しようとするよりも、10%でもいい、少しでも元の状態に戻ればよしとする気持ちが、結局はスランプを脱出する糸口になる。(逆境がプラスに変わる考え方 斎藤茂太 PHP文庫 103ページ)スランプというのはプロ野球の選手を見ているとよく分かる。調子の波に乗ってバット振ればヒットになるというときがある。やることなすことが想定通りに推移する。順風満帆の時は有頂天になってこのまま好調な状態がいつまでも続くと思ってしまう。しかしある時を境にしてバッタリとヒットが出なくなる。早く元に戻さなければと焦る。フォームを調整し、神頼みをする。慌てて死に物狂いで手あたり次第手を出すが、すべてが裏目に出る。そのうち出番がなくなり、二軍での調整を命じられる。これはバッティングには波があるということだと思う。好調と不調の波が循環していることだと思う。その変化の波に乗って日々淡々と練習を重ねていくことが大切になる。波の底にいるときに、浮上するために死にものぐるいでやりくりしていると、そこよりさらに落ちこむ場合がある。一番底の下に二番底、三番底が口を開けて待っていたということになる。そして最後に力尽きて、反転浮上するきっかけを掴めないことがあります。これは精神交互作用で神経症に落ちるようなものです。斎藤茂太氏の指摘されているように「堪える」「気分転換」を図ることが大事になる。好調時に有頂天になって舞い上がるのではなく、新たな課題に取り組むなどで気を引き締めることが必要になる。これで好不調の波を小さくすることができます。森田理論も、流れと動き、変化とリズムをとても重要視しています。石原加受子氏によると人生の波は6年周期でやってくると指摘されている。「意識の法則と6年周期リズム」という本で、詳しく説明されているので関心のある方は参考にしてください。
2024.04.07
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形外先生言行録から御津磯夫さんのお話です。鐘が鳴るかや 撞木(しゅもく)が鳴るか 鐘と撞木の間が鳴る。51年前の慈恵医大で私の精神科講義の森田教授の第一声がこれであった。あざやかに今日も私はその日の光景が目の前に彷彿としてくる。私は一瞬面喰って一瞬茫然としたが、この最初の一言が私の一生を支配したようで、なんとも忘れられず、意味もよくわからないまま、私の内的生活を育んできたごとくである。(形外先生言行録 御津磯夫 62ページより引用)この部分はどう理解すればよいのか難しいところです。ただ鐘と撞木がそれぞれに激しく動いただけでは鐘は鳴らない。鐘と撞木の両方がぶつかり合うときに鳴るということです。つまり相互作用によってはじめて鐘が鳴るのです。これに関して森田先生は次のように説明されている。 宇宙の現象は、すべて唯、発動力と制止力とが、常に平行状態にある時にのみ、調和が保たれている。天体にも、物質にも、引力と斥力とがあって、その構造が保たれ、心臓や消化器にも、興奮神経と制止神経とが、相対峙し、筋肉には、拮抗筋の相対力が作用して、はじめてそこに、適切な行動が行われている。吾人の精神現象も、決してこの法則から離れることはできない。余は特にこれを精神拮抗作用と名づけてある。欲望の衝動に対しては、常にこれに対する恐戒・悪怖という抑制作用が相対している。欲望の衝動ばかりが強くて、抑制の力が乏しければ、無恥・悪徳者・ならず者となり、欲望が乏しくて、抑制ばかりが強ければ、無為無能・酔生夢死の人間として終わる。この衝動と抑制とが、よく調和を保つときに、はじめてその人は、善良な人格者であり、その衝動が強烈で、その抑制の剛健な人が、益々大なる人格者である。(森田全集第7巻437ページ)神経症的な不安に対してはその裏に欲望があります。ですから神経症的な不安に対して、ことさら不安だけを取り上げて対処しても仕方がない。不安の裏にある生の欲望の発揮のほうに焦点を当てることが大事になります。不安は欲望が暴走しないように制御する役割を果しています。これは自動車の運転を考えるとよく分かります。自動車にはアクセルとブレーキがあります。目的地に行くためにはアクセルを吹かして車を前進させなければなりません。またカーブや坂道、赤信号ではブレーキを活用してスビートを制御しなければいけません。運転する人は誰でもアクセルとブレーキを適宜上手に操作しています。ところが感情の取り扱いになると、ブレーキばかり踏み込んでアクセルを踏み込むことを忘れている。これではいつまで経っても目的地に到達することはできません。森田理論の「欲望と不安」の単元を学習するとそのことがよく分かるようになります。生の欲望の発揮はまず日常茶飯事に丁寧に取り組むことから始めたいものです。
2024.03.30
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悪役俳優だった蟹江敬三氏のお話です。悪役というのは、見るからに恐ろしいというような演技はしない方がよい。「俺は怖いんだぞ」というような人は、周りの人が最初から警戒する。あらかじめ近づかないようにするとか逃げるから危害を加えられることが少ない。はっきり言えばそんな人はたいして恐ろしくはないのです。一番恐い人というのは、ちょっと見ただけでは危害を加える人かどうかが分からない人です。そういう人でも、どこか目がイッているという特徴があるのですが、そこに気づかないこともあります。普通の人に見える人に対しては、みんなある程度警戒心が薄らぎますでしょう。油断をしている時に、突然暴れまくるとみんなびっくりしてパニックに陥る。なすすべもなく殺傷事件に巻き込まれてしまう。事実がわからないで疑心暗鬼になったときが一番怖いということだと思います。たとえば、ひとりでさびしい山道を行くときに、不意に草むらの中に怪しい音が起こって驚き恐れたとする。もし精神を緊張して、立ち止まり、その方に注目するときは、まもなく心が静まり、「幽霊だと思ったら、正体は枯れ尾花だったのか」ということにもなるが、もし驚きのままに、突然かけ出せば、無我夢中で、自分の足音に追っかけられて、平素の自分を失って、心も転倒してしまう。(神経質の本態と療法 森田正馬 白揚社 32ページ)森田では事実を正しく認識することが大切であるといわれます。私は事実に注目することで、仕事が面白くなるという体験を持っている。仕事はマンションの管理人である。基本ひとりでやる仕事である。棟内の清掃や巡回の仕事をするときに、問題点や課題、改善点や改良点、楽しみや喜びを見つけ出そうと意識して取り組んでいるのです。すると、いくらでも気になる点が見つけられるようになりました。鳥の糞が落ちている。クモの巣が張っている。落ち葉が散乱している。不法駐車している車がある。来客用駐車場に駐車している車に使用届がない。ドレンにゴミがたまっている。黄砂で手すりが汚れている。面格子が汚れている。トイレが汚れている。電球が切れている。玄関のガラスが汚れている。掃除道具置き場が散らかっている。子どもが泥だらけの靴で歩いたあとがある。不要になった掲示物ある。ゴミ置き場が散乱している。気づいたことはすぐにメモ用紙に書いておく。ルーティン作業が終わった後にこれらに取り組むようにしている。自分で見つけた仕事は意欲的になれます。小さな達成感が味わえます。
2024.03.12
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私流「森田の読み方」(生涯学習に活かす森田の言葉)の75ページからの引用です。私たちの心のどこかには「理想形」としての「汚れの不安から解放された安らかな状態」「すごい集中力で知識を吸収している自分」「すべての人から称賛され、仲良くしている自分」というイメージがあるはずです。こういうイメージは、もちろん追っても追っても、逃げていく蜃気楼のようなものです。「不安のない自分」には永遠に到達しない。なんだか、まだ汚いような気がする、他人から悪く思われているような気がする。そういう漠然とした嫌な気分は、毎日、毎日、私たちの心に湧きあがってきます。そんな嫌な気分もあり、快感もある。いろいろな気分・状態が雑多に入り混じっていて、なんだかすっきりしないのが、「生きているということの現実」であり、私たちはそこから逃げることはできないのです。人生とはこの「揺れながら走る電車」なのです。私達の人生は不安定であるだけでなく、不安定なまま「前に進んで」いるのです。だから、時間の流れの中で次々に起きてくる事柄に対応していかなければなりません。不安定ですっきりしない心のままでも、この現実の流れに乗らなければならない。不安定な自分のまま、おぼつかない、能力のまま、何とか現実への対処をしていく。全くその通りだと思います。不安のない人生はあり得ません。次々に不安が湧き上がってきます。不安をなくそうとする努力は無駄になります。現実的な不安に対しては解消に向けて積極的に行動する。どうすることもできない神経症的な不安に対しては、不安を抱えながら、それにとらわれることなく、目の前の課題に真摯に向き合って生き抜くことが大切です。脳科学者の茂木健一郎氏は、自然界には生物でもないものが絶えず揺れ動いているという不思議な現象があるという。この現象のことをブラウン運動というそうです。茂木氏は、人間の脳にもこのブラウン運動に似た働きがあると説明されている。たとえば野球でキャッチャーがピッチャーに球種のサインを出します。その際どんな球で打ち取ろうかいろいろと考えます。試合の局面、バッターの仕草、過去の対戦、バッターの特徴などを考えていくとすぐには結論が出ません。ああでもない、こうでもないと考えがまとまらずに揺れ動くのです。実はこの揺れ動くという心理状態が重要な意味を持っている。我々神経質者はこの考え方がまとまらないで揺れ動いている不安定な状態を嫌うのです。0か100、白か黒、良いか悪いか、どちらかに決めつけて心の安定を求めようとするのです。さらにその考えを自分にも相手に押し付けてしまうのです。当然いろんな要因が絡んでいるので自分が思い通りにコントロールすることはできません。森田先生は子どもの夜泣きで安眠できないとき、軽率な行動をとってはいけないといわれています。イライラしながら子どもを眺めていると、そのうち子どもは自然に泣きやんでくる。不快な感情を取り除こうとする対応は、ますます問題をこじらせてしまう。森田理論に精神拮抗作用というのがあります。ある欲望が湧き上がってくると、それを抑制する感情も同時に湧き上がってくる。強弱はあっても人間には誰にもその機能が備わっている。その時どちらかに態度を決めてしまうと問題が出てくる。欲望が暴走するか、不安に振り回されてせっかくのチャンスをみすみす逃してしまう。欲望と不安の調和を図りながら、注意深く行動することが大切になる。私はこの法則を居酒屋での懇親会に応用し、二日酔いで次の日に苦しむことはなくなりました。今では欲望と不安を意識するために部屋のなかにヤジロベイを飾っています。
2024.01.27
