2013年01月06日
XML
カテゴリ: 幕末人物伝


その、それぞれが個性的な藩風土を生み出し、
また、独自の政策を打ち出したりしていました。

幕末期には、それらの諸藩が、討幕か佐幕かという選択を迫られる中、
それぞれの諸藩において、いくつものドラマが生まれることになりました。

今回取り上げるのは、そうした諸藩の一つ備中松山藩のこと。

幕末の備中松山藩を主導したのは、
藩主である板倉勝静(かつきよ)と執政を務めた山田方谷の二人であったのですが、
この2人が協調して、後には確執を生みながらも、激動の幕末を乗り切っていくことになります。


***


かつての備中松山藩。
その藩領の多くは、現在、岡山県の備中高梁市になっています。

ここは、昨年の5月に、ブログのお友だち、楊ぱちさんにご案内頂き、訪れた場所です。
訪ねてみると、山あいのとても静かな町で、
しっとりと落ち着いた雰囲気のある城下町でありました。


さて、まずは、板倉勝静のことです。

板倉勝静が、備中松山藩の藩主になったのは、
嘉永2年(1849年)のこと。

とは言っても、勝静自身は備中の生まれではなくて、
徳川の親藩・松平家から養子として備中松山に来た人でありました。

父は陸奥白河や伊勢桑名の藩主を務めていた松平定永という人で、
備中松山藩に嗣子がないということから、婿養子として備中に入り、
その家督を継いで藩主となったのでありました。


ところが、勝静が藩主に就任したころの備中松山藩というのが、
極度な財政破綻により、危機的な状態に陥っていました。

就任早々の勝静は、まず、この問題に直面し、藩立て直しの必要に迫られます。

そこで、勝静が藩の財政改革を託すことにしたのが、藩に仕える儒学者・山田方谷という人でした。

この方谷の生まれた山田家というのは、
元々は武士だったとはいうものの、
今は、農業や商いにより何とか生計を立てているという、
町人同様の低い身分の家柄でありましたが、
方谷自身は、儒学(陽明学)を本格的に学び、学者としてその頭角を現し始めていました。

勝静は、そうした彼の能力に注目し、
山田方谷を、一躍、藩改革の中心人物として抜擢します。
方谷は藩元締・執政という役職に就くこととなり、
やがて、藩政全般を取り仕切ることとなりました。

ところで、方谷が取り組むことになった藩財政の状況とは・・・。

そもそも、備中松山藩というのが、
表高が5万石となっていたにも関わらず、実質の石高は2万石でしかなく、
そうした中、返すあてもなく、借金を重ねているというような状態でした。

そこで、方谷は、まず、藩財政の再建プランを立て、
これを商人に見せ、説得することで、借金の棚上げ及び帳消しを依頼していきます。

それとともに、地元の産品に備中の名を冠して、ブランド商品として売り出したり、
新製品の開発に取り組んだりといった施策を、次々と打ち出していきました。

中でも、特に力を入れたのが、「備中鍬」という農機具で、
複数の刃を持つことにより、軽く、深く掘れるということから、
これが、大ヒット商品となり、全国に普及していきました。

これら、方谷の産業振興政策により、
備中松山藩の財政状況は、数年のうち、瞬く間に好転していったのでありました。

さらに、この頃には、学者・実践者としての方谷の名も高まっていき、
越後長岡藩の河井継之助など、彼に教えを乞いたいといって、
各地から方谷を訪ねてくるようにも、なっていきました。


さて、一方の勝静です。

備中松山藩の藩政改革を成功させたということが評価されたということもあり、
勝静は幕府から要請を受け、幕政に参画するようになります。

寺社奉行から、やがて老中へ。

勝静は、やがて、幕閣の中心的な役割を任されるようになっていきます。

そうした中、勝静は、方谷を江戸に呼び寄せ、
自分の補佐役を務めさせようと考えるようになりました。

備中松山から江戸へと、赴任していく方谷。

しかし、江戸に出て、黒船来航以後の混乱の様子を見るや、
方谷は、もう幕府の滅亡は避けられないところまできている、
ということを察しました。

方谷は、勝静に対して、幕閣での政務に力を注ぐより、まず、松山の領民のことを考えて欲しい、
という旨を諫言します。

しかし、それに対し勝静は、
あくまでも、今の幕府の行く末のことを案じていました。

それというのも、勝静自身、松平定信の孫にあたり
また、8代将軍吉宗の玄孫でもあるという徳川一族の生まれであったため、
勝静としては、幕府を見捨てるというわけにはいかなかったのです。

