自慢に聞こえるでしょうが、
私の授業は、圧倒的に人気があると思います。
生徒に喜んでもらってる。
でも、これは、至極当然なのです。
なぜなら、喜ばれることしかしないからです。
こういうことを、このように展開すれば、楽しんでもらえる
と多くの人が実証してきたことだけを
取り上げて、やってきているのですから。
ズルイ! ですね。
人気投票ベスト10のお取り寄せグルメだけを
取り寄せて、ごちそうしているようなものです。
それに対し、「人生は、苦いものも食べなければだめだ」、
「無味乾燥の食事に慣れなければ、いや、慣らすのが教育だ」
という考えもあります。
それに対し、私は、食事は楽しくなければ、意味がない。
食べ物たち、そして、私たちのこの「生命」に対して、申し訳ない、
という立場でいるのだと、自覚しています。
これは、先に摂取すべき栄養素があり、
それを摂らせることが、教育であり、
せいぜい、それを摂りやすいように、味付けしてやるというのが
日本の学校の立場だと思うのです。
ここの部分で私は、意見が違うのです。
生命の喜びの延長に、食事があるのであって、
栄養を摂るために、生きているのではない、
と考えます。
私が学校の先生になりたいと思わない理由。
もともと、先生になろうとは、ツユほど思ってませんでしたが
それは、学校教育に、人間軽視の空気を感じていたからだと思います。
学校の先生は、れっきとした、職業です。
どんな職業かと言えば、
国が定めた、栄養素を子どもたちに摂取させるという仕事です。
先に、教える内容と、その手段・スピードが決まっています。
そして、子どもそのものよりも、
その決まり事の方を優先しなければならない仕事です。
え?子どもを大事にしている?
もちろん、先生は、内面では、そう思ってらっしゃるでしょう。
それにウソはないと思います。
でも、だったら、本当にそう言うんなら、
子どもを優先に考えるんだったら、
「子どもの半数がわからない」という授業をするはずがありません。
子どもの学ぶ喜び、すなわち生きる喜びを大事にするんだったら、
「わからない。おもしろくない。」という教材を
使い続けるはずがありません。
日本国が決めた公教育は、つまり、
「教えるべき内容が、優先」であって
「子どもは捨ててもいい。」
「何人かついてくればそれでいい。」
という立場なのではないでしょうか?
ついてこない子に
「お前たちはダメだ。」「できない子だ。」
「劣等生だ。」
とレッテルを貼って、
お上が決めた「公教育を維持するために」
子どもを切っちゃうのです。
もし、これが子ども中心の教育だったら、
「この教育内容は、子どもに合わないから、内容を切っちゃう」
という発想になるはずです。
こうなれば、子どもは維持されます。
しかし、公教育は維持されませんね。きっと。
もちろん、社会に順応すること
期待される人間像に合わせることも
生きていく上で大切なことでしょう。
国が予算を出して教育して「あげる」のだから
国家の期待する人間になってもらわなくては困るのです。
でも、こと、栄養素だったら、摂らなくちゃ死ぬかもしれませんが、
教育内容については、
これは、絶対的な栄養素だと言えるものが、どれだけあるでしょうか?
本当に必要だと、検証されているでしょうか?
二次方程式や因数分解ができなくて
どれくらいの人が困っているでしょうか?
オームの法則を知らなくて、
どれだけの人が、感電事故を起こしたでしょうか?
基本的栄養素だと思われているものを摂ってこなかった
あの「おバカタレント」さんたちは、
人間として輝いていないでしょうか?
それより、何より、特別支援教室の子どもたち
彼らは、「落ちこぼれ」なんでしょうか?
断じて違いますね。
そんな発想をもたらすものは、
断じて教育なんかじゃない!
教育内容を優先する教育は、
どう考えても欠陥があると、私は思います。
子ども中心、子どもの生命の喜びを中心とすれば、
日本の学校の原理原則から、ずいぶんはみ出していかなくては
ならない。
これが、先生たちが、可哀想だと思うところですし、
私は先生になりたくない、と思うところです。
そして、これは、先生方の力量の問題ではなく、
その立場が為さしめる宿命だと思うのです。
だから、私は、この自由な立場を維持していきたい
とつくづく思います。
じゃ、学校に可能性は無いのか?
(これは私の立場ですが)
公教育というものが、国家の与えるものである限り
無理だと思います。
公立・私立の違いではないですよ。
含めた、公教育です。
ここから、抜け出したところに、未来があると思います。
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