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一病息災は、人間は持病が一つぐらいあった方が、健康に気を付けるようになるので長生きができるという意味です。ケガや病気の経験がないことは、喜ばしいことのように思いますがケガに無警戒になります。また健康体であることが当たり前になり、健康のありがたみが分からなくなります。中国のことわざに「人間万事塞翁が馬」という言葉があります。飼っていた馬がいなくなり残念に思っていたところ、ある日突然駿馬を連れて戻ってきた。乗馬をしていたところ、落馬して足の骨を折ってしまった。仕事ができなくなったが、そのおかげで兵役を免れた。不幸と幸運はコインの裏表の関係にあるというたとえです。一病息災も同じような意味だと思います。私は今までケガや病気でいろいろと辛い思いをしてきました。小さいころ2回ほど手頸の骨折をしました。おたふくかぜになり高熱が続きしばらく学校を休みました。仕事での人間関係が悪化して胃潰瘍になりました。朝方尿道結石で救急車で運ばれたこともあります。この時は死の恐怖を味わいました。痛風発作を起こしてしばらく歩けなくなりました。腹と背中に帯状疱疹が現れました。尿道結石と痛風発作と帯状疱疹は針の先で刺されたような痛みが続き七転八倒しました。五十肩になり1年ほど針治療に通いました。痔になり手術をして1ヶ月ほど入院しました。つらい経験でした。対人恐怖症、社交不安症にかかり、うつ状態になりました。これは中学生のころからずっと苦しみました。でもケガや病気になったことはよい経験だったと思っています。いろんな病気になったからこそ、毎年一回は生活習慣病検診をしています。血液検査、尿酸値、糖尿病、腎臓、大腸の検査などをしています。苦手の胃カメラを飲み、ガンの腫瘍マーカーの検査もしています。時々脳のMRIや大腸のカメラ検査もしています。人によると健康診断などは必要ないという人もいます。そういう人が急にガンになる。血管障害で取り返しのつかない病気になる。高齢になると自動車と同じで定期的なメンテナンスが必要だと思います。今まで病気一つしたことがないという人はどうしても警戒心がなくなる。集談会に参加していると、神経症で苦しんでいる人、人間関係に問題を抱えている人がいます。神経症の苦しみは神経症で苦しんだ経験のある人でないと分からないと思います。また肩や首の痛み、がん、胃潰瘍、尿道結石、痛風、帯状疱疹、痔持ちの人がいます。自分がケガや病気で辛い経験をしているので、その人の痛みが自分のことにように感じることができます。自分の体験からある程度のアドバイスができます。私たちは神経症になったお陰で森田に出会うことができました。森田は神経症を治すだけではなく、神経質性格者の生き方を教えてくれました。こんな幸運はめったに出会うことはできないと思います。この幸運に感謝して日々を大切に生きています。
2024.01.20
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対人恐怖症の人は、この言葉が示している通り、基本的には他人と接触することが怖いという意識が強く働いています。他人は自分に対して危害を加えるという感じを持っている。油断しないで絶えず警戒する必要があると思っています。無条件に人を信頼するという感覚は持ちにくいのです。人の行動を好意的に受け取ることも難しい。距離を置いて、敢えて近づかないように心がけている。対人恐怖症の人は親しくなればなるほど気が重くなります。息苦しさを感じてしまう。早く一人になってゆっくりしたいという気持ちが強く働いています。そういう人は他人と関わる仕事はとても困難です。例えば営業職、マネージメント、監督業、教師、接客業などの仕事は困難を極めます。できるだけ人と関わらないような仕事を選ばざるを得なくなります。パイロット、運転手、重機の操作、研究職、職人、料理人、士業、農業などです。この感覚は親との関係の中で形作られたものですが、容易に取り去ることはできません。小さいときに犬に吠え立てられて追い回された人が、大人になってもそのトラウマに悩まされているようなものです。周りの人から犬はかわいいものだと言われてもその気になれません。ではそういう人は、孤立してさみしい人生を送ることになるのか。私の経験ではそうは思いません。基本的に人間の幸せは、仕事、日常生活、子育て、趣味などで、目標や課題を見つけて積極的に行動していく中にあると思っています。人間関係が良好というのに越したことはありませんが、別に人が怖いという人であっても、それだけで孤独で寂しい人生が待っているわけではないと思います。私は親が自分に与えてくれた神経質性格のプラス面を活かして生きていくことを考えました。その中に好奇心が強いという特徴があることが分かりました。小さなことに興味や関を持つことができる。感性が鋭く小さなことに心を動かされることが多い。これは生の欲望がきわめて強いということだと思います。自分の好きなことや挑戦してみたいことに手を出していけば楽しい人生になるかもしれないと考えたのです。今興味や関心があることを思いつくままにあげてみると、カラオケ、音楽好き、クラッシックのコンサート鑑賞、第九の合唱、マーチングバンドの鑑賞、パソコンの操作、ナビを使いこなす、ZOOMのホスト役、川柳、ユーモア小話作り、アルトサックス、どじょう掬い、浪曲奇術、獅子舞、腹話術、そのほかの一人一芸、男の料理教室、健康マージャン、磯釣り、草花や盆栽の世話、メダカの世話、自家用野菜作り、果樹や庭木の手入れ、加工食品作り、小旅行、写真の編集、工場見学、そば打ち、リサイクルショップ巡り、プロ野球観戦、老人ホームの慰問、居酒屋での飲み会、森田理論学習、ブログの更新、読書、テレビの録画と編集、孫との交流など。他人に気を遣うことなく心ゆくまで楽しんで過ごしていきたいと考えています。これらに取り組むと、他人の存在が怖いという気持ちがあっても、ある程度悔いのない人生を送ることができます。
2023.11.28
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人間には「生老病死」の悩みがあるという。今日はその中の「老化」について取り上げてみたい。成長期は右肩上がりだが、それを過ぎると今度は右肩下がりに変化してくる。人間の場合は20代から30代がその分基点にあたるのではなかろうか。老化は、年齢を重ねる度に次々と失われていくものがあるということです。若さ、肌の張り、体型、筋肉、視力、聴力、髪、歯、骨、脚力、記憶力、認知能力などが人によって差はありますが、ほぼ確実に老化してくる。若い時のような訳には行きません。しかし刺激を与えて老化を多少遅らせることはできます。メンテナンスを怠っていると、急速に老化が進みます。特に足腰を鍛えることと頭を使うことです。最悪の場合、深刻な身体疾患や寝たきりや認知症になります。老化の対応方法には二通りあるように思われます。1、老化を認めようとしない人。老いをあってはならないものと考える人。できる限り元の状態に戻そうとする人。2、潔く老化を認めて、失われたものはそのままにして残っているものを活かして生きていこうとしている人。1は神経症と格闘しているようなものです。自然現象である老化の進行を是が非でも阻止しようとしています。時間とお金を投入すれば、ある程度は効き目がありますがやりすぎは禁物です。基本的には、歳をとると徐々に失うものがあるという覚悟を持つことが欠かせないと思う。最低限のケアをした後は、老化を受け入れていくしかありません。老化と敵対することは、自分自身を否定することになります。自分を上から下目線で非難・否定することほど惨めなことはありません。そこに注意や意識を集中させていると、生の欲望の発揮が蚊帳の外になってしまいます。2の対応は、失われて使用不能になったものとまだ使用に耐えられるものを区別できている。失われたものを素直に受け入れて、まだ残されているものを大事にして前向きに生き抜こうとしている。樹木希林さん、篠田桃紅さん、宇野千代さんはそんな生き方をされていました。そのほか宇野重吉さん、日野原重明さん、成田きんさん、蟹江ぎんさんたちもなどもそうです。「102歳、一人暮らし」の石井哲代さんもその一人でした。この人たちは歳をとってからの生き方が光り輝いていました。それまでの人生経験がプラスに作用しているからだと思います。また、それぞれ自分の人生を振り返って、若い人たちに自分なりのメッセージを残されています。うまくいった点だけでなく、反省、後悔していることも含めてすべてを包み隠すことなく開示されています。それが大いに参考になります。このような生き方は秋の色あざやかな紅葉と重なるところがあります。紅葉するということは、緑の葉が寿命や寒さなどで光合成ができなくなった状態です。紅葉した葉は自己否定していません。今まで生かされたことに感謝している。消え去る前に色とりどりの姿に身をまとい人々を楽しませてくれています。枯れ果てて落ちてしまうのは、自分がこの世から消えてなくなることですから悲しいことです。良寛さんは「裏を見て 表を見せて 散るもみじ」と詠まれています。せめて自分の人生を振り返って、その教訓を次世代に引き継ぐことが大切なのではないでしょうか。これが森田理論でいう「物の性を尽くす」ということだと思います。
2023.11.21
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雑談が苦手という人がいます。これは本音としては雑談の輪に入りたい。ところが実際には雑談の輪に入れないという悩みだと思います。雑談はかしこまった話、結論を出す話、議論をするような話ではありません。また相手に指示命令したり、相手を説得するような会話でもありません。ある程度気心が知れた人と、自由自在に気楽な気持ちでとりとめのない話をする。会話自体を楽しむものです。かしこまった話よりもリラックスできそうな気がします。本来たのしいはずの雑談が苦痛になるというのはどういう事でしょうか。雑談が苦手という人は、あまりにも自分の話す内容にとらわれているのかもしれません。「どんな話をしてよいのか分からない」「特に話したい話題がない」「私が話をするとみんなが引いてしまう」などと考えている人は、気軽に雑談の場に加わることができなくなります。面白い話、役に立つ話、意味のある話、相手を感心させる話をしないと意味がないと考えていると会話することは苦痛になります。こういう人は、雑談の意味が分かっていないのかもしれません。雑談は人間関係を円滑にするための潤滑油のようなものです。雑談に出てくる内容はほとんど意味のないものです。内容よりも相手と会話ができてよかった。楽しかったという気持ちを持てたかどうかが肝心です。雑談は人間的な交流が出来たことに意味があります。雑談恐怖の人は、他人から評価されたい、一目置かれるような存在感を示したいという気持ちを持ち合わせているのかもしれません。基本的に相手の話を聞くことよりも、自分の話す内容の方に注意や意識が向いている。会話が双方向ではなく、一方通行になりやすいのです。次に、自分の弱点や欠点、過去のミスや失敗などの話になって傷つくことを恐れている。雑談というのはとりとめのない、無責任な世間話です。雑談はあらぬ方向へ飛び火することは頻繁に起こります。火の粉が自分の身の上に飛び火することはよくあります。それを面白おかしく、無責任に話題にされるのではないかという危惧があります。からかわれたり、バカにされたり、ユーモアの種にされると居心地が悪くなります。そういう予期不安がある場合は、雑談の場に加わらない方が賢明だという気持ちなのでしょう。明日は雑談恐怖に対しての心構えについて投稿します。
2023.11.09