結局、方谷は、藩の内政に専念し、内治に関して全面的に責任を負うということを条件に、
松山へと帰国していきました。

このあたりから、勝静と方谷の目指す方向が、ずれ始めていきます。


慶応2年(1866年)
徳川慶喜が15代将軍に就任しました。

勝静は、この慶喜からの厚い信任を得ることとなり、
老中首座と同時に、会計総裁、軍事取扱などの重職を歴任します。

文字通り、幕閣の中心となった勝静は、慶応の幕政改革にも取り組み、
やがて、慶喜により行われた大政奉還においても、その中心的役割を担っていきます。

ところが、鳥羽伏見の戦いに敗れたことで、幕府は崩壊。

勝静は、江戸幕府最後の老中ということになってしまいました。

その後、江戸城が無血開城されて、幕臣のほとんどが幕府を離れていく中、
勝静は、なおも、幕府のために戦いを続けます。

東北諸藩で結成された、奥羽越列藩同盟の参謀にも就任し。
戊辰戦争の最終盤、箱館の五稜郭まで新政府軍との戦いを続けました。


その一方、勝静が東北戦線の幕府軍に加わっているとの情報を得た新政府は
備中松山を朝敵とみなし、岡山藩など周辺の大名に対して、
備中松山を討伐するようにと命じます。

急激な事の成り行きに対し、動揺する備中松山の人々。

そうした中、留守を守っていた方谷は、新政府軍と戦うことよりも
まず、松山の領民を救わないといけないと考えました。

ここで、方谷は松山城を明け渡し、勝静を隠居させるという決断をするのです。

・備中松山城を明け渡して開城すること
・勝静を隠居させて新しい藩主を立てること

この2か条を新政府に伝えたのでした。

それとともに、方谷は、藩士の一人を使者として箱館に向わせました。
いまだ、戦いを続けている勝静を、無理やり江戸に連れ戻すためです。
使者は、勝静に対し、新政府に降伏するよう迫ります。

しかし、すでに、方谷が城を明け渡していて、
養子・勝弼を新藩主に迎えているということを、ここで知った勝静は、
ついに、やむなく新政府軍に降伏することとなりました。

幕末の備中松山藩は、こうした苦渋の決断により、
何とか藩を滅亡から回避させることが出来たのでした。


維新の後。
明治新政府は、方谷の才を高く評価し、新政府への出仕を求め続けました。

しかし、領民を戦禍から救うためだったとはいえ、
心ならずも独断で降伏をし、主君を隠居にまで追いやった方谷には、
再び仕官しようとするつもりはありませんでした。


その後の方谷は、
新政府からの度重なる出仕要請を受けることなく、松山の地に残り、
一民間教育者として閑谷学校を再興するなど、
残りの生涯を弟子の育成に捧げることになりました。

明治10年(1877年)に死去。享年73才。


一方、晩年の勝静は、
新政府から赦免されたのちも、
上野東照宮の神官を勤めたり、第八十六国立銀行(現在の中国銀行)の設立に携わったりと、
様々な活動を続けていたそうです。

明治22年(1889年)に死去。享年66才。


叶わぬこととは、わかっていながらも、幕府に対する義を貫き通した勝静と、
領民のため、藩主を隠居させるという苦渋の決断を選んだ方谷。


昨年、備中高梁を訪ねた時にも、
様々なところに、勝静や方谷の書が掲げられているのを見て、
この2人は、今でも、地元の人たちから愛され、尊敬されているんだなあ、
ということを感じました。



方谷の書.jpg


勝静の書.jpg



山田方谷の住居跡。

今は、JR伯備線の「方谷駅」の駅舎となり、
その駅舎内に住居跡の石碑が残されているのだそうです。

この方谷駅という駅名になったのも、
方谷のことを慕う地元の住民からの強力な運動があったためだったのだといい、
JRの駅の中でも、人名がつけられている数少ない駅のひとつとなっています。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2013年01月06日 22時12分55秒
コメント(6) | コメントを書く
[幕末人物伝] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

お気に入りブログ

鹿児島史跡巡り~島… 楊ぱちさん

お小遣い 月の卵1030さん

武州の小城 久坂 遼さん
風雲 いざなみ日記 わだつみ判官さん
書之時  華文字   華文字さん
緑と清流 神秘家の庵さん
一 夢 庵 風 流… 慶次2000さん
turbo717's Activity… turbo717さん
文春新書『英語学習… Izumi Yukioさん
ゆうあい工房 ゆうあいママtosaさん

コメント新着

特殊鋼SLD-MAGICファン@ Re:玉松操と錦の御旗(07/25) 最近はChatGPT(LLM)や生成AI等で人工知能…
前田さより@ Re:小室信夫のこと(03/15) 歴史の研究で、歴史人物の寿命と死亡状況…
邇波 某@ Re:小野小町伝説(04/21) 多系、小野(オオノ)氏系譜。 邇波 明国彦(難…
もののはじめのiina@ 原田甲斐のふるさと 山形県東置賜郡川西町に、原田甲斐のふる…
shimanuki@ Re:ヘボンの生涯(08/12) 初めてご連絡させて頂きました。 私、株…
http://buycialisky.com/@ Re:長宗我部初陣祭ツアー(05/30) cialis gelulecialis original bestellend…
http://buycialisonli.com/@ Re:長宗我部初陣祭ツアー(05/30) cialis superior in diabetesgeneric viag…
隠れキリシタン@ Re[8]:高山右近の生涯(05/11) ゆうあいママtosaさんへ 高山右近は明石に…
gundayuu @ Re[1]:観音様と舎利子くん(04/13) yomogiさん コメントを有難うございます。…
yomogi@ Re:観音様と舎利子くん(04/13) こんばんは。gundayuuさん お久しぶりです…

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: