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2005年03月02日
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明日は桃の節句。
桃の花を見て悟りを得た霊雲志勤の話をしよう。
彼は三十年修行しても悟りを得られそうにもなかった。
正直なところ、今更路線変更も考えられず、といって何か禅の道でこれぞというものもつかめず、やけっぱちになったり、どうにでもなれ、という気持ちになったりしていたのではないかな、と私の人生を重ねて同情とも哀れみともつかないものを感じる。
で、ああだ、こうだ、という工夫も万策尽きて、ふと遍歴の途中、山道にさしかかって里を振り返った。村の様子は一面の桃の花盛りだ。それを見た瞬間、彼は悟りを得た。
三十年来、尋剣の客
幾回か葉落ち又枝を抽んずる
一たび桃花を見てより後
直に如今に至るまで更に疑わず


しかし、その率直さは脱帽ものだ。
起句の「尋剣の客」というのは『呂氏春秋』に出てくる愚か者の話。船に乗って揚子江を渡るとき、川に剣を落とした楚の人が、ここで落としたと舷側に刻みを付けて目印にしたという。船が動くことを忘れ、舷側の傷を後生大事にして剣を探すように、三十年の修行は徒労であったと自嘲する。
承句は、その三十年の間も、桃は季節に応じて芽を吹き葉をひろげて散ったことを示す。心ここにあらざれば、見れども見えず、ということは誰でも経験するが、いま改めて桃の木を見れば、どうして今までこの花が見えていなかたのかと不思議に思う。
転句は、もうしっかり見極めた事を詠い、結句は以後決して見失わぬと告げる。

人が悟りを得るきっかけは、本当にあらゆる時、あらゆる場所にあるのだけれど、ご本人が気がつくかどうか、それはまた別の問題として存在する。
でも、悟れるか、あるいは気がつけるかと言い換えても良いのだが、そうなるかならないかは、本人の賢愚というより、そこまで追い詰められたか否かではないか、という気がこの頃している。
悟れるとしたら、それも幸せ、悟れないとしたら、まだそこまで苦しい場に立たされていないことに幸せを感じても良いのかな、とこの頃おもうのである。
ああ、そうそう、桃の生命力は、西王母の伝説に、実を一つ食べただけで三千年の寿命を得る、とされている事からもわかるように、素晴らしいものがある。
このエネルギーにあやかって、もうしばらく元気で活躍したいものだ。あと七年で私も僧籍を得て三十年、私の剣はいつ見つかるだろうか?





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最終更新日  2005年03月02日 23時42分22秒
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