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フランスの経済学者のジャック・アタリ氏は、2007年に未来の政治と経済を予測した著書「21世紀の歴史 未来の人類から見た世界」の中で、21世紀中に人類の歴史に終止符が打たれる可能性が高いと指摘しています。イスラエルとハマスの戦闘、ロシアとウクライナの戦争、中国の政治や経済の混迷、ディープステートによる世界経済の支配などはそれを予感させるものがあります。ジャック・アタリ氏は、これまでソ連崩壊、金融バブル、インターネットの普及などを予想しましたが、その通りになっています。この状態のままでは人類の支配は国境を越え、拡大し続ける市場によって2050年頃には「超帝国」が生まれるという。地球規模で統一された市場では、自然環境は破壊され、軍隊や警察、裁判所も含め、すべてが民営化される。公共サービスも民主主義も、政府や国家さえも破壊されるなかで、貧富の格差はいよいよ拡大し、生活貧困層が増大していく。やがて、世界各地で未曽有の「超紛争」が勃発し、いかなる国際機関も調停に乗り出せない。ついに世界は巨大な戦場と化して、一般市民はあらゆる種類の大量破壊兵器の餌食になり、人類は滅亡に向かう。(コロナの暗号 人間はどこまで生存可能か 村上和雄 幻冬舎)私は残念ながらこの予測は当たる可能性が高いと考えています。いまの世界は欧米のディープステート(国際金融資本、多国籍企業)による人類の支配が国境を越えて拡大し続けているのが現実です。これはロックフェラーやロスチャイルドにつながるユダヤ系金融資本家です。最近はそこに中国が覇権争いに加わっているのです。いずれにせよ、ごく一部の人が、その他大勢の人を支配しコントロールしようとしている構図は変わりません。いずれにしても、将来は国境の枠は形ばかりとなり、世界規模で統一された市場が出現して、支配力が強まるでしょう。政治、経済、金融、司法、教育、軍事、社会インフラ、娯楽、農業、報道などは、どんどん民営化されて、ディープステートの利益拡大の手段として利用されるようになります。ごく一部の人たちが、世界の富のすべてを自分たちの所有物にしようとしています。戦争を演出して高価な兵器を売りつけて暴利をむさぼることもいとわなくなります。ガン細胞が人間の体の中で、どんどん増殖しているような状態です。そして追いつめられた人たちが、核兵器の使用に踏み切ることは十分に考えられます。核兵器の使用によって人類は絶滅してしまうというのが、ジャック・アタリ氏の予測です。第三次世界大戦の開始は、人類の絶滅につながるものです。人間の欲望の暴走は恐ろしいものです。神様は人間に制御力も与えましたが、欲望が暴走し始めるとひとたまりもありません。一旦甘い蜜を吸ってしまうと、報酬系神経回路が過度に活性化されてしまうのです。本来は欲望の暴発は防衛系神経回路などによって制御されるようになっていますが、一旦はずみがついてしまうと制御能力を失い暴走してしまうのです。それは、依存症に陥った人が、依存症を克服することが困難であることとよく似ています。森田理論は、欲望の暴走は同時に湧き上がってくる不安によって抑制していかなければならないと説明されています。そして意識して欲望と不安のバランスをとっていくことが目指すべき方向です。ディープステートといわれる人たちが、森田の考え方を学んでくれるようなことはないのでしょうか。私たちはディープステートの横暴を指をくわえてみているしかないのでしょうか。少なくとも森田理論を学んだ私たちは、森田の考え方を世界に向かって発信する時代に来ているような気がします。
2023.11.03
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瀬戸内寂聴氏のお話です。心配することが何もないという人はボケますよ。私の義兄、姉のお婿さんがボケたんです。70代でしたけどね、面と向かって私のことを、「あなた、どなたさんですか」なんていうぐらいボケたんですよ。それで姉が心配しましてね、老人ボケだっていうんで、そばを離れないでついていたんです。ところがその看病していた姉のほうがガンで死んじゃったんですよ。そうしたら姉が死んだ途端に、そのボケ老人がシャーンとしてしまいました。それでいま、とてもしっかりしているんですよ。100歳まで生きるかもしれない。だからあれは甘えていたんですね。心配することがないので安心してボケけてたんです。姉が死んで、ボケてたら誰も面倒を見てくれないと思ったとたんに、シャンとしてきた。(わたしの宇野千代 瀬戸内寂聴 中央公論社 182ページ要旨引用)定年退職して、年金が満額もらえるようになり、家でのんびり過ごしたいと考えている人はボケる可能性が高まります。また食事、掃除、洗濯、ゴミ出し、隣近所との付き合いなどを配偶者にまかせている人は危ない。外出するのは配偶者が買い物に行くときについていくだけというのも危ない。年金が少ない人で定年後も仕事を続けざるを得ない人は、物忘れは多いが、ボケることはあまりない。仕事を引退しても家事全般、孫の世話、農作業、動植物の世話、趣味、習い事、学習、親しい人との交流などを心がけている人はボケない。つまり自分でできることややらなければいけないことを、面倒だ、わずらわしいと考えて他人に依存するようになると危ない。三重野悌次郎氏が言われていましたが、雑事を軽視すると人生は活性化しない。雑事を丁寧にこなして、小さな成功体験を積み重ね、ささやかな喜びや感動を味わうことができるようになると、ボケが入り込む隙間がなくなってくると思う。
2023.10.31
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柿原美恵さんが森田先生と自動車に乗っていた時のお話です。森田先生が次のようにおっしゃった。「僕が自動車に乗っている時は、片足に体重を乗せて、他の片足の力を抜いておく。こうすれば、自動車が大きく揺れたときでも転ばない」以前森田先生は、人力車に乗っていて、何かに衝突して放りだされたけれども、柔術の心得があったから、怪我をされなかったとのことである。また、「僕は冬の寒いときでも、決して右手の手袋は使わない。右手に手袋をはめていては、とっさの場合に右手を十分に活用できないからだ。だからこの通り、右手は洋服のかくしに突っ込んでおく。ほれ、右手の手袋は一度も使っていないだろう」と言って見せて下さってから、「柿原さんにやろう」と言って、記念に私に下さった。このエピソードは、森田先生は、日頃から次の変化を予想し、その変化に素早く対応することを生活信条とされていたことがよく分かります。このメリットは注意や意識が常に外向きになることです。また目の前に起きていることをよく見る癖が身に付きます。これから起こりそうなことを、分析・察知して前もって対策が打てるようになります。事実が見えてくると、気づきや発見があります。そして感情が動き出します。工夫やアイデアが生まれて、意欲的になります。積極的、建設的、生産的、創造的な行動的につながります。森田先生の場合は、普段の生活は心身ともにほぼ外向きになっています。外向きが8割くらいで、自己内省力を利用するのは2割くらいでしょうか。内向きになることは極端に少ないと言えるのではないでしょうか。自己内省性が強い神経質性格者は、行動力が減退すると内向きになります。目の前のことやこれから起きることに対しての関心はほとんどなくなります。関心を示すことは自分のことばかりになります。もう一つ問題なのは、内向きの場合は感情が停滞気味になります。マイナス感情が悪循環することが多くなります。行動は消極的、依存的、観念的、回避的になります。変化対応力一点に絞って生活改善に取り組むと、森田的な生活に変化してきます。自己信頼感、自己肯定感が養成されてきます。
2023.10.25
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昨日の投稿で藤井先生が自分を客観視することが大切だと言われていました。自分自身を第三者的な立場から眺めてみるということです。これができるようになると、今まで無意識で行っていた問題行動が見えてくることがあります。問題行動が意識できれば、それを修正、改善したいという意欲が生まれます。私はある講演会での自分の姿の映像を後で見て驚いたことがあります。関心のない話を聞いているときに爪を噛んでいたのです。無意識的にストレス発散行動をとっていたのです。これには唖然としました。それ以降は気を付けるようになりました。自分が話している映像を見ると方言丸出しといった感じでした。これでは聞いている人が不愉快な気持ちになることが分かりました。なかなか直せないのですが、注意することはできます。また最初にお断りすることもできます。カラオケには自信がなくて音痴だとばかり思っていました。とにかく自分の声は普通の人と違う。変な声をしている。救いようがない。そこでビデオを持って一人カラオケに行きました。自分の歌唱を何曲もビデオに収めました。その時採点機能を使いました。音程が映像で表示されました。音程が合っているか外れているかは映像で確認できました。それで分かったことは、声は個性的だがそんなにみっともないということはない。それよりも音程が不安定なのが気になりました。ビブラートがかかりすぎている。私は男性としては高音部分がよく出る。第九の合唱団に加わっていた時に次のように指摘された。一口にテノールといっても幅があって、私の場合は低音が出にくい。高音が出やすいという特徴がある。今島津亜矢の「相生」を練習しているが、低音部分がとても苦しい。あらかじめキーを2度あげてやると途端に無理なく歌えるようになります。普段のカラオケの練習はIC録音機が欠かせない。自分の歌唱を吹き込んで後で聞いてみる。違和感がないかどうかすぐに分かります。お手本となる歌手の歌声をリピート機能を利用して、小節ごとに区切って練習すれば何とかものになることが分かってきた。私は一人一芸をやっております。アルトサックス、どじょう掬い、傘踊り、腹話術、獅子舞、しば天踊り、浪曲奇術、手品などです。それらは定期的にスマートフォンで動画撮影をしています。1ヶ月に1回は点検のつもりで撮影しています。撮影は簡単です。自分の所作を動画で確認することはとても重要だと思っています。特に人前で何かをする場合は、他人に見てもらうか、自己点検が必要です。自分が審査員になって自分の所作を観察すると、改善点がいくつも見つかるのです。それを積み重ねると違和感が少なくなり、自信を持って本番に臨むことができます。下の写真のように譜面台を横にして100均で買った三脚を立てています。高さ調整が自由自在にできます。またリモートで撮影開始が可能です。それは一旦Googleフォトに保存されますが、パソコンと同期すればパソコンのGoogleフォトで見ることができます。その他、重要なものはGoogleドライブを利用してファイル管理をしておけば動画保存は楽になります。ICレコーダーやスマホの動画撮影機能は自分を客観視するためには強力なツールだと思っています。最初は自分の実際の姿を音声や動画で見ることに抵抗がありましたが、そのうち抵抗感がなくなりました。慣れてきたのでしょう。これらは自分を客観的に観察するために、必要不可欠なことだと思っています。
2023.10.08
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藤井英雄氏のお話です。心は、いつも「今、ここ」から離れて思考しがちです。それが心の役割なのです。具体的には、過去の失敗を思い出しては後悔し、未来の取り越し苦労をしては不安になり、他人がこうしてくれたらいいのにと不満に思い、こんな自分ではダメだと自己嫌悪に陥っては憂欝になるのが人間です。(平常心と不動心の鍛え方 藤井英雄 同文館出版 49ページ)藤井氏は、未来への不安、過去の後悔、現在の他人や環境への不満、そして自己嫌悪などのネガティブ感情に振り回されている状態は、心が「うわの空」になっていると言われています。心が「うわの空」になってしまうと、心を「今、ここ」に引きとどめておくことができません。葛藤や苦悩はそうした状態の時に忍び寄ってくるといわれています。ではどうすればよいというのでしょうか。簡単です。「今、ここ」を感じればよいのです。感じることと考えることは同時にはできないという特徴があります。「今、ここ」の感情にフォーカスして生き生きと感じることができるようになると、心の中に心配事が入る隙間はなくなります。藤井氏によると、これはマインドブルネスの中心的な考え方だそうです。マインドフルネスとは、「今、ここ」の現実に、リアルタイムかつ客観的に気付くことです。この考え方は少し難しいようです。森田理論と合わせて考えると理解しやすいと思います。森田先生は注意の集中ということについて次のように説明されている。私が講話をするとき、精神が集中するとはどういうことかというと、普通の精神の集中とはちょっと意味がちがう。1、自分の挙手動作に注意する。つまずいたり、コップをひっくり返したりしないように注意するのである。2、みなさんの状況、周囲の変化、すなわちある人が聞きたそうな顔をしているとか、後ろから出入りする人、戸外の自動車の響きなどにも、よくこれを感じ分けるようになり3、自分の講話の筋道を工夫するという風にこの四方八方に心が散った有様が、禅のいわゆる無所住心であって、周囲の全てのことに気がついて、しかも何事にも心が固着しないで、水の流れるがごとくに心が自由自在に流転適応していく有様である。あたかも明鏡に物が映るがごとく、来るものは明らかに映り、去れば直ちに影をとどめないという風である。(森田全集第5巻 580ページ要旨引用)ここで私がポイントだと思うのは、注意はいろいろな方面に分散しているのですが、一旦気になる一点に注意を向けたとき真剣に向き合うということです。他のことを考えながら「うわの空」で向き合うと、後で不安になります。例えば戸締りが気になる人が、仕事のことや会社での人間関係のことを考えながら施錠してしまうと、後からカギを締めたのか締めなかったのか確信が持てなくなってしまいます。このときカギを締めることにきちんと向き合っていると、隙間からカギがかかっていることをしっかりと確認できますのであとで疑心暗鬼になることはありません。きちんと向き合うと目の前の不安からはすぐに解放されます。次に不安から解放されたら、次の不安に飛び乗ることが大切になります。こういう意識で生活することが、「今、ここ」の現実に集中するということになります。分かりにくいという方は、2023年7月27日、8月25日、9月7日投稿をご参照ください。特に7月27日の投稿記事で理解していただけるのではないかと思っています。明日は藤井英雄氏が指摘されている「客観化」の方法を考えてみたいと思います。
2023.10.07
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池ポチャの法則は、ゴルフで絶対に球をフェアウエイに乗せたいと意識する時に起きます。細心の注意を払っていると、そんな愚かなミスをするはずがないと考えがちです。そう考えながら球を打つと、池に引き寄せられるように、心配していたことが現実となってしまうという現象です。「池に打ち込んではいけない」ということはよく分かっているのに、どうしてそのようなミスを犯してしまうのでしょうか。今日はこの問題を取り上げてみました。これはゴルフだけに限りません。楽器の演奏でもそうです。過去に間違えたところは、今度は絶対にミスをしてはならないと考えていると、今度もまた同じところでミスをしてしまう。ミスしたところにさしかかると「間違いなくできるだろうか」という不安が生まれます。小さなパニックに陥ります。その不安はすぐに前頭前野に伝えられます。前頭前野は早速ミスをしないための方法を考え始めます。つまり意識をいつまでもその部分に固定してしまうのです。演奏は側頭葉や運動野に蓄えられた長期記憶を基にして行われています。意識的行動ではなく、無意識的な行動です。練習ではほぼ正確に演奏できても、本番で前頭前野が介入してくるととても厄介なことになります。ケガをして出血しているときは急いで止血しなければなりません。前頭前野の介入は、止血が必要な時に、ケガの原因究明をしているようなものです。大量出血をすると命にかかわるようなこともあります。前頭前野は事前に問題が予想されるとき試行錯誤する時は役立ちます。ただし十分な練習をして、あとは本番で成果を出し切ればよいという時には何の役にも立ちません。むしろ弊害が大きくなります。手先が金縛りにあったようになります。この場合は前頭前野に不安の情報を送らないことが大切になります。しかし人間は考えないということはできません。せめて意識を一点に集中しないように心がけることは必要になります。イチロー選手や羽生結弦選手はルーティンワークを心がけていました。これに意識を持ってくることで、分散化が図られているのだと思われます。私はサックスの演奏をしていますが、最初にソロで演奏する時に不安が高まります。その時は1時間前に不安を多少和らげるデパスという抗不安薬を飲んでおきます。精神科医によると私の症状はよくあるそうです。これを名づけて、「パフォーマンス限定社交不安障害」と呼ぶそうです。次に本番ではまずゆっくりと運指を音を出さずに確認します。そして時間を置かずにすぐ演奏に移るようにしています。あとは同じサックスの人が高齢で、「私がしっかりリードしないでどうするんだ」という意識を持つようにしています。この3つ以外にもいろいろと工夫してきましたが、それらはすべて症状の強化につながりました。シンプルイズベストという結論に達しました。
2023.10.03
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「こだわり」と「とらわれ」という言葉は、どちらもある特定のところに注意を向けて、感情や意志をとどめている点は同じです。ところがその中身は180度違うように思います。こだわる人は、気に入ったものを見つけるとそれ以外のものは受け付けない。他人の意見に安易に流されない頑固さを持っています。自分の意志の強さを感じます。主体性があります。例えば気に入った道具などを見つけると、それ以外のものは受け付けられなくなる。出張先で宿泊するホテルもいつも同じところに決めている。ビールや日本酒にしても銘柄を指定してくる。ルーティンワークにこだわっている人もいます。サプリメントにこだわっている人もいます。無農薬野菜や有機野菜にこだわっている人もいます。森田理論学習にこだわっている人もいます。こだわることに快感を感じるのでしょう。居心地がよいのです。どうしてそこにこだわっているのかきちんと説明できる。人にもその良さを伝えたくなるようです。特にこだわりの強い人は、うんちくを話し出したら止まらなくなる。こだわっている人を見ると、頑固だな、融通がきなない人だなと思いますが、いやな気はしません。むしろ自分の気持を尊重して、自分のスタイルを押し通そうとしているところに共感を覚えることもあります。これに対して、とらわれる人は容易に他人に振り回されてしまう。主体性が乏しい。自分の気持、感情、意志、欲求、欲望が明確になっていないので、まともに周りの影響を受けてしまう。不安、恐怖、違和感、不快感にとらわれる人は、事実をよく見ていない。先入観、思い込み、決めつけ、人のうわさ話などで対策を立てようとする。そして問題を深刻化させて後悔することになります。神経症に陥る人は、一番気になる不安に集中してとらわれています。精神交互作用でどんどん蟻地獄に落ちていく。とらわれる人は、こだわる人を参考にして、自分の気持、感情、意志、欲求、欲望を見つめ直すことが大切になると思います。そして日々の生活に丁寧に取り組んでいく。そうして、やりたいこと、課題や目標が見つかると、とらわれる人からこだわる人に変身できるのではないでしょうか。我マンションの遊具です。
2023.10.01
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プロ野球でデットボールをよくみかけます。その中でも頭部や顔面にあたるデットボールは見ている人も恐怖感を抱きます。当てられたほうも痛いが、実は当てた方も痛いのです。まずは危険球で一発退場となります。それ以上に、精神面で大きなショックを受けます。相手を再起不能に陥れるかもしれないのですからもっともなことです。その後、「ぶっつけてはいけない。今後は頭や顔に当てるのは何としても避けなければいけない」という気持ちになるのです。つまりまっさらな気持ちで真剣勝負ができなくなります。相手打者をいかに抑え込むかという本来の目的が希薄になるのです。注意や意識をそこに集中させていると、吸い寄せられるようにまた同じ失敗をくり返してしまうのです。注意や意識の集中が強まれば強まるほどマイナスの悪循環か止まらなくなります。何も対策を立てないで、そのままにしておいても収まることはありません。むしろ自己内省力が強く働いて、自己否定するようになります。後遺症で苦しまないために、監督によっては、すぐに次の登板をさせることが多いようです。でも最初のうちはどうしても思い切った投球はできません。外角一辺倒で逃げ腰になります。大野豊さんは、2ストライク後に相手打者の頭に当てたことがあった。その後、「2ストライクになるたびに、ああ、またぶっつけちゃいけないと思うようになった」そうだ。そういうときは、キャッチャーに次のようにお願いした。「ノーボール、2ストライクになったら、内角のサインは出さないでくれ。ワンボールになったら、内角にも投げるから」ボールを一球投げて、自分の気持を整理したというのです。一旦ケリをつけて新たな気持ちで投球するようにした。これで過去の呪縛から解き放されたということでした。私は数字でいえば、1、11、111が嫌いです。ある日家族の命日が、1、11が絡んだ日だと気が付いたからです。それ以来、1、11という日は呪いの数字だと思うようになりました。読書のときも111ページに差し掛かると、急にページ数が気になるのです。そのときは早めに111ページを通過するようにします。バイクや車を運転しているときは、車のナンバーが気になります。そういう意識で前方の走行車を見ているせいか、1、11、111、1111をつけている車がとても気になります。そのまま放置していると自分に禍が降りかかってくるような気がして仕方がない。その人たちにとっては栄光のナンバープレートなのでしょうが、私にとっては不幸をもたらすナンバーなのです。この場合は自分なりのおまじないをすることにしています。ここに書くことが気が引けるようなおまじないですが、これをすると、先ほど見た忌まわしいナンバーの悪い予感を払しょくできたという気持ちになれるのです。一旦キリをつければ、禊が済んだ気分になり、いつまでも気にすることはなくなります。後には引かないと心の底から思えるのですから不思議なことです。脳はマイナス感情で覆われても、それをご和算にするようなプラスの情報をインプットしてやれば、簡単にひっくり返ってしまうということではないかと思っています。この話は西田文郎さんから学びました。脳は100回否定しても、101回目で肯定してやれば、その情報のほうを信じてしまう。たとえそれが嘘であっても、それを本当だと信じてしまう。形から入れば、脳は簡単に洗脳されてしまうという特徴があるのです。不思議なことですがそれが脳の真実だといわれているのです。岩国城へ向かうロープウェイ
2023.09.25
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私は大学を卒業後、書籍の訪問販売の仕事をしていました。今考えると対人恐怖の私がよくぞこんな職業を選んだものだと思います。この仕事は相手に断られることが多い仕事です。すると自分の自尊心が傷つけられるように感じました。不愉快な気持ちを回避するために、有力な見込み客だけに営業をかけるようになりました。そういう人から断られると、次の仕事に向かう気力がなくなります。私は目の前の仕事ではなく、不快な気持ちになることを避けることばかり考えていたのです。これでは仕事がうまくいくわけがありません。仕事をさぼり、自己嫌悪でいたたたまれなくなるのです。仕事をさぼっていると、営業能力が向上することはありません。同期の人とは差が開くばかりになりました。この仕事で成功した人は、ダメでもともとで多くに人に営業をかけている人でした。10人の人に営業をかけて1人から成約が取れれば十分という考え方でした。9人の人から断られても、それは無駄ではない。断られるという経験は営業ノウハウを高めるために大いに役立っている。自分に与えられたノルマは何が何でも達成するという意欲を持っている。仕事に対する責任感・使命感が強いのです。またライバルの中で一番の成績をあげて評価されたいという気持ちも持っている。この仕事が持っている社会的な意義についてもよく理解している。だから少々の不快な気持ちを悠々と乗り越えていけるのだと思います。次にインテリアの卸会社で営業事務の仕事をしました。得意先から電話やFAXでいただいた注文をパソコンで加工して、工場に送るという仕事でした。これはミスがないのが当たり前という仕事でした。でも悲しいかな人間のやることにミスはつきものです。数多くの仕事をこなしていると必ずミスが発生します。ミスをすると、得意先、エンドユーザー、営業マン、上司、同僚などから非難されます。一つミスをするとそれがトラウマになります。次の仕事でまたミスをしてしまうのではないのかという予期不安で苦しみます。小さなミスはごまかす。隠す。言い訳をする。自分で買い取ってなかったことにする。絶えずミスをして、叱責や非難されることに注意や意識が向いて、生きた心地がしなくなります。積極的に仕事に取り組めなくなります。仕事から逃げるようになります。私は目の前の仕事に全力投球するのではなく、他人に後ろ指を指されないようにすることに神経をすり減らしていたのです。その結果仕事は生活のためにイヤイヤするものだという考え方になりました。人生の三分の一を占めている仕事がこんな調子では生きた心地はしません。また仕事に消極的で成果が出せない人に、対人関係が追い打ちをかけます。今生まれ変わって仕事を始めるとすると、先ず自分でこれをやりたいという仕事を時間をかけて探す。興味や関心のもてる仕事、情熱の持てる仕事は必ず見つかるはずです。高校、大学生活は自分の適職を見つける期間と心得る。一生関われる仕事を見つけた人は、人生の半分は成功したようなものです。アルバイトなどでいろんな仕事を経験してみることも有効です。次に仕事にはミスや失敗や無駄や損失はつきものです。いくら努力しても成果が上がらないこともある。ですから完全主義ではますます自分を窮地に追い込みます。完全主義、完璧主義、かくあるべしの弊害は森田理論学習で理解する必要があります。ミスや失敗をしたらすぐに、俎板の鯉のような気持で、すぐに公開する。隠す、捻じ曲げる、ごまかす、報告を遅らせる、責任転嫁をするのは最悪と心得る。そうすればいつまでも苦しむことはなくなります。事後処理が終われば、リセットできます。また新たな気持ちで仕事に向き合うことができます。それから仕事は人間関係作りの為にだけするものではありません。生活費を稼ぐ。社会の中で自分の居場所を確保する。仕事の中で工夫や改善を重ねて楽しみを見つける。自己実現を図る。頭を使う仕事は脳が活性化します。身体を使う仕事は体力強化にもなります。仲間と切磋琢磨して、一人では無理な大きな目標を実現できます。人の為に役に立つことをする。会社に利益をもたらす。などの目的があります。人間関係を唯一の目的としてしまうと、そこで躓くとすべてがダメになってしまう。以上が仕事選びで失敗した私が反省している点です。
2023.09.22
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依存症には、アルコール、ギャンブル、ネットゲーム、買い物、過食、性衝動、薬物などがあります。依存症は脳が快楽に乗っ取られたような状態だと思います。正常な脳の機能が破壊されたような状況です。欲望が暴走を始めると、自分では制御不能となります。冷静な時にはいけないことだと頭ではよく分かっているのですがつい手が出てしまう。やらずにはおれない精神状態に追い込まれます。依存症はあなたが悪いのではない。脳の障害だと言っても、その弊害は深刻です。ひどくなると、自分の健康破壊、自己破産、家庭崩壊、人間関係の悪化、懲戒解雇、社会からの永久追放をもらたしています。そこまで至らなくても、依存症予備軍の人は多いように思います。普段から欲望が暴走しないように注意して過ごすことが大切です。森田理論では人間には精神拮抗作用が備わっているといいます。これは欲望の暴走には不安が役立っているということです。車でいえば欲望はアクセル、不安はブレーキのようなものです。アクセルを踏み込めば、車は目的地に向かって動き出します。一旦動き出した後は、ブレーキを活用してスピードを制御しなければなりません。ブレーキが故障すると、双極性障害の躁状態になります。普段から生の欲望の活性化に力を入れつつ、適宜不安を活用してバランスをとる必要があります。例えば、今日の懇親会で好きな酒を心ゆくまで飲みたいと思っても、二日酔いで次の日に頭が痛くて寝込んだことを思い出して自制心が働くようになっています。この問題に対して、私は次のように心掛けています。私はビールを注文する時に、お冷も頼みます。これは酒豪の女性に教えてもらいました。今ではビールを飲むたびに、お冷を飲むことにしております。次に一杯のビールを飲み干すのは、なるべく一番最後になるように心がけております。駆けつけ一杯で誰よりも先に飲み干すというのは、元気があってよさそうに見えますが、二日酔い一直線です。最初は前菜や野菜サラダなど腹が膨れるものを食べるようにしています。腹を落ち着かせると酔いが回るのを抑制できます。つぎに酒の好きな人は、ビールだけでは収まらず、焼酎、ワイン、日本酒、カクテル、ウィスキーなど手あたり次第手を出す人がいます。飲む量も増えます。これが悪酔いする原因だと思っています。欲望を制御する方法が分かったら、即実行することが肝心です。
2023.09.14
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森田先生は集中するということについて次のように説明されています。人間の自然な心は、常に目的物に向かってのみ注意が集中するのが普通である。薪を割ろうとすれば、薪の中心に向かって注意が集中してくるのである。ところが神経症の患者は、打とうとする斧に添えた手の動かし方や、自分の姿勢のことばかりに注意が向いて、さらにそんな姿を人はどう思うだろうかというふうに発展して、益々注意の向けどころが間違ってくるのである。これはたとえば戸締りが気になる人、ガスの元栓が気になるという人は、確認行為をしている時はそのことに注意を集中しなければならないということだと思う。色々と雑念のようなものが湧き上がってくるが、「今、ここに」注意や意識を集中しなければならない。他のことを考えながら上の空で確認行為をしてしまうと、時間が経つときちんと確認をしたのかがとても不安になります。念のために家に引き返して再確認ということにもなりかねません。確認行為に意識を集中して、2度か3度繰り返せば、意識的行動になりますので、確認行為は「大丈夫だ」という安心行動につながります。これは現実的な不安を感じたときは、一旦は好むと好まざるにかかわらず、価値判断しないでその不安にきちんと向き合うことが肝心だということです。不安を感じたときに、きちんと向き合うことを軽視していると、その不安は膨れ上がってしまいます。つまり神経症の原因になるのです。森田先生はそれとは別に、集中することは「無所住心」ことだと言われています。井上常七氏に、「僕は今君の診察をしているんだけれど、(庭で作業をしている患者が見えるんですね)あの作業は間違っていないか、どうしているかなと見たり、それも気になる。外来の患者が気になったり、いろいろ気にしながら、君のことを見ているんだ。少なくとも3つ4つのことに心が流れているんだ」昆虫の触角のように四方八方にアンテナを張って、その時々の気になることに一旦注意を向けている状態が集中していることだと言われているのです。何事も一旦は気になりながらも、確認が終わればすぐに次の気になることに関心が移っていく。神経を一つのことだけに集中させている状態は、集中している姿ではない。これでは周囲の変化に迅速に対応することができなくなってしまう。流れゆく目の前の変化に、次々に注意や関心が流転している状態が集中しているということである。この2つはまるで反対の考え方のように見えますが、不安の取り扱い方としては、2つとも大切なポイントだと思います。まず不安が立ち上がってきたら、その不安にきちんと向き合うことが肝心です。神経質者の場合は不安からすぐに逃げてしまうことが多い。不安を悪者と決めつけてすぐに取り除いてしまおうとする人もいます。次に不安に注意を向けて、たいした問題でなかったら、その不安からすぐに離れることが必要になります。人間は誰でも、生活の中で大小さまざまな心配事や不安が湧き上がります。きちんと生活している人は、いつまでも一つの不安と関わる余裕はないはずです。ここで肝心なことは、次の心配事や不安に注意や意識を振り向けていくことです。そして処理できることはすぐに処理をする。処理できないことは性急に処理しないで、後日の懸案事項として残す。とりあえず目の前に現れた心配事や不安の方に集中して対応していく。不安に集中する考え方は、2023年8月25日と7月27日にも分かりやすく説明しておりますので、興味のある方はご参照ください。京都 醍醐寺五重塔
2023.09.07
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あの人はいつも仕事をサボっているから許せない。そんな人は生きる価値がないと決めつけてしまう。やる気がなく怠惰な生活を続けている人をみるとつい見下してしまう。そういう人と付き合っていると自分の生気を吸い取られてしまう。絶対に近寄ってはいけないと思ってしまう。姿かたちは人間ですが、中身は動物と一緒とみなしているわけです。さらに自分がそれに当てはまると、自分で自分を責めてしまう。無気力、消極的、回避的、気分本位の自分に愛想をつかしてしまう。他人からだけではなく、自分自身で現実の自分を否定しているのですから、生きることの意義を見失い、人生は苦行のようなものになります。多くの人が無気力、消極的、回避的、気分本位の人間はクズだと思い込んでいます。そういう「かくあるべし」という思い込み、先入観が骨の髄まで染み込んでいます。この考え方ははたして間違いないことなのでしょうか。私はこれは認識の間違いだと思います。そういう人を見て、非難・否定している人は、結局最後は、自分で自分の首を締めているように思えるのです。自滅の坂道を真っ逆さまに下っているように見えます。考えてみれば、梃子でも動かないという人でも、火事になればすぐに逃げだします。地震で津波が発生すれば高台に避難します。足が悪くても何とか逃げる方法を考えます。誰でも生命の危険を察知すると、すぐに意欲的に行動します。さらに課題や目標が明確になると、途端に誰でもやる気に火が付きます。好きなことや興味や関心があることには、自然に手足が動くようになります。過去に楽しかったこと、喜びの経験を持っている人は、再び同じような喜びや感動を味わいたくなります。催促しなくても自然に意欲的になります。過去の成功体験がよみがえると、危険で困難に見えても、敢えて再び立ち上がり、挑戦の道を歩むことになります。ドーパミンやβエンドルフィンがでてきて、恍惚感、快感を味わった経験は、また何度も同じ行動を呼び寄せます。止めようとしても止まらなくなるほど意欲的になります。子どもが生まれると、オキシトシンがでてきて、献身的に子育てに専念するようになります。他人から感謝されるような経験を持っている人は、またそれ以上の感動を味わってもらうように努力精進するようになります。これはセロトニンという精神伝達物質が絡んでいるようです。これらの精神伝達物質は人間の意欲を無条件に搔き立てています。精神伝達物質の活性化は、意欲的な人間を作り上げるために大きな影響力を持っています。ここで言いたいことは、人間はその時の自分の置かれた状況によって、時に意欲的、積極的、挑戦的になったり、時に無気力、消極的、回避的になったりするということです。ですから一生を通じて、無気力、消極的、回避的な人間は一人もいないということです。そういう人でも、条件が整えば、俄然やる気が高まり、積極的に行動するようになる。人間の一生を見ると好不調の波があります。高い波と低い波が交互に繰り返されている。それが循環しているのが真実です。別の言葉でいえば、強弱のリズム運動を繰り返しているのです。そうように考えると、今現在、無気力、消極的、回避的な人がいとおしく見えてきませんか。そういうときは全面否定するのではなく、いたわりの心を持って見守ることが肝心です。その人は今大波の底にいて苦しんでいるのです。そういう人を見て石を投げつけるようなことをするのは愚かなことです。上から下目線でその人を非難・否定していると、人間関係は悪化するばかりです。その人の人間性のすべてを否定しても、双方の利益になることは何もありません。そんなことを繰り返していると、自分が不調のどん底に落ちたとき誰も味方にはなってくれません。無理をして粋がっていた人が、落ちぶれたときは目も当てられないことになります。人間誰でも好不調の波があります。積極的で行動的な時と消極的で無気力な時が交互に訪れてくるのです。そういう事実をきちんと押さえるだけで、自信がよみがえってくるように思われますが如何でしょうか。
2023.09.03
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一般的にストレスを引き起こすストレッサーには次のようなものがあります。1、物理的ストレッサー・・・暑さ、寒さ、気候の変化、ゲリラ豪雨、雷、地震など2、環境的ストレッサー・・・大気汚染、黄砂、スギ花粉、タバコの煙、騒音など3、肉体的ストレッサー・・・無理な運動、過酷な仕事、病気やケガ、ウィルスや細菌感染など4、人間関係ストレッサー・・他人や仕事での人間関係、家族や友人とのトラブル5、精神的ストレッサー・・・家族の病気や死、失恋、失敗、挫折、仕事に対する負担、健康・将来への不安など6、社会的ストレッサー・・・リストラ、借金などの経済不安、介護、オレオレ詐欺、あおり運転などストレスが発生すると、その一点に注意や意識が集中してきます。取り除くことができるものであれば、できるだけ早く取り除いた方がよいと思います。自分一人で解決困難な場合は、専門家に依頼する。でも容易に取り除くことができないストレスが多いのが現実です。同じストレスが長期間続くと心身にダメージを与えます。小さなストレスを甘く見ていると、大きなストレスを抱えてしまうことになります。ストレスは可能な限り小さいうちに、対応することが大切になります。ストレスに過度にかかわりあうのも問題です。慢性疼痛を抱えている人は、痛いところに、注意や意識を集中させることによって、実際の症状や痛み以上に強く感じてしまう面があります。日常生活に丁寧に取り組む人は、その痛みは実態以上に強くはなりません。また小さなストレスを根こそぎなくしてしまおうと考えるのは問題です。例えば赤ちゃんや寝たきり老人のおむつなどは、吸収性のよいものが販売されています。とても便利なものですが、反面イヤなものをイヤと感じる感性は鈍感になっていくそうです。赤ちゃんの豊かな感性の発達を妨げ、お母さんとのふれあいが希薄になってしまうのは問題ではないでしょうか。老人の介護ベッドはリクライニング式でとても便利になっています。余りにも便利になると歩くことを忘れてしまうのではないでしょうか。歩かなくなると足の筋肉は急速に失われます。そのまま放置しているとすぐに歩けなくなります。寝たきりになるのです。寝たきりになると、認知症になる可能性が高くなります。街中でお年寄りが電動の車椅子を巧みに運転している光景を見かけます。全く歩けない人は仕方ありませんが、歩ける人は杖をついてでも歩いたほうがよい。何しろ足は第二の脳と言われているのですから。食事を作るのがストレスだといって、全く作らない人もいます。食材配達、出前、宅配弁当、ファーストフード、外食に頼っている人もいます。ストレスを回避できたと喜んでいると、茹でガエル現象に陥るかもしれません。カエルがぬるま湯の鍋に飛び込んで、温泉気分を味わっているうちに、次第にお湯が温まり、最後には命を落としてしまうという話です。ある程度のストレスと上手に付き合いながら生活することが大事になります。生きていればある程度のストレスがあるのは当然と考えて、仕事や日常生活に精を出していくことが大切です。このことを、森田先生は「不安常住」と言われています。諸行無常は、人生の事実である。この無常・不安定を常住とするとき、はじめてそこに安心立命の境地がある。適度なストレスは、私の無二の親友であるといった心境でしょうか。大阪箕面の滝
2023.09.01
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過度のストレスや不安は人間を死に追いやることがあります。しかし適度のストレスや不安は人間に生命力を目覚めさせて、生きる力を与えてくれます。今日はストレスや不安を歓迎する生き方について考えてみたいと思います。世界一の長寿村と言われているコーカサス地方は山あり谷ありの過酷な自然環境です。寒さや暑さの寒暖の差も身体に襲いかかります。しかし、ここでは80代は若手と言われています。多くの人が集まる酒盛りの席では末席に坐ります。100歳を超えた人がたくさんいます。115歳くらいで畑でポックリというのが多いという。どうしてそんなに長生きができるのか。ほとんどの人は農業に従事しています。イモやトウモロコシ、果物や野菜、香草、乳製品を作っている。我々から見ると、過酷な環境のなかで、厳しい労働をしているように見えます。彼らにとっては、生きるために毎日必死に農作業に取り組んでいる。我々にはストレスと思えるようなことをそれほど深刻に捉えていない。生きていくために当然のこと、あたりまえのこと、必要なことだと考えている。つまりストレスと上手に付き合っているということになります。さて、重力に立ち向かって二足歩行している人間は、筋肉や骨格が鍛えられます。宇宙空間では重力によるストレスから解放されますが、筋肉や骨は急激に衰えていきます。老人で寝たきりになった人も足の筋肉がやせ衰えて、しばらくするとトイレにも行けなくなります。さらに動かなくなると、頭の働きが悪くなりボケが始まります。足腰の筋肉の衰えは脳の働きに連動しています。これは廃用性萎縮現象と言われるものです。ストレスや不安がなくなると人間の心身に大きな悪影響が出てきます。動物行動学のケーニッヒという人が、青サギをたくさん飼っていました。食べ物を十分に与えて飼ってみると、最初はどんどん増えていくそうです。ところが、あるところまで増えていくと、そのうちだんだんと減ってきて、そして最後には絶滅したという。同じような実験はネズミでも行われていて、環境を整えていくと、最初は一時的に増加するのですが、やがては減ってしまう。卵を産んでも返さないとか、子どもができても餌をやらないなどのことが起きてくる。環境が整いストレスがなくなると、子育ての意欲が骨抜きにされるということです。子孫繁栄はどうでもよいことだと考えるようになるのです。それよりは今の自分たちの生活をより豊かにすることに専念するようになるのです。日本は少子化と言われています。これは先進国に共通しています。原因としては、子どもを産んでも養育費や教育費がかかりすぎる。自分の生活もギリギリなのに、結婚や子育ては無理だ。また、子育ての自信が持てないのに子供を作ることは無謀なことだ。子ども育てる楽しみよりも、今の何不足ない自分たちの生活を維持発展させたい。自分の代で終わっても、それは仕方ないことだと考えている。ストレスや不安を回避して、刺激や快楽を追い求めるようになると、一見楽なようですが、生きる意味を見失ってしまう。しだいに活力を失い、生きていても心の底から楽しむことができなくなる。あくなき刺激や快楽の追及によって、巨大なローマ帝国は崩壊したと言われています。今こそ人類は過去の悲惨な歴史に学ぶ必要があります。適度なストレスや不安を抱えた生活は、人間がより人間らしく生きるために、必要不可欠なものではないでしょうか。
2023.08.31
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不安への対応方法①不安という感情は問題が起きるかもしれないので注意してくださいという黄色信号を発してくれています。こういう不安が湧き起こることは大変ありがたいことです。森田では、「不安は安心のための用心である」と言われます。例えば戸締りやガスの元栓の締め忘れが気になる人は、盗難やガス爆発を未然に予防するために大いに役に立っています。自動車の運転をする人は、交差点で右折する場合は不安でとても緊張します。そのおかげで慎重に対向車や交差点の中の人の動きを確認します。この確認を十分に行うことが事故防止につながります。不安を無視して自分勝手な運転は重大事故につながります。不安に対しては、価値判断をするのではなく、きちんと向き合うことが大事になります。不安への対応方法②不安が発生すると、まずそこに注意や意識を真剣に集中させなければなりません。しかし誰でも時と場合により、注意力不足や注意力散漫に陥る場合があります。別の大きな不安を抱えている場合は、心ここにあらず状態で不安に注意を向けていても集中力が欠けています。その他、別のことを考えながら、適当に確認している場合は、強迫性障害を持たない人でも、再確認のために引き返すことがあります。これはせっかく不安が黄色信号を点灯してくれているのに、軽率に取り扱っていることになります。不安が発生すると、一旦は不安に注意や意識を集中しなければなりません。森田を学習すると不安と関わってはいけないと理解している人がいます。ここは勘違いしやすいところだと思います。集談会で声をあげて呼称確認をするという話を聞いたことがありますが、これは注意や意識を「今、ここ」に集中するために役立っています。不安への対応方法③不安に注意や意識を集中させて安全確認を終えたならば、その不安はお役御免になります。その不安からはすぐに離れる必要があります。次の不安が待ち構えているからです。時間の経過とともに私たちを取り巻く環境や状況は刻々と変化しています。もたもたしていると次の不安への対応が遅れてしまいます。神経症というのは、自分が一番気になる不安や恐怖、不快感といつまでも関わっています。森田では神経症的な不安は欲望の反面として湧き起こってくるものと言われています。神経症的な不安自体は取り除くことはできないものです。にもかかわらずいつまでも不安を相手に格闘しているということは、ミイラ取りがミイラになるようなものです。不安には現実的な不安もあります。現実的な不安は積極的に取り除くと、問題がこじれる前に未然に予防することができます。現実的な不安はその都度取り除いていく。片づいたら直ちに次の不安に向かう。神経症的な不安はそのまま持ち抱えて、欲求や欲望の方に目を向けていく。ここでのポイントは、一つの不安に一旦集中することは必要ですが、いつまでも関わり続けてはいけないということです。確認済や片がついたら直ちに次の不安に対応していくことが肝心です。
2023.08.25
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手にばい菌がついているような気がして何度も手を洗う人がいます。どうしても汚れが取れないと言って長時間風呂に入る人もいます。電車の吊革やエスカレーターの取っ手を掴むことができない人もいます。トイレに行ってトイレットペーパーをワンロール近く使う人もいます。強迫性障害と言われるものです。目に見えない細菌によって身体が痛手を受けることを恐れています。衛生観念はある程度は必要ですが、やりすぎることは問題です。本人もそのことは分かっているのですが、泣きなから続けざるを得ない状態です。その結果行動が停滞します。生活に支障が出てきます。周りの人に迷惑を掛けます。日常生活に支障が出ると苦しくなるばかりです。石原加受子氏は、無意識の視点から見ると、思考に支配されるか、感覚を味わえるのかの違いが、人生を生きづらいと感じるのか、すばらしいと感じるのかの違いだと言われています。(最近、心が休まらないと思ったとき読む本 石原加受子 中経出版 138ページ)手を何回も洗う人は、「手には、ばい菌がウヨウヨいる」という思考にとらわれています。そのために、洗っている行為から受ける感覚のほうには焦点は当たりません。手や水やお湯に浸す感触。擦り合わせる手と手の感触。手を眺めると、確かにスッキリとして輝いて見えるし、手のひらを見ると血行の流れがよい桜色の皮膚に気づいたり、手のひらの温かさを感じるでしょう。ところが、思考の中に閉じ込められていると、そんな感じはいっさい起こりません。無意識に、洗ったぐらいではばい菌がいなくなるわけがないと強く信じているのでなおさらです。その結果、いくら洗っても洗った実感が得られず、何度も洗わずにはいられないことになります。感覚を研ぎ澄ませて、その時その場の感じをよく味わうことが大事になります。強迫性障害の人は、思考にとらわれて、感情や感覚に注意を当てることがおろそかになっているのではないでしょうか。強迫観念で苦しんでいる人は、細菌から身体を守り抜こうとしています。これは鋭い感性の持ち主であり、両面観で見ると大変優れた能力を持っているということになります。問題は気になる1点にいつまでも注意や意識を集中させて、しかもそれを固定化してしまっていることです。固定化してしまうと、日常生活の中で手掛けなければならないことが山のようにありますが、それらをすべて放置して思考に専念することになります。強迫行為で悩む人は、後ろ髪を引かれる思いを抱えながらも、最低限の生活を維持するために規則正しい生活と日常茶飯事を手掛けていくという姿勢が大事になります。生活の発見会では、「超低空飛行」を続けることが大切になると教えていただきました。これはどんなに症状で苦しくても、最低限の生活を維持していくということです。一旦墜落してしまうと再度飛び立つためには、莫大なエネルギーが必要になるからです。先輩会員はぜひそういう人を応援してあげたいものです。なお強迫性障害の方には「強迫神経症の世界を生きて」(明念倫子 白揚社)という本を推薦いたします。
