人類は、太古から子どもに教育をしてきました。
人間が人間となる基です。
現代も、親は、子どもを学校に「教育」を受けに行かせています。
しかし、この「教育」という言葉、
同じ発音をしていても、
今と昔では、その意味が、ガラっと変わっていることに
意識を至らせたいものです。
愛読している村井実さん(慶応大学名誉教授、教育哲学)の論文を読み直して、
あらためて思い直しています。
だいたい、どうして子どもを「教育」するのでしょう?
自然のままでは悪くなる子どもを矯正するため?
ここからして、いろんな考えがあり得ますね。
ここで仮説としてでいいですから、村井先生の主張である、もし、
「子どもたちはだれも、生まれついて「善く」生きようとしている。」
と考えたらどうでしょう。
どんなに幼くても、やはりそれなりに「善く」生きようとしているのです。
この場合、その生まれついての働きをはたから助けてやれば、
子どもたちはいくらでも「善さ」を考え、
「善いもの」としての知識や技術を身近な生活の中で学び、
また新しく工夫することさえできる、ということになります。
教育は国家の一大事、「国家の百年の大計」など、大げさに叫ぶ人々は、
国家が学ぶことを考えてやらなければ、
国民はバカだから、必要なことを学ぶことができない、と考えているのではないでしょうか?
子どもたち自身が、「善さ」を自分で決定して生きることができる。
もし、この仮説に立つなら、現代の教育は、疑問符だらけですね。
考えてみれば、昔は、
「教え」ないでも、親がただ親であるだけで、
先生がただ先生であるだけで、
子どもは「教育」されるという前提がありました。
子ども自身がもともと「善く」生きようとしているのですから、
ひとりでに親や先生に習うもの、つまり学ぶものでもあるからです。
だから、昔から、親は親らしく、
先生は先生らしく、
子どもたちの前でりっぱに生きて見せるものだとされてきました。
落語のテレビドラマでもあるように、
もともと日本での師匠と弟子との関係は、
師匠が「教える」のではなく、弟子が「真似る」もの、
生き方の秘訣を「盗む」ものなどとも言われてきました。
師匠と弟子との出会いと交わりの中で、
おのずと「教育」が生まれることが期待されていたのです。
ところが、明治の近代国家ができると、
国家は自分が「善い」と思うことを、
無理にも国民に教えたがるようになりました。
義務教育・強制教育ということがはじまったのです。
教育というしごとが、親や大人たちの手からはなれて、
国家の手に移ることになったのです。
今でも、教育は、何のためにあるのか?
という問いに、「国家のため」と堂々と答えるエライ人がいます。
でも、ある意味、正しいのです。そして、正直なのです。
教育は、親や大人たちの手にあるときは、
何よりまず子どもたちのためにあったと言えましょう。
ですが、国家の手に移ったのでは、いやでも、まずは国家を「善く」するため、
国家の繁栄のためということになったのです。
教育は、国家が定めたことがらを、
子どもたちに教えることだと考えられるようになりました。
国民には、教えられたことをどれだけうまく学んだかの成績と学歴が、
まず関心の的となっていきました。
もちろん、親は親らしく、先生は先生らしく生きて見せるなどの必要も、なくなりました。
こうなれば、これはもう、ほんとうは「教育」とはいえませんね。
教育問題が紛糾してますが、
いまの私たちの前には、言葉は同じでも、
まるでちがった二つの「教育」があるのです。
私たちの普通のイメージには、
親や大人たちが昔からやってきた、
親や大人たちのものとしての教育があります。
人々はだれも、親であり大人であって、子
どもたちを善くしようと思うことでは、昔とちがうわけはないからです。
しかし、実際に人々の前にあるのは、
同じ教育とは呼んでも、まるでちがうものです。
子どもたちを善くしようということは同じですが、
そう思う主体は国家であり、
そのために学校をつくって教育をしているのも、国家だからです。
この二つの教育のちがいは、どう考えればよいのでしょう?
それは、子どもたちを善くしようとするときに、
何が「善い」かということを、まず親や教師たちが考えるか、
あるいはそれよりも以前に、まず国家が考えて、
国家の利益を先だてて決めるかというちがいです。
親や教師のイメージと国家の教育のイメージは、同じだと思っていませんか?
昔ながらの教育の延長に学校があると。
しかし、すべての暗黙の了解を疑ってみると、
国家が決めた「善さ」の枠内でしか、
子どもたちにとっての「善さ」が考えられなくなっている大人たちに気がつきます。
昔の親や大人たちは、子どもたちにとっての「善さ」を自由に考えることができました。
また、子どもたちも、自分が何を「善い」とするかを、
自分で自由に考え、自由に学び、それで自由に生きることもできました。
明治維新のときの活力を思い起こしましょう。
それがいまや、すべて国家が決めた「善さ」の大枠の中でしか、
考えられない大人や子どもだらけになったのです。
良い悪いの価値判断は別として、
同じ言葉で議論していても、全然噛み合わないことがありますね。
そう言うときは、その人がその言葉を使っている背景の
無数の前提条件が、(仮説が)
あなたと違っている場合がほとんどです。
「教育」という言葉くらい、様々な背景をもとに語られる言葉もありません。
人の言葉に、意味無く引きずられないように、
自分の視点をはっきりもつ意識が、大切です。
そうして、初めて、相手の考えの背景の違いを発見することができます。
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