2023.08.16
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世界のホームラン王の王貞治氏のお話です。ホームランは打とうと思って打てるほど簡単なものではない。ホームランを打とうと意識するとボールが見えなくなる。これは森田に通じる話だと思います。王さんがバッターボックスに入ると、ホームランを期待される。その期待に応えようと意識すると、ホームランボールが来ても打てなくなる。投手の投げたボールは0.4秒前後でやってきます。しかもそのボールが沈んだり、食いこんできたり、逃げていったりします。打者は投手の癖を観察して配球を読み、来た球に無心で対応しなければなりません。そのとき少しでも凡退したときのことが脳裏をよぎるとアウトです。観客のがっかりした姿が目に浮かぶ。期待に応えられなかった惨めな自分が目に浮かぶようでは戦う前から勝負はつきます。意識が目的から離れることは闇夜で鉄砲を撃つようなものです。さらにその意識が自分に向かうようになればその弊害は計り知れません。これと同じことを森田先生も言われています。球投げをする時に、球のほうばかりに注意を集中しておりさえすれば、適切に球を受ける事ができるけれども、意識がひとたび、自分の手つきや・腰の曲げ方のほうに向かうようになれば、すぐに球を受ける事ができなくなる。薪割の時に、打とうとする一点のみを見つめていれば百発百中である。ところがその時、注意や意識が自分の手の動きや動作に向かうと途端に的を外す。(森田全集第5巻 644ページ参照)幼い子に「あれを見よ」と指させば、その指先ばかりを見ていることがあります。これは目標や目的を忘れて、自己内省の世界に漬かっているのと同じことです。指の先に目をやるということは、目的や目標に向かって気持ちが外向きになっているということです。神経症の場合も自分の不安や不快な感情よりも、自分の欲求や欲望の方に意識を向けていくようにするとすぐに改善できます。
2023.08.10
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プロ野球のコーチが次のようにアドバイスすることがあります。「高めのストレートだけは絶対手を出すな」「外へのスライダーには絶対手を出すな」「このバッターはタイミングが合っている。安易にストライクを投げるな」「コントロールに気をつけて投げろ」「この場面は絶対に抑えろ。ヒットを打たれるのはダメだからな」「絶対にエラーだけはするな」「盗塁の失敗は許されない場面だ」これらの指示が指示通りの結果になることは少ない。エアーポケットに吸い寄せられるように、指摘されたミスや失敗を招き寄せてしまいます。コーチからは「あれほど○○してはいけない」と注意していたのに、どうしてミスや失敗を犯すのかと叱責されます。これは本人がその指示を意識すればするほど、その呪縛に取りつかれてしまうのです。この場合、注意や意識を外してあげるようなアドバイスが有効です。「ベルトから下に目付をしよう」「ストレート待ちで行こう」「思い切って腕を振って投げよう」「彼は歩かせて、次のバッターで勝負しよう」「ダブルプレーを焦らずに確実に1つのアウトをとろう」「このピッチャーは牽制球を投げる時にこんな癖がある」特定の不安に過剰に注意や意識を向けると、肝心なことがおろそかになってしまう。いわば心が「うわの空」になってさ迷ってしまうのです。「失敗したらどうしよう」などと前頭前野で考えると、普段は問題なくできるような事でも、心が混乱状態になり、本来のパフォーマンスが発揮できなくなるのです。ここでは注意や意識を外すようなアドバイスが必要になります。私は以前、電話を取るときにどもるようになりました。いきなり会社名を名乗ると、どもるようになり、電話に出ることが怖くなったのです。これは自分にとってはとても苦しかったです。その状況を、集談会で相談したところ、先輩からとても良いアドバイスをもらいました。いきなり会社名を名乗るのではなく、会社名の前に「お電話ありがとうございます」という前振りをつけてみなさいと言われるのです。その方が言われるのは、カラオケでどもる人はいない。それはリズムがあるからだといわれるのです。森田先生はリズム運動を大事にされていたと言われました。これはとても良いアドバイスでした。早速この方法を取り入れてどもることはなくなりました。不思議なことですが、自信を持って電話に出られるようになりました。これは過度に注意や意識が向いていたものを、一時的に外す効果があったのです。
2023.08.08
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西田文郎氏のお話です。スポーツ選手でいつも対戦すると負けてしまう相手Aがいるとします。普通の思考であれば、対戦相手が「A」と聞いただけで、また負けるかも、とか、今回も無理だろう、と思ってしまいます。しかし、負けず嫌いな選手、つまり「その気」の思考を持っている選手は、自然に「今度こそ絶対に勝つチャンスだ!」と思い、自分の勝つところをイメージしたり、絶好調のときの自分のシーンを思い出したりして、「今度こそは勝てる!」「みんなに勝てるところを見せたい」などとワクワクできるのです。すると、脳も対戦相手が次も「A」だと聞いても苦手だとは思わずに「やった、雪辱のチャンスだ」と思います。肯定的な脳を作るためには、プラスのデータを入力すれば脳は錯覚します。脳は本当にあったことと、イメージなのかを区別することができないのです。ですからウソでもいいので、「自分はツイている」「この失敗があって本当に助かった、次回に活かせる」「今度はもっと上手くできる」など、口に出して言ってみます。内心、信じられなくてもいいのです。口からでた言葉が耳を通して脳に入力され、それを繰り返し行うことで脳はだまされ、「次にもっと上手くするにはどうしたらいいのか」など考え始めます。つまり何度も繰り返しプラスのイメージを入力することで、扁桃核の判断を肯定的に変えられるのです。(その気の法則 西田文郎 ダイヤモンド社 103ページ)動物脳にある扁桃核は、快、不快、好き、嫌いの判断をしています。扁桃核が不快、嫌いと判断するか、快、好きと判断するかはその後の展開を大きく左右します。過去に挑戦したのに失敗したこと、自分の気持を素直に話したのに否定されたことなどはしっかり脳に記憶されています。今度新しいことに挑戦しようとしたときなどに、ダメだ、無理だ、うまくいくわけがない、恥をかくだけだ、しんどいだけだ、面倒なことはしたくない、お金と時間の無駄になるといった理由で強い抑制力が働くのです。マイナスイメージを脳に送り込むので、挑戦する意欲は根こそぎ摘み取られてしまいます。この問題について西田文郎氏は次のように説明されています。脳は違う感情を同時に記憶できません。例えば笑顔を作りながら本気で怒れる人はいません。感情は、いちばん後に思ったほうを記憶します。ですからマイナス感情になっても、プラス感情に思い直せばOKなのです。自分に湧きあがってきたマイナス感情を一旦受け入れます。「でも」と続けて最後はプラス感情で終わるように心がけるのです。これを私は「イエス・バット法」と呼んでいます。失敗したらどうしよう(YES)でも(BUT)、このときのために頑張ってきたんだ。でも(BUT)、あの人も応援してくれている。でも(BUT)、これを乗り越えれば必ず成功する。慣れないうちは、ちょっと難しいかもしれません。でも意識して続けているうちに、プラス思考脳に変化してきます。(同書 133ページ)広島のフラワーフェスティバル
2023.08.04
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自動車を運転する際の注意や意識の集中について考えてみました。車の運転で左カーブしている道路では、道路の左端の車線に視線を合わせています。右にカーブしている道では、中央車線に視線を合わせています。つまりどの方向にカーブしているかによって、視線を合わせる場所が変わります。右へ左へとカーブが続く場合は、注意の集中場所は次々に切り替わります。この注意の切り替えは無意識ですが実に的確に行われています。ここで重要なことは、カーブしている道路では、誰でも意識を特定の場所に合わせて運転をしているということです。集中するポイントを無視している人はいませんが、もしそんなことをしている人がいるとすれば、よそ見をしているのと同じことです。危険運転となります。真っすぐな道を走行しているときは、ほぼ道路の真ん中を見ています。この場合、よそ見をしないことだけを注意すれば、特別視線を集中させる必要はありません。ただし、高速道路でトンネルに入るときは、ある程度減速してしっかりと道路の中央を見ていないとちょっとしたパニックになることがあります。それは明るい場所から急に暗い場所に進入して面食らうからです。交差点に入って右折する時は、青信号の交差点に人がいないかどうかに集中しています。同時に対向車線からの直進車がいないかどうかにも集中しています。この2つに問題がないときに初めて右折可能となります。ときどき注意が散漫になり、うっかりして重大事故を起こす人がいます。高速道路で前の車を追い越す時は、右のウィンカーで追い越し車線に走行車がいないかどうかを確認しています。注意や意識は、後続車の有無にあります。いないことを確認して車線変更して追い越しをかけます。追い越しが終わると、今度は左のウィンカーで後続車との車間距離が十分にあることを確認して走行車線に戻ります。車を運転する人は、肝心なポイントに的確に注意や意識を集中させています。また、そのポイントはその時の状況によりどんどん変化しています。車の運転の時は誰でも注意や意識の取り扱い方が適切に行われています。無事故・無違反の人は、注意や意識の取り扱い方が上手です。それは無意識に行われているのですが、見事というほかありません。神経症に陥った時は、自分が不安を感じる所に注意や意識を集中させています。これは車の運転と同様です。ただし、その先が違います。神経症に陥る人は気になる一点にいつまでも注意や意識を集中させています。車の運転のように、その時の状況や変化に合わせて、注意や意識を臨機応変に切り替えられるようになれば神経症とは無縁になります。
2023.07.27
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神経質者は日本晴れのような心境を夢見ているのかもしれません。不安や悩みや心配事のない安定した精神状態を追い求めているのです。そのように思っていると、小さなとるに足らないような不安なども問題視するようになります。また、不安や悩みや心配事を敵として判断して排除しようとします。不快だからすぐに摘み取ってしまいたい。そこに注意や意識を集中させます。どうすることもできないと判断すると、一転して逃げ回るようになります。普通の人は、不安は次々と湧き起こってくるのだから、その都度処理して、すっきりした気持ちで次の案件に取り組むなどということは無理だと考えています。あれも気になる、これも気になると、気になることをいくつも抱えながら生活しています。我々のように不安、恐怖、違和感、不快感などを、実体以上に拡大して問題視することはありません。不安を増幅しないので持ちこたえることができるのです。私達は、一番気になる不安に焦点を当てて、それを大きく拡大し、実体以上に大きくしているのです。他人から見るととるに足りない小さな不安を、自分の一生を左右するような大問題にしてしまうのです。不安が実態以上に大きくなると誰でもパニックになります。そのうち一人では対応することができなくなります。これは、ひとり相撲を取って勝った負けたと騒いでいるようなものです。他人から見ると滑稽に見えますが、本人はそのことに気づいていません。私達は性格的にどんなに小さな不安や問題点でも今すぐに解決したい。すぐにすっきりしたいという気持ちが強すぎるのかもしれません。また、同時にいくつもの不安を抱え込むと、パニックで頭の中が大混乱に陥ることを怖れているのかもしれません。森田先生は、不安をすぐに解消しようとするよりも、不安を持ちこたえる態度を身につけることが大切だと言われています。我々は何かにつけて、疑問と不安は絶えず出没して、一つ一つこれを解決して、しかる後初めて安心する事のできるものではない。ただ我々は疑問は疑問として、これが解決の時節を待つよりほかにしかたがなく、日常の生活は周囲の刺激から、次から次へと目まぐるしく引きまわされて、不安も不安のままに、いつまでも執着していられるものでもなし、「流れに浮かぶウタカタのかつ消えかつ結びて」変化極まりないものである。(森田正馬全集第5巻 764ページ)森田先生は目の前の生活に丁寧に取り組む生活を続けていると、次から次へと不安が湧き上がってくるといわれています。多くの不安があると、ひとつの不安だけに拘るわけにはいかなくなる。もし一つの不安だけに関わることができるとすれば、目の前のことに真剣に向き合っていないことが考えられます。凡事徹底が絵に描いた餅になっている。お使い根性で、仕方なくイヤイヤ取り組んでいる。あるいは最初から雑仕事や雑事を馬鹿にしているのかもしれません。こういう態度で生活していると、一つの不安にとりつかれてしまうようになるのです。不安にとってみればチャンス到来です。一つの不安にとことん付き合ってくれるわけですから、勢いづいてくるわけです。そして普通の人から見るととるに足らないような不安なのに、本人にとってはその不安が化け物のように大きく膨れ上がってしまうということになるのです。こうならないためには、最初は指示されてイヤイヤ取り組んでいても構いませんが、一旦やり始めたらどこかの時点で物そのものになることがポイントとなります。
2023.07.16
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アメリカの神学者、倫理学者ラインホールド・ニーバーの「祈りの言葉」よりの引用です。神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものには、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する智恵を与えたまえ。この言葉は森田理論学習に取り組んでいる人にはとても参考になります。不安には対応方法が異なる2つの側面がある。それをきちんと見極めることが大事になると言われています。不安にはまず現実的な不安があります。森田に「不安は安心のための用心である」という考え方がありますが、現実的な不安があれば、積極的に問題解消のために行動することが大切です。例えば地震に備えて耐震化工事をする。家具の固定をする。避難訓練をする。家族のある人は生命保険に入っておく。自動車に乗る人は任意保険に加入する。病気になった時のことを考えて健康保険、医療保険に入っておく。一方森田理論学習で取り上げる不安は欲望があるために発生しています。不安即欲望ということです。不安と欲望はあざなえる縄のようなものです。不安と欲望は、コインの裏表と同様な関係にあります。不安も欲望もどちらも大切なものです。ここでは不安をことさら問題視するのではなく、欲望のほうに注意や意識を向けていくことが欠かせません。注意点としては、欲望は弾みがついて暴走しやすいという特徴があります。そのときに不安を活用して暴走を抑制することが肝心です。不安は重要な役割を持っていることを忘れてはなりません。決して排除したり、逃げ回っていてはいけません。そんなことをしていると強迫観念で苦悩することになります。
2023.07.02
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神経症に陥ると不安を一つに絞る傾向があります。この不安さえなくなれば、万事うまくいくのにと思ってしまいます。実際には精神交互作用によって不安は増悪します。そして日常生活に支障が出るようになり、神経症として固着してしまいます。この悪循環を防止する方法があります。それは不安を一つに限定しない方法です。同時並行的に不安や心配事をいくつも意識するということです。例えば人前で楽器(アルトサックス)を演奏する時は予期不安が出てきます。「正確に演奏できるだろうか」という不安です。こうした予期不安にとりつかれてしまうと一瞬でパニックになります。不安を打ち消すために運指を確かめるようなことをすると逆効果になります。金縛りがあったようになり、手先の動きがぎこちなくなります。練習では問題なくできることが本番ではできなくなってしまうのです。このとき次のような課題を持っていると、プレッシャや予期不安ばかりに関わっているわけにはいかなくなります。・リードは正しく取り付けられているか。保護キャップはつけてあるか。・リッププロテクトは装着しているか。・消音モップは取りはずしてあるか。・他の楽器の人との音合わせは済んだか。・今日の曲目の順番と進行の段取りは分かっているか。・仲間との立ち位置の関係は分かっているか。・楽譜は演奏予定順に並べ替えているか。・譜面台から楽譜が落ちないためのクリップは用意してあるか。・私物の保管は問題ないか。特に貴重品管理。・靴、帽子、衣装などに問題はないか。・時計は持っているか。・トイレは済ませているか。・携帯はマナーモードになっているか。・メガネやハンカチやテッシュや靴ベラは用意してあるか。・名刺は用意しているか。本番前にはチェックリストを見て一つ一つ丁寧に確認していくのです。これにはプレッシャや予期不安に振り回されない効果があります。これは森田理論の「無所住心」の応用にあたります。森田先生は注意を一つのことに集中してはいけないと言われています。同時並行的にいろんなことが気になるように仕向けていく方がよいのです。我々の心が最もよく働く時は「無所住心」といって、心が四方に働いて、昆虫の触角が、ピリピリしているときのように、ハラハラしているときである。(森田全集第5巻 328ページ)
2023.06.20
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五木寛之氏に無力(むりき)という本があります。厳しい現実を知って無力感に陥るのではなく、つらいことであれ、曖昧なことであれ、はっきりとそれを受け止める。曖昧なら、曖昧だということを受け止める。一人一人が、そうして無力(むりき)の第一歩をふみだすことです。(無力 五木寛之 新潮社 75ページ)無力に対して自力、他力という言葉もあります。自力というのは、困難な出来事に対して、自分の力で勇敢に立ち向かっていく態度のことです。尊いことですが、現実的ではない場合が多々あります。たとえば政治が悪いと言っても、自分一人で変革できるわけではありません。自力で行きづまると自暴自棄になる可能性があります。他力というのは、自分一人の力ではどうすることもできないものを、あるがままに受け入れていくという態度のことです。自分一人では対応不可能なので、神様のご加護を期待して祈ることになります。この態度は依存的、厭世的、回避的、消極的な生き方に陥ることもあります。五木寛之氏は、「自他一如」の考え方、生き方を提唱されています。自力と他力の狭間にいるという考え方です。その状態を無力(むりき)と言われています。これは円ではなく楕円を思い浮かべると分かりやすいです。楕円は円が2つ重なったようなもので、中心点が一つではなく二つになります。その中心点を行ったり来たりしている状態を想定されているのです。白でもなければ黒でもない。極端にどちらかに振り切れるのではなく、グレーの部分を認めるという考え方です。すっきりと割り切れないかもしれませんが、曖昧さを受け入れるということです。不安や問題点を抱えたまま、とにかく生き続けることが肝心です。優柔不断のようですが、時が経てばすべては夢幻のごとく過ぎ去ります。自力であれ他力であれ、そのあいだを揺れ動く状態を否定的にとらえるのではなく、人間はその二つのあいだを絶えず揺れ動いていくものであると理解する。肩の力を抜いて、不安定な自分のふらつきを肯定するのです。それが無力(むりき)という考え方の根本です。この考え方は森田理論の両面観という考え方に近いと思います。時に葛藤や苦悩を抱えて揺れ動きながら、それでも何とか生活を維持していく。時に不安や恐怖に振り回されながら、何とか命をつないでゆく。そんな状態で60年以上生き延びた人は、たとえ後悔することばかりだとしても、バーンアウトしなかったという点では、人生の成功者とみなしてもよいのではないでしょうか。葛藤や苦悩は時が経つにつれて夢幻のように過ぎ去っていくのですから。信楽焼
2023.06.15
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リッツ・カールトンというホテルの接客は評判が良いそうだ。普通ホテルに予約の電話をいれて満室の場合、「あいにくその日は予約で全室埋まっております。申し訳ございません」と断られることになります。リッツ・カールトンでは、「私どものホテルではいっぱいでございますが、もしお困りでしたら、近くの同ランクのホテルの空き状況と料金をお調べしてご連絡できますが、如何いたしましょうか。よろしければ、私どもの方でご予約の手配もとらせていただきます。同業ですので割引できないかも伺ってみます」と返答する。こんな接客をされるとうれしくなります。リッツ・カールトンのファンになります。これは神経質性格にとってはとても参考になる話です。神経質性格者は細かいことによく気が付く人です。それが神経症に陥る原因にもなっているのですが、逆に心配性を逆手にとってきめ細かい気配りとして活かしていく方法もあります。森田に「不安は安心のための用心である」というのがあります。問題や心配事は小さいうちに対策を立てて解消しておくということになります。思いつくままにあげてみましょう。・バスに乗るときや集談会に参加する時は、あらかじめ小銭や会費を用意しておく。・健康診断・がん検診は毎年定期的に受けるようにする。・必要ならがん保険、医療保険、損害保険、生命保険、自動車保険に加入しておく。・地震に備えて家具などを固定しておく。できれば耐震化工事を行う。・詐欺まがいのメールがたくさん送られてくるので、迷惑メールに振り分けるようにする。・不審な電話に出ないように留守番電話に要件を録音するようにする。・黄色信号では無理をしないですぐに停止するようにする。・車線変更する時は後続車の確認を徹底する。決して無理な追い越しはしない。・本能的、依存症の傾向のある人は、それに近づかないように心がける。あるいは抑止力のある人と行動するようにする。・気分本位の行動は後で後悔することになるので厳に戒める。・家の補修、家電製品、パソコン、自動車などの買い替えに備えて資金計画を立てておく。これ以外にも人それぞれいろいろあると思います。小さな問題点や課題に気づくのは神経質性格のよいところです。気づいたときにメモして忘れないようにする。そして自分なりに整理して対策を立てて実行に移すことです。境港方面から見た大山
2023.06.